それはよくある出来事だったはず。 
 交通課の婦人警官。「警察官になったのよ」というと、友人はみんな驚いていたけど。 
 実際にやっていることは、ただパトカーで市内をまわって、駐車禁止を取り締まることがほとんど。 
 テレビや小説みたいに、かっこよく犯人を捕まえたり、銃を撃ち合ったり……そんな経験なんか、一回もしたことが無いしこれからも無いと思う。 
 もっとも、それはある意味ありがたかったかもしれない。 
「よくあなたが試験に合格できたわね」 
 大学のときの親友、マリーナにはそう言って感心されてしまったっくらい、わたしは運動神経に自信が無かったし。正直に言えば、それほど頭が回る方でもなかったから。 
 だから、多分わたしは、ずっとこうして違反者を取り締まって、そしていつか、結婚でもしたときにこの仕事をやめるんだと思う。 
 そんなことを思いながら、代わり映えのしない日常を送っていたときだった。 
 後から思えば運命の出会いだった。けれど、そのときのわたしは、そんなことにちっとも気づいていなかった。 
 それは、久しぶりにマリーナから手紙をもらった日のことだった。 
「結婚が決まったの。式に出席してくれる?」 
 マリーナの手紙には、そんな一文が載せられていて。 
 ああ、ついにこういう日が来たのかあ、と妙な感慨にふけってしまった。 
 わたしももう24歳。そろそろ、同級生から結婚のお知らせがちらほら届いて。 
 両親からも「そろそろ……」なんてお見合い写真を押し付けられる年になった。 
「もちろん、出席させてもらう」 
 すぐに返信葉書を出して、ふうっ、と空を見上げた。 
 結婚したい、って気持ちが無いわけじゃないけど。でも、こればっかりは一人じゃできない。 
 相手候補が、いないわけじゃない。 
 クレイ・S・アンダーソン。 
 職場の一年先輩で、お祖父様が警視総監、お父様が警視さん、クレイ本人も、キャリア組として第一線でばりばり働いている刑事。 
 彼と話すようになったのは、何てことの無いきっかけから。 
 雨の日、傘を忘れて困っているときに、「よかったら、送ってあげようか」と車のドアを開けてくれた……本当に、小説か漫画でしかありえないようなシチュエーションだな、と思ったのを覚えている。 
 とにかく、それがきっかけで、わたしはクレイと話すようになり……そのことで、随分職場の同僚には嫌がらせを受けた。 
 クレイは、家柄も立派だけど、本人も背が高く、剣道の腕はインターハイで優勝を争うほどで、顔は文句のつけようもない美形で、なおかつ、それだけの要素を持っていながらちっともおごり高ぶったところがなく、誰に対しても優しいという、まさに欠点の無い完璧な人。 
 しいて言えば、多少おひとよしすぎるところがあるとか、運が悪いかも? とか。けれど、そんなところも、彼の魅力に繋がるだけで、マイナス要因にはなっていない、そんな人。 
 大してわたしは、別に誇るような家柄でもないし、頭だって運動神経だって目だっていいわけじゃないし。顔だって……まあ、普通程度の容姿だし。 
 そんなわたしとクレイが一緒にいることを、快く思われないのは、仕方が無いと思う。 
 けれど、何故か……こんなわたしを、クレイは好きだと言ってくれた。 
「パステルといると、ほっとするから」 
 そう言って、彼はわたしに、婚約指輪を渡してくれた。 
 そして、その指輪は、今、わたしの指に光っている。 
 する気になれば、多分、いつだって結婚式を挙げてくれるだろう。実際、クレイはそう言ってくれた。 
 ……でも、何でだろう。 
 「結婚したい」と思う気持ちはある。けれど、「相手はクレイじゃなきゃいけない」とは思えない。 
 婚約指輪を受け取ったのは、断る理由が無かった……そんな消極的な理由だった。 
 クレイのことは嫌いじゃない。むしろ大好きだ。かっこいいし優しい。わたしにはもったいない人だと思う。 
 それなのに。一体、わたしは何が不満なんだろう……? 
「パステル! 何ボーッとしてるのっ!」 
 声をかけられて、ハッと我に返る。 
 隣の席でハンドルを握っているリタが、ちょっとにらむような目でわたしを見ていた。 
 もっとも、口元は笑っていたから、本気で怒ってるわけじゃないみたいだけど。 
「ごめん、ちょっと考え込んでた」 
「全くう! 幸せボケはやめてよねー。相手のいないあたしに対する嫌味?」 
「そ、そんなのじゃないってば」 
 慌てて手を振る。わたしとクレイが婚約していることは、署内のみんなが知っている。 
「ちょっとね、友達から、結婚するって連絡が来たものだから」 
「ああ、それで自分も早く結婚したいって思ったとか?」 
 わかるわかる。寿退社って憧れるよね…… 
 そんなリタの台詞が、耳を通り過ぎていく。 
 そのときだった。 
 キキーッ!! 
 突然の急ブレーキに、身体が前につんのめった。 
「リタ?」 
「駐車違反。標識の前に堂々と停めるなんて、いい度胸してるじゃない」 
 言いながら、リタがばん、と車から飛び出す。 
 続いて車を降りると、確かに、「駐停車禁止」の標識の前に、堂々と停まっている赤い車が目に止まった。 
「持ち主は誰かしらね。えーっと……」 
 リタがナンバープレートを覗き込んだときだった。 
「っ……おいっ、違うっ、それは違うからなっ!」 
「え?」 
 ぐいっ 
 背後から肩をつかまれて、振り返る。 
 驚くほど近くに、明るい茶色の瞳が迫ってきていた。 
「きゃっ!?」 
「違うんだっつーの。これは駐車じゃなくてなあ……そう、停めたくて停めたわけじゃねえんだ! だあら、見逃してくれっ!!」 
 わたしの悲鳴なんかすぱんと無視して、目の前の人はまくしたてるように叫んだ。 
 迫る瞳から逃げるように顔をそらして、そうしてその全身が目に入る。 
 車と同じ、燃えるような赤い髪が印象的だった。割と背が高くて、でもその割にはとても細い。多分、年はわたしと同じくらい…… 
 きりっと引き締まった端正な顔立ち、強い光を放つ目が印象的な、そんな人だった。 
「なっ、頼む、見逃してくれ。俺、点数やべえんだって」 
「何勝手なこと言ってるの!」 
 わたしが何も言えないでいると、ナンバーをきっちりメモしたリタが声をあげた。 
「ここは駐停車禁止区域! 見ればわかるでしょう? さ、免許証出して!」 
「んだよ。悪かったって言ってんじゃねえか!」 
「いつ言ったのよ! ほら、早く! 公務執行妨害で逮捕するわよ!?」 
 そう叫ぶと、男の人は渋々と免許証を取り出した。 
 確かに、その点数は残り少なくなっている。……もっとも、わたし達にはどうしてあげることもできないんだけどね。 
「ったく。融通のきかねえ女」 
 ぼそりとつぶやく彼の口調がすごく悔しそうで、わたしは思わず笑ってしまった。 
 と、ほんの小さな声だったはずなのに、彼の目は、ぎろりとわたしをにらみつけた。 
「……あに笑ってんだよ」 
「別に……笑ってなんか」 
「けっ。いいよなあおめえらは。こうして一般市民をいじめてるだけで、給料がもらえんだから」 
「! なっ……何よその言い方!」 
 駐車違反やスピード違反を取り締まられて、こういう悪態をつく人は珍しくない。 
 いちいち相手にするな、とリタやクレイはよく言うけれど。それでも、腹が立った。 
「あ、あなたが悪いんでしょう!? 標識無視して停めるから!」 
「っ……だあらっ……しゃあねえだろ!? 仕事中だったんだからよ!」 
「……え?」 
 きょとんとするわたしの目の前に、ぐいっ、と身分証明書がつきつけられた。 
「コードネーム、トラップ……探偵事務所……?」 
「そーだよ! くっそ、もうちっとだったのに、逃げられたじゃねえか」 
「逃げられたって……」 
「犯人追ってたんだよ。連続通り魔。まあ、通り魔っつったって、女子高生のスカートの中を盗撮するっつー、チンケな奴だけどな」 
 そう言って、彼……トラップは、すごく意地悪な笑みを浮かべていった。 
「お偉い警察さん達は、こんなチンケな事件相手にしてくれねえからな。俺達探偵が、しのぎを削ってるってわけだよ」 
「なっ……」 
 それだけ言うと、トラップはバン、と車に乗って、走り去って行ってしまった。 
 まるで、嵐のような人。第一印象は、それだった。 
「何よ、あいつ。好き勝手言ってくれちゃって……」 
「…………」 
 リタの言葉も、耳に入らない。 
 何故だか、わたしの目には、あの真っ赤な髪が、意地悪な視線が。 
 その全てが目に付いて、忘れられなくなっていたから。 
 どうしてなのかは、よくわからなかったけれど。 
  
「どうしたの? 不機嫌じゃない」 
 声をかけられて、俺は振り向いた。 
 そこに立っていたのは、前髪だけをピンクに染めた金髪と、グラマーな身体が魅力的な女。 
 マリーナ。幼馴染で付き合いは20年以上、同棲を始めて2年余り、つい先日結婚を決めた相手でもある。 
「べっつに。融通のきかねえ女ってのは、性質わりいなって、つくづく思ってな」 
「あら、それ、わたしのこと?」 
 そう言って笑うマリーナの顔は、まあ……色っぽかった。 
 こいつと結婚することにしたのに、深い意味なんかねえ。 
 ただ、もう20年以上も顔をつき合わせていると、何つーか……一緒にいることの方が自然で、こいつがいねえ生活ってのが逆に想像できなくて。 
 俺もいい年だったしな。冗談混じりに「結婚すっか?」と聞いてみたところ、意外にもあっさり「いいわよ」という返事が返って来た……とまあ、そんな程度の理由だった。 
 幼馴染と結婚する奴なんて、大概こんなもんじゃねえの? 詳しくは知らねえけど。 
 ぐいっ、とその細い顎をつかみあげて、肉感的な唇を奪う。 
「バカ言え。おめえほどいい女は、なかなかいねえと思うぜ?」 
「あら、嬉しい。あんたがそんなこと言うなんて、雪でも降るんじゃない?」 
 キスした直後とは思えねえ、動揺のかけらもねえ声で言い返される。 
 いやいや、俺は本気だぜ? つくづく思った。 
 脳裏に浮かぶのは、今日駐車違反を取り締まった、融通のきかねえ婦人警官。 
 制服が素晴らしく似合っていない幼児体型。長い金髪とはしばみ色の目は、まあそれなりに可愛い方じゃねえかと思うが……本当に大学を出てるのか疑いたくなるくらいに容姿も言動もガキくさい、そんな女。 
 思い出すと腹が立ってくる。まったく、犯人を取り逃がしたとキットンの野郎……所長には怒鳴られるし。免許の点数はますますやばくなるし……免停なんて冗談じゃねえぞ。 
 何故だか脳裏から離れねえ女の顔にぶつぶつと悪態をついていると、背中に重みがかかった。 
 しなだれかかっているのは、マリーナ。 
「他の女のこと、考えてるでしょ?」 
「わかるか?」 
「わかるわよ。何年あんたと付き合ってきたと思ってるの? わたしには、あんたの考えなんかお見通しなんだから」 
「妬いてんのか?」 
 そう言うと、マリーナは妖艶な笑みを浮かべて、耳元で囁いた。 
「さあ、どうかしらね?」 
 ぐっ、と肩をつかんで、細い割にはグラマーな身体をベッドに押し倒す。 
 美人で、頭が切れて、ぎゃあぎゃあとつまんねえ嫉妬を爆発させたり独占欲をむきだしにしたり、そんな面倒くせえ女からはもっとも対極にいる女。 
 そして何より、身体がいい。 
 ぐいっ、とのしかかると、マリーナの白い腕が、身体にからみついてきた。 
 初めてこいつと寝たのは、確か15のときだった。それ以来、何度抱いたかわかりゃしねえ。 
 寝たきっかけは、ただの興味本位だった。こいつの口から俺のことを好きだ、なんて言葉は聞いたことがねえし、俺も言ったことがねえ。 
 一緒にいたのは惰性で、そしてそれが嫌じゃなかったから何となく結婚することにした。 
 別にそれに不満もねえし、親も「マリーナなら安心だ」と喜んでくれている。母ちゃんとも仲がいいから、面倒な嫁姑争いに巻き込まれることもねえだろう。 
 そう……結婚なんて、そんなもんじゃねえ? 嫌いじゃなくて、面倒の少なそうな相手。それが、一番じゃねえ? 
 胸に顔を埋めると、マリーナのくすぐったそうな笑い声が、耳についた。 
  
「そろそろ、返事を聞かせてくれないか?」 
 いつものデート。ただ署内の食堂で、一緒にご飯を食べるだけだけど。 
 それでも、わたしにとっては、男の人と二人っきりの食事だから、十分にデートだと思っている。 
 クレイにそう言われたとき、わたしはとっさに、何のことだかわからなかった。 
 けど、クレイの視線が、じっとわたしの左手の薬指……婚約指輪に注がれていることに気づいて、ああ、と頷く。 
 ふ、普通忘れるかなあ? こんな重要なこと。うう、わたしってば、この間から変かも。 
 何故だかわからないけれど、この間……あの失礼な赤い髪の男の人、トラップの駐車違反を取り締まってから。わたしは変だった。 
 何がどう、と言われても困るけど……何となく、変だった。 
 ふっと赤毛の人を目で追ってしまったり、何となくあの日取り締まった場所に足が向いたり……そう。とにかく、変だった。 
 いけないいけない、こんなことじゃ。 
 ぶんぶんと首を振る。それに…… 
 目の前のクレイは、優しそうな、それでいて不安そうな、そんな目で、わたしのことをじーっと見ている。 
 婚約してから、もう随分時間が経っている気がする。確かに、そろそろはっきりさせた方がいいかもしれない。 
 「何が不満なのよ?」とリタに言われた。不満なんか、何も無い。 
 「いい人なんでしょう?」と両親に言われた。そう、とてもいい人。 
 だったら別に……断る理由なんか、何も無いような気がする。だから、婚約指輪だって受け取ったんだし。 
 というよりも、ここで断ったら婚約破棄という立派な罪になってしまう。 
「うん。これからもよろしくね」 
 そう言うと、クレイはホッとしたように微笑んで、ぎゅっとわたしの手を握ってくれた。 
 これで……いいんだよね? 
「ねえ、クレイ。近々ね、友達の結婚式があるの」 
「ああ、聞いたよ」 
 そうと決まった途端、これはいい機会かもしれないと思った。 
 マリーナの結婚式は、もうすぐだ。これから、きっと彼女は新婚旅行や何やかんやで忙しくなるだろうから。 
 知らせるなら、早めに知らせたい。 
「クレイのこと、彼女に紹介したいのよ。大の親友なの」 
「俺? 呼ばれてないけど、いいの?」 
「きっと、大丈夫だと思う」 
 きっと、マリーナなら何とかするんじゃないか、と思った。 
 マリーナは、大学で知り合った友人だった。美人で頭が良くて気さくで。彼女と親友になれたことを心から誇りに思える、そんな子。 
 彼女のことだ。わたしが「婚約者を紹介したい」と言えば、きっとどうにでもしてくれるだろう。 
 それに……何故だろう。 
 一人で結婚式に行くのは、悔しい気がした。 
 彼女はいつだってわたしの一歩先を行っていて、わたしにできないようなことをいつも何でもないことのように片付けていた。 
 いつだって彼女に先を越されていた。わたしはマリーナのことが大好きだけれど、それが、ちょっとだけ……悔しい。 
 結婚相手を見つけたのは、あなただけじゃない。それを伝えたいと思った。 
 子供じみた嫉妬心だとは、わかっているけど。 
「パステルの友達だから、きっといい子なんだろうね」 
「うん。すっごくいい子。きっと、クレイもすぐに仲良くなれると思う」 
 彼女の旦那様になる人は、どんな人だろう? 
 葉書に書かれていた名前は、ステア・ブーツ。 
 知らない名前だった。でも、マリーナが選んだ人だから。 
 きっといい人に違いない、そう思った。 
  
 結婚式なんつーのは、退屈きわまりねえ。 
 着慣れねえ窮屈な服。別に式なんか挙げる必要ねえんじゃねえか、とも思ったが。 
「女にとって、結婚式がどんだけ重要だと思ってるんだい!」 
 そう母ちゃんに怒鳴られて、渋々挙げることにした式。 
 マリーナは、別にどっちでもいい、と言っていたが。それでも、ウェディングドレスを着れるのは嬉しそうだった。 
 まあな。式の費用は親父が出してくれるっつーし。一日我慢すりゃいい話なんだけどよ。 
「トラップ、準備はいいかい?」 
 ドアの外から聞こえる母ちゃんの声に、生返事をする。 
 さて、行ってくっか。 
 言われるがままに式場へと出向く。 
 この後、結婚式をして、披露宴をして、それから…… 
 全く。別に今までと何が変わるってわけでもねえのに。何でこんな大げさなことしなきゃなんねえんだか。 
 マリーナのウェディングドレス姿は、まあ綺麗だった。 
 もともと美人でスタイルもいいからな。何を着たって、それなりに様になる奴なんだが。 
 長い神父の話を聞いて、指輪を交換して、誓いのキスをして。 
 それは、ただの決まりきった手順に従う作業。何の感慨もわきゃしねえ。 
 ……もうちっと、嬉しいもんかと思ってたけどな。 
 披露宴の会場へと移動しながら、そんなことをぼんやりと思う。 
 いくら長い付き合いだからって、結婚となりゃあ、ちっとは感動みてえなもんもわくかと思ったけど。 
 何にも心に響かねえ。どうせ今までだってマリーナとは一緒に暮らしてきたんだ。別に引越しするわけでもねえし、仕事場が変わるわけでもねえし……結婚したところで、何の変化もねえんだよな。 
 ふう、と言われた席に腰掛けたときだった。 
「マリーナ! おめでとう!!」 
 何だか、どこかで聞いたような声が響いた。 
 隣に座っているマリーナ。その傍に駆け寄ってくる女と、その連れらしき男。 
 男の方に見覚えはねえ。……が。 
 女の方を見た瞬間、一瞬目を奪われた。 
 ……あいつは。 
「パステル! 来てくれたのねー!」 
「当たり前じゃないの! ね、マリーナ。今日は本当にありがとう。それと、無理言ってごめんね!」 
「ううん、いいのよ。わたしだって、パステルの婚約者に会いたかったんだから。あ、ごめん。うちのを紹介するわね」 
 ぐいっ、と腕をひっぱられた。 
 瞬間、目が合った。パステル、と呼ばれた女が、息を呑むのがわかった。 
「わたしの旦那になる人。もう20年以上続いた腐れ縁が、とうとうこうなっちゃって。本名は違うんだけど、トラップって呼んでやって。トラップ、彼女は……」 
「おめえ……マリーナの友達だったのかよ!?」 
「あなたが、マリーナの結婚相手!?」 
 マリーナと、パステルの隣に立っていた男(婚約者らしい)が、目を丸くする中。周囲の人間の視線を一斉に浴びながら。 
 俺とパステルは、同時に立ち上がっていた。 
  
 ななな、何でこうなるのっ!? 
 マリーナの隣に立っている人。結婚式のときは、後姿しか見えなかったからよくわからなかったけれど。 
 こうして間近で見て……はっきりと思い出した。 
 間違いない……あの日、駐車違反で取り締まった、赤い髪の…… 
 トラップ。探偵事務所に勤めてて、わたし達警察官をバカにした…… 
 し、信じられない! 
「な、何であなたがマリーナと結婚するのっ!?」 
 気がついたら、わたしは随分と失礼な台詞を叫んでいた。 
 隣でクレイが「おいおい、パステル……」と腕をひっぱっているのがわかったけれど。 
 納得いかない!? マリーナなら、もっといい相手がいくらでもいそうなのに! 
「けっ、随分な言い草じゃねえか。俺が誰と結婚しようがおめえにゃ関係ねえだろ?」 
 そう言い返すトラップの顔は、随分と意地悪そうで。じろじろとわたしとクレイを見比べて、大げさにため息をついた。 
「で? おめえは俺達にだけ紹介させといて、自分の連れを紹介しようって気はねえわけ?」 
「〜〜〜〜〜〜!!!」 
 た、確かにそうだった。何のために、無理を言ってクレイを連れてきたんだか! 
「ご、ごめんね、マリーナ」 
「う、ううん、いいけど……パステル。あなた、トラップと知り合いだったの?」 
「ちょ、ちょっとね」 
 さすがに、おめでたい席で「駐車違反を取り締まった」とは言いにくかった。 
 無理やり笑顔を作って、クレイを紹介する。 
「同じ職場の、クレイ・S・アンダーソンさん。わたし達も、多分もうすぐ式を挙げることになるから……よかったら、来てね」 
「行くわよ、もちろん! かっこいい人じゃない」 
 そう言って、マリーナは深々とお辞儀をした。 
「パステルの友達のマリーナです。今日は、来ていただいてどうもありがとう」 
「いえ、こちらこそ、急に押しかけて……クレイ・S・アンダーソンです。君のことは、よくパステルから聞いてるよ。俺も、マリーナと呼ばせてもらって、いいかな?」 
「もちろん!」 
 良かった、仲良くやってもらえそう。 
 もし、マリーナがクレイを気に入らなかったら……そんなことは絶対無いって思ってたけど……と思うと、ちょっと怖かったんだよね。 
 結婚してからも、マリーナとは友達でいたい。だから、お互いの旦那様とも、仲良くやっていきたいもんね。 
 でも…… 
 チラリ、とマリーナの隣。彼女の旦那様になる人……を見上げる。 
 この人と……わたしは仲良くやっていけるだろうか? 
「トラップ。ほら、あんたも何か言うことはないの?」 
 マリーナに小突かれて、トラップはへらへら笑いながらクレイに手を差し出した。 
「どーも、よろしく。俺もトラップでいいぜ」 
「ああ。こちらこそ、よろしく。どうかクレイと呼んでくれ」 
「遠慮なく。……なあ、クレイ」 
 そう言って、トラップはぽん、とクレイの肩を叩いて言った。 
「あんた、ロリコンの趣味でもあんの?」 
 ………… 
 その場がシーンと水を打ったように静まり返った。 
 わたしも、クレイもマリーナも、トラップの言っていることがよくわからなくて。 
 けど……トラップのにやにやと笑う意地悪そうな目が、どこを見ているのか……その視線を辿って、言われた意味がわかって、瞬間的に血が上ってしまう。 
 な、な、な…… 
「ちょっと、トラップ! あんた、何失礼なこと……」 
「最低っ!!」 
 ばしゃあっ!! 
 相手が、これから結婚式を挙げる人だということ。 
 つまりは、高い衣装に身を包んでいたということ。 
 それらのことを綺麗に忘れて、わたしは、近くにあったグラス……中に入っていたのは、オレンジジュースだった……をつかんで、その中身を相手に浴びせていた。 
  
「あんたが悪いわよ」 
 マリーナの言葉はどこまでも冷たかった。 
 おいおい、それが仮にも夫に対して言う台詞かよ? 
「あんでだよ。本当のこと言っただけだろうが」 
「どこの世界に、初対面の相手に向かって『ロリコン?』なんて聞くバカがいるのよ、全く」 
 ホテルの一室。披露宴直前にオレンジジュースを浴びせられた服は、ホテルの人間の手によってクリーニングに出されている。 
 もっとも、それで式の時間が変わるわけでもなく。お色直し、とやらのために用意してあった別の衣装を着て、どうにかごまかしたんだが。 
 全く、思い出したくもねえ。 
 むきになったパステルの顔を思い出すと、何だか胸がもやもやしてきやがった。 
 俺の言葉にいちいち過敏な反応をして、ジュースを浴びせて、そのくせ後になって自分が何をしでかしたかに気づいて、真っ青になってぺこぺこ謝って。 
 何でだろうな。あの何つーか、どこまでも素直な目を見ていたら、何故だかからかってやりてえと思った。もともと言いたいことは素直に言う性質なんだが、パステル相手には、それが顕著になるっつーか。 
 まあとにかく。披露宴はどうにか無事に終わった。 
 今はホテルの部屋に俺とマリーナ、二人きり。明日からは新婚旅行に出かけることになる。 
「まさか、あいつがおめえの友達だったとはなあ」 
「そういえば、あんた、何でパステルのこと知ってたの?」 
「……ちっとな」 
 どうしてマリーナに言わなかったのか。その理由はわからねえ。 
 わからねえが、何となく教えようという気にはなれなかった。 
「まあ……大したことじゃねえよ」 
「ふうん。でも、あんた」 
 マリーナは、それ以上しつこく聞こうとはしなかったが。 
 そのかわり、俺の顔をひょい、と覗き込んで、言った。 
「パステルのこと、気にいってるでしょ?」 
「…………」 
 言われた意味を理解して、凍りつく。 
 何だそりゃ? どうしたらそんな結論が出てくるんだ? 
「ばあか、んなわけねえだろ。何で俺があんな幼児体型」 
「そうかしら。あんたのパステルに取る態度、子供と同じだったわよ」 
「はあ?」 
 わけがわかんねえ。そう言うと、マリーナはふふっ、と微笑んで、言った。 
「子供ってそうじゃない? 好きな女の子ほど、いじめたくなる……あんたのパステルに取る態度って、何だかそんな風に見えたから」 
「…………」 
 何だよ、そりゃ。 
 俺が、あのガキくせえ女を好き? 冗談も休み休み言ってくれ。 
 ぐいっ、とその顎をつかみあげる。唇を奪った後、ベッドに押し倒した。 
「おめえ、自分の旦那に向かって他の女が好きだろうなんて、普通言えねえだろ」 
「あら、わたしは思った通り言っただけよ? 言ったでしょ。あんたの考えなんて、お見通しなんだから」 
「バカ言え。今度ばかりはぜってえ外れだ」 
「どうかしら?」 
 笑みを浮かべるマリーナの服をはぎとる。 
 パステルの貧弱な体型とはまるで違う、めりはりの効いた身体が目に飛び込んできて、欲望をどうしようもなく煽った。 
「やきもちか?」 
「さあ。身体に聞いてみたら?」 
「そうさせてもらう」 
 ぐいっと胸をつかみあげて、白い肌にキスの雨を降らせる。 
 俺が好きなのは、マリーナのような、ナイスバディの、色気たっぷりな姉ちゃんだ。 
 断じて……あんな出るとこがひっこんでひっこむところが出てるような、幼児体型じゃねえ。 
 太ももに指をはわせると、既に溢れ始めた蜜が、俺の指にまとわりついてきた。 
  
 あんな人のことは忘れよう。 
 マリーナの結婚式から数ヶ月。今、わたしがウェディングドレスを着て、教会にいる。 
 数ヶ月前のことは、今でも脳裏にこびりついて取れない。 
 よっ、よりにもよって、クレイにろ、ろ、ロリコンだなんてっ…… 
「まあまあ。悪い奴じゃないみたいだし。俺は気にしてないよ」 
 って、クレイは笑ってたけどっ! 
 く、クレイは気にしなくてもわたしは気にしてるのよっ! そ、それってつまりっ、わたしが…… 
 ああもう、腹の立つっ! 
「パステル。顔、ちょっと怖いよ」 
 隣に立っているクレイが、苦笑して言った。 
 そういうクレイの姿は白のタキシード。そりゃあもう、会場からため息が合唱で漏れたくらいに、かっこいい。 
 結婚式だから、忘れようと思っているのに。 
 ここ数ヶ月、ずっとずーっとわたしはこんな調子で。そして今日も、やっぱりこんな調子だった。 
 どうかすると、あの赤毛の意地悪そうな顔が頭に浮かんでくる。言われた悪態の一つ一つが思い出されて、そのたびにかーっと腹が立って…… 
 ううっ、何でだろう。立ち直りが早い、過去をひきずったりしない、それがわたしだって、みんなに言われてきたのに。 
 何で、あの人……トラップのことになると、こうなるんだろう? 
 ふんだ、ふーんだ。それくらいひどい人だってことだよね? あんな失礼なこと言われたのは、生まれてこの方初めてだもん。そのせいだよね? 
 全く。あんな人がマリーナの旦那様だなんて、信じられない。 
 結婚式の間も、何故だか、わたしはトラップのことばっかり考えていた。 
 神父さんの声も、見事に耳を素通りしていく。 
 はあ。こんなはずじゃなかったのに。 
 結婚式って、普通女の子の憧れでしょう? 何でこうなっちゃうのかなあ。 
「永遠に愛することを、誓いますか?」 
 神父さんの言葉に、はっと我に返る。 
 気が付けば、みんなの視線が、わたしに集中していて…… 
「は、はいっ。ち、誓いますっ!」 
 勢い込んで言った瞬間、会場全体が失笑の渦に巻き込まれた。 
 ううっ……最低っ……結婚式。憧れの、結婚式があ…… 
 それもこれも、みーんな……あいつが悪いんだからっ!! 
 ちなみに、わたしがこれだけ腹を立てているのに。 
 当のマリーナとトラップの二人は、式を欠席してたんだよね。 
 トラップは仕事の都合がつかなくて、とか何とか。マリーナは、体調が悪いらしい。 
 マリーナが来れないのは残念だけど、トラップは来なくてよかったかもね。 
 絶対、こんなところ見られたらバカにされるに決まってるもの! 
 そうよ、そう。どうせ滅多に会うこともないだろうし。 
 このまま忘れちゃおう。それが一番いいことなんだからっ! 
「パステル、あの……指輪の、交換……」 
 クレイに耳元でささやかれて、わたしは慌てて振り向いた。 
  
「できちゃったみたいなのよね」 
「ああ?」 
 唐突に言われて、それが何を意味するのか、しばらくわからなかった。 
 ここんところでかい仕事が立て続けに舞い込んできて、新婚だっつーのに家にも帰れねえ日々が続いていたんだが。 
 まあ、そのせいで、パステルとクレイの結婚式にも出れなかったんだけどな。それは別に構わねえ。 
 どうせパステルに会ったら、またつまんねえこと言ってあいつを怒らせるだけだろうってのが、自分でもわかっていたから。 
 どうしてだか、ここ数ヶ月、あいつのことがよく思い出されるんだが……まあ結婚式にジュースを浴びせられる新郎なんて、そうはいねえだろうからな。それも無理はねえ。 
 そう自分に言い聞かせているときに、突然言われた言葉。 
「できた?」 
「そ。最近吐き気が止まらないから、変だなあって思ってたんだけど……おめでたですって」 
「…………」 
 俺が結婚式に行けなかったのは仕事があるから。だから、最初はマリーナだけが出席する予定だった。 
 それなのに、こいつも、当日になって吐き気と頭痛が止まらねえから、と、結局欠席した。 
 結婚式なんてそうそう行く機会もねえだろうに。こいつにしちゃ珍しい、と思っていたんだが。 
 こういうことかよ。 
「おめでとう」 
「他人事みたいに言って。あんたの子よ?」 
「わあってるよ、んなこと」 
 ここで「あなたの子じゃない」と言われたら、それはそれで斬新な経験と言えなくもねえが。 
 それにしても、子供、ねえ…… 
 特にいつもと変わらねえ体型のマリーナを見て、しみじみと首を傾げる。 
 全然実感がわかねえな。本当にこん中に、人間が一人入ってるのか? 
「まあ、まだ三ヶ月だからね。見た目にはわからないわよ」 
 俺の視線の意味がわかったのか、苦笑しながらマリーナは言った。 
「仕事は、まだ続けるけど。六ヶ月か……七ヶ月くらいになったら、産休取るから」 
「大丈夫なのかよ? 別に今やめたっていいぜ。俺の稼ぎだけでも食っていけるだろ?」 
「嫌よ。わたし、あの仕事気にいってるんだから」 
 マリーナは、ブティックの店長をやっている。 
 昔から服をいじるのが好きだったが、今の仕事が楽しくて楽しくて仕方がねえらしい。 
「でも、ね。子供が生まれたら、ここじゃ狭くなるから。今のうちに……わたしが満足に動けるうちに、もうちょっと広いところに引っ越したいんだけど」 
「ああ、そーだな」 
 言われてみりゃあ、そうだ。ぐるりと部屋を見渡して、納得する。 
 大学を卒業してから、マリーナと同棲するために借りた部屋。二人だから別に狭くてもいいだろうと思ってたが……確かに、子供が生まれたら、もうちっと広い部屋が必要だろう。 
「そだな。引っ越すか」 
「……あんた、本当に喜んでる?」 
「あにがだよ」 
 俺の返事に、マリーナはえらく不満そうな目を向けてきた。 
「何だか、すっごく他人事みたいって言うか……もうちょっと喜んでくれてもいいんじゃない?」 
「バカ言うな。喜んでるっつーの」 
「そうは見えないんだけど」 
 つん、と顔を背けるマリーナの肩をつかむ。 
 内心の動揺を悟られねえようにして、無理やり振り向かせたその唇を奪う。 
 そうだ。言われた通り。 
 確かに、俺は大して嬉しいとは思ってねえ。そもそも、マリーナと結婚した、ということ事態、大したことだと考えてなかったから。 
 今更子供ができた、と言われても。正直に言えば、戸惑いしか感じなかった。 
 もちろん、堕ろせ、なんて言うつもりは全くねえが。 
「喜んでるっつーの」 
 重ねてつぶやいた言葉は、我ながら、空々しい響きしかなかった。 
  
 新婚旅行の後、新居に引っ越す。 
 わたしもクレイも一人暮らしをしていたから、どっちかの家に、っていうのは無理だったし。 
 そう言うと、クレイのお父様……わたしにとってのお義父様が、「どうせ、いずれ子供も生まれるだろうから」と、ちょっと広めのマンションを買ってくれた。 
 クレイは必死に「いいって、別に」なんて遠慮していたけど。最終的には押し切られてしまった。 
 クレイの家は、由緒正しい家だから。お祖父様もお父様も、厳格というか……こうと言い出したら、聞かないようなところがある。 
「ごめん、パステル。勝手に決めて……」 
「ううん、いいよ、別に。素敵なマンションだし」 
 お義父様が買ってくれたのは、見晴らしのいい、本当に素敵なマンションだった。 
 3LDK、二人で住むにはちょっと広すぎるけれど、確かに、いずれ子供が生まれたら、これくらいの広さは必要かもしれない。 
 もっとも、自分で住む家だから、自分で色んな物件を見て選びたかった、っていう気持ちは、あるんだけどね。 
 まあ、しょうがない。 
「クレイ、そっちの荷物運んでー」 
「わかった。無理しないようにな」 
 そんなことを言いながら、引越し業者さんを手伝って二人でせっせと荷物を運んでいると。 
 隣の駐車スペースに、もう一台、引越しのトラックがやってきた。 
 うわっ、偶然。うちと同じ日に引越しかあ。 
「こんにちわ。どちらのお部屋ですか?」 
 愛想のいい業者さんが、運転席から声をかけてきた。 
「うちは、307号室です」 
「へえ。そりゃ、偶然。こちらは306号室なんですよ。うるさくするかもしれませんが……」 
「いえいえ、お互い様ですから」 
 お隣さんも、今日引越しなんだ。 
 すごい、偶然偶然……と思ったけど。よく考えたら別に不思議なことでも何でもない。 
 このマンションは新築だから、入居者もほとんどここ最近に入ってきた人達ばかり。今日は休日だから、お隣さんが同じ日に引っ越してきても、何の不思議もない。 
「パステル、どうした?」 
「クレイ。うちのお隣さんも、今日引越しなんだって!」 
「へー。じゃあ、挨拶しないとなあ」 
 言いながら、クレイが階段を降りてくる。 
 同時に、トラックの後ろに停まった車から、ばん、と二人の人が降りてきた。 
 その二人を見て……わたしは、かちーんと身体が強張るのがわかった。 
 見覚えのある、真っ赤な車。そこから降りてきたのは…… 
「お、おめえ……何でこんなとこにいるんだ!?」 
「あ、あんたこそっ……」 
「何、トラップ。どうしたの……ぱ、パステル!?」 
 トラップとマリーナ。わたしとクレイ。 
 四人は、しばらく挨拶も忘れて、ぽかんと顔を見合わせた。 
  
 冗談じゃねえぞ、おい。 
 子供が生まれるから、と引っ越すことになって。適当に場所と値段とその他もろもろを考えて「まあ、いいだろう」と思ったところに決めて。 
 何でそこで、こいつに会うんだよ!? 
 引越しが終わった夜。306号室……つまりは俺とマリーナの部屋だが……に、四人で顔をつき合わせて。 
 マリーナとクレイはのん気に「偶然ってあるものねえ」「お隣さんが君たちだったら、心強いよ」なーんて会話を交わしてやがるが。 
 パステルの目は、じーっと俺を見ている。が、何も言おうとしねえ。 
 ……まあだ根に持ってんのかよ。そんなに気にしてたのかあ? 自分の胸が小せえことを。 
「本当に偶然ねえ。パステル、ごめんね。この間は、式に出れなくって」 
「う、ううん。仕方ないよ。体調悪かったんでしょ? もう大丈夫?」 
「平気よ。別に、病気じゃなかったから」 
「え?」 
 言われた意味がわからねえのか、パステルはぽかんとしている。 
 クレイはわかったらしく、おめでとうと頭を下げているが……おい、普通女の方がこういうことには敏感なんじゃねえの? 鈍い女だな。 
「えと?」 
「変わってないわねえ、パステル……あのね、おめでたよ、おめでた」 
「……ああっ!」 
 やっとわかったのか、パステルは真っ赤になって、マリーナと、そして俺に向かって頭を下げた。 
「お、おめでとう」 
「けっ、鈍い奴」 
 つぶやくと、隣のマリーナにどつかれた。 
 ちらっと視線を上げると、パステルは、真っ赤になったまま、しっかり俺をにらんでいる。 
 この目……なんだよなあ。 
 考えていることがストレートに伝わってくる目。この目で見られると、どうも、何つーか……心の中まで見透かされたみてえで、下手に取り繕おう、なんつー気がなくなるんだよな。 
 ……あほらしい。何考えてんだ、俺は。 
 照れ隠しに立ち上がる。 
「どこ行くの?」 
「コーヒー入れる」 
「あ、わたしが行くわよ。あんたにまかせると、自分の分だけ入れそうだもの」 
 ……読まれてやがる。 
 その通りだったので黙っていると、後ろで、慌ててパステルが立ち上がるのが見えた。 
「ま、マリーナ、悪いよ。それに、そんな身体で……わ、わたしがやるから。ね、座ってて」 
「あら、でもパステル……」 
「いいの、いいの!」 
 言いながら、無理やりマリーナを座らせて部屋を出る。 
 ありがてえ。と座り直そうとした途端、 
「トラップ、あんたも手伝ってあげて。パステルだけじゃ、どこに何が置いてあるかわからないでしょう」 
 マリーナの声がとんできて、中腰のまま、一瞬固まってしまった。 
 ……ったく。世の中甘くねえよなあ。 
 仕方なく部屋を出る。まあまあ広いマンションだが、3LDKの間取りなんて、迷うほどのもんでもねえ。 
 が、廊下に出た俺が見たものは、おろおろと周りを見渡しているパステルの姿だった。 
「……あにしてんだ、おめえ」 
「えっ!? あ……」 
 振り向いたパステルの顔は、気まずそうだった。 
「あの……台所に、行こうとして……」 
「……まさか、迷った、とか言うなよ」 
「うっ」 
 俺の言葉に、あからさまに表情を変えるパステル。 
 ……マジかよ? 
 はああ、とため息をついて先に歩き出すと、後ろから、とてとてっと足音が響いてきた。 
「おめえ、自分の部屋だって同じ間取りだろうが」 
「……だ、だって……」 
「方向音痴にも程があるぜ。よくそんなんで婦人警官なんかやってられるなあ」 
 そう言うと、後ろでぐっと息を呑む気配がした。 
 振り向くと、パステルは、唇をかみしめてうつむいていた。 
「……どした?」 
「もう、やめたもの」 
「あ?」 
「だから……もう、やめたの。結婚したから」 
「…………」 
 ああ、そうか。そりゃそうだよな。 
 寿退社、って奴か……まあ、それが普通なんだろう。 
「……いいんじゃねえの? 専業主婦なんて、気楽そうで」 
「…………」 
 パステルからの返事は、無い。 
 だが、その顔は、やけに不満そうだった。 
「どうしたんだよ」 
 言っているうちに、台所につく。やかんを火にかけて、コーヒーとカップの準備をする。 
 パステルも、何か手伝おうとしたみてえだが、勝手がわからないのか、手を出しかねているようだった。 
「どうしたんだよ?」 
 湯が沸くまでの間、手持ち無沙汰だったので、重ねて聞くと。 
 パステルは、気まずそうにつぶやいた。 
「マリーナは……すごいね」 
「…………」 
「ブティックの、店長さんなんでしょ? 結婚しても続けてて……赤ちゃんができても、まだ働いてるんだって? 本当に、すごいよね」 
「まあ、好きな仕事みてえだからな」 
 しゅんしゅんと、煙が吹き出す。 
 最新式の電気コンロのキッチン。湯が沸くのもあっという間だ。 
 ただ、何故か……無意識のうちに、火力を落としている自分に気づいた。 
 湯が沸くのが、少しでも遅くなればいい。一瞬だが、確かにそう思った。 
 ……何でだ? 
「わたし……何をやっても、彼女にはかなわなくって。何だか……仕事をやめるのも、ただお義父さん達が『やめればいい。結婚したら女は家にいるべきだ』って言われて、そんなものかなあって思って……何だか、情けないなあって思っちゃって」 
「…………」 
 マリーナの親友、と言っていた。 
 けど、親友だからって……いや、親友だからこそ、だろうな。 
 あまりにもできすぎた友人だから、劣等感を抱く。 
 俺にはその気持ちはよくわかんねえが、言っていることは、わかる気がした。 
「おめえはマリーナじゃねえだろ」 
 気がついたときには、俺は、思ったことを素直に口にしていた。 
 何でだろうな? 
 こいつの、こんな顔……こんな暗い顔を、見たくねえと思ったのは…… 
「おめえはマリーナじゃねえんだから。別にマリーナのことを気にする必要は、ねえんじゃねえの?」 
「…………」 
「マリーナにできておめえにできねえことは、そりゃあたくさんあるかもしれねえけど。でも、その逆のことも、多分いっぱいあると思うぜ」 
 どれだけ火力を弱めたところで、いずれは絶対に沸騰する。 
 完全に沸いた湯を、カップに注ぐ。 
 コーヒーの香ばしい匂いが、部屋いっぱいに広がった。 
「……ありがとう」 
「あ?」 
「そう言ってもらえて、嬉しい」 
 顔をあげたパステルの顔は、もう元のまま。明るい笑みを、浮かべていた。 
「ごめんなさい。わたし、あなたのこと、誤解していたみたい」 
「…………」 
「何て嫌な人だろう、って、最初は思ったんだけど。ごめんなさい。そんなこと言ってもらえるなんて、思わなかった」 
 そう言って口元をほころばせた、パステルの顔は……何故だか、とても魅力的に見えた。 
「おめえも」 
「え?」 
「おめえも……」 
 何を言おうとしたのかは、自分でもよくわからねえ。 
 だが、パステルの顔を見ているうちに、言葉を止められなくなって…… 
 その瞬間。 
「あっ、トラップ……お湯、お湯!」 
「あ? ……熱っ!!」 
 どばっ!! 
 ボーッとしながら注いでいたせいで、カップから溢れ出した湯。 
 それが、テーブルについていた俺の手に、もろにふりかかった。 
「あーっ……やっちまった……」 
「早くっ、水に浸して!」 
「あ?」 
 ぐいっ 
 パステルの手が、俺の手をつかんだ。そのまま、流しに無理やりひっぱっていって、思いっきり水を浴びせ始める。 
「お、おい……」 
「じっとしてて。火傷のときは、すぐに水につけないと。痕が残っちゃうよ」 
 いや、そうじゃねえって。 
 間近に感じる、パステルの身体。 
 ほのかに香るのは、シャンプーの香りか…… 
 痛いくらいに心臓がはねている。……どうしたんだ、俺。何で、こんなに…… 
「ねえ、火傷の薬とか、ある? 無いなら、うちのを貸すけど……」 
「……いや……」 
 パステルの奴は大げさに言ってるが、大した火傷じゃねえ。ちょっと皮膚が赤くなっている程度。こんなもん…… 
「なめときゃ治るって」 
「駄目だよ、そんなのばい菌が入ったらどうするの!」 
 ぐいっ、と手をつかまれる。 
 すぐ近くに、パステルの顔があった。 
 白い頬、桜色の唇。意外と長いまつげ。そんなものが、目に飛び込んできて。 
 無意識……だった。無意識のうちに、俺は、その身体を抱き寄せようとして…… 
「ちょっと、トラップ。遅いじゃなーい、何やってるのよ!」 
 廊下から響いてきた声に、俺は反射的にとびすさった。 
 俺の過敏な反応に驚いたのか、パステルは、ぽかんとしている。 
 俺……今、何、しようとしてた……? 
「トラップ! 何やってるの?」 
 ひょいっ、とマリーナが顔を覗かせる。 
 俺とパステルを見て、不審そうな表情をしたが、テーブルの上の惨状を見て、納得したようだった。 
「あーあ、もう何やってるのよ。このテーブルクロス、買ったばっかりだったのに」 
「ああ……わりい」 
「いいけどっ。パステル、大丈夫? 怪我しなかった?」 
「ううん、平気。わたしは」 
 てきぱきとテーブルを片付けるマリーナを見ながら。 
 俺は、何故だか……消えることのねえ罪悪感に、悩まされていた。 
 マリーナが来てくれて助かった、という思いと。 
 もう少し、来るのが遅ければ……という矛盾した思い。 
 そのどちらもが、確かに胸のうちにあることを、実感していたから。 
  
 あれは、何だったんだろう…… 
 トラップとマリーナに別れを告げて、自分の部屋に戻った後。 
 ベッドの中で、わたしはぼんやりと考えていた。 
 あのときの、気持ち。 
 火傷をしたトラップの手を、無我夢中でひっぱって。 
 そのとき、間近に感じたトラップの身体。 
 意外と大きな手。 
 端正な顔立ちに、どきり、としたのは……何だったんだろう? 
 そして。 
 マリーナが来て、トラップが飛びのいた瞬間、すごく残念に思ったのは。 
 もっと近くにいたかった……そう思ったのは、一体何なんだろう? 
「パステル? ボーッとして、どうした?」 
「あ……ううん、別に」 
 がちゃり、とドアを開けて、クレイが入ってくる。 
 ほのかに石鹸の香りがするのは、お風呂上りだから。 
 部屋数は十分にあるんだから。別に個室を持ってもよかったんだけど。 
 結婚してるんだから……と、寝室は同じ。 
 大きなダブルベッド。そこで、わたしはクレイと眠る。 
 ぱちんと明かりが消えて、ベッドに暖かい身体がもぐりこんでくる。 
 そっと肩に伸ばされる手を、一瞬でも払いのけたいと思ったのは……何で? 
 もちろん、わたしとクレイは結婚しているから。 
 結婚式の後、新婚旅行のとき、その後も……何回だって、その、抱かれてはいるのに。 
 とても優しくて。初めてのときは、そりゃあ、少しは痛かったけれど。でも、十分にわたしのことを気遣ってくれる、とても人柄の表れた夜の営み。 
 何故だろう。今日は……嫌だと思った。 
 トラップの手のぬくもりを、失いたくないと思った。 
「ごめん。今日、疲れてるから……」 
 そうつぶやくと、クレイは優しく笑って、素直に手をひっこめてくれた。 
 クレイは優しい。 
 とても優しくて、いい人。何一つ欠点なんか無いし、不満に思うことなんか何も無いはずなのに。 
 どうして……こんな気分になるんだろう。 
 くるりとクレイに背を向けて。わたしは静かに涙を流していた。 
 どうして……こんなに満たされないんだろう? 
 穏やかで何の不満もなくて、でもそれだけ。 
 何一つ心惹かれるものがない。とてもとても空虚な、結婚生活。 
 結婚って……こんなものなんだろうか。 
 わたしの問いに、答えてくれる人はいなかった。 
  
 隣に住んでるんだから、仕方ねえ。 
 そうわかっていても……感情がそれに追いつかなかった。 
 部屋を出るとき。帰ってくるとき。 
 身重のマリーナにかわって買い物に出かけるとき。 
 そんなとき、偶然にパステルと顔を合わす。 
 ただの偶然で、別に意図的に会おうとしてるわけじゃねえ、はず……なのに。 
 なのに、日を追うごとに、その回数は増えていって。 
 そして、そのたびに、何がしかの会話を交わして……別れる。 
 あいつが背中を向けるたびに思う。 
 追いかけてえ、と。 
 追いかけて、抱きしめてやりたい、と。 
 否定できねえ。こうなっちまったら、もう自分の気持ちを認めるしかねえ。 
 俺はあいつに惹かれている。どうしようもなく、惹かれている。 
 マリーナのことが嫌いになったわけじゃねえ。別にあいつには何の不満もねえ。 
 だが……結婚したときもそうだった。 
 俺は、そもそもマリーナを愛していたのか? 
 好きだったのは確かだ。でなけりゃ、20年も幼馴染なんかやってられねえ。 
 顔も考え方も身体も、何もかもが魅力的だった。 
 けれど……それでも。 
 「好き」ではあったが、「愛して」はいなかったんじゃねえか。 
 今更、そう思う。 
 本当に……今更だ。 
 探偵という職業上、休みの時間はかなりまちまちだ。 
 マリーナのいない部屋。一人になったとき、どうしようもない後悔が襲ってくる。 
 本当に今更だ。今更離婚なんてできるわけもねえ。マリーナの腹は確実にでかくなっていって、その中には、確かに俺の子供がいて。 
 今更あいつを捨てるなんてこと、できるわけもねえ。マリーナは何も悪くねえのに。 
 それなのに……どうして、あいつが……パステルのことが、忘れられねえんだ? 
 パステルだって結婚してるのに。例えば……何かの理由で、俺がマリーナと別れたとしても。それでパステルを手に入れることができるわけじゃねえのに。 
 何で、今更こんな思いに気づくんだよ。 
 どん、とテーブルに拳を叩きつける。 
 思えば、結婚するとき。 
 一緒にいるのが自然だと思ったから、何となく口にした。 
 あのとき、もしマリーナが「何言ってるの? 嫌よ」と言ってきたとしても。多分、俺は特別にショックを受けなかっただろう。 
 まあそうだろうな、なんつって、納得したと思う。 
 その程度の思いで、軽々しく口にした契約。 
 それが、こんなに……自分を縛ることになるなんて…… 
 ぐちゃぐちゃになった頭を冷やそうと、立ち上がる。 
 気晴らしに、どっかに出かけよう。一人で考えてても……気分が滅入るだけだ。 
 車の鍵を手に、俺は立ち上がった。 
 窓の外では、雨が降り出していた。 
  
 何で……だろう。 
 クレイが仕事に出かけてしまって、一人になった部屋で。 
 わたしは、震える身体を抱きしめていた。 
 何で、こんな気持ちになるんだろう? 
 ここに引っ越してきてから、一ヶ月。 
 その間、出かけるたびに、隣のドアを気にしてしまう。 
 そこから、赤毛頭が顔を覗かせるのを、期待してしまう自分がいる。 
 どうして……こんなに、あいつのことが気になるの? 
『おめえは、マリーナじゃねえだろ』 
『おめえにしか出来ねえことだって、いっぱいあるんじゃねえ?』 
 初めて……だった。 
 わたしに、そんな風に言ってくれた人は、初めてだった。 
 もちろん、それは当たり前のこと。わたしがマリーナにそんな気持ちを抱いているなんて、誰にも言っていない。 
 トラップにしか……言っていない。 
 どうして、トラップになら言えたんだろう。 
 ずっと隠していた気持ちを、どうして彼に、言おうって思ったんだろう? 
 外に出るとき、帰るとき。 
 偶然にトラップと出会ったとき、何気ない会話を交わすとき、胸が痛いくらいにドキドキするのは……何で? 
 わかっていながら、問いかけずにはいられなかった。 
 わかっていた。わたしは、トラップに惹かれている。 
 もしかしたら、初めて出会ったときから好きだったのかもしれない。今になって、そんな風にさえ思う。 
 思っても、仕方ないのにっ…… 
 涙が頬を伝うのがわかった。 
 クレイは相変わらず優しい。この一ヶ月間、わたしがずっと抱かれるのを拒否し続けていても……それでも、ちっとも怒らない。 
 気分が乗らない、疲れた、生理中で…… 
 言い訳はもう使いつくしてしまって。今では黙って背中を向けていることがほとんどなのに。 
 それでも、理由を聞こうともしない。「そういうときもあるよ」って優しく笑うだけ。 
 どうして……クレイはそんなにいい人なの? 
 涙が止まらなかった。 
 クレイは何も悪くないし、決して嫌いになったわけじゃない。 
 今更別れることなんてできない。そんなことは、あの規律を重んじるお義父様やお祖父様が、決して許さないだろう。 
 第一っ……別れて、それでどうするっていうの? 
 トラップは、わたしの親友、マリーナの旦那様なのに…… 
 もうすぐ、子供だって生まれるっていうのに。 
 今更……わたしが彼らの間に入り込む隙間なんか、どこにもないのに! 
 涙を拭って立ち上がった。 
 買い物に行かなくちゃ。夕食の、準備も…… 
 せめて、わたしはちゃんと妻の役目を果たさないと。 
 クレイに対して……申し訳が立たない。 
 鍵と財布だけを手に、わたしは立ち上がった。 
 がちゃり、と外に出る。そして…… 
 足が、止まった。 
 わたしが部屋を出るのと全く同時、隣の部屋のドアが開いた。 
 立っていたのは、ついさっきまで、ずっとわたしの心を占めていた、人。 
 トラップ。 
「トラップ……」 
「パステル」 
 トラップも、驚いたようだった。ポロシャツにジーンズというラフな姿。今日は……仕事じゃ、なかったの? 
「で、出かけるの?」 
 口にしてから、間抜けな質問だなあ、と思ってしまう。 
 出かけるんでなきゃ、何のために外に出てきたのよ。 
 案の定、トラップは微妙な笑みを浮かべて、頷いた。 
「おめえは……買い物か?」 
「うん……」 
 頷いて、鍵をかける。 
 早く、別れよう。 
 話していればいるだけ、辛くなるんだから。 
 そうして、その前を走りぬけようとしたとき。 
 ぐっ、と腕を捕まれた。 
「……何?」 
「おめえ、傘持ってねえの?」 
「……え?」 
 言われて、そして初めて、わたしは雨が降り出していることに気づいた。 
「あ……降ってきたんだ……」 
「車は?」 
「クレイが、使ってるから」 
 もちろん、わたしも免許は持っているけど。 
 別に特別運転が好き、というわけでもないし。正直に言えば下手な方だったので、結婚してからは、一度も乗っていない。 
「傘、取ってこなくちゃ」 
 そう言ったけれど。何故か、トラップは、手を離してくれなかった。 
「あの……」 
「……送ってってやろうか」 
「え?」 
 ちゃりっ、と見せられたのは、車の鍵。 
「どこに行くつもりだったんだ? 送ってってやろうか……どうせ、暇だし」 
 どぐん、と、大きく心臓がはねた。 
 やめておいた方がいい、と、理性は警告していたけれど。 
 それでも……止められなかった。 
 一緒にいたいと思ってしまうことを、止められなかった。 
「……いいの?」 
「ああ」 
「じゃあ……お願い」 
 歩き出すトラップの後をついていく。 
 今日、わたしは、もしかしたら…… 
 何かを壊してしまうかもしれない。そう思った。 
  
 助手席に座るパステルの腕が、わずかに俺の腕に触れた。 
 意識してやがる。そう感じて、自分の頭を殴りつけたくなった。 
 何で……俺は、こんなことしてるんだ? 
 シートベルトを締めて、エンジンをかける。 
 何で、俺は……こんな、自分から泥沼にはまるようなことを、してるんだ? 
「どこに行くんだ」 
「スーパーに、お願い……」 
 パステルの声は、心なしか元気がねえようだった。 
 けれど、それで「どうした?」と聞いてやる余裕もねえ。 
 クレイがいねえと聞いて(そりゃあ当たり前だな。あいつは俺と違って、立派な公務員だからな)。 
 そして、マリーナもいねえ。 
 二人とも、夜になるまで帰ってこねえ。 
 そう気づいたとき……胸にこみあげてきたのは、強烈な欲求。 
 こいつと一緒にいてえという思い。それに気づいたときには、もう声をかけていた。 
 パステルはぼんやりと、窓の外を眺めている。 
 ……こんなに、近くにいるのに。 
 ギアを入れ替える。目的地のスーパーは、車なら数分の距離だ。 
 バックで駐車する。 
「……ついたぜ」 
「ありがとう」 
 別に、俺がついていく必要はねえ。 
 戻ってくるまで、車の中で待ってりゃいい。買い物に、そう時間がかかるはずもねえ。 
 そう思っていたのに。気がついたら、エンジンを切って、シートベルトを外していた。 
「トラップ?」 
「……車ん中にいても、退屈だしな」 
 下手な言い訳だと思いながら、外に出る。幸いなことに、パステルは大して気にもとめてねえようだったが。 
 そうして、二人でスーパーの中をめぐる。ついでに、俺も明日のパンや牛乳を買っていくことにした。 
 もしかしたらマリーナが買ってくるかもしれねえが……まあ、余ったら余ったで、そんときだ。 
「払おうか?」 
 俺が籠に商品を放り込んでいると、パステルが笑顔で言った。 
「送ってくれたお礼」 
「別にいいって」 
「けど、会計一緒に済ませちゃった方が、いいと思うよ?」 
 言われて振り向く。 
 納得した。時間帯の問題かもしれねえが、レジは、戦場のような有様だった。 
 籠にてんこ盛りに商品をつめこんだばばあどもが、ずらりと列を成している。 
「……頼む」 
 意地を張るほど大した金額の買い物でもねえ。 
 俺は、籠を戻して、自分の商品をパステルの籠に入れた。 
 そのまま、ぐるりと店内を一回りする。 
 二人分の食事なんか、大した量じゃねえということか。買い物は、あっという間に終わった。 
 レジに並ぶ。運がいいっつーのか。たまたまそのレジに並んでいた客の買い物量が少なくて、あっという間に順番がまわってきた。 
「これ、お願いします」 
「いらっしゃいませ」 
 パステルが籠を載せると、店員はすげえスピードでスキャンを始めた。 
 なるほど。プロの店員ってのはすげえもんだな。 
 思わず感心してその手元を眺めていると、眼鏡をかけたその店員は、俺とパステルを見比べて、にこやかに言った。 
「いいですねえ、奥さん。優しい旦那様で」 
 ……は? 
 言われた意味がわからなくて、しばらく、パステルと二人でぽかんとする。 
「なかなかいないですよお? 買い物につきあってくれる旦那様って。男ってどうしてああ、勝手なんでしょうねえ」 
 言いながら、スキャンを終えて「1780円になります」と告げる。否定する暇なんか、全く無かった。 
 その声に、パステルが財布を取り出しているのが見えたが……俺は、急に気恥ずかしくなって、そこから目をそらした。 
 旦那様、ね。 
 ……もし、本当にそうなれたら…… 
 パステルが、商品を袋に詰めている。あらかじめ別の袋をもらっていたのか、俺の分と、わざわざ別々に入れてくれているらしい。 
「わりいな」 
「別に……ごっちゃになったら、後が面倒じゃない? ……お待たせ。じゃあ、帰ろうか」 
「ああ」 
 促されて、店の外に出る。 
 雨は、何だか余計に強くなったように見えた。 
  
 外に出たら、雨が強くなっていた。 
 駐車場までは、ほんのわずかな距離なのに。何とか車の中に戻ったときには、ちょっと寒いと感じるくらい、身体が濡れてしまっていた。 
「あー、ったく。傘持ってくるんだったぜ」 
 隣にすべりこんできたトラップが、ぼやいているのが聞こえた。 
 そんな彼の身体も、このわずかな距離でびっしょり濡れてしまっていて。 
 薄いポロシャツが身体にはりついているのを見て、思わず目をそらす。 
 止まらなかった。 
 出会ったときから、ずっと痛いくらいにドキドキいっている心臓。 
 それが、ちっとも……止まらなかった。 
 がさり、と、荷物を後部座席に移す。 
 わたしの買い物と、トラップの買い物。二つにわけられた、荷物。 
 きゅいん、という小さな音とともに、車が走り出した。 
 後数分もすれば、家について……そして、また別れなくちゃいけない。 
『いいですねえ。優しい旦那様で』 
 店員さんの、何気ない言葉が……何だか、すごく痛かった。 
 旦那様じゃない。 
 あのとき、どうして否定しなかったのか。わたしには、クレイという立派な夫がいて、トラップには、マリーナという素敵な奥さんがいて…… 
 それなのに。 
「……ついたぜ」 
 きっ、と車が止まる。顔をあげれば、外には、見慣れたマンションの建物が、目に入った。 
 ……もう、ついたんだ。もう、お別れなんだ。 
 ぎゅっ、と唇をかみしめる。 
「……ありが……」 
 ぐいっ 
 お礼を言って、外に出ようとして。 
 その瞬間、腕をつかまれた。 
 半そでの服からむきだしになった、腕。トラップの手がやけに熱いのが、印象的だった。 
「トラップ……」 
「何で、泣いてんだ?」 
「え……?」 
 言われて、頬に手をやって初めて気づく。 
 いつの間にか、わたしの目から、涙が零れ落ちていたことに。 
「違うっ……これは……」 
「何で……泣くんだよ」 
「違うっ……」 
 何が違うのか、自分でも説明できなかったけれど。 
 それでも、わたしは言うしかなかった。 
 違う、この涙は……あなたとは、何の関係も無い。 
 だから、だから…… 
 ……優しい言葉なんか、かけないでっ…… 
「違うの、何でもないの! お願い、気にしないで……」 
「できるわけ、ねえだろう!?」 
 そう言われた途端。 
 わたしは、力強い腕に、抱きすくめられていた。 
 それはとても荒々しくて、正直に言えばちょっと苦しいとさえ思う、そんな乱暴な抱擁。 
「やっ……トラップ……」 
「何で、なんだよ……」 
 肩に顔を埋めるようにして、トラップはつぶやいた。 
「何で、こんなにおめえのことが気になるんだよ!? お互い結婚してるっつーのに……子供だって生まれるっつーのに……あんで……」 
 トラップの身体は、震えていた。 
 わたしの身体も、震えていた。 
 窓を叩く雨の音だけが、しばらく響いていた。 
 トラップ。 
 それは……それは、つまり…… 
「わたし、も……」 
「…………」 
「わたしもっ……トラップのことがっ……」 
 溢れる涙で、うまく声に出せない。 
 それでも、わたしは必死にしゃべっていた。 
「どうして……こんな気持ちになるのかわからなかった。トラップのことが、どうしてこんなに……忘れられなくなるのかっ……わたし、わたしは……」 
 ぎゅっ 
 トラップの腕に、力がこもった。 
 一瞬息がつまるほどに、強い力。 
 そして。 
 乱暴に身体が離された。その瞬間、響いたのはエンジン音。 
「トラップ……?」 
 彼は何も言わなかった。ただ、じっと前方を凝視していて…… 
 車が走り出した。どんどん遠ざかっていくマンション。 
 でも、わたしは、停めて、とは言わなかった。 
 言いたくも、なかった。 
  
 どこに行こうなんて、目的があったわけじゃねえ。 
 ただ、家から遠ざかればいいと思った。 
 パステルの涙を見た瞬間、悟った。 
 もう、離れられねえ。俺はこいつから……離れることができねえ。 
 車を飛ばしているうちに、裏道に出たのは……いかがわしい店が立ち並ぶ通りに出たのは、別に狙ったわけじゃなかった。 
 それでも。けばけばしいネオンの明かりを見た瞬間……抑えきれねえ欲望が身体の奥からこみあげてくるのが、わかった。 
 車がどこを走っているのか、この界隈を通る男女が何を目的にしているのか、まさかわからねえわけじゃねえだろうが。パステルは何も言わなかった。 
 何も言わず、ただじっと、俺のことを見つめていた。 
 ……あの言葉は、空耳……じゃねえよな? 
 耳に届いた、あまりにも都合のいい言葉。 
 まさか、と思った。 
 まさか、こいつも。俺と同じ思いに苦しんでいたっていうのか? 
 まさか…… 
「トラップ……」 
 ドキン 
 つぶやかれる一言が、心を揺さぶる。 
 運転に集中しようとしても。全神経がパステルの言葉に傾けられるのを、止めることができなかった。 
「連れてって……」 
 小さな声だった。油断したら絶対聞き逃したと思うような、小さな声。 
 それでも、俺はしっかり聞いていた。聞いてしまっていた。 
「連れてって……どこか、二人っきりになれるところに」 
「…………」 
 その意味がわからねえほど、俺はバカじゃねえ。 
 どこでもよかった。時間も値段も気にしねえ。二人っきりになれさえすれば、それで。 
 俺は、ぐっとハンドルを切ると、一番近くに見えたホテルの駐車場に車を向けた。 
 最近の、こういうホテルは……フロントの人間と、顔をあわせねえ作りになっている。 
 駐車場から、自動販売機みてえな機械に金を入れて、鍵を受け取って、そのままエレベーターに乗っちまえばいい。 
 探偵として何度も張り込みをしているうちに覚えた、絶対に使うこたあねえだろうと思っていた知識。 
 今は、それが役立った。 
 どうしようもない罪悪感が胸を圧迫したが。それ以上に、本能が勝った。 
 無言でパステルの手を引くと、全く抵抗なくついてくる。 
 ……こんなとこに来たのは、初めてなんだろうな。 
 つかんだ手が震えていた。それでも、足を止めようとはしなかった。 
 入った部屋は、大して広くもねえ。狭い面積ほとんどいっぱいをベッドが占めていて。 
 ガラスドアの風呂場と、トイレ。アダルトビデオが並んだ棚と大きなテレビ。天井にはまった鏡。 
 悪趣味な部屋だな、という感想しかなかった。そんな部屋でも…… 
 俺とパステル、二人っきりだった。それで十分だった。 
 ドアを閉めて、鍵をかける。 
 抱きすくめたパステルの身体は、どこまでも柔らかく、暖かかった。 
  
 乱暴に抱きすくめられた。耳元に触れる熱い吐息に、全身が震えるような快感が走った。 
 トラップが欲しいと、ただそれだけを考えていた。 
 クレイのことも、マリーナのことも、何もかも頭から消えてなくなって。 
 ただ、目の前にいる彼のことだけしか、考えられなかった。 
 痛いくらいに強く唇が押し付けられ、舌がからみとられた。 
 強引で、自分勝手で、それでも、わたしの心に火がついたような情熱を与えてくれる、キス。 
 ただ優しいだけで、何一つ潤いを与えてくれないクレイとは違う。ただ穏やかなだけで何一つ刺激のないクレイとの生活とは、違う。 
 わたしはずっと……こういう刺激が欲しかったのだと。優しくなくてもいい。意地悪でも、冷たくても……それでも、いざというときに愛されていると実感できる、そんな生活が送りたかったんだと。 
 今更ながらに、そんなことを実感する。 
 広いベッドに身体が投げ出された。のしかかってくるトラップの身体に、そっと腕をまわす。 
 言葉は何も出なかった。ただお互いの荒い息だけが、耳に届いていた。 
 半そでのブラウスと、膝丈のスカート。 
 脱がす時間さえも惜しいのか。トラップの手が、ボタンを外そうともせずに無理やり中にもぐりこんでくる。 
 ぶつんっ、という音がして、ボタンが一つ、弾け飛んだ。 
 同時に、わたしの理性も、弾けとんでいた。 
 何も考えられない。わたしはずっとこのときを待っていたから。 
 ずっと、トラップのことだけをっ…… 
 ぐいっ 
 ブラウスと一緒にブラジャーが捲り上げられて、胸があらわにされた。 
 散々小さいと、幼児体型だとバカにしてきたくせに。 
 それを目にした途端、トラップはただ一言、「綺麗だ」とつぶやいた。 
 何て、似合わない言葉だろう。そう思うと、自然に笑みが漏れた。 
 舌が胸を這い回り、わたしの心に、身体に、ぞくぞくするような満足感を植えつけてくれる。 
 自然に声が漏れた。ひどく淫らで、はしたなくて。後で自分で聞いたならば、その場で舌をかみきってしまいたいと思うに違いない、それほどまでに派手な声。 
「ああっ……や、やあん……あ、はあっ……」 
 スカートの下で、パンティがひきおろされた。 
 脚の間にトラップの脚が割り込んで、閉じようとしても閉じられなくなる。もっとも、閉じようなんて気持ちは……ちっとも、なかったんだけど。 
 こんな気持ちを味わったのは初めてだった。 
 クレイとの性生活で、これだけ乱れたことはなかった。 
 いつだってただもくもくと行為を終わらせていただけ。不快だったわけでも痛かったわけでもないけれど、そのかわり特別に気持ちいいとも思えない、そんな経験しかなかった。 
 だからこそ。生娘だったわけじゃないのに。その行為が……ひどく新鮮なものに思えた。 
「やあっ……」 
 生暖かい感触を「ソコ」に感じて、ぞくりと全身が震えた。 
 ぐじゅりっ 
 やけに生々しい音。わたしの内部で暴れるのは、指よりも柔らかく、そして暖かいもの。 
「やあっ……や、あ、ああっ……」 
「…………」 
 ふっと、顔を上げたトラップと、視線が交じり合った。 
 お互い、目を見ただけで……次に何が起こるのか、わかった。 
 わたしの身体は、もう十分に反応しきっていて。決して口には出せなかったけれど、それを望んでいたから。 
「お願いっ……」 
 そうつぶやいたとき、トラップの目に走った光は……ひどく満足そうな、そんな光。 
 ふと、避妊をしていないことに気づいたけれど。それでもいいと思った。 
 それでもいいと思った。余計なもので隔たりを作りたくはなかった。トラップを、そのまま、感じたかった。 
 身体が繋がった瞬間、漏れ出たあえぎ声は、ほとんど悲鳴に近かった。 
  
 何度か腰を突き動かしただけで、呆気なく果てた。 
 果てた、と思った瞬間、すぐに勢いを取り戻す自分に驚いた。 
 純粋に身体だけで言うのなら。行為に慣れきって、素直に反応を示すマリーナの身体のほうが、余程いい。 
 そのはずなのに。処女ではなかったにしろ、やけに硬くて、ぎこちなくて、そのくせ妙に締め付けのいいパステルの身体は、どこまでも、俺の欲情を煽った。 
 こんな満足感を得たのは初めてだった。マリーナの身体を抱くときに、これほどまでに溺れたことはねえ。 
 いつだってどこか冷めていて、ただたまった欲望を排出する、そんな程度の意味しか見出せなかったマリーナとのセックスとは違う。 
 ……パステルっ…… 
 力尽きるまで腰を動かし続けた。 
 パステルの唇から漏れる声が、目から溢れる涙が、ばら色に染まる頬が、何もかもが俺を誘っているようだった。 
 普段のガキくさい容姿からは信じられねえほどに乱れるその姿は、立派な……女、だった。 
 何度パステルの中で果てたか、とても覚えきれねえ。 
 それほどまでに抱き続けて、やっと俺が動きを止めたとき。 
 既に、時計の針は、随分と進んでいた。 
「……パステル……」 
 声をかけると、ぎゅっ、と腕がからみついてきた。 
 俺の胸に顔を押し付けるようにして、小さな、小さな囁き声が漏れる。 
「一緒に、いたい……」 
「…………」 
「離れたく、ない」 
「……俺もだ」 
 ずっと、こうなることを望んでいた。 
 思ったよりもずっと小さなパステルの身体を抱きしめて。 
 俺達は、ベッドの中へと潜り込んだ。 
  
 ホテルを出たのは、早朝のことだった。 
 まだまだ外は暗いけれど、東の空がやっと明るくなる……そんな時間。 
 無言で車を走らせるトラップの表情からは、何を考えているのか、よくわからなかった。 
 身体中に残された、トラップの痕。 
 きっと、しばらくは消えないだろう、痕。 
「トラップ……」 
「…………」 
 朝は、道が空いているから。 
 マンションには、あっという間についてしまった。 
 戻らなくちゃいけない。いっそ、このまま逃げてしまいたいと思ったけれど。 
 それだけは、できない。 
 クレイに迷惑をかけるわけには、マリーナに迷惑をかけるわけにはいかない。 
 そっと車を降りて、マンションに向かう。 
 わたしが外に出ても、トラップは、車に残ったままだった。 
「トラップ?」 
「一緒に戻ったら、やべえだろ」 
 素っ気無い言葉だけが返って来る。 
 けれど、彼の言うことはもっともだと思ったから。わたしは、それ以上何も言わないことにした。 
 ゆっくりと階段を上る。鍵を開けるとき、手が震えているのがわかった。 
 クレイは、寝ているかもしれない。 
 そう思って、なるべく音がしないように、と静かにドアを開けたけれど。 
 そっと部屋に足を踏み入れたとき、わたしを出迎えたのは、煌々と照らされた明かりだった。 
「……クレイ」 
「パステルっ……どこに行ってたんだ、こんな時間まで!」 
 ガタン、と、椅子に腰掛けてうなだれていたクレイが立ち上がった。 
 その目は真っ赤で、寝ていないことが一目でわかった。 
 ……仕事で疲れているはずなのに。 
 今日だって、この後仕事があるはずなのに。 
 わたしを……一晩中、待っていてくれた? 
「ごめんなさい……」 
「パステル?」 
「ごめんなさい、わたし……」 
 言えない。 
 こんなにもわたしを愛してくれているクレイに、今更……言えない。 
 多大な迷惑をかけるだけで、喜ぶ人なんか誰もいない。これはわたしの我がまま。 
 ひどく残酷な……わがまま。 
 涙があふれてきた。ただしゃくりあげるような声しか出せないわたしを、クレイは黙って抱きしめてくれた。 
「無理に言わなくてもいいよ」 
「…………」 
「俺は、パステルを信じてるから……疲れたんじゃないか? 少し、休んだ方がいいよ……」 
 …………どうして。 
 アナタハ、ドウシテソンナニヤサシイノ? 
 どうして、そこまで…… 
 クレイに抱きしめられたまま。 
 わたしにできたことは……泣くことだけだった。 
  
 パステルの姿が消えた後。 
 30分ほども車の中で過ごし、俺は、ようやく重い腰をあげた。 
 ダッシュボードの時計は、既に早朝五時を指している。 
 ……寝てるかもしれねえな。 
 マリーナの帰りは遅く、朝は早い。 
 夜の十時くれえに帰ってきて、朝の六時に目を覚ます、そんな生活だ。 
 子供がいるんだから、ちっと休め、と言ってもきかなかった。店長として、責任があるから、と。 
 あいつは、そういう奴だ。真面目で、責任感が強くて……やると決めたら必ずやり遂げる。 
 ふと思う。あいつにとって、俺は一体何なんだろう。 
 俺にとって、あいつは幼馴染だった。何度身体を重ねようと、一緒に暮らそうと結婚しようとも。最後までそれはかわらなかった。 
 あいつにとっては……俺は、一体何だったんだろう? 
 ゆっくりと階段を上る。 
 マンションの鍵が、やけに重たく感じた。 
 がちゃり、とドアを開けたとき。とびこんできたのは、ぼんやりと明かりが灯ったリビング。 
 そして、そのソファに腰掛けている、マリーナ。 
 ふっくらと膨らんだ腹を抱えるようにして、マリーナは、じっと俺を見つめていた。 
「おかえり」 
「…………」 
「楽しかった?」 
「ああ」 
 その目を見たとき、わかった。 
 マリーナは、多分……わかってんだろうな、と。 
 俺が何を考えているか、わからねえことはない、と断言していたあいつのことだ。 
 腹が立つくらいに頭が切れて、鋭いあいつのこった。 
 俺の考えなんか……葛藤なんか、全部お見通しに違いねえ。 
「怒らねえのか?」 
「怒る? 何故?」 
 マリーナの言葉は、どこまでも静かだった。 
「一度や二度の過ち、誰にだってあることでしょう。そうじゃない?」 
「…………」 
「高校、大学と。同棲してからだって、あんたが何人の女の子と寝てきたか。わたしが知らないとでも思ってるの?」 
「…………」 
 確かにその通りだった。 
 童貞捨てた相手はマリーナだった。それが15、中学三年のとき。 
 もう十年近く前になる。それから、何人の女を抱いたか、正直覚えてねえ。 
 適度に女にもてる程度の容姿はしていた。近寄る女は少なくなかった。 
 言い寄られたら断らなかった。けれど、誰に対しても、遊びの域は出なかった。 
 捜していたのかもしれねえ。 
 ぼんやりと、そんなことを思う。 
 捜していたのかもしれねえ。本気になれる相手と、いつか出会えるんじゃねえかと。 
 だから、拒否しなかった。そして、実際に本気になれる相手と出会えた。 
 ちっとばかり、遅すぎたが。 
「パステルでしょう?」 
 言われた言葉に頷く。 
 最初にパステルと顔を合わせたとき、マリーナに言われた言葉。 
『パステルのことが、気にいってるでしょう?』 
『好きな子ほどいじめたい……あんたの態度はそんなふうに見えたから』 
 ああ、その通りだ。 
 あの頃から、いや、もしかしたら初めて出会ったときから。 
 俺はあいつに惚れていた。俺とは何もかもが違う。ひねくれていて、好意すら素直に示せねえ俺とは違う。どこまでも素直で、まっすぐで、純粋なあいつの目が、ひどくまぶしかった。 
「……いつもそうだったわ。パステルは、わたしのことを羨ましいってよく言ってたけど。本当に羨ましかったのはわたしの方よ」 
「…………」 
「パステルは、いつだって、わたしが本当に欲しかったものを、苦もなく……自分を偽ることなく、手に入れることができる子だった」 
「おめえは、自分を偽っていたのか?」 
「ええ」 
 気づかなかった。 
 20年以上もずっと一緒にいたのに。俺は、そんなことにはちっとも気づいてなかった。 
 だが、それを責めるでもなく、マリーナは続けた。 
「わかってたわよ、あんたがパステルのこと、ずっと見ていたのは」 
「そっか」 
「わたしをバカにしないで。あんたの考えてることなんて、全部お見通しだって……そう言ったでしょう?」 
「ああ、そうだな。……本当に、その通りだな」 
 マリーナの声は、どこまでも静かだった。 
 怒りもねえ、悲しみもねえ。ただ淡々と事実を告げている、そんな口調。 
「怒らねえのか?」 
 重ねて聞く。 
 俺は、おめえという妻がありながら、おめえの親友を抱いたんだぜ? 
 そう言うと、マリーナは肩をすくめて言った。 
「だから、何故? 誰にだって間違いはあるじゃない。それをいちいち責めたてるほど、心の狭い女じゃないつもりよ」 
「…………」 
「さっさと忘れた方がいいんじゃない? パステルには、クレイっていう立派な旦那様がいるのよ。逆立ちしたって、あんたの勝てる相手じゃないわ」 
「……本気で言ってんのか?」 
「本気よ」 
 まっすぐな視線が、ぶつかった。 
「別れないわよ、わたしは」 
「…………」 
「この子を、不幸にするわけにはいかないじゃない」 
 そっと腹に手を当てて、マリーナは言った。 
 その瞳の端に、涙が光ってるように見えたのは……気のせいだろうか? 
「やっと、生めるんだから」 
「……やっと?」 
「あんたは、気づいてなかったでしょう?」 
 きっと顔をあげる。 
 初めて、その顔が、わずかにひきつった。 
「わたし、何度か……三回? 四回かもしれない。あんたの子供、堕ろしてるのよ」 
「…………」 
 ショックを受けなかった、と言えば嘘になる。 
 もちろん避妊の知識くれえは持ってたし、実際他の女とヤるときは、ちゃんと気をつけていた。 
 けれど、マリーナだけは。何故だか、生でやっても何一つ文句は言わなかったから。 
 自分で何か……例えば、ピルでも飲んでるのかと思って、いつだって自由にヤラせてもらっていた。 
 生でやるほうが、ずっと気持ちいいから。 
 その、俺の身勝手な行動が。 
 マリーナの心と身体を、そこまで傷つけていたのかと。今更……気づいた。 
 遅すぎたが。 
「マリーナ」 
「別に、文句を言うつもりはないわよ? 恨んでもいない。好きにやらせていた、わたしも悪いんだから。……でも、わかるでしょ? わたし、もうこれ以上堕ろせないのよ。子供を生めなくなるって警告されてるの。だから……生みたいのよ」 
 じっと俺を見つめるマリーナの目は、この上なく熱かった。 
「あんたがどうなのかは知らないわ。でも、わたしは……愛してるのよ?」 
 熱っぽい視線と、動かねえ表情で、マリーナは言った。 
「愛してなきゃ、身体を許したりしなかった。同棲したりしなかった。結婚したりしなかった」 
「…………」 
「わたしはこれでも喜んでいたのよ? あんたとの結婚生活を……それなりに、楽しんでたんだから」 
「…………」 
「仕事があるから。少しでも、寝たいのよ……おやすみ」 
 ばたん、とドアが閉まる。 
 何も言えなかった。 
 自分のバカな行為をどんだけ悔やんだところで、今更起こったことを帳消しにはできねえ。 
 テーブルに拳を叩きつけて。俺は、じっとうつむいていた。 
  
 クレイが仕事に出かけていった後。誰もいない部屋で。 
 わたしはただ、じっとうつむいているしかできなかった。 
 どうすればいいんだ? 
 

テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル