ふと気づいたとき、彼女の姿が目につくようになった。 
 俺にとって、彼女は可愛い妹みたいなものだと思っていた。 
 初めて会ったときから何故か放っておけなくて、守ってあげたいと思って。 
 そうして気づいたら、この思いはどんどん大きくなっていた。 
 この感情が何なのか、俺にはよくわからない。 
 家族愛なのか、保護欲なのか、あるいは…… 
 恋心、なのか。 
  
 どうしてあいつの姿が目につくんだろう? 
 意地悪で、口が悪くてトラブルメーカーで。いつも迷惑ばかりかけられているのに。 
 どうして目が離せないんだろう? 
 わかっていた。意地悪ばかり言っているようだけど、実は人一倍わたしのことを心配してくれているって、わかってたから。 
 最初はそれが純粋に嬉しかった。 
 なのに、最近、あいつの姿を見ると変な気持ちになる。 
 イライラしたり、悲しくなったり、怒りを覚えたり。 
 どうしてこんな嫌な感情ばかり膨れ上がってくるんだろう。 
 わたしにとって、あいつは何なんだろう? 
  
 何であいつのことが気になっちまうんだ。 
 見込みがねえってわかってるのに。どうせかなうわけもねえってわかってるのに。 
 俺には優しくしてやることも、甘えさせてやることも、あいつが望むようなことを何一つしてやれねえのに。 
 実るわけもねえから諦めようとしているのに。 
 なのに、何で気がついたらあいつのことを目で追ってるんだ? 
 それに…… 
 何で、気づかなくてもいいようなことにまで気づいちまうんだ? 
 自分の心が傷つくだけだってわかっているのに。 
  
 その日、俺とパステルとトラップは、買出しのために町を歩いていた。 
 俺の名前はクレイ。一応パーティーのリーダー……ということになっているはず。 
 幼馴染のトラップに、スライムに襲われていたところを助けたパステルとルーミィ、気がついたら仲間になっていたキットン、逆に俺達がスライムに襲われているところを助けてくれたノル、とあるクエストで仲間になったシロ。 
 六人と一匹、レベルも低いしスキルもばらばらなでこぼこパーティーだが、俺にとってはかけがえのない仲間だと思っている。 
 今は特にクエストに出る用事も無い。もうすぐ冬がやってくるし、厳しい寒さは即命の危険につながる。そんなわけで、俺達は冬の間、シルバーリーブでアルバイトをして過ごすことになっていた。 
 今日は、全員で休みを取って、冬を越すための準備をする。俺達三人が買出し組みで、ノル、キットン、ルーミィとシロで、保存食の準備をしたり痛んだ備品の修理をしているはずだ。 
「ったくよお。何で俺が荷物持ちなんだよ。ノルにやらせりゃいーだろうが」 
 重い荷物を持たされてぶつぶつ文句を言っているのはトラップ。まあいつものことだけどな。 
「何言ってるのよ! キットンとルーミィとトラップなんて、安心してまかせてられないわ。トラップのことだからどうせすぐに逃げようとするに決まってるもの!」 
「あんだと!?」 
 腰に手を当ててトラップをにらみつけているのはパステル。 
 この二人はいつもこうだ。ちょっとしたことですぐ言い争いをするくせに、仲直りも早い。 
 俺には……いや、俺だけじゃなく、ノルだってキットンだってわかってる。トラップは、パステルに構ってもらいたいだけで、別に本気で文句を言ってるわけじゃない。 
 全く、素直になればいいものを…… 
「まあまあ二人とも。ほら、早く帰らないと日が暮れるぞ」 
 二人の間に割って入る。俺がこうしていさめないと、言い争いはいつまででも続くからなあ。 
 まあ、トラップも不憫と言えば不憫だ。あいつの気持ちなんか、まわりの人間から見たら一目瞭然なのに、何故か当の本人パステルだけが気づかないんだもんな。 
 俺も人からよく鈍いと言われるけど、パステルのあの鈍さも相当なものだと思う。 
「クレイー! クレイからも一言言ってやってよ!」 
「あに言ってんだ! 先に喧嘩ふっかけてきたのはおめえじゃねーか!」 
 俺を挟んでぎゃあぎゃあと言い争いを展開する二人。 
 おいおい、勘弁してくれよ…… 
 間に挟まれて、密かにため息をつく。 
 はあ……俺っていつも言われるけど、損な役回りだよなあ。 
 ……それに。 
 前はそんなことはなかったのに。最近、この二人の言い争いを聞いていると…… 
 不思議と、胸が痛くなるのは……何でだろう? 
  
 もー! どうしてトラップってばいつもこうなのよ!! 
 クレイとトラップと並んで歩きながら、わたしはぶつぶつつぶやいていた。 
 冬を迎える準備のための買出し。それにトラップをひきずってきたのはクレイ。 
 見張ってないと逃げるだろうからっていうのは、正しい見解だと思う、うん。 
 だけど、道中トラップは文句ばっかり言ってた。やれ「重い」だの「面倒くさい」だの。 
 確かにねえ、荷物は多かったけど。トラップよりクレイの方がずっと持ってる荷物は多いのよ!? ちょっとはクレイを見習って欲しい、本当。 
「ごめんね、クレイ。荷物ほとんど持ってもらっちゃって。重たいでしょう?」 
「いやあ……大丈夫大丈夫。これくらい。パステルこそ、大丈夫? 重たくない?」 
「え? ううん、大丈夫」 
「重かったらいつでも言えよ。持ってやるから」 
 くーっ! 優しいっ! 見よ、このトラップとの違い! 
 クレイの向こうで、「けっ、甘えなあ」なんてつぶやいてるトラップが見えるけど、気にしないもんね! 
「大丈夫大丈夫。ほら、もうすぐつくから」 
 わたしが、遠くに見えるみすず旅館を指差したときだった。 
「……あのー……」 
 遠くから何かが聞こえたような気がした。 
 ……気のせい、かな? 
「あのー……すいません……」 
「え? クレイ、何か言った?」 
「いや。俺は何も……」 
「あのー……こちらです……」 
 はい!? 
 ぼそぼそと耳元で囁かれて、思わず振り返る。 
 すると…… 
 驚くほど近く。わたしのすぐ隣に、一人の女の人が立っていた。 
 長い栗毛を一本の三つ編みにまとめていて、眼鏡をかけたほっそりした女の人。 
 えーと……それ以上の説明のしようがない、そんな人。 
 全体的な印象は、とにかく「薄い」。どこまでも派手なトラップと並べると、かすんでしまいそうな、そんな地味な装いの人だった。 
「あのー……わたし達に声をかけたんですか?」 
「はい、そうです……」 
 女の人は、いまいち生気の感じられない声でぼそぼそとつぶやいた。 
「俺達に、何か用ですか?」 
 「おい、とっとと帰ろうぜ」なんて言っているトラップを手で制して、クレイが優しく微笑んだ。 
 どこまでも現実主義者なトラップと違って、クレイは優しいもんね。頼みごとをされたら引き受けずにはいられない、そういう人なんだ。 
「はい……あ、申し遅れました。私、リルカと申します。実は、画家をやっておりまして……」 
「リルカさん?」 
 わたしはきょとんと首をかしげたけれど。 
 そこに身を乗り出してきたのはトラップ。 
「リルカ? リルカって、もしかしてリルカ=アベレッツ?」 
「はあ……」 
 トラップの勢いに気おされたのか、ちょっと下がって頷くリルカ。 
「トラップ、彼女を知ってるの?」 
「ああ? おめえ俺を何だと思ってんだ?」 
「盗賊」 
 そう言うと、トラップはうんうんと頷いて言った。 
「そーだよ。情報収集は盗賊の基本だぜえ? 特に、金になりそうなことにはな」 
「はあ?」 
 トラップによると。 
 このリルカさんは、今シルバーリーブどころかロンザ国全体で非常に話題になっている新人画家の一人だとか。 
 彼女の卓越したセンスの絵は、非常に高値で取引されていて、王族の間で集めるのがはやっているとかいないとか。 
 ほえー! 失礼ながら、見た目からはちょっと想像がつかないかも! 
 どこまでも地味なリルカさんの姿は、芸術家っていう雰囲気はあまり感じられなかったけど。 
 そう言われてみれば、ちょっと雰囲気が常人離れしてるかも? 
「はあ。で、その画家さんが、俺達に何の用ですか?」 
 クレイが聞くと、リルカさんは、表情をぴくりとも動かさずに言った。 
「実は、絵のモデルを頼みたいのです……一目見たときから、あなた達しかいないと思いまして。失礼ながら、街中からつけさせていただきました……」 
「はあ?」 
 ま、街中から? 一体いつからついてきてたわけ……? 
 こういうことに関しては専門分野なトラップに目をやると、「わからねー」と言いたげに首を振られてしまった。 
 盗賊のトラップに尾行を気づかせないなんて……この人、ただものじゃないかも。 
「俺達に、ですか?」 
「ええ……あなたと、そしてあなたに」 
 そう言って、リルカさんは。 
 迷うことなく、わたしとクレイを指差した。 
  
 おいおい、これは何の冗談だよ? 
 リルカ、と名乗った女がクレイとパステルを指差すのを見て、俺は内心平静ではいられなかった。 
 この俺を全く無視しているのも気に食わねえが……リルカの話がまた気にくわねえ。 
 絵のモデル、と聞いて、「どういうこと?」と聞き返すパステルに、リルカが話したところによると。 
 どうやら、リルカは、二ヶ月か三ヶ月に一度の割合で、エベリンやコーベニアなどの大都市で個展を開いてるそうだ。 
 で、来月、エベリンで一つ個展をやる予定なんだが。 
 個展では、毎回色々なテーマをかかげて、そのテーマに沿った絵を色々と描くらしい。 
 で、来月の個展に、テーマの目玉となる絵のモデルを捜していたところ、クレイとパステルが目に止まった、とそういうことだとか。 
「テーマって、どんなテーマなんですか?」 
 そう聞き返すクレイに、リルカは薄い笑みを浮かべていった。 
「言わなくても……大体想像はつくんじゃないでしょうか……お二人に声をかけたことから察してください。教えてしまうと、自然な絵に仕上がらないかもしれませんので……」 
 その言葉に、鈍さでは1、2を争う二人……もちろんクレイとパステルだ……が、顔を見合わせる。 
 まーな。男女一組の絵でテーマとくりゃあ……まあ恋人同士とか、愛とか? そういう絡みのテーマであることは間違いねえだろう。 
 あいつらがそれに気づくかどうかはともかく。 
「一目見たときから、あなた方しかいないと思いまして……雰囲気と言いますか。もうテーマそのものなんです……どうでしょう? もちろん、謝礼の方は弾ませていただきますが……」 
「で、でもモデルなんてわたし……」 
 パステルはおろおろしながらクレイとリルカを見比べているが…… 
 俺の目は見逃さなかった。パステルの目が、一瞬嬉しそうに輝いたことを。 
 ……そうか、やっぱりか。 
 前から、そうじゃねえかとは思ってたんだよな……やっぱ、おめえはクレイが好きなんだな? 
 ……ま、しゃあねえか。クレイが相手じゃな……俺に勝ち目はねえ。 
「いいじゃねーか、やってやりゃあ」 
「トラップ?」 
 口を挟んだ俺に、クレイが不審そうな目を向けてくる。 
「謝礼もくれるっつーんだろ? あのリルカ=アベレッツに絵を描いてもらうなんざ、一生に一度、あるかないかだぜえ? どーせバイトに明け暮れる予定だったんだから。いいじゃねえか」 
「い、いや。でもなあ……俺、自信無いよ。そんな、モデルなんて……」 
 っかー!! こいつは!! 
 ちっとは自覚しろよ。おめえが、俗に言う「すれ違う女がみーんな振り返るような色男」だっつーことを! 
「あに言ってんだよ。おめえ以上に絵のモデルに向いた奴なんかいるかって。なあ?」 
「はい……」 
 俺が話を振ると、リルカはひっそりと頷いた。反応の薄い女だな。 
「ね、ねえ、クレイ……ちょっとやってみない? そんな凄い画家さんに描いてもらえるなんて、わくわくしちゃう!」 
 嬉しそうに言うのはパステル。その頬がちょっと赤らんでるように見えたのは……俺の気のせいかあ? 気のせいじゃねえだろーな、多分。 
「ま、おめえとクレイじゃ、ちとつりあいが取れねえかもしれねーけどな」 
「なっ、何よお!!」 
 俺の悪態にぶんぶんと手を振り回してパステルが追いかけてくる。 
 バーカ、俺がおめえなんかに捕まるわけねえだろうが。 
 その突進をひょいひょいとかわしていると、リルカが、ぼそりとつぶやいた。 
「そんなこと……無いです」 
「え?」 
 奇跡的にそのつぶやきを聞き取ったらしく、パステルの足が止まる。 
「貴女は……とても魅力的だと思います。ええと……パステル、さん?」 
 そのリルカの言葉に。 
 俺が内心で深く同意していたことなんか……どうせ、こいつは気づいてねえんだろうな。 
 はあ。 
 そーだよ。認めたくはねえけど、俺はこいつに……パステルに、心底惚れちまってんだよなあ。 
 全く。俺の好みからはかなり対極にいる女だっつーのに。何でこうなっちまったんだろうな? 
 俺にもよくわかんねえ。わかんねえけど…… 
 ま、しゃあねえよな。こうして一緒にいられて、ふざけて喧嘩して笑顔も見れて。 
 何より、こいつがクレイに惚れてて、それで幸せになれるんなら。 
 ま、いいんじゃねえの? 今のままで、さ。 
  
 俺とパステル、トラップは、説明されたリルカさんのアトリエに向かっていた。 
 最初は一度荷物を置いてからにしようと思ったけれど、リルカさんは俺達の話を聞く前に、さっさと歩き出していた。 
 芸術家っていうのは、こうじゃなきゃつとまらないんだろうなあ…… 
 どこか浮世離れしているリルカさんの後姿を見て、ため息をつく。 
 隣にはパステル、後ろにはトラップ。 
 トラップは最初帰ろうとしたみたいだが、成り行きでここまで来てしまったらしい。あいつにしては珍しいことだ。 
 ……もしかしたら、パステルのことが気になるのかもしれないな。 
 はあ、と気づかれないようにまたため息をつく。 
 それにしても不思議だ。何で俺とパステルなんだろう? 
 男女一組で書く絵のテーマ。それが何なのか気づかないほど、俺も鈍くない。 
 多分、恋愛絡みのテーマなんだろうな。リルカさんは、「あなた達以外にありえない」と言っていたけれど…… 
 不思議だ。俺とパステル? パステルなら、相手はトラップじゃないのか? 
 こっそりトラップとパステルを盗み見る。 
 トラップの気持ちは一目瞭然だ。あいつがパステルのことを好きだっていうのは、態度を見ればわかる。 
 パステルは……どうなんだろう? 正直、今はトラップの気持ちはおろか、自分の気持ちにすら気づいてないと俺は見ているんだけど。 
 けれど、トラップと言い合いをしているときのパステルはそれはそれは楽しそうだから。きっとうまくいく、そう思っていたんだけど…… 
 はあ。 
 もう一度ためいきをつく。 
 もしかしたら……リルカさんは、見抜いたのか? 
 俺が、パステルに特別な思いを抱いているって、気づいたのか? 
 テーマは、ひょっとしたら「片思い」とか「一方通行」とかそんなテーマかもしれないな。 
 苦笑しつつ考える。それだったら、まだ納得がいく。 
 パステルのことは、初めて会ったときから、何故か気になっていた。 
 放っておけないというか、守ってやりたいというか。妹みたいなものだと、そう思っていたけれど。 
 最近思う。妹以上に大切かもしれない、そんな存在だって。 
 それが恋心なのかどうかは、俺にもよくわからない。 
 何しろ、俺のまわりにいた女性は、マリーナにしろ、サラにしろジンジャーにしろ、パステルとは全く違うタイプの女性ばかりだったから。 
 泣き虫で甘えん坊で、そのくせ芯はしっかり強い、彼女みたいな女性に出会ったのは初めてだったから。 
 だから、俺の気持ちは俺にもよくわからない。 
 ……トラップに鈍いって言われるのも仕方ないよな、これじゃあ。 
 そんなことを考えているうちに、リルカさんが立ち止まった。 
「ここです」 
 彼女が指差した方向を見て、俺もパステルもトラップもしばらく開いた口が塞がらなかった。 
 そこには、みすず旅館よりもさらに大きな、そのくせ華美なところが全くない、「非常に大きな物置小屋」にしか見えない建物があった。 
「ここがアトリエ……ですか?」 
「そうです……さあ、どうぞ」 
 きい、とリルカさんが扉を開ける。 
 顔を見合わせて、俺達もその後に続いた。 
  
 うわーっ! すごい、すごいっ!! 
 リルカさんのアトリエで、わたしは思わず目を見張ってしまった。 
 そこは、広さだけならみすず旅館の部屋を全部あわせたくらいあるけれど。 
 家具の類は何にもなくて、ただ真ん中にキャンパスと絵の道具だけが置いてある、そんな部屋。 
 で、その広い部屋の、壁から、天井から、とにかくありとあらゆるスペースに、びっしりと絵が並べてあったのよ! 
「すっげ……これ全部合わせたら、多分100人くらいが当分食ってけるぜ……」 
 後ろで夢の無い発言をしたのがトラップ。 
 もー、すぐお金で考えるんだから。全く。 
 わたしは絵に関しては素人なんだけど。それでもわかった。 
 この絵……すごいって。 
 何ていうのかな? 技術的な面ももちろんそうなんだけど、すごく正確で、繊細で、柔らかくてあったかくて。もう何ていうのか、色んな要素が複雑にからみあって一つの雰囲気を作っているっていう、そんな絵。 
 うわー、わくわくしてきた。本当にこんなすごい画家さんにわたしの絵を描いてもらえるんだ! 
 っとと、わたしとクレイ、ね。 
 ちら、とクレイを見上げる。 
 彼も彼で、この光景に圧倒されてるみたいなんだけど…… 
 それにしても、何でわたしとクレイなのかなあ? トラップも言ってたけど、わたしじゃちょっと不釣合いなんじゃないかって思うんだよね。 
 クレイって、本人は自覚してないみたいだけど、すっごいハンサムだもん。冒険者っていうより、むしろ貴族の御曹司っていうのかな? すごく上品な美形。 
 わたしだってねえ……いや、まあ自分で自分を可愛いって褒めるほど自惚れてはいないけど。まあまあ普通? 程度の容姿はしてると思うんだ。 
 だけど、そんな「普通」なわたしが、「超美形」のクレイと並ぶなんて……ねえ。 
 うう、絵のテーマって、一体何なんだろ? 
 ちら、とクレイを見て、改めてため息をついてしまう。 
 何で引き受けちゃったのかなあ。 
 もちろん、そんな有名な画家さんに絵を描いてもらえるって聞いて、嬉しかったのは事実。 
 報酬もちゃんともらえるって言うし、バイトだと思ったら、悪い話じゃないと思ったのは事実。 
 だけど…… 
 ちらり、と今度はトラップの方を見る。 
 トラップは、わたしになんか全然関心が無いみたいで、壁の絵を見回して(値踏みして?)たけど。 
 ……わたしとクレイが一緒にモデルやる、って聞いて……何とも思わないのかな? 
 っていやいや、何でわたし、トラップのことなんか気にしてるんだろ? 
 関係ないじゃない、トラップには。 
 そうそう、引き受けたのは、すごい画家さんに描いてもらえるのが嬉しいから。ただそれだけ、だよね。 
 それに、リルカさん、言ってくれたもん。わたしのことを「とても魅力的だ」って。 
 それを聞いて、トラップは「はあー?」なーんて言ってたけど。 
 他ならぬ芸術家の言った言葉だよ? 何よりも感性を問われる職業だよね、芸術家って。 
 それって、ちょっとは……うぬぼれてもいい、ってことじゃないかな? 
 振り返ると、クレイと目が合った。 
 彼は、わたしを見ると優しく微笑んでくれて…… 
 うーっ、なごむなあ。トラップとだと何だか変な雰囲気になるけど、クレイとだと、何だかすごーくほっとするんだよね。 
 よーし、頑張るぞ! 
 わたしが決意を新たにしていると、どこかに姿を消していたリルカさんが、お茶が乗ったトレイを持って戻ってきた。 
「それでは……詳しい話をさせていただきますね……」 
 
 リルカの話によると、モデルをやる期間は大体二週間くらい。 
 明日から早速アトリエに通って欲しい、ということだった。 
 ちなみに、報酬の話は、あのお人よしな二人にまかせたらろくなことにならねえだろうと踏んで俺が交渉してやった。 
 二人は俺が言った金額に目をむいて「トラップ!」「ちょっとそれは……」なーんて言ってやがったが。 
 リルカの方は、文句一つ言わず「わかりました」と頷いたんで、言ったこっちが驚いた。金持ちの金銭感覚ってわかんねえ。 
 で、まあ話は問題なくまとまった、ってーことだ。 
 俺はモデルじゃねえからな。明日からは、クレイとパステル、二人だけで通うことになるんだろーが。 
 そう聞くと……やっぱ、ちっと平静ではいられねえな。 
 ったく、俺も諦めが悪いぜ。いくら俺が盗賊だからってなあ、人の気持ちまで盗めるわけねえだろ? 
 別に今のままだっていいじゃねえか。気兼ねなくしゃべって喧嘩して笑って……それでいいじゃねえか。 
 パステルはクレイが好きで、クレイは……どーなんだろうな? 
 どーもあいつの恋愛感ってのはよくわかんねえんだよなあ。その気になりゃあ、彼女の十人や二十人、すぐにでも作れるだろうに、そんな浮いた噂聞いたこともねえし。 
 ま、でも、あいつだって男だ。いやまさか男色の気があるなんつー気色悪い落ちがついたりはしねーだろうな? さすがに……なあ。 
 まあとにかく、普通の男だったら、パステルみてえな一途な女に思われたら、悪い気はしねえだろう。 
 クレイだってパステルを大事に思ってるのは確かだろうしな。お互いがもうちっと鋭くなりゃあ……うまくいくんじゃねえか? 
 ……いいじゃねえか、それで。俺は仲間として、二人の恋を応援してやる。それでいいじゃねえか。 
 はあ。 
 気づかれねえようにため息をつきつつ、宿に戻る。 
 パステルとクレイは嬉しそうに明日からの話に花を咲かせていたが…… 
 面白くねえ。 
 そう思っちまうのは、しょうがねえことだよな? 
  
 翌日から、俺とパステルは早速リルカさんのアトリエに向かうことになった。 
 時間は昼食の後から夕方まで。持っていくものは別に何も無い。 
 報酬は日払いでくれるというし、トラップの無茶苦茶な交渉(トラップが金額を言ってリルカさんがそれに頷いただけだけど)のおかげで、結構な収入になりそうだ。 
 これでルーミィに新しいコートを買ってあげられる、と喜んでいるパステルを見ると、引き受けてよかったなあ、と思う。 
 それに……パステルと二人きりになる機会なんてそうは無いから。そう考えると、少しばかり嬉しい、という気持ちも確かにある。 
 けど……なあ。 
 ふう、とため息をついて後ろを振り返る。 
 遠ざかっていく猪鹿亭。今日はみんなで昼食を食べて、それから出かけたんだけど。 
 俺達が店を出るとき、他のみんなはまだ中に残っていた。そのときの、トラップの目つきが……どうも、気になる。 
 嫉妬心むき出しでにらまれた、というのならまだいい。「俺と彼女はそんな関係じゃない」とでも言ってやればすむことだ。 
 俺とトラップは親友だからな。親友の恋路を邪魔しようなんて思うほど、俺もバカじゃない。 
 けど……トラップの目は、何だか、物凄く落ち着いていた。あの目にどんな感情が含まれていた? と聞かれたら、それは多分…… 
 諦め、だろうか。 
 まさか、トラップ、バカなこと考えてないよな? 
 お前、まさか気づいてるのか? 俺がパステルに特別な思いを抱いているって。 
 だから、諦めて譲ろうなんて……そんなバカなこと、考えてないよな? 
 だとしたらはっきり言わなくちゃいけない。俺を見くびるな、と。 
 親友のお前を犠牲にしてまで手に入れたい、そんなこと考えていない。 
 俺が願っているのは、何よりも、パーティーみんなの幸せなんだから。 
「……イ、クレイってば!」 
 腕をひっぱられて、ハッと我に返る。 
 隣に立っていたパステルが、心配そうに俺を見つめていた。 
「あ、ああ。パステル。どうした?」 
「どうした、って……ついたわよ? リルカさんのアトリエ。さっきから声をかけてるのに全然気づかないみたいだから……」 
「え? あ、ああ。ごめんごめん」 
 いかんいかん、ついボーッとしてた。 
 ……変に思われないようにしないとな。パステルはかなり鈍いから滅多なことじゃ気づかないと思うけど。 
 自分が原因で俺とトラップがぎくしゃくするようなことになったら、きっと気にやむだろう。 
 だから、気づかれちゃいけない。俺の気持ちを。 
 アトリエのドアをくぐると、リルカさんは全身をすっぽりと包むローブのようなものを身につけて待っていた。 
 どうやら作業着らしく、あちこちに絵の具らしき汚れがこびりついている。 
「お待ちしておりました……あの、どうぞ、これを……」 
 俺達の姿を見ると、リルカさんは即座に立ち上がって、俺達に畳まれた布を差し出した。 
「あの?」 
「衣装です……モデルの間、これに着替えていただきますか……?」 
 差し出されたのは、服。 
 そうか、衣装か……普段着でいいって言われたのは、このためか。 
 何かテーマにそった服なんだろうか? 
「着替えは……クレイさんは、あちらのカーテンの陰で……パステルさんは、申し訳ありませんが……場所が無いので、ここで……」 
「あ、はいはい」 
 言われるままに示されたカーテンの裏側にまわり、着替える。 
 いつのまに測ったのかわからないけど、サイズはぴったりだった。 
 青いパーカーに、白いズボン。特に高級品というわけではないみたいだけど、動きやすいことは確かだ。 
「パステル、そっちはもういいか?」 
「あ、うん。どうぞー」 
 声をかけると、すぐに反応が返ってきた。さて、パステルはどんな衣装なんだろう? 
 カーテンから顔を覗かせて……そして、少しの間、動けなくなった。 
 パステルが着ているのは、俺が着ているパーカーと全く型は同じで、ただ色が黄色だった。そして、普段のミニスカートと違って、膝下くらいまである白いロングスカート。 
 リルカさんに言われたのか、いつもはまとめている髪も下ろしている。滅多に見かけない大人しいその服装は……不思議と、彼女をとても魅力的に見せた。 
「へ、変かな。似合わない?」 
 俺があんまり何も言わないから不安になったんだろう。パステルは、おずおずと声をかけてきた。 
「い、いやいや。そんなことはない。よく似合ってるよ」 
 慌てて手を振り、二人の前に出て行く。 
 この動揺する気持ちを悟られちゃいけない。 
 絶対に。 
  
 うーっ、さすがクレイ。かっこいい! 
 カーテンから出てきたクレイは、わたしが着ているのと同じ型の色違いのパーカーに白いズボン。 
 別にデザイン自体は割りとありふれてるんだけど、かっこいい人って、何を着ても似合うんだなあ。 
 思わずボーッと見とれそうになって、慌てて首を振る。 
 いけないいけない。集中しなくちゃ。今わたし達はバイトに着てるんだから。 
「とても……お似合いです。で、ポーズなんですけど……」 
 リルカさんは、表情をぴくりとも変えず、わたし達にあれこれと指示してきた。 
 その様子は酷く真剣で、嫌でも「ああ、彼女はプロなんだなあ」って思ってしまう。 
 うう、何だか緊張してきたぞ? 
 そうしてリルカさんが指示したポーズは、まあ長時間その姿でいて、と言われてもあまり苦にならないポーズ。 
 ただ、手を繋いで視線を交わしているだけ。 
 立ちっぱなしだけど、まあそんなことは、クエスト中にいくらでもあるしね。 
 そうしてわたし達のポーズを固定すると、リルカさんは軽く頷いてキャンパスに向かった。 
 そして、それからがすごかった。 
 最初はデッサン、っていうのかな? 下書きから始めたんだけど。 
 リルカさんの手の動きに、思わずクレイと見とれたもんね。 
 流れるような……っていうのかな? 全然手が止まらないの。 
 キャンパスは結構な大きさがあったけど、あっという間に画面が黒い線で埋め尽くされていく……いや、わたし達が見ているのはキャンパスの裏側だから、どんな絵なのかは見えないんだけど……きっとそうに違いない、そんな動き。 
「……あの、視線を動かさないでもらえます?」 
「は、はい、すいません!」 
 リルカさんの注意に、慌ててポーズを戻す。 
 ううっ、すごいなあ……全然こっちを見てないみたいなのに、何でわかったんだろう? いや、見てないのに描けるわけないから、そんなはずないんだけど。 
 言われるままに、最初に言われたポーズを戻す。 
 つまり、手を繋いでクレイと見詰め合って…… 
 うーん。 
 何か、最初言われたときはそう感じなかったけど……このポーズって、結構大変かも。 
 だって、ずーっとクレイの目を見つめていなきゃならないんだよ? 話もせずに、ただ見ているだけ。 
 見るのも辛いし、見られるのも辛い。段々顔が赤らんでくるのがわかる。 
 何度も何度も言うようだけど、クレイはすごくかっこいい。認めてないのは多分本人だけ。 
 そんなかっこいい人にジーッと見つめられると、何だか胸がドキドキして…… 
 というより、何だかすごくほやーんとした気分になってきた。一体何なんだろう、この気持ち…… 
 最初のうちこそ、わたしもクレイも笑顔を保っていたけど、時間が経つにつれて、口元がひきつってくるのがわかる。 
 リルカさんは最初の一回以降何も言わないけど……わたし達ってモデルでしょう? 動くのってよくないよね。しゃべらない方がいいよね? 
 そう考えると、腕とか足とかが段々痛くなってくるし、背中はつってくるし…… 
 うう。モデルってただ黙って立ってればいいから楽な仕事だって思ってたけど……意外と大変…… 
「……あ、別に会話するくらいは構いませんよ?」 
 リルカさんがそう言いだしたのは、モデルを始めて三時間くらい経ってから。 
 それを聞いて、クレイと二人でどっとため息をついてしまった。 
 もー、早く言ってよ! そういうことは!! 
 そんな感じで、わたし達の初日のバイトは終わった。 
  
 なーにやってんだろうなあ、俺は。 
 木の上からでっかい物置……リルカのアトリエ……を見下ろして、俺は深々とため息をついた。 
 俺自身のバイトは午前中で終わるから、間のわりいっつーか何つーか……午後は暇なんだよなあ。 
 はあ、と大きくため息をついて、枝に腰掛ける。 
 猪鹿亭でしばらくリタの奴としゃべってたんだが、時間が経つにつれて、どーも落ちつかねえ気分になってきたんだよ。 
 あんまり俺がそわそわしてるもんだから、ついにはリタに追い出されちまったんだが。 
 みすず旅館に戻って昼寝でもするつもりだったのに、気いついたらここに来ちまってたんだよなあ。 
 はあ、全く。俺って、そんなに引きずるタイプじゃねえと思ってたけど……実はそうでもなかったんだな。 
 自分のことって案外自分ではわからねえもんだぜ。ったく。 
 俺がぼやいていると、アトリエのドアが開いて、パステルとクレイが頭を下げながら出てきた。 
 どうやら、終わったらしいな。 
 二人は、俺がいることになんか全く気づいてねえ様子で、何やら楽しそうにしゃべりながら歩いて行く。 
 その様子は……どう見てもお似合いのカップル、恋人同士にしか見えなかった。 
 ……うまくいきそうだな。 
 ぼんやりとそう思う。あの鈍い二人のこった。俺が後押ししねえと無理かと思ってたが……どうしてどうして。このバイトがきっかけで、何とかなりそうじゃねえか? 
 そう考えると、胸のあたりが何だか痛む。……畜生。 
 こんなことなら、とっとと言っちまえばよかったかな。 
 あの単純で流されやすいパステルのこった。先に告白しちまえば……案外どーにかなったかもしれねえのに。 
 俺は別にパステルに嫌われてるわけじゃねえと思う。嫌われてたら、一緒のパーティーになんかいられねえからな。 
 ただ……男として認識されてねえだけだ。 
 自分で考えて盛大に落ち込んでしまう。それって、ある意味嫌われるより悲しいことなんじゃねえ? 
 逆に言えば、男だ、って意識さえしてもらえれば、どーにかなったかもしんねえのに…… 
 ま、今更遅いけどな。 
 するすると木から下りて、二人の後を追うべきか、それとももっと遅れて帰るべきか悩んでいたときだった。 
 ガラリ、と予告も無く、アトリエのドアが開いた。 
 な、何っ!? 
 驚きで思わず飛び退る。入り口に立っていたのは、リルカ。 
 こいつ……この俺に気配すら感じさせねえとは、なかなかやるじゃねえか…… 
 俺がばくばく言う心臓をおさえていると、リルカは、えらく薄い笑みを浮かべて言った。 
「やはり……あなたでしたか……来るんじゃないかと、思っていました」 
「……はあ?」 
 芸術家って、わかんねえ。 
 こいつ、いきなり何を言い出すんだ? 
 俺が思い切り不審そうな目を向けてやると、リルカは、すっ、とアトリエの中を指差した。 
「まだ下書きですけれども……見ますか? お二人の絵……とても、いい出来に仕上がりそうなんです……」 
 リルカの問いに、俺は、反射的に頷いていた。 
  
 バイトは順調だった。 
 最初は俺でさえ手足が痛いと感じたから、多分パステルは最後、立っているのも辛かったんじゃないかと思うけど。 
 日が経つにつれて、慣れのようなものが出てくるのがわかった。会話するくらいは許してもらえたし、とりとめのないことをだらだらとしゃべっていれば、五時間はあっという間だった。 
 ただ…… 
「だからね、クレイも言ってやってよトラップに。そりゃあ自分のお小遣いの範囲でなら、文句を言う筋合いじゃないとは思うんだけど……」 
 慣れたもので、視線を動かさずにしゃべるパステル。 
 君は、気づいているか? ただ意味の無いことをしゃべっているつもりで、会話の内容は圧倒的にトラップのことが多いことを。 
 それはほとんど文句、むしろ愚痴に近いものだったけど。それを話しているときの君が、とても楽しそうだってことを。 
 パステルは多分気づいてないけど、トラップのことが好きなんだろう。 
 鈍いと言われる俺でもわかるくらいだ。あのトラップに、わからないはずはないと思うんだけど…… 
 最近のトラップは変だ。食事も時間をずらしているし、部屋にも寝るときくらいしか顔を出さない。 
 徹底的に俺とパステルを避けている。パステルは、単純に「またギャンブルに明け暮れて……」なんて言っているが。 
 まずいな……絶対、あいつ、何か誤解してるぞ? 
 これはバイトなんだから。ただのバイトで…… 
 いや、もしかして、あいつが誤解してるのは……俺じゃなく、パステルなのか? 
 パステルが俺を好きだと、誤解してるのか? 
 だとしたら、あの諦めの表情も納得が行く。 
 俺にはわかる。トラップはひどく身勝手な性格だけど……本当に大切な相手なら、その幸せのために自分の身を犠牲にすることくらい、何とも思わない。そういう奴なんだ。 
 そうだとしたら……俺はどうすればいい? 
 簡単だ。パステルが好きなのはトラップだ、と一言教えてやればいい。 
 そんなこと、俺が説明するようなことじゃないかもしれないが……パステルの口からそれを言わせるのは難しいだろう。 
 トラップの口から「好きだ」と言わない限り、多分パステルは一生かけても自分の気持ちに気づかない。そういう子なんだから。 
 だけど…… 
 理屈ではわかっているのに、どうしても、そうしようという気になれなかった。 
 俺は、心のどこかで、今の状況を好都合だと思っている。 
 今なら、パステルのトラップへの思いを断ち切ることは可能だと考えている。 
 ……こんな卑怯な自分が、許せない。だけど…… 
 明るいパステルの瞳を見ていると、思う。 
 もう少しだけ。もう少しだけこの状況を楽しんでもいいだろう? って。 
  
 モデルの仕事は、慣れてくると割りと楽しかった。 
 毎日バイトが終わった後、リルカさんに絵を見せてもらうんだけど。 
 下書きが終わって、色塗りが始まって。そうして段々と絵が出来上がっていく工程を見る機会なんて滅多に無いから、毎日楽しみで仕方なかった。 
 わたしとクレイの絵。それは、絵心の無いわたしでも、きっと素晴らしい絵になる! そう思える絵だった。 
 何て言うのかなあ。ふんわり優しい絵、っていうのか。 
 見ているだけで心がなごむような絵。繊細なタッチと優しい色使い。 
 それに、絵の中のクレイが、実物に負けず劣らずかっこよくて。多分、この絵のクレイの視線だけで女の子なら二人に一人はくらっとなっちゃうんじゃない? っていうくらい素敵。 
 うーっ、完成が楽しみだなあ。 
 モデルも、残すところ後二日。 
 リルカさんは、「絶対に完成します」って言ってくれたし。 
 それに、トラップのおかげで結構なバイト代になったし。 
 これで、みんなの新しい防寒具が買える! うん、最初聞いたときはびっくりしたけど、この点に関しては、トラップに感謝しなくちゃね。 
 トラップに…… 
 その名前を考えたとき、ずきん、と胸が痛んだ。 
 最近、わたしはあまりトラップの姿を見ていない。クレイに聞いたら、寝るときくらいしか宿にいないとか。 
 午前中はバイトに行ってるし、食事もみんなと時間がずれてる。またギャンブルにでもはまってるらしく、帰ってくるのはいつも真夜中。 
 最初はそうでもなかったけど、二日、三日とそんな日が続くうちに、何だか胸の中にぽっかり穴が空いた気分になった。 
 ……寂しい、のかな。いつも人一倍騒がしいもんね、あいつ。 
 どうせギャンブルでもしてるか……親衛隊の女の子とデートでもしてるか、ナンパでもしてるか。 
 そう考えると、すごく嫌な気分になった。 
 何でだろう? 何でトラップのことになると、わたし、こんなに嫌な子になるの? 
 いくら同じパーティーだからって、今は別にクエストに出かけてるわけじゃないし。 
 トラップがどこに行こうと、何をしようと、迷惑さえかけられなければ、別にわたしには関係無いじゃない。 
 はあ…… 
 ため息つきつき、隣を歩くクレイを見上げる。 
 今はバイトの帰り。明日と明後日で、バイトも終わる。 
 このバイト中、わたしはすごくクレイに助けられた。トラップのことでもやもやした気分になるたびに、クレイの顔を見て、その優しい笑顔を向けらると、すごくホッとできた。 
 何でなのかなあ。クレイだとホッとできて、トラップだとムッとしちゃう。 
 わたし、いつのまにこうなっちゃったのかなあ…… 
 みすず旅館に帰ってからも、夕食を食べ終わってからも、わたしはずっとそんなことを考えていた。 
 おかげで声をかけられてもしばらく気づかなかったりで、ルーミィやキットンにすごく変な目で見られてしまったけど。 
 こんなこと、誰に相談したらいいのかもわからないしなあ…… 
 悩んでいたら時間だけがどんどん過ぎて、いつの間にか寝る時間。 
 明日は、ちょっと忙しい。いや、わたしとクレイはいつも通りバイトなんだけど。 
 キットンとノルの二人が、夜中にしか咲かない花を取りにいくっていうバイトで、さっき出かけて行ったんだよね。 
 二人が帰ってくるのは明日の夜。つまり、わたしとクレイがバイトに行ってる間、トラップしかルーミィを見てくれる人がいない。 
 シロちゃんは……ねえ。ちょっと不安が残るし。だから、明日のバイトはルーミィも連れていこうか? ってことになったんだ。 
 ただ、あのルーミィが五時間も大人しくしていられるかどうか……それが、ちょっと今から気が重いんだけど。 
 心の中のもやもやと、明日に対する不安。そんなことをごちゃごちゃ考えているうちに、段々と目が冴えてきてしまった。 
 ルーミィはもうとっくに夢の中。わたしも、早く寝ないと明日が辛いんだけどなあ…… 
 そう考えてごろごろ寝返りを打ったけど、やっぱり駄目。寝ようと思えば思うほど、色んなことを考えちゃう。 
 ……はあ、仕方ないか。 
 ルーミィを起こさないように、慎重に身体を起こす。 
 台所に行こう。あったかい飲み物でも飲めば、少しは落ち着くかもしれない。 
 そう考えて、そろそろ寒さも厳しくなってきた廊下に出る。 
 そーっと足音を立てないように一階へ。多分、ミルクがあったはず。それをあっためて…… 
 そんなことを考えながら、台所に入り、ぱちん、と明かりをつけたときだった。 
 誰かがばっと振り向いて、暗い台所に誰かがいるなんて思わなかったわたしは、心底びっくりしてしまった。 
 それは、相手も同じだったらしい。わたしの顔を見て、呆然と立ちすくんでいる。 
「……トラップ。こんなところで、何してるの……?」 
 
 あの二人と顔を合わせたくねえ。 
 リルカのアトリエで絵を見て以来、俺は極力宿には帰らねえようにした。 
 寝るときはしゃあねえけどな。二人がもう寝た、と確信できる時間までは、カジノか……みすず旅館の台所だとか、そんなところで時間を潰すようになった。 
 下書きだけど、とリルカが見せてくれた絵。 
 盗賊として、それなりに物の価値を見ることができる方だと思っている。その俺の目から見て、リルカの絵は……まあ傑作、と言っていいんじゃねえかと思えた。 
 絵の中だというのに、クレイとパステルの二人は、すげえ幸せそうに微笑んでいて。 
 それは、俺の嫉妬心をかきたてるのに十分すぎた。 
 嫉妬。諦めようとしてるのに、パステルがそれで幸せならいいと思ってるのに。 
 何でか思う。どうしてそこに立ってるのが俺じゃねえんだ、クレイなんだって、どうしても思っちまう。 
 言ったってしょうがねえことだけどな。 
 その日以来、怖いもの見たさ……ってーのか? クレイとパステルがバイトを終えた後、リルカのアトリエに行って二人の絵の完成具合を見るのが日課になっちまった。 
 完成が近づくにつれて、その絵はますますリアルになり、多分キャンバスと同化する壁に立てかけて遠くから見れば、本当に二人が立ってるように見えるんじゃねえか、ってくれえだ。 
 雰囲気は優しくて柔らかい。まさにあの二人そのもの。俺には絶対作れねえ空気。 
 はあ。どうすりゃいいんだよ。諦めるしかねえのに……いつになったら、ふっきれるんだ? 
 一緒のパーティーにいるから、いつも顔を合わせちまうから、だから悪いのか? 
 そう考えて、二人を避けてみたけど……それでも、思いは収まるどころか募る一方と来たもんだ。 
 ……しばらく、頭冷やす意味もこめて、ドーマにでも里帰りするかあ? 
 本気でそんなことを考えながら、今日も俺は、台所で時間を潰していた。 
 かなり寒いが、ここで時間を潰すのにも慣れた。テーブルにつっぷして、ちっとばかりうとうとしかけたとき…… 
 ぱちん 
 突然辺りが明るくなって、思わず振り返る。 
 こんな時間に…… 
 俺も驚いたが、相手も相当驚いたようだ。ぽかんとした顔でつぶやく。 
「……トラップ。こんなところで、何してるの……?」 
 そりゃ、俺の台詞だ。 
「おめえこそ……こんな時間に……」 
「わたしは、その、何だか眠れなくて。何かあったかいものでも飲もうと思って……」 
 そんなことを言いながら、台所に入ってくる。 
 寝巻き姿のパステル。 
 見た瞬間、本能がもたげてきそうになるのを必死でおさえる。 
 何考えてんだ、俺。今のままでいいって、そう決めたんじゃねえのか? 
 自分から関係を壊そうとして、どうするよ。 
 俺がそんなことを考えてるなんて、気づいてもいねえだろうが。 
 パステルは、ぱたぱたと台所を歩き回って、ホットミルクを用意していた。 
「トラップも、飲む?」 
「いらね……」 
 部屋に戻ろうか、そう思ったが。久しぶりにパステルと二人きりになったと気づいたとき、心から思った。 
 ずっとこのままでいてえ、って。 
 クレイもいねえ、誰もいねえこの空間で、ずっと二人きりでいたいって。 
 俺の考えなど知る由もなく、パステルは俺の向かいに腰掛けて、息を吹きかけてマグカップに口をつけていた。 
 しばらく、気まずい沈黙が流れる。……何を話せばいい? 
「ねえ……」 
 口を開いたのは、パステルが先だった。 
「ねえ、何してたの?」 
「……別に」 
 本当のことなんて、言えるわけがねえ。 
 俺が視線をそらせると、パステルは首を傾げて言った。 
「そう言えば、トラップと二人で話すのってすごく久しぶりだよね……あの日以来じゃない? ほら、あの買出しの……」 
 モデルの話を持ちかけられた日。そう、多分パステルと二人で話すのは、その日以来だ。 
 その日以来、俺はこいつらを避けるようになったんだから。 
「そーだな。おめえら、毎日楽しそうにバイトに行ってたしな」 
 そう思ったとき、口をついて出たのは……かなり自虐的な言葉だった。 
 自分で言ってしまったと思ったくらい、冷たい口調。 
 まじい…… 
 視線を戻すと、案の定、パステルは表情を変えていた。 
「何、その言い方……楽しそう、って……バイトに行ってるんだよ? わたし達」 
「楽しそうじゃねえか。毎日クレイと手え繋いでさ」 
 やめときゃいいのに。そんなパステルの表情を見ていると、黙っていられなくなった。 
 わかってる、これは八つ当たりだ。 
 俺が選ばれなかったという身勝手な八つ当たり。パステルは何も悪くねえ。それはわかっていたが…… 
「何よ……手、って……あれは、ただそういうポーズで……」 
「すげえ嬉しそうだったじゃねえか。言い訳しなくてもいいって」 
「言い訳って……そもそも、何でトラップがそんなこと知ってるの?」 
 聞かれて、俺は失言に気づいた。 
 そうだ、何で俺がこいつらのポーズまで知ってるんだよ。気づかれねえようにしてたのに。 
「……勘、だよ勘。あてずっぽうで言っただけだっつーのに。まあおめえらの幸せそーな顔見てたら、大体そんなこったろうって予想はしてたけどな」 
「はあ?」 
「おめえらさあ、見ててイライラすんだよ。くっつくならさっさとくっついちまえばいいだろ? これ以上周りに気い使わせんなよなあ」 
 だー! 何言ってんだ俺はー!! 
 心の中では冷や汗だらだらもんだったが、それを表に出せねえ。このときほど、自分の性格を恨めしく思ったことはねえ。 
 パステルの顔は真っ赤だった。かなり怒ってやがる……当たり前か。 
「何よ……トラップ、何勘違いしてるのよ。わたしとクレイは、別に……」 
「別に、なんて思ってんのは本人だけなんだよ。おめえら鈍いからなあ。自分の気持ちにくらいさくっと気づけって。俺らもさ、おめえらの邪魔しようなんて思ってねえから」 
「邪魔って……」 
「言っちまえよ。クレイに好きだって。あいつはもてるからな。さっさと自分のものにしねえと、横から誰かにかっさらわれるぜ?」 
 言葉は全く止まらなかった。心にもねえ嘘ばかり、ぺらぺらと口をついて出る。 
 本音は一言も口に出せねえのに。 
 パステルはしばらくジッとうつむいていたが、やがて立ち上がった。 
 手の中にあったマグカップは、すっかり冷め切った状態でテーブルに残されている。 
「おい……」 
「わかったわよ……ごめんね、気を使わせて……トラップ」 
 くるり、と振り返ったパステルの目に浮かんでいたのは……涙、か? 
「ごめんね、気を使わせて……これが最後のお願い。……今日は、わたしの部屋で寝て」 
 そのまま、パステルは出て行った。階段を上っているらしい足音が響く。 
 今日は、わたしの部屋で寝て。 
 そりゃ……どういう意味だ? 
 しばらく考えたが、そのうち気づいた。 
 今夜は、ノルとキットンが出かけてる。男部屋の方には、俺とクレイしかいねえってことに…… 
  
 今日もトラップの帰りは遅い。 
 珍しく一人になった男部屋でそんなことを考えながら、俺は天井を見上げていた。 
 キットンとノルはバイトで出かけている。ルーミィとパステルは……隣でぐっすり眠ってるだろう。 
 寝付けない。 
 汚れた天井を見上げて、大きなため息をつく。 
 理由はわかっている。もうすぐその日が近づいてくるからだ。 
 バイトが終わる、その日が。 
 トラップに悪いと思いながら、俺はバイトを楽しんでいた。パステルと二人きりで話せるのを、とても楽しんでいた。 
 今日こそは、明日こそは誤解を解こう。そう思い続けて……いつのまにかここまで来てしまった。 
 自分の卑劣さが許せない。将来は騎士になろうと修行中の身なのに……こんなことでいいのか? 
 誰かに相談したくても、相談相手になりそうな人間もいない。 
 はあ。 
 大きなため息をつきつつ寝返りを打つ。 
 普段はこの狭い部屋に、キットンとトラップ、三人で寝てるからな。あの二人の寝相はすさまじいから、俺が一人で寝れることはまず無い。大抵どっちかと一緒に寝ている。 
 そう考えると、今のこの状況は好都合だ。どれだけ寝返りを打ってもため息をついても、誰も文句を言う奴はいないから。 
 ……一体どうすればいい。バイトが終わったら。そう、バイトが終わるまでは、別に無理して言うこともないんじゃないか……? 
 そう自分に言い聞かせて、大きなため息をついたときだった。 
 不意に、コンコン、とノックの音が響いた。 
 思わず飛び起きる。トラップじゃない。あいつがノックなんかするわけない。 
 すると……? 
「はい」 
「クレイ……起きてる……?」 
 外から聞こえてきた声に、俺は凍りつきそうになった。 
 ずっと、彼女のことを考えていたから。 
「起きてる。どうした?」 
「あのね……」 
 言いながら、パステルが、部屋にするりと入ってきた。 
 その姿を見て、息をのむ。 
 彼女が、ひどく脆く見えたから。 
 まるで、触れたら壊れそうなほど、ボロボロに傷ついているように見えたから。 
「パステル……どうした?」 
「クレイ。わたし……クレイのこと、好きだよ」 
 唐突に言われた言葉。その言葉に、今度こそ、俺の身体は凍りついた。 
 な、に……? 
「パステル、どうしたんだ? 何があった?」 
「好きなんだよね。わたし、クレイといるとすごくホッとできるの。優しい気持ちで、いつものわたしでいられるの。これって、好きってことだよね?」 
「パステル……?」 
 パステルは、今にも泣きそうになりながらまくしたてた。それは、まるで何かを言い聞かせているようにも見えて…… 
 とりあえず立ち上がる。何があったのかはわからないけど、落ち着かせないと。 
「パステル。とにかく座って。ゆっくり話を……」 
 言葉は、途中で止まった。 
 そのまま、パステルが俺に抱きついてきたから。 
 ふわりと香る石鹸の匂いと、身体に伝わる柔らかさ。その瞬間、確かに、俺の心臓ははねた。 
「パステル……?」 
「好き。クレイのことが好きだよ……わたし……」 
 潤んだ目で見上げられて……俺は、そのとき、理性が飛ぶ、というのがどういうことかを理解した。 
 つきあげてきた衝動は、口には出せないほどにあさましい思い。 
 何があったのかはわからない。彼女の言葉は多分本気じゃない。 
 それでも。 
 それを利用してでも、彼女を手に入れてしまいたいという、そんな思い。 
 止められなかった。俺は、そのまま、彼女の唇を、奪っていた。 
  
 ふっ、と唇を塞がれる。目の前には、クレイの顔。 
 わたしはそっと目を閉じた。……これで、いいんだよね。 
 これでいいんだよね。わたしがクレイのことを好きだって言うのなら……これでいいんだよね? 
 クレイのキスはとても優しかった。遠慮がちに唇を割り開き、そっと差しいれられたのは……とても暖かく、優しいもの。 
 そのままクレイの腕がわたしの身体を抱きしめる。キスは段々深くなっていって、そのたびに、わたしの身体に、ぞくぞくした快感が走り抜けていって…… 
 そのまま、わたしの身体は、そっとベッドに横たえられた。 
 見上げれば、クレイのとまどったような、それでいて酷く優しい顔。 
「パステル……俺……」 
 何が言いたいのかはわかる。クレイは優しいから。本当に、どこまでも優しいから。 
 わたしが嫌だと言えば、彼はきっと、どんな努力を払ってでも、我慢するだろうから。 
 だから、わたしは返事をするかわりに、そっと目を閉じた。 
 ほっ、という小さなため息と、その直後に降ってくる唇。 
 クレイの手がパジャマのボタンにかかり、一つ一つ、丁寧に外していった。 
 夜の空気が胸に触れて、ぞくり、と背筋を震わせる。 
 わたしの身体を傷つけないように、わたしを怖がらせないように。 
 クレイはどこまでも慎重で、優しかった。彼の手が遠慮がちにわたしの身体を撫でて、唇が、そっと耳、首筋、鎖骨へと下っていく。 
 これが……気持ちいい、ってことなのかな……? 
 くすぐったい、と身をくねらせるようにしながら、わたしはそんなことを考えていた。 
 クレイの手が触れるたび、わたしの身体は、確実に熱くなって言った。 
 耳元で感じるクレイの息は、段々荒くなっていって…… 
 ふっと腕を彼の背中に回して気づいた。クレイも、いつの間にか上半身裸になっている。 
 手で触れる彼の身体は、とてもがっちりとしていて……そうして初めて気づく。 
 やっぱり、クレイは男の人なんだなあ、って。 
 そんな当たり前のことにすら、わたしは今まで気づいてなかったんだなあ、って。 
 ふっ、と胸に触れる湿った感触に、思わず腕に力がこもる。 
 うっかり爪を立ててしまったらしく、クレイの顔がちょっとしかめられた。 
「……ごめん……」 
「いいよ……パステル、大丈夫……?」 
「何が……」 
 わたしの問いに、クレイは答えなかった。 
 愛撫、という行為。初めてされたけれど、知識だけなら持っていた行為。 
 クレイの愛撫はどこまでも優しく、それでいて確実に、わたしの身体をほぐしてくれた。 
 最初は緊張で強張っていた手足から、段々と力が抜ける。 
 どうしてかわからないけれど、息が荒くなる。 
 何だろ……この感じ…… 
 わたし、変に……なりそう…… 
 ぎゅっとしがみつく。そうしていないと、そのまま思考が吹き飛んでしまいそうだったから。 
 そっと遠慮がちに、脚の間にクレイの体が割り込んできた。 
 つつっ、と唇が下へと移動を始めて、思わず身体が震える。 
 「そこ」に彼の手が触れたとき、わたしはたまらず、身をよじらせた。 
「やあっ……」 
 いや……何だろう。この感じ。 
 こんな……ぞくぞくするのに熱いなんて感覚……初めて…… 
 だけど、同時に。 
 わたしのこの胸にこみあげる罪悪感は……何なんだろう? 
 行為が進むにつれて、わたしの頭は、ボーッとしているのに一部だけが嫌に冷静で。 
 頭の片隅で、誰かが必死に叫んでいた。 
 それでいいの? 本当に、それでいいのか? って。 
 罪悪感。どうしてそんなものを感じるの。 
 わたしはクレイが好きだから……だから…… 
 好きだ、と思ったのは、何故? 
 それは…… 
 ――ぐじゅっ 
 生々しい音を立てて何かがもぐりこむ気配に、自然に背中がのけぞった。 
 うあっ…… 
 それは多分「快感」っていう感覚なんだと思う。 
 冷静な部分が少しずつ少しずつ本能に蝕まれていって、何も考えることができなくなって。 
 ただ、クレイの動きに身をまかせるだけになっていく自分自身が……まるで自分じゃないみたいで。 
「っあ……ああ、あんっ……」 
「……パステルっ……」 
 クレイの声は酷く苦しそうだった。辛そうな顔で、それでも必死にわたしを優しく扱おうとしてくれて…… 
 だけど、どれだけ優しくったって、絶対に限界は来る。 
 クレイの手が、自分のズボンにかかった。 
 これから何が起こるのか、いくらわたしでもわかる。 
 ぎゅっと目を閉じる。正視できる自信はなかったから。 
 もう、いいじゃない……どうせ…… 
 どうせ、見込みは無いんだから。 
 頭に響いた声。それは……酷く意外な言葉。 
 見込みは、無い…… 
 何の? 
 ぐいっ、と脚を持ち上げる力強い腕。 
 それを感じたとき、わたしの頭に、ほんのわずか残った理性がつぶやいたのは…… 
 そのとき、わたしの頭に浮かんだのは…… 
「……トラップ……っ」 
 それは、本当にわずかなささやきだったはず。 
 自分でも、口にしたってことに気づいていなかった言葉。 
 けれど。 
 それは、耳に届いてしまった。わたしの耳にも、クレイの耳にも。 
 クレイの動きが、ぴたり、と止まる。 
 ゆっくりと目を開ける。目の前にあるクレイの顔は……怒りはちっとも浮かんでいなかったけれど、酷く悲しそうだった。 
「クレイ……? クレイ、わたし……」 
「……いいよ、パステル」 
 そう言って笑うクレイの顔は、とても優しかったけれど。 
 けれど、今にも泣き出しそうなほど、辛そうだった。 
 そのまま、クレイは黙って離れ、服を着ると、わたしの上に布団を被せてくれた。 
「いいよ、パステル。俺は……わかってたから」 
「え……?」 
「わかってたよ、君の気持ちも、トラップの気持ちも。全部わかって、それでも……君と一緒にいたいと、そう思ったんだ」 
 弱々しい笑みを浮かべて、クレイはドアの方へと向かった。 
「謝るのは俺の方だよ。卑怯なことをしてごめん……素直に、なれよ?」 
 バタン 
 それだけ言い残して、クレイの姿は……外へ消えた。 
 何故だか、涙があふれて止まらなかった。 
 どうして。 
 どうして……こうなるの? 
 あんな、あんなことをしておきながら。 
 どうして、わたしの頭から……あいつの顔が離れないのよ? 
  
 バタン 
 ドアが開く音に、思わず振り返る。 
 部屋から出てきたのは、クレイ。何があったのかは知らねえが……えらく落ち込んでやがる。 
「トラップ……」 
 階段に腰掛けていた俺に気づいて、クレイは、意外そうな声をあげた。 
 意外なのはこっちだよ。おめえら……部屋で二人きりになって……思いが通じたんじゃねえの? やることやってたんじゃねえの? 
 なのに、何で……そんな辛そうな顔してんだよ。 
「パステルと、両思いになれたんだろ?」 
 俺が言うと、クレイの顔が歪んだ。 
 長い付き合いの俺ですら滅多に見たことの無い、怒りの表情へと。 
「クレイ……?」 
 クレイは何も言わず、俺の方へとずかずか歩いてきて…… 
 どすん 
 肩をつかまれた、と思った瞬間、俺のみぞおちに、クレイの拳が、食い込んでいた。 
 一瞬気が遠くなりそうになるが、何とか踏みとどまった。息がつまって、しばらく声も出せねえ。 
「っ……あ……あに……しやが、る……」 
「お前が悪い」 
 ぼそり、とつぶやくクレイの声は……暗かった。 
「お前が悪い。全部お前が悪いんだから。変な気を使って、勝手に誤解して、全部お前が悪い」 
「……あ……?」 
 何、だよ。何の話しだよ……そりゃあ…… 
 涙がにじみそうな痛みに、俺がたまらずしゃがみこむと、クレイは……何故か、女部屋のドアを開けた。 
 そこには、ルーミィとシロが幸せそうな顔をして寝ている光景があった。 
 そのまま、クレイは部屋へ入ろうとして…… 
「おい……」 
 声をかけると、クレイは振り向きもせず言った。 
「お前は男部屋で寝ろ」 
「はあ?」 
 バタン、と冷たくドアが閉じる。ご丁寧に鍵までかけられた。 
 盗賊の俺に鍵なんて全く無意味だっつーことに……気づいてんのかねえ? 
 何があったか知らねえけど……男部屋? そこは……パステルがいるんじゃねえのか? 
 わかんねえ。俺が悪い? 俺が何したってんだよ。 
 いまだに痛みの残る腹を押さえて、よろよろと立ち上がる。 
 女部屋に押し入ろうかと思ったが、今度こそ遠慮なく殴られそうな気がしたので、仕方なく男部屋に足を向ける。 
 もう寒いからな。できれば外で寝ろってのは勘弁してもらいてえ。 
 ドアを開ける。そこで目に飛び込んできたのは…… 
 ほぼ裸同然の姿でこっちを見ている、パステルの姿。 
 思わず回れ右して外に戻ろうとする。 
 な、な、な、何考えてんだよクレイの奴は!! 
「待って!!」 
 それを止めたのは、パステルの言葉だった。 
「待って、そのままでいいから、話を聞いて」 
「…………?」 
 何だ……? 何が言いてえんだ……? 
 俺が動かないのを確認してか、パステルはしばらく黙っていたが。 
 やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。 
「何があったか……大体わかるでしょう? でも、駄目だったの。わたし……」 
「駄目?」 
「駄目だったの。すごく気持ちよくて、理性とかそういうのが全部とびそうになって。でも、心の中で誰かがわめいてたの。これでいいのか、本当にそれで正しいのか? って」 
「…………」 
「クレイに酷いことしたの。すごく気を使ってくれたのに。『本当にいいのか』って聞かれたのに。わたし、それでいいって言ったはずなのに。最後の最後で……駄目だったの。だって」 
 そこで、パステルは言葉を止めた。 
 何が、言いてえ? 
 我慢できずに振り向く。真正面から、パステルの視線がぶつかった。 
「だって、トラップの顔が浮かんだから」 
「……は?」 
「最後の最後で……トラップのことを考えたの、わたし」 
 そう言いながらパステルの目からこぼれ出したのは、涙。 
「変だったの。クレイといるとすごくホッとできる。クレイのこと、好きだよ。だけど……好きって、そういう好きじゃないってわかったの。わたし、トラップと一緒にいると、イライラしたり、むかむかしたり、何だかすごく嫌な気分にばかりなってたから」 
「…………」 
「どうせ他の女の子をナンパでもしてるんだろう、デートでもしてるんだろうって考えたら、わたしとクレイをくっつけようとしているトラップを見たら、すごくすごく嫌な気分になったの。ねえ、これって……わたし……」 
 それは。 
 それは、多分嫉妬……じゃねえ? 
 全く同じだから。おめえとクレイが仲良くするのを見るたび、俺が感じていたのと全く同じ感覚だから。 
 嫉妬する、ってこたあ…… 
 おめえ…… 
「ねえ、わたし、どうすればいい? クレイに何て謝れば……トラップに、何て言えばいい?」 
「そりゃあ……」 
 そっとベッドに歩み寄る。布団にくるまるようにしてこっちを見上げるパステルの身体を、布団ごと抱きしめる。 
 まさか、なあ。そう来るなんて。 
 諦めよう、諦めようとしてたのに。それで諦めきれなくて悩んでたのに。 
 こんな日が、来るなんてなあ…… 
「そりゃあ、素直に言えばいいだけじゃねえ? おめえは、俺にどうして欲しい?」 
 俺の問いに、パステルは真っ赤になってうつむいた。 
 ぼそぼそと囁かれる言葉はすげえ小さかったけど、俺の耳に、しっかり届いた。 
 ――傍にいて欲しい―― 
 安心しろ。その願い、叶えてやる。 
 俺も同じ気持ちだから。 
 そっと顔を近づけると、パステルは、黙って目を閉じた。 
  
 バイトは無事に終わった。 
 さすがの俺もかなりへこんだけれど、まあ、しょうがないよな。 
 最初からわかってた。あの二人の間に、俺が割り込むような隙間はどこにもないって。 
「……ありがとうございます。素晴らしい作品に仕上がりました……」 
 最後のバイトの日。リルカさんは、うっとりと絵を眺めながら、何度も俺達に頭を下げてくれた。 
 いや、この二日は、相当迷惑かけたと思うけど。 
 昨日は、前夜が前夜だけに、ルーミィを連れてのバイトは、なかなかうまくいかなかった。 
 が、もう絵はほとんど完成していたこともあり、どうにか昨日と今日の二日を切り抜けることができた。 
 出来上がった絵は、絵心の無い俺から見ても、素晴らしいものだった。 
 どこまでも暖かく、柔らかく、見るもの全員を幸せな気分にさせてくれる、素晴らしい絵。 
「おい、終わったのかよ」 
 そんなことを言いながら、入り口から顔を出したのはトラップ。 
 それに、嬉しそうに手を振るパステル。 
 あの日、この二人がどんな会話を交わしたのか、俺には知る由もないけれど。 
 心から幸せそうなパステルを見ていると、これでよかったんだ、と思えるから不思議だ。 
 結局、俺はパステルのことが好きだったんだろうか? それとも……? 
「なあ」 
 そのとき、突然、トラップがリルカさんに声をかけた。 
 後で聞いて呆れたが、こいつは俺達がバイトを終えた後、毎日のようにアトリエに顔を出していたそうだ。 
 そんなに心配なら、素直に一緒についてくればよかったのに。そうしたら…… 
「あのさ、結局……」 
「トラップさん……」 
 何か言いかけるトラップを遮り、リルカさんは、そっとトラップの手を取った。 
 突然のその行動に、俺もパステルも当のトラップも、目が点になる。 
「は……?」 
「トラップさんお願いがあるんですけど」 
「あ、あんだよ」 
 リルカさんは、いつもの薄い笑みを浮かべて、トラップと、そしてパステルを見た。 
「三ヶ月後に、また個展があるんですけれど……今度も、モデルを頼んでいいですか? パステルさんと、トラップさんに」 
 ………… 
 その言葉に、俺達は、しばらく何も言えなかった。 
  
 ど、どうなってるわけ……? 
 トラップの手を握るリルカさんと、それを茫然を見ているクレイとトラップ。 
 わたしはもう何が何だかわからなくて…… 
 え、何で。またモデル……はまあいいとしても。 
 何で、今度はトラップなの? 
 わたし達がぽかんとしていると、リルカさんは、うっすらと微笑んで言った。 
「次の個展では……また、テーマが変わりまして……そのテーマには、トラップさんと、パステルさんが、ぴったりなんです……もう、お二人以外考えられません……」 
 て、テーマ? 
 そういえば……結局…… 
「おい。そういや結局、クレイとパステルにぴったりのテーマって、何だったんだよ」 
 その言葉にトラップが尋ねると、リルカさんはさらりと言った。 
「『似たもの同士』です」 
「……は?」 
 意外と言えば意外なテーマに、わたしをクレイは、思わず顔を見合わせる。 
 に、似たもの同士? わたしとクレイが? 
「どーいうこった?」 
「お二人……とても、よく似てらっしゃいます……とても、優しくて。弱いようで、強くて。強いようで、弱い。自分よりも、他人を思いやり……周囲を自然に幸せにする……外観ではなく、中身がとても似ているんです。精神的な双子、とでもいいましょうか……一目見たときから、あなた達しかいないと、思ったんです……」 
 その言葉に、しばらく誰も何も言わない。 
 に、似てる……かなあ? わたしとクレイ。 
 自分では、よくわからないんだけれど…… 
 ちらっとクレイを見ると、クレイは、「なるほど、それで……」みたいなことを言っている。 
 彼には、どうやら思い当たる節があったみたい。 
 ……そうなのかなあ。わたしは、クレイほどには優しくなれないと思うし、強くもないと思うんだけどなあ…… 
 そんなわたし達を、交互に見比べて。いきなり爆笑したのはトラップ。 
「な、なーるほどなあ。さすが芸術家だぜ。言われてみりゃあ、おめえらそっくりだもんなあ」 
「ど、どこがよー!」 
 思わず声をあげると、トラップは、にやり、と意地の悪い笑みを浮かべていった。 
「鈍感なとこ」 
 その言葉は……さすがに、わたしもクレイも、何も言い返せなかった。 
  
 全くなあ。大した落ちがついたもんだぜ。 
 まさか「似たもの同士」がテーマとはね……言われてみりゃあ、こいつら本当に似てるもんな。 
 もちろん、全く似てねえ部分もある。けど、根本的な部分っつーかな、表に出るようなところじゃなくて、奥深くがよく似てるんだよ。 
 どっちもおひとよしなところとかな。 
 腹を抱えて笑う俺に、パステルは酷く不機嫌な表情を見せていたが。 
 まあ、まあ。今だけ許せ。これでも、俺はこの二週間、ずーっと気が気じゃなかったんだぜ? 
 おめえらの間にあるのは恋愛感情に違いねえって早合点して、一人でずっと悩んでたんだからな。 
 これくらい許せ……やっと、気持ちが通じ合ったんだからよ。 
 俺が二ッと笑って見せると、パステルも、仕方なさそうに苦笑を浮かべていた。 
 まあまあ、いいじゃねえか。これで万事解決……ってこった。 
「あの……それで、モデルは……」 
 俺達の様子にちっとばかりひいていたリルカが、横からおずおずと声をかけてきた。 
 おっと、忘れるところだったぜ。 
「どーする? パステル」 
「どーするって……」 
「なあ、リルカさんよ。もちろん報酬は、こいつらのときと同じだよな?」 
 こいつら、でクレイとパステルを指差すと、二人は何やら非難がましい目を向けてきたが。 
 知ったことか。これは俺に対するささやかな慰謝料だ。 
「ええ。それはもちろん」 
 太っ腹にも頷くリルカに、満面の笑みを返す。 
「だ、そーだ。受けるよなあ? パステル」 
「え……」 
「新しい装備、整えられるかもしれねえぜ?」 
 俺がそう言うと、うっ、と息をつまらせた後。 
 パステルは、不承不承頷いた。 
「わ、わかったわよ……」 
「よし、決まりな。いつから?」 
「今回の個展が終わってからで結構です……よろしくお願いしますね」 
 丁寧にリルカが頭を下げる。クレイとパステルは、「しょうがないなあもう」とでも言いたげな顔で俺を見つめていて…… 
 ……おっと。そういやあ、一つ大事なことを忘れてた。 
「おい」 
 クレイ達に気づかれねえよう、小さな声でリルカに話しかける。 
「はい?」 
 顔をあげるリルカの耳元に近づいて、そっと囁く。 
 ――なあ、俺とパステルの場合のテーマって、何だ? 
 俺の問いに、リルカは静かに微笑んだ。 
 ――言わなくても……わかってらっしゃるんじゃありません? 
 ………… 
 もしかして。いいや、それしか考えられねえけど。 
 ――恋人同士、か? 
 そう聞いても、リルカはただ微笑んでいるだけだったが。 
 否定をする様子は、まったく、なかった。

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