それは遠い昔の記憶だった。 
 わたしがまだ三つか四つの頃、両親に連れられて、彼らの友人の家に遊びに行った。 
 わたしはその頃から方向音痴で、大人達が何かを話している間、退屈しのぎに外に出て……そのまま迷子になった。 
 最初は迷ったことにすら気づいてはいなかったけれど、いつの間にか、周りには知らない光景が広がっていた。 
 不安で、心細くて、わあわあ泣いていたわたしをぐいっとひっぱったのは、わたしより一つ年上の男の子。 
「おめえ、こんなところにいたのかよ」 
 ぶっきらぼうに言って、男の子はわたしの腕をつかんでずんずんと歩いて行った。 
 彼は、わたしの両親の友人の息子。 
 いつまで経っても帰らないわたしを心配して、自ら迎えに行ってくれたんだと両親に教えられたのは、自分の家に帰宅した後だった。 
 でも、そのときのわたしは、そんなこと何も知らなくて。 
 男の子の乱暴な態度が怖くて、腕を捕まれながらますますわあわあと泣き喚いた……ような記憶がある。 
 そんなわたしを、男の子はどう扱ったものかと考えあぐねていたようだが……やがて、その小さな腕で、ぎゅっとわたしを抱きしめてくれた。 
「泣くなよ。泣くんじゃねえ。おめえは笑ってる方が可愛いよ」 
「…………?」 
「約束だぞ! もう絶対泣くなよ!」 
「やくそく……?」 
「そう。約束。指きりだ」 
「うん」 
 小さな小指をからめあう指きりげんまん。その後、男の子は言った。 
「約束守ったら、ごほうびあげなくちゃいけないんだよな」 
「くれるの?」 
「でも、俺何も持ってねえや。うーん」 
 男の子は、一生懸命考えて、そして、さも名案を思い付いた、という風に顔を輝かせて言った。 
「そうだ。約束守ったら、おめえを俺の嫁さんにしてやるよー」 
「およめさん? わたし、およめさんになれるの?」 
「そーだよ。嬉しいか?」 
 小さかったわたしに、それがどういう意味なのかはわからなかった。 
 わたしの中でのお嫁さんは、とても綺麗なドレスを着ている女の人。あんなドレスを着れるのなら、それは素晴らしいご褒美に違いない。 
 そう思って、わたしは笑顔で頷いた。 
「うん! わたし絶対約束守って、大きくなったら……君のお嫁さんになる!」 
「約束だぞ?」 
「うん、約束!」 
 それから、わたしと男の子は手を繋いで家に帰っていった。 
 遠い日の約束。きっとあの男の子は、自分がそんなことを言ったなんて覚えてないだろうけど。 
 でも、わたしは覚えている。今にして思えば、きっとわたしはあの男の子のことが好きだったんだと思うから。 
 ぶっきらぼうで、腕を捕まれたときは怖かったけれど、でも、その必死の瞳にとても安堵の色が広がっていたことに気づいていたから。 
 わたしの小さな、初恋の思い出だった。 
  
「パステルー、パステル! 早く、もう整列だって!」 
「あー、待ってよマリーナ!!」 
 聖フォーチュン学園高等部一年D組。 
 それがわたしのクラス。わたし達は、今、本日最後の授業、体育の授業を終えるところだった。 
 わたしの名前はパステル・G・キング。容姿、普通。運動神経、普通。成績、普通。ただし、国語は普通よりちょっとよくて数学は普通よりちょっと悪い。 
 そんな、どこにでもいる女の子……だと思う。 
 今は三学期も終わりに近づいた二月末。わたし達は、吐いたら息が白くなるような寒さの中、体育館で整列をしていた。 
 体育の授業は嫌いじゃないけど、寒いのは嫌い。運動しているとあったかくなるけど、汗をかいたまま放っておくともっと寒くなるのが嫌い。 
 体育館での授業のときは、ジャージを着ちゃいけないって決まりがあるからみんなブルマー姿。だから余計に寒々しく見えるんだよね。 
 そんなことを話しながら、友達のマリーナの隣に並ぶ。 
 笛を吹いているのは、わたし達の担任のギア・リンゼイ先生。 
 黒髪に鋭い目つき、背が高くて運動神経抜群の、女の子の憧れの的なんだ。 
「よし、今日の授業はこれまで。今日は、ちょっと用があるからHRは中止だ。みんな、寄り道せずにまっすぐ帰るように」 
『はーい』 
 ギア先生の言葉に、頷いて教室に戻るクラスメート達。 
 HRは無くても、着替えは教室においてあるからね。どっちみち、みんな一度教室に戻らなくちゃいけないんだ。 
 わたしも、マリーナやリタと一緒に教室に戻ろうとしたんだけど。 
「パステル。パステル・G・キング。ちょっと来なさい」 
 体育館を出ようとしたところで、ギア先生に呼び止められた。 
 え、わたし? ……何の用だろ? 
「ごめん、ギア先生が呼んでるから行ってくる。先に行ってて」 
「わかった。教室で待ってるからー」 
 二人に手を振って、体育館に戻る。 
 もうみんな教室に行っちゃったから、広い体育館にわたしとギア先生の二人だけ。 
 何だろ? わたし、何か怒られるようなことしたかなあ? 
「先生、何ですか?」 
「うん……パステル、この後用事はあるか?」 
「え? いえ、別に……」 
「そうか。じゃあちょっと俺の用事を手伝って欲しいんだ。何、すぐにすむ」 
「用事……ですか?」 
 手伝い? 何をするんだろう。 
 でも、まあいいか。すぐに終わるって言ってるし、マリーナとリタなら多分待っててくれるよね。 
「いいですよ。何をすればいいんですか?」 
「うん、ちょっとこっちに来てくれ」 
 ギア先生の後についていくと、たどりついたのは体育用具室。 
 ここで用事? 何か用具を出すのかな。 
 それなら、わたしじゃなくて男の子に頼めばいいのに…… 
「先生、何をすればいいんですか?」 
「うん、ちょっとな……」 
 ガシャン 
 響いたのは、重たい音。 
 急に明かりが少なくなって、辺りが暗くなる。 
 ……え? 
 振り向くと、ギア先生は用具室の重たい扉を完全に閉めていた。そこにもたれかかるようにして、じーっとわたしを見ている。 
「先生……?」 
「パステル、君に聞きたいことがあるんだ」 
「何……ですか?」 
 何だろう。聞きたいこと? 
 先生が、わたしに? 
 ギア先生の目は、真剣だった。真剣にわたしのことを見つめている。 
 その顔は、とてもかっこよくて、わたしは思わずドキリとしてしまったんだけど。 
 次の瞬間、ドキリどころじゃないことが起きた。 
 わたしが首をかしげていると、先生はふらりと立ち上がってわたしの方に歩み寄ってきた。そして…… 
 気がついたら、わたしは先生に抱きしめられていた。 
 ――――!? 
 突然のことに頭がパニックになる。な、何!? 何なのこれー!? 
「せ、先生!? どうしたんですか!?」 
「パステル。君に聞きたい。君は……誰かつきあっている奴とか、いるのかい?」 
「つ、つきあう?」 
 つきあうって……あれよね? あのつきあう、だよね? 
 えと、つまりそれって……わたしに、「彼氏はいるか?」って聞いてる……ってこと? 
 ちなみにわたしには今彼氏って呼べる人はいない。マリーナは一つ年上の先輩とつきあってるんだけど、毎日がすごく幸せだっていつも笑ってた。 
 そんな顔を見ると、いいなあ。わたしも彼氏欲しい……って思わなくはないんだけど。でも、今のところ、「好きな人」も特にいないし、そんな人ができるのは当分先かな、って思ってたんだ。 
 だ、だけど、だけど…… 
「いるのか?」 
「い、いません。けど……先生っ……」 
 ギア先生……まさか? いや、まさかだよね? からかってるだけだよね? 
 わたしがおたおたと真っ赤になって手を振り回すと、先生は、すごく優しい微笑を浮かべた。 
 そして。 
 気がついたら、わたしは、唇を塞がれていた。 
  
「ん――!?」 
 唇に触れる柔らかい感触。口の中でうごめく、暖かい感触。 
 これって、まさか……まさか? 
「ん……やあっ……」 
 どれくらいの間そうしていたのかはわからないけれど、やっと唇が解放されたとき、わたしは大きく息をついてしまった。 
 もちろん、彼氏もいないわたしに、キスの経験なんかあるわけもない。 
「せ、先生……?」 
「突然で、ごめん。無防備な君の顔を見ていたら、我慢ができなくなった」 
「え……」 
 先生は、わたしを抱きしめる腕に力をこめて、耳元で囁いた。 
「好きなんだ、パステル。教師の身で、生徒にこんなことを言うのは間違っているとわかっているけど。君のことが、どうしようもなく好きだ」 
「……!?」 
 う、嘘。何、この展開? 
 ぎ、ギア先生が……わたしを!? 
 ギア先生は女の子の憧れの的。彼女達は、よく言っていた。 
(パステルはギア先生に気に入られてるみたいだよね) 
(羨ましいなー) 
 わたしにその自覚は無かったけれど、マリーナ達に言わせれば、ギア先生は、わたしにだけは特別な笑顔を向けている、とか何とか。 
 だけど、それは……きっと、出来の悪い生徒ほど可愛い、そんな程度の意味だと思ってたのに。 
 まさかっ…… 
「先生っ……」 
「好きだ。本気なんだ……俺じゃ、駄目か? 他に好きな奴でも、いるのか?」 
「…………」 
 その問いには、真っ赤になって首を振るしかない。 
 好きな人なんていないのは、事実だから。 
 わたしの様子に、先生はしばらく考えていたみたいだけど…… 
 やがて。 
 ぐいっと肩を押された。後ろにあったのは、ちょうどわたしの腰くらいの高さの跳び箱。 
「きゃっ!?」 
 凄い、強い力。わたしは、逆らうこともできず、跳び箱の上に倒れこむ。 
 その上から、ギア先生の身体が、のしかかってきた。 
「先生……わたし……」 
「先生なんて呼ばないで欲しい。俺は君を一人の女性として見ている。だから、君も……俺を、ただの男として見て欲しいんだ」 
「だってっ……」 
 言いかけた言葉は、塞がれた唇で封じ込められた。 
 だって、いきなりそんなこと言われたって…… 
 先生は、先生だもん。いきなりそんな風になんて見れないよ! 
 わたし…… 
 ギア先生の手が、Tシャツをまくりあげた。 
 わたしは、まだ体育のときのTシャツにブルマー姿で。こんな季節だからすごく寒いはずなんだけど。 
 先生の手が、わたしの素肌に触れた瞬間、寒さは、どこかへ吹き飛んでいた。 
「やあっ……」 
 何、何だろう、この感じ。 
 先生の手は冷たいのに……その手が、優しく胸に触れた瞬間、そこがすごく火照ってきて…… 
「やっ……あっ……」 
「可愛いよ、パステル……頼む、俺を受け入れてくれ」 
 どうしよう。どうすればいいんだろう。 
 先生の手がわたしの身体を這い回るたび、わたしの理性は飛びそうになっている。 
 こんなことしちゃいけない。誰かに見つかったら大変。やめて、って言いたいのに。 
 ギア先生が嫌いなんじゃない。好きか嫌いかって言われたら、好きだと思う。 
 だけど、違う。そんな対象としては見れない。だって、先生だもん! 
 先生の手が背中にまわって、ぱちん、という音とともにブラのホックが外された。 
 わたしの脚の間に先生の脚が割り込んできて、無理やり開かされる。 
 やだっ……この格好…… 
 自分が今どんな格好で倒れているかを想像して、思わず視線をそらしてしまう。 
 目に入ったのは、冷たくて硬そうな床。 
 Tシャツとブラが一緒にまくりあげられて、胸があらわになった。そこに、先生の唇が触れて…… 
「いやあっ……」 
 最後の理性が飛びそうになる。ぞくり、と背筋をかけぬけたとき、わたしは確かに思った。 
「もっと、触れてほしい」って。 
 でも……同時に気づいた。それは、ギア先生が好きだから思ったんじゃないって。 
 違う違う、こんなの駄目だよ。 
 やっぱり、駄目! 駄目だよ、こんなの!! 
 わたしがそう叫ぼうとしたときだった。 
 ガタンッ!! 
 不意に、大きな音が響いた。 
 ばっ、とギア先生がわたしから離れる。わたしは、慌ててまくりあげられたTシャツを引っぱって…… 
 音は、用具室の扉が開く音だった。細い隙間ができて、光が差し込む。 
 そして、その隙間から滑り込むようにして、一人の男の子が入ってきた。 
 すごく鮮やかな長めの赤毛を一つにまとめて、ほっそりした身体に学ランをラフに着こなした、男の子…… 
 入ってきた瞬間、男の子は即座に扉を閉める。大きく息をついて……そして、振り返った。 
 そこで初めて、わたし達が中にいるのに気づいたらしく、ぎょっとした表情でじっとこちらを見つめてくる。 
 ……あ、彼、確か隣のクラスの…… 
 暗いけど、顔立ちくらいはわかる。確か、隣の一年C組の男の子。 
 名前までは、知らないけど…… 
「あ、わりい。お邪魔だった?」 
 男の子は頭をかきながら決まり悪そうにつぶやいたけど。その視線がわたしの顔を捉えた瞬間、ふと顔を強張らせた。 
 え……何? わたしの顔に、何かついてる? 
「何だ、隣のクラスの担任じゃねえか。んなところで女生徒連れ込むなんざ、顔に似合わず大胆だな?」 
 男の子の視線がわたしからそれた後。彼は、ギア先生の方に目をやって、妙に敵意のこもった言葉を吐いた。 
 そういえば、ギア先生、女の子には人気だけど、男の子にはいまいち受けが悪いんだよね。厳しいからかなあ…… 
 っていやいや、そんなことを考えている場合じゃなくて! 
 こ、この状況はちょっとまずいんじゃない!? わたしは、生徒で、ギア先生は先生で…… 
 人に見られた、という羞恥心も手伝って、わたしは思いっきりパニックになってしまたんだけど。さすがに、ギア先生は冷静だった。 
「C組の生徒か。君こそこんなところで何をやっている。もう放課後だぞ」 
「けっ。部活の勧誘がうっせえから逃げてきたんだよ。それより、いいのか? 俺がここで大声出せば、あんた教員免許剥奪は間違いねえぜ?」 
「やりたければすればいい」 
 男の子の、ほとんど脅迫に近い言葉にも、先生は全くうろたえなかった。 
「俺は本気で彼女が好きだ。それで彼女を手に入れることができるなら、教師の職に未練などない」 
 ここまできっぱり言い切られると、男の子も返す言葉が無いみたいだった。 
 わたしはわたしで、その直球な愛の告白に、もう顔から火が出そうになって…… 
「まあ……さすがに、今日はひきあげるとするよ。パステル」 
「は、はいっ!?」 
 先生の呼びかけに、思わず顔をあげると。 
 ギア先生は、他の女生徒が言うところの「特別優しい笑み」を浮かべて、わたしに言った。 
「俺は、いつまででも待っているからね。君が俺を受け入れてくれるのを。じゃ、また明日」 
 がしゃん 
 それだけ言うと、ギア先生は出て行った。 
 後には、わたしと、名前も知らない男の子が残される。 
 って、ちょっとお…… 
 気まずさと羞恥心と情けなさも加わって、わたしは泣きたくなってきた。 
 何で、きっぱり言えないんだろう。わたし、もしかしたらちょっとは先生のこと好きなのかもしれない。 
 本当に先生が先生をやめたら、好きになっちゃうかもしれない。 
 でも……それって、変だよね。本当に好きなら、相手の立場なんか、気にならないはずだよね? 恋愛ってそんなものだよね? 
 ううっ…… 
 わたしがずずーん、と落ち込んでいると。 
 不意に、肩に手が置かれた。 
 顔をあげると、意外なくらい間近に、さっきの赤い髪の男の子の顔がある。 
「あの……」 
「……悪かったな、邪魔して」 
 男の子は、不機嫌そうに言うと、扉の方に目を向けた。 
「あんた、あいつのことが好きなわけ?」 
「……違う、と思う」 
「思う? 自分のことだろ」 
「だって……わからないんだもん、よく」 
 言葉に出したら、ますます情けなくなってきた。 
 我慢できず、目から涙をこぼしてしまう。 
 そんなわたしを、男の子は困ったように見つめていたけれど…… 
「な、泣くなよ。俺が泣かしたみてえじゃねえか」 
「…………」 
「あんた、D組の生徒だろ?」 
 何で知ってるんだろう。そう思わなくも無いけれど、それを質問する気力はなかった。 
 ただ曖昧に頷く。 
 男の子は、はーっ、と大きくため息をついて、ポケットからハンカチを出すとわたしに差し出してくれた。 
「ほれ、もう泣くなって。別に大したことされたわけじゃねえだろ」 
「……大したこと、だもん!!」 
 男の子の無神経な言葉に、今度は怒りがこみあげてきた。 
 そうだよ、大したことだもん。だって……わたし、ファーストキス、だったんだよ? 
 ファーストキスは、できれば結婚式までとっておきたい。マリーナ達と、半ば本気で言っていたのに。 
 それが、あんな……無理やりみたいな…… 
 ひっくひっくとしゃくりあげて、男の子が差し出したハンカチを顔に押し当てる。 
 微かに、石鹸の香りがした。 
 それから、どれくらい経ったのかわからないけど。 
 涙の発作もおさまって、わたしがどうにかこうにか落ち着いたとき。 
 用具室の中は、すっかり真っ暗になっていた。どうやら、もう日が暮れてしまったらしい。 
 ……って、いけない! マリーナとリタ!! 
 がばっ、と立ち上がったとき。ばさり、と足元に何かが落ちた。 
 ……え? 
 落ちたのは、学生服の上着。そう言えば、さっき、肩に何かが被せられて…… 
「やっと落ち着いたかあ?」 
 声をかけられて振り向く。そこには、呆れたように跳び箱に腰掛ける、さっきの男の子の姿。 
 ただ、さっきと違うのは、彼がYシャツ一枚の姿になっていたこと。 
 ……もしかして、わたしが寒いだろうと思って、上着を貸してくれた…… 
「これ……」 
「落ち着いたんなら返せよ。俺だってさみいんだから」 
 差し出した上着が奪い取られる。やっぱり……? 
 もしかして、わたしが泣き止むまで、待っててくれた……? 
「……ありがとう」 
 ぽつん、とつぶやくと、くしゃり、と意外と大きな手が、わたしの頭に乗せられた。 
「忘れろ、って言っても無理かもしれねえけど。あんま、悩むんじゃねえよ」 
「うん……」 
 その言葉に、わたしはいたく感動してしまったんだけど。 
 その直後。 
「あ、後な」 
 そこで。突然彼の口調が変わった。 
 真剣な口調から、妙に軽薄な口調へと。 
「おめえさ、もうちっと牛乳飲んだ方がいいんじゃねえ?」 
「……え?」 
「どこが胸か背中か、そんな格好しねえとわかんねえし」 
「なっ……!!」 
 男の子のあまりにも失礼な言葉に、わたしは思わず拳を振り上げようとしたけれど。 
 にやにや笑う彼の視線を辿って……そして、真っ赤になってしゃがみこんだ。 
 わたし……そういえばっ…… 
 ブラのホックを外されて、Tシャツをまくりあげて。 
 慌ててTシャツだけずりおろしたけれど、その下で、ブラはまだまくりあがったまんまで。 
 わたしの胸は、確かにそう大きくないけれど。薄手のTシャツ越しに、胸の……その、突起の部分が、くっきりと浮き出ていて…… 
「ば、ばかあっ!! エッチ――!!」 
 バシーン!! 
 彼の第一印象は、最悪と最高が入り混じった、実に複雑なものになった。 
  
 その後。わたしは成り行きで、彼から上着を借りて教室に戻った。 
 マリーナとリタはすごく心配してまだ待っててくれたんだけど、まさか事情を説明するわけにもいかず…… 
「ちょっと厄介な用事を頼まれて」だけで押し通した。 
 彼は、わたしを教室まで送り届けた後、いつの間にか姿を消していた。 
 上着を借りたままだったので、クリーニングに出して、すぐに返しに行かなくちゃ、とそう思っていたのに。 
 わたしは、それができなかった。その日を最後に、わたしは、学校に行くことなく、春休みに突入してしまった。 
 それは、あまりにも突然の出来事だった。 
 その日、家に帰ったわたしを待っていたのは、突然の事故による両親の訃報だったのだ…… 
  
 わたしのお父さんは医者で、お母さんは弁護士だった。 
 二人ともすごく忙しかったけれど、休みの日は必ずわたしと一緒に過ごしてくれる、そんな素敵な両親だった。 
 二人と一緒に過ごす日常は、これからもずっと続くって、勝手に思い込んでいたのに。それは、電話一本で、あっさりと断ち切られてしまった。 
 家に帰り着いたときには、もう夜の八時近かった。 
 マリーナ達と一緒に夕食を食べてきてしまったので、家に帰っても特にすることがなく。 
 どうせ今日もお父さん達は遅いから、と早々にお風呂に入って自分の部屋に戻ったんだけど。 
 お風呂上り。髪の毛を乾かしているところに、携帯電話の着信音が響いた。 
「はい、もしもし?」 
 ディスプレイに出た名前は、お父さんの助手、ジョシュアの名前。 
『もしもし、パステルお嬢さんですか? あのですね、落ち着いて聞いてほしいんですけど……』 
 ジョシュアの声が告げたのは、自動車事故で、お父さんもお母さんも即死だったという、ただそれだけの事実を伝えるものだった。 
 その言葉を聴いて。内容を理解して。その瞬間、わたしは床にしゃがみこんでいた。 
 携帯電話が手から滑り落ちたことにも気づかず、ただ震えていた。 
 まさか、まさか。 
 冗談だよね。だって、今朝まで、二人ともあんなに元気に笑っていたじゃない…… 
 ジョシュアが家にかけつけてきてくれたとき、わたしはパジャマのまま、髪も生乾きのまま、床で震えていたらしい。そんなわたしを、ジョシュアは病院に連れていってくれた。 
 だけど、その間のことを、わたしは全然覚えていない。 
 断片的に、『お嬢さん、しっかりしてください』という声や、血にまみれたお父さんとお母さんの身体や、ジョシュアがお医者さんから話を聞いている声とか。 
 ただそんな記憶だけがばらばらに残っていて。 
 次にまともに残っている記憶は、セーラー服に身を包んでお父さんとお母さんの写真を抱えている記憶だった。 
 お葬式とか、お通夜とか、そういった事務的なことは、全部ジョシュアがやってくれたから。わたしは実質、ただ泣いて座っているだけでよかったんだけど。 
 それでも、両親が火葬場に連れていかれるとき、その写真を抱きしめて大声で泣いたことは、覚えている。 
 マリーナやリタを初めとするクラスメートに、ギア先生も焼香に来てくれたみたいだけど。みんなとどんな会話を交わしたかは、よく覚えていない。 
 ギア先生とはあんなことがあった後なのに、先生はいつもの先生の顔で、「困ったことがあったらいつでも相談に乗るから」みたいなことを言っていた……ような気がする。 
 とにかく、わたしはそうやって、三月を抜け殻のように過ごしていた。 
 高校は春休みに入ってしまったし、やらなければならないことはそう多くはなく。思う存分思い出に浸って泣くことができた。 
 だからこそ。 
 半月を過ぎたあたりで、ようやくわたしは、これからのことを考える余裕ができた。 
  
「パステルお嬢さん、本当に行くんですか?」 
「うん、もう決めたから」 
 両親の遺品の整理もすっかり住んで、片付いた家の中で。 
 すっかり春らしくなった四月の初め、わたしとジョシュアは、向かい合っていた。 
 ここ数日、ずっと、これからどうするかを考えていた。 
 両親は結構な遺産を残してくれて、とりあえず高校、大学と進学してその後数年生活できるくらいの経済的余裕はあったけれど。 
 それでも、一生食べていけるほどの額ではないし。わたしは、とりあえず今後どうやって生きていくかを決めなければならなかった。 
 大学に進学するか、高校を卒業した後働くか。 
 わたしには、一応将来の夢があった。小説家になりたいっていう、本当に夢みたいな夢なんだけど。 
 だけど、両親はわたしのそんな夢を、一生懸命応援してくれていた。医者になれとか弁護士になれとか、自分の後を継ぐことを強制するような両親じゃなかったのは、本当に幸運だと思う。 
 小説家になるためには、いっぱいいっぱい勉強しなければならないし、したいから。わたしは大学に行くつもりだと言った。 
 そのとき、ジョシュアが、「ここでわたしが一緒に暮らしましょうか?」と言ってくれたのだ。 
 大学に進学するなら、やっぱり勉強に集中したいだろう。わたしの両親には世話になったから、自分が責任持って、お嬢さんが一人立ちするまで面倒を見ます、と、彼はそう言ってくれた。 
 その申し出は、とてもありがたかったけれど。でも、わたしはそれを断った。 
 この家には、両親の思い出が残りすぎている。ここにいたら、きっとわたしはいつまでも泣いてしまうだろうから。 
 だから、わたしは全然別の場所へ行って、一から生活をスタートさせたい、と、そう言ったんだ。 
 それに、ジョシュアはまだ独身。もしかしたら、これからいい人ができて結婚したくなるときもあるかもしれない。 
 そんなとき、重荷になりたくないもんね。もっとも、そう言ったら、ジョシュアは怒るだろうから言わないけれど。 
 最初は、一人暮らしをしようか、とも思った。高校の近くに小さなアパートでも借りて。幸い、家事は一通りできる方だし、多分何とかなる、と思ったんだけど。 
 だけど、そう言ったら、ジョシュアに猛反対されてしまった。「年頃のお嬢さんが一人暮らしなんて危険すぎます!」だって。 
 まあね。わたしはどちらかというと寂しがりやで、一人でいるのは嫌いだったから、あまり乗り気じゃなかったのは確かなんだけど。 
 じゃあ、どうしよう? 
 そう悩んでいたときだったんだよね。その電話がかかってきたのは。 
 それは、お父さんとお母さんの親友だっていう人からの電話。 
 お葬式に行けなくてごめんなさい、と丁寧に謝られた後、これからどうするつもりなのか聞かれた。 
 一人暮らしをしようか迷っている、と言ったら、親戚の人は? と聞かれて言葉につまってしまった。 
 実は、わたしのお父さんとお母さん、駆け落ちして一緒になったんだって。 
 お母さん側の親戚は誰もいないし、お父さん側にはおばあさまがいるんだけど。 
 おばあさまは、お父さんとお母さんの結婚を快く思ってなくて、その娘であるわたしのことも、凄く冷たい目で見ていた。 
 お葬式のとき、初めて会ったんだけどね。一応、「あなたに罪はありませんから。引き取ってあげてもいいですよ」とは言ってもらえたんだけど。その目を見たとき、思ったんだ。 
 おばあさまには悪いけれど、一緒に住みたくないって。 
 おばあさまと暮らしていたら、両親との素敵な思い出が、否定されてしまいそうだから。 
 だから、「誰もいない」と電話で嘘をついた。 
 そうすると、その人は少し沈黙した後、言ってくれたんだ。「なら、うちにこないか?」って。 
 そこで初めて、わたしは電話の相手の詳しい事情を聞くことができた。 
 その人は、お父さんととある事件がきっかけで友達になったんだけど、すごく気が合って、わたしがうんと小さい頃に一度遊びに行ったこともあるんだとか。 
 それで、お互いに、「もし自分の身に何かがあったら、お互いの子供たちの面倒を見よう」なんて物騒な約束まで交わしていたとか。 
 その人には、わたしと同い年になる息子さんもいて、一人で暮らすよりきっと楽しいと思うよって、誘ってくれたんだ。 
 家は電車で数駅くらい離れた場所で、そんなに遠くない。学校も変わらなくていいって言ってくれた。 
 だから、わたしは、その申し出を受けることにしたんだ。 
 ジョシュアは、「他人の家に厄介になるなんて」って最後までぶつぶつ言っていたけれど。一人暮らしよりは安心できると思ったのか、渋々頷いてくれた。 
 そして、今日。四月六日が、わたしがこの家で過ごす最後の日。 
 既に荷物は相手の家に届けてあって、この家は、明日から他人に貸すことになっている。 
 わたしが今手元に持っているのは、セーラー服と学生カバンだけ。 
 明日から新学期が始まり、わたしは二年生になる。明日、この家から学校に行った後、直接お世話になる家に行く予定なんだ。 
「パステルお嬢さん……いいですか? 困ったことがあったら、何でも言ってください。いつでも相談に乗りますからね」 
「もう、わかったって。……ジョシュア、本当に、今まで色々ありがとう」 
 ぺこり、と頭を下げると、ジョシュアは、ぐすんと鼻をすすった。 
  
 新学期。身体に合ってない制服に身を包んだ新入生達の姿が目に付く季節。 
 わたしは、校門をくぐった。クラス割を確認していると、後ろから肩を叩かれる。 
 振り返ると、そこにはマリーナとリタが立っていた。 
「おはよう、パステル! ……どう? ちょっとは元気、出た?」 
「うん! ごめんね、心配かけて。もう大丈夫だよ!」 
 本当は、まだ少し寂しいって気持ちもあったけれど。久しぶりに会うマリーナ達を、心配させたくないもんね。 
「ね、聞いて聞いて。あたし達、三人とも同じクラスだった」 
「本当!? よかったー!」 
 リタの言葉に、心から安堵する。友達を作るのは苦手な方じゃないけど、二人は、中等部の頃からの親友だもんね。同じクラスって聞いて、また一年一緒にいられるって知って、心から安堵した。 
「で、担任はまたギア先生だって!」 
 かちーん。 
 だけど、その後続いた言葉に、思わず身体が強張ってしまう。 
 ギア先生…… 
 あの日のことは、忘れたわけじゃなかった。だけど、その後色んなことが起こりすぎて…… 
 あのときは、恥ずかしいとか怖いとか、そんな色んな気持ちが混ざり合っていたけれど。今となっては、「あれは本当にあった出来事?」なーんて気分になっちゃってる。 
 もっとも、わたしのカバンの中には、綺麗にクリーニングした、あの日から借りっぱなしの学生服が入ったまま。そのことが、あれは現実にあった出来事なんだ、って教えてくれるけど。 
 そういえば、あのときの彼。制服無くて困ったんじゃないかな。早く返してあげないと…… 
「パステル、教室に行こう!」 
「うん!」 
 呼びかけるマリーナとリタに返事をして、わたしは二人の後を追った。 
  
 教室に入ったときには、もう始業ぎりぎりの時間。 
 今日は入学式と始業式、HRだけだから、午前中で学校は終わってしまう。 
 教室の顔ぶれは、知っている人と知らない人の比率が半々くらい。これから、この人たちがクラスメートなんだよね。早く名前覚えなくちゃ。 
 最初の席は出席順番だから、マリーナともリタとも離れてしまう。わたしは自分の席にストンと座って、ぼんやりと窓の外を眺めていた。 
 ギア先生と顔を合わせるのは、気まずいなあって、そんなことを考えていたんだけど…… 
 がらり 
 教室のドアが開く。噂をすれば……とやらで、入ってきたのはギア先生。 
 それまで騒がしかった教室が、一気に静かになったんだけど。 
 そこで、気づいた。ほとんどの席が埋まった教室。その中で、一つだけぽつんと空いた席があるって。 
 他ならぬ、わたしの隣の席が。 
(今日は休み? 隣り……何て名前の子だったっけ?) 
 座席の割り当ては黒板に書いてあったんだけど、そっちに目を向けたときには、もう、ギア先生の手によって消されていた。新しく書かれているのは、今日の予定。 
 この後入学式、続けて始業式、HR。終わるのは11時くらい。 
「じゃあ、これから体育館に移動するように。今日の欠席は……一人だけだな」 
 教室を見回して、ギア先生は帳簿に印をつけると、廊下に出るように促した。 
 その間、わたしの方は一度も見ていない。 
 やっぱり……あれは、先生にとって、ただの冗談とか気まぐれだったのかな? 
 それはそれで、酷いとは思うけど…… 
 でも、時間を置いて、冷静になってわかった。 
 多分、その方がまだホッとする。本気だって言われるよりは、多分。 
 
 ただ立って話を聞いているだけの、退屈な入学式と始業式。 
 その後、学年別に新しい教科書を受け取って、教室に戻る。 
「ねー、パステル。この後どうする? お昼、どっかに食べにいかない?」 
「あ、うーん。ごめん。ほら、わたし今日から知り合いの家にお世話になることになったから。なるべく早く顔を出したいんだ」 
「あ、そっかそっか。じゃあ、しょうがないよね」 
「うん」 
 そんなことを言いながら、教室に戻る。 
 HRは短かった。明日以降の授業の予定と、健康診断とか諸々の行事説明だけ。予定より少し早い時間に、ギア先生は立ち上がった。 
「じゃあ、今日はこれまで。気をつけて帰るように」 
 起立ー礼ーという間延びした挨拶とともに、教室が一気に騒がしくなる。 
 これから、新しい家に行くんだよね。ううっ、緊張。 
 電車で数駅。その駅は、今まで一度も降りたことが無いから、駅の様子も全然わからない。大丈夫かなあ? わたし、方向音痴なんだよね…… 
 そんなことを考えながら、校門まで一緒に行こう、とマリーナとリタに声をかけようとしたときだった。 
「パステル」 
 どきんっ!! 
 後ろから声をかけられて、心臓が跳ねる。 
 振り向くと、そこに立っていたのはギア先生。 
「先生……」 
「パステル。大丈夫か? 少しは落ち着いたかい?」 
「は、はい」 
 先生の口調は、本当にただの生徒を心配する先生、そのものだった。 
 よかった、と安心したときだった。 
 それは、一瞬のことだったけれど。 
 先生は、わたしの肩を叩いて、耳元に唇を寄せた。励ましの言葉をかける担任、そう装っていたけれど。 
 甘い吐息と共に耳元で囁かれたのは、わたしのわずかな期待を壊す言葉。 
「もし、よかったら……俺と一緒に暮らさないか?」 
 びくり、と背筋が震える。先生は、本気なんだって……嫌でもわかったから。 
「大丈夫です。もう、行くところは決まってますから」 
 気にしてない、そう見せかけるために、わざと顔をあげて、大きな声を出す。 
 ギア先生は、ちょっとの間わたしを見ていたけれど、口元だけふっと微笑んで、職員室の方へと歩いて行った。 
 その姿が消えた途端、膝が砕けそうになる。 
 どうしてだかはわからないけれど。先生のことを「怖い」と感じてしまって。 
「パステル、パステルってば! どうしたの?」 
 マリーナに肩を叩かれるまで、わたしはずっと、その場に立ちすくんでいた。 
  
 とにかく、気分を切り替えよう。 
 そう思えたのは、最寄り駅で電車を降りたときだった。 
 わたしの様子が変だと、マリーナもリタも随分心配してくれたんだけど。 
 だけど、事情を話すわけにはいかないから、何でもない、とか両親のことが……とか、適当にごまかした。 
 うう、ごめんね、二人とも。本気で心配してくれてるのに…… 
 とにかく! くよくよ悩んだってしょうがないよね。わたしは、これから新しい生活を始めるんだもん。新しい家族と一緒に暮らすんだもん。 
 明るい顔、してなくちゃ。迷惑かけないように! 
 そう思い直して、メモを取り出す。 
 そこには、駅からお世話になる家までの、詳しい道の説明が書いてあった。昨夜、わたしが電話で確認を取ったメモね。 
 「駅からそんなに離れていない。歩いて15分くらいですよ」という説明だったんだけど。 
 どうしてだろう…… 
 どうして、もう一時間以上も歩いているのに、見つからないんだろう…… 
 背中をいやーな汗が流れる。 
 繁華街からちょっと離れた住宅街……だと思う。 
 時間的には、もうとっくについてもいい時間なのに。あたりには、どこをどう見回しても、説明された目印が見つからない。 
 かといって、一度家に戻ろうにも……もう駅に戻る道すらもわからない。 
 わたしってば……わたしってば、何やってるのー!? 
 こんなことなら、素直に迎えに来てもらえばよかった…… 
 がっくりと傍の壁に手をつく。 
 本当は、電話で言われたんだよね。「よかったら、息子を迎えにやらせましょうか?」って。 
 だけど、これからお世話になるのに、最初からそんな迷惑はかけたくないから。ついつい、「一人で大丈夫です」って言っちゃったんだよね。 
 どうしよう……きっと心配してるよね。今からでも、電話しようかな? 
 でも、自分がどこにいるのか……それすらもわからないんだよね。 
 ううっ…… 
 あんまりにも情けなくて、涙がこぼれそうになった。 
 そのときだった。 
 ブロロロロッていう、大きな音。 
 わたしの髪をかすめるようにして通り過ぎる風。視界をよぎる鮮やかな赤。 
 え? 
 ふっと風を追うように視線を動かすと、キッという微かな音とともに、風が止まった。 
 何のことはない。バイクだ。そして。 
 ゆっくりと、そのバイクに乗っていた人が被っていたヘルメットを取る。鮮やかな赤毛がわずかになびいた。 
「あ、あなたは……」 
「……あんたか。こんなところで、あにやってんだ?」 
 振り向いたのは、忘れもしない。 
 あの日、わたしのことを助けてくれた、あの赤毛の男の子。 
 偶然? 学校では、いくら捜しても見つからなかったのに。こんなところで会えるなんて…… 
 今の彼は、制服じゃなく、黒いスリムジーンズに赤いTシャツとオレンジのジャケットという、派手な格好をしていた。その服は、彼の赤毛にとてもよく似合っていたけれど…… 
「あの……あなた、ここの近くに住んでるの?」 
「ああ」 
 わたしの質問に、男の子は軽く頷いた。バイクにもたれかかるようにして、マジマジとわたしを見つめた後。 
「あんたさ、もしかして道に迷ってんじゃねえ?」 
 ずばり、と、わたしが気にしていることを当ててくれた。 
 なっ……何でわかるのお!? 
 わたしが何も言えずに口をぱくぱくさせていると、男の子は、お腹を抱えて爆笑した。 
「ま、マジ? まさかって思ったんだけどなあ……い、いい年して迷子かよ」 
 目の端に涙まで浮かべての大爆笑。ううー、そんなに笑うことないじゃない。 
 だけど、だけど。悔しいことに、今頼れるのは……彼しかいない。 
「そうよ、迷っちゃったのよ!! お願い、駅に戻る道を教えてくれない?」 
 やけくそになって言うと、男の子はポン、とわたしに何かを投げてきた。 
 反射的に受け取る。それは、ヘルメットだった。 
「え?」 
「駅じゃねえだろ、おめえの目的地。駅からどっかへ向かう予定だったんだろ? どこ行くつもりだったんだ?」 
「あの……ブーツさん、っていう家」 
 わたしが答えると、彼はバイクにまたがった。 
 えと……? 
「何ボーッとしてんだよ。ほれ、さっさと後ろに乗れ」 
「え、ええ?」 
「その家ならよく知ってる。生まれたときからここに住んでるからな。この辺で知らねえ場所はねえんだよ。そこまで送ってやっから、ほれ、とっととメット被れ」 
「う、うん」 
 な、何? 何て強引なの!? 
 助けてくれるのはありがたいけれど、全然逆らう暇を与えてくれない彼のペースに、わたしはすっかり巻き込まれていた。 
 言われるままにヘルメットを被り、彼の後ろにまたがる。 
 ……って。 
「ねえ! あなたのヘルメットは?」 
「ああ? んなもんねえよ」 
「え?」 
「俺、免許取ってまだ二ヶ月経ってねーもん。バイクの二人乗りは、免許を取って一年経つまで禁止、だからな」 
「……嘘っ!?」 
 ああ、そういえばそうだ。あの出会った日、あの時点で、彼はわたしと同じ一年生、つまり16歳だったはず。 
 バイクの免許は16歳にならないと取れない。バカバカー! 何でこんなことに気づかないのよわたしってば! 
「あ、危ないじゃない、わたし、降り……」 
「ほれ、しっかり捕まってろよ」 
「きゃあああああああああああ!!?」 
 彼がそう言った途端、急発進するバイク。のけぞりそうになって、慌てて彼のウエストにしがみつく。 
 見た目はとてもほっそりしているのに、意外とがっしりしている身体に、不覚にもドキッとしてしまったのは……わたしの気の迷いだと、思いたい。 
  
 そうしてバイクが走ること数分。止まった先にあるのは、どこにでもあるファーストフードのお店。 
「……あの……?」 
「飯、まだなんだろ?」 
 言われて気づく。今日は11時くらいで学校が終わって、その後すぐにここまで来て…… 
 時計を見ると、もう二時をまわっていた。そこで初めてお腹が空いたことに気づくのは、我ながら現金だと思ったけど。 
「ちなみに、俺もまだなんだよな。っつーわけで、道案内の礼として、飯おごってくんねえ?」 
「はあ?」 
 な、何て図々しいんだろう、この人。 
 でもまあ……高級料理をおごってくれって言われたわけじゃないし。何百円かのことだもんね。しょうがないか。 
「いいわよ」 
「話がわかるじゃん。んじゃ入るか」 
 そう言うと、彼は慣れた様子で店内に入っていった。常連みたいで、バイトの女の子に気軽に声をかけている。 
 二人がけの席について、ポテトなんかをつまみながら……わたしは、今更気づいた。 
 いまだに彼の名前も知らないことに。 
「ごめん、あなた、名前何て言うんだっけ?」 
「はあ? おめえなあ。今更あに言ってんだよ」 
 二度目の出会いは、ちょっと強引でけれど優しい、そんな出会いだった。 
  
 トラップ、と彼は名乗った。わたしが自分の名前を名乗ると、彼は「知ってるよ。おめえは有名だからな」と何だか意味ありげに笑っていた。 
 有名? わたしのどこが? どこもかしこも平凡で、目立つようなところなんかどこにも無いのに。 
 そう言うと、「その年で迷子になるくれえ方向音痴なとこ」と言われてしまった。 
 くーっ腹の立つっ! 何より腹の立つのは、それに言い返せないところだけど!! 
 でも、学校では……さすがに迷子にはなってないよ、うん。新入生当時はちょっと色々あったけど。そんなのは特に話題になるようなことじゃなかったはず。 
 じゃあ、何で知ってるんだろう? 
 首をかしげてしまったけれど、目の前でにやにや笑っている彼……トラップは、到底教えてくれそうな雰囲気じゃなかったので、それは忘れることにした。 
 そこで、思い出す。カバンの中に、彼の制服が入れっぱなしだってことに。 
「そうだ、思い出した。トラップ、これ、ありがとう。返すね」 
 そう言って制服を取り出すと、彼はちょっと迷った後、「俺、カバン持ってねえから今渡されたって困るんだけど」と言われてしまった。 
 ああ、そうか。言われてみれば、彼は手ぶらだった。確かに、邪魔になるよね。 
 ジャケットの上からこれを羽織るのは、さすがに暑いだろうし。 
「だあら、しばらくおめえが持っててくれよ」 
 その言葉に、素直に上着をカバンに戻す。別れるとき、渡すの忘れないようにしないとね。 
 食事を終えて店を出たら、もうすぐ三時になる、という時間。 
 まずいなあ。もう約束の時間より大分遅れてる。心配してるだろうなあ…… 
 わたしが時計を眺めていると、トラップは携帯電話を取り出して、何か喋っていた。通話はすぐに終わったらしく、またわたしにヘルメットを放ってくる。 
「うし、んじゃ行くか。なーに、すぐにつくぜ」 
「ごめん、急いでね。多分心配してくれてると思うから」 
「りょーかい。大丈夫だと思うけどな」 
 え? 
 わたしがその言葉の意味を聞くより早く、バイクは再び急発進。 
 トラップの予告通り、それから五分とかからず、わたしは目的の家につくことができた。 
 表札に書かれた名前は、間違いなくブーツ。わたしのお父さんの親友の苗字。 
 ストン、とバイクから飛び下りて、ヘルメットをトラップに返す。おっと、上着も忘れずに。 
「トラップ、今日は本当にありがとう。あの、これ、上着。またいつか、ちゃんとしたお礼するから」 
「いんや。別にいーよ。どーせ……」 
 トラップが何かを言いかけたときだった。 
 声が聞こえたのか、バタン、という音とともに、ドアが開いた。 
 そこから出てきたのは、赤毛が鮮やかな、お母さんと同い年くらいの女の人と、男の人。 
 この人たちが、ブーツさんだよね。わたしの、新しい家族。 
「あ、あのっ……わたし、パステル・G・キングです。遅くなってごめんなさい。これから、お世話になります!」 
 わたしがそう言って頭を下げると、赤毛の女の人は、何も言わず、ぎゅっとわたしを抱きしめてくれた。 
「堅苦しい挨拶なんかしなくてもいいんだよ。今日からあなたも家族なんだから……よろしく、パステル」 
「そうだよ。気楽にしてくれればいい」 
 その言葉に、わたしは不覚にも、涙がこぼれそうになった。 
 優しい言葉。それも、うわべだけじゃない。わたしのことを心から心配してくれてるってわかる言葉だったから。 
 顔をあげる。もう一度お礼を言おうとしたときだった。 
 すっと、わたしの脇を、トラップが通り過ぎて行った。そのまま、当たり前のような顔で、玄関をくぐる。 
 ……え? 
「こら、トラップ! 挨拶くらいしたらどうなんだい?」 
「うっせーなあ。迎えに行ってやったんだから、いいじゃねーかよ、んなこと」 
 女の人の言葉に、トラップは、ぶっきらぼうに言った。 
 ……え? 
「ごめんねえ、口の悪い息子で」 
 女の人は、にこにこしながら言った。 
「あの子、照れ屋だから。本当は誰よりもあなたのこと心配してたのよ。うちの息子のトラップ。これからよろしくね」 
 ………… 
 え、えーっ!? 
 わたしが口をぱくぱくさせていると、トラップは、心なしか少し顔を赤らめて言った。 
「だあら言ったろ? その家ならよく知ってる、ってな」 
 三回目の出会い。そこで、わたし達は家族になった。 
  
「んで? 何を手伝えばいいわけ?」 
「…………」 
「おい、無視すんなよ、おめえ」 
「…………」 
 トラップの言葉に、わたしは無言。 
 だってだって! 最初からわたしのこと知ってて、それでからかってたんだよ!? 
 一言言えばいいじゃない! そこが自分の家だって! 
 もう知らないんだから。 
 ぷいっと顔を背けて、荷物をほどく。トラップが部屋にいるのは、「荷物の整理を手伝ってやれ」ってお母さんに命令されたからなんだけど。 
 正直、手伝ってもらうことなんかほとんど無い。荷物はそんなに多くないし、それに……あんまり見られたくないし。 
 両親の思い出がつまったアルバム、服。そんなものを手に取るたびに、いまだに涙がこぼれそうになるのに気づいたから…… 
「おい」 
「……いい、から。別に手伝ってもらうようなことは無いから。……あっち行ってて」 
 わたしの言葉に、トラップは舌打ち一つ残して、部屋から出て行った。 
 わたしにあてがわれたのは、二階の八畳くらいの広さの部屋。 
 ちなみに隣がトラップの部屋で、ベランダで繋がってるのが気になると言えば気になるんだけど。 
 失礼ながら、部屋数が無数にある豪邸ってわけじゃないもんね。一人部屋をあてがってくれただけでも、感謝しないと。 
 そろそろ外が暗くなりかけてきたので、カーテンをひいて荷物の整理を再開する。 
 机や本棚は、元の家から運んできたものなんだけど。 
 そこに物をしまっていくたび、鼻の奥が、つんと痛くなるのを感じた。 
  
 夕食は豪華でにぎやかだった。トラップ本人とお父さんとお母さん、そしてわたしの四人で囲む夕食。 
 最近は、ずっと一人か、せいぜいジョシュアと二人で食べることが多かったから。こんなに楽しい夕食は久しぶりで、わたしは心から笑うことができた。 
 トラップのお母さんはすごく料理が上手で、わたしが教えて欲しいと頼むと、快く引き受けてくれたんだ。 
 後片付けを手伝って、お風呂に入って、ちょっと今でテレビを見て。 
 部屋に戻ったのは、10時くらい。 
 これから、授業の予習でもして寝ればちょうどいい時間。明日はここから学校に通うんだしね。少し余裕を持って起きておきたい。 
 だけど…… 
 ベッドに腰掛けると、どうしようもなく寂しさが募ってきた。 
 さっきまでにぎやかだったから、余計に一人の寂しさが際立ったと思うんだけど。 
 机に飾ってある両親の写真を見て、それまで我慢を重ねていた限界が……来た。 
 お父さん、お母さん…… 
 ぼろぼろと涙がこぼれる。泣いちゃいけないってわかってるんだけど、どうしても止まらない。 
 トラップの家では、わたしを大事にしてくれてる。わたし、幸せだよ。幸せだけど…… 
 ひっく、ひっくとしゃくりあげるような声をあげて、わたしはどれくらい泣いていたんだろう? 
 その音に気づいたのは……多分、大分経ってから。 
 コンコン 
「……え?」 
 響いたのは、ノックの音。それも、ドアじゃなくて……ベランダに出る、窓から。 
 シャッ、とカーテンを開ける。そこに立っていたのは…… 
「と、トラップ!?」 
 パジャマのズボンにTシャツというラフな格好をしたトラップが、窓の外からじーっとこっちを見ていた。 
 洗いたての下ろした赤毛が、何だかとても新鮮に見える。 
 な、何だろ? 何かドキドキしてきたぞ。……風邪でもひいたかな? 
「な、何か用?」 
 窓を開けると、トラップは「別にー」などと言いながら、遠慮なく部屋に入ってきた。 
 ふっとシャンプーの香りが漂ってきて、胸のドキドキがますます大きくなる。 
 そのまま、トラップはわたしのベッドにどかっと腰掛けた。 
「トラップ……?」 
「……泣いてたんか?」 
 どきり、とするのを、隠せたかどうか。 
 そんなことしたって、わたしの目は、多分真っ赤に腫れてるだろうから。泣いてたことは一目瞭然だと思うんだけど。 
「な、泣いてなんか……」 
「嘘つくなっつーの。俺の部屋にまで聞こえてきたぜ。もううるせえの何の」 
「嘘っ!?」 
 や、やだやだ恥ずかしい!! 大きな声を出さないように注意してたのに!? 
 わたしは思わず慌ててしまったけれど。 
「う・そ」 
 トラップの目は、いたずらっこみたいに輝いて……ぺろっと舌まで出して言われてしまった。 
 きいいいー! 一体何なのよー!! 
「もう! か、からかわないでよ。一体何しに来たの!?」 
「いんや。ただ……」 
 そこで、ふと彼は口調を改めた。 
 酷く軽薄な口調から、真面目な口調へ。 
「寂しいんじゃねえかと思って」 
 そう言って、わたしを見つめる目は……とても、とても真面目だった。 
「トラップ……?」 
「いーんだぜ。無理しなくたって。泣きたいときは、泣けばいいんじゃねえ? ……いくらでも、貸してやんぜ? 胸でも肩でも」 
 その言葉に。 
 わたしの胸は、何だかいっぱいになってしまって。 
 気がついたら、わたしはトラップの首にしがみついて、わんわんと大声で泣いていた。 
 かなり長い間。我に返ったとき、時間を見て思わず驚くくらい長い時間。 
 その間、ずっとトラップは、わたしの頭や背中を撫でてくれて…… 
 そうして初めて、わたしは心から、この家に来てよかった、と思えたのだった。 
  
 で、翌朝。 
 目覚めたのは、いつもより30分ばかり早い時間(ちなみに、昨夜、トラップはちゃんと自室に戻って行った)。 
 ちょっと目が腫れてるけど、そんなに目立つほどじゃないことを確認して、セーラー服に着替えて髪をとかす。 
「おはよございます!」 
 わたしがそう挨拶をして食堂に下りていくと…… 
 何故か、そこには、おじさんの姿もおばさんの姿もなく。 
 ただ、ダイニングテーブルで、トラップがラップのかけられた朝食を前に、コーヒーをすすっていた。 
 その彼が身に包んでいるのは、わたしと同じ高校の制服。昨日のうちにちゃんと上着を返しておいたので、上下とも学生服だったけど、前ボタンは上の二つが外されていて、すごくラフな印象。 
 そう、初めて出会ったときと同じ着こなし方をしていた。まあそれはともかくとして…… 
「あの、トラップだけ? おじさんとおばさんは?」 
「もー出かけた」 
 わたしの言葉に、トラップは簡潔に答えて、マグカップを渡してくれる。 
 その中には、苦そうなコーヒーが入っていた。……できればお砂糖とミルクも入れて欲しいなあ。 
「そうなんだ。いつもこんなに朝早いの? 帰ってくるのは何時くらい?」 
「んあ? おめえ、聞いてねえの?」 
「……え?」 
 何気なく聞いた質問に、トラップは、意地の悪い笑みを浮かべて言った。 
「俺の親ってさ、職業麻薬取締官なんだよね。その事件がらみで、おめえんとこの親父と知り合ったらしいんだけど」 
「う、うん……?」 
 麻薬取締官!? な、何か意外…… 
「だあら、仕事がらみで、一年のうちほとんどは外国をとびまわってんだよね。昨日はおめえが来るからって、無理してスケジュール空けたんだとよ。今朝一番の飛行機で、どこだかの国にとんでったぜ」 
「……え?」 
 えと。それって……? 
 事態を理解して、わたしの顔に段々と血が上ってくる。 
「そ。つまり、当分の間、この家には俺とおめえ二人だけ、ってことになんのかなあ?」 
 にやにや笑うトラップの言葉に、わたしはひっくり返りそうになった。 
 な、な、何ですってええ――!!? 
 お父さん、お母さん、ごめんなさい。親不孝でごめんなさい。 
 まだ高校生なのに、ど、ど、同棲生活突入だなんて!! 
 わたしは、あまりの事態にがっくりとテーブルに頭をたれてしまったけれど。トラップは、最初から知っていた余裕とでも言うのか。レンジに朝食のお皿を入れてあっためている。 
 ううう……何でえ? 何でこうなるの? 
 トラップのお父さん、お母さん……そんな大事なことは、もっと早くに言ってよー!! 
「あーあー。顔上げろよ、ったく。ってこたあ、多分おめえあれも知らねえだろ?」 
「……あれ、……って?」 
 ショックのあまり、わたしは顔を上げる気力もなかったんだけど。そんなわたしの前に、トラップはあったまった朝食を並べながら言った。 
「やっぱ知らねえよなあ。あのさ、いくら何でも年頃の男女を一つ屋根の下に残して……なんて、常識ある大人がするわけねえだろ?」 
「う、うん?」 
 改めてそんな言い方されると、何か余計に恥ずかしいんですけど…… 
 ちらり、と上目遣いにトラップを見上げると、彼は何だか、妙に嬉しそうにわたしを見ていた。 
 ううっ。一体何? この上何があるのお? 
「ま、飯でも食えって。あのな、俺もつい最近知ったんだけどよ。実は俺達……」 
「うん?」 
「婚約してんだってさ」 
 がたがたがたがたっ!! 
 言われた言葉の意味を即座に理解して、わたしは椅子ごとひっくり返ってしまった。 
 な、な、何ですとー!? 
 そんなわたしを見つめるトラップの目は、どこまでも意地悪。 
 こ、こ、こ、婚約うううう? わたしと、トラップが!? 
 一体何の話よ、それは!! 
「まー落ち着けって。いやさ、よくある話でよ。親同士が仲がいいもんだから、その子供同士をくっつけちまおうっていう、親同士での勝手な約束。まー昔風に言やあ、許婚、ってとこか?」 
「…………」 
 お父さん。生まれて初めてあなたを恨む娘を許してください。 
 な、何を勝手な約束してるのよー!! 
「ま、っつーわけで許婚同士なんだからいいかってことでこの事態に……おい、パステル? パステル?」 
 トラップの呼びかけが遠くに聞こえる中。 
 わたしは、現実逃避に走っていたのだった…… 
  
 で、その後。 
 学校に遅刻する、とトラップにひきずられるようにして、わたしは電車に乗っていた。 
 ま、助かったといえば助かったんだけどね。どうにか気をそらすことができて。 
 気にしちゃいけない。そう、親同士が勝手に決めたことであって、本人同士が了承してないんだもん。 
 わたしとトラップは、ただ同居してるだけ! ただそれだけ! なんだから。 
 家から学校まで、電車に乗る時間も含めて40分くらい。以前に比べると大分長くなった通学時間。 
 そんな通学時間も、トラップと一緒だと、やけに賑やかだから短く感じるのが不思議なんだけど…… 
 その後、さらに意外な事実が判明する。もっとも、さっき知った事実に比べれば、全然何ていうことのないことだったけどね。 
 わたしとトラップが学校についたときには、もう予鈴が鳴ってしまっていた。慌てて二人で階段を駆け上がる。 
 昨日から変わった、新しい教室、二年A組。わたしはそこに向かおうとして…… 
「あれ? そういえば、トラップは何組なの?」 
「あん?」 
 並んで走りながら、彼はくいっと顎で指し示した。 
 二年A組の教室を。 
 ……え? 
 事態を理解しかけたその瞬間、本鈴が鳴り響く。鳴り始めると同時、わたしとトラップは、教室にとびこんでいた。 
 ……同じ教室に。 
「すいません、遅れました!!」 
 わたしが叫ぶと、既に帳簿を持って教壇に立っていたギア先生が、ふっと顔を上げる。 
 並んで教室に入ってきたわたし達に、先生も、クラスメートも、驚いてるみたいだったけど…… 
「……パステル・G・キング、それとステア・ブーツ。早く席につきなさい」 
「へーい」 
「はい……え?」 
 ステア・ブーツ? 
 誰? と聞こうとする前に、トラップはずかずかと歩いて行って…… 
 そして、席についた。わたしの隣の席に。 
 ……え? 
「今回だけは、遅刻扱いにしないでおいてやる」 
「へーへー。ありがとーごぜえます」 
 ギア先生は、トラップをにらむような目で見ていて、トラップはトラップで、そんなギア先生に妙に挑戦的で…… 
 異様な雰囲気に教室がざわつく中。 
 わたしは、何だか、平穏な学園生活が遠のいていくような錯覚に、陥っていた。 
  
 親が麻薬取締官という危険な職業についているので、小さい頃から誘拐などの危険にさらされてきたため、「ステア・ブーツ」という本名を名乗らなくなった。 
 トラップからその話を聞いたのは、授業が終わった放課後。 
 そんなことを話しているとき。 
「パステル、今日は……」 
 声をかけてくるマリーナとリタ。それに答えようとしたときトラップの手が、わたしの肩を抱いた。 
「わりい。今日こいつは俺と一緒に帰ることになってんだよな。またにしてくんねえ?」 
 はあ?? 
 わたしは思わず目を点にしてしまったけれど。マリーナとリタはもっと驚いた様子だった。 
「ぱ、パステル……あなた、いつのまに……」 
「リタ、野暮なこと言わないの。じゃ……ブーツ君?」 
「トラップでいいぜ」 
「そ。じゃあトラップ、パステルのことよろしくね」 
「おう」 
 なーんて、わたしを無視して、会話は進んでいて…… 
「ど、どういうつもりよ!?」 
「あん? んじゃーおめえ、一人で俺の家まで帰れんの?」 
 ぐっ 
 抗議の言葉は、あっさりと封じられてしまった。 
 くっ、悔しいっ……早く道を覚えないと…… 
「ほれほれ、とっとと帰るぜ。なあ、おめえ料理できんだろ?」 
「え? うん、まあ……」 
「んじゃ、飯よろしく頼むぜ」 
「……わかったわよ」 
 はあ、しょうがないか。 
 わたしには、もう他に帰るところがないんだもんね…… 
 ため息つきつき、トラップと肩を並べて歩いてたんだけど。 
 ふっと視線を感じた。 
 ぞくり、と背筋に寒気が走る。 
「どーした?」 
 のん気な声をあげるトラップの袖を、ぎゅっとつかむ。 
 トラップは、不審そうに眉根を寄せていたけれど…… 
 くるっ、と振り返った。その瞬間、彼の腕が、わたしの肩を抱く。 
 普段なら何するの、とでも言って振り払うところだけど、今は、その腕が頼もしく感じて、わたしはされるがままになっていた。 
 視界の端にうつるギア先生の冷たい眼差しを、あえて気にしないふりをして……

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