ん…… 
 カーテンの隙間から入り込むまぶしい光で、わたしは目が覚めた。 
 もう朝、かあ…… 
 ごろん、と寝返りをうつと、鼻と鼻がくっつきそうな至近距離に、さらさらの赤毛を頬にまとわりつかせた顔がある。 
 布団の上に出ている裸の肩と、耳に届く寝息。 
 ふふ。あったかーい! 
 思わず身体を丸めて、布団の中でその身体にしがみつく。 
 細いけれどきっちり筋肉のついた、見た目よりもたくましい身体。触れた場所から伝わってくる体温。 
 彼はまだ目を開けていないけれど、そうやってわたしがきゅっとしがみついていると、やがて腕がわたしの身体にまわりこんできた。そのまま、ぎゅーっと抱きしめられる。 
 ……ああ、幸せだなあ…… 
 しみじみそう思う。 
「トラップ……」 
「…………」 
 ささやき声にも、彼は目を開けない。 
 寝起きが悪いのは、相変わらず。……いっか。まだしばらくは、このままで。 
 何となくいたずらしてみたくなって、軽く開いた唇にそっとキスをしてみる。 
 わたしからキスをすることは滅多に無い。恥ずかしいっていうのもあるし、そんなことしなくても、いつもトラップの方からしてくれたから。 
 触れるだけの軽いキス、そのまま身を離そうとした瞬間…… 
 がしっ、と、背中にまわっていた手が、わたしの頭をつかんだ。 
「んっ……」 
「…………」 
 唇の間から侵入する熱い舌。わたしの全てをからみとってしまいそうな、深いくちづけ。 
 生き物のように口の中でうごめき、かきまわし、何も考えられなくしてしまう……すごく激しいキス。 
「……起きてたんなら、そう言ってよ」 
「誰も寝てる、なんて言ってねえだろうが?」 
 やっと唇を解放された後。わたしが頬を膨らませて言うと、トラップは、にやにや笑いながら身を起こした。 
 上半身から滑り落ちる布団。裸の胸があらわになって、わたしは目をそらした。 
 もう何度も見てるはずなのに、やっぱりいざ目の前で見ると、恥ずかしい。 
 もっとも、そう言うわたしも、裸なんだけど。見られたくないから、身体は起こさない。 
 布団の中にもぐりこむ。ベッドの下に落ちたパジャマを拾おうとしたけれど、その手は、トラップに押さえ込まれてしまった。 
「やだ……朝だよ? 今……」 
「関係ねえって。先に誘ったのは、おめえだろ?」 
「さ、誘ったなんてっ……」 
「こうして」 
 ふっ、と唇に柔らかい感触。 
 そのまま首筋を伝い、胸の上に痣のような赤い痕をいくつも残していく。 
「やっ……もう、服着るのに困るから……やめてって……」 
「ばあか、他の男に見せてたまるかっつーの。だからつけてんだよ」 
「ちょっと……」 
 ぐい、と肩を押さえ込まれる。身体にのしかかってくる重み。 
 ああ、もう……こうなったら、絶対止まらないんだから…… 
「もうっ……」 
「身体は正直だよなあ。しっかり感じてるくせに」 
 耳元で囁かれた甘い言葉に、わたしは顔どころか全身が真っ赤に染まりそうだった。 
 それはっ……あんたが、うますぎるから! 
 ……なんて、絶対に言えないんだけどね…… 
  
 わたしとトラップが初めて知り合ったのは、わたしが14歳のときだった。 
 それから、10年。気が付いたら、それだけの時間が経っていた。 
 10代の頃、組んでいたパーティーの仲間達。 
 トラップの幼馴染であるクレイ、山火事の中から助け出したルーミィ、いつの間にか仲間になっていたキットン、スライムに襲われていたところを助けてもらったノル、ヒールニントの山の中で仲間になったシロちゃん。 
 そして、わたしとトラップ。6人と1匹の、でこぼこパーティー。 
 なかなかレベルも上がらなくて、最初はクエストよりむしろバイトにばっかり出ていたけれど。それでもちょっとずつ、ちょっとずつ成長していくのがわかって、すごく、すごく楽しかった。 
 みんなとずっと一緒にいたい、心からそう思っていた。 
 だけど……わかっていたけれど。いつか、絶対に別れはくるって。 
 最初に別れが来たのは、キットンだった。 
 奥さんであるスグリさんと無事に再会を果たし、「キットン王国を再興します」と、キットンがパーティーを抜けたのは5年前。 
 手伝おうか、って言ったんだけど、「これはキットン族の問題ですから」と断られてしまった。 
 しょうがないよね、って言って、また絶対会おうねって言って別れたんだけど、やっぱり、寂しかった。 
 次に別れたのがノル。 
 妹のメルさんと再会した後も、彼はずっとわたし達についてきてくれたんだけど。 
 それは、ひとえにメルさんをたぶらかした謎の行商人を追うため。 
 その謎の行商人、何故かわたし達の行く先々で色んな妨害をしてきて、つかず離れず、随分長いこと追い掛け回したんだけど。 
 キットンと別れてから一年くらい経って、ようやく決着をつけることができた。 
 もう心残りは無い、これからはメルと一緒に静かに暮らしたい―― 
 そういうノルを、わたし達は止めることができなかった。それが4年前の話。 
 そして……意外なことに。次に別れが来たのはルーミィだった。 
 いつまで経っても小さいまま、わたしの後について「ぱーるぅ!」と懐いてくれていた、本当の妹みたいだったエルフの女の子。 
 だけど、彼女には大きな秘密があった。ノルのときにも言った、「謎の行商人」。彼がわたし達の前にちょくちょく姿を現すようになったのは、ルーミィのフライの魔法を見てから。 
 それから、何度となく彼女をさらおうとして小競り合いを起こしていたんだけど、その最中で判明した事実。 
 実は、ルーミィのママはエルフの女王様で、山火事で一族が全滅してしまった今、彼女こそが唯一の王家の血筋を引くものだ、という事実。 
 エルフの宝、という有名な話があるんだけど、王家の一族にしかその秘密は伝わっていないとかで、それで謎の行商人はルーミィをさらおうと躍起になっていたのだ。 
 それは、クレイとノルの活躍で行商人を倒したところで、何とか決着がついた、と思ったんだけど。 
 その争いが終わって、一族の秘密が明らかになった途端……ルーミィは、突然成長した。 
 どう見ても2〜3歳くらいだった外見が、突然15、6歳くらいまで成長したのだ。 
 成長したルーミィは、それはそれは綺麗だった。クレイもトラップもしばらくボケーッと見とれてたもんね。 
 いや、まあそれはともかく。 
 そして、彼女は言った。「エルフの宝を守らなきゃならないから」と。パーティーを抜ける、と。 
 一緒に行きたかった。ルーミィと離れたくなかった。 
 わたしは随分泣いたけれど、それはルーミィ自身に拒絶されてしまった。 
「わたしはエルフだから。パステル……ぱーるぅと一緒に生きることはできないから」 
 そう言って、綺麗なブルーアイに涙をいっぱいためて……彼女は去った。 
 エルフと人間は、寿命が違いすぎるから。そんなことは、わかっていたけれど…… 
 ルーミィ一人じゃ危険だ、と言うと、シロちゃんが一緒に行くと言い出した。 
 確かに、ホワイトドラゴンである彼なら、エルフの寿命に負けないくらい長生きできるはずだよね。 
 それに、シロちゃんは……ルーミィと一番の仲良しだったから。 
 そして、二人が行ってしまって……わたしと、クレイとトラップと、たった三人になってしまったとき。 
 クレイの方に、お家からの手紙が届いた。「修行はもう十分だろう。騎士団に入るために戻って来い」という手紙。 
 ……わかってた。何となく予感していた。 
 いつか、こんな風にばらばらになって……パーティーを解散する日が来るって。 
 クレイがいなくなってしまったら……もう、クエストに出ることもできない。 
 わたし程度のレベルじゃ、多分新しい仲間なんてそう簡単に見つからない。 
 ガイナに戻るしかないのかな。わたしにも一応家はあるし、今までのクエストを小説にまとめて売れば、多分生活くらいは何とかなるんじゃないか。 
 そんなことを考えて、わたしが一人ボーッとしていると。 
 不意に、トラップが部屋を訪ねてきた。 
 このときのわたしは、クレイが帰るなら、当然彼もドーマに帰るものだと思いこんでいた。 
 お別れするものだと思っていた。 
 だから……彼に最初に言われたとき、すぐには信じられなかった。 
「なあ、おめえ、これからどーすんの?」 
 窓枠に腰掛けて聞いてくるトラップの目を、まともに見れなかった。 
 泣いてしまいそうだったから。 
「ガイナに戻るしかないかなあ、って。冒険者、続けたいけど。みんないなくなっちゃって、わたし一人じゃ絶対無理だし。ジョシュアはいつでも戻って来いって言ってくれてるし……」 
 そう言うと、トラップは、ぽん、と窓枠から飛び降りて、そしてわたしの目の前に立って言った。 
「おめえ、それでいいのか?」 
「……いいわけない。本当はずっとみんなと一緒にいたかった。ずっと冒険者をやっていきたかったよ。だけど……しょうがないじゃない」 
 改めて言われたら、限界が来た。 
 我慢しよう、我慢しようと思っていたのに。ぼろぼろと涙が溢れて止まらなくなった。 
 一人でぐすぐす泣いていると、トラップの顔が、意外なくらい間近に迫ってきていて…… 
 そして、そのままボスン、と抱きしめられた。 
「……トラップ? あの……?」 
 いつもなら、「やらしーわねー!」とか言って張り倒すところなんだけど。 
 今は、もしかしたら彼は慰めてくれているのかも、と思って。そんな気にはなれなかった。 
 しばらく身動きできずにいると、彼の腕に、ぎゅーっと力がこもって…… 
 そして、言われた。 
「……もしおめえさえ良ければ……俺と、ずっと一緒にやってかねえ?」 
 恥ずかしながら、最初にそう言われたとき、「え? でも、わたしとトラップだけじゃ、クエストはきついんじゃない? 新しい仲間、捜すの?」なーんて間抜けな答えを返して、抱きしめられたまま頭をはたかれた。 
 さすがに、ちょっと考えてすぐに意味がわかったけど…… 
 そして。 
 三年前。クレイがお家に帰る日に合わせて、わたしとトラップもドーマに戻り……そこで、結婚式を挙げて。 
 そして、今に至る、というわけなのだ。 
 最初は、わたしに盗賊団のおかみさんなんて務まるのかなあ、と不安だったんだけど。 
 トラップのお母さんがびしびししごいてくれたおかげで、今は何とか、留守をまかせてもらえる程度にはなってる。 
 幸せだなあって、心から思ってる。 
 ジョシュアは、ちょっぴり残念そうだったけどね。 
  
 一戦終わって、トラップが身体を起こした後も。時計を見ると、まだしばらく時間に余裕があった。 
 今日は、何だか特別暑い一日になりそう……日差しがすっごく強いもん。だから、早く目が覚めちゃったんだけど。 
 こんな風に、余裕がある朝は珍しい。いつもはすっごく慌しいもんね。何しろあの人数の食事を作らなくちゃいけないし、トラップはぎりぎりまで寝てる人だし。 
 そう思ったら、何となく、今まで聞きたくても聞けなかったことを聞くチャンスじゃないか、って思った。 
 だって、この家、いつも4〜50人くらいが一緒に暮らしてるんだもんね。二人っきりになれるチャンスなんて、それこそ文字通り寝てる間しかない。 
 気兼ねなく二人だけでしゃべれる時間って、すごく貴重なんだ。 
「ねえ、トラップ」 
「あん?」 
 だるそうにごろごろしている彼の方に、身を乗り出す。 
「ねえ、聞いていい? ずっと聞きたかったことがあるんだけど」 
「あんだよ」 
「あのね……」 
 直後のトラップの顔を想像して、思わず笑みが漏れる。 
「わたしのこと、いつから好きだったの?」 
 想像通り真っ赤になった彼の顔を見て、わたしは堪えきれず笑い声をあげた。 
  
 いつからかなんて覚えてねえ。気がついたら、おめえしか目に入らなくなってたんだから。 
 ……ああ、だけど、多分あのときじゃねえかな。おめえを「女」って意識しだしたのは。 
 あれは……確か、俺が16になったばっかの頃だったか……レベルだってやっと2とか3になったばっかで、まともなクエストにもあんま出れなくて……でも、珍しく骨のあるクエストに挑戦できたんだよな。 
 あんときの、あれが……多分、俺がおめえを意識するようになった、最初の日じゃねえかと思う。 
  
「クレイ! そっち頼んだぞお!」 
「わわわわかった!!」 
 ごうごうと流れの速い川。その中に、橋のかわりとでも言うのか点在する岩。 
 その一つに立って、俺は限界まで声を張り上げていた。 
 今日挑戦するクエストは、山の薬草を荒らしまわるゴブリン退治。まあいつものバイトだとかお使いに比べりゃあ、ちっとは冒険者らしいクエスト、と言えるだろう。 
 ゴブリンそのものは、んな怖い敵じゃねえしな。 
 やっとまともなクエストだ! と俺達もえらく張り切ってたんだが。 
 オーシの野郎め。どうりでやけに安いと思ったんだよ。 
 山に入る前にこんな難所があるなんて聞いてねえぞ!! 
 川の向こうに見える山こそが、俺達が目指す山。その山を、ぐるっと囲むようにして流れている川。 
 この川を超えねえ限り、絶対に山には辿りつけねえ……それがわかったときには、もう今更引き返す、なんつーこともできるわけもなく。 
 岩を飛び移っていけばどうにか渡れることを確認して、一番身軽な俺が先に川を渡り、ロープを張って命綱を作り、その後を残りの連中が渡る……とまあ、そういう計画を立てた。 
 で、実際、それは途中まではすげえうまく行っていた。 
 岩ったってんなでかいもんじゃねえし、水を被ってすげえ滑りやすかったが、まあロープにさえ捕まっていれば、何とか渡れるだろう、っていう程度。さすがにルーミィはノルがおぶっていくことにしたが。 
 ああ、そうだ。この頃は、まだシロは仲間になってなかったんだよな。まあそれはともかく。 
 渡りきったところでうまくロープを固定できそうな場所を探してしっかり縛り付けた後、反対の端を向こう岸に投げる。 
 クレイがそれをしっかり固定するのを確認した後、一人一人渡らせる。 
 最初にノルとルーミィ、次にキットン、次にクレイ。 
 パステルが最後になったのは、あいつが最後の最後まで怖気づいていたからだ。この頃は……いや、この後も長いことそうだったが……パステルは、怖がりで甘えたがりで、何かっつーと俺達を頼ろうとしてたっけな。 
 そのたびに、言ってやってたもんだ。「甘い甘い甘い。いつまでも俺達が一緒にいてやれると思うなよ」ってな。 
 そう言うたび、あいつは泣きそうな顔をして……それでも、歯を食いしばって努力しようとしてきた。 
 色々言ってたが、あいつに冒険者にとって一番必要な才能、根性があることは、俺も認めてたんだけどな。もっとも、本人にはぜってー言わねえけど。 
「おい、パステル! さっさと渡れって!!」 
「……だ、だって……」 
 俺が怒鳴ると、パステルは目に涙を浮かべながら、ロープにしがみついた。 
 「俺がおぶってってやろうか」なんてクレイが戻りかけるのを手で制して、とんとん、と川の中央の岩までとびうつる。 
 クレイは優しい奴だ。それはあいつのいいとこでもあるんだが……いかんせん、甘すぎる。 
 泣いて怖がるのを助けてやってたら、いつまで経っても成長できねえだろうが。ロープにさえ捕まれば、大して渡るのは難しくねえんだ。助けてやる必要なんざねえ。 
「だってじゃねえよ! さっさと来いって!」 
「…………」 
 俺が怒鳴ると、パステルは目をそらして……そして、ぼそぼそとつぶやいた。 
 耳はいい方だと思っているが、そのときは水の流れる音がうるさくて、よく聞こえなかった。 
「あんだって?」 
「だからっ……わたし……」 
 真っ赤になったパステルが叫んだ。 
「お、泳ぎは苦手なのよっ!!」 
 ………… 
 そうだったのか。……そりゃあ……怖気づくのも無理はねえ、か…… 
 再三言ってるがこの川、相当に流れが速い。俺はもちろん泳ぎは得意中の得意だが、多分この川を泳いで渡れと言われたら……無理、と首を振る。それくらい速い。 
 かと言って……ここで優しい言葉をかけてやるのは、俺の性に合わねえしな…… 
「ばあか、落ちなきゃ問題ねえっつーの! いいから来い!!」 
 ひょいっ、と一番岸に近い岩までとびうつり、片手を伸ばす。パステルは、しばらく俺の顔と川を見比べていたが、おずおずと手を握ってきた。 
 危なっかしい足取りで、どうにかこうにか岩を渡っていく。反対の岸では、クレイ達がはらはらしながらこっちを見ているのがわかった。 
 ……が、間の悪いときってのはあるもんで。 
 ちょうど川の中央まで来たとき、たまたま、大きなうねりが来て、水しぶきが高くあがった。 
「きゃあ!?」 
 突然顔に水がふりかかって、パステルが反射的に顔を覆う。 
 片手は俺が握っていた。だから、もう片方の手で……つまり、ロープを握っていた方の手で。 
「バカッ……」 
「あああああああああ!!?」 
 思わずつぶやいてももう遅い。 
 その瞬間、足元が滑りやすかったことも災いして、パステルは思いっきりバランスを崩した。 
 慌てて支えようとしたが、こんな踏ん張りのきかないところで片手だけで支えきれるわけもなく。 
 結局、パステルもろとも、川の中へ落下する羽目になった。 
  
 一体どんだけ流されたのかわからねえ。 
 泳ぎが苦手な奴ほど、いざ水に放り込まれるとパニックになってめちゃくちゃに暴れまわる。 
 そんなパステルを抑えこむのにせいいっぱいで、岸に這い上がろうなんて到底無理だった。 
 流されるだけ流されて、どうにか水流が穏やかになったのは大分下流に来たところだった。 
「げほっ、ごほっ……」 
 しこたま水を飲んでむせかえる。小脇に抱えたパステルをひきずりあげて、地面に倒れこむ。 
 服を着たまま、しかも泳げねえ奴を抱えたまま泳ぐのは、相当にきつい。俺まで溺れなかったのが不思議なくらいだ。 
 そんなわけで、しばらく動く気にもなれなくてぐったりしてたんだが。 
 そのうち、パステルが嫌に静かなのに気づいて、ふと身を起こした。 
「おい……パステル?」 
 ぴくりとも動かねえ身体を仰向けにして、ぎくりとする。 
 身体は相当に冷え切っていた。水につかってたんだから、当たり前っちゃ当たり前なんだが…… 
 青ざめた顔。紫色に変色した唇。 
 鼻と口に手をあててみる。胸に耳を押し当ててみる。 
 ……まずいっ!! 
 寝てる場合じゃねえ。俺は慌ててパステルを抱き起こすと、顎をそらして気道を確保した。 
 水を飲みすぎたのか……パステルの呼吸は、完全に止まっていた。 
 身につけていたアーマーを無理やり脱がせる。腰のあたりにまたがって、胸に両手を押し当てた。 
 そのまま、体重をかける。 
「1、2、3、4、5」 
 カウントしながらの心臓マッサージ。鼻をつまんで口を開かせ、思いっきり息を吹き込む。 
 水難事故の場合、人工呼吸をなるべく早くやることが、文字通り命を左右する。まあ後になってよく考えたら、俺もよくそこまでできたな、と感心するが。 
 ちなみに、こういう応急手当は冒険者にとっての基礎知識の一つだ。実際に使うのは、このときが初めてだったんだが…… 
 とにかく、パステルが死ぬかもしれねえと思ったから、俺も必死だった。額に汗がにじんで息切れがひどくなったが、今この場には俺しかいねえ。変わってくれる奴は誰もいねえ。 
 パステルを救えるのは俺しかいねえ。そう思ったら、やめたいなんてこれっぽっちも思わなかった。 
 そうして、何回目か、何十回目かは忘れたが。 
 努力の甲斐あって、どうにかパステルは息を吹き返した。ちょうど唇を重ねていたときに、「ごぶっ!!」とかいう色気も何もねえ声とともに水をふき出して、俺までむせかえりそうになったんだよな。 
 最初、目の前に俺の顔があるのを見て、しかも胸に両手が当てられてるのを見て、さらに腰のあたりにまたがってるのを見て、パステルは礼より先に盛大な悲鳴と強烈な平手をお見舞いしてくれたが。 
 自分が死にかけた、ということを理解して、さすがに殊勝に謝った。……当然だけどな。 
「ったくなあ! 命の恩人に対してなんつー態度だよ。誰がおめえみてえな幼児体型襲うかっつーの!!」 
「なっ……!!」 
 俺が言い返すと、パステルは真っ赤になって震えていたが。 
 改めてその身体を見て……一瞬、心臓がはねた。 
 アーマーを脱いで、ブラウスとスカート姿になったあいつの身体。 
 全身びしょぬれで、服はぴったりと張り付いて身体の線があらわになっていて…… 
 扇情的とは言いがたい。けど、それでも、明らかに俺達男とは違う身体。 
 さっきは夢中で気づかなかったが、手のひらに残る弾力、唇に残る甘い味。 
 ………… 
 瞬間的に顔が真っ赤になるのがわかった。 
 四六時中一緒にいたのに、金が無えから、と同じ部屋に雑魚寝までしていたのに。 
 今更気づく。こいつは女なんだって。いざというときは、守ってやらなくちゃなんねえ……って。 
 予備校に通っていた時代、パステルがクレイにこれっぽっちも恋愛対象として見ようともしねえことを知って、こいつは他の女とは違う、と思った。 
 美形で背が高くて優しい、クレイはそういう女が憧れる要素を全部持ってたからな。それまで、近寄る女という女全員がクレイに惚れるのを見てきた。 
 だからこそ、パステルみてえな女は新鮮だった。変に色恋沙汰にきゃあきゃあわめく女に比べりゃずっと付き合いやすいと思ったから(もちろん、他にも色々理由はあったんだが)、一緒のパーティーを組もう、という気にもなった。 
 何でだろうなあ……今更、意識することになるなんて。 
 どんだけ色気がなくて鈍くて恋愛沙汰に疎くても、こいつもやっぱ女なんだ、って…… 
  
 思えば、あれからだよなあ。パステルのことを何となく目で追っちまうようになったのは。 
 ……そういやあ、何だかんだで俺、こいつのファーストキスをもらったことになるんだよな? 
 ちら、と隣に横たわるパステルに目をやると、にへらっ、と幸せそうな笑みが返ってきた。 
 ……可愛いじゃねえか、ちくしょー。 
 思わずもう一回押し倒したくなったが、それはさすがにやめておく。 
 全くなあ。まさかこの俺が、ここまでこいつにぞっこんになるとは。自分が一番驚いたぜ。 
 結婚をOKしてくれたとき、すげえ嬉しかったもんな。ずっとこいつと一緒にいれるとわかったから。 
「ねー、トラップ?」 
 声をかけられて、ハッと我に返る。 
「ねえ、教えてよ? いつからわたしのこと好きでいてくれたの?」 
「……忘れちまったっつーの、んな昔のこと」 
 照れ隠しにそう言う。何でだかわかんねえけど、この思い出は誰にも教えたくねえと思った。例え相手がパステルでもな。 
 これは、俺の……俺だけの思い出にしときてえ。それだけ、大切な思い出だから。 
 すると、パステルの顔が、ますますほころんだ。 
「そんなに前から、好きでいてくれたんだ?」 
 ………… 
 やべ、余計なこと言っちまったか? 
「そういうおめえは、どうなんだよ?」 
「え?」 
 俺の言葉に、パステルが首を傾げる。 
 その唇に軽くキスした後、目を覗き込んで重ねて聞く。 
「そういうおめえは、いつから俺のことが好きだったんだ?」 
「……ええっと……」 
 パステルの顔が、ぼんっ、と赤く染まった。 
 ……照れてやがる。 
 それにしても、いつからなんだろうなあ。まあ、俺より早いってこたあねえだろうな。 
 俺が告白するまで、こいつんなこと考えもしなかったみてえだもんなあ…… 
 ひょっとしたら、俺に言われるまで気づかなかった、なんて真顔で言い出すかもしれねえな。心の準備をしとかねえと。 
 小さな肩に手をまわして、俺はパステルの返事を待つことにした。 
  
 わたしがトラップを好きになったのは、いつからなんだろう? 
 正直言って、トラップに「一緒になろう」って言われるまで、自分でも気づいてなかったんだよね。トラップを好きだってことに。 
 うーん、と知り合った頃から今日までの印象的なことを思い出して見る。 
 何がきっかけだったんだろう。少なくとも、最初に会ったときは、むしろ印象は悪かった。 
 だってだって、スライムに襲われてるわたしとルーミィに、「助けたんだから千ゴールドな」なんて真顔で言ってきたのよ!? いや、結局冗談だったみたいなんだけど。 
 その後も、色々失礼なこと言われるし意地悪もされるしとにかく厳しいし……そう、最初はどちらか……あえてどっちかを選べ、って言われたら、クレイとトラップだったらクレイを選んだと思う。彼は出会ったときからずっと優しかったしね。それにこう言ったら何だけど、かっこいいし。 
 いつから、トラップでないと駄目だって思ったのかなあ…… 
 うーん、と思い返して、やっと、「あれかな?」っていう出来事を思い出した。 
 それは、まだわたし達のレベルが2か3か、それくらいだったとき。 
 パーティーを結成してから、ちょうど一年くらいが過ぎたある日のことだった…… 
  
 山の薬草を荒らすゴブリンを退治してくれ、というクエスト。バイトやお使いクエストばっかりやってきたわたし達にとって、久々に冒険者らしいクエスト。 
 だけど、わたし達のクエストって……何でいつもこう、無駄に障害が多いんだろう……? 
 ごうごうと流れる川を前に、わたしは途方にくれていた。 
 他のみんなは、向こう岸に渡ってしまっている。残っているのはわたし一人。 
 早く行かなくちゃ、っていうのはわかってる。だけど、だけど…… 
 そのあまりの流れの速さに、眩暈を起こしそうになった。 
 自慢じゃないけど、わたし、泳ぎは苦手なんだよね。いや、かなづちっていうわけじゃないんだけど…… 
 こんな流れの速い川、もし落ちたら、多分一巻の終わり。そう思うと、どうしても足がすくんで…… 
「おい、パステル! さっさと渡れって!!」 
「……だ、だって……」 
 川の真ん中付近の岩の上で、すごーくイライラした様子のトラップが怒鳴っているのがわかった。 
 トラップは、こういうとき絶対にわたしを甘やかそうとしない。多分、クレイだったら「俺がおぶってあげるよ」とか言ってくれるんだろうけど……そのクレイは既に向こう岸に渡っちゃってる。 
 一人で渡れ、甘えるな……多分そう言われるだろう。そう思うと涙が出そうになった。 
 駄目駄目、泣いちゃ駄目! 
 厳しくても、トラップの言ってることは正しい。こんなことくらいで甘えてちゃ、到底冒険者なんてやっていけない。 
 なるべく自分一人の力でやらなくちゃ。がんばらなくちゃ。 
 それでも、「泳ぎが苦手」と伝えると、トラップは手を貸してくれた。ロープと、彼の手を握って、わたしはおそるおそる岩の上に足を踏み出して…… 
 あああ、だけどわたしって、どこまでもドジなんだよね…… 
 ちょっと高い水しぶきに驚いて、ロープを手放してしまう。岩の上は足場も悪くて、そうなったらもう身体を支えられなかった。 
 トラップが一生懸命手をひっぱってくれたけど、踏ん張りがきかないから結局そのまま二人そろって川へ落ちちゃったんだよね。あのときは、もう駄目かと思った。 
 落ちる寸前、トラップのすごく青ざめた顔が印象的だった。心配してくれてる、厳しいことばかり言ってるけど、トラップはトラップなりにわたしのこと考えてくれてる。 
 そうわかって、こんなときだっていうのに……ちょっとだけ嬉しかったのも、覚えてる。 
 それから後、どうなったのかはよく覚えてない。 
 気が付いたら、わたしは水を吐き出してせきこんでたんだけど。 
 パッと目を開けたら、今にも唇が触れそうな距離にトラップの顔。胸の上に彼の手。さらに身体の上に馬乗りになった彼の身体。 
 そんなものを一気に見てしまって、一瞬にして血が上って「きゃああああバカバカバカー!! 何するのよエッチー!!」 なんて叫びながら思いっきりひっぱたいてしまったんだけど。 
 ……いや、でも、誤解してもしょうがない光景だと思わない? ねえ…… 
 後になって、死にかけてたところを救ってもらったんだとわかって、どれだけ謝ったか。 
 もう自分が情けなくて。一体何考えてるんだってすごく落ち込んだんだよなあ。 
 でも、トラップも最初のうちこそぶつぶつ言ってたけど、すぐに「おら、行くぞ」といつも通りの顔で手を差し出してくれた。 
「行くって?」 
「はああ? おめえなあ、いつまでもここにいたってしょうがねえだろ。クレイ達と合流すんの。ほれ、とっとと立て」 
「う、うん……」 
 ぎゅっ、と手を握る。そのまま、歩き出す。 
 わたしは正直、もうふらふらで歩いているのも辛いくらいだったんだけど、トラップの足取りはいつもと全然変わらなくて。 
 彼は盗賊だから、体力値なんかはファイターのクレイと比べると大分低いんだけど。 
 それでも、やっぱりこんなとき……男の子なんだなあ、って、しみじみ思ってしまう。 
 ……感慨にふけってる場合じゃないんだけど。 
 何しろ川の流れが速かったからね。わたし達も相当下流に流されてて。クレイ達と合流するためには、大分歩かなくちゃいけない、ってことだった。 
 わたしもね、大分頑張ったんだ。 
 だけど、途中でついに動けなくなった。川に長いこと浸かっていたせいで身体が冷え切っていたし、後でキットンに聞いたところによると、長いこと呼吸が止まっていたのに長時間歩くなんて自殺行為だ、ってことらしい。 
 でもまあとにかく、そんなことはそのときのわたしにはわからなくて(呼吸が止まってた、ってところがそもそもぴんときてなかったし) 
 動かなくちゃ、って頭ではわかってるのに、どうしても足が動かない。歩かなくちゃ、トラップに怒られる……そう思いながらも、気が付いたら、地面にへたりこんでいた。 
 それに気づいたのか、先を歩いていたトラップが振り返った。 
 ああ、また怒鳴られるんだろうな……そんなことをぼんやりと考えながら、とん、と身体を横たえる。 
 物凄く眠たくなって、もうこのまま寝ちゃおうか、なんてことを本気で考えていると。 
 額に、冷たい感触があたった。 
 ……これ……トラップの、手……? 
「おめえ……熱があるじゃねえか!!」 
 耳に届いたのは、焦った様子のトラップの声。 
「わりい、俺、気づかなくて……お、おい、大丈夫か!?」 
 ああ、何だろう。怒られる、と思ったのに。 
 心配してくれてる……? 
 ついで感じたのは、ふわっ、と抱き起こされる気配。わたしの背中に、ばさり、と何かが被せられた。 
 そして、そのまま、暖かい背中におぶわれて…… 
 そのときのわたしは、眠気に負けて、そのまま寝てしまったんだけど。 
 どうやら、トラップはわたしに自分の上着を被せて、背負ってクレイ達のところまで運んでくれたらしい。 
 自分だって、わたしを川から助け出して何やかんやで凄く疲れてるはずなのに、よ? 
 すごいなあ。トラップって……何だかんだで、やっぱり頼りになるよなあ…… 
 このとき、わたしは強く思ったんだよね。 
 優しくしてくれるのは嬉しい。だけど、厳しい言葉をかけるほうが、優しい言葉をかけるよりもっと難しいんじゃないかって。 
 いざというとき助けられる自信が無ければ、他人に厳しくなんてなかなかできないんじゃないかって。 
 それ以来かな。トラップの厳しい言葉を聞いても、あまりめげたり傷ついたりせずに「がんばろう!」っていう気になれるようになったのは…… 
 好きになったきっかけかどうかはわからない。 
 だけど、間違いなく……このとき、トラップはわたしの中で、特別な存在になったんだよね…… 
  
「おい、何ニヤニヤしてんだよ。気持ちわりいな」 
 トラップの言葉に、ハッと我に返る。 
 相変わらずベッドの中。すぐ近くにトラップの顔。 
 いけないいけない。つい思い出に浸っちゃった。 
「何でもないよ、何でも」 
「あに言ってんだか。それよりほれ、答えろよ。おめえ、いつから俺のことが好きだったんだ?」 
 にやにやと意地悪そうに笑うトラップ。 
 うーっ……どうしよう。 
 恥ずかしいし、それに、何だかこの思い出は、誰にも教えたくない。 
 わたしの、わたしだけの思い出として、胸の中に閉まっておきたい。 
 今の幸せを手に入れるきっかけとなった、かけがえのない思い出だから。 
「教えない」 
「あんだよ、それ」 
「だって、トラップも教えてくれなかったじゃない? だから、わたしも教えない」 
「……んなこと言うとキスすっぞ」 
「してみたら?」 
 二人して顔をつき合わせて……そして、同時に吹き出した。 
 こうして唇を合わせるの、何回目になるんだろう? 
 すごく気持ちいい、文字通りとろけそうになる熱い長いキス。 
 トラップの手が、わたしの背中をそっとなで上げる。そのときだった。 
「朝だよっ! 起きてるかい!?」 
 ドアの外から聞こえてきたのは、わたしの大先輩である、お義母さんの声。 
「……もうこんな時間か」 
 恨めしそうに時計を見上げるトラップに笑いかけて、わたしは立ち上がった。 
 今日も、一日が始まる。まずは朝食を作って、みんなを起こして、それから…… 
「トラップ!」 
「ん?」 
「……おはよう」 
 そう言って笑いかけると、トラップも満面の笑みを返してくれた。 
 さあ、今日も一日、頑張るぞ! 
 

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