わたしは絶対に許されない。
「うっ……ううっ……」
広い部屋。豪華な家具。だけど、そこに漂う空気は冷たい。
一人で寝るには広すぎるベッドの上につっぷした。
止まらない涙。漏れる嗚咽。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
歯車が狂ったのは、いつ?
「うっ……うう……うわあああああああああああ!!」
我慢できなかった。
わたしは絶対に許されない罪を犯してしまった。
誰かに裁いて欲しい。誰か、わたしを裁いて……
「奥様」
かけられる言葉に、弾かれたように振り向く。
入り口付近に立っていたのは、わたしの罪の象徴。
「トラップ……」
名前を呼ぶと、彼は恭しくお辞儀をした。
とてもとてもわざとらしいくらいの丁寧なお辞儀。それが余計に、わたしの心をさかなでる。
「何しに来たの?」
「あれは、事故でした」
トラップは、丁寧な口調を崩さないまま言った。
ゆっくりとベッドの傍に歩み寄る。その足取りには、何の迷いもない。
「近寄らないで」
そう言うと、彼はぴたりと足を止めた。
あくまでも自分の立場はわきまえている。そう言いたげに。
そう。わたしと彼の関係は、主従関係。
わたしはこの、名門アンダーソン家の妻にして主人。トラップはこの家の運転手。
トラップはわたしの言うことには逆らえない。そんな関係。
「何しに、来たの?」
「奥様」
奥様なんて呼ばないで。
本当はそんなこと、思ってやいないくせに。
今更自分の立場をわきまえてるなんて態度をとらないで。
あなたはずるい。わたしがこれだけ罪の意識に苦しめられているのに。
どうしてあなたは、そんな平気な顔をしていられるの?
「どうして、平気でいられるの」
疑問がそのまま口をついて出た。
答えて欲しいなんて思ってない。ただ、止められなかっただけ。
わたしの質問に、彼は微笑みさえ浮かべて言った。
「あれは事故でした」
繰り返される言葉。
事故。ええそう。確かにその通りよ。
そうなるように、あなたが仕組んだくせに!!
「よくも、そんなことが……」
「旦那様が……クレイ様が亡くなったのは、不幸な事故です。そうではありませんか?」
「言わないで!!」
枕を投げつける。もちろん、彼にとってそれが何のダメージにもなりはしないことはわかっていたけど。
「どうして、どうしてこんなことになるの? わたしは、ただ……」
再び溢れ出す涙。それを見ても、トラップは眉一つ動かさない。
「あなたを、愛しただけだったのに……」
「…………」
「いつからこんなことになったの? トラップ。わたしはこれからどうすればいいの?」
「お好きなように」
わたしの言葉に、トラップは恭しくお辞儀をした。
「私は、あなたに仕える立場ですから。奥様のご命令とあらば……」
「…………」
そう、その通り。
夫のクレイが死んだ今、わたしは……この家の主人となった。
それは、つまり……この屋敷の中に、わたしに逆らえる人はいなくなった、ということだから。
「抱いてよ」
「…………」
「あの日のようにわたしを抱いてよ! そう言えば抱くんでしょう、あなたは!?」
「……それが、奥様のお望みであるならば」
わざとらしい、丁寧な口調。
ぎしり、ときしむベッド。
身体にかかる重みを受け止めながら、わたしはベッドに倒れこんだ。
これは、わたしの罪の証。
許されない恋に堕ちた、わたしへの罰。
あの日のことを、忘れないこと。
トラップに抱かれている限り、わたしは決してあの日のことを忘れられない。
そうして生涯自分の罪を忘れないことが、わたしに対する最大の罰。
優しい愛撫も、貫かれたときの衝撃も。
乾いたわたしの心には、何一つ潤いを与えない。
トラップの頭を抱きしめるようにして、わたしはまた少し、泣いた。
「俺と、結婚して欲しいんだけど」
クレイにそう言われたとき、わたしは、「へ?」と間抜けな返事をしかできなかった。
わたしと、クレイとトラップ。
クレイは一つ年上で、わたしとトラップは同い年。
わたし達三人の家は、それぞれが適度に名の通った名門の家系で、親同士が仲が良かったから、自然子供同士も親しくなった。
つまりは、幼馴染。
ずっと小さい頃から一緒に過ごしてきて、わたしにとって、彼らはもう実の兄弟みたいなものだったんだけど。
でも、大きくなるにつれて、お父さんやお母さんの話に、「結婚」って言葉が混じるようになって。
そうなってわかった。いつまでも子供じゃないって。
名家なんかに生まれたくなかった。
最近、つくづくそう思う。
わたしは、三人でずっと一緒にいられたらいいと思っていたのに。
わたしにとって、クレイはクレイでトラップはトラップ。彼らは二人ともとてもいい人で、よくいる傲慢な「お坊ちゃん」からはもっとも縁遠い人達だった。
三人でよく近所を探検に出かけたり、泥まみれになって走り回ったり。
親達はあまりいい顔をしなかったけれど、わたし達には、そんなこと何の関係もなくて。
そして、そのまま、月日だけが流れて行って。
名家になんか生まれていなければ、あんなことにはならなかったのに。
指輪を差し出すクレイ。彼の言葉に「ありがとう。もちろん」と承諾の言葉を返しながら。
わたしは、自分の運命を、呪わずにはいられなかった。
あれは、わたしが高校を卒業する年のことだった。。
一年上のクレイは、既に大学に入っている。もっとも、幼稚舎から大学までエスカレーター式の学校だったから、同じ敷地内に通ってはいたんだけど。
同じクラスのトラップ。わたしも彼も、このままなら順当にクレイと同じ大学に入る、そう思っていたときだった。
突然、トラップに呼び出されたのは。
「トラップ? どうしたのよ、突然」
「んー……いや、あのな」
鮮やかな赤毛を長めに伸ばし、細い身体をブレザーに包んだトラップ。
小さい頃は意識していなかったけれど。最近、やけに女の子達に騒がれるようになったのもわかるなあ、なんて、ぼんやりと考える。
クレイも、トラップも、かっこよくなった。
背だって伸びて、力も強くなって、顔もいいし頭もいい。
彼らのことを好きだっていう女の子はいっぱいいて、親衛隊みたいなものまでできている。幼馴染だっていうだけで、わたしは随分彼女達から嫌がらせを受けたけど。
そんなとき、トラップはいつもさりげなく庇ってくれた。学年が同じだから、必然的に、クレイよりトラップの方が一緒にいる時間が長くなった。
「あのな……おめえ、クレイのこと好きなんか?」
「……はあ?」
突然言われたことに、思いっきり間の抜けた返事をしてしまう。
い、いきなり何を言い出すのよあんたは!
「何言ってるのよ。クレイは幼馴染。いい人だなあとは思うけど……」
クレイ・S・アンダーソン。
さらさらの黒髪、優しそうな、欠点がどこにも見当たらないタイプの美形。かなりの長身に鍛えられた身体。成績は学年でもトップクラスで、剣道ではインターハイ優勝までした、まさに文武両道な完璧な人。
そんな彼と幼馴染であることを誇らしくは思うけど……でも、それ以上の気持ちは無い。
何て言うのかな。お兄さんとかお父さんとか……
クレイはとても優しくていい人だけど、彼のことを好きだって言うときの「好き」は、あくまでもそういう意味でしかないんだ。
わたしがそう言うと、トラップはほっ、とため息をついて……そして言った。
「……んじゃ……さ……他に好きな奴は、いんのか?」
「……トラップ。一体何が言いたいの?」
彼の言いたいことがわからなくて、ちょっと苛立ってしまう。
はっきり言って欲しい。……もし……
もし、わたしのこの勝手な予想が当たっているとしたら。
「いんのか?」
「それがどうかしたの?」
わたしがそう言うと、トラップは、髪と同じ色に顔を染めて、そして言った。
「だあら……お、俺を、好きにならねえか?」
「……はあ?」
それは、照れ屋な彼らしい、実に素直じゃない告白だった。
だけど、とても嬉しかったから。
いつからトラップのことを好きだったのかはわからない。
幼馴染としてずっと一緒に過ごしてきて、笑って喧嘩して怒って泣いて、相談して冗談を言って守られて。
そんなことをしているうちに、いつの間にかトラップのことしか見れなくなっていた。
「……無理!」
わたしがそう言うと、トラップは面白いくらいにがっくりとうなだれた。
小さく笑う。きっと、次に彼は怒るだろうってことがわかったから。
「だって、とっくに好きになっちゃってるもん」
そう言うと、予想通り頭を小突かれて、そして抱きしめられた。
幸せだった。
初めてキスしたのは、卒業式の日だった。
初めて抱かれたのは、大学一年の夏休みだった。
「今時珍しいわよ、あんた達みたいなうぶなカップルって」
親友のマリーナには、よくそう言ってからかわれたけど。
いいんだもん。わたしはそれで、十分に満足なんだから。
トラップと付き合い始めてから、クレイと顔をあわせる時間が段々と減っていった。
だけど、クレイはあまり気にしてないみたいだった。
「大学入ったら、色々付き合いも増えるしな」
そんなことを言って笑っていた。
トラップとのことが言えなかったのは、照れくさかったから。
誰よりもわたし達のことを知っている彼だからこそ、恥ずかしかった。
「けどさあ、普通気づくだろ? あいつも大概鈍い奴だよな」
「そうだよね」
そんなことを言って、トラップと二人で笑っていた。
大学一年の夏休み。
「あのさあ、どっか旅行でも行かねえ?」
「どこに?」
「……海とか。車出すからよ」
そのとき、トラップは免許を取ったばかりだった。
ちゃりっ、と車の鍵を見せられて、わたしは念を押したっけ。
「スピード出しすぎないでよ? 事故は嫌だからね」
「ばあか、俺の運転テクニックを見て腰抜かすなよなあ。んで、行くのか? 行かねえのか?」
そう聞いてくる彼の腕に自分の腕をからませて、わたしはわざと聞いた。
「もちろん、日帰りよね?」
その瞬間、トラップの顔がすごく残念そうに曇ったこと、そのくせ、わたしの笑顔を見て、ぷいっと顔をそらしたこと。
「おめえがその方がいいって言うんならな」
一言一句覚えている自分に驚く。それくらい、幸せな記憶だったってことだよね。
すねる彼に身体を寄せて、わたしは言った。
「残念。わたしは、どっちかって言うと、泊りがけの方がいいなあ」
そう言うと、トラップの顔が一瞬にして輝いて。
ぐいっ、と肩に腕がまわされた。
「おめえがその方がいいってーのなら、それでもいいけどな?」
「トラップにまかせる」
答えなんか、わかりきってたけどね。
そっと重ねられた唇。背中に回される腕。
そんな何気ない日常が、いつまでも続くものだと、そう思っていたのに。
初体験は、痛いっていう記憶ばかりが残っているけど。
でも、トラップはとても優しくしてくれた。
裸のまま同じベッドで眠って、翌朝目が覚めたとき、すごく気恥ずかしかった。
「俺さあ、ずっとこういう朝を迎えてえ」
そしたら、もうちっと寝起きがよくなるぜ?
そう言う彼に、「トラップの寝起きがよくなるなんて、ありえるの?」と返すと。
トラップは、くしゃりと赤毛をかきあげて、わたしの目を覗き込んだ。
「おめえさ、意味わかんねえの?」
「……え?」
「おめえと、ずっと一緒に寝たい、そう言ってんだけどな? 俺は」
それが彼なりのプロポーズだと知って、顔が真っ赤になったのを覚えてる。
「返事は?」
「……えと……い、いいよ」
「……もうちっと気の利いた台詞は言えねえのかよ」
呆れた、とトラップはため息をついて、そしてぎゅっとわたしを抱きしめた。
「結婚してくれっか?」
「……はい」
思えば、それが幸せな記憶の最後。
この旅行から帰ってきたとき、何もかもが壊れるなんて……そのときのわたしには、わからなかった。
「え……?」
わたしの家に、古くから仕えてくれている、執事ノル。
彼の言葉を聞いたとき、わたしはしばらく、その意味がわからなかった。
「し、死んだ……?」
「……はい」
ノルは、沈痛な面持ちで言った。
「旦那様と、奥様は……もう、手の施しようがない、と……」
ノルが告げたのは、突然の事故による両親の訃報だった。
それも……
「何ですって……」
それは、信じられない言葉だった。
クレイのご両親と、トラップのご両親と、そしてわたしの両親。
仲がいいように見えたけれど、実は互いが互いを探りあっていた、と知ったのは、確か中学生くらいの頃だった。
少しでも、相手の家を出し抜こうと。
わたしの両親はとても心優しい人達で、そんな争いに本来向いた性格ではなかったんだけど。
父のお母さん……つまり、わたしのおばあさまが、とても厳格な人で、そういうことを気にする人だった。
両家に負けないよう、このキング家を盛りたてていくように。その資格が無いと判断したら、パステル……わたしに、しかるべきところから婿をとり、その人に家をつがせる、と。
わたしにそんな家柄だけの結婚をさせたくないから、と、両親はせいいっぱい頑張ってくれた。
おばあさまが亡くなって、そんな必要がなくなっても……今更関係を変えることはできなくって。
そして……
月に一度行われる、うわべだけの食事会。
それに参加した両親は、そこで事故にあった。
食事会の会場は、三家の屋敷を順番に提供していたのだけれど。
今回は、トラップの家が会場だった。
彼の屋敷は、周囲を自然に囲まれた、とても綺麗な家だったのだけれど。
六人が揃ったところで、悲劇が起きた。
崖崩れ。
屋敷の裏手の崖が、突然崩れて、屋敷は下敷きになった。
かろうじて、クレイのご両親とトラップのご両親は助かったけれど……わたしの両親は……
「お二人は、ブーツ様を助けようとして……そして、逃げ遅れた、ということです」
「…………」
ブーツ、はトラップの家名。
トラップの両親を助けて、わたしの両親は死んだ。
トラップの屋敷が事故に巻き込まれて、わたしの両親も……
「そんな……そんなっ……」
「パステルお嬢様。し、しっかり……しっかりしてください」
「いやあああああああああああああああああああ!!!?」
ノルの声も耳に届かない。
わたしはいつまでも、叫んでいた。
「こんなことになった責任は、取ってもらわねばな」
葬儀の場で、クレイのお父さんは、冷たくトラップ達に言った。
屋敷の建築にミスがあった、立地がどうのこうの。
難しくてよくわからなかったけれど、つまり、こんなことになったのは、トラップの家のせいだと。
アンダーソンさんもその奥様も、無傷じゃなかった。骨折や打撲、無数の怪我を負って、命からがら逃げ出した、と、トラップとそのご両親を責めた。
わたしの両親は死んで、アンダーソンさんも大怪我を負って、でも、皮肉なことに、トラップのご両親は、一番の軽傷で済んだ。
それは、もちろん喜ぶべきことなんだけど……
「俺達にどうしろと?」
「しかるべきものは払ってもらう。当然だろう?」
アンダーソンさんの言葉は残酷だった。
トラップ達家族は、突然屋敷を失って、多くの財産も失って。
そして残されたものも、全て賠償金としてわたしとクレイの家に払われることが決まって。
「裁判に持ち込まないだけ、ありがたく思え」
「ちょっと、お父さま……」
追い討ちをかけるように吐き捨てるアンダーソンさんを、クレイが必死にいさめていたけれど。
所詮、わたしも、トラップも、そしてクレイも。
その現場にはいなかったから。事故がどういう状況で起こったのかなんてわからないから。
それに反論する術はなかった。
そして、アンダーソンさんの言葉は、それで終わりじゃなかった。
「責任は、取ってもらうぞ」
「っ……あのなあっ、うちの財産丸ごとあんたらに差し出すって言ってんだ、この上まだ何か文句があんのかよ!?」
たまりかねたように叫ぶトラップを見るアンダーソンさんの目は、とても冷たかった。
「治療費、慰謝料、賠償金。それは払って当然のものだ。責任は、また違う」
「けっ。うちにはもうおめえらに出すものなんざ何も残ってねえぜ」
そう吐き捨てるトラップに、アンダーソンさんは言った。
「いいや、ある」
「あんだよ」
「お前だ」
そのときのトラップのご両親の顔。絶望を張り付かせた表情を、わたしは一生、忘れることはできない。
「一生、無給でうちに仕え続けろ。それがお前にできる、罪滅ぼしだ」
「あにを……」
「……妻は……」
アンダーソンさんは、奥様……クレイのお母さんを、痛ましそうな目で見つめて、言った。
「あの事故のせいで、二度と歩くことはできないそうだ」
…………!!
視線が、いっせいに集まるのを感じてか、アンダーソンの奥様は、顔を伏せた。
両足に巻かれた包帯と車椅子が、とても痛々しい。
「妻の足のかわりに、運転手として、我が家で働いてもらう」
「と、トラップは関係ない!!」
さすがにたまりかねたのか、トラップのお父さんが立ち上がった。
「私が……」
「いつまで働ける?」
アンダーソンさんの言葉に、トラップのご両親の顔が凍りついた。
「お前達の年で、一体いつまで働ける? いつまで世話を続けることができる? 私達はもう老いていくだけだ。妻が死ぬまで面倒をみてもらう。お前達に、それだけの時間が残されているか?」
「っ…………」
言い返せなくなったのか。トラップ達一家は、黙り込んだ。
クレイも、クレイのお母さんも、必死に止めたけれど。
アンダーソンさんの怒りは、収まらなかった。
死ぬまで、クレイのご両親の世話をしろ。
それが、トラップに与えられた罰。
彼は何も悪くないのに……彼にだけ課せられた罰。
「すまない、すまない」
葬儀の後、わたしは見てしまった。
ご両親が、トラップに土下座をしている光景を。
それを、とても悲しい目で見つめるトラップを。
「しゃあねえって」
そうつぶやくトラップの表情は、とてもうつろだった。
「親父達のせいじゃ、ねえからよ」
……だけど。
あなたのせいでもないじゃない……トラップ……
それだけでも、十分にわたしはショックを受けていたのに。
とんでもない報告が来たのは、両親の四十九日が終わった直後だった。
「お嬢様……」
ノルの声が震えている。
わたしの前に立っているのは、ギア・リンゼイと名乗る、黒髪の美青年。
鋭く整った面立ちと、ナイフでそぎおとしたような無駄の無い体つきをしている。
「アンダーソン家の顧問弁護士だ」
そう名乗る彼が差し出したのは、借金の申し込み書。
そこに書かれていたのは、確かにわたしのお父さんの名前だった。
事業の失敗と、それに伴いできた莫大な借金。
それを払うために、アンダーソン家に助力を申し出たという。父の筆跡に、間違いなかった。
「ご両親が亡くなって、当然、この借金は、あんたに払ってもらうことになるんだがね、お嬢さん」
ギアの声は冷たかった。
その金額は、この屋敷に残されたものを売り払って、両親の保険金と、トラップの家から払われた慰謝料全てを合わせても、まだ足りない。
それくらいに、莫大な金額。
「……わたしに、これを払え、と?」
「いいや。払わなくてすむ方法もある」
ギアは、淡々と言った。
「相続放棄、という方法だ。両親の財産をつぐかつがないか、それはあんたの自由だ。そして、借金というのは、マイナスではあるが財産の一つとみなされる。あんたが相続を放棄するというのなら、この借金を払う必要はなくなる」
「だったら……」
「ただし」
身を乗り出しかけたわたしに、ギアはぴしゃりと告げた。
「あんたは何もかも失うことになる。この家もそうだし、家具も、服も、両親があんたに与えたものは、全て奪われることになる。それでもいいというのなら、好きにすればいい」
それだけ言うと、ギアは立ち上がった。
「返事は、一週間以内にしてもらえると、ありがたいね」
それだけ言って彼が立ち去った後も、わたしはしばらく動けなかった。
何もかも失う。
それは、この……両親の思い出がつまったものを、全て手放すということ。
でも、そうしなければ、わたしは借金を背負うことになる。
もちろん大学もやめて……そして……
「パステルお嬢様……」
「ノル。わたしはもう、お嬢様じゃないわよ……」
声をかけるノルに、力なく告げる。
ほんの数ヶ月前、あんなに幸せだったのに。
どうして、こんなことになってしまったの……
思い出を捨てることなんてできない。
借金を払う術はない。
わたしは、どうすればいいんだろう……
クレイがわたしの家を訪ねてきたのは、それから数日後のことだった。
「パステル……今回のことは、何て言ったらいいのか……」
優しい彼は、きっとお父さんのしたことを自分のことのように責任を感じてくれているんだろうけど。
「クレイは、何も悪くないよ」
わたしがそう言うと、クレイは目を伏せて首を振った。
「お父様を止められなかったのは、俺の責任だよ。トラップの奴も……運転手として、うちで母の世話をしているけど、あいつもパステルと同じことを言ったよ。『おめえは悪くねえだろ』って。だけど……」
がしっ、と自分の頭を抱えて、クレイは言った。
「だけど、それなら、トラップとパステルが何をしたって言うんだ? 今回のことは一方的な事故じゃないか。それなのに、トラップは財産も家も失って、パステルは両親を失って。どうしてこんなことになるんだ?」
「クレイ……」
「しかも、そんな君に……」
クレイは何かを言いかけたけれど、そこで口をつぐんだ。
何となくわかる。
ああ……クレイは、知ってるんだな、って。
わたしの両親が、クレイのご両親に借金をしていたことを、知ってるんだな、って。
「クレイ、いいのよ。わたしのことは……」
「バカ、いいわけないだろう!? ……パステル」
ぐっ、とクレイはわたしの手を握った。
真剣な目で、わたしの目を覗き込む。
「トラップを助けられなかった。だから、俺は君だけでも助けたいんだ。もう、お父様の許可は取ってある。俺には、君を救うことができる。たった一つだけ、方法がある」
「……え?」
救う。わたしを救う?
そんな方法が、どこに……
クレイが差し出したのは、小さな箱だった。
綺麗にリボンがかけられた箱。開くと、中からは、小さな石のはまった指輪が出てきた。
「クレイ……?」
「俺と、結婚して欲しいんだけど」
「……へ?」
クレイと結婚すれば、借金はなかったことにしてもいい。
それが、アンダーソンさんの返事。
わたしに、他の返事は許されていなかった。
それしか、両親の思い出を守る方法はなかったから。
「ありがとう。もちろん」
心が痛かった。
最後に浮かんだのは、トラップの、何もかも諦めきったような、うつろな表情。
「もちろん、お受けするわ……」
きっと、今のわたしは、あのときのトラップと同じ表情を浮かべているに違いない。
わたしの家は、ノルが残って管理してくれることになった。
彼には本当に感謝している。両親亡き後も、わたしの家に仕えることをためらわなかった彼に。
そうして、わたしはアンダーソン家へと嫁いでいくことになった。
それは、とても残酷な事実を目の当たりにすることになったけれど。
「……パステル」
アンダーソン家の門をくぐったとき、目に入ったのは、車を磨いているトラップの姿。
普段のカジュアルな服装とは全く違う、スーツ姿のトラップ。
そして、その彼の傍に立っている背の低い男の人は、アンダーソン家の執事、キットン。
わたしの顔を見つめるトラップに、キットンの叱責がとぶ。
「トラップ、あなたという人は……その口の利き方は何とかならないんですか!」
「…………」
「パステル様は、クレイ様の奥様になられる人です。あなたが気安く口を利けるような方ではないんですよ!」
「…………」
まくしたてるキットンを、トラップはとても冷たい目で見下ろした。
そして、わたしに小さく頭を下げた。
「……失礼しました、パステル様」
「……いえ……」
これは、わたしが選んだこと。
溢れそうになる涙を抑えて、アンダーソン家の玄関をくぐる。
これからは、わたしはクレイの妻として、トラップに接しなければならない。
どうして……こんなことになってしまったの?
案内された部屋の中で、わたしは長いこと、泣き続けた。
クレイはとても優しかった。
ずっと以前からそうだったけれど。結婚して、さらに優しくなった。
大学も卒業させてもらえたし、失敗をして、アンダーソンさん……お義父さんに怒られていると、いつもすっとんできてかばってくれた。
そして。
「……ごめんなさい」
「無理しなくていいよ」
同じ寝室。それは、結婚してるんだから当然のこと。
大きなダブルベッドで、わたしは身をちぢこませていた。
クレイは優しい。
わたしがクレイを拒絶しても、絶対に怒らない。
「無理もないよ。ずっと幼馴染で、そんな対象として見てなかったんだろ? 急には無理だよ」
俺は、いつまででも待つから。
そう言ってくれたクレイに申し訳なくて、わたしは彼の顔を見れなかった。
クレイはわたしとトラップの関係を知らない。
わたしの身体が、既にトラップを受け入れていることも知らない。
それを知ったら、クレイは……どんな顔をするんだろう?
言えない。
そして。
まだわたしがトラップを愛していることも、言えない。
クレイを裏切っている自分が、トラップを諦められない自分が、情けなかった。
クレイと結婚して、数年。
全てが狂ったのは、それだけの月日が流れてから。
「な……何、ですって……?」
わたしとクレイの前に立っているのは、頭に包帯を巻いたトラップ。
「……すまねえ……」
いつもの口調で言いかけて、そしてトラップは、思いなおしたように言葉を変えた。
「申し訳ありません。私の、不注意です……」
トラップの言葉は、事故の報告だった。
お義父さんとお義母さんを乗せて、大事な集会に出かける途中。
ハンドル操作を誤ったのか、スピードを出しすぎていたのか。
とにかく……車は事故を起こした、と。
そして……トラップは、頭を打ったけれど、命に別状はなかった。
けれど、二人は……
バタバタバタ!
騒がしい足音が響き、キットンが、部屋にとびこんできた。
「ご報告します、クレイ様! 旦那様と奥様が……」
皆の視線が、一斉にキットンに集まる。
「……ただいま病院から連絡がありました。お二人とも、助からなかったそうです……」
わたしは、呪われているのかもしれない。
突然の不幸に、茫然とするクレイ。うなだれるトラップ。
二人の姿を見ながら……わたしは、意識が遠のいていくのを感じた。
目が覚めたとき、既に葬儀は終わっていた。
酷い事故で、トラップが助かったのも奇跡のようだというのが、警察の答え。
もちろんトラップは過失を追及されたけれど、事故現場の状況を見る限り、トラップだけが悪いのではないし、彼が真面目に職務をこなしていたことは、屋敷中の人間が証言した。
だから、罪に問われることはなかった。
そうして屋敷に戻ってきたトラップに、クレイは言った。
「……お前は、もううちにいなくてもいいんだぞ?」
「…………」
「お父様も母さんも死んで……お前をうちに縛り付ける人間は、誰もいなくなったんだ。だから、もういいんだぞ?」
「……いいえ」
クレイの言葉に、トラップは首を振った。
その表情は、どこまでも冷たかった。
「このたびのことは、私の責任です。責任は、取ります。クレイ様……いいえ」
そうして頭を下げる姿は、どこまでも、彼に似合っていなかった。
「旦那様」
アンダーソン家主人。
それが、クレイに与えられた新たな名前。
そして、わたしはその妻として、「奥様」と呼ばれる立場になった。
何て……似合わない言葉。
「パステル?」
ぼんやりとトラップを見つめるわたしに、クレイが声をかけてきた。
その言葉に、微笑を返す。
クレイのご両親が亡くなっても、わたしの立場は変わらない。
わたしの借金を全て受け止めてくれて、両親の思い出も守ってくれて、そして身体も許せない情けないわたしを、いつも優しく見守ってくれているクレイを、今更裏切るなんてできないから。
「何でもない」
「そうか。お父様と母さんが死んで、これから忙しくなると思うけど……俺についてきてくれるかい?」
「当たり前じゃない」
わたしがそう言ったとき。
トラップの目が、酷く冷たくわたしをにらんだように見えたのは……
きっと、わたしの気のせいじゃない。
クレイがアンダーソン家をついでから、彼はとても忙しくなって、顔を合わせる機会も減った。
トラップは、運転手として、クレイやわたしの送り迎えをもくもくとこなしている。
とても穏やかで、刺激の無い日常。
「奥様」
呼ばれて振り向く。立っているのは、キットン。
「旦那様からお電話で、今日は家に帰れそうもない、ということです」
「そう……ありがとう」
またかあ、という気持ちしかない。
クレイは滅多に家に帰ってこない。仕事や付き合いが忙しくて、それに慣れるのがせいいっぱいで。
本当は、わたしはそれを悲しむべきなのかもしれないけれど……
彼の顔を見ずにすむのは、正直に言えば、嬉しかった。
罪悪感を感じずに済むから。
「あの、それで、奥様」
「え、何?」
キットンは、用件を告げた後も、しばらく入り口に立っていた。
仕事が終わったらさっさと退室する彼にしては珍しい。
「何か用?」
「いいえ。あの、奥様、まことに勝手なお願いですが……今日、外出させていただいて、よろしいですか?」
「ああ……何だ。もちろん、いいよ。どこかに出かけるの?」
「はい。病院からちょっと声がかかりまして」
キットンは、こう見えて薬剤師の資格も持っていて、優秀な論文を何本も発表しているらしい。
そんな彼が何故執事なんかやっているのかはわからないけれど……
とにかく、そういう理由があるのなら、止める理由は何も無い。
「いいわよ。頑張ってね」
「ありがとうございます。明日には帰ってきますので。それでは、これから出かけます」
そう言って、彼は今度こそ部屋から出て行った。
ドアを閉める寸前、ふと思い付いたように振り返る。
「後のことはトラップに頼んでおきますから。何かあったら彼に言ってください」
バタン
ドアが閉まる。部屋にはわたしが一人残される。
トラップ。
クレイは今日帰ってこない。キットンも出かけてしまった。
この家に、今夜は……わたしとトラップの二人しかいない。
そのことに気づいて、ふと背筋が寒くなるのを感じた。
通いの料理人であるリタが夕食の後片付けを済ませて帰ってしまうと、屋敷の中は急に静かになった。
部屋は一人では広すぎて、落ち着かなかった。
ごろり、とベッドに横になったけれど、時間はまだ夜の九時を少しまわっただけで、当分眠れそうもなかった。
「……本でも読もうかな」
そんなことしかやることが無い。
わたしは立ち上がると、階段を降りて行った。
どうしようもなく寂しいとき、わたしは、図書室と呼ばれている部屋から、本を持ってきて読むことにしている。
このアンダーソン家には、大量の書物が置いてあって、それは、どうにも満たされないわたしの心を少しは癒してくれた。
そうして、階段を降りきったとき……
「…………?」
台所から、光が見えた。
そのとき、何故わたしがそちらに足を向けたのか。
この家に残っているのは誰か、それを考えれば、そこに誰がいるかなんてわかりきっていたのに。
わたしの足は、吸い寄せられるようにして、台所へと向かった。
「……何、してるの?」
ガタンッ!!
入り口で声をかけると。
中でテーブルについていた人影が、弾かれたように振り返った。
「奥様……」
言うまでもない。今、この家にはわたしと彼しかいないのだから。
トラップ。
テーブルの上には、簡単な食事が乗せられていた。
一人で、食事をしていた……トラップやキットンが、わたしやクレイと一緒に食事をすることは絶対に無い。
彼らがいつ食事をしているのか、わたしは知らなかった。
こんな時間に……
「ごめん、食事の邪魔しちゃって」
「いえ……」
わたしがそう言うと、彼は黙って立ち上がった。
その目は伏せられたまま。態度には、ぎこちなさが残ったまま。
その姿を見て悲しくなった。
こんなはずじゃなかったのに。
仲のいい幼馴染、素敵な恋人、そして将来の夫になるはずだった人なのに。
どうして……こんなことに……
「キットンは……今日は、帰ってこないって」
そう思ったとき、言葉が自然に溢れてきた。
「クレイも、今日は、帰ってこれないって……」
わたしの言葉に、トラップの肩が強張った。
「だから……もう、そんな態度は、やめて」
ぽろり、と目から涙がこぼれ落ちた。
「やめて。トラップ……わたしのことを、『奥様』なんて呼ばないで。わたしは……」
わたしがそう言った瞬間。
トラップの顔が、ゆがんだ。
怒りをこらえるような、涙をこらえるような、複雑な表情で。
手が白くなるほどに拳を握り締めて、つぶやいた。
「パステル……」
「…………」
すいっ、と彼の元に歩み寄る。
その腕に手をかけると、トラップの身体が、びくりと強張った。
「わたし……まだ、クレイに抱かれてないの」
「…………」
何を言ってるんだろう、と思う。
突然何を、言い出すんだろう。
でも、止められない。どうしても、伝えたい。
ずっとずっと心の底に押し込めてきた、この思いを。
「駄目だったの。クレイはあんなに優しくしてくれて、わたしのことを助けてくれて……それなのに、どうしても駄目だったの。だって、だってわたしはっ……」
ばっ、とトラップの胸元をつかむ。すがりつくようにして、つぶやいた。
「あなたを、まだ愛しているから……」
「……っ……パステルっ……」
ぐっ、と背中にまわされる、力強い腕。
体重を預けると、トラップの身体は、しっかりとわたしを受け止めてくれた。
「……どうして、この家にいるの?」
「…………」
「事故だったんでしょう? どうしようもなかったんでしょう!? どうして、まだこの家にいるの? あなたが、傍にいたから……わたしは、いつまで経っても……」
「俺はっ……」
耳に届く、甘い言葉。苦しいくらいにわたしを抱きしめる腕。
「おめえを愛してるから……」
「…………」
「おめえの傍にいたかった。この家を出ちまったら、おめえと二度と会えねえんじゃねえかと思った。それが怖かった。だあらっ……」
「トラップ……」
これは罪だとわかってる。
許されない愛だとわかってる。
それでも、止められなかった。
顔をあげると、トラップの唇が降ってきた。荒々しくわたしの唇を奪い、全てをからめとり、強く吸い上げる乱暴なキス。
そんなキスでも、嬉しかった。
唇が離れたとき、わたしは自然につぶやいていた。
「抱いてよ……」
「……ずっと、こうしたかった」
トラップの腕が、わたしの身体を軽々と抱き上げた。
そのまま運ばれたのは、わたしの寝室。
いつもは、クレイと寝ているその場所に、トラップは、乱暴にわたしを投げ出した。
のしかかってくる身体、はぎとられる服。
全ての行為が荒っぽくて、性急で、それでも、わたしは嬉しかった。
「トラップ……」
「パステルっ……」
むさぼるようにして、お互いを求め合う。
トラップの唇が、わたしの身体にいくつも痣を残した。
彼の手は、わたしの身体をあますことなく触れていき、そういった行為に慣れているとは言いがたい身体を、確実にほぐしていく。
「ああっ……や、やあっ……あんっ……と、トラップ……」
細い指先が、わたしの中へともぐりこむ。
酷く恥ずかしい音を立てて、わたしのそこは、あっさりとそれを受け入れた。
「やっ……」
「……マジかよ……」
トラップのつぶやきが漏れる。
「結婚して……何年も経って、クレイの奴とは、一回も寝てねえのか……?」
どうしてわかるの? と聞きたかったけれど聞けなかった。
わたしが経験したのは、ただの一度っきり。
あの大学一年の夏、トラップと経験した、あの一度だけ。
「そう、だよ……だって」
涙で濡れた目で、トラップを見上げる。
この涙は嬉し涙。そうに違いない。
「だって、トラップのことしか、考えられなかったもん……」
「……俺も……」
ぐっ
トラップの身体とわたしの身体が、繋がった。
トラップは、随分と時間をかけてわたしをならしてくれたけれど……それでも、ひどく久しぶりなその行為は、わずかな痛みを与えた。
「うんっ……」
「……痛えか?」
「ううん……平気……」
トラップが相手なら、どんな痛みだって、耐えられる。
わたしがそう言うと、トラップは低く笑って、そして動き始めた。
慎重で、わたしのことを心から大事にしてくれているのがわかる、緩慢で力強い動き。
彼の身体が動くたび、わたしの身体は、確実に反応を返していた。
「あっ……あ、ああっ……と、トラップ……」
「…………」
トラップは無言で行為に没頭していた。
彼の身体から力が抜けたとき、わたしは自ら、彼の身体を抱きしめた。
そうして、わたしとトラップは、明け方までお互いの身体を求め合った。
ようやく彼が身体を離したとき、窓の外は、明るくなりかけていた。
「……おめえを、離したくねえ」
「わたしも……」
「逃げて、くれるか?」
「……それは、駄目」
わたしの言葉に、トラップの顔に絶望の表情が走った。
「どうしてだ?」
「クレイを裏切れない」
裏切れるわけがない。
クレイは何も悪くないのに。むしろ、彼はわたしにとてもよくしてくれた。
彼がいなければ、わたしはこんな優雅な生活を送ることはできなかった。借金に追われて、夜の仕事に身を堕としていたかもしれない。
それなのに、どうして今更裏切れるの? それくらいなら……最初から、結婚したりはしなかった。
「クレイのことが、好きなのか?」
「好きよ」
嫌いになれるわけがない。いっそ嫌いになれたら、楽だったのに。
「あんなに優しい人を、わたしは他に知らない」
「俺だって知らねえよ」
「……わたしは、どうしたらいいの?」
「…………」
「クレイのことが大好きなのに愛せなかった。トラップのことを諦めきれなかった。こんなわたしは、一体どうしたらいいの!?」
「……パステル」
ぎゅっ、と抱き寄せられる。
その腕は、力強く、そして暖かかった。
「俺に、まかせておけ」
「トラップ……?」
「俺が……何とかしてやる」
どうしてだろう。その言葉に、とても不吉な響きを感じたのは。
それがわかっていたのに、断れなかったのは。
「いいの……?」
「ああ」
トラップの答えに、迷いはなかった。
「おめえのためなら、この手をどれだけ汚しても……構うもんか」
それは、3日後のことだった。
「え? パーティー?」
「そう。付き合いのある家からの誘いでさ。夫人同伴で来てくれって……何か用事はある?」
「ううん、無いけど」
クレイの言葉は唐突だった。
古い付き合いのとある屋敷で、パーティーがある。
仕事から帰ってきて、クレイは開口一番にそう言った。
もちろん、わたしに特に用事があるはずもない。
「でも、そういうことはもっと早く言ってよね。ドレス、選ばなきゃ」
「ごめんごめん。俺も突然言われたんだ。待ってるから、準備してきてよ」
「うん、ちょっと待ってて」
部屋にとってかえって、クローゼットをあさる。
こういうパーティーに呼ばれるのは初めてじゃないから、ドレスも何着が準備してる。
ひまわり色の肩の開いたドレスを選んで、上からショールを巻きつけた。髪をアップに結い上げて、化粧をしてアクセサリーを身につける。
大学生になるまではしたこともなかったそんな行為も、ここ数年ですっかり慣れてしまった。
着飾って下に降りると、クレイが、トラップと話していた。
思わず立ち止まる。トラップの視線が、一瞬わたしをとらえた。
その視線があまりにも鋭くて……息が止まりそうになった。
もっとも、本当に一瞬のことだったけれど。
「クレイ。準備できたわよ」
「ああ、早かったね。じゃ、トラップ。よろしく頼む」
「……はい」
トラップは、ひどく似合わない丁寧な仕草で礼をして、玄関へと向かった。
「どうぞ、お乗りください。旦那様、奥様」
開けられた車のドア。
それに乗りたくない、と思ったのは……何でなんだろう?
「ごめん、遅れそうだから、なるべく急いでくれ」
「かしこまりました」
せかされるようにして席に座る。
車は、音も無く走り出した。
「おい、トラップ。どうしてこんな道を?」
「近道です。遅れそうなのでしょう?」
「ああ。そうか、頼む」
「おまかせください」
そんな会話の後、車は、見覚えの無い道を走り始めた。
呼ばれた屋敷は、これまでにも何度か行ったことがある。
何だかその方向とは全然別の方向へ進んでいるような気がしたけれど、方向音痴気味のわたしにはよくわからなかった。
そうして、車がしばらく走ったときだった。
「……なあ、トラップ」
クレイが、不安そうに辺りを見回した。
「お前、この場所は……」
「……気づいたか? クレイ」
トラップは、振り返りもしなかったけれど。
急に周囲が寒くなったような錯覚に襲われて、わたしは思わず、前の背もたれを握り締めた。
「トラップ……?」
「おめえをこう呼ぶのは久しぶりだな、クレイ」
「トラップ、お前どうしたんだ!?」
トラップの声にただならぬものを感じたのか、クレイが必死に呼びかけたけど。
トラップは、前方を凝視したまま、振り返らない。
「お前……一体……」
「おめえにゃわかってるはずだぜ、クレイ。今走ってる場所がどこなのか」
「……ああ」
「何……? ねえ、二人とも何の話をしているの!?」
トラップとクレイの間に漂う緊迫感。
これは……一体何……!?
「パステル」
呼びかけたのは、トラップだった。
「言ったよな? 俺が何とかしてやるって」
「トラップ……?」
車のスピードが、上がったような気がした。
「ここはな、以前俺が事故った場所だ」
「え……?」
「クレイの親父とお袋さんが死んだ、あの場所だよ」
「…………!!」
その声音にひどく危険なものを感じて、わたしは思わず身を乗り出そうとしたけれど。
それは、クレイに止められた。
「トラップ……一体何の話しだ?」
「クレイ。俺は、おめえのことを親友だと思ってた」
クレイの言葉を無視して、トラップは続けた。
「おめえほどいい奴は他にいねえって思ってたよ。おめえみたいな奴が幼馴染で、俺それがすげえ自慢だったんだぜ? どこで俺達は、こんな風になっちまったんだろうな」
「トラップ……」
トラップの足が、アクセルを踏み込んだ。
車の通りが少ない道。どんどんスピードを増す車。
「嫌いになれたら楽だった。おめえを憎めたら、こんなことをせずにはすんだのに」
「トラップ……?」
「おめえは鈍すぎたぜ。どうして、俺の気持ちに気づかなかった? 俺がパステルをずっと愛してることに、何で気づかなかったんだよ」
その言葉はとても静かだった。激情に近い感情は、何も含まれていないようだったのに。
それを聞いた途端、クレイの顔から、血の気が引いた。
「何だと……」
「おめえの両親を殺したのは、俺だ」
ぐんっ
車のスピードがさらに上がる。
メーターは、既に100キロ近い数値をさしていた。
「トラップ……トラップ、何を言ってるの!? お願い、やめて……」
「パステルを手に入れるためなら、どんなことだってしてやる。パステルを自由の身にするためには、どうしたって、おめえの両親に生きててもらうわけにはいかなかった」
「トラップっ……」
100キロから、110キロへ。
この車は外車だから、その気になれば200キロ近い時速が出せるって聞いたことがある。
「まさか、お前はっ……やめろ、そんなことをしたら、パステルも!!」
「俺の運転技術を甘くみんなよ……後ろに座ってるより、前に座ってる俺の方がずっと死亡率は高えんだ。それなのにおめえの両親は死んで、俺は助かった。それは何でだと思う?」
バックミラーにうつるトラップの目には、狂気が光っていた。
顔が恐怖にひきつるのがわかった。クレイが、ハンドルを奪おうとしたみたいだけれど、後ろの席からそんなこと、できるわけもない。
130キロを超えた。
目の前に、急カーブが迫ってくる。
「トラップっ……!!」
「トラップ、やめてっ……」
「……安心しろよ、パステル」
かけられた声は、どこまでも穏やかだった。
「おめえは死なねえよ。本当は、おめえまで危険にさらしたくなかった。だけど、クレイが死んだら、アンダーソン家の莫大な財産をつぐのはおめえだ、パステル」
「トラップ……?」
「おめえにつまんねえ疑いがかかるのだけは避けたかった。安心しろよパステル。おめえだけは絶対に助けてみせる。どんな手を使ってもなっ……」
「いやああああああああああああああああああああ!!」
目の前に、ガードレールと、その先に暗い光が見えた。
下は、海。
そう気づいた瞬間。車は、ガードレールを突き破って、夜の闇に身を躍らせていた。
わたしは許されない。
わたしのつまらないわがままのせいで、クレイは死んだ。そしてわたしとトラップは生き残った。
あの大事故で、どうしてそんなことが起こり得たのか、わたしにはいまだにわからない。
けれども、それは事実。
わたしを抱いた後、部屋を出て行くトラップに、毛布を投げつける。
トラップは、振り返りもせずに部屋を出て行った。
どうして、どうして。
トラップの望み通り、わたしは解放された。
莫大な財産を手に入れて、アンダーソン家の女主人となった。
けれども。
わたしの心には、決して消えることのない罪悪感だけが残されていた。
こんな結末を望んだわけじゃない。
クレイが大好きだった。できれば愛したかった。
その気持ちには、誓って何の偽りもなかったのにっ……
「バカ……トラップのバカっ……」
それでもトラップを嫌いになれない自分を、どこまでも責め続けるしかなかった。
誰か、わたしを裁いて……
バタン、とドアを閉める。
部屋の中から聞こえるパステルの嗚咽の声に、耳を塞ぐ。
これは、俺の罪。そして俺への罰。
廊下を歩いていくと、キットンと鉢合わせした。
「また……奥様の部屋へ?」
「ああ」
俺の言葉に、キットンは痛ましそうな表情をはりつかせて言った。
「どうして、本当のことを言わないのですか?」
「…………」
「いつまで、こんなことを続けるつもりですか?」
俺が答えずにいると、キットンはいらいらしたように言った。
「クレイ様」
「…………」
ゆっくりと髪をかきあげる。
手入れもしていないのに、あまり痛むということがない黒髪。
その下に走る傷は、一生消えることはないだろうと医者に宣告されている。
もちろん、そんなことはちっとも構わないのだけど。
あの事故で。
ガードレールを突き破って、車は海に転落した。
あのときの光景を、俺は一生忘れない。
最初からシートベルトはしていなかったらしい。トラップが、運転席から身を乗り出してきた。
窓を蹴り破って、パステルを外に引きずり出す。
その瞬間、自分がしたことを……俺は、一生忘れられないだろう。
外に出ようとするトラップの足をつかむ。このままだと、俺は死ぬ。そう悟ったとき、無我夢中になった。
車の中に水が流れ込んで、すごい勢いで沈み続ける。
もみあいになった。力なら、トラップより俺の方が強い。
先に脱出に成功したのは、俺だった。
……できることなら、トラップも助けてやりたかった。
例え殺されそうになっても、俺は、トラップを親友だと思っていた。
いや、今でも思っている。
だけど。
脱出に成功して、トラップをひきずりだそうと振り向いた俺が見たものは。
もう手も届かないような海中深くに沈んでいく車だった。
トラップの姿が車の中に残されているのを、はっきりと見てしまったのは……それは、神が俺に与えた罰に違いない。
迷う暇は無かった。俺には、先に助けなければならない人物がいたから。
海中を漂うパステルを救い出し、岸に這い上がれたのは、奇跡としか言いようがない。
だけど……
パステルが意識を取り戻したとき、その目は、既に俺を見てはいなかった。
「トラップ」
俺を見て、彼女はそうつぶやいた。
「トラップ……何て、何てことをしたの……」
「パステル……」
「わたしのせいなの?」
トラップの名を呼びながら、パステルは俺の身体にしがみついて言った。
「わたしがあなたを愛したから……あなたを諦められなかったから。だから、こんなことになったの!?」
そのときの俺の衝撃は、言葉では説明できない。
それ以来、パステルは俺をトラップだと思い続けている。
それだけ、彼女はトラップに生きてて欲しかったんだろう。
現実を否定しても。
そう悟ったとき、俺にできたことは、彼女の夢につきあってやることだけだった。
「クレイ様……旦那様。どうして、あなたはそこまで……」
「……愛してるからだよ」
視線をパステルの部屋に向ける。
愛していた。ずっと小さな頃から守ってあげたいと思っていた。
最初は妹のように、やがて一人の女性として。
その気持ちは、裏切られていたと知った今でも、決して変わっていない。
一生、変わらない。
「クレイ様……」
「これは、俺に与えられた罰だ」
トラップの気持ちも、パステルの気持ちにも気づかず。
二人を救ってやるつもりで、絶望を与えて追い詰めた、俺の罪。
一生許されることのない、罪。
だから、俺は甘んじて受けよう。その罰を。
それに……
決して俺に手を触れさせようとしなかった彼女が、「トラップ」と名乗ることで自ら身体を投げ出してくれるのならば。
例え偽りだとしても、愛してもらえるのならば。
それは、俺にとっても、決して悪いことじゃないから……
廊下を歩いていく。アンダーソン家の主人として、やるべき仕事は山のようにあるから。
部屋に入る俺を迎えてくれる者は、誰もいなかった。