王位継承権なんざ、欲しけりゃ誰にだってくれてやる。 
 好きで王家に生まれたわけじゃねえ。ましてや好きで王位を継いだわけじゃねえ。 
「ステア陛下」 
「…………」 
「陛下」 
「あんだよ」 
「本日の謁見希望者を、通してもよろしいですか」 
「……好きにしろ」 
 大臣、キットンの言葉に、俺はおざなりに頷いた。 
 王に取り入るために、見え透いたお世辞と、難民をいじめぬいて手に入れた貢物を我先にと持ってくる貴族、領主、商人。 
 俺に許された返事はただ一つ。「わかった」の一言だけ。 
 若干18歳の王。誰もが尊敬と畏敬を表に張り付かせ、裏では「若造」とバカにしていることも知っている。 
 ……仕方ねえだろう。俺だって、継ぎたくて継いだわけじゃねえよ。 
 両脇に立っているのは、第一騎士団団長クレイ・S・アンダーソンと第二騎士団団長ギア・リンゼイ。 
 後ろに控えているのは大臣、キットン。 
 そして、中央に座っている俺……ステア・ブーツ。18歳にして、先代の王……ようするに親父だが……が死んだために継ぎたくもない王位を継がされた、名前だけの王。 
 親父の死因は、どっか別の王家が雇った暗殺者による急襲。そんなことでもなけりゃ、後50年くらいは余裕で生きそうだったのに。 
 俺はただ椅子に座っているだけでいい。実質、国を取り仕切るのは大臣キットンの役目で、国を守るために戦うのは二つの騎士団の役目。 
 俺はただ、「王」と名乗って座っているだけでいい。 
 ……この上なく退屈で、馬鹿馬鹿しい日常だった。 
「一人目の謁見希望者を、通します」 
 キットンの言葉に、俺は顔を上げた。 
 それでも。 
 例え名前だけでも、俺は王だから。 
 王としての仮面を被って、与えられた役目をこなさなきゃなんねえ。 
 どれだけ不満に思っても。俺にはそうすることでしか居場所を作ることができねえから。 
「……通せ」 
 俺の言葉に、重々しいカーテンが開いて、一人目の貴族が現れた。 
 今日もまた、馬鹿馬鹿しい日常が始まる。 
  
 だらだらと自分の領民がいかに反抗的かを訴え、税率を上げてもいいかを伺い、贅沢な贈り物を山と積み上げて去っていく貴族、領主、商人。 
 話を聞いている振りをして、「わかった。善処しよう」とだけ答えて、「次の者を通せ」という。そして謁見者がいなくなるまでそれを繰り返し、いなくなったら部屋に戻る。それがいつもの俺の日常だった。 
 だが、その日、少しばかり変わった謁見者が現れた。 
「お初にお目にかかります、陛下」 
 黒いマントに身を包んだその男は、素顔も見せようしねえ、あからさまに怪しい男だった。 
 おい、よくこんな男をここまで通したもんだな。入り口の兵士は何やってやがる。 
 キットンに視線を向けると、俺の言いたいことを察したのか。すぐに立ち上がった。 
 だが、退室を命じる寸前、男は顔を上げた。 
 どこまでも暗い目の野郎だと思った。その顔立ちに特徴と言えるものは何もなく、目をそらしたら次の瞬間には忘れてしまいそうな、そんな顔立ち。 
「ステア陛下。わたくしは近辺を回っているしがない行商人でございます」 
「…………用件を言え」 
 俺の言葉に、行商人、と言った男は、低い笑い声をあげて、一歩、二歩と下がった。 
 しきりのカーテンのすぐ傍まで下がったところで、足を止める。 
「来い」 
 男がそう言った瞬間、カーテンの影から、両手首を縄で拘束されてぼろぼろの衣装を身にまとった女が一人、現れた。 
「おいっ……」 
 あまりにも王宮には似つかわしくない娘。後ろでクレイが色めきたつのがわかったが、とりあえずそれを手で制する。 
 ……何のつもりだ、こいつは。 
「その娘は」 
「貢ぎ物でございます」 
「貴様っ……人身売買は立派な犯罪だぞ。堂々と王宮に現れるとは、いい度胸をしている!」 
 叫ぶクレイをギアが制している。 
 クレイは、騎士の鏡みてえな性格をしてるからな。女子供を売買するなんて、奴の良心が許さねえんだろう。 
 俺のここで取るべき対応は、クレイ達に命じてこの男を捕らえることだ。 
 だが…… 
「おもしれえな」 
 つい、素に戻った口調で。俺はつぶやいていた。 
「おもしれえな。おめえ、一体どういうつもりだ?」 
「……さすがは陛下。懐が広くていらっしゃる」 
 男が小突くと、女は、どん、と床に膝をついた。 
 震えていた。顔を上げようとしねえからどんな娘なのかはよくわからねえが。その身体は小刻みに震えていて、怯えていることが一目でわかった。 
「わたくしは、陛下にこの娘を貢ぐつもりです」 
 そう言って、男は深々と頭を下げた。 
「見返りとして、この国での商売権利をいただきたい」 
「悪いが、それはできねえな。人身売買は犯罪だ。そんな権利を与えるわけにはいかねえ」 
 そう言うと、男は大げさに首を振った。 
「何をおっしゃいます。わたくしの売り物は、少しばかり変わった像や植物の類であり、この娘はあくまでも陛下のためだけに持ってきた特別な品。普段は無論、人身売買などいたしておりません」 
「…………」 
 ちらり、と視線を向けると、キットン、クレイ、ギアの三人は揃って首を振った。 
 信用できねえ、やめとけ、追い返せ。奴らの視線はそろってそう訴えている。 
 まあ、それが妥当な判断だろうな。 
「それを信じろ、と?」 
「信じるも信じないも、売買は禁止されている以上、売り物として持っていっても買い手がいない。それでは商売になりません。そうではありませんか?」 
 それはある意味正論だった。隠れて買うような輩はいるかもしれねえが、それなら売る方もわざわざバカ正直に商売権利なんぞ求めず隠れて勝手にやればいい話だ。 
「……で? 俺への貢物が、その女だと?」 
「はい。きっと、陛下のお気に召すのではないかと」 
「……顔を上げろ」 
 俺の言葉に、それまでずっとうずくまって震えていた女が、おずおずと顔をあげた。 
 泥で汚れた顔だったが、多分元は白かったと思われる肌。 
 長い蜂蜜色の髪と、はしばみ色の目。年は俺よりいくらか下、と言ったところか。 
 特別目立つ容姿とは言えねえ。身体の方はまだまだ発展途上。こいつに比べれば、俺にすりよってくる貴族の女の中に、もっと美人でナイスバディな姉ちゃんがいくらでもいる。 
 だが…… 
 見た瞬間、女から目を離せなくなった。 
 ひどく怯えた表情をしていたが、その目は、やけに綺麗で、まっすぐに俺を見つめていた。 
「……もし、俺が商売権利は与えねえ、と言ったら、おめえはこの娘をどうするつもりだ?」 
「いたし方ありません。持ち帰って、またしかるべき王家に貢物として差し出すだけのことです」 
「…………」 
 つまり、ここで俺がいらねえと言えば、この女はまたどこぞへと引きずり回されるわけだ。 
 見てわかった。こいつが、この男からろくでもねえ扱いを受けているのは。 
 人身売買は犯罪だ。だが、男は「売って」いるわけじゃねえ。あくまでも「貢ぎに」来たわけだ。 
 おかしな話だが、法律なんてそんなもんだ。抜け道なんていくらでもある。 
「この娘は、奴隷か?」 
「奴隷でも、侍女でも、召使でも……性奴隷でも、好きなように扱いください。全ては陛下の思いのままです」 
 性奴隷、という言葉に、娘の肩が大きく震えた。 
 ……おもしれえ。 
「わかった」 
「陛下!?」 
 俺の言葉に、キットン達が騒ぎ出す気配がしたが、それを手で押さえる。 
 文句は言わせねえ。……王は俺だ。 
 いつもなら、キットンにまかせっきりにするところだが。勘違いするな。最終決定権は俺にある。 
「わかった。商売の権利を与える。法に触れるようなものの売買は禁じる。それでいいな?」 
「ありがたき幸せ」 
 一礼して、男は下がっていった。 
 後に残されたのは、ぼろぼろの娘が、一人だけ。 
「……おい」 
 声をかけると、女はびくり、と震えて頭を下げた。 
「おめえ、名前は?」 
「……パステルと……言います」 
 それが、俺とパステルの出会いだった。 
  
 毎日違う女を抱くことに、特別な感情を抱いたことなんかねえ。 
 俺に抱かれることで自分の立場が少しでも上がると勘違いしているなら、それをわざわざ訂正してやる義理はねえ。 
 実際には、抱いた女の顔なんざいちいち覚えてねえし、名前なんざ端から聞いてもいねえから、何の意味もねえ行為なんだが。 
 だが、その日。珍しく、俺の元に来る女はいなかった。 
 かわりに残されたのは、俺に貢がれた女……パステルだけ。 
 あんな泥だらけの格好で部屋に入れるなんざとんでもねえ、とキットンがわめくから、侍女のマリーナに頼んで風呂に入らせた。 
 そうして、今。風呂上りのパステルが、薄い夜着を一枚まとっただけの姿で、俺の前に立っている。 
「…………」 
 ぎゅっと唇をかみしめて、パステルはうつむいていた。その肩から震えが止まることは、ない。 
「どーした? ……貢物なら貢物らしく、俺に何か奉仕でもしてみろよ」 
 ベッドに腰掛けてそう言うと、その顔が今にも泣きそうに歪んだ。 
 性奴隷としてでも、好きなように使えばいい……男の言葉がよみがえる。 
 こいつが、これまでどんな扱いを受けてきたのか。公には言えねえことだが、奴隷商人というものが存在することくらい、知っている。 
 これまで、色んな商人の元を歩いてきたのか……それにしちゃあ、やけに反応が…… 
「おい、どーした?」 
「何をすれば……いいんですか?」 
「何をって」 
 パステルの言葉に、笑いが漏れた。 
 まさか、何も知らねえとでも? 「性奴隷」の意味がわからねえとでも言うつもりか? 
「おめえの役目は、俺の性処理をすることだ」 
「…………」 
「ようするに……たまったもんをすっきりさせろ、と。そういうことだ」 
「…………」 
「おい、まさかどうやればいいのかわかんねえ、なんて言うんじゃねえだろうな?」 
 俺の言葉に、パステルの顔が今にも泣きそうに歪んだ。 
 ……まさか。 
「おめえ、まさか処女かよ?」 
 そう言うと、パステルは真っ赤になって頷いた。 
 ……マジかよ? 
「おめえ、今まで何やってきたんだ? 奴隷として生きてきたんじゃねえの?」 
「わ、わたしは……」 
 パステルは、何かを言いかけたが。思いなおしたように、口をつぐんだ。 
「陛下にお話しするような……それほどのことでは、ありません……」 
「…………」 
 そうかよ。 
 そうだな。しょせんおめえは「貢物」……おめえの過去なんか、経験があろうがなかろうが……知ったことか。 
「そうだな。俺には関係ねえ」 
 ぐいっ、とその腕をつかんで、乱暴にベッドに押し倒す。 
 怯えた目が、妙にそそった。 
「ようは、役目さえ果たしてくれりゃあ、それでいいんだよ」 
 ぐっ、とあごをつかむと、まっすぐな視線が俺を射抜いた。 
 ……この目だ。 
 この目が、俺に……今まで抱いたことのない感情を抱かせる。 
 その感情の名前が、何て言うのかは知らねえが。 
 唇を奪い、無理やり舌をからめる。パステルはただされるがまま。自分から動こうとはしねえし、そもそもどう動けばいいのかわからねえ、そんな顔で、目に涙をためて俺を見ている。 
 ……そんな顔を、するな。 
 一瞬胸を過ぎる罪悪感。それを無視して、パステルの服をはぎとった。 
 夜着の下には何も着てなかったらしい。すぐに裸身が目にとびこんでくる。 
 色気には乏しい身体。そのかわりに、肌は輝くように白く、滑らかで……綺麗だった。 
 男に抱かれることに慣れきった大人の女の身体とは違う、少女の身体。 
 それを汚すことに、暗い喜びがわきあがってきた。 
「へえ……」 
 首筋から胸元にかけて舌を這わせると、パステルは身をよじってうめいた。 
 強く吸い上げると、一つ、二つと、白い肌に血のような赤が浮かび上がってきた。 
「あっ……」 
「色気はねえけど。これはこれで、なかなか……」 
 小さな胸をつかんで、力任せにもみしだく。微かな悲鳴と、「痛い」という言葉。 
 怯えて縮こまろうとする身体を無理やりに組み敷いて、欲望の赴くままに手を這わせる。 
 ……これはこれで、いい。 
 硬い身体。反応はぎこちなく、ただされるがままに、初めて襲う快感の波に必死に耐えている。 
 その顔がまた、どうしようもなく欲情を煽った。 
「おい」 
「…………」 
 返事もできねえか。まあ、仕方がねえ。 
 唇が切れるんじゃねえか、と心配になるほど、きつく噛み締めて。 
 パステルは、必死に耐えていた。「嫌だ」「やめて」と叫びたいのをこらえている、そんなことが丸分かりな表情。 
 ……おもしれえ。 
「やあああっ!!」 
 ぐいっ、と足を開く。いまだ潤いを見せてねえ秘所に唇を寄せると、パステルの口から悲鳴が漏れた。 
「やあ、やだっ……あ、ああっ……」 
 舌をこじいれる。えぐるようにかきまわすと、明らかに唾液とは違う粘ついたものがまとわりついてきた。 
 ……ちゃんと反応するじゃねえか。 
「もうちっと、素直に反応できねえか?」 
「…………」 
「痛い思いすんのは、おめえだぜ?」 
「…………」 
 何を聞いても答えようとしねえ。ぼろぼろと涙を溢れさせて、必死に視線をそらそうとしている。 
 処女、っつーのは嘘じゃねえようだな。いや、別に疑ってたわけじゃなかったが。 
 順番が狂ったような気もするが、改めて太ももに指を這わせる。動かすたびにいちいち耐えるように表情を歪めるのが面白くて、ついついじらすような動きになる。 
 ……狭いな。 
 俺を受け入れるはずの場所まで指を這わせて、そうして中に入れようと試みたが。 
 舌のときもそうだったが、入り口がそもそも狭く中もさらに狭い。指一本入るかどうか、ってとこか。 
「痛いか」 
「…………」 
「おい。おめえ、口が利けねえのか?」 
「……は、はい」 
 震える声で、パステルは言った。 
「あの……申し訳ありません……」 
「あ?」 
「陛下のお役に立てなくて……」 
 ………… 
 さっきから妙に黙りこくってると思ったら。 
 ようするに……こいつは怯えていたらしい。 
 痛いとわめいたりして、俺の機嫌を損ねやしねえかと、びくびくしていたらしい。 
 ……そうだな。俺は「王」だからな。 
「そうやって、黙って自分から動こうともしねえような奴よりは、素直に思ってることを口に出してくれた方がいいな」 
「え……」 
「その方が燃えるんだよ。男って奴は」 
 ぐいっ、と指をねじいれる。パステルの顔が、苦痛に歪んだ。 
「痛いか?」 
「……いっ……痛い、です」 
「無理して敬語なんざ使わなくてもいい。ベッドの上ではな」 
 改めて、唇を奪う。 
 そういえば、女を抱くときに、キスしたのは初めてかもしんねえな。 
 何となく、そんなことに気づいていた。 
 そうだ。後になって思えば。 
 こいつの目を見たその瞬間から、俺は堕とされていたに違いねえ。 
 もちろん、そんなこと。今の俺にはわからなかったが。 
  
「おい、いつまで泣いてんだ、おめえ」 
「す、すみません……」 
 散々苦労して狭い場所を無理やり貫いて、欲望を放ったその後。 
 白い太ももとシーツを鮮血で汚しながら、パステルは泣いていた。 
「本当に、初めてだったとはな」 
「…………」 
「まあ、悪くはなかったぜ?」 
 悪くはなかった。むしろ……良かった。 
 貫いた瞬間返って来る激しい抵抗。俺の全てを搾り取りそうな勢いで締め付ける内部。 
 決して早い方じゃねえ、と思っていたんだが。その俺が、速攻でイかされた。 
 自覚はしてねえだろうが……おめえ、色気のねえ外見の割に、なかなか大した身体だぜ? 
「で、どうよ? おめえの感想は」 
「……え?」 
「どーだよ。記念すべき初体験の感想は? ……なかなかいねえだろうぜ。処女捨てた相手が王様、なんつー女は」 
 言った瞬間、パステルの顔が真っ赤に染まった。 
 貫いたときは、悲鳴をあげてもだえていたが。 
 それでも、動き始めるとそれなりに快感というものを覚えたらしい。最後の方に漏れ出た声は、まぎれもなくあえぎ声と呼ばれるもの。 
「気持ちよかったか?」 
「…………」 
「口もきけねえほど、よかったってか?」 
 重ねて聞いてやると。 
 パステルの肩が、震えた。表情が歪む。その瞬間…… 
「い、い、いいかげんにしてーっ!!」 
 きーんっ 
 耳がしびれそうな大声が、炸裂した。 
「なっ……」 
「な、何よ、何よ……どうしてそんな意地悪なことばっかり聞くの!? わ、わたしはっ……好きであなたなんかに抱かれたんじゃない、好きでこんなところに来たんじゃない! 王様だからって……何してもいいって言うの!? わたしは、わたしはっ……」 
「…………」 
 正直に言えば、唖然としていた。 
 それまで、ただ黙ってされるがままに耐えてきた女とは思えねえ。 
 感情を爆発させて、俺が誰なのかも忘れてわめき散らすその姿。 
 王相手にこんな口をきくなんざ、本来首をはねられたって文句は言えねえところだが…… 
 何故だか、俺はそのとき、見惚れていた。 
 生の感情をむき出しにしてわめくパステルに、俺ははっきりと見惚れていた。 
「わたしはっ……」 
 言いたいことがうまく言葉にならねえのか。わめくだけわめいて、パステルは口をつぐんだ。 
 かわりにあふれ出すのは、涙。 
「わたしはっ……」 
「…………」 
 こみあげてくる衝動。 
 手を伸ばして、むき出しになった肩をつかむ。つかんだ瞬間、震えがダイレクトに伝わってきた。 
「あ……」 
「…………」 
 俺の顔を見て、やっと我に返ったのか。パステルの顔が、面白いくらい一瞬にして青ざめた。 
「も、申し訳ありません……陛下」 
「…………」 
「あの……」 
「トラップ」 
「え?」 
「『陛下』じゃねえ。トラップ……そう呼べ」 
 それは、まだ何も知らなかったガキの頃に呼ばれていた名前。 
 正式に王位を継承したそのときから、誰も呼ばなくなった幼名。 
 だが、俺は本名が……ステア・ブーツという名前が嫌いだった。王位を継ぐためにもらった名前なんぞよりも、王としてでなく俺自身を見てもらえた頃の「トラップ」という名前の方が余程好きだったから。 
「と……トラップ?」 
「そうだ」 
 パステルの声で呼ばれると。その名前は、何だか妙に心地よかった。 
「トラップと呼べ。敬語もいらねえ。俺は……」 
 何でそんな気になったのか。どうしてそう思ったのか。 
 俺はまだ、その理由を知らない。 
「俺は、素のままのおめえが見てえ。パステル」 
 そういえば、こいつの名前を呼んだのはこのときが初めてかもしれねえ。 
「痛い思いをさせて、悪かったな」 
 そう言うと。パステルは目を大きく見開いて、そして、微笑んだ。 
 ほんのわずかだが、確かに、微笑んだ。 
「わかった……トラップ」 
 それが、俺とパステルの関係が始まった瞬間だった。 
  
 初夜というものにそれなりの憧れを持っていた。 
 だけど、奴隷商人に品物として売り飛ばされた瞬間、「性奴隷」として王に差し出された瞬間、その憧れは簡単に消えてなくなってしまった。 
 好きな相手と、素敵な一夜を過ごす。多くは望まない、ほんの小さな憧れ。 
 それが木っ端微塵に壊れた。その日初めて会った相手に抱かれるという、恐怖と屈辱。 
 そうして連れて行かれたのは、わたしには一生縁が無いだろうと思っていた、絢爛豪華な王宮。 
 「王」と名乗っている相手を一目見た瞬間、感じたのは驚きだった。 
 わたしと大して年も変わらない、少年と呼んでもいいような男の人。 
 夕焼けのような真っ赤な髪と、豪華な装いには似つかわしくない酷く寂しそうな瞳が、印象的だった。 
 そして。 
 最初の印象は寂しそうな人、だった。次に抱いた印象は、意地悪な人、だった。 
 「性奴隷だ」と言われた瞬間から覚悟はしていたけれど。やっぱり、抱かれるときは怖かった。 
 怖かったし、痛かった。何をされるかもわからなくて、一体どうすればいいのかもわからなくて。 
 下手なことを言って機嫌を損ねたら、殺されるんじゃないか。王様だから、それくらいの権限は持ってるんだろう、そう思うと、余計に身体が強張ったけれど。 
 三番目に抱いた印象は、よくわからない人、だった。 
 意地悪なようでいて、優しい言葉をかけてくる。 
 冷たいように見えて、気遣ってくれる。 
 一体この人は何を考えているんだろう。 
 わたしにとって、彼はご主人様で。彼に命じられれば、わたしはどんな屈辱的な命令をされても黙って頷かなければならない。そういう立場のはずだけれど。 
 痛いだけの初体験が終わったその後。初めて下された命令は、「トラップと呼べ、敬語は使うな」という……およそ、王様らしくない命令。 
 それでも、わたしは嬉しかった。 
 「素のままのおめえを見たい」と言われて。「痛い思いをさせて悪かった」と言われて。 
 憎むべき相手のはずなのに、嬉しかった。 
  
 朝目が覚めたとき、隣に太陽が転がっていて、一瞬動きが止まった。 
 ……よーく見りゃ、太陽と思ったそれは、太陽のような色をした髪の毛で。 
 つまりは、パステルが隣に寝てたんだが。 
「……おい」 
 声をかけても起きる気配もねえ。……よっぽど疲れたんだろうな。 
 ま、無理もねえか。 
 上半身を起こして、しみじみとその寝顔を覗き込む。 
 頬に涙の痕が残っていた。 
 その顔は歪んでいて、到底「幸せそうな」と形容できるような寝顔じゃなかった。 
 ……何か、辛い夢でも見てんのか? 
 じいっと見下ろす。俺に見られているとも気づかず、パステルの表情は、くるくると変わった。 
 辛そうな表情であることに違いはねえが……よく、変わった。 
「……おもしれえ女」 
 面白い、と思った。 
 俺の前で、こんなに無防備な寝顔をさらしたのは、こんなに素直な表情を見せた相手は、こいつが初めてだったから。 
「……ん……」 
 唇から漏れる、微かな声。 
 思わず耳をそばだてる。聞こえてきたのは、 
「ん……お父様……お母様……」 
「…………」 
 つうっ、と目から新たな涙が零れ落ちた。 
 妙な感情が胸を走る。これは……罪悪感、という奴か? 
「起きろ」 
 ぐいっ、と肩を揺する。 
 これ以上、こいつの泣き顔を見たくないと思ったから。 
「起きろ、パステル」 
「ん……」 
 ぱちり、とはしばみ色の目が、開いた。 
 じーっと俺を見つめる。その遠慮のない視線に、何故だか顔が熱くなったが。 
「……き、きゃああああああああああああああああああ!!?」 
 その視線が顔から下におりた瞬間、響いた盛大な悲鳴に、思わず顔をしかめた。 
 朝っぱらからうるせえ…… 
「あんだよ」 
「あ、あ、あなたっ……」 
 わたわたと身を起こし、そして自分が一糸まとわぬ裸だと言うことに気づいて、新たな悲鳴をあげる。 
 ……ああ、そうか。さては、寝起きで混乱してるな、こいつ。 
「おい。おめえ、昨日のこと覚えてねえのか?」 
「き、昨日……?」 
 そう言ってやると、寝起きのぼんやりした目が、ぱっちりと開かれた。 
 ……思い出したか。 
「あ、あ……お、おはようございます」 
「……おはよ」 
 かあっと真っ赤になってうつむく。……本当に、おもしれえ。 
 そう思った瞬間、からかってやりてえと思った。興味がわいた、と言えばいいのか。 
「覚えてねえのか?」 
「い、いえ、あの……」 
「思い出させてやろうか」 
「え……?」 
 すっ、と予告もなく。そのまま唇を重ね合わせる。 
 ぼんっ、と音がしそうな勢いで、もともと赤かった顔が首まで染まった。 
 唇をなめるようにして舌を這わせ、中に侵入させる。手を伸ばして胸の先端をなであげると、即座に刺激に反応したか、たちまちのうちに硬く尖り始めた。 
 ……ちっとは、慣れてきたか? 
「んっ……んーっ……!!」 
 もがく身体をベッドに組み敷く。唇を解放すると、呼吸することすら忘れていたのか、大きく息を吸い込んだ。 
「思い出したか?」 
「……っ……」 
「まだ思い出せねえかあ?」 
 ニヤリ、と笑みを浮かべてやると、パステルの表情に怯えが走った。 
 つつっ、と胸から腹、さらに下へと手を滑らせる。その瞬間、 
「お、思い出したわよっ……だから、やめてってば! 朝からっ」 
「…………」 
 それでいい。 
 ひょいっ、と身を離すと、パステルはきょとんとした顔で、俺を見た。 
「あの……」 
「おはよ」 
「お、おはよう……」 
「俺の名前、覚えてるか?」 
 そう聞くと、パステルはためらいなく頷いた。 
「おはよう、トラップ」 
「それでいい」 
 ベッドから這い下りて、用意された服に着替える。 
 また、つまらねえ日常が始まる。だけど。 
 こいつが部屋で待っていると思えば……それに耐えられそうな気がした。 
「おめえは、俺の性奴隷としてここに来たんだよな?」 
「…………」 
「嫌か?」 
「え?」 
「俺に抱かれるのは、嫌か?」 
「…………」 
 何を聞かれているのかわからねえ。そんな表情で、パステルは黙って俺を見つめている。 
 ……そうだろうな。俺だって、自分でも何言ってるのかよくわかんねえ。 
「嫌なら嫌って言え。無理強いはしねえよ」 
「…………」 
「んじゃな。俺は仕事があるんで……『王様』としてのな。何か用があったらそのへんの奴に適当に言え。話は通しておく」 
 そろそろ、キットンの野郎が迎えに来る頃だ。そんなことを考えながら、部屋のドアに手をかけたとき。 
「嫌……だった」 
 ぴたり、と手が止まった。 
「嫌だった。最初はすごく嫌だった。だって、わたしはあなたのことを何も知らない。初めて会った相手に抱かれるなんて、最初はすごくすごく嫌だったけれど」 
 ゆっくりと振り向く。 
 偽りの全く混じってねえどこまでも純粋な視線が、俺を貫いた。 
「だけど、あなたを嫌いにはなれない……どうしてかわからないけど、あなたを憎めない。……抱かれるのを、嫌だと思えない」 
「……夜に」 
「…………」 
「夜には戻ってくる。じゃあな」 
 この胸にわきあがってくる暖かい思いは。 
 もしや、喜びと言う奴か? 
 廊下の端から響いてくるキットンの声に生返事を返しながら、俺は王の間に向かって歩いて行った。 
  
 どうして「嫌だ」と言わなかったんだろう。 
 嘘か本当かはわからないけれど。それでも、彼は「無理強いはしない」と言ってくれたのに。 
 だけど、その言葉を聞いた瞬間、わたしには何となくわかった。 
 ステア・ブーツ。先王が不慮の事故で亡くなってその後を継いだばかりの、若き王。 
 その評判は決して良くはなかった。血が通ってないんじゃないかと言われるほどに冷血で、何を話してもその顔色が変わることはない、と領民の間では噂されていたんだけれど。 
 素顔の彼は、決して悪い人じゃない……そう思った。 
「…………」 
 陛下……トラップがいなくなった部屋で、わたしは最初のうちこそ大人しく寝ていたけれど。 
 やがて退屈になってしまった。部屋には娯楽の類が何もなくて、することがなくてつまらない。 
 ベッドの脇には、トラップが命じてくれたのか、わたしのための服が何着か置いてあった。それを適当に身につけて、廊下に出る。 
 自由にして……いいんだよね? 用があったら、その辺の奴に言えって。トラップが……王様がそう言ってくれたんだもんね? 
 そう自分に言い聞かせながらきょろきょろとまわりを見回していると、昨日わたしをお風呂に入れてくれた侍女と、トラップの隣に立っていた男の人のうちの一人が廊下で話していた。 
 侍女の人はわたしにとても優しくしてくれたし、男の人は、昨日わたしが「売り物扱いされてる」と勘違いして怒ってくれた人。 
 彼らなら、きっと、こんなわたしとでも仲良くしてくれる。 
「あの」 
 声をかけると、二人は一斉に振り向いた。その目は驚きに染まっていたけれど、でも、不快そうな顔はしなかった。 
「やあ、君は……昨夜は、大丈夫だった?」 
「はい」 
 先に声をかけてくれたのは、男の人だった。 
 さらさらした黒髪と、見上げるような長身に均整のとれた身体。素直に、かっこいい人だなあと思った。 
「昨日は、ありがとうございました」 
「いいのよ。大変だったわね……あ、わたしの名前はマリーナって言うの。あなたは?」 
「パステルです」 
 侍女……マリーナの言葉にそう名乗ると、男の人は「クレイって言うんだ。気楽に呼んでくれて構わないよ」と言ってくれた。 
 やっぱり、いい人達なんだ。 
「ありがとう。マリーナ、クレイ」 
「ねえ、あなた、大丈夫だった? 本当に」 
 わたしが微笑むと、マリーナは心配そうに言った。 
「ステア陛下は、お優しい方だけど。あの方はそれを素直に表すのが苦手な方だから。何かひどいことされなかった?」 
「…………」 
 最初のうちは確かにひどかった。 
 だけど、時間が経つにつれて……優しくなった。 
 そういえば、何でなんだろう。何で、彼の態度は急に変わったんだろう? 
 いくら考えても、わたしにはその理由がわからなかったけれど。 
「うん、大丈夫」 
 すぐにこっくりと頷くことができた。 
「トラップは、優しかったよ」 
 トラップ、と名前を呼んだ瞬間。 
 クレイとマリーナは、驚いたように視線を交わして、そして嬉しそうに言った。 
「パステルは、陛下に気にいられたみたいだね」 
「え?」 
「あの方がご自分の幼名を教えるのは、気を許した相手だけだから」 
「…………」 
「陛下をよろしく頼むよ、パステル」 
 そう言ったクレイの目は、少し寂しそうだった。 
「陛下は、もう俺達には心を許してくれないから。俺達が臆病だったせいで、立場に縛られて何もできなかったせいで、陛下には今、心を許せる相手がどこにもいないから。だから、パステルがそういう存在になってあげてくれ」 
「…………」 
 王様っていうのは、何でも持ってるものだと思っていた。 
 だけど、そうじゃないみたい。普通の人にとっては一番大切で、当たり前のように持っていたものを、彼は何も持っていないんだ、と思った。 
「もちろん」 
 頷いて、そしてわたしは二人に頼んだ。 
「マリーナと、クレイは……わたしの友達になってくれる?」 
 そう言うと、二人は即座に「もちろん」と言ってくれた。 
  
 「仕事」が終わるのがこんなに待ち遠しかったのは初めてだ。 
 はやる思いを抑えて、部屋に戻る。 
 ドアを開けると、見慣れねえ服を着たパステルが、微笑みかけてきた。 
「お帰り、トラップ。お疲れ様」 
「……おう」 
 そんなことを言われたのは初めてだった。どう答えればいいのか、一瞬困る。 
 照れてるんだ、と気づいて、そしてそれに驚いた。 
 いまだかつて、そんな感情を抱いたことはなかったから。 
「おめえは、昼間あにやってたんだ?」 
「色々。マリーナが、色々案内してくれたの。ねえ、このお城って、すっごく広いね!」 
 目を輝かせて、パステルはベッドに腰掛けた俺ににじり寄ってきた。 
 相手がパステルじゃなけりゃ、誘ってるのか、と思うところだが。 
 そんなつもりがねえことは、目を見りゃわかった。 
「楽しかったか?」 
「うん」 
「そっか」 
 とりとめのねえ会話。何の裏も含まれてねえ、言葉通りの会話。 
 そんなものを交わしたのは、久々だった。 
 そうして眠くなるまで会話を繰り返して、同じベッドで眠る。 
「……ねえ」 
「あんだ?」 
「何も、しないの……?」 
「して欲しいのか?」 
 ぶんぶんと首を振る気配。 
「わたし……やっぱり、魅力無かった?」 
「……いや」 
「トラップが一言気に入らないって言ったら、わたしは追い出されるんだよね?」 
「…………」 
 それを心配してたのか。 
 この城で居場所を作るためには、俺に抱かれるしかねえと……おめえは、そう思っていたのか? 
 ……無理もねえが。 
「安心しろよ」 
「え?」 
「追い出したり、しねえよ」 
「…………」 
 その言葉に安心したのか、背中から、寝息が響いてきた。 
 ……勘弁してくれ。 
 どうにかこうにか、手を出すのを我慢したのに。こいつの泣き顔なんか、見たくなかったから。 
 けど、こんな無防備な寝顔見せられたら……襲いたくなるじゃねえか。 
 その夜、俺はなかなか眠れなかった。 
  
 お城で暮らすのは、楽しかった。 
 少なくとも、あの謎の行商人……結局、わたしは彼の正体を何も知らないんだけど……との短い旅を思い出せば、本当に天国みたいだと思った。 
 クレイもマリーナも会えば気楽に話してくれるし、トラップは優しい。 
 結局、最初の日以来、彼はわたしに手を触れようとしなかった。 
 それなのに、追い出そうともせず、むしろ大切に扱ってくれた。 
 優しさ、だと思った。最初の日に、ただ痛いだけで泣いてばかりいるわたしを見て、きっと気遣ってくれているんだと。 
 信じる根拠なんか何もないけれど、それでも、わたしは嬉しかった。 
 それに。 
 トラップは忙しい人だから。会えるのは夜と朝だけだけど、その短い時間に交わす会話の中で、彼が少しずつわたしに心を開いて、色んなことをしゃべってくれるのが、素直に嬉しいと思ったから。 
 例え気まぐれでもいい、傍にいたいと思った。 
  
 その行商人が再び俺の前に現れたのは、パステルが城に来てから一ヵ月後のことだった。 
「あんだ、またおめえか」 
 何故だか、パステルと、この行商人の前では、苦労して身につけた「王」としての仮面がはがれて、素顔の俺に戻っちまう。 
 まあ、そうなったところで、それを咎められる立場にいる奴は誰もいねえんだが。 
「陛下におかれましてはご機嫌麗しゅう」 
 全く心のこもってねえ挨拶の後、行商人はわざとらしく頭を下げた。 
「貢物は、気にいっていただけましたか?」 
「ああ」 
 素直に頷く。 
 気にいった、なんてもんじゃねえ。 
 どうしてここまであいつに惹かれるのかわからねえが。パステルといるときだけは、本音をぶちまけることができた。ゆっくりと休むことができた。 
 何もかも謎に包まれた胡散臭い野郎だが、それだけは素直に感謝しねえとな。 
「それは、何よりです」 
 そう言って、行商人は頭を下げた。 
「わたくしの方も、商売がうまくいっております。……お礼として、陛下に新たな貢物を差しあげたいと思うのですが」 
「……いらねえよ」 
 いらねえ。俺には、パステル一人いればいい。 
 言葉には出さねえが、心底そう思う。すると、俺の心を読んだかのように、行商人は妙に勘に触る笑いを浮かべた。 
「陛下は、余程あの娘がお気に召したようで」 
「…………」 
「ですが、お気をつけください。所詮は、大した教育も受けていない下層貧民の娘です。陛下の目の届かないところで何をやっているか……ゆめゆめお気をつけください」 
「あんだと!?」 
 それは、明らかにパステルを侮辱する言葉だった。 
 一瞬にして怒りがわいたが、俺が何か言うより早く、行商人は自ら退室していた。 
 ……落ち着け、俺らしくもねえ。 
「陛下……よろしいのですか? あの者を放っておいて」 
 おずおずと声をかけてきたのは、キットン。 
「国に、何かよからぬものを持ち込んだりでもしたら……」 
「…………」 
 キットンの懸念は当然のことと言えた。けど…… 
「それをさせねえようにすんのが、おめえらの役目だろう」 
 それだけ言うと、キットン、それにクレイとギアは、黙って頭を下げた。 
 そうだ、それがおめえらの役目だ。 
 俺は名前だけの王。最終決定権は俺にあるのかもしれねえが。考えるのは、俺の役目じゃねえ。 
  
 そうは言ったものの。 
 行商人の言葉は、気になった。 
「目の届かねえところで、パステルが何をやっているか」 
 確かに、俺は普段パステルが何をやっているか知らねえ。本人は、よく「マリーナ」の名前を出していたが。あいつだって仕事がある。パステルにばかり構ってる暇はねえだろう。 
 あの何一つ気をまぎらわすものが置いてねえ部屋の中で、一体何をやってるんだか。 
 そんな疑いを抱いていたときだったから、偶然その光景を見たときはショックだった。 
 謁見者が途切れた後の、わずかな休憩時間。 
 飯の後、部屋に一度戻ろうか、と考えて足を向けたとき。 
 俺の部屋から出てきたのは、第一騎士団団長、クレイ。 
 俺が休憩時間ということは、自動的にクレイも休憩時間になる。それは、ほんの短い時間で、逢瀬というには無理があったが。 
 その姿を見た瞬間、頭に血が上って、そんな冷静なことは考えられなくなった。 
 ……まさかっ…… 
 即座にクレイを問い詰めてやりてえ、パステルに問い詰めてやりてえ、という衝動に狩られる。 
 それは、多分嫉妬という名の感情。この俺が、欲しいものは何でも周囲から与えられてきた俺が、初めて抱いた感情。 
 だが、それを爆発させる前に、クレイの姿は視界から消えた。 
 ………… 
 どうするべきか。 
 一瞬迷いが走る。だが、決断する前に、 
「ステア陛下! こちらにおられましたか。新たな謁見希望者が……」 
 背後から響いたキットンの騒がしい声。舌打ちして身を翻す。 
 まあいい。どうせ、夜になりゃあ、二人っきりになる。 
 そのときに……いくらでも問い詰めることはできる。 
  
 クレイは優しい。 
 部屋に運んでもらった本を見ると、顔がにやけてしまう。 
 マリーナもクレイも、そしてトラップも仕事がある。 
 わたしには何もすることがない。退屈だ、と何かの拍子に漏らしたら、クレイは快く、「俺の本でよければ、貸そうか?」と言ってくれた。 
 わたしみたいな一般市民に、まだ文字は余り浸透していないけれど。 
 幸いなことに、わたしはお父様が学校の先生をやっていたこともあって、文字の読み書きを習得していた。 
 もっとも、本なんて高級なもの、一度も読んだことはなかったけれど。 
 クレイが持ってきてくれたのは、小説と呼ばれるタイプのもの。 
 それはどれもこれも、読んでいてわくわくした。作り物の世界の中で、空想上の主人公達が、わたしには決してできないような冒険を繰り広げる、夢のような世界。 
 本って、こんなに素敵なものだったんだ…… 
 ついつい、時間を忘れていた。 
 だから、わたしはさっぱり気づかなかった。 
 いつの間にか、トラップが部屋に戻ってきていたことに。 
 ぐいっ、と肩をつかまれる。ふっと振り向いたときには、目の前に、色素の薄い茶色の瞳が迫ってきていた。 
「とらっ……」 
 言葉は、彼の唇によって、途中で塞がれた。 
  
 俺が部屋に戻っても、パステルは振り返りもしなかった。 
 それは、ある意味好都合で……ある意味では都合が悪かった。 
 いつもと同じ笑顔を向けられていたら、きっと俺は追及をためらったに違いねえ。 
 だからこそ。振り向きもしねえこいつの態度が、妙に勘に触った。 
 ……俺は、おめえにこんなにも優しくしてやったのに。 
 それなのに、おめえは俺を裏切るのか? 
 おめだけは、違うと思っていたのに。 
 気が付いたときには、その唇を強引に奪っていた。 
「とらっ……」 
 言いかけた言葉を強引に遮って、そのままその細い身体を押し倒す。 
 そうだ。こいつは俺の性奴隷。何も、俺が我慢をする必要なんか無かったはずだ。 
 ずっと抱きてえと思っていた。だけど、泣き顔を見たくなかった。怖がらせたくなかった。嫌われたくなかった。 
 だから、ずっと我慢してきた。……そんな必要なんざ、なかったのにな。 
「トラップ、やだっ……」 
 びっ!! 
 力をこめた瞬間、高い布をあしらった服は、あっさりと破れた。 
 一ヶ月前のあのときよりも、さらに乱暴に。その白い身体にいくつもいくつも赤い痣を落としていく。 
「やっ……やだっ、やだやだっ、こんなのやだっ……」 
「うるせえ」 
 おめえに、俺に口ごたえする権利なんかねえんだ。 
 欲望にまかせただけの、身勝手で乱暴な愛撫。それは、パステルを痛がらせるだけで、快感なんか何一つ与えてねえに違いねえ。 
 悲鳴とすすり泣きが、耳についた。 
 ……おめえが、悪い。 
 おめえも、あいつらと同じように。クレイやマリーナと同じように、俺を裏切ろうとするから。 
 閉じようとする脚の間に強引に身体を割り込ませて、濡れてもいねえ秘所に力づくで押し入る。 
 あのとき、既にそこは俺を受け入れていたはずだが。何故か、今も。その場所からは血があふれ出た。 
「痛い、痛いよ……トラップ」 
 涙で濡れた目が、俺をじっと見上げていた。 
 恨みがましい目じゃねえ。憎悪なんかかけらも含まれていねえ。どこまでも寂しそうな目で。 
「痛いよ。こんなの……こんなの、嫌」 
「…………」 
 繋がった、そのままの状態で。その視線にからみとられ、俺は動けなくなった。 
 パステルの表情に、とまどいが走る。 
「……昼間、クレイが部屋に来ただろ」 
「……え?」 
「何しに来たんだ?」 
「…………え?」 
 きょとん、とした表情。何を聞かれてるのかわからねえ、そんな顔。 
 ……答えろよ。 
 腰を動かし始めると、くぐもった声が漏れ始めた。 
 悲鳴のような、あえぎ声のような、ひどく曖昧な声。 
「答えろ」 
 そう重ねると、パステルは、切れ切れにつぶやいた。 
「本、を……」 
「……?」 
「何も、することが……なく、て。あっ……やっ……た、退屈だ、って言ったら……本、貸して……くれる、って……」 
「…………」 
 ぐっ、と奥深くまで押し入った瞬間、呆気なく欲望は爆発した。 
 それと同時、どうしようもねえ罪悪感が、俺の全身を支配した。 
「…………」 
「トラップ……?」 
「……わりい」 
 ずるり、とパステルの身体から、モノを引き抜く。 
「頭に血が上ってた」 
「…………?」 
「俺には、おめえしかいねえから」 
「トラップ……?」 
「俺はっ……」 
 何でこんなことを話そうなんて気になったのか。 
 もうとっくに諦めていたはずだ。王になった瞬間に諦めて、忘れようとしていたはずなのに。 
「マリーナも、クレイもな……俺の幼馴染だ」 
「え??」 
 パステルの表情に、戸惑いが走る。 
 そうだろう。……信じられねえだろうな。今の俺達しか知らないおめえには。 
「ずっと小せえ頃は、二人とも俺のことを『トラップ』って呼んでた。よくキットンやら親父の目え盗んで、三人で遊びに行ったもんだぜ。城の連中は、みんな俺のことを『王子』って呼んでたのに。あいつらだけは、俺を俺として見てくれたから。あいつらだけは信用できるって、そう思ってたのにな」 
 全てが変わったのは、16歳のとき。親父が死んだとき。 
「俺が王になった瞬間、あいつらは俺を『ステア陛下』って呼び始めた。俺はそんな風に呼ばれたくはなかった。あいつらにだけは、俺を俺として、『トラップ』として見て欲しかったのに。もう、俺にはおめえしかいねえんだ、パステル。おめえしか……」 
 そうつぶやいた途端。 
 パステルの腕が、俺の首にしがみついてきた。 
「パステル……?」 
「わたしっ……」 
 ぐっ、と身体を引き寄せられる。肩にあたるパステルの顔は、濡れていた。 
 涙で。 
「わたし……本当は、あなたが怖かった」 
「…………」 
「わたしの両親は、あなたのせいで……死んだと思ってた」 
「……何?」 
 聞き捨てならねえ言葉だった。 
 パステルの両親……そういや、聞いたこともなかった。 
「どういうこった?」 
「ありがちな話だけどっ……増税のせいで、わたしの両親は、過労で、死んだの」 
「…………」 
「それはあなたのせいだって、領主様が言ったの。『王様の命令で税を上げたんだ』って。だからあなたが憎くて……怖かった。わたし達みたいな貧民層の領民の命なんか、何とも思ってない人だって、そう思ってたの……」 
「…………」 
「税を払えないわたしは、あの行商人に売られたの。そうして連れて行かれたのが、よりにもよってあなたのところでっ……きっとわたしは、散々おもちゃにされて、飽きたら捨てられるか、殺されるんだって、そう思ってたの。だからっ……」 
 からみつく腕に、力がこもった。 
「トラップに、優しくしてもらえて……嬉しかったの……」 
「……優しい?」 
「優しかった。トラップは優しかったよ……? 誰もわたしのことなんか気遣ってくれなかった。両親は生きるのに必死で、わたしはいつも部屋で一人だった……だから、嬉しかった」 
 さっきまで、あんだけ泣いてたのに。 
 今、パステルに浮かんでいる表情は……笑顔。 
「嬉しかったよ? 追い出さないって、言ってもらえて……」 
「…………」 
 何も言うことはなかった。 
 ただ無言で、俺はパステルを抱きしめていた。 
 ああ、そうか。俺が、こいつに惹かれた理由は。 
 同じ目をしていた。 
 俺と同じ、愛に飢えた目をしていたから。 
 それが、俺とパステルの心が一つになった瞬間だった。 
  
 幸せだった。 
 クレイのことで、トラップが焼きもちを焼いてくれたんだと(もっとも、彼は決してそんなことは認めないだろうけど)わかって、嬉しかった。 
 無理やりに抱かれるのは怖かったけれど、でも、彼はすぐに「ごめん」と言ってくれたから。 
 だから、わたしは素直に言えた。「もう、我慢しなくてもいいよ」って。 
 嫌だったわけじゃない。憎むべき相手なのに、嫌いになれないとわかった瞬間から、わたしは彼にどうしようもなく心惹かれていたことがわかっていたから。 
 抱こうとしない彼の優しさが嬉しかったから、それに甘えていたけれど。それでも、求められれば素直に受けるつもりだった。 
 好きだから。 
 こんな気持ちを抱くことは許されないだろうけれど。相手は王様で、わたしは彼に貢がれてここにやって来た存在で。身分違いもはなはだしいけれど。 
 それでも、報われないとわかっていても。 
 わたしは彼の傍にいるだけで満足だと思った。 
 彼のことが……トラップのことが、好きだから。 
  
 パステルしかいねえと思った。 
 俺にはこいつしかいねえと、心から思った。 
 パステルが来てから、名前も知らねえ女を抱くことはきっぱりとやめた。 
 パステルを知った後では、そんな女に何の魅力も感じていねえことがはっきりとわかったから。 
 あの日以来、何度かパステルと肌を重ねて、そのたびに、あいつは素直に感じて声を漏らして、そうして行為が終わったその後で、恥ずかしそうに視線をそらした。 
 何度抱こうと初々しさが抜けないその態度が、余計に愛しいと思えた。 
 大事にしてやりてえ。 
 ずっと、大事にしてやりてえ。ずっと、一緒にいてえ、と。 
 心から、そう思っていたのに。 
  
 彼のことが大事だから。 
  
 おめえもやっぱり、あいつらと同じか……? 
  
 異変に気づいたのは、数ヵ月後のことだった。 
 トラップは、昼間は忙しい。わたしは、その間、彼に頼んで取り寄せてもらった本を読んだり、マリーナの手伝いをしたり、そんなことをして時間を潰していたのだけれど。 
 一体いつからかわからないけれど、微熱と頭痛が続いて。何となく起きるのが億劫になった。 
 食事のとき、どうしようもなく吐き気に襲われた。 
 ……何、だろう…… 
 これは、何? 
「パステル? どうしたの?」 
 わたしの様子に気づいて、食事のお皿を下げにきたマリーナが、駆け寄ってきた。 
 彼女に連れられて、トイレで食べたばかりのものをまとめて吐き戻してしまったけれど。それでも、それは一向に収まらなかった。 
「パステル、パステルっ……?」 
「き、気持ち悪い……」 
「待ってて。お水持ってくるから!」 
 マリーナは、わたしの様子を見て、即座に台所から水を運んできてくれたけれど。 
 飲んでも飲んでも、吐き気に負けてしまう。 
 これは、一体何……? 
「パステル。あなた、まさか……」 
 マリーナが、息を呑んで言った。 
「あなた、まさか……ステア陛下の、子を……?」 
「…………」 
 言われた言葉に凍りつく。 
 まさか、と思ったけれど。それを否定する要素は、どこにもなかった。 
 そう、不思議は無い。だって、わたしと彼が夜毎繰り返していた行為は、「そういう行為」だったのだから。 
「パステル……」 
「マリーナ、お願い」 
「え?」 
「お願い、このことは誰にも言わないで……トラップにもっ……」 
「…………」 
 わたしがそう言うと。 
 マリーナは、黙って頷いてくれた。 
  
 パステルの様子がおかしい。 
 明らかに俺を避けている。夜も、同じベッドで寝てはいるが、背中を向けて、俺を無言で拒絶している。 
 ……何か、あったのか? 
「おい。おめえ、どうしたんだ?」 
「……何でもない」 
 何度聞いても、どう聞いても、答えはその一点張りだ。 
 いつかのように、無理やり抱いて聞きだそうかとも思ったが。 
 何故だか、それはためらわれた。それをしたら、パステルを一生失うことになりそうな気がして。 
「おい」 
「……何でも、ないの」 
 何でもないわけ、ねえだろう……? 
 そんな、今にも泣きそうな声をしているくせに…… 
 いくら問いかけても、返事は返ってこねえ。 
 やっと、おめえと心が通じ合ったと思ったのに。 
 おめえは……やっぱり。 
 やっぱり、あいつらと同じなのか? 
  
 やっぱり、これしかないと思った。 
「パステル、それは……」 
「お願い、クレイ」 
 無理を言って、トラップの目を盗んで部屋に来てもらったクレイ。 
 わたしの前で、とてもとても困った顔をしている。 
 クレイに迷惑はかけたくなかった。でも、彼しか頼める人はいなかった。 
「お願い。クレイ。わたし……」 
 止まらない吐き気と、そして直感が告げていた。 
 間違いなく、わたしのお腹には、トラップの子供がいるのだと。 
 そして、その子供を決して生むことはできないだろうということも、わかっていた。 
 トラップは王様で、妻になる人は王妃様。 
 王妃様となる人は、それなりの地位を持っていなければならない。わたしには、決して望めない地位。 
 きっと、子供は堕ろせって言われるだろう。トラップは生んでもいいと言うかもしれない。けど、周囲がそれを決して許さないだろう。 
 何より……この子供は、下手をしたら王位継承権を争う存在になるから。 
 わたしが嫌な思いをするのは耐えられる。でも、トラップと、そして彼の子供がそんな目に合うことは、耐えられなかった。 
 だけど、わたしは生みたかった。トラップの子供を生みたかった。 
 どうしたって殺すことなんかできない。この子は……今となっては唯一の、わたしと血の繋がった相手なんだから。 
 だから。 
「お願い、クレイ。連れていって……」 
「…………」 
「わたし、生みたい。この子をどうしても生みたい。そのためには、ここにいちゃいけない……どこか、どこか遠くに連れていって……!」 
「……ステア陛下は……トラップは、知ってるのか?」 
 クレイの言葉に、無言で首を振る。 
 言えるわけがない。言ったら、きっと止められる。 
「黙っていちゃ、駄目だよ。ちゃんと言わなきゃ。言ってみなきゃ、わからないじゃないか?」 
「……彼に迷惑をかけたくない」 
 クレイの言うことはもっともだったけれど、わたしは首を振った。 
「トラップに迷惑をかけたくない。だって彼は王様なんだから。わかってる。我がままだってわかってる。わたしのしてることはかえってトラップを傷つけるかもしれない。だけどっ……」 
 涙が溢れてきた。止められないし止めようとも思わない。 
 素直に泣けるのは、きっとこれが最後の機会になるだろうから。 
「だけど、どうせ報われない恋なら……早いうちに諦めた方がいい。そうでしょう……?」 
 そう言うと。 
 クレイは、黙ってわたしに手を差し伸べてくれた。 
 ごめんなさい、トラップ。 
 だけど、わたしにはこうするしかないの。 
 クレイの手引きで、そっと城を抜け出す。 
 わたしは、もう泣かない。 
 安全なところまで送り届けてもらったら、その後は、一人で生きていく。この子と一緒に。 
 トラップのことが……大事だから。 
  
「……あんだと……?」 
「ですから」 
 感情がねえんじゃねえか、と疑いたくなるような冷たい口調で、第二騎士団団長、ギア・リンゼイは、言った。 
「ステア陛下。陛下の貢物を盗んで、第一騎士団団長が、逃亡しました」 
「…………」 
 話を聞いても、にわかには信じられなかった。 
 だが、確かに、そこにクレイの奴はなく。 
 キットンの奴を走らせたところ、部屋にパステルの姿は無かった。 
 ……まさか。 
 まさか、あの二人が? 
 パステルの様子が最近おかしかったのは……このせいなのか? 
「ステア陛下、いかがいたしますか?」 
 ギアの声が、空しく響く。 
 何も考えることはできなかった。信じて、信じて、信じ抜いて。 
 そしてその結果裏切られた間抜けな自分が情けなく、腹立たしかったから。 
「……どうすればいい」 
 考えるのは、俺の役目じゃねえ。話を振ると、キットンとギアは、困惑したように視線を交わして、言った。 
「放っておくわけにはいきません」 
 おずおずと口を開いたのは、キットンだった。 
「万が一、とは思いますが、クレイ、あるいはパステルが他国のスパイであったという可能性もあります。何としてでも、見つけ出さねば」 
「…………」 
 スパイ。 
 ガキの頃からずっと一緒だったクレイが。あんな、嘘をつくのが下手なパステルが。 
 そんな可能性はねえ、と俺がいくら言ったところで、キットンの野郎は納得しねえだろうな…… 
「まかせる」 
 もう、どうでもいい。 
 離れた心は戻ってこねえ。マリーナも、クレイも、そうして俺の元へは二度と戻ってこなかった。 
 だから、パステルも。もう二度と、戻ってこねえだろう。 
 戻ってこないなら…… 
「ギア。おめえにまかせる」 
「……おまかせください」 
 クレイの野郎は、性格はどうも優しすぎて騎士に向いてるとは言いがたかったが、剣の腕は一流だった。 
 クレイに敵う奴は、この城ではギアしかいねえ。 
 ギアがゆっくりと部屋を出て行く。 
 それが、俺とパステルの関係が壊れた瞬間だった。 
  
 逃げて逃げて、どこまでも逃げて。 
 だけど、身重の身体では思うように動けなくて。結局、わたしはクレイの足をひっぱってしまって。 
 だから。 
 だから、こうなった。どれだけ後悔しても、どれだけ自分がバカな選択をしたんだと呪っても、もう取り返しは、つかない。 
「陛下の命令なんでね」 
 目の前で剣を振るっているのは、いつもクレイと一緒にトラップの傍に立っていた男の人。 
 ギア・リンゼイ。第二騎士団団長。 
 その彼の前で、血を流して倒れているのは、クレイ。 
「ギア……」 
「悪いな。俺は別に、あんた達に恨みがあるわけじゃない」 
 ぶんっ、とギアが剣を振るった瞬間、血の飛沫が、わたしの顔にまで飛び散った。 
「けど、どうしても城に戻るのが嫌とあっては……王家のためにも、こうするしかないからな」 
 キンッ、と小さな音が響いたその瞬間。 
 クレイの身体が、どうっと地面に倒れた。 
 ……わたしは。 
 自分のわがままのせいで、クレイを巻き添えにして。 
 そして、今…… 
 すうっ、と目の前で振り上げられる剣。 
 泣くもんか、と思った。 
 泣いちゃいけない。後悔なんかしちゃいけない。 
 わたしはトラップのためを思って城から出た。トラップのことが大切で……愛していたから、彼のために逃げた。 
 その気持ちを否定しないためにも。わたしは、涙を流さない。 
 剣が振り下ろされた瞬間、わたしの意識は、すっぱりと……途絶えた。 
  
「……二人は?」 
「どうしても城には戻らないと言い張るので、始末してきました」 
「そうか」 
 それ以上、何も言いようがねえ。 
 城に戻ってきたギアの報告に、俺は無気力に頷いていた。 
 王になった瞬間に、俺は色々な大切なものを失ってきた。 
 手に入らないものはなかったのに、それまで持っていた本当に大切なものを、次々と失った。 
 そして、今。 
 最後の最後に手に入れた宝さえも、永遠に失った。 
 ……仕方がねえ。俺は「王様」なんだから。 
 王家に生まれて、王位継承権なんてもんを押し付けられたそのときから、こうなることは運命で決まっていたんだろうから。 
「謁見希望者が来ておりますが……通してもいいですか?」 
 キットンの言葉に、軽く頷く。 
 大したことじゃねえんだ。これは、ただ元に戻っただけの話。 
 そう、元の生活に戻った。騎士団には優秀な奴がいくらでもいるから、第一騎士団団長だって、すぐに穴埋めされるだろう。 
 そうして、また元のつまんねえ日常に戻るだけなんだ…… 
 いくら自分に言い聞かせても。 
 同じじゃねえ。俺の心は……どこかが、壊れていると、自覚していた。 
 ……仕方、ねえんだ。 
 仕方のねえこと、なんだ。 
 自分で自分を偽りながら、俺は謁見者の方へと目を向けた。  

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