あれは高校三年生の夏の日のことだった。
その頃、わたしは付属の高校から大学に進学できることが決まっていて、ちょっとばかり気が抜けていて、もうすぐ来る夏休みはどこに行こうか……そんなことばっかり考えていた。
そんなある日の出来事。
三年生はもう部活も引退しているし、期末テストが終わってしまうと、やることもあまり無い。
学校が終わった後は、図書館で好きな本を思いっきり読む……それが、その頃のわたしの日課だった。
その日は、読み始めた本があんまりにも面白くて、途中で止めることができなくて。
気が付いたときには、閉館のアナウンスが流れていた。
慌てて立ち上がったときには、日の長い夏だというのに、外はもう真っ暗だった。
いっけない、早く帰らなくちゃ。
慌てて携帯でお母さんにメールを打つ。きっと心配してるに違いないもの。
借りた本をカバンに詰めて、図書館を出た。ここから家までは、電車を使って30分くらい。
明るいときにはそんなに遠いって感じないけれど、真っ暗になると、ちょっと遠いなって感じる、そんな程度の道のり。
電車を降りた後、わたしは、小走りに近い速さで歩き出した。きっと、家ではお母さんが夕食の用意をして待っていてくれてるに違いない。
そう思ったとき、足は自然に、普段は通らない雑木林の方に向いていた。
ここを突っ切ると、五分くらい時間が短縮できる。普段は、暗いし足元も悪いから、遠回りでも大通りを行くんだけど。
とにかく、そのときのわたしは早く帰りたくて仕方が無かった。
まさか、あんなことが起きるなんて……そのときのわたしに、わかるはずもなかったから。
雑木林の中は真っ暗だったけれど、大通りだって暗いのは同じだもんね。
自分にそう言い聞かせて、舗装されていない道を歩いていく。
がさり、という音が聞こえたのは、道の半ばまで来たときだった。
振り返る暇もなかった。
「うっ!?」
がばっ!!
音がするまで、何の気配も無かった。
音がした、と思ったときには、もう、顔をタオルで塞がれていた。
「んー!!?」
な、何!? 何なの、突然……!!?
タオルは顔全体を覆って、完全に視界が塞がれた。真っ暗な中、めちゃくちゃに手足を動かしたけど、背後の人影は、そんなわたしを、楽々と押さえ込んだ。
嘘……何、何なの? 誰!? 誰……?
凄い力だった。わたしより大分背が高い男の人。わたしの両手足をあっさりと封じて、その人は、ずるずるとわたしを道から外れたところにひきずっていった。
背筋に寒気が走った。何となく、何をされるのかがわかって……
「い……いやあああああああああああああああああああああ!!?」
がんっ!!
乱暴に地面に押し倒された。そこに残っていた切り株のようなものに頭をぶつけて、一瞬気が遠くなる。
わたしを組み敷いた人影は、素早くタオルで目隠しをして、口の中に別の布を押し込んだ。
これ……ハンカチ……? 何なの、何なのよう……?
見えないことが余計に恐怖を煽った。ぼろぼろ涙が溢れてきたけど、それを拭うこともできない。
わたしにのしかかってきた人、それはきっと男の人。凄い力で、わたしの両手首を押さえ込んで。
セーラー服が引き裂かれた。肌に触れる、この冷たい感触は……何……?
その人は一言もしゃべらなかった。ただ、もくもくとその行為に没頭していた。
あっという間に下着をはぎとられる。生暖かい夏の空気がまとわりついてきた。
荒っぽく胸をつかまれた。両脚の間に無理やり相手の脚が割り込んできて、太ももが痛かった。
だけど、痛い、と訴えたくても、ハンカチが喉を圧迫して、声を出せない。
「んっ……んーっ……」
「…………」
耳元に息を吹きかけられて、思わず身もだえした。
何で……何でこんなことに?
誰? どうしてわたしが……こんな目に……?
わたしの疑問に、答えてくれる人はいない。
首筋と、胸元に、熱い痛みが走った。
何をされているのかわからない。わかりたいとも思わない。
これは夢。きっと、悪い夢に違いないから。
目が覚めたら……きっと、お母さんが笑って……
そんなわたしの微かな希望を打ち砕いたのは、身体を引き裂かれるような、鋭い痛みだった。
解放されたのがどれくらい経ってからなのかはわからない。
もうわたしには、起き上がる気力なんて残されてなかったから。
遠くに、ぱしゃっ、という小さな音が断続的に響いてきたこと、結局、その人は最後の最後まで一言も口を利かず、その姿をチラリと見ることさえできず……
つまり、わたしには、それが誰なのか知る術が全くなかったということだけは、確かだった。
雑木林の中で身体を丸めて倒れているわたしを見つけてくれたのは、いつまで経っても帰らないわたしを心配して探しに来てくれた両親だった。
わたしの姿を見て、何があったのかを察して、両親はわたしを抱きしめて、泣いてくれた。
高校三年生のときの、夏の日の一日だった。
「パステルー!!」
声をかけられて、わたしは振り向いた。
大学生。自分がそう呼ばれることになったなんて、まだ実感できない。
「リタ!」
「パステル、久しぶりっ! ねえ、学部どこだっけ?」
「わたしは文学部だよ。リタは?」
「わたしは教育学部の家政科。残念、あんまり授業被りそうにないね」
リタは、付属の高校のときからの親友。
卒業した後、しばらく会うことはできなかったんだけど、同じ大学に進学して、無事再会することができたんだ。
新しい友達ができるのももちろん楽しみなんだけど、やっぱり知った顔に会うと安心できる。
「どう、リタ。授業とか、もう決めた?」
「大体ね。パステルは? 部活とか、やる?」
「……ううん」
リタの言葉に、ふるふると首を振った。
「多分、何もやらないと思うな」
「もったいないー。せっかく大学生になったんだから、楽しまなくちゃ。あたしは料理クラブに入ろうかなって思ってるんだけど、よかったら一緒に来ない?」
リタの誘いは、すごく嬉しかったけど。
でも、多分わたしは行かないだろうな。
曖昧に笑ってごまかす。
怖いから。
知らない人に……男の人に接するのが怖いから。
高校三年生の、夏の日に起きた出来事。
結局犯人は捕まらなかった。わたしは手がかりになるようなことを何一つ覚えてなかったし、警察に訴えることもしなかったから、それは当然なんだけど。
すぐに学校が夏休みに入ったのが幸いで、誰にも知られずにすんだけれど、あの出来事は、わたしの心の中に深く深く残ってる。
夜になると、毎日夢に見る。そして真夜中に何度もとびおきて、そのたびに涙を流す。
絶対に、忘れられない。
家に閉じこもっていても仕方が無いからって、二学期からちゃんと学校に通って、ちゃんと卒業して、こうして大学生になったけれど……
でも、わたしは結局、あの日以来、一度も男の人とはしゃべっていない。
最初のうちは、お父さんとさえ話すのが怖かった。
今は、大分ショックも薄れてきたけど……それでも、怖いものは怖い。
高校生の頃、あんなことが起きる前、クラスのみんなと、他愛もなくしゃべっていたことを思い出す。
大学生になったら、クラブとかに入ったら色々付き合いも増えるし、合コンとかの誘いも増えるだろうね、って。絶対彼氏とか作ろうね、って。
彼氏なんか……恋人なんかいらない。作れない。
わたしはもう、汚れちゃってるから。
「パステル? ぼーっとして、どうしたの?」
リタの言葉に、ハッと我に返る。
「ううん、別に。ねえ、リタ。次は、何か授業ある?」
「あたしは休講だった。パステルは?」
「わたしは授業あるから、もう行かなくちゃ。ねえ、後でまた会おうね」
「うん! 携帯に連絡ちょうだい」
手を振るリタに別れを告げて、わたしは講義室へと足を向けた。
大学生になってから今日でちょうど一週間目。
次の授業で、やっと一通りの授業を受けたことになる。
どの授業もそれなりに面白そうで、先生も楽しい人が多かった。大学生になったら、高校生のときと違って勉強が楽しくなるって言われたけど……本当だなって思う。
わたしの夢は、小説家になること。
そのためには、いっぱいいっぱい勉強して、色んなことを知らなくちゃいけない。
きっと、もうわたしには普通の女の子みたいに、恋人を作って、デートを楽しんだりすることはできないだろうから。
だから、夢の実現に向けて、がんばるんだ。
そう自分に言い聞かせて、講義室のドアを開けた。
その講義室は、随分と広い教室だった。
受講者数も多いみたいで、前の方の席はほとんど埋まってしまっている。
……もっと早くに来るんだったかな。
次から気をつけよう、と思いながら、ストンと席に座った。
三人がけの椅子の左端。隣の二つの席は、まだ空いている。
真ん中の席に荷物を置いて、ルーズリーフを広げたときだった。
どさっ
隣から響いた音に、ふと顔をあげた。
一瞬、心臓が音を立ててはねた。
「ここ、いいか」
わたしが座っている席の右端に座っているのは、凄く細身で、背の高い男の人。
夕焼けのような真っ赤な髪を後ろでまとめていて、それがひどく目を引いた。
顔にはサングラスがかけられていて、表情はよくわからなかったけれど。
何故だろう? わたしを見つめる、強い視線を、その奥に感じたのは。
その視線に、からみとられたような気がしたのは。
いや、まあそれはとにかくとして……
男の人、だった。
その人の荷物が、わたしの荷物のすぐ傍に置いてあるのを見て、反射的に立ち上がる。
ぐいっ
その瞬間、手をつかまれた。
「おい、人の顔見て逃げんなよ。失礼な奴だな」
「……ご、ごめんなさい」
思わず謝ってしまって、それから腹が立った。
……わたしが、どこの席に座ろうと……勝手じゃないの!
そう言って立ち上がろうとしたけれど。後ろを見ると、いつの間にか、他の席は全部受講者らしき人達で埋まっていた。
今席を立っても、移動するところがない。
うつむいて、座りなおす。……しょうがないよね。
第一、先に座ってたのはわたしなんだもん。どうしてわたしが移動しなくちゃいけないのよ!
「おい、人の話、聞いてんのか?」
「……聞いてる。ごめんなさい、ちょっとびっくりしただけ」
あまり関わらないようにしよう。そう思って、視線をそらそうとしたけれど。
何故だろう。吸い寄せられたように、その人から目が離せなくなったのは。
つかまれた手が、すごく熱かったのは……何でだろう。
「あんだよ。俺の顔に、何かついてんのか?」
「……サングラス、取らないの?」
視線をそらせないことが悔しくて、そう言うと。
男の人は、ちょっと肩をすくめてつぶやいた。
「俺の自由だろ?」
「……取れ、なんて誰も言ってないもん」
「そうかよ」
……ねえ。
いつまで、手……握ってるつもり?
そう言いたかったけれど、舌が強張って、何も言えなかった。
痛いくらいに心臓がドキドキして、顔を上げていられなくなる。
……何で。
男の人が怖かった。関わらないようにしようと思ったのに。
どうして……初めて会った彼のことが、こんなに気にかかるんだろう。
「……あんた、顔赤いぜ」
「え?」
どきっ!!
不意に顔を近付けられて、わたしは思わず身をそらした。
だけど、彼はそんなことには全然構わずに、じーっとわたしの目を覗き込んで、
「熱でもあんのか? だいじょーぶ?」
「だ、大丈夫……」
そう言いかけた瞬間、ひんやりとした感触が押し付けられて、そのまま後ろに倒れそうになった。
な、何と彼が……自分の額を、わたしの額に押し付けてきたのよ!!?
な、な、な……
言葉が出てこない。しょ、初対面の人に普通そういうことする!?
わたしが金魚のように口をぱくぱくさせていると、彼は、じーっとわたしを見て……
そして、ぷっ、と吹き出した。
「あ、あんた……おもしれえ人だな」
「お、おもしろいって……」
「おっと、先生が来たぜ」
ガラリ
彼の言葉と同時に、教室のドアが開いた。
白髪の、温和な顔をした先生が教壇に向かって歩いてくる。
じゅ、授業……忘れるところだった!
集中。集中しなくちゃっ!
わたしが慌てて崩れた体勢を立て直したときだった。
こそり、と、耳元で小さなささやき声がした。
「俺の名前は、トラップ。あんたは?」
「……パステル。パステル・G・キング」
すんなりと返事ができた自分に、ちょっと驚いた。
トラップ、と名乗った彼は、まじまじとわたしを見つめて、にやり、と口元に笑みを浮かべた。
「同じ授業取るみてえだし……これからよろしくな、パステル」
「…………よ、よろしく」
すっかり彼のペースに巻き込まれてしまっていることを、わたしは自覚せざるをえなかった。
いつの間にか離されていた手を、少し寂しく感じた、その瞬間から。
授業が終わると、トラップはすぐに立ち上がって教室を出て行った。
話しかける暇なんか全くない。
……いやいや、別に、話しかけようなんて、思ってたわけじゃないけど……
カバンを取り上げて、中にルーズリーフをしまおうとして気づく。
……あ。
いつの間にか、カバンの一番上に、メモが残されていた。
素っ気無い数字の羅列。090で始まるその番号は、明らかに携帯電話の番号。
その下のアルファベットは、メールアドレス……だよね? 多分。
こんなもの、授業が始まる前は絶対無かった。……トラップが、入れた?
携帯の番号を教えたってことは……わたしに、かけてこい、ってことなのかな。
……知らないもん。
男の人には、関わらないって……決めたんだから。
そう自分に言い聞かせていたんだけど。
自然にポケットから携帯を取り出していたのは、リタに連絡を入れようとしたため。
トラップの番号とアドレスをメモリに登録していたのは、そのついでなんだから。
ただのついで……なんだから。
「パステル、ぼーっとして、どうしたの?」
「……ん? あ、何でもないよ」
昼休みの学食は、すごい人だった。
それでも、どうにか二人分の席を見つけて、リタと昼食を楽しんだ。
美味しくて安くて、何の不満もなかったんだけど。
それでも、どうにも食事に集中できないのは……携帯に追加された、新しい名前のせい?
「パステル」
リタは、じーっ、とわたしを見つめて、そして二ッ、と笑った。
「あのね、あたしの勘だから、外れてたらごめんね」
「ん……? 何?」
「パステル。あなた、恋をしてるでしょう?」
ぶはっ!!
思わず飲んでいたお茶を吹き出してしまう。
な、な、と、突然何をっ……
「げほげほっ……り、リタったら。いきなり何よ」
「だからあ、あたしの勘だってば。だけど、何となく……誰かを捜してるみたいだったから」
「さ、捜してなんか……」
そう言われて、気づいた。
さっきから、リタの話を聞きながら、ずっと窓の外に目をやっていたことを。
赤い色彩を、捜していたことを。
「違うってば! ただ、今日授業で失礼な奴に会って、それで……」
「男?」
言われて頷く。それは確かにその通りだから。
「かっこよかった?」
続けて聞かれて、また曖昧に頷く。
かっこよかった……と思う。
サングラスをかけていて、表情とか顔立ちは、よくわからなかったんだけど。
それでも、引き締まった身体とか、薄い唇とか、全体の印象は、「きっと整ってるに違いない」と思わせる、そんな人だった。
……か、関係無いけどね、わたしには。
ぶんぶんと首を振ると、リタは、笑って言った。
「ちょっと、安心したな」
「……え?」
「パステルって、男の子に興味無さそうだったから」
言われた瞬間、動揺を押さえるのに苦労した。
リタには……ううん、他の誰にも、あの日のことは言ってない。
絶対知られたくないから。何も無かったことにしたいから。女の子同士が集まったら、どうしたって恋愛関係の話は出てくるけど、わたしはそれにも、ちゃんと参加していた。
普通に恋愛に興味があって、でも、いい人がなかなかいないから、今のところは相手もいない、そんな風に装っていた。
……気づかれてた?
「別に、そんなことないけど。ただ、いいなあって思える人がいなかっただけで」
「いっつもそう言ってたけどね。何て言うか……パステルは、いい人が見つからないって言うよりも、見つけようとしてないんじゃないか、そんな気がしてたんだよね」
そう言って、リタはぽん、とわたしの肩を叩いた。
「でも、気のせいだったみたい。安心したわ。ねえ、ゲットできたら、あたしにも紹介してよ?」
「……だからっ、そんなのじゃないってば」
そう言いながらも。
わたしは何となくわかっていた。
リタと別れた後、わたしはきっとメールを打つに違いない。
自分の番号と、アドレスと、自分の名前。
それだけを記した、せいいっぱい素っ気無さを装った、それでも、返事が欲しいって願いをこめたメールを、トラップに打ってしまうに違いないって。
返事はその夜のうちに返って来た。
「さんきゅ。登録しとく」
ただそれだけの、素っ気無いメール。だけど、それでも嬉しかった。
嬉しいと思う自分に驚いた。
……何でだろう。
あんなに男の人が怖かったのに。もう絶対に恋なんかできないって思ってたのに。
わたしは……もしかして、自分で思っていたほど、ショックじゃなかった?
ただ、突然の不幸に酔ってただけ? そんな簡単に忘れられるような……軽い女の子だったの?
そう思って、少しの間ひどく落ち込んでしまったのだけれど。
けれど。
授業で、学食で、あるいは廊下で。
歩いている最中にすれ違ったり、他愛も無いことで話しかけられたり、同じクラスの子に、用事がある、と言われたり。
そんな何気ない瞬間でも、やっぱり、相手が男の人だと、身体が強張った。
必死に何でもないふりをして、普通に返事をしていたけれど、心の中では、早く逃げたいと思っていた。
やっぱり、怖い。何も変わってない。
トラップは……特別ってこと?
何回目かの食事のとき、わたしがふっ、とそう漏らすと、
「だから、それが恋なんだってば」
そう言って、リタにぱん、と背中を押された。
一目ぼれ。
そんなことって……本当にあるの?
二回目に再会したのは、もうすぐ雨が降りそうな、そんな日のこと。場所は、学校の近くのコンビニだった。
それまでだってしょっちゅう利用していて、これからも利用するだろう場所。
自動ドアをくぐった途端、「いらっしゃいませ」と響いた声に、弾かれたように顔をあげる。
そこにいたのは、ずっと捜していた、赤毛の彼。
似合わないエプロンをつけて、接客業だというのに相変わらずのサングラス姿で、レジに所在なげに立っていた。
「……パステルか」
顔と名前を覚えていてくれたことに驚く。
あれから、結局一度もメールも電話もしていない。
たったの数日しか経っていないし、わたしはもともと、用事も無いのにメールを送ったりするようなタイプでもなかったんだけど。
だけど、何故か……この数日は、携帯を見る頻度がいつもよりずっと高かった。
「……バイト?」
「他の何に見えるんだよ」
ひねくれた物言いで、両手をあげてみせる。
「ずっと、ここでバイトしてたの?」
「いんや。まだ一週間も経ってねえ」
「そう……」
大学の近くにあるんだから、トラップがここでバイトをしていても何の不思議もないんだけど。
何となく、縁を感じてしまうのは……小説の読みすぎだろうか。
いつまでも入り口に立っていても仕方が無いので、目的の棚へ向かう。
ルーズリーフと、飲み物。今日は昼からしか授業が無いから、少しはのんびりできる。そう思って、雑誌の棚に行き、少しだけ立ち読みもする。
雑誌の棚はレジの目の前だった。何となく、トラップがこっちを見ているような気がして、落ち着かなかった。
もちろん、そんなのは思い過ごしだってわかってるんだけど。
背後から響いてくる、トラップの接客の声。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」というその響きは、すごく投げやりだったけれど。レジを打つ音はすごく早くて、手慣れた様子だった。
数日、っていったよね。……すごいなあ。あ、でも、もしかしたら、前に他のコンビニでバイトしていたことがあるのかも?
雑誌を読んでいるはずなのに、何故かちっとも集中できなかった。
諦めて早々に棚に戻し、会計を済ませることにする。
「……これ、お願いします」
「いらっしゃいませ」
とん、とカウンターに籠を載せる。トラップの手が、次々とバーコードをスキャンしていくのを、じっと目で追ってしまうのに気づいた。
「584円になります……おい、俺の手に、何かついてんのか?」
言われて、はっと顔をあげた。
口元に笑みを浮かべて、彼はじーっとわたしのことを見ていた。
見ながらも、手は全然休まずに商品を袋に詰めているところがすごい。
「あのっ……」
「会計」
言われて、慌てて財布を取り出した。
レジの方を見ようともせずに、片手だけで金額を打ち込んでおつりを渡してくれる。やっぱり、その手さばきはプロ級だと思った。
「随分慣れてるのね」
「高校の頃も、バイトしてたからな……別のコンビニだけど」
「そう……」
会話が続かないことが、何だかもどかしかった。
わたしはお客さんで、トラップは店員さんで。話しかけたら仕事の邪魔になるかもしれない、と思うと、余計だった。
渡されたレシートをたたんで、おつりと一緒に財布に閉まって、品物を受け取る。
どれだけゆっくり動いたところで、それで稼げた時間なんてほんの数十秒。
後ろに人が並ぶのがわかって、仕方なくレジを離れた。
……寂しい、と思った。
そのときだった。
「お客様……お忘れです」
呼び止められて、振り向く。
別のお客さんの商品をスキャンしながら、トラップの目は、わたしの方を向いていた。
「これ」
視線で示されたのは、カウンターの上に置きっぱなしになった、わたしの傘。
「す、すいません……」
ど、どじー! 何やってるのよ、わたしったら!!
顔を伏せてカウンターに戻ると、耳元に、小さな囁き声が届いた。
「……また、メール打ってもいいか」
それは本当に小さな声で、すぐに「お会計は……」なんて言葉にかき消されてしまったけれど。
わたしが大きく頷くと、彼は小さく微笑んでくれた。
一目ぼれっていうのは、本当にあるんだ。
認めざるをえなかった。
それから、コンビニに行く頻度が増えた。
いつもなら別のお店……例えば、大学の購買で済ませるような買い物も、わざわざこのコンビニで買うようになった。
トラップは、いたりいなかったり、だったけど。いないときは買い物だけさっさと済ませて、いるときは、立ち読みをして時間を潰すことが多かった。
それに、彼が気づいているかどうかはわからないけれど。
顔を合わせるたびに、会話する時間が増えた。
日を追うごとに、メールの分量も増えていった。
意味のある会話なんかほとんどない。それは暇つぶしみたいな内容がほとんどだったけれど。
「バイトで授業いけねえから、ノート取っといてくれ」
「おめえがこの間買ったデザートな、あれカットになるから来週から食えなくなるぞ」
そんなメールにいちいち返信を打つのがすごく楽しくて。
顔を合わせたリタに、呆れられた。
「幸せそうね、パステル」
「……そ、そんなことないもん」
「あんたはわかりやすいから、隠したって駄目」
そう言って、リタはわざとらしく空を仰いだ。
「あーあ。まさかパステルに先を越されるとは思わなかったわ」
「ま、まだそんな関係じゃないってば!」
「まだ? ってことは、そんな関係になるつもりは、あるんだ?」
意地悪な質問に沈黙してしまう。
ずっと前、あの日の直後。
部屋に閉じこもって、泣いて過ごしていたわたしを、お母さんが抱きしめてくれた。そして言った。
そんな人ばかりじゃないって、いつかわかるから。
きっといつか、あなたにも大切な、特別な人ができるから。
一人じゃ治せない傷も、その人となら、治せるはずだから。
だから、その日が来るまで……諦めちゃ駄目だって。
トラップが、「大切な、特別な人」なんだろうか。
トラップとだったら、あの日の出来事を……忘れることはできないにしても、悪い思い出として、片付けることが、ふっきることができるんだろうか?
わたしは……できればそうしたい。
わたしは何も悪くないのに、ただ一方的に傷つけられて苦しむなんて、嫌だ。
だけど……トラップは、そんなわたしを、受け入れてくれるんだろうか?
それが怖くて、わたしは最後の一歩を、踏み出せなかった。
初めてデートしたのは、5月。ゴールデンウィークが終わった直後だった。
大学が終わった後、いつもよりちょっと遅い時間にコンビニに立ち寄る。
最近は、それがもう日課になってしまっていた。特に買うものがなくても、雑誌や漫画を立ち読みするふりをしていれば、不自然じゃない。
トラップのバイトの日程はまちまちみたいだった。聞いてみたところによると、早朝に入っていることもあるし、深夜に入っていることもあるとか。
シフトが固定しねえのが辛いけど、それが一番稼げるからな。
何気ない雑談の中で、彼がそうつぶやいたのを覚えている。
だから、いつ行けば彼に会えるのか、それはもう全くの運なんだけど。
今日は、夕方勤務だったらしく。レジには、見慣れた赤毛にサングラスをかけたトラップが立っていた。
「よお。また来たのか。おめえも暇な奴だな」
最近は、わたしが店に入ってきても、「いらっしゃいませ」とちゃんと言われることもない。
客扱いされてないみたいだけど、それがかえって嬉しかった。
「暇ってわけじゃないわよ」
そんな軽口に反論するのも、もう日常茶飯事な出来事。
だけど、今日はちょっと違った。いつもだったら、「おめえが暇じゃねえなら、世の中暇な奴なんかいなくなるよ」なんてかわいくない返事が来るはずなんだけど。
今日は、違った。わたしがそう言うと、トラップはちょっと口元を歪めて、
「そっか。お忙しいようでしたら、しょうがないですねえ」
なんて、わざとらしい敬語を使って目をそらした。
……な、何なんだろう?
そこで思わず気にしてしまうのが、彼にのせられてる証拠なんだろうけど。
わかっていても気になってしまうのは……きっと、惚れた弱み、なんだと思う。リタに教えてもらったんだけどね。
「何かあるの?」
「べっつにー。ただ、俺、今日はバイト、六時までなんだよね」
さっと腕時計に目を走らせた。五時五十分だった。
「もしも暇なら、どこかにお誘いしようか、と不遜にもそう思ったのですが。お忙しいようでしたら、仕方ないですねえ」
「ひ、暇! 暇よっ」
ううっ、即座にそう反応してしまった自分が情けないっ!!
トラップは、すっごく意地悪そうな笑みを浮かべていて……何ででしょう。サングラスかけてるからわかりにくいはずなのに、最近ではトラップの表情がすごくよく読めるんだよね。
とにかく、その顔は、絶対わかっててわざと言ったでしょう? ってことが丸分かりだったんだけど。
「んじゃ、店の外で待っててくれっか」
「うん」
そう言われて、笑顔で頷いてしまった自分が……どこまでも、情けないっ……
トラップが連れていってくれたのは、何てことはない。どこにでもあるファーストフードのお店。
「腹減ってんだよね、俺」
「今日は、いつから働いてたの?」
「正午から六時間」
うわあっ……ちょうど、一番お腹の空く時間帯だよね。
バイトって、大変そうだなあ……
ちなみに、わたしはアルバイトをしたことはまだ無い。
うちは、幸いなことに、経済的には恵まれていたし。そんなに贅沢をするような性質でもなかったから、もらえるお小遣いだけで十分にやっていけた。
「何で、そんなにバイトばっかりしてるの?」
結局、トラップが授業に来たのは、最初の一日だけ。
大学の中では滅多に見かけない。本人に言わせれば、バイトが忙しい、ってことなんだけど……
「ああ? ……そりゃ、生活費稼ぐためだよ」
「え?」
わたしの言葉に、彼は何でもないことのように言った。
「だあら、俺一人暮らししてるから。仕送りも少ねえし、バイトで生活費稼がないとやってらんねえの」
「……あ……そ、そうなんだ」
悪いこと、聞いちゃったかな……
一瞬、気まずい沈黙が流れた。
だけど、そう言う彼の表情には……何て言うか、自分を蔑んでいるような調子とか、こびている様子とかは全然無くて。
それを普通のことだと受け入れていて、例えば、その話をして、わたしが「奢る」と言い出すことを期待しているとか、そんな様子は全く感じられなかった。
だから、わたしはあえて言わなかった。きっと、「大変だね」みたいなありきたりな慰めの言葉は、彼のプライドを傷つけるだけだろうってわかったから。
「そ。だけど、たまには大学に来ないと、進級できなくても知らないから」
「ああ? バカ言え。俺の頭を甘く見んなよなあ。試験の成績さえよけりゃあ、単位はもらえるだろ。大学なんて、そんなもんだって」
いつもの調子で軽口を叩いて、一緒のトレイからポテトをつまんで。
別に、その後どこかに出かける、ということもなく。「遅くなったら親が心配すんだろ?」と言った彼が、わたしの家まで送り届けてくれた。
「おめえは、箱入りのお嬢様みてえだからな」
「……別にっ、そんなこと、ないわよ」
子供扱いされてるみたいで、悔しかった。
それ以上に、お別れするのが、寂しかった。
家にたどり着かなければいい、と本気で思った自分に驚く。
わたしっ……そこまで、トラップのことが……?
だけど、歩いていれば、いつかは必ず家についてしまう。
「今日は……ありがとう。楽しかった」
門の前で、振り向く。声が震えているのがわかったけれど、それを必死に押し隠す。
「いんや。別に……」
それは、別れの挨拶のつもりだったんだろうか。
だけど、トラップは動こうとしなかった。わたしも、門をくぐろうとしなかった。
しばらく、沈黙だけが流れる。
「あのっ……」
耐えられない、と本気で思った。離れたくないって。
男の人が怖い、とずっと殻に閉じこもっていた。
それにひびを入れてくれたのはトラップだった。顔を出してもいい、と思わせてくれたのは……トラップだけだった。
彼を失いたくないと思った。そのためには、自分の気持ちを言うしかないと思った。
だけど、何をどう言えばいいのかわからなくて……後が続かなかった。
「あの、わたしっ……」
ぐいっ
あっ、と思ったときには、もう腕をつかまれていた。
ふわり、と抱きとめられる。力強い腕と、意外と広い胸。
服から微かに漂う男物のコロンの香りに、酔いそうになった。
「おめえは俺を好きなのか、そう思っていいのか?」
それはいかにも彼らしい、ぶっきらぼうで、あくまでも自分中心的な言葉だった。
だけど、彼の言うことは、いつだって的を射ていた。
「……トラップは?」
「態度でわかれ」
ぎゅうっ、と腕に力をこめられる。
ちょっと苦しかったけれど、でも、力を緩めて欲しい、とは思わなかった。
その日、初めて、わたしは悪夢に怯えることなく眠ることができるようになった。
変わりたい、と思った。
トラップと付き合うようになって、そして、初めて彼の家に行ったのは、夏休みに入る直前のことだった。
それまで何度もデートはしていたけれど、その日、たまたま電車が脱線事故を起こして、帰るのがすごく遅くなってしまった。
「あーっ、たく。終電ねえぞ? おめえ、どうする?」
「どうするって……」
大学で落ち合って、そこから別路線の電車に乗ってちょっとした遠出。
そのデートはすごく楽しかったけれど、事故のせいで、やっと学校まで戻ってきたときには、わたしの家へ向かう方面の電車は、もうなくなってしまっていた。
ここからタクシーを使えば……ううん、家に電話すれば、お父さんが車を出してくれるだろう、とは思う。
トラップとのことは、両親には隠さずに言ってある。あの事件で、わたしは随分と心配かけたから。大学生になった今でも、帰りが遅くなりそうだと言えば、お父さんかお母さんのどちらかが、すぐに迎えに来てくれた。
もう、そんな必要は無いってことを告げたら、両親は涙を流して喜んでくれた。
事件のことは、まだトラップには言ってない。
けれど、きっと、トラップなら受け入れてくれる。それは、わたしの勝手な思い込みにすぎないんだろうけど……
そう思ったとき、言葉は自然に出た。
「トラップの家って、近く?」
大学の近くでバイトをしているくらいだろうから、そうに違いない、と思っていたんだけど。
そう言うと、トラップはちょっと黙り込んだ。
「……まあな」
「泊めて……くれる?」
声が震えていた。
変わりたいと思った。一方的に傷ついて怯えているのは嫌だと思った。
一人暮らしをしている男の人の家に、泊まる……それが意味するのは……
「……いいのかよ、お嬢さん?」
「子供扱い、しないでってば!」
トラップのことが大好きだったけれど。たまに彼が皮肉っぽく言う、「お嬢さん」という言葉が嫌いだった。
一人では何もできない、両親に守られていないと何もできない、そう言われているようで、また、ちょっと前のわたしは、その通りだったと自分でもわかっていたから。
だから、一生懸命、変わろうとしてるんじゃない。
「泊めて」
重ねて言うと、トラップはちょっと肩をすくめて、「ついてこいよ」と歩き出した。
大学近くにいくつもある、学生用アパート。
その中の一つが、トラップの部屋。
「ちっと片付けてくっから、そこで待ってろよ」
「うん」
そう言って、トラップが部屋の中に入っていく。
痛いくらいに心臓がドキドキしていた。
大丈夫、大丈夫。
トラップは、あの人とは違う。あんな……乱暴で、優しさのかけらもなかった、一方的にわたしを傷つけるだけ傷つけて放り出して行った人とは違う。
何も、心配することなんか無いんだから。
待たされたのは十分くらいだった。
がちゃり、とドアが開く。
「……いいぜ」
「お邪魔します」
頭を下げて玄関をくぐると、男の人の匂いが、わたしを包み込んだ。
汚いけど、という彼の言葉とは裏腹に、部屋の中は綺麗だった。
というより、むしろ物があまり無かった。
冷蔵庫と、ベッドとテーブル。机も無ければ棚も無い。クローゼットは作りつけみたいだった。
テレビすら無い。……こんな部屋で、トラップは……いつもどうやって時間を潰してるんだろう?
六畳くらいのワンルーム。ユニットバスと、一人が立てばいっぱいになる狭い台所。
ここが、トラップの部屋……
「そんなに珍しいかよ?」
「う、ううん、別に……」
本当は驚いていた。この辺のマンションやアパートは、多分どれも同じような作りだと思うんだけど。
一人暮らしの部屋って、こんな感じなんだ……
わたしも、リタも、それに他の友達も、付属の高校から上がってきた子達は、みんな自宅から通っていたから。
こんな部屋を見たのも、入ったのも、生まれて初めてだった。
「風呂、使う? 狭いけど。それとも、もう寝るか?」
部屋の中でも相変わらずサングラスを外さない彼は、いつもの意地悪そうな笑みを浮かべて言った。
「ベッド、貸すぜ。俺は床でも寝れるから」
「……お風呂、貸して」
暑かったから、汗もかいていた。
ちょっと覗いたユニットバスは使いにくそうだったけれど、それでも、シャワーを浴びたかった。
この後のことを考えれば、余計に。
「何か、着替え貸してくれる?」
そう言うと、Yシャツを貸してくれた。それを抱きしめるようにして、お風呂場へと向かう。
「タオルは、それ」
「……ありがとう」
お風呂から上がるまでに、この震えを、止めたい。
小刻みに震える手をシャツとタオルで隠しながら、わたしはドアを閉めた。
ユニットバス、なんて使うのは初めてだったから。随分と手間取ってしまったけれど。
それでも、どうにかこうにかさっぱりすることができた。
頭にタオルを巻いて、借りたYシャツを羽織る。
わたしには大きすぎるそのシャツは、ちょうど普段よく着てるミニスカートと同じくらいの丈だった。
……下にも、何かはくものを貸して欲しかったんだけど。
でも……い、いいよね? どうせ、トラップしか見てないんだし。
いいよね? こ、この後……
「あの……お風呂、ありがとう」
「どういたしまして」
そっと顔を覗かせると、トラップはわたしに背を向けて、ベッドに寝転んでいた。
歩み寄ると、ぱっと立ち上がって、妙に丁寧な仕草でベッドを明け渡してくれる。
「どうぞ。狭いベッドで寝苦しいかもしれませんがねえ?」
「……わ、わたしの部屋のベッドだって……同じくらいの大きさだから」
からかわれている、と感じた。何故かわからないけれど……
「子供じゃない」
そう言い放ったわたしを試している。そんな気がして、それが悔しかった。
ぼすん、とベッドに腰掛けて、彼をにらむように見上げた。
「二人で寝るには、ちょっと狭いかもね」
「……お嬢さんにしては、大胆なこと言うじゃねえの」
「だってっ……」
変わりたかった。変わるためには、これが一番だと思った。
あの夜の記憶を塗り替えてしまえばいい。あんなのが唯一の経験だなんて、そんなのは悲しすぎる。
本当に好きな人と、本当に素敵な思い出を作りたい。
そう思うのは……変なのかな?
「トラップは……嫌?」
「まさか」
わたしの言葉に即答して、トラップは部屋の明かりを消した。
あっという間に部屋が真っ暗になる。突然のことで、何も見えない。
けれど、気配でわかった。コトン、という小さな音は、トラップが外したサングラスが、テーブルの上に置かれた音。
どすん、とベッドのスプリングがきしんだ。
肩に手をかけられる。暗がりの中、わたしは……初めて、トラップの瞳を見たことに気づいた。
真っ暗でよくわからないけれど、強い光を放つ瞳。それが、どんどん近づいてくる。
「んっ……」
ファーストキスは、一瞬だった。
一瞬唇を塞がれた、と思うと、次の瞬間には、もう頬へと移動していた。
耳、額、うなじ、首筋。
トラップの唇は次々と移動して、そのたびに、わたしの肌に微かな感触を残していく。
「あ……」
そうして、散々キスの雨を降らせた後、再び唇へと戻ってくる。
自然と開いた隙間から、熱い舌がもぐりこんできて、わたしの舌をからめとる。
それは……何だか、とても気持ちよかった。
「んんっ……」
段々と力が抜ける。トラップの手が、背中にまわって、ゆっくりとベッドに押し倒された。
どさっ、と体重をスプリングに預ける。トラップの手が、Yシャツのボタンにかかった。
ぞくり、と背筋に寒気が走る。
全然違う、と自分に言い聞かせていた。
刃物を使って無理やりセーラー服を切り裂かれた、あのときとは違うんだと言い聞かせた。
ぷつん、ぷつんと、ボタンがゆっくり外されていく。
細くて長い、しなやかな指。それが、隙間からもぐりこんで、優しくわたしの肩をつかんだ。
直接触れられて、体温が直に伝わって……その暖かさに、涙がにじみそうになる。
思い出しちゃ、駄目っ……
「やあっ……」
胸にくちづけられて、わたしは思わず声を漏らした。その瞬間、すごく面白そうな小さな声が、耳に届く。
「素直に反応してくれんのは嬉しいんだけど……」
すすっ、と手が上半身をなでさすって、そのたびにびくり、びくりと背中がのけぞった。
「あんま壁厚くねえから。派手な声出すと、隣に聞こえんぜ?」
「……嘘っ!!」
ななな、そういうことはもっと早くに行ってよー!?
慌てて唇をかみしめる。だけど、トラップの手は、全然休んでくれなくて、強い刺激を与えられるたびに、声が漏れそうになるのを抑えるのに、ひどく苦労した。
「やっ……トラップの、意地悪っ……」
「意地悪ねえ。俺がこんだけ優しくしてやってんのに……」
軽く耳をかまれて、思わず悲鳴をあげそうになる。
い、いやっ……何だろ? 何だろ、この感覚……
「んなこと言われたら、もっと意地悪したくなるよなあ……」
その言葉に、不穏な響きを感じた。
ぐいっ、と無理やり足を開かされた。手つきはひどく乱暴で、性急で……そして、それは……
「やっ……」
「俺がこんだけ我慢してんのに。んなこと言われたら……めちゃくちゃにしてやりたくなるんだよなあ……」
衣擦れの音が響いた。
がしっ、と肩をつかまれる。その力強さは、今までの優しい動きは全然違っていて……
「やっ……い……いや……」
「今更。止められるわけねえだろ」
ふうっ、と耳元に息を吹きかけられる。
その瞬間、長いこと、忘れよう、忘れようと努力してきたあの記憶が、オーバーラップした。
「い……やああああああ!!」
どんっ!!
目の前の身体をつきとばす。
あのときは、いくら力をこめても逃げられなかった。
無理やりわたしの身体を蹂躙して、引き裂いて、そして放り出していった、あの記憶。
「……あ……」
「…………」
とん、という軽い音。身体が突然軽くなった。
床に降りたトラップは、わたしの方を見ようともせずに言った。
「わりい、焦りすぎたな」
「…………」
「ったく。だあら、やめときゃよかったんだって。おめえ、俺に感謝しろよなあ?」
そう言うと、トラップはごろん、と床に横たわった。視界から、赤毛が消える。
「あそこまでいってやめれる男なんて、普通いねえぜ?」
「…………」
わたしは……
変わりたい、と思ったはずなのに。少しは変われた、と思っていたのに。
やっぱりそれは口先だけだったんだって、トラップの言う通り「お嬢さん」だったんだって、思い知るしかなかった。
このままじゃ、いけないよね……
一人暮らしをしたい、と言い出すと、さすがに両親に反対された。
危ない、というのがその理由だったし、心配だ、とも言われた。
けれど、どうしても、とわたしが言うと、渋々ながらOKしてくれた。ただし、週末は絶対実家に戻ってくるように、と念押しされたけれど。
両親に守られていないと何もできないお嬢さん。だから、いつまで経っても、守られていることに甘えて、与えられた傷口を自分で塞ぐことができなかった。
変わりたい。変えていきたい。
部屋は、大学近くのマンションを選んだ。トラップの部屋とよく似たワンルーム。違いは、トイレとお風呂が別々のセパレートっていうだけ。
お風呂はゆっくり入りたいもんね、うん。
引越しをしたことは、トラップには告げなかった。
あれ以来、トラップの部屋には行っていない。デートはしていたし、コンビニにも顔を出していたけれど、別にトラップも何も言わなかったけれど。
けれど、きっと彼は気にしているだろうから。わたしが拒絶してしまったことに、傷ついてるんじゃないか……そう思ったから。
だから、変わった自分を見せたかった。それが、せめてものわたしにできるお詫びだと思ったから。
一人暮らしを初めて、最初の一日は、凄く寂しかった。
でも、両親はいないけれど。
すぐ近くにトラップが住んでいる。そう思うと、何故か、安心できた。
そうして一週間ばかり一人ぼっちを経験してみて……そして、思った。
やっぱり、トラップに傍にいて欲しい、って。
そんなことは最初からわかっていたんだけど。でも、改めて思った。
わたしの何もかもを、受け入れて欲しいって。
わたしはまだ言っていない。あの夏の日のことを、まだトラップに話していない。
順番を間違えたんだ。まず、あのことを話して、受け入れてもらって、全てはそれからだったのに。
話そう、と決意できた。そう思ったら、もうすぐにでも話さなければいけないような気がした。
携帯に手を伸ばしたとき、時間はちょうど、深夜0時だった。
「会いたいから、大学まで来て欲しい」
そう言うと、トラップはすぐに来てくれた。バイトだったらどうしようか、と思ったんだけど。幸いなことに、今日は休みだったらしい。
「あんだよ、おめえこんな時間に……どうやってここまで来たんだ?」
Tシャツにジーンズ、サングラスをかけた姿は、いつもと全く変わらない。
これからも、変わらないで欲しい。
「トラップ。あのね、わたし……この間から、一人暮らししてるんだ」
そう言うと、トラップの肩がひきつった。
「おめえが? ……あんで。実家、引越しでもしたんか?」
「違うの。……いつまでも、『お嬢さん』でいるのは、嫌だから」
ぐっ、と顔をあげる。サングラス越しに視線を合わせると、トラップも、それをまともに受け止めてくれた。
「話したいことが……あるの。今から、わたしの部屋に……来てくれる?」
「……りょーかい」
軽い口調を装っていたけど。
その声は、ひどく真面目だった。
部屋に男の人を入れるのは、もちろん初めてだった。
「ごめん……汚い部屋だけど……」
「おめえ、あからさまな謙遜は嫌味だぜ?」
トラップの言葉は、いつもと同じ。
素直じゃなくて、可愛くなくて……でも、あったかい。
部屋に通すと、彼は、どかっと床に座り込んで、わたしを見上げた。
「話って、何だよ」
「……あのね、トラップ。わたし、実は……」
声が震えるのは、仕方の無いことだよね?
今まで、誰にも言えなかった事実。今から一年前の出来事。
それを、わたしは話していた。トラップに、何もかも。
何度も言葉が止まった。涙も出そうになった。
でも、言わなきゃいけないと思ったから、耐えられた。
どうせいつかは言わなきゃいけないんだから。
トラップを信じてるから。
そうして、最後まで話し終わっても……トラップは、しばらく無言だった。
「ご……ごめんね……今まで黙ってて……」
「…………」
「わ、わたし……」
「あんで」
ぐいっ、と腕をつかまれた。
その瞬間には、トラップの腕に抱きしめられていた。
「あんで、おめえが謝るんだよ」
「っ……だって……」
「おめえは、別に何も悪くねえじゃん」
「…………!!」
それは……ずっと、誰かに言って欲しかった言葉だった。
わたしは悪くないって言い聞かせていた。しょうがないって思っていた。
でも、心の中では、ずっとこだわり続けていた。
あの日、ちゃんと大通りを使っていれば。もっと反抗していれば。最悪の事態は防げただろうっていう、自分を責める言葉が、うずまいていた。
誰かに認めて欲しかった。わたしは何も悪くないんだって。
「わたし……だって、汚れてるって……思わない?」
「あんでだよ」
「だって……」
「綺麗だよ」
ぐいっ
腕に力がこもる。
胸に顔が押し付けられて、息がつまった。
「おめえは、綺麗だよ。怖かったんだろ。今まで、ずっと怯えてたんだろ? だあら、あのときも……俺が乱暴に扱ったから、それで……」
「トラップ……」
「謝るのは俺の方だ。優しくできなくて……ごめん」
やっぱり。
彼は、受け入れてくれた。わたしの、大切で、特別な人は……
「トラップ」
ぎゅっ、と背中にまわした腕に、力をこめる。
「優しく……してくれる?」
「ああ。おめえが、そう望むなら」
そう言って、彼がしてくれたキスは、今までで一番、優しかった。
過去の傷は、塞がったと思った。
もう大丈夫だと思った。トラップさえいれば、もう大丈夫だって。
幸せだった。
本当に好きな人に抱かれることが、こんなに幸せだってわかって……
トラップに抱かれて、わたしは幸せだった。
暖かい空気に、わたしはふっと目を開けた。
窓の外は、もう明るい。
狭いベッドの中。隣では、裸の肩をむきだしにして、トラップが背を向けて寝ていた。
昨夜の記憶。
巧みな愛撫も、貫かれたときの微かな痛みも。全てが優しかった。トラップに抱かれている間、あの日のことを忘れることができた。
トラップのおかげで、ふっきることが、できたんだよね? わたしは……
そう思うと、涙が伝った。
……バカ、朝から……何、泣いてるのよ。
腫れた顔を見られたくない。わたしは、そっとベッドから抜け出した。
顔を洗うために、洗面所に行こうとして。
その瞬間、足が何かにつまづいた。
「きゃっ!?」
どん、と床に手をつく。同時に、足がひっかけた何かが、どさりと横倒しになった。
「あ……」
トラップのカバン。彼がいつも持ち歩いている、財布などを入れている小さな黒いカバンだった。
それが、床に倒れて、中身を撒き散らしていた。
財布と手帳、携帯電話。そして……
「……え?」
カバンを持ち上げた途端、どさり、と厚手の紙が、まとめて落ちた。
……紙、じゃない。これは……
「写真……?」
すごい枚数の写真だった。無造作に輪ゴムで束ねられている。
それを見ようと思ったのは、ちょっとした好奇心と気まぐれだった。
それが、わたしの幸せを木っ端微塵に壊してしまうなんて……そのときは、予想もしていなかったから……
「……え?」
見た瞬間、そこに写っているのが何なのか、すぐにはわからなかった。
暗い写真だった。多分、夜にフラッシュを使って撮ったもの、だと思う。
暗い雑木林の中。被写体は、女の子。
何枚も写っていたけれど、角度が違うだけで、場所も、内容も、全て同じだった。
長い金髪、うつろな表情。無惨に切り裂かれたセーラー服。むき出しにされた脚。
「…………!!」
わたし、だった。そこに写っているのは、あの日のわたしだった。
一年前のあのとき。遠くに聞こえた、ぱしゃっ、という音。
あれは、シャッターの音だった。写真を、撮られていた……?
何で……そんなものを、トラップがっ……!!
ぽん、と肩に手を乗せられた。ぎゅっ、とつかまれる。
その痛みが、力強さが、怖かった。
振り向けない。振り向いちゃいけない。
真実を知っちゃ……いけない……
「トラップ……?」
「自分で見つけちまったのかよ。……俺が見せてやりたかったのに」
その声は、とても……とても冷たかった。
反射的に振り向いてしまう。そして、まともに視線がぶつかった。
いつもいつもサングラスをかけていたトラップ。ただ一度だけ外したのは、あの日。わたしがトラップを拒絶した日。暗闇の中で、一度だけ。
わたしは、初めて明るい光の下で、彼の目を見た。
暗い憎悪が燃え上がっている、彼の茶色の瞳を。
「と、トラップ……?」
「……別に、おめえ自身にゃ、何の恨みもなかったんだけどな……」
ゆっくりとつむぎだされる言葉。
意味ある言葉として脳に届くまで待ってくれているんじゃないか。そう思ってしまうくらい、ゆっくりの言葉。
「おめえの親のせいで……俺達一家が、どんだけ辛い目にあったか……おめえみてえな苦労知らずのお嬢さんには、わかんねえだろうな……」
「あ……」
親……? お父さんと、お母さん……?
トラップ達一家? どういう、こと……?
「そのせいで、俺も、妹のマリーナも……高校を中退させられて……マリーナはな、おめえより年下だってのに、水商売までやらされてんだぜ? 好きでもねえ男に媚売って、金を手に入れて……そうでもしねえと生きていけなかった、そんな気持ちが、おめえにわかるか?」
「トラップ……?」
「トラップじゃねえ」
彼の言葉は、どこまでも冷たかった。
「ステア・ブーツ。それが、俺の本名だ」
「ブーツ……?」
それは……確かに、聞き覚えのある名前だった。
わたしのお父さんは、小さな会社の人事部長をつとめているんだけれど。
一時期、会社の経営が物凄く危なくなったとき……どうしても、一部の社員をリストラせざるをえなくなった、って。そう言って泣いていたことがあった。
あのとき、リストラした社員の名前。その中の一つが……
「トラップ……」
「トラップじゃねえって言ってんだろ」
つかまれた肩が、ひどく痛かった。
だけど、それを訴える気にも、なれなかった。
わたしに向けられる視線は、どこまでも冷たい。
やっと、わかった。彼が、どうしていつもサングラスをかけていたのか。
この視線を隠すために。わたしに向ける憎悪を覆い隠すために……彼は……
「嘘……だったの?」
「ああ?」
「今まで、優しかったのは……付き合って、くれていたのは……」
「何を、今更」
ぐいっ、と身体を引き寄せられる。わたしの顎をつかんで、無理やり視線を合わすようにして、トラップは言った。
「俺が、一度でもおめえを好きだと言ったことが、あったか?」
「…………」
無かった。
そう、無かった。彼の方から好きだ、と言う言葉を聞いたことは、一度もなかった。
けれど、それを特に変だと思ったことはなかった。照れ屋でぶっきらぼうで、素直じゃない彼だから……言えないのも不思議じゃない、そう思っていた。
「一つだけ、聞かせて」
「…………」
「あの日……一年前、わたしを……乱暴したのは……」
「乱暴、ね」
くっくっ、と、喉の奥で笑って、彼は言った。
トラップ……ステアは、言った。
「おめえを犯したのは、俺だ」
その瞬間、確かに、わたしの中で何かが砕けた。
理性や、感情や、その他色んなものが。
トラップに出会ったことで築き上げた色んなものが、確かに砕け散った。
「全部、計画だったんだよ。おめえの親に対する復讐。可愛がってる娘が、犯されて、裏切られて……そうと知ったあいつらがどんな顔をするか、見たかった。おめえをたらしこむのが、こんなに簡単だとは思わなかったぜ。バカだよなあ、おめえは……」
投げつけられた言葉は、どこまでも、どこまでも冷たかった。
「何で、絶望のどん底に突き落とした当の本人に、惚れたりしたんだよ?」
耳に届いた言葉は、それが最後だった。
背後で、トラップが服を着替えて、わたしの手からカバンを取り上げて、そうして部屋から出て行くのをぼんやりと見送って。
でも、何も考えられなかった。
一つだけわかったこと。
たった一人だけ出会えたと思った、心の拠り所。
それを失ってしまったのだ、ということだけは、わかった。
バタン、とドアを閉めたとき、自分の心にどうしようもねえ罪悪感が襲ってくるのがわかった。
二年前、高校二年のとき。
耳に挟んだ、親父達の会話。
――キングさんさえ……あの人さえ、もっと……
キング。親父の会社の人事部長。
そして、親父をリストラして……俺達を絶望のどん底に突き落とした張本人。
長年つくしてきた会社に裏切られた、それがショックだったのか。あるいは、生命保険で、少しでも俺達を助けてやろうとしたのか。
それはわかんねえ。けど、リストラされた翌日、親父は電車に飛び込んでいた。
そのショックで母ちゃんは倒れて、俺と妹のマリーナが働くしか、生きていく術は無かった。
高校を中退して、マリーナは水商売の道に踏み込んで、俺はバイトに明け暮れて。不景気な世の中だ。高校中退者に真っ当な働き口なんかそうはねえ。
こうなった原因は、誰だ?
そう思ったとき、足は、自然にキング家へ向いていた。
親父の部屋に残されていた書類から、住所は簡単にわかった。
そのとき、見たのは。
辿り付いた家。まあ豪邸の部類に入る大きな家から出てきたのは、俺と同い年くらいの、見るからに幸せそうな顔をした女。
それを見送る、いかにも優しそうな両親らしき二人。
俺達が、こんなに苦労をしてるっていうのに。
その原因となったおめえらは……何で、そんなに幸せそうなんだよ?
その瞬間から、俺の生きる目的は、復讐だけになった。
いつか復讐してやる。おめえらに、俺と、妹が味わった絶望を……大切な人を失う悲しみを味あわせてやる。
それからは、バイトの合間をぬって、あの家のことを調べ続けた。
キング家の一人娘、パステル。ターゲットはこいつしかいねえと思った。
こいつを、絶望のどん底に突き落としてやること。それが、キング家に対する一番の復讐だと思った。
そして、それは達成されたはずだ。
なのに……
帰る間際に見た、パステルの顔。
あんなに表情豊かだったあいつが、全くの無表情で、俺が出て行くのを、見ようともしなかった。
それで、満足だったはずなのに。それこそが、俺が望んだことのはずだったのに。
何で……こんなに胸が苦しいんだ?
大学の教室にもぐりこんだとき。隣に座った俺の顔を見て、慌てふためいていたパステルの顔。
コンビニに客として現れたとき、メールを打ってもいいか聞いたときの、嬉しそうな顔。
初めて二人で夜を過ごすときの、怯えを隠して、挑むように俺を見た顔。
色んな顔が浮かんできた。喜んだり、怒ったり、泣いたり……でも、結局最後には、笑っていたあいつの顔。
ガン、と壁を殴りつける。拳から血がにじむのがわかったが、気にならなかった。
ああ、そうだ。気づいていた。
だから焦ったんだ。取り返しがつかなくなる前に、目的を果たしちまおうと……ずっと焦っていた。
このまま一緒にいたら、本気になっちまいそうだから。
素直で、明るくて、俺の言うことにいちいち反応を返して、弱虫で寂しがりやで泣き虫で
でもそのくせ、芯は強かった。犯された、という過去を乗り越えようと、必死になっていた。
そんなあいつの姿を見るのが、楽しかった。
あいつだけは、惚れちゃいけねえ相手だとわかっていたから……必死に自分を抑えていたのに。
「っ……パステルっ……」
おめえが、キング家の娘じゃなかったら。俺が、ブーツ家の息子じゃなかったら。
俺達は、きっと……
そのときだった。
不意に、ポケットの中で、携帯の着信音が響いた。
反射的に取り上げる。ここ最近の着信履歴は、ずっとパステルの名前で埋まっていた携帯。
一瞬期待に似た感情がかすめるが、そこに出た名前は、俺が望んだ名前じゃなかった。
「……マリーナ?」
ぴっ、と通話ボタンを押す。俺が何か言うより早く、聞きなれた声が飛び出してきた。
『あ、お兄ちゃん!? ねえ、聞いて聞いて!』
「あんだよ?」
『あのね、わたし、就職できることになったの!』
「……マジか!?」
あまりにも突然の知らせだった。携帯を握る手に力がこもる。
16歳の頃から、家計を助けるために水商売のバイトをしてきたマリーナ。
愚痴も不満も言わずに出かける妹を、ずっと助けてやりてえと思った。
助けてやれねえ自分が情けなかったから、復讐に逃げた。
だけど……
ああ、マリーナ。おめえはすげえ奴だよ。
俺の助けなんかなくたって……いつだって、幸せは自分の力でつかみとる奴だった。
「よかったな……よかったな、おめでとう」
『うわ。お兄ちゃんがそんなに素直に祝ってくれるなんて不気味だわ』
「おめえなあ!!」
『ね、それよりさ。わたしに就職を斡旋してくれたの、誰だと思う?』
とびっきりのいたずらを思い付いたときと同じ声で、マリーナは言った。
俺の心を、どん底に突き落とす言葉を。
『キングさんよ! ほら、父さんの会社の人事部長だった……あの人ね、ずっとわたし達、リストラされた社員の家族のこと、気にかけてくれてたんだって。それで、みんなの就職先を、一つ一つ探してくれてたんですって! うちは、父さんがあんなことになっちゃったから……でもね、お兄ちゃんも、よかったら一緒の会社に入らないかって……お兄ちゃん? お兄ちゃん?』
手から、携帯が滑り落ちた。
がしゃんっ、と地面に落ちる前に、俺は走り出していた。
親父の最後の言葉が蘇る。
――仕方ない。あの人だって、辛いんだ。
――誰かの首を切らなければ、会社が危ない。全社員を路頭に迷わせるくらいなら、退職金つきで一部をリストラする。それは、間違っていない……
その直後、親父は電車に飛び込んだ。だから、俺はその言葉を深く考えようとはしなかった。
子供だ、子供だとパステルをバカにしてきた。何も知らねえお嬢さんだと、俺達の不幸の上にあぐらをかいてのうのうと幸せに暮らしてきたガキだと、蔑んできた。
心が惹かれるたびに、そうやって言い聞かせて、無理やり自分の気持ちをごまかしてきた。
……一番ガキだったのは、誰だよ!!
「パステル!!」
バンッ!!
ドアは、俺が出たときのまま。鍵が開いたままだった。
玄関から直接目に入るワンルーム。そこに、パステルの姿はなかった。
シーツが乱れたままのベッドから、無理やり視線をひきはがす。
ここにいねえとしたら……トイレ? 風呂場?
玄関に靴が残っていたから、外に出たはずはねえ。
ばん、と風呂場の戸を開ける。
そこで、目に飛び込んできたのは……
「…………パステル」
赤、だった。
狭いバスルーム。水を張ったままの浴槽。
どこもかしこも、真っ赤だった。
水の中に右腕をつっこんだ状態で、パステルは浴槽にもたれかかっていた。
その身体は、どこまでも青白く……どこまでも、冷たかった。
俺が、ブーツ家の息子じゃなかったら。
おめえが、キング家の娘じゃなかったら。
そうしたら、俺達はどんな関係を築いていただろう。
好きだった。愛していた。
その気持ちを否定しようと必死になっていたけれど、心惹かれるのをどうしても止めることができなかった。
俺には無い強さを持ってるおめえが、自分に降りかかった不幸を、誰のせいにすることもなく乗り越えようとする強さを持ったおめえが……羨ましかった。
復讐のためだけに借りた部屋を引き払って、実家に戻る。
幸せそうに仕事に出かけるマリーナにうつろな笑顔を返して、俺は相変わらずバイトに明け暮れていた。
俺の復讐は、終わった。
そう思っても、心は、ちっとも晴れなかった。
携帯電話のメモリに、一番新しく登録された名前。
もうつながらねえその番号を消せる日は、多分一生来ねえだろう。
それこそが、俺が自分に与えた贖罪だから。
どうしようもなく愚かで子供だった自分に与えた、罰。
どこまでも無意味な復讐は、やっと、終わった――