二年前に親父が死んで、去年母ちゃんが死んだ。 
 死因は過労。それは珍しくも何ともない出来事で、周囲の大人はおざなりな言葉をかけただけだった。 
 誰も俺と妹を助けようなんて奴はいねえ。当たり前だ。自分が生きるだけで精一杯だから。 
 他人に甘い顔をしている余裕なんかねえ。そういう世の中にそういう身分に生まれたことを、今更呪ったって仕方がねえ。 
 だから俺は精一杯働いた。俺と、妹のマリーナと。二人だけだってどうとでもやっていける。 
 誰にも頼るもんか。頼りになるのは自分だけだ。 
 そう思って、これまで頑張ってきたのに。 
 この世に神はいねえのかよ。 
 目の前で倒れている妹の姿を前に、俺は絶叫した。 
  
 妹のマリーナは、俺より一つ年下の17歳。 
 兄の贔屓目差し引いても美人だし、スタイルも悪くねえと思う。 
 なのに、それを着飾ってやれる余裕なんてものはどこにもねえ。 
 朝から晩まで仕事に明け暮れて、本来白かった肌がくすんで見える。それを辛いなんて言うような奴じゃねえが…… 
 それと言うのも、王家と貴族がわりいんだ。 
 振り仰げば、森を挟んでいるというのにそびえ立つ尖塔がはっきりと確認できる。 
 アンダーソン王家。ここら一帯をまとめる貴族の、さらに上に当たる悪の総本山。 
 少なくとも俺はそう思っているし、俺以外の奴もそう思っている。 
 俺達の生活からぎりぎりまで税金をしぼりとって、自分たちは贅沢三昧繰り広げ、そしてこっちには何一つ還元しやがらねえ。あんなのは税金じゃねえ、強奪っつーんだ。 
 死にたくなければ働くしかねえ。過労死寸前まで働いて、寸前をうまく見極められなかった奴から死んでいく。そんな生活に生まれたときから置かれりゃあ……「諦め」っつーものをいいかげん覚える。 
 それでも。我慢には限界っつーのがあるんだ。 
 古ぼけたベッドの中で、マリーナは、苦しそうに息をしていた。 
 栄養失調と極度の過労。高い薬とうまい飯と。それさえあれば死ぬこたあねえだろうというのが医者の判断。 
 だが、その薬と飯がなければ間違いなく死ぬだろうというのも、医者の判断。 
 俺達の生活を見りゃあわかるだろ? そんな金、家ごと叩き売ったって出やしねえってことは。 
 ぎゅっとマリーナの手を握ってやる。年頃の娘だっつーのに、あかぎれだらけのささくれだらけで、滑らかさが全くねえ。ま、俺の手だって似たようなもんなんだけどな。 
 なあ、マリーナ。俺……どうすればいいんだよ。 
 おめえまで死んだら、俺はどうすればいいんだよ? 
「……トラップ……」 
 微かなつぶやきに、慌てて耳を寄せる。 
 俺の名を呼んで、マリーナは苦しんでいた。 
「トラップ……ごめん、ごめんね……」 
「マリーナ……?」 
「ごめんね……迷惑かけて……ごめんね……」 
 マリーナ。 
 おめえ……おめえって奴は…… 
「何でおめえが謝るんだよ。おめえは何も悪くねえじゃねえか。どうして俺達ばっかり……こんな目に合うんだよっ!!」 
 バン!! 
 安普請の壁を叩きつけると、天井から煤が降ってきた。 
 たまらねえ…… 
 マリーナの顔を見ていられなくて、外に飛び出す。 
 目を向ければ、嫌でもとびこんでくる。 
 絢爛豪華な、王家の城が…… 
 ……このまま、マリーナを死なせてたまるか。 
 どんなことをしてでも守ってやるって、そう親父と母ちゃんに誓ったんだ。 
 マリーナはぜってー助けてみせる。例え…… 
 例え、この手を汚しても。 
  
 深夜。 
 城の周りは静かだった。門番の類はいねえ。 
 服の上からマントを被って、俺は城門を見上げた。 
 見つかったら多分俺は殺される。けど、怖いとは思わねえ。 
 どうせ金がなきゃ、マリーナは死ぬしかねえんだ。二人とも助かるか、二人とも死ぬか……どっちかしか選べねえ。 
 俺だけ生き残ったって、誰のために生きればいいのかわかんねえ。だから、やるしかねえんだ。 
 ひゅっ 
 仕事に使うフックつきのロープを投げる。狙いたがわず、城門にひっかかった。 
 身の軽さには自身がある。盗賊にだってなれると親方に太鼓判を押されてるからな。これくらいの高さならちょろいもんだ。 
 するすると城門によじのぼると、手入れの行き届いた庭が見渡せた。 
 夜だが、今日は満月だ。月の光は、十分に明るい。 
 ロープを素早く回収すると、城門からとびおりた。 
 その瞬間、俺は失敗に気づいた。 
(……しまった!?) 
 とびおりた瞬間、気づく。城壁にもたれかかるようにして、こちらを凝視している人影に。 
 が、今更戻れねえ。……覚悟を決めるしかねえ! 
 どん、と地面に着地する。結構な衝撃が足に響くが、構ってられねえ。 
 人影を確認する。……兵士の類じゃねえ。女。侍女か? 
 よし……それなら、まだ何とかなる! 
「あ……」 
 女が何かを言いかけようとした瞬間。即座にかけより、声を上げられる前に口を塞いで城壁に押し付けた。 
 腕の中で柔らかい体がもがく。 
「ん――!?」 
「静かにしろ。怪我したくなかったらな」 
 女の首筋に護身用に持ってきたナイフを押し付ける。 
 ……できれば、こんなもん使いたくねえが…… 
 自分が何をされてるのに気づいたんだろう。女が怯えた目を向ける。 
 視線と視線がぶつかった。 
 そのとき……俺の心臓が大きくはねたのは、何でなんだか。 
 長い金髪に、はしばみ色の目。特別な美人というわけでもなけりゃ、目を見張るほど色気のある身体ってわけでもねえ。 
 なのに、何故か……その、生きているのに死んでいるんじゃねえかと思うほど、覇気のねえ目。そのくせ、俺の内面まで見透かしてしまいそうなまっすぐな目で見られると、視線をそらせなくなった。 
「んん……」 
「おめえ、この城の人間か?」 
 動揺する心を悟られねえように問うと、女は必死に頷いた。 
 やっぱりか。すると…… 
「ふん……侍女か? それとも……娼婦か?」 
「ん――!?」 
 俺の言葉に、女は状況を忘れたのか、えらく不満そうな目を向けてきた。 
 どうやら「娼婦」が気にくわねえらしい。……冗談の通じねえ奴だ。 
「冗談だよ冗談。おめえみてえな出るとこひっこんでひっこむところが出てるような幼児体型の娼婦、いるかよ」 
「ふむーっ! ふむ、ふむっ!!」 
 だが、それを伝えてやると、女はさらに不満そうに、じたばたと身もだえした。 
 ……面白え女だな。自分が何されてるかわかってんのか? 
 俺がちょっと手え動かせば……おめえ、死ぬんだぜ? 
 実行する気はねえけどな。 
 女の顔が段々赤らんできた。どうやら口と一緒に鼻までふさいでるから、息苦しいらしい。 
 さて、どうするか。 
「……大声出すなよ。そう誓ったら、手、離してやらあ」 
 そう囁いてやると、間髪置かず女はぶんぶんと首を振った。 
 ……やれやれ。わかりやすい女だ。 
 ぱっと手を離す。瞬間、女は大きく息を吸い込んだ。 
 ……ばればれだっつーの。 
 即座に腕をひねりあげて壁に押し付ける。痛みのためか、「きゃぅっ!?」と小さな悲鳴を漏らし、女の顔が苦痛に歪んだ。 
 なめてんじゃねえよ。これでも、それなりに修羅場はくぐってきてんだ。 
「甘え奴だな。おめえの考えなんかばればれだっつーの。さて、痛い目見たくなかったら、案内してもらおうか?」 
「……え?」 
 俺の質問に、女は今にも泣きそうな顔をして、必死に振り返った。 
「どこ、に?」 
「ああん? こんな時間に城に忍び込むなんざ、目的は一つに決まってんだろーが。お宝のある部屋だよ」 
「宝……」 
 そうだ。宝、金。何でもいい。 
 元々俺達の金だったんだ。それをちょっとばかり取り返すだけだ。 
 自分のものをもらって何が悪い? 金が無きゃ、マリーナは死ぬんだ。 
 それくらいなら、自分の手がどれだけ汚れようが……俺はやってやる。 
 だが。 
 そんな俺の決意を、女はあっさりと否定してくれた。 
「無理、よ」 
 女の言葉に、額に青筋が浮かぶのがわかった。 
「あん?」 
「宝物庫には、24時間交代制で見張りが立っていて……例え王族でも、許可証が無ければ、侵入できないようになっているの。案内してもいいけど……すぐに、捕まるわよ」 
「…………」 
 考えてみりゃあ、当たり前のことだった。 
 そうだよな……俺みてえな素人にあっさり忍び込めるような、そんな場所じゃねえ。 
 んなこと、わかりきってたじゃねえか……ったく。 
 ……それにしても、だ。 
 舌打ち一つして、女の顔を覗きこむ。 
 バカ正直にこいつが教えてくれたおかげで、俺は無駄に捕まることなく済みそうだが…… 
 こいつは…… 
「あんた、面白え奴だな」 
「……え?」 
「バカ正直に言わず、そのまま宝物庫に案内してりゃあ、そのまま俺を捕まえられたのに。わざわざ教えてくれるなんて、よっぽどのおひとよしか……よっぽどのバカだな」 
「…………」 
 女の顔が朱に染まった。 
 俺が顔を近付けすぎたせいか、必死に身をそらしていたが……その身体から一気に力が抜ける。 
 わかりやすい落胆の表情。どうやら、俺が指摘しなけりゃ、自分が盗賊の手助けをしたという事実に、一生気づかなかったみてえだ。 
 救いがてえおひとよし。……こんな奴が傍にいてくれたら、マリーナを助けてもらえたかもしれねえのに。 
「本当に面白え。あんた、名前、何てーんだ?」 
 それはただの気まぐれだったはずだ。 
 だが、聞いてわかった。 
 初めて出会ったのに……俺は、この女のことが、どうしようもなく気になっている、と。 
 何でだろうなあ。別に人をひきつけるような魅力に溢れた女ってわけでもねえのに。 
 どっちかというとガキくさくて女としての魅力は皆無に近いのに。 
 じーっと顔を見つめてやると、女は視線をそらして言った。 
「……人に名前を聞くときは、自分が先に名乗るものじゃない?」 
 ……ごもっとも。 
 本名をバカ正直に名乗る盗賊なんて聞いたこともねえが……何故か、このとき俺は、驚くほど素直に返事をしていた。 
「しっかりしてら。俺の名前はトラップ」 
「トラップ……わたしの、名前は……」 
 女が名乗りかける。 
 その瞬間だった。 
「そこで何をしている」 
 響き渡ったのは、野太い男の声。 
 ……しまった! のんびりしすぎたか!? 
 逃げようとして、自分の手が拘束している女の腕が目に入った。 
 ……こいつ、このままここに放っておいていいもんか。 
 まさか、俺の仲間だって疑われたりしねえよな? どうする……? 
 だが、その一瞬の迷いが……致命的に手遅れとなった。 
「っ……やべっ……」 
 ばたばたと走りよってくる足音に、俺は覚悟を決めた。 
 そのときだった。 
「パステル姫。大丈夫ですか?」 
「どうした、何があった!?」 
 信じがたい言葉を聞いて、俺は足元にうずくまる女を見つめた。 
 パステル……姫だと? 
 こいつが、この王家の……第一王女!? 
 俺がぼけっとしている間にも、周囲にはどんどん人が集まってくる。 
 なす術もなく、俺はあっさり取り押さえられた。 
「パステル……姫?」 
 女にささやきかけたが、返事は返ってこなかった。 
 否定の言葉も。 
  
 俺が放り込まれたのは地下牢だった。 
 愛想のかけらもねえ牢番が鍵をかけて出て行く。 
 ま、あの程度の鍵、開けられねえこたあねえだろうが…… 
 どーせ、見張りが山のようにいるんだろうな。 
 ったく、ドジ踏んじまったぜ。 
 被っていたマントを敷いて、ごろりと横になる。 
 あの女が、パステル姫。 
 王家の第一王女。言われてみりゃあ、真っ白な肌と傷一つねえ手なんかは、苦労を知らずに育った証拠だよな。 
 くっそ、何で気づかなかったんだか。気づいてたら……人質にとるとか、方法はいくらでも…… 
 そんだけ考えて思わず自嘲した。んなことどうせ思い付いたってできやしねえことは、自分がよくわかってる。 
 パステル姫。 
 名前しか知らなかった。アンダーソン王家の長女にして、多分将来は政略結婚の道具に使われるだろう王女。 
 俺達を苦しめる王族の一員だ。いい噂なんか聞いたこともねえ。男をたぶらかす悪女だっつー噂まで広まってたが…… 
 俺の手の中で震えていたあの女は、どこからどう見ても、気が弱くておひとよしな、ただの女だった。 
 ……何であの女のことがこんなに気になるんだよ。 
 ごろんと寝返りを打つ。冷たい感触しか返ってこねえ石畳の上で、俺は自分に必死に言い聞かせていた。 
 勘違いするな。あの女だって、どんだけとろそうに見えたって王族の一員だ。 
 俺達庶民のことなんざハエくらいにしか思ってねえ、そんな連中なんだ。 
 ……そうだ。 
 俺があいつに、あいつら王族に抱いていい感情は、憎しみだけだ。 
 そうでもしなきゃ……やってらんねえ…… 
  
 気がついたら、俺はうとうとしていたらしい。 
 こんなところでよくも寝れたと感心しちまったが…… 
 目が覚めたのは、響き渡る足音だった。 
 かつん、かつんという、階段を降りる足音。 
 誰かが、こっちにやってくる……? 
 ごろんと鉄格子に背を向ける。今は誰の顔も見たくねえ。 
 どうせ愛想の悪い牢番が飯でも持ってきたか……とっとと処刑でもしにきたかどっちかだろう。 
 殺すなら殺せ。もっとも、その前にせいぜい暴れてやるがな。 
 そんなことを考えていたときだった。 
「トラップ」 
 響き渡った声に、俺は思わず跳ね起きた。 
 忘れもしねえ。この声は…… 
 慌てて振り向く。昨夜、俺の前で震えていた女が……パステルが、心配そうにこっちを見つめていた。 
 俺の姿を見て、パステルは目を見開いた。 
 そして。 
「トラップ……ごめんなさい」 
「……はあ?」 
 かけられた言葉に、俺は間の抜けた声をあげていた。 
 な……何だあ? 
 何で、俺が謝られなきゃなんねーんだ? 
 俺は城に忍び込んだ罪人だぞ……なんで、そんな俺に、王女であるあんたが謝るんだよ? 
「何で、あんたが謝るんだよ」 
「だって……だって、わたしのせいで。わたしのせいで、あなたは捕まったんでしょう?」 
 ………… 
 こいつ、何言ってんだ? 
「はああ? あんでそーなるんだ?」 
 言いながら、ずりずりと鉄格子の方に這いよる。 
 冷たい檻を挟んで向かい合うパステルの目に、軽蔑とか、怒りとか、そういった負の感情は一切なかった。 
 ただただ、俺の身を案じている。そんな目で…… 
「あのな、捕まったのは俺がドジだったから。ただそれだけ」 
 そんな目で、俺を見るなよ。 
 俺は……おめえを憎まなくちゃいけねえんだから。 
 そう思ったら、口にせずにはいられなかった。 
 いまひとつ信じられなかった……この女の正体を。 
「それにしても驚いたぜ。あんたがアンダーソン王家第一王女パステル姫だったとはなあ」 
「…………」 
 つとめて明るい声を出したつもりだが、果たしてそれが成功したかどうか。自分でも自信がねえ。 
 パステルは、そんな俺の言葉に、恥じ入るように目を伏せた。 
 ……何でだよ。 
 何で、おめえはそんなに殊勝なんだよ。 
 勝ち誇ればいいじゃねえか。「わたしは王女よ? あんたみたいな盗賊風情、わたしの声一つで処刑することができるのよ?」とか何とか。 
 実際その通りなんだろ? あんたが、昨日のことを正確に伝えりゃ……俺のこの首なんか、あっさり胴体からおさらばするんだろ? 
「で、姫さん。あんた、こんなところに何しに来たんだ?」 
 いつまで経ってもパステルは何も言わねえ。 
 沈黙に耐えきれなくて、俺は思わず声をあげた。だが、パステルは、その問いに答えず。 
 どこまでもまっすぐな視線を向けて、俺につぶやいた。 
「どうして、あんなことしたの?」 
「あん?」 
 言われた意味がわからねえ。俺が顔をしかめると、パステルは重ねて聞いた。 
「どうして、城に忍び込んだりしたの?」 
 ………… 
 どうしたの、と来たもんだ。それは、昨日も説明したじゃねえか。 
「言ったろ? こんな時間に城に忍び込む理由なんざ一つしかねえって。お宝だよ。金目当て」 
「だったら……どうして、お金がいるの?」 
 それは、あまりにもストレートな質問だった。 
 こんな場所で、こんな相手で、こんな状況じゃなけりゃあ……「バカなこと聞くな」と笑いとばすか、「ふざけてんのかおめえ」とつかみかかるか……そのどっちかの反応をしただろうが。 
 パステルの目は真面目だった。本気でわからねえ、そういう目だ。 
 ……そうだろうよ。 
 おめえみてえなお姫様にはわかんねえだろう。俺達がどんな暮らしを強いられてるかなんて。 
「あの……?」 
 何か言いかけるパステルを遮る。一応確認のためだ。 
「あんたさあ……本当に世間知らずだよなあ。城の外で、俺達庶民がどんな暮らししてんのか、知らねえわけ?」 
「え……? どんな……暮らし?」 
 返って来たのは、予想通りの反応だった。 
 何を言われたのかわかんねえ、そんな目で俺を見てくる。 
 ……こいつじゃなけりゃな。 
 もっと嫌味で尊大な親父とかだったら、例え次に殺されるとわかってても、殴りかかってやるんだが。 
「税金、っつーのを知ってるか?」 
 俺が聞くと、パステルは軽く頷いて答えた。 
「庶民と呼ばれる人たちが、お城に納めているお金でしょう? そのお金で、わたし達王族が庶民の生活保護をしているのよね?」 
 教科書に書いてある文章をそのまま答えているかのような、模範的な答え。 
 苦笑が漏れる。世間知らずのお嬢様だからこそ、できる答えだろうな……それは。 
「ったく。んなうわべだけの知識で、よくもまあ『知ってる』なんて言えるもんだ……」 
「え……?」 
 俺の言っていることの意味がわからねえ、そんな顔をするパステルに、まくしたてるようにしてしゃべる。 
 俺達の本音。庶民と呼ばれて蔑まれてる俺達が、どんだけ辛い生活を強いられてるかを。 
「生活保護だあ? 冗談じゃねえ。王家と貴族の連中はなあ、俺らから限界ぎりぎり、しぼれるだけ金しぼりとってな、自分らの豪遊生活の資金にしてるんだぜ? 奴らがいつ俺達の手助けしてくれたっつーんだよ。あんた、王家が俺達に何してくれたか、説明できるか?」 
「…………」 
 俺が言うと、パステルは真っ赤になってうつむいた。 
 その顔に浮かぶのは、羞恥。 
 何も知らず、ぬくぬくと育ってきた自分を心から責めている……そんな顔だ。 
 気づかれねえようにため息をつく。……何でそんな顔するんだよ。 
 まるで……俺がいじめてるみてえじゃねえか。何で、俺に罪悪感なんて抱かせるんだよ。 
 気がついたら、俺は手を伸ばしていた。 
 丁寧に結われた金髪を、ゆっくりと撫でてやる。 
「落ち込むなよ。おめえを責めてるわけじゃねえんだ。王家に生まれたのは、別におめえのせいじゃねえからな」 
 かけた声は、我ながら優しい声だった。 
 その声に、パステルは顔をあげて……必死になって言った。 
「ごめんなさい。ごめんなさいトラップ。あなたが忍び込んだのは、生活が苦しいから? だから……?」 
「……いんや」 
 生活が苦しい、か。そんだけの理由だったら……俺も、ここまで意地にならなくても済んだのに。 
 パステルに話したってしょうがねえことだ。それはわかっていたが…… 
 それでも、俺は話さずにはいられなかった。もっと俺のことを知って欲しいと、パステルならわかってくれると、そう思ったから。 
「別に、生活がきついのなんか、もう慣れちまってるよ。でもな……妹が……」 
「……妹さん?」 
「ああ。マリーナっつーんだけどよ。俺より一個下だから、おめえと同い年くらいじゃねえ? ま、とにかくな、ろくな飯も食わずに働き通しだったもんだから、ついに倒れちまったんだよ。医者が言うには、高え薬と栄養のある食事、それがなきゃあ、助からねえ。そう聞いたもんで、つい、な」 
「…………」 
「たった一人の妹なんだよ。過労で父ちゃんも母ちゃんも死んで、もう俺にはあいつしか残ってねえから。だからどうしても助けてやりたかったんだよ。……わり。こんなことおめえに言っても仕方ねえよな」 
 俺がそこまで言ったとき。 
 パステルは、突然立ち上がった。 
 唖然としてる俺のことなんか見もしねえで、すげえ勢いで階段を駆け上がっていく。 
 ……な、何だ……? 
 逃げた……のか? やっぱり、信じた俺が……バカだったのか? 
 一瞬、そう思ったが。 
 だが、けたたましい足音は、すぐに戻ってきた。しかも、二人分。 
 ……見張りの兵士を連れてきたのか!? 
 一瞬身構えるが、牢の前に立った人影を見て、俺は一瞬目を奪われた。 
 パステルが連れてきたのは、黒髪にとび色の目をした……すげえ美形だった。 
 いや、男の俺から見ても文句のつけようのねえ美形というのか。えらい長身で、俺も低い方じゃねえがさらに10センチ近くは高い。その身体は均整が取れていて、しかもかなり鍛えられていることがわかる。 
 ……兵士……いや、騎士か? 
「あん? 戻ってきたのか……って、あんた、誰だ?」 
「アンダーソン王家第一王子、クレイと言います。昨夜は妹がお世話になったそうだね、トラップ」 
 その言葉に、俺は反射的に後ずさっていた。 
「く、クレイ王子!? あんた……」 
 クレイ・S・アンダーソン。 
 アンダーソン王家第一王子にして跡取り息子。 
 勉学優秀、武芸の達人、王位についた暁には稀に見る名君となるに違いねえともっぱらの評判だった人物。 
 ま、まさか……!? 
「ああ、怖がらなくてもいいよ」 
 俺が目に警戒をこめてにらみつけると、クレイは、女だったら即座に転びそうな優しい笑みを浮かべて…… 
 そして、牢の鍵を開けた。 
 ……は? 
「早く逃げろ」 
「おい……?」 
 おい、これは何の冗談だよ。 
 何かの罠……なのか? 
「後のことは気にするな。俺が何とでもしてやる。だから、逃げろ」 
「おい、正気か、あんた……」 
 俺は、仮にも罪人なんだぞ? 
 いくらあんたが王子だからって……そんな、簡単に逃がして、いいもんなのか? 
 俺が躊躇していると、パステルがこっちに歩み寄ってきた。 
 そして、髪にささっていた飾りだとか指輪だとか……とにかく、目に付く装飾品を全部外して、俺に押し付けた。 
「おい」 
「ごめんなさい。何も知らなくてごめんなさい。あなたは何も悪くないのに、こんなところに閉じ込めてごめんなさい」 
 ……はあ? 
 おめえって奴は……いったい、どこまで…… 
「いや、別におめえのせいじゃ……」 
「ううん、わたしのせい。あなたが捕まえられるのを黙ってみてたわたしのせいなの。これ、売ったらいくらかのお金になるでしょう? わたし、妹さんを助けるお役に、立てる?」 
 ……どこまでおひとよしなんだよ、こいつは。 
 あの話が、本当だって根拠がどこにあんだよ? 俺がおめえを騙すために……同情を買うためについた嘘かもしれねえって、思わねえのかよ? 
 何で、そんなに……あっさり人を信じられるんだ? 
 装飾品と、パステル、そしてクレイの顔を交互に見る。 
 どこまでも俺を案じている顔。嘘や偽り、そんな色などかけらも見られねえ顔。 
 ……自分は人がいいなんて思ったことはねえ。疑い深い性格で、滅多なことでは他人を信用なんかしねえ、そう思っていたが…… 
 自然に笑みがこぼれた。 
「俺は、どうやら王族ってーのを誤解してたみてえだな」 
「わかってくれたら、嬉しいよ」 
 俺がそう言うと、クレイは、手を差し出してきた。 
 その手をがっちりと握る。荒れまくった俺の手とは違い、武芸のたしなんでるせいか、豆だらけで硬いことは硬いが……暖かい手。 
「この恩は忘れねえよ」 
 その言葉は、本気だった。だが、俺の言葉に、クレイは首を振った。 
「いや、忘れた方がいいと思うけどね。トラップ、お前は城になんか来なかったし、捕まったりもしなかった。ただ妹さんを助けるために金策にかけまわっていた、それだけだよ」 
 ……全く。 
 おめえらは……本当に王族なのかよ? 
 何で、おめえみてえな奴が……早く即位してくんねえんだ。 
 そうすりゃ、俺達だって、おめえらをこんな風に誤解しなくて済んだのに。 
 礼の言葉は、すんなりと出た。 
「……さんきゅ」 
「どういたしまして」 
 それだけ言って、立ち上がる。 
 クレイが逃げろ、と言ってるんだ。 
 まさか、牢に出た途端に捕まるなんてこたあねえだろう。 
 ………… 
 だが、駄目だった。どうしても気になることがあった。 
 そのまま帰るわけには、いかねえ。 
 振り返る。視線の先にいるのは、初めて会ったときから……どうしようもなく心が惹かれた女。 
「なあ、姫さん」 
「え?」 
 不思議そうに聞き返すパステルに……俺は、うつむいて言った。 
「……昨夜は、手荒なことして悪かったな」 
 これだけは、言わなくちゃいけねえ。 
 ナイフを押し付けて、腕をひねりあげて。多分相当痛かっただろう。 
 その場で殺されても文句は言えなかったのに……パステルは、こうして俺を逃がそうとしてくれる。 
 謝らなくちゃ、気がすまねえ。 
 だが、パステルは、俺の言葉に、微笑んで言った。 
「何のこと? あなたは城には来なかったし捕まったりもしなかった。だからわたしも、あなたとはここで初めて出会ったのよ?」 
 ……おめえは。 
 おめえは……どこまでも、俺の心を捉えて離さねえんだな。 
 おめえが、王女じゃなけりゃ…… 
 浮かんだ考えを、慌てて振り払う。 
 何バカなこと考えてんだ、俺は。相手は王女だぞ? 王女。 
 そんな…… 
 未練を断ち切るために背中を向ける。階段に足をかけたそのときだった。 
「トラップ!」 
「…………?」 
 かけられた声に、思わず振り向く。 
 パステルは、真剣な表情で俺を見て……言った。 
「パステル」 
「あ?」 
「わたしの名前は、『姫さん』なんかじゃないわ。パステル。そう呼んで」 
「…………」 
 一瞬、視線がぶつかった。わずかな見詰め合い。 
 パステルの目は、それようとはしなかった。 
 ……もう、やめてくれよ。これ以上、離れたくないとは、思わせねえでくれ。 
 俺とおめえじゃ、住む世界が違うんだから。 
 そう言おうとしたけれど。言えなかった。 
「オーケー、パステル。……世話になったな」 
 それだけ言って、一気に階段をかけあがる。 
 城門を出るまで、邪魔をする奴は、誰もいなかった。 
 ……何で。 
 盗みに入ったはずなのに…… 
 俺が盗まれてどうするよ……? 心を。 
 二度と会えねえだろうパステルの顔を思い浮かべ……俺は城を振り返った。 
 それは、はっきり言えば未練だった。 
 
 未練がましい男じゃねえ。 
 俺は自分のことをそう思っていたが。 
 街に戻り、パステルからもらった装飾品を換金し……それで薬と食料を手に入れて。 
 それをマリーナに飲ませて、一日一日回復するのを見届けて。 
 それだけの時間が経っても、俺はパステルのことを忘れられなかった。 
 気弱で、世間知らずで、馬鹿馬鹿しいくらいにおひとよしで、そのくせまっすぐで…… 
 何から何まで正反対で、俺の持ってねえものを全て持っている女。 
 思ったってしょうがねえ。いずれ、時間が解決してくれる。 
 そうやって、俺が必死に忘れようとしているときだった。 
 とんでもねえ客が、俺の家に訪れたのは…… 
  
 その日、俺は仕事が休みで、家で一日ごろごろしていた。 
 マリーナは、大分元気になったものの、まだまだ静養が必要ということで家で休んでいた。 
 幸いというか、パステルにもらった装飾品は結構な金になって、しばらくは仕事をしなくても食っていけそうな程度の余裕はあったしな。 
 そうやって怠惰な一日を過ごしていたときだった。 
 どんどんどん 
 突然、ノックの音が響いた。 
「トラップ、誰か来たみたい」 
「客かあ? 珍しいな」 
 起き上がろうとするマリーナを押さえて、俺はドアを開けた。 
「どちらさん?」 
「やあ、トラップ。久しぶりだな」 
 目の前に立っていた人物を見上げて…… 
 俺は思わずドアを閉めようとした。が、その前に素早く相手の身体が割り込んできた。 
「おいおい、そんな目の敵にしなくても」 
「くくくクレイ王子!? おめえ、こんなところに……」 
「クレイでいいよ。やあ、君が妹さん?」 
「はあ? あ、あの……」 
 ずかずかと家に入り込むクレイに、マリーナは頬を赤らめて頷いた。 
 ……マリーナ、俺と同じ過ちは犯すなよ? 惚れるにはちっとばかり次元が違う相手だぜ、こいつは。 
「トラップ、こちらは……」 
「クレイ・S・アンダーソンと言います。君がマリーナだね? どうだい、調子は?」 
「はあ……大分……あ、アンダーソン!?」 
 苗字を聞いた瞬間。 
 マリーナは、即座にベッドからはねおきて深々と頭を下げた。 
 ま……当然の反応だろーな…… 
「おいおいおい、今日は王子としてじゃなくて、ただのトラップの友人として来てるんだ。そんな堅苦しい態度は取らないでくれよ」 
「はっ……で、でもっ……あ、あの、お、お茶。お茶入れてきますっ!!」 
 マリーナはベッドから這い出すと、即座に俺を引きずって台所まで連行した。 
「トラップ! 何でクレイ王子と知り合いなの!?」 
「俺にだってわけがわかんねえよ! それよかおめえ、病み上がりなんだから寝てろ」 
「バカっ! 寝てられるわけないでしょー!?」 
「あの、トラップ……ちょっと、いいか……?」 
 俺とマリーナの会話を遮るようにして、クレイが台所に顔を覗かせた。 
 何しろ城と違って狭い家だからな。台所っつったって結局は同じ部屋なんだよ。 
 大きくため息をついて、椅子に座る。二つしかねえ椅子の一つをクレイに勧めて、俺は用件を聞くことにした。 
「ああ……で、クレイ王子……」 
「クレイでいいよ」 
「……じゃあクレイ。一体俺に何の用なんだ? 今更捕まえに来たとかいうなよ?」 
「まさか。あのな、トラップ」 
 クレイは、悪意なんかひとかけらもねえ笑みを浮かべて、言った。 
「城で働く気は無いか?」 
「……は?」 
 クレイの言葉に、俺はかなりの間、呆けていた。 
  
 パステルの従者をやらないか。 
 クレイが持ちかけてきたのは、そういう仕事だった。 
「あんで俺が……? んなの、城にいくらでもいい人材がいるんじゃねえの?」 
「いや、俺はトラップに頼みたいんだよ。見たところ随分感覚が鋭そうだし身も軽そうだ。ここのところ、王家同士の確執が激しいせいか、命を狙ってくるような輩も多くてね。パステルの傍には女官しかついてないから、兄として心配なんだよ」 
 ……盗賊をつけるのは心配じゃねえのか? 
 そう言おうかと思ったが、マリーナが茶を運んでくるのが見えたので、慌てて口をつぐむ。 
「もちろん、給料は弾もう。城に住み込んでもらうことになるから、妹さんと離れ離れになるが……妹さんが一人でも十分生活できる程度の金額は、すぐにでも用意ができる」 
「…………」 
 思わずマリーナと顔を見合わせる。 
 結構な話だ。それはわかる。だが…… 
「けどな、俺は何の訓練も受けてねえし、それに……」 
「長剣なら俺が教えてやるよ。それに、な」 
 ぐっとクレイが身を乗り出す。奴の目が、かなり真剣になったのを見て……悟った。 
 多分、今から話すことが、クレイの本音なんだ、と。 
「トラップ、お前は王族の人間ってのをどう思っていた?」 
「…………」 
 先制攻撃は、またえらく答えにくい質問だった。 
「どう……って言われてもな……」 
「正直に答えればいい。税金をしぼりとるだけしぼりとって、自分たちだけ贅沢三昧をしている、そんな悪魔のような人種だと思ってたんじゃないのか?」 
「…………」 
 ずばり当てられて、思わず視線をそらす。 
 さすがに頷くことはできなかったが、俺の態度から、クレイは勝手に納得したらしい。 
「そうだろうな。その認識は概ね正しい。そして、俺も、パステルも、下の妹ルーミィも、そうなるように子供の頃から厳しくしつけられた」 
「……そうなのか?」 
 とても、そうは見えねえんだが。 
 だが、俺の問いに、クレイははっきりと頷いた。 
「そうだ。俺は臆病な人間だ。そんなことは間違っているとわかっているのに、逆らうことができない。自分の身分を捨てることもできず、ただ言われるがまま『聞き分けのいい王子』を演じることでしか、城での居場所を作ることができなかった」 
「…………」 
 何となく、最初に出会ったパステルの目が浮かんだ。 
 恐ろしく覇気の無い、一瞬人形かと思うような目を…… 
「俺はいいんだ。どうせ将来王位を継ぐ身だ。王族である以上、ある程度の冷酷さを持つことは必要だということもわかっている。だが……俺は、パステルには、そんな風になってほしくはないんだ」 
「パステル!?」 
 我ながら未練がましいとは思うが。 
 その名前を聞いて……俺は、平静ではいられなくなった。 
「そうだ。パステルを見ただろう? 彼女も俺と同じだ。聞き分けのいい王女であることを周りから強いられて、自分を出すこともせず、ただ日々を生きているだけだ。いや、彼女には『逆らう』というのがどういうことかもわかってない。俺は妹にそんな風にはなってほしくないんだ!」 
 ドン! 
 クレイの拳が机にぶちあたって、めきっという不吉な音が響いた。 
 おいおい、壊さないでくれよ……? 
 俺は内心はらはらしたが、そんなこっちの事情を知る由もなく、クレイは俺の手をがしっと握って必死に言った。 
「だから、トラップ。お前にパステルを助けて欲しい。お前と一緒にいたあの一瞬だけ、俺はパステルの感情を見ることができたんだ。パステルを救えるのはお前だけなんだ、トラップ。頼む!」 
「な…………」 
 パステルを救えるのは……俺だけ? 
 俺と一緒にいるときだけが、感情を見せた……? 
 それが本当のことなのか、俺にはわからなかったが。 
 従者になれば、パステルとずっと一緒にいることができる。その言葉に、激しく心が揺れ動いた。 
 そのときだった。ずっと黙って立っていたマリーナが、俺とクレイを交互に見比べて言った。 
「行ってあげなさいよ、トラップ」 
「マリーナ……?」 
「行ってあげなさいよ。あたしなら大丈夫。パステル姫様……だっけ? 助けてあげられるのはあんただけなんでしょ?」 
「…………」 
「それに、トラップ。あんた、もしかして……」 
「あ?」 
 マリーナの目に、えらく意地の悪そうな笑みが浮かんだ。 
 ……嫌な予感がする。こいつは昔から勘の鋭い奴だった。 
 まさか…… 
「マリーナ……?」 
「トラップ。あんた、もしかしてそのパステル姫様のこと……」 
「わかった! 行くよ、行きゃあいいんだろ!?」 
 マリーナが何かを言いかけた瞬間。 
 俺は、やけくそになって叫んでいた。 
 くっそ、何かうまくのせられたような気がしなくもねえが。 
 ……それで、パステルにもう一度会えるんなら…… 
「ありがとう、トラップ。マリーナのことは心配しなくてもいい。責任もって、生活保護を与えよう」 
「……頼んだぜ」 
 王族の言うことなんざ信用できるか。 
 以前ならそうはねのけただろうが…… 
 クレイの、どこまでも優しい瞳を見ていると。信じるしかねえと思えるから……不思議だ。 
  
 それから二週間ほど、俺はクレイの手によって長剣の手ほどきを受けた。 
 素早さには自信がある。勘の鋭さにも、運動神経にも。 
 ただ、いかんせん……致命的に、腕力が足りねえんだよなあ…… 
 俺がその後どんな特訓を受けたのかは、詳しく書く気にならねえ。 
 ただ、クレイと腕相撲をしたとき、元は両手を使っても指一本のクレイに呆気なくなぎ倒されてたが、特訓終了後、ハンデ無しでほぼ互角の勝負ができるようになった……とだけ告げておく。 
  
 そして、俺が従者として城にあがる日。 
 何やらクレイに押し付けられた服を着せられ、俺はどこだかの部屋に押し込まれた。 
「もう話はつけてあるから。お前は少しそこで大人しくしててくれ」 
 それだけ言うと、クレイは外に出ていった。部屋に残されたのは、俺一人。 
 ……しかし、まー何つーか。 
 馬鹿馬鹿しいくらいに広い部屋を見渡して、俺はため息をついた。 
 今更うらやむ気にもなれねえが……金ってのは、あるとこにはあるもんなんだなあ…… 
 俺の家が三軒はおさまりそうな部屋。ベッドからクローゼットからテーブルからソファから、それだけでいちいち庶民が数年単位で暮らせそうな高級家具。 
 ベッドについているのは、あれはもしや噂に聞く天蓋って奴かあ? 
 はーっ、と大きくため息をついて、ソファに腰掛ける。 
 ぼすん、と身体ごと沈んで、ため息はさらにでかくなった。 
 ああ、もう次元が違いすぎるぜ、いくら何でも。 
 どかっとテーブルに足を乗せて、ソファにもたれかかる。 
 このソファ一個で、多分俺の給料ン年分の額がすんだろうなあ…… 
 そんなどうでもいいことを考えて天井を見上げたときだった。 
 バタン、とドアが開いた。 
 クレイが戻ってきたのかと視線を戻して……そして、目を見張った。 
 別れたあの日から今日まで、会いたいと願い続けた女が、そこに立っていたから。 
 いや、当たり前なんだけどな。俺はこいつの従者になるために、ここに来たんだから。 
 それでも…… 
「トラップ……」 
「よう、パステル。また会ったな」 
 意外そうな声をあげるパステルに、俺はそう言うのが精一杯だった。 
  
「一体どうして、あなたがここに?」 
「何かよ、おめえの兄ちゃんがうちに来て、『城で働く気はねえか』って言ってきたんだよ。まあ給料もいいっつーしな」 
 当たり前といえば当たり前のパステルの質問に、俺はそう答えるしかなかった。 
 まさかなあ。クレイがあんな風に悩んでるなんて、こいつは考えてもいねえんだろうが。 
 俺の答えに、パステルはそれ以上の異議は挟まなかったが……沈黙が流れると、やがてぽつんとつぶやいた。 
「妹さんは、元気になった?」 
「ああ。パステルのおかげでな。……あれ、結構な額で売れたからな。当分生活に困ることもねえだろう。……さんきゅ」 
 俺がそう答えると、パステルはホッとしたように微笑んだ。 
 案じてくれていたのかよ。おめえは、マリーナに会ったこともねえってのに。 
 ……やべ、本気になっちまいそうだ……いや、もうとっくに本気なのかもな。 
「んでさ。俺はおめえの従者として、一体何をすればいいわけ?」 
 照れ隠しに聞いてみる。それを聞いて、パステルはしばらくポカンとしていたが。 
「それは……」 
 それだけ言って、言葉につまる。 
 どうやら、俺が何のために来たのか、本気で何も聞いてねえらしい。 
 パステルは、たっぷりうんうんと考えこんで……やがて、顔をほころばせて言った。 
「……とりあえず、傍にいてよ」 
 ……そりゃ、もちろん。願ってもねえことだ。 
 にやり、と笑ってみせると、パステルは満面の笑みを浮かべた。 
  
 従者としての生活は、快適そのものだった。 
 俺に与えられた部屋も、飯も、まああのまま庶民として暮らしてりゃ、一生ありつけねえだろうすげえ代物だったしな。 
 そして、何より…… 
「もう! わたし本を読みたいの。邪魔しないでよ!」 
 退屈しのぎにパステルの髪をいじくっていると、きっとにらまれる。 
 だが、その顔は半分以上笑っていて、迫力なんか皆無だったけどな。 
「ああ? だって退屈なんだよ」 
「退屈なら、騎士団の人と剣の稽古でもしてたらいいんじゃない?」 
「んん? 俺はおめえの従者だぜ? んで、おめえは俺に『傍にいろ』って命令したんじゃねえの?」 
 そう言うと、パステルはぐっと言葉につまったようだった。ここぞとばかりに耳元で囁いてやる。 
「だから、傍にいるんだよ」 
 そう言うと、パステルは真っ赤になってうつむいた。 
 思わずそのまま抱きしめてえ衝動にかられるが……危ねえ危ねえ。 
 いいか、俺は従者だ。あくまでも従者。 
 従者……のはずなんだが…… 
 実質、俺のやっていることと言えば、四六時中パステルの傍にはりついて、からかって遊んでるようなもんだった。 
 せっかくクレイが長剣の腕を鍛えてくれたが、今のところそれを振るう羽目になる事態は起きてねえ。 
 それに。 
 最近、パステルは明るくなった。 
 最初会ったときの覇気のねえ目とは違い。日をおうごとにいきいきと輝くようになった。 
 俺がからかってやると、本気で怒ったり困ったり……そして笑ったり。 
 ……うぬぼれちゃいけねえとわかってる。それでも、期待せずにはいられねえ。 
 パステルも……俺に、好意を持ってくれてんじゃねえか? 
 このお子様で鈍感な女のことだ。それを自覚しちゃいねえだろうが…… 
「トラップ? どうしたの? ボーッとして」 
「……んにゃ。何でもねえぜ?」 
 顔を寄せてきたパステルに、微笑を返してやる。 
 とりあえず…… 
 今が、十分幸せだから。 
 こいつのことを見守ってやれて、笑いあってふざけあうことができる今が、十分すぎるほどに幸せだから。 
 これ以上の高望みなんかしねえ。ただ、こんな日がずっと続いてくれればいい。 
 そう、思っていたのに。 
  
 神様ってのは残酷だ。 
 わずかな幸せを与えた後で、人を地獄に突き落とすのが好きだと来てるからな…… 
  
 その日、いつものようにパステルは本を読んでいて、俺はソファに寝そべっていた。 
 何でもねえいつもの光景。それを壊したのは、部屋を訪ねてきた一人の執事。 
「パステル姫様、失礼いたします」 
 執事頭キットン。ぼさぼさ頭で俺の腰くれえまでしか身長が無く、身につけている燕尾服がまた恐ろしいくらいに似合っていない。 
 そして…… 
「と、トラップ! あなたはまた姫様の部屋で何という……」 
 入ってくるなり、ソファにつめよってつばをとばしながらわめきたてる。 
 決して、悪い奴じゃねえんだが……どうにもこうにも、口うるせえんだよなあ…… 
「ああ? うっせえな。当の姫様がいいっつってんだからいいじゃねえか」 
「なっ、なっ……」 
「き、キットン、いいのよ。わたしがそれでいいって言ったんだから。トラップはわたしの従者でしょう? わたしがいいと言ったらいいのよ」 
 怒りのあまりか口をぱくぱくさせるキットンに、パステルが慌ててフォローに走る。 
 さすが。助かったぜ。 
 笑みを返してやるが、パステルはそれに気づかなかったようだ。 
 ま、な。こう見えてもキットンにはちゃんと感謝してるんだけどな。 
 本来、こんな態度の従者なんざ、即首を切られてもおかしくねえところだ。 
 だが、パステルがそれで満足しているのを見て……それで納得しているのか、いまだ首になる気配がねえのは、キットンがアンダーソン王のところまで報告しないせえだろう。 
 そう考えると、多少の口うるささには目をつぶろうという気になる。 
「はあ、はあ……まあ、姫様がそうおっしゃるのでしたら……」 
 俺の考えなんぞ知る由もなく。 
 キットンは、必死に息を整えながら用件を言った。 
「姫様。王がお呼びですので、すぐ王の間にいらしていただけますか?」 
「……わかったわ」 
 それだけ言うと、キットンは退室した。 
 王、ね。ここに来てから、こうして呼び出されるのは初めてのことじゃねえが。 
 毎度毎度唐突だな。パステルが本を読んでようが勉強してようが入浴してようが。 
 いつも同じだ。「すぐに来い」。 
 アンダーソン王は、息子や娘を王家を盛りたてる道具程度にしか考えてねえ、とは庶民の間で流れる噂だが。 
 その噂が事実だっつーことは、ここに来てからすぐにわかった。 
 ……わかったってどうしようもねえけどな。 
 先を歩くパステルの後を、ゆっくりとついていく。 
 王の間は、パステルの部屋から歩いてすぐ。またこの部屋も、中で子供100人が鬼ごっこできそうな広さがあり、その中では王と王妃に加えて、傭兵含めたおつきの人間がずらっと並んでいる。 
 初めて見たときは一瞬腰がひけそうになったもんだ。さすがにもう慣れたけどな。 
 従者として王の間に入るこたあ入ったものの、それ以上進むことは許されてねえ。 
 俺は入り口付近で待機し、パステルだけが、そろそろと王の前まで歩いていく。 
「お父様、お呼びでしょうか」 
 ひざまずいて頭を下げる。これが親子の対面かよ。 
 早く終わらねえか、と俺がぼんやり眺めていたときだった。 
 いきなり、頭を殴りつけられるような衝撃発言が飛び出したのは。 
「パステル。お前の縁談が決まった」 
 ……それを聞いたときの、俺の衝撃をどう説明すればいいものか。 
 突然世界が崩壊するかのような、そんな衝撃。 
 よろめきそうになった身体を必死に支える。落ち着け、落ち着け俺。 
 わかってたじゃねえか。いつかこんな日が来るってことは、最初からわかってたんだ。 
 今更ショックを受けてどうする……最初からわかってた。 
 俺に手の届く存在じゃねえってことは。 
「縁談……ですか」 
 そう答えるパステルの表情は、背中を向けているからよくわからねえが。 
 少なくとも、声は平静だった。……何とも、思ってねえのか? まさか…… 
「ジョーンズ王家のディビー王子を知っているか」 
 王があげた名前は、少なくとも俺には聞き覚えのねえ名前だったが。 
 パステルは知っているらしく、質問は無かった。 
 まあ……王家っつーくらいだから、いいとこのぼんぼんなのは間違いねえだろうな。 
 少なくとも……俺とは立場も身分も財産も、何もかも違う存在だってーのは、確かな話だ。 
 必死に感情を殺して、ポーカーフェイスを取り繕う。 
 俺はただの従者だ。姫に対して特別な感情を抱くなんて許されてねえ。 
 だから……耐えろ。絶対に、気づかれるな。 
「式は一ヵ月後に決まっている。お前も、そのつもりで」 
「……はい……」 
「話はそれだけだ。行け」 
「は、はい……」 
 俺の内心などもちろん知る由もなく。親子の会話は続いた。 
 一方的な宣言。パステルの都合も希望も全く聞かず、既に決定事項となったことを伝える、事務的な口調。 
 そして、それに不満の一つも言わず、ただ頷くだけのパステル。 
 ……おめえは、それでいいのか。 
 そんな……道具みてえな扱われ方をして、満足なのか? 
 パステルが振り返る。その目には、特別な感情は浮かんでいないように見えたが…… 
 視線と視線がぶつかりあう。 
 駆け寄って、抱きしめて、すぐにこの場からひっさらってやりてえ。 
 そうわめく本心を、理性で必死に抑えつける。 
 今この場で暴れたって、どうにもできねえんだ。どうせすぐに捕まって、引き離されて、即座に首をはねられて……そんなところだろう。 
 パステル本人がそれで納得してるんだ。俺じゃあ、こいつを幸せにはできねえから。金もねえ地位もねえ、何も持ってねえ俺に、王家の姫であるこいつを幸せになんて、できっこねえから。 
 だから、俺が耐えれば……それで、こいつは幸せになれるんだから。 
 パステルは動かねえ。ただ、俺の目をまっすぐに見返していて…… 
 そのときだった。 
「パステルの従者……だったな」 
 部屋の奥から響いてきたのは、王の冷たい声。 
 何故だか、背筋に寒気が走る。 
 その、何もかもを見透かしたような声が……俺の内面を、全て見透かしているような気がして。 
「聞いたとおりだ。パステルがジョーンズ王家に嫁げば、お前は用無しとなる。……そのつもりで荷物をまとめておけ」 
 ………… 
 まさか、本当に……気づいているのか。 
 俺を遠ざけるために……こんなに急いで、縁談を組んだのか? 
 まさか…… 
「はい」 
 その予想が当たっているにしろ、いないにしろ。 
 俺に言えたのは、その一言だけだった。 
  
 婚姻の日まで、一ヶ月。 
 パステルの傍にいられるのは、一ヶ月。 
 それは、途方もなく長いようで、絶望的なまでに短い時間。 
 忘れるしかねえから。 
 諦めるしかねえから。 
 だから、俺はただの従者になる。そうなりきるしかねえから。 
 部屋の隅に黙って立ち、パステルに声をかけられねえ限りは動かない。 
 二人でふざけることも、からかうこともしない。 
 そうやって徹底的にパステルを拒絶しなければ……俺は、すぐにでもさらって逃げちまいたくなる衝動にかられるから。 
 パステルの幸せのためには、俺が身を引くのが一番だから。 
「トラップ……」 
「お呼びでしょうか、パステル姫様」 
 感情を押し殺したうわべだけの笑み。 
 それを受け止め、泣きそうな顔をするパステル。 
 ……悲しそうな顔なんざしねえでくれ。 
 せめて、幸せに笑っていてくれ。婚姻が楽しみだ、そう言ってくれ。 
 おめえを悲しませるために、身を引くんじゃねえ。 
 俺が、こうやっておめえを拒絶することが、どれだけ辛いか……おめえはわかってるのか? 
  
 パステルの婚姻の日まで、後一日。 
 城にいる気になれなくて、俺は一足早く、家に戻っていた。 
 どうせ、今日か、明日か、明後日か。 
 パステルがいなくなったら、首になる身だった。一日やそこら早く辞めたって、誰も文句を言う奴なんざいねえ。 
「ただいま」 
「……トラップ!? どーしたのよ一体!」 
 家のドアを開けると、食事をしていたマリーナが立ち上がった。 
 そして…… 
「……何でおめえがここにいるんだ?」 
「マリーナの作る料理は美味しいからね。城のコックになってほしいくらいだよ」 
 ひょうひょうと答えているのは……クレイ。 
 おい……一体いつのまに…… 
「と、とにかくそこらへんに座って。もう、何で急に帰ってくるのよ。ご飯、用意してないからね」 
 何やら迷惑そうに言いながらばたばたと茶を入れ始めるマリーナ。 
 おい……それが久しぶりに帰ってきた兄に対する言葉かよ…… 
 はーっ、とため息をついてベッドに腰掛ける。椅子はクレイの野郎が座ってるしな。 
 ったく。 
 俺がどかっとベッドに横になると、背後で誰かが立つ気配がした。 
 見上げると、クレイが俺の顔を覗きこんでいる。 
「……あんだよ」 
「帰ってくるだろうと思って、先回りしてたんだ」 
「はあ?」 
 思わず身を起こすと、クレイは隣に腰掛けて、淡々と言った。 
「明日が、いよいよ結婚式だな」 
「……そーだな」 
 クレイの言葉には、何の感情もこもってねえように見えたが。 
 ……そんなわけ、ねえ。こいつはいつもいつも、無意味に朗らかで、優しそうで…… 
 感情がこもってねえ、ように聞こえるってこたあ…… 
「トラップ」 
「あんだよ」 
「……止めるつもりは、無いのか?」 
「はあ?」 
 おいおい。それが第一王子の言葉かよ。 
 王に聞かれたら即刻勘当もんだぜ? 
「止めてどうする。パステルは納得して嫁に行くんだろ。俺にそれを止める権利なんざあるかよ」 
 吐き捨てるようにして言った瞬間。 
 クレイの手が、俺の胸倉をつかみ上げた。 
 身長差を利用して、そのままつりあげられる。 
「ぐえっ!?」 
「……俺は、お前ならパステルを幸せにできると、そう見込んでお前にパステルをたくしたんだぞ!? お前、それを今更裏切るのか!?」 
「う、うらぎ……?」 
 何を……言ってやがる。 
 俺は…… 
 どさりっ 
 手を離されて、床でしたたかに腰を打つ。 
 にらむような目で俺を見るクレイの目を、まっすぐに見返してやる。 
「俺だって……俺だってできればさらって逃げてえんだよ!」 
 口をついて出たのは、誰にも言えねえと押し隠してきた……本音だった。 
「ああ、そうだ。俺はパステルにどうしようもねえくらい惚れてる。だけど俺に何ができる!? 俺がさらって逃げたところで、俺は何も持ってねえ。王家の姫として何不自由なく暮らしてきたあいつを、わざわざ不幸になるとわかってさらって逃げるなんざ、できるわけねえだろ!? 俺は、俺はなあ!!」 
 叫んでいるうちに段々腹が立ってきた。 
 何でだよ。 
 俺は、もう十分傷ついて、絶望してるんだ。 
 なのに、何でおめえは……わざわざ傷口をえぐるようなことを言うんだよ!! 
「俺はなあ、あいつに幸せになってほしいんだよ。クレイ、おめえが言ったようにな! だから身を……」 
 バキッ!! 
 したたかに顔を殴られて、俺は再び床を転がる羽目になった。 
 目の前には……初めて見る。怒りの表情を浮かべた、クレイ。 
「てめっ……」 
「見損なったぞ、トラップ」 
 吐き捨てるようにして、クレイは言った。 
「お前は、一体この数ヶ月……パステルの何を見てきたんだ。パステルが、地位とか金とか……そんなものに幸せを感じる女だと、お前は本気でそう思っているのか!?」 
「…………」 
「お前がそのつもりなら……俺に言うことは何も無い。マリーナ、騒がせて悪かったね」 
 マリーナに声をかけて。 
 言いたいことだけ言って、クレイは……出て行った。 
 起き上がる気にもなれねえ。俺は床に転がったまま、天井を見つめていた。 
 地位とか金とか、そんなものに幸せを感じる女。 
 ……そんなわけはねえ。パステルは、そんな女からはもっとも縁遠い女だ。 
 俺は…… 
「トラップ……」 
「あん?」 
 どかっ!! 
 突然腹の上に何かを落されて、俺は身もだえする羽目になった。 
「ま、マリーナ……あに、しやがる……」 
「バカ! バカバカバカ! あんた本当にバカよ! 何もわかってない、あんたみたいなのが従者だなんて、パステル姫様が気の毒すぎるわ!」 
「あんだと!?」 
 何で何も知らねえおめえにそこまで言われなきゃなんねえんだよ!! 
 立ち上がろうとした瞬間、つきつけられたのは…… 
 長剣だった。 
「おめえ……」 
「クレイからの、預かり物よ」 
 鞘に収められた長剣。それとショートソード。 
 それを抱えて、マリーナは……言った。 
「クレイ、言ってた。トラップが城に来てから、パステルが明るくなったって、本当に嬉しそうだった。あのね、これは女の勘よ! 勘だけど、間違いないわね。パステル姫様はねえ……!」 
 まくしたてられるマリーナの言葉は……にわかには信じがたかった。 
「……まさか」 
「なら、確かめて来なさいよ! あんたらしくないわよ、トラップ。自分の目で見たことしか、自分の耳で聞いたことしか信じない、それがあんたでしょう!?」 
「…………」 
 マリーナが叩き付けた荷物に入っていたのは、路銀と、そしてマリーナ自身の服が一式。 
 それに、長剣とショートソード。 
「……おめえは、それでいいのか?」 
「いいに決まってるじゃない」 
 俺の問いに、マリーナはあっけらかんと答えた。 
「そりゃ、寂しいけど。あたしだって子供じゃないのよ? トラップは……お兄ちゃんは、あたしのために今まで散々苦労してきたんだから。トラップが幸せになるんだったら、それでいいわよ」 
「おめえ……」 
 子供だ、と思ってた。俺が守ってやらなきゃ、と思ってた。 
 なのに、いつの間にか……成長してたんだな、おめえは。 
「……さんきゅ」 
「バカ、お礼なんか言わないでよ。兄の幸せを願わない妹がいますかって! ……そのかわり、幸せにしてあげてよ? 絶対に」 
「ばあか、それこそ、おめえに言われるまでもねえよ」 
 それが、別れの言葉だった。 
 マリーナに背を向けて、走り出す。 
 目指すは、城だ。……俺の幸せのために。パステルの幸せのために。 
 俺はもう一度、この手を汚す。 
  
 パステルの部屋の場所は熟知していた。ここ何ヶ月か、ずっとそこにいたからな。 
 何故だか、門番や見張りのいねえ城を、不審に思う暇もなく、最初にパステルと出会った日と同じように、城門をよじのぼって乗り越える。 
 三階までとは、ちっときついが。 
 今の俺は、失敗する気がしねえ。 
 フックつきロープを投げると、狙いたがわず、パステルの部屋……の真上の部屋の窓枠に、しっかりとかかった。 
 ひっぱってみる。……大丈夫そうだな。 
 音を立てねえよう注意してよじ登る。こんな時間だ。もう、寝てるだろうが…… 
 するすると窓枠にたどり着き、片手でぶら下がるようにして、窓枠を叩こうと…… 
 した瞬間、俺は手を滑らせそうになった。 
 な、何でだ!? 
 カーテンもひいてない窓。その向こうに立っているのは……まぎれもない、パステル自身。 
 何で……こんな時間に……? 
 パステルは、窓ガラスに手をついて、じっとうつむいていた。 
 その姿は……絶望に染まっていた。 
 ……何でだよ。 
 何で、そんな……悲しそうなんだ……? 
 そっと、パステルの手のある場所に、自分の手を重なる。 
 返って来るのは、冷たいガラスの感触だけだったが。 
 気配のようなものでも感じたのか。パステルは、ハッと顔を上げた。 
「と、トラップ!?」 
「……よう」 
 ガラス越しに聞こえる、微かな声。 
 パステルが慌てて窓を開ける。外開きの窓だったら、ちっと苦労するところだったが。幸いなことに内開きだったらしく、何なく部屋へ侵入するのに成功した。 
「トラップ……どうして……?」 
「…………」 
 パステルの戸惑った顔。 
 言いたいことはいくらでもあった。聞きたいこともいくらでもあった。 
 悲しそうな顔なんか見たくなかった。幸せになってほしかった。ずっと笑顔でいてほしかった。 
 そして…… 
「……おめえに、聞きに来た」 
「……え?」 
 ぼそりとつぶやくと、パステルはしゃがみこんで、俺に目線を合わせてきた。 
「トラップ?」 
「聞きてえんだ。おめえは、嫁に行きてえのか? ジョーンズ王家とやらの王子様と、結婚してえのかよ?」 
 その答え次第だ。 
 その答え次第で、俺は……おめえを連れて逃げるか、あるいはこのまま帰るかを決める。 
 全てはおめえ次第なんだ、パステル。 
 じっとパステルの目を見つめる。迷っていたのは、ほんの一瞬だった。 
「……嫌」 
「…………」 
「嫌よ。どうして、あんな……ろくに、顔も知らないようなあんな人と、結婚しなくちゃいけないの? わたしは嫌。わたしは、わたしは……!」 
 それだけで十分だった。 
 ずっと抑えてきた衝動。欲望。そういったものが、俺の身体を一気に突き動かした。 
 気がついたとき、俺は……パステルの身体を、力いっぱい抱きしめていた。 
  
「トラップ……?」 
 耳に届く、戸惑いの声。 
「……諦められると、思ったんだ」 
 おめえが幸せになれるなら、俺自身はどうなってもいい。 
 本気でそう思っていた。諦めるのが一番いいんだと、自分に言い聞かせていた。 
 だが…… 
「諦められると思った。おめえがそれで幸せになれるんなら。どうせ俺には……庶民の俺には、おめえを幸せにするなんてできっこねえから、忘れちまおうとそう思った。だけど……」 
「トラップ……」 
「……見てられねえんだよ!! この一ヶ月、おめえの顔はどんどん暗くなっていって……何でそんな辛そうなんだよ。幸せになるんじゃなかったのかよ!? おめえがそんな顔してたら……諦めきれねえじゃねえか。俺は……」 
 どうして、悲しそうなんだ。 
 悲しそうな顔をするくれえなら……何で、きっぱり断ってくれなかったんだ。 
 おめえが、黙って婚姻を承諾したとき。俺が、どれほどのショックを受けたのか……おめえはわかってるのか? 
 ぶつけたい言葉はいくらでもあった。 
 だが、パステルの方が早かった。 
「諦めないでよ……」 
「……あ?」 
「諦めないでよ、傍にいて、わたしを幸せにして! わたしはこんな王家にはもういたくない。誰もわたしのことなんか考えてくれない、ただ従順な姫であることを強制される生活なんてもう嫌なのよ! 諦めないで、わたしとずっと一緒にいてよ!! わたしは……トラップさえ傍にいてくれれば、それで幸せなんだから!!」 
 ……おめえは。 
 それは……本気で、言ってるのか……? 
「……パステル……」 
 そう呼びかけたとき。 
 パステルが見せたのは……まぎれもない、喜びの表情。 
 この一ヶ月、一度も見せたことのなかった、笑顔。 
 止められなかった。もう限界だった。 
 気づいたとき、俺は……パステルの唇を、奪っていた。 
 抵抗は、無かった。 
  
 我慢できねえ。 
 わずかな時間も惜しんで、俺は、パステルの身体をその場に押し倒した。 
 ずっと、ずっと耐えてきた。 
 初めて出会ったときから、どうしようもなく惹かれていた。 
 諦めようとして、諦めきれなくて、ずっとずっと辛かったから。 
 だから……もう、我慢しねえ。 
 ぐっと肩を押さえ込む。冷たい床の上だというのに、パステルは、嫌がる素振りも見せなかった。 
 ただ、つぶやいた。 
「初めて、なのよ……」 
 思わず笑いがこぼれそうになる。 
「見りゃわかる」 
「優しく、してくれる?」 
「……おめえが、そう望むのなら」 
 いくらでも、優しくしてやる。 
 おめえが俺を受け入れてくれるのなら。俺は、おめえの望む通りにしてやるから。 
 唇をふさぐ。わずかな隙間にこじいれるようにして、パステルの舌をからめとる。 
「っあ……」 
「…………」 
 キスを深めるにつれて、パステルの白い頬は、段々と赤らんでいった。 
 ぎゅっと俺の首にしがみつくようにして……自ら、刺激を求めてくる。 
 感じてるんだな。しっかりと。 
 抑えきれない笑いが漏れる。ろくに知識も無えお嬢さんだからこそ、与えられた刺激に、恥らうことなく素直に反応を返してくる。 
 ……好都合だけどな。 
 するりと夜着の紐をほどくと、大して大きくもねえが、ひどく綺麗な胸が、飛び込んできた。 
 無地の生地を汚すことに、快感を覚える。それは、こういう心理なんだろう。 
 白い胸に唇を寄せる。軽く吸い上げるたびに、赤い痕が残った。 
 こいつは、俺だけのもんだから。 
 もう、誰にも渡さねえ。 
 そっと手を滑らせる。 
 最初は軽く、優しく。時にさするように、撫でるように。 
「はあ……あ、やあっ……」 
 俺の手が動くたび、パステルの唇から、あえぎ声が漏れる。 
 白い肌が少しずつ朱にそまり、手が触れるたびに身もだえして背筋をのけぞらせる。 
 ……敏感なんだな。多分。 
「っう……あんっ……と、とらっ……ぷ……」 
 耳に届く甘い声。 
 そこに秘められているのは……間違いなく、欲望という名の感情。 
 俺を求めている。そう考えただけで、瞬間的にイキそうになる。 
 ぐいっ 
 はやる気持ちを抑えて、足を開く。愛撫の最中に、既に夜着も下着もはぎとってある。 
 隠すもののねえパステルの裸身は……月明かりを浴びて、ぞっとするほど綺麗だった。 
 太ももに手を這わせ、中心部に触れる。 
 そこは、既に十分過ぎるほど潤っていて、俺の指を、何の抵抗もなく受け入れた。 
「っ……やだっ……もう……」 
 パステルが声をあげるたび。俺の身体もまた、素直に反応を返す。 
「そうやって恥らう様が……また、何つーかそそるんだよな。おめえ……色気のねえ女だと思ってたけど、それ、訂正してやる……」 
 耳元で囁き、耳たぶを軽くかんでやる。 
 びくり、と震える身体。指にまとわりつく粘液。 
 ……もう…… 
「も、いいか……俺、限界……」 
 囁き声に返ってきたのは、小さな頷き。 
 潤んだ瞳で俺を見上げて、パステルはただ一言、つぶやいた。 
「……来てっ……」 
 太ももを持ち上げる。俺自身をあてがう。 
 貫いたときの抵抗は、思ったよりも少なかった。 
  
 貫いた瞬間、悲鳴の形に開いた唇を塞ぐ。 
 むさぼるようにして、お互いをからめあう。 
 俺の背中にしがみつくパステルの腕に力がこもる。相当痛いんだろう。侵入を進めるごとに、パステルの身体は、ひきつるように震えた。 
 ……わりい。これ以上、優しくはできねえ。 
 もう限界なんだ。俺も。 
「っうう……」 
 痛みのせいか、パステルはもがくようにして腰を振った。 
 そのわずかな動きさえも、俺に全身を貫くような快感を与えてくれる。 
「っやべっ……」 
「とらっぷ……?」 
 怪訝な声に、返事をしてやる余裕もねえ。 
 あまりの快感に、気を抜けば即イッてしまいそうな状況。 
 ……長持ちはしねえ。 
 そう考えたら、動き始めていた。優しくしようと思いつつ、欲望に突き動かされる身体。 
 俺が律動を開始すると、パステルの目に涙が浮かび始めた。 
 痛い……のか。……わりい…… 
 俺ばっかり気持ちよくて……おめえに、何の快感も与えてやれねえのか? 
「っあっ……い、いたっ……」 
 うめき声。それすらも、欲望を高める。 
 激しい律動。パステルの爪が俺の背中に消えない痕を残す。 
 ……痛え…… 
 背中に食い込む痛みに顔をしかめるが、それを口には出せねえ。 
 こんな痛みは、痛みじゃねえ。パステルの痛みに比べたら。 
 最後のときは近づいてきた。 
 徐々に上りつめるような感覚が、俺の全身をかけめぐる。 
「……トラップ……」 
「パステル!」 
 叫んだ瞬間、パステルの身体をかき抱いた。 
 その瞬間、俺はパステルの中に、欲望を放っていた。 
  
 しばらく、俺もパステルも動けなかったが。 
 ……のんびりしてる暇はねえ。 
 ばさり、とマリーナに渡された荷物を渡す。 
「これ、は……?」 
「マリーナの服、借りてきた……」 
「えと……?」 
 明らかにドレスとは違う服に、パステルは戸惑いの表情を見せる。 
 ……そーだよな。そういや、こいつ、着替えもいつも侍女にやらせてたもんな。 
 ……いいのか? そんな優雅な生活を捨てちまって。 
 手を貸して着替えさせると、パステルは申し訳なさそうにうつむいた。 
 ……そんな顔、すんなよ。俺には……おめえしかいねえんだから。 
「もう決めた。おめえを連れて逃げるって、もう決めたんだ。まさか……嫌だ、なんて言わねえよな?」 
 そう言うと、パステルはすがるような目で答えた。 
「後悔、しないの? もう、マリーナに会えないかもしれないのに」 
「……話、つけてあるよ。ちゃんと。『トラップが幸せになるのならそれでいいよ』だとさ。ったく、薄情な妹だぜ」 
 というよりも、最後の一押しをしたのはマリーナ自身なんだが。 
 さすがは……俺の妹だぜ。 
「おら、行くのか、行かねえのか?」 
 差し伸べた俺の手を、パステルはためらいなく握った。 
 これから先、どんな苦労が待っていようと。 
 俺は絶対に……後悔なんかしねえ。 
  
 ショートソードをパステルに渡し、長剣を構える。 
 久々に握ったそれは、重かった。この腕に、俺と、パステルの命運がかかってるんだからな……軽かったら困る。 
「見張りがいるかもしれない」 
 パステルの言葉に外をうかがうが、それらしき気配は感じられねえ。 
 細くドアを開ける。廊下には、人気が全くなかった。 
「……誰もいねえぞ」 
「え?」 
 俺の言葉にパステルも外に出る。 
 見事に人っこ一人いねえ。 
 ……まさか。こんなことができるのは…… 
 俺の脳裏に、黒髪の美形の王子の姿が浮かんだが、それを確認しているような暇は無かった。 
「行くぞ、パステル」 
「うん」 
 最愛の女を連れて。 
 俺は、引き返せない一歩を踏み出した。 
  
 まずは森を抜ける。俺の街まで戻ったら、朝まで時間を潰して、馬車を調達する。 
 どこからかき集めたのか、あるいは出所はクレイなのか……マリーナが持たせた路銀は、結構な額だった。 
 必死で森を走り抜ける。俺はいい。どうとでもなる。 
 問題はパステルだ。それまで、城から外に出たことすらも無いというパステルの足に、夜の森はきついらしい。 
 すぐに息が切れ、何でもねえところでつまづくようになった。 
 それでも、弱音一つ吐かず、俺についてきてくれる。 
 ……手助けしてやるのは簡単なんだ。今の俺なら、おめえをおぶって森を走り抜けるくらい、多分わけもねえ。 
 だが、甘やかさねえ。これから先待ち受けてる困難は、こんなもんじゃねえから。 
 だから走れ、パステル。どれだけ俺の手をわずらわせてもいい。自分の力で走れ。 
 手をひっぱる。普段の倍近い時間をかけて道を進む。 
 何とか、夜明け前には抜けられそうだ、そう思ったそのとき。 
 前方から、異様な気配が、漂ってきた。 
 自然に足が止まる。先に進もうとしても進めねえ。異様な迫力…… 
「トラップ……?」 
「……くそっ……」 
 足音一つ無かったのに。気配だけが濃厚に漂ってくる。 
 やがて……闇に同化しそうな黒尽くめの男が、俺の前に、姿を現した。 
 黒髪黒目、鍛え抜かれた体、手にしているのは長剣。 
 俺は剣の腕は大したもんじゃねえが……それでもわかる。 
 相当な、使い手…… 
「あなたは……」 
「騎士団長、ギア・リンゼイと申します。パステル姫……いつも素直だったあなたが、こんな盗賊風情に言いくるめられるとは……」 
 パステルの問いに答える男の言葉は、酷く冷たかった。 
 俺に対する蔑みと、愚かな王女に対する哀れみ。 
 そんな感情がこめられた、背筋が寒くなるような言葉。 
「下がっていてください。あなたは明日嫁がれる大切なお身体。傷つけるわけには参りません。この害虫を始末したら、すぐに城までお送りしますから」 
「なっ……」 
 害虫呼ばわりされたのは、俺なんだろうが。 
 その言葉に、俺よりもパステルが怒りを覚えたらしい。俺を押しのけてギア、という男につめよろうとする。 
 ……やめろ。 
 その男は……いざとなったら、俺とおめえ、二人まとめて秒単位で殺すことだってできる。 
 それだけの使い手なんだぜ……? 
「ひどい……ギア、下がって。下がりなさい! これは命令よ。トラップを傷つけないで!!」 
 初めて聞いた、パステルの命令の言葉。だが、それにも、ギアは動じる気配も見せなかった。 
「……申し訳ありませんが姫様。それは聞けません。これは王陛下からの命令ですので」 
 その言葉に、俺は悟る。 
 やっぱり、あのとき……あの王は、何もかも見抜いていたんだと。 
 俺の気持ちも、パステルの気持ちも。 
 パステルのことは、無視することに決めたらしい。それ以上構うことなく、ギアは長剣を構えた。 
 あちこちが崩れている俺の構えとは全く違う。無駄も隙もない構え。 
 俺があいつに勝とうと思ったら、多分後十年は修行が必要だな。 
 でも……負けるわけには、いかねえんだよ! 
「下がってろ、パステル」 
 前に出ようとするパステルを押しやって……俺は、笑った。 
 笑ってやることが、パステルのためにできる、せいいっぱいの気遣いだったから。 
「負けねえよ。おめえを置いて、俺が一人でいくわけねえだろ? 俺を信じろ」 
 俺の言葉に……パステルは、頷いて後ろに下がった。 
 それを確認して、向き直る。 
 ギアは動こうとはしない。見事な無表情で、俺を見ている。 
 ……やるしか、ねえんだ! 
 長剣を構えて、俺は走り出した。 
  
 キンッ!! 
 一瞬、剣と剣がぶつかりあう。 
 力比べ。数秒耐えて……そのままとびすさる。 
 ……駄目だ。 
 俺が全力をこめていたのに対し、ギアの野郎の表情には、余裕と嘲笑が見え隠れしている。 
 遊んでやがる。その気になれば、一瞬で殺すこともできるくせに…… 
 ……油断。その油断を、つくしかねえ! 
 再び走る。走る剣筋を見切って、避けて、受けて、流す。 
 反射神経とスピードには自信がある。そのおかげで、一撃でばっさり、という羽目にならねえですんでいるが。 
 ギアの剣が走るたび、俺の身体には、確実に傷が増えていった。 
 そして、その傷の痛みが、流れる血が、確実に反応速度を落とす。 
 ……やべえっ! 
 何度目のことかは忘れた。 
 一瞬力が抜ける。その隙を狙って、ギアの剣が……俺の剣をはねとばした。 
 ぎんっ! 
「トラップ!?」 
「ちっ……」 
 響くパステルの悲鳴。 
 伏せるか、後ろに下がるか、思い切って前に出るか、横に避けるか。 
 いくつかの選択肢が頭をめぐり、その一瞬の間に、全ての選択肢が消滅する。 
 その瞬間、俺は首をつかまれ、傍の木に叩きつけられていた。 
「くっ……!!」 
 骨がきしむような振動に、思わず歯を食いしばる。 
 ギアの力はすごかった。どれだけ力をこめても、ぴくりとも動かねえ。 
 喉を潰されそうな痛みに、目の前が真っ赤に染まる。 
「まあ、その程度の腕で、よく持った方だといえる。だが……遊んでいる暇は、無いんでね」 
 耳に届くのは、笑いさえ混じったギアの言葉。 
 脇腹に、冷たい感触が押し付けられる。 
 ……駄目かっ!! 
 一瞬諦めそうになったそのときだった。 
「ぐっ!!?」 
 悲鳴をあげたのは……ギアだった。 
 どん、という小さな衝撃。 
 ……何が、あった!? 
 反射的に閉じていた目を開く。ギアは、驚愕の表情を浮かべて……そのまま、ずるずると崩れ落ちた。 
「っつつつ……」 
 首を解放され、同時に俺も座り込む。 
 何が…… 
 目に入ったのは、ギアの背に刺さるショートソード。 
 そして。 
 その場に座り込んでいるパステルと……血まみれの、両手。 
「トラップ……」 
「パステル……おめえ……」 
 つぶやいた瞬間、パステルの膝から、力が抜けた。 
 茫然自失という言葉がふさわしい。うつろな目を、俺と、ギアに向けて…… 
「パステル……」 
「いや……わたし、夢中で……トラップを助けようとして、トラップが死んじゃうと思って……いや……いやああああああああああああ!!?」 
 それ以上は見ていられなかった。 
 恐慌状態に陥るパステルを、俺は……力の限り、抱きしめた。 
「パステル!!」 
 腕に力をこめた瞬間、震えていたパステルの身体が、大人しくなる。 
 そして、そのかわりとでもいうように……事態を理解して。俺の身体に、震えが走った。 
「おめえ……何てことを……おめえまで、その手を汚すことはなかったのに。そんなのは俺だけで十分だったのに」 
 おめえのためなら、どんな罪でも犯すつもりだった。 
 どんなことをしてでも、おめえを守ってやるつもりだったのに。 
 俺は……! 
「トラップ……」 
「おめえを守ってやれなかった。これは俺の罪だ。おめえは悪くねえ。全部俺が……」 
「違う!」 
 俺の言葉を遮ったのは、パステルの強い言葉。 
 姫として、いつも穏やかに求められた返事を繰り返してきたパステルが放った……自分自身の考え。 
「違う。トラップ、言ったじゃない。甘えるな、自分のことは自分でやれって。だからわたしが自分でやったの。これはわたしがしたことなのよ。トラップ!!」 
 ――――!! 
 おめえって……奴は…… 
 マリーナもそうだった。パステルも。 
 俺が守ってやりたいと思った奴は……みんな、いつのまにか、成長してやがる。 
 ……情けねえ。パステルが、これだけ頑張ったのに。 
 俺は…… 
 俺にできたことは、ただパステルの身体を抱きしめてやることだけだった。しばらくの間、言葉もなくお互いの身体にしがみつく。 
 そのときだった。 
 どこからともなく、足音が向かって来たのは…… 
  
「……クレイ兄様!?」 
 先にその人物に気づいたのは、パステルだった。 
 振り返る。確かに、そこに立っていたのはクレイだった。 
 服装こそ、庶民のような地味な服を身につけているが…… 
「パステル……」 
 この事態はさすがに予想外だったのか。 
 クレイは、しばらく俺達とギアを見つめていたが……やがて、倒れているギアの元にかけより、その腕をつかんだ。 
「兄様、これは……」 
「逃げろ」 
「え?」 
 何かを言いかけるパステルを遮ったのは、クレイの強い言葉。 
 ……逃げろ。 
 それは、あのとき。俺がクレイと初めて会ったときも、言われた言葉。 
「大丈夫だ、彼は助かる。後のことは何とかするから、お前達は早く逃げろ」 
 ギアの身体を抱き起こして、クレイは言った。 
 ……全く。 
 おめえは……何で、そう……いつもいつも貧乏くじばかりひくんだ? 
「兄様!? だって……」 
 止めようとするパステルを押しのけて、俺は立ち上がった。 
 クレイの元に歩み寄る。この、何もかもを見透かしたかのように、俺とパステルを引き合わせた……恩人を。 
「いいのか? ……こいつが嫁がねえと、あんたの王家、色々とやばいことになるんじゃねえ?」 
「バカなことを言うな! 妹を不幸にしなければ得られない力なんかいるか。そんなものに頼らなければならないような王家なら滅んでしまえばいい」 
 俺の質問に、クレイは即答した。 
 こいつなら、きっとそう言うだろうと思っていた。こいつが王に即位すれば……この国は、もっといい国になるに違いねえ。 
 庶民でも安心して暮らせる、そんな国になるに違いねえ。 
 にらみつけるクレイの目を受け止めて、俺は大きく頷いた。 
 安心しろ。俺は……もう二度と、おめえの期待を裏切らねえ。 
「トラップ、妹の幸せを願わない兄がいるか? ……早く行け。パステルを不幸にするようなことがあったら……俺はお前を許さない。どこまでも追いかけて、俺自身の手で始末をつける」 
 ……同感だ。そっちこそ、頼むぜ。後のことは。 
「へっ、言われるまでもねえ。……安心して見守ってろ、パステルは絶対に幸せにする。……パステルはもらっていくぜ、兄貴」 
 俺がそう答えると。クレイは、満足そうに頷いた。 
 もう少し、こいつを兄貴と呼びたかったけどな。……いや、きっといつか、また出会える。 
 そのときは思う存分呼んでやるさ。甥っ子か姪っ子も連れてな。 
「お前は、やっぱり罪人だよ。王家から、パステルの心という、もっとも価値のあるものを盗み出したんだからな?」 
 うまいことを言う。 
 あの日、俺は何も盗めなかったと思った。死を覚悟し、マリーナを救えねえ自分を責めていた。 
 だが……あれは、無駄じゃなかった。あのとき、俺は最高の宝を手に入れていたんだから。 
「クレイ兄様……」 
「パステル。幸せに、なれよ」 
 クレイの言葉に、パステルは大きく頷いて、俺の手を握った。 
 そうだ、幸せになるに決まっている。 
 俺もパステルも、それまでの生活で幸せを得ることができなかった。 
 だから、古い生活は捨てる。新しい生活で、幸せをつかみとってやる。 
 俺とパステルは走り出した。新しい道へ。 
 かたく繋いだ手を、もう二度と離さねえと、心に誓って…… 

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