いつからあいつを「女」として意識しだしたのか。
小さいときからずっと一緒に過ごしてきて、どうして今更こんな思いを抱く羽目になったのか。
まわりに他に女がいなかったわけじゃねえし、自分で言うのも何だが、特別女に不自由していたわけでもねえ。
それでも、気が付いたらあいつの姿しか目に入らなくなっていた。
……バカか? 俺は。
決して実らない恋心なんか抱いて……何になる?
自分にそう言い聞かせても、募る思いを抑えることはできなかった。
あいつの無邪気な笑顔、無防備な身体、その全てが、俺の欲情をどうしようもなく煽って、そのたびに罪悪感に押しつぶされそうになる。
……好きになっちまったもんは、しょうがねえ。
だから、せめて……気づかれるな。
こんな思いを抱いてるってことを、あいつにも、他の誰にも、気づかれるな。
きっと誰にもわかってもらえない。この思いを理解してくれる奴なんか、誰もいねえだろうから。
他人の話を聞いただけなら、俺だって理解できなかっただろうから。
「トラップ」
ドキン
たった今、考えていた相手から声をかけられて、俺は内心とびあがりそうなほど驚いた。
落ち着け、焦るな、平静を装え。
内容なんざちっとも頭に入ってねえ本から目を離さずに、生返事だけを返す。
「お風呂、あいたよー。お掃除したいから、早く入っちゃってね」
「……ああ」
それだけ言うと、パステルは居間から出て行った。軽快に階段を上っていく音。どうやら、自分の部屋に戻ったらしい。
微かに香る、湯上りのあいつの匂い。
パステル。
俺がどれだけ愛しても、決して結ばれることの無い相手。
単身赴任することになった親父に母ちゃんがついていって、この家で暮らすことになって。
多分、それが俺の思いを増長させたんだ、と思うが……
けど、どうしようもなかった。俺もパステルもまだ高校生で、それも同じ学校の生徒で、どちらかが一人暮らしをするには無理があったし、どちらかだけが親父達についていくわけにもいかなかった。
かと言って、俺はもう高校三年生で、今更学校を転校するくらいなら、と、親父達はあっさりと二人暮らしを許可してくれた。
俺の思いに気づかなかった両親を、鈍いと責めることはできねえ。
気づかなくたって無理はねえ。誰だって、思わねえだろう。
……実の妹を、愛してしまったなんて……
俺とパステルは年子で生まれた。俺にはクレイという幼馴染がいて、パステルにはマリーナという幼馴染がいて、小さい頃はよく四人で遊んだもんだ。
「おにいちゃん」と俺の後をついてまわるパステルのことを本当に大切に思っていたし、守ってやりたいと思っていた。喧嘩だって何度もしたが、どれも長続きはしなかった。気が付いたらどっちかが謝っていて、謝られた方は許さざるをえない。
そう、俺達は仲のいい兄妹だった。最初は本当にそうだった。
歯車が狂ったのは、中学の頃。クレイとマリーナが付き合い始めた頃、だろう。
クレイは俺から見ても、嫌味なくらい完璧な男だった。美形で優しくて頭が良くて運動神経もいい、それだけの素質を兼ね備えながら、誰からも嫉まれることのねえ、そんな男。
マリーナは、女が憧れる要素を全て持ってる女だった。美人でスタイルがよくて、頭が切れてそのくせそれを鼻にかけるような真似を絶対にしねえ。同性にも好かれ、異性にはもっと好かれる、そんな女。
どこから見てもお似合いの二人だった。俺は素直に祝福したし、二人がお互いを意識していることはそれこそ小さい頃から知っていたから、「やっとくっついたか」という思いの方が強かった。
けど、パステルは違った。
「わたし達、付き合うことになったから」
そうマリーナに言われたとき、口では「おめでとう」と言っていたが、その表情が複雑にゆがんでいることを、俺は見逃さなかった。
……そうか。こいつは、クレイのことが好きだったんだな。
ぼんやりとそんなことを思う。
気づいてなかったわけじゃねえが、あえて意識するのを避けていた。パステルが他の男を好きになる。それは、年頃になったら当たり前のように起こることだ。
そう気づいたとき、胸を締め付けるような苦しみを味わった。
そのとき、確か俺は14歳だったか。中学二年くらいだったと思う。
それから4年。
あのとき感じた思いは、消えることなく、成長し続けている。
俺の理性を食いつぶすようにして。
パステルが俺のことを「お兄ちゃん」と呼ばなくなったのは、それからだった。
どういう心境の変化があったのかはわからねえ。もしかしたら、意味なんかねえのかもしれねえな。
いつかそれを聞いてみたことがある。「トラップ」と呼び捨てにされることが嫌だったわけじゃねえ。むしろ嬉しかったが。
まさかこいつも俺を男と意識してくれているのか、そんな妄想さえ抱いて聞いてみたとき、あいつはあっけらかんと言った。
「マリーナに言われたの。わたし達は、いつまでも子供じゃないんだから、って。『お兄ちゃん』って、何だか子供っぽいじゃない」
……子供っぽい、ね。
そんなことを言う年になったんだな、と思う。そのときパステルは13歳、中学一年生。
恋だの愛だのに一番興味のあるお年頃、って奴か。
昔は一緒に風呂に入ったり一緒に寝たりしてたのに。
今、俺がんなことを言い出した日には、最低呼ばわりされるだろうな。
一度、洗面所に行って、風呂上りにバスタオル一枚巻いただけのあいつと鉢合わせをしたことがある。
気が付いたら胸も膨らんで、すっかり女っぽくなったあいつの身体に、一瞬反応しそうになった自分を呪いながら、「あ、わりい」なんて軽い言葉を吐いてたが。
「ば、バカー!! エッチ、最低、お風呂入ってるんだから来ないでよー!!」
あいつは、真っ赤になって即座に風呂場に舞い戻っていったっけ。
「ばあか、んな幼児体型誰が見るかっつーの。そんな台詞はもっと成長してから言えよなあ」
いつもの調子を崩さねえように。
俺はそれだけを気にして、さっさと自分の部屋に戻っていったが。
その後、部屋の中で俺が何してたかを知ったら……パステルは、軽蔑するだろうな。
そうだよ、パステル。その通りだ。
俺達は、いつまでも子供じゃねえ。
おめえは成長して「女」の匂いを漂わせるようになって、俺だって「男」として、色んな欲望を抱くようになって。
そんなこと、おめえは気づいちゃいねえんだろうけど……
湯上りの姿、パジャマ姿、寝ぼけた顔、キャミソール一枚という薄着姿、下着をつけてねえ姿……
おめえが無防備な姿をさらしていることが、自分の身を危険にさらしてるなんて、気づいちゃいねえんだろうけど。
そんな姿を見るたびに、俺がどんなあさましい妄想を抱いてるか知ったら、おめえは何て言うだろうな?
それを考えると、怖くなる。
パステルに嫌われる、軽蔑される。それだけは、どうしたって避けたい。
そのためにも……この思い、絶対に気づかれちゃいけねえ。
早く時が過ぎるのを祈るばかりだ。高校を卒業したら、多分順当に大学に行くことになるだろう。
幸い成績は悪くなかったし、志望の大学には問題なく入れる、と太鼓判を押してもらっている。
大学生になりゃ、一人暮らしをすることになるだろう。離れて暮らせば、きっと思いも冷める。
それまで……待つしかねえか。
季節が夏から秋に移動する、という時期。
全てが変わったのは、そんなときだった。
普段、家事の類は一切パステルがやっている。
あいつは鈍くさいが、料理はうまい。母親に負けねえものを作れるのは、なかなか大したもんだと思ってる。
まあそれはともかく、だ。
普段なら、夕食を作る時間。パステルは、今に座ってぼんやりとしていた。
「おい、パステル」
声をかけると、びくり、と肩を震わせて振り向いた。
「と、トラップ。何か用?」
「『何か用』じゃねえよ。あのさ、俺腹へってんだけど。飯は?」
「え? あ、ご、ごめんごめーん。今作るねっ!!」
あたふたとソファから立ち上がる。その姿は、あからさまに怪しい。
「何かあったんか?」
「え? な、何でもない何でもない。あ、あのね、夕ご飯、何が食べたい?」
「……そだな……」
考える振りをしながら、パステルの背後にまわりこむ。
そして……
ばっ、その腕をつかみあげた。その手に握られているのは、一通の手紙。
「や! ちょ、ちょっと、見ないで、見ないでってば!!」
封筒ごと取り上げられてパステルがばたばたともがくが、こいつ程度の動きに負けるほど俺は鈍くねえ。
がしっ、と両手首まとめてつかみあげて、片手だけで手紙を開く。
「あんだ、これ?」
中身を見た瞬間、即座に内容を理解したが……俺は聞かずにはいられなかった。
「ば、バカバカー!! もう、人の手紙、勝手に読まないでよー!!」
「ばあか、見られたくねえならこんなところで読んでんじゃねえよ」
――付き合って欲しい――
ごちゃごちゃと書かれた内容。それは、要約すればその一言で収まる。
……ラブレター……
ぽん、と真っ赤になったパステルの頭に手紙を乗せる。
そうか……こいつも、そんなもんをもらうようになったんだな。
パステルは、可愛い顔をしていると思う。いつも一緒にいたマリーナが美人だったから、本人は何のとりえもねえと自分を卑下していたが……兄の欲目を差し引いても、普通よりは上程度の容姿はしている。
何より、気立てがいい。今時の女にしては珍しくスレたところがなくて、素直で、真面目で。
男が「守ってやりたいと思う女」、それがパステルだと、思ってる。
……いつか、こんな日が来るとわかっていた。
パステルみてえな女が好きだ、っつー男はいくらでもいる。
わかってたことなんだ……ショックを受けて、どうする。
ふくれっつらをするパステルにでこぴんをかまして、ソファに腰掛ける。
声が震えねえように細心の注意を払いながら、何でもねえような顔をして聞く。
「ラブレターもらったんだろ? よかったな。おめえみてえな幼児体型を好きだっつー物好きがいて」
「よよよ幼児体型!?」
さりげなく胸が小さいことを気にしていたらしい。パステルは、それこそ頭から湯気が出そうな勢いで怒っている。
それでいい。冷静な目で見られたら、動揺を見抜かれるかもしれねえから。
「幼児体型を幼児体型っつって何が悪いんだよ。んで? 相手の男誰だ。同じ学校の奴だろ? 俺の知ってる相手か?」
テレビのリモコンをつかむ手が微かに震えていることに、自分で気づいた。
知ってどうする。相手を知って……「妹をよろしく」と頼みに行くってのか?
まさか。顔を見たら殴りかかるかもしれねえ。この激しい嫉妬に負けて。
「……知ってると思うよ、トラップも」
せめて、俺の知らねえ相手だったら。殴りたくてもどこに住んでるのかもわからねえ相手だったら、という願いは、あっさりと打ち砕かれた。
「誰だ?」
「……ギア先生」
返された言葉に凍りつく。
ギア・リンゼイ。パステルの担任教師。
専門は体育で、俺も何度か受け持ってもらったことがある。
男には厳しいが、女にはそれなりに優しい、ありがちな教師だった。
背が高くて美形で、それもクレイみてえな優しそうな美形とは違って、鋭い、冷たい美形と言えばいいのか。
男からの評判ははなはだ悪いが、女の評判はごく一部ではすごいもんがある。そんな教師。
「……そっか。あいつにロリコンの気があったとは知らなかった」
「な、何よーその言い方!!」
「教師と生徒なんてそんなもんだろーが。年の差考えたら」
「ギア先生はまだ20代よ!!」
ふん、と鼻を鳴らして、パステルはきびすを返した。
多分、夕食の準備をするつもりなんだろう。
台所に消えるパステルの後姿に声をかける。
「んで、おめえ、付き合うつもりなんか?」
ぱちん、とテレビをつける。画面では、名前も知らねえ芸人が何かを言って客を笑わせていた。
全神経はパステルの方に集中しちまって、言ってる内容なんかかけらも理解できなかったが。
「まだ……考え中」
「好きなのか、ギアのこと」
「好きだよ」
あっさり言われた言葉に、俺の中で、何かが確実に壊れた。
「そうか」
「だけど、教師と生徒って……よくないんじゃないかな、と思って。ねえ、どうすればいいと思う?」
知られたもんはしょうがねえと割り切ったのか、パステルは、あっけらかんとそう聞いてきた。
俺に聞くのか、それを。
それで俺が「やめとけ」と言えば、おめえはやめるのか?
その程度の思いなのか?
「おめえはどうなんだよ。嫌なのか?」
「ううん……う、嬉しかったよ。だって、ギア先生、すごくかっこいいじゃない」
「……そうか」
立ち上がる。つけたことに何の意味もなかったテレビを消して、階段へ向かう。
「なら、いいんじゃねえの? 好きなら、立場なんか関係ねえだろ?」
立場。
それは、多分に自虐的な言葉。
ギアはいい。教師と生徒なんて、時間が解決してくれる程度の問題だ。
俺とパステルの立場は変わらねえ。どれだけ時が過ぎても。
パステルの返事を聞かずに、自分の部屋にこもる。
こんな顔、あいつには見られたくねえから。
嫉妬でゆがんだ顔なんて。
それからあいつがどうしたのか、何を言ったのか。
わからねえ。いつの間にか、季節は秋に変わっていた。
そろそろ受験勉強も本格的にやらなきゃなんねえ時期。推薦をやめて一般入試に絞ったことをちっとばかり後悔する、そんな時期。
部屋にこもって勉強していれば、パステルと顔を合わせる時間が短くてすむ。その程度の理由で、ひたすら勉強に明け暮れた。
「ギアと付き合ってんのか?」
聞きたくても聞けねえ。答えを聞くのが怖い質問。
パステルの態度はいつもと変わらなかった。いつものように家事をして、学校に行って、たまにはマリーナや学校の友達と遊びに行って。
以前なら、よく「宿題教えて」とか言って部屋に入ってきたが、最近はそれもあまり無い。俺の勉強の邪魔をしねえように、と気を使ってんだろう。
それはありがたかった。顔を見ずにいること、見られずにいること。
後半年。それだけ我慢すれば……俺はパステルから離れることができる。
長いようで、短い時間。
パステルと離れる。それは、俺自身が望んだことのはずなのに。
いざ、その日が近づいてくると、それを実感すると……どうしようもなく気分が荒むのは。
それは、俺がパステルを絶対に諦められねえっていう、証拠なんだろうな……
もともと壊れかけていた理性。
それが完全に崩壊したのは、それから一ヶ月くらいが過ぎたある日。
そろそろ寒くなる時期。勉強に疲れて、何か飲み物でも取ろう、と台所に降り立った深夜一時。
そこでダイニングテーブルに座ったパステルを見て、一瞬回れ右をして部屋にとって帰ろうか迷った。
けど、俺が決心するより早く、パステルが俺に気づいて振り返った。
「あ、トラップ……まだ勉強してたんだ?」
「……ああ」
気づかれたもんは仕方がねえ。ため息をついて、パステルのむかいに座る。
そういや、こいつと向かい合うの、久々だな……
最近は勉強を口実に、飯も自分の部屋で食っていた。「一人でご飯食べても美味しくない」とパステルは文句を言っていたが……そんなことに構ってるほどの余裕があるわけもなく。
そう意識すると、顔を上げていられなくなった。即座に立ち上がり、冷蔵庫に向かう。
「お腹空いた? 何か作ってあげようか」
「いや、いらね……食ったら眠くなるしな……」
生返事をしながら、中を覗きこむ。
茶と牛乳しか入ってねえ。舌打ちして冷蔵庫を閉じると、パステルが立ち上がった。
「コーヒー入れるよ。ちょっと待っててね」
「あ、おい……」
「いいから、いいから。たまにはね」
ふわり、とシャンプーの香りが微かに漂う。
俺の目の前を通り過ぎて、湯を沸かすためにコンロに向かう。
その瞬間、とびこんできた白い首筋。
自分の目が良かったことを、これほど恨んだことはねえ。
白い首筋にくっきりと残る、赤い痕。
それが何なのかわからねえほど、俺は子供じゃねえ。
「おめえこそ、こんな時間に、こんなとこで何してたんだ?」
声が暗くなるのがわかった。酷く凶暴な衝動が、燃え上がりそうになる。
抑えろ。気づかれるな。
自分をいさめる言葉も、いつもに比べれば弱々しい。
「ん……何だか、眠れなくて。えへへ、そういえば、トラップとこうやって話すの、久しぶりだね」
パステルは鈍い。今まで俺の思いにさっぱり気づかなかったことからもわかるだろうが……かなり、鈍い。
俺の気持ちになど全く気づく様子もなく、嬉しそうな、照れくさそうな、そんな無邪気な笑みを浮かべて、コーヒーを注ぐ。
聞いちゃいけねえ。きっと、もうこれ以上は、駄目だから。
わかっていたのに……、聞かずにはいられなかった。
「ギアと付き合ってんのか」
予告も前振りもなくずばっと切り込むと、パステルは、大きな目をまん丸にして、俺を見つめてきた。
「どうして、わかるの?」
すっかり小さくなった理性を、さらに細かく砕く言葉だった。
――あのね、色々考えたんだけど。
――やっぱり、先生のこと好きだし。その……いいかな、と思って。
――先生もね、わたしが卒業するまで待つ、って言ってくれたし。
――あのね、すごく優しいんだよ。わたし、デートなんてしたことなかったからよくわからないんだけど。
――先生、「俺にまかせておけばいい」って。大人って感じがすると思わない?
耳に届く言葉の羅列。世間一般では、「のろけ」っつーんだろうな。
マグカップをつかむ手が、ぶるぶると震えているのがわかった。
ようするに、パステルはギアとの付き合いをOKして。
そして、今日が何度目かのデートで。
あまりにも素敵な体験だったから、興奮して眠れなかった……
パステルが言ったのは、そんなような内容だ。
誰かに話したくてしょうがなかったの。それくらい、素敵だったから。
けど、誰にも言えないでしょ? 相手が相手だもん。
でも、トラップなら、いいよね。家族だし。
家族だし。
残酷な言葉だった。
言い換えれば、「異性としては全く見ていない」、パステルが言ってるのはそういうことだ。
ぐいっ、と冷めかけたコーヒーを飲み干す。やけに苦い味が、喉を通り過ぎていった。
そのまま立ち上がる。これ以上、こいつの言葉を聞きたくなかったから。
流しにコップを持っていこうとしたとき……パステルは、つぶやいた。
本当に何気なく、そんな口調で。
「ねえ、トラップには、誰か好きな人いないの? わたし、応援するけど」
手からコップが滑り落ちた。
ガシャンッ、と床でガラスが砕ける音。
それは、同時に、俺の理性が砕け散った瞬間でもあった。
「やだっ、大丈夫? 怪我……」
慌てて立ち上がろうとしたパステルの肩をつかむ。
とびこんできたのは、きょとんとしたあいつの顔。
一歩踏み出した瞬間、足の裏がガラスで切れるのがわかったが、その痛みを痛みとも感じられねえ。
つきあげてきた衝動、欲望、本能。その全てに身を委ねて。
俺は、パステルの唇を、強引に奪っていた。
最初、何されてるのか、パステルはわかってねえようだった。
変化が現れたのは、唇をこじ開けて。舌を無理やりからめとったとき。
「ん……んーっ、んんんっ!!」
真っ赤な顔をしてもがく身体を、強引に抱きすくめる。
ずっとこうしたいと思っていた。おめえを自分のものにしたいと。
血まみれの足が床の上で滑る。そのまま、パステルもろともテーブルの上に倒れこんでいた。
がしゃん、という音がして、飾ってあった花瓶が倒れた。広がる水が、あいつのパジャマを濡らして、身体の線を浮き上がらせる。
それは、俺の心を冷やすことはなく、かえって燃え上がらせるだけだったが。
言葉はいらなかったし、何も浮かばなかった。あるのは、ただこうしたいという思いだけ。
「トラップ……やっ……やだっ、何、何なのっ……」
パステルの怯えた目が、俺をとらえる。
それは、ただ俺の激情を煽るだけにすぎねえってことに気づいてねえ、そんな無防備な視線。
無言でパジャマを引き裂いた。ボタンが一気にはじけ飛んで、下着をつけてねえ胸があらわになる。
唇を寄せると、悲鳴のような声をあげて、身をよじってきた。
「やあっ……やだ、トラップ、冗談、だよね? ねえ、ちょっと洒落になってないよ。やめて、やめてってばっ……」
冗談じゃねえよ。
ぐい、と肩を抑えこむ。
その目を覗き込んだとき、あいつの目に走った光は、何だったのか。
嫌悪か、軽蔑か、諦めか、絶望か。
何でもいい。俺のことだけを思ってくれるのなら。
俺以外の男のことを思うくらいなら、例え絶望に染まった瞳でも、俺だけを見ていて欲しい。
もう一度唇をふさぐ。反射的に閉じようとした唇を、無理やり押し開く。
口の中に広がる苦味は、ブラックで飲んだコーヒーの味なのか。
そのまま唇を首筋から肩へと移動させる。そうすると、嫌でも目に飛び込んでくる。
あいつにつけられた、他の男のものだというしるし……
「おめえは、もう寝たのか? ギアと……」
「なっ……」
耳元で囁くと、パステルの身体が強張った。
「何、言ってるのよ……ねえ、やだよ。トラップ……」
「寝たのか?」
否定も肯定もしねえパステルをにらみつける。奥歯をかみしめて、次の言葉を待つ。
俺が怒っていること。本気で嫉妬していることを悟ったのか、パステルの顔が強張った。全身に細かい震えが走る。
「ま、まだ……」
「キスは? 身体、触られたのか?」
「…………」
矢継ぎ早に質問すると、パステルは真っ赤になって視線をそらした。
それが、答えだった。
首筋の赤いマークの上に歯を立てる。いっそ、そのまま食いちぎってやりたい、そんな危険な衝動。
「やっ……痛い、痛いってば! やだっ、もう……もうやめて、や、あ……」
ぐいっ
胸をつかみあげると、声にあえぎと涙が混じり始めた。
全身で必死に俺を拒絶しようと試みて、その全てを封じ込められて。
力じゃ絶対にかなわないことを思い知って、かといって俺がやめるつもりも毛頭無いことを悟って。
そのときあいつが浮かべた表情は、一体何だったのか。
もうどうでもいい。どうせ。
今更、やめるなんてできねえから。
水ではりついたズボンを強引に剥ぎ取る。下着に手をかけると、今度こそ、パステルの唇から悲鳴が漏れた。
うるせえよ。
脚に手をかける。無理やり開かせると、硬く閉じられたそこが、目にとびこんできた。
ここに、いずれ他の男を迎え入れることになる。
それくらいなら……
ろくに愛撫もしてねえ。痛がらせるだけで、快感なんてほとんど与えてねえ。
涙でどろどろに汚れたパステルの顔。その顎に手をかけ、強引に視線をからめる。
「おめえは渡さねえ」
「…………」
「一生、俺だけのもんだ……」
限界寸前まで膨らんだ自分自身をあてがう。
激しい抵抗が返ってきた。まだ誰も貫いてねえ、狭い場所。
そこに力づくで押し入る。
相当に痛いんだろう。繋がった瞬間、パステルが漏らしたのは、悲鳴。
そして。
「……おにいちゃん!!」
耳に届いた意味を成す言葉は、それが最後だった。
無理やり貫いて、無理やり動いて、無理やり欲望を放出して。
一度はそれで収まったものの、欲望は尽きることはなくて。
そうして何度パステルを抱いたのかはわからねえ。やっと我に返ったとき、時計の針は、既に4時に近かった。
ずるり、と血と精液にまみれたモノを引き抜く。徐々に冷静になってきて初めて、自分の足がずたずたになっていることに気づいた。
「……パステル」
床の上も、テーブルの上も、パステルの身体も俺の身体も。
赤と白と透明な液体でどろどろに汚れた、酷く凄惨で淫靡な場所で。
パステルは、大の字に身体を広げたまま。ぴくりとも動かなかった。
「パステル?」
いくら呼びかけても、揺さぶっても。
返ってくるのは、うつろな視線だけだった。
時が流れる。
5月3日。それは俺の誕生日でもある。
高校を卒業して、俺は結局、今の家から通える距離の近場の大学を選んだ。
もっと上のところも狙えるぞ、と教師全員、親からも薦められたが、俺は断固としてそこにしか行かねえと言い張った。
「こんなになったパステルを、一人で放っておけるわけねえだろ?」
そう言うと、両親は納得したみてえだった。
「パステル」
部屋をノックする。ドアから顔を覗かせると、パステルは、ふわり、と花のような微笑を浮かべて振り返った。
「トラップ。大学は?」
「ばあか、もうゴールデンウィークだから休み。飯、できたぜ。食うか?」
「うん」
微笑むパステルの笑顔は、以前と何も変わってねえ。
だが、今のパステルには、ここ半年ほどの記憶しかねえ。
あの日。俺がパステルを欲望の赴くまま犯したあの日。
パステルは、完全に心を閉ざしてしまった。
実の兄とつながったという罪悪感なのか、現実を否定したいという逃避なのか、それはわからねえ。
だが、目を覚ましたとき、あいつは俺の顔を見て言った。
「あなたは、誰?」
自分の名前はパステル。覚えているのはそれだけ。
俺が誰なのか、マリーナのことも、クレイのこともギアのことも学校のことも自分に起こったことも。
何もかも忘れて、穏やかな顔で、あいつは言った。
「ここ、どこ?」
事故にあって記憶をなくした、と両親には説明した。
何があったのかは俺にもよくわからねえし、医者に見せても記憶が戻るかどうかは不明だと言われた、と。
そう説明すると、両親はパステルを自分たちの元に引き取ろうとしたみてえだが。
「住み慣れた場所で暮らした方が、早く記憶が戻るかもしれねえ」
俺がそう言うと、「くれぐれもパステルのことを頼む」と言って、諦めた。
学校にも同じ説明をした。ギアの野郎は、担任という名目でしばらくしつこく見舞いに来ていたが。
パステルに「覚えていない」と言われたことが余程ショックなのか。いくら顔を出しても、思い出す気配も見せねえことに耐えられないのか、ここしばらくは来ていない。
そして、また俺とパステル、二人だけの生活に戻った。
「ねえ、トラップ」
「あんだよ」
「どうして、あなたはわたしにそんなに親切にしてくれるの?」
飯を運んでくると、パステルは嬉しそうな、それでいて困ったような顔で言った。
「他人の、わたしのために」
俺達の関係を、パステルには話していない。俺にまかせてくれというと、それ以上余計なことを吹き込む奴は誰もいなかった。
ただ、道で倒れていたところを助けた。身分がわかるものを何も持ってねえから、家に引き取って面倒を見ている。
俺とパステルは赤の他人。パステルは、半年以上が経った今でも、そう信じている。
「さあな。俺にだってわかんねえよ。おめえのことが気に入った、つまりはそういうことじゃねえ?」
湯気の立つ皿を差し出すと、パステルは、にっこりと微笑んで受け取った。
そして、真っ赤な顔でつぶやいた。
「じゃあ、じゃあ……あのね」
「うん?」
「わたし……トラップのこと、好きになってもいいかな?」
おめえと一緒になれるなら、この身は地獄に落ちたって構わねえ。
「俺も、ずっとおめえが好きだった」
ずっと前から。おめえだけを見ていた。
妹の頬に手を当てて、俺はゆっくりと、その唇をふさいだ。