恋人同士っていうのは、何でも話し合える関係だと思ってた。 
 好きな相手だからこそ、相手の全てを知りたいと思った。 
 悩んでいるときに支えあったり、苦しいときに頼ったり、そんな関係なんじゃないか、と思っていた。 
 だけど、それはわたしの勝手な思い込みで、相手もそう考えているとは限らない。 
 そんな簡単なことにすら気づかないくらい、相手に夢中になっている。それが恋なんじゃないだろうか。 
 だから、いざ相手がわたしに対して秘密を持っていると知ったとき。 
 そのとき、わたしがどうするか。 
 それが、今後の二人の関係を変えていくんじゃないだろうか…… 
 いい方に変わるか、悪い方に変わるか。 
 それは、全てわたし次第じゃないんだろうか…… 
  
「では、各クラスの委員さん、お願いします。皆さんも大変でしょうが、体育祭本番まで後一週間です。最後までがんばりましょう」 
 クレイの言葉に、その場にいた全員が、がたがたと椅子を鳴らして立ち上がる。 
 今日は、全クラスの体育祭実行委員プラスわたし達生徒会役員で開かれる、週に一回のミーティングの日。 
 体育祭の準備が始まってから今日まで、毎週一回、かかさず行われてきたんだけど。 
 とうとう本番まで後一週間。今日からは、多分休む暇も無いくらい忙しくなる。 
 だからこそ、委員さん達の顔は全員真剣だし、クレイはいつもより話し方に熱が入っていた。 
 そんな大変な時期だというのに…… 
 はあっ。 
 ため息しか漏れない。みんなに申し訳なくて。 
 チラリ、と隣に目を向ければ、何を考えているのかわからない完全な無表情で手元の書類に目を落としているトラップの姿がある。 
 トラップ。本名ステア・ブーツ。 
 成績優秀、運動神経抜群、生徒会副会長にしてそれなりにルックスもいいという、欠けたところの無い完璧な人……と思われている。 
 そして、わたしの、恋人でもある人。 
 ……の、はずなのに。 
 はああっ…… 
「パステル、どうした?」 
「え?」 
 再び大きなため息をついていると、クレイが心配そうに目を向けてきた。 
「どうした? 元気が無いみたいだけど……」 
「う、ううん。何でも無いっ……ちょ、ちょっと疲れてるだけ」 
「そうか。最近ハードだもんなあ……悪い、もうしばらくの辛抱だから」 
「そ、そんなあ。何でクレイが謝るの? 生徒会役員なんだもん、しょうがないじゃない。それに、ここまで来たら成功させたいし!」 
 それは、本音だった。この一ヶ月くらい、寝る間もないくらい仕事に追われていて、すごくすごく大変だったけど。でも、それは同時に、「ここまで来たら、絶対成功させるぞー!」っていう充実感も、味あわせてくれて。 
 わたしは今まで、こんな責任感を問われる役職についたことがなかったから。それは、すごく新鮮な経験だった。 
 だから、生徒会役員になったこと。体育祭を前にすごく忙しいこと。それ自体は、ちっとも嫌じゃない。 
 だけど…… 
「パステル?」 
「な、何でもない。あ、ほら。もうこんな時間だし……早く帰ろう。遅くなっちゃうよ?」 
「あ、ああ……」 
 釈然としない様子のクレイを強引に説き伏せて、立ち上がる。 
 でも、実際わたしの言葉は本当で。 
 委員会はいつも放課後に行われているんだけど。最初は一時間くらいで終わっていた話し合いが、体育祭が近づくにつれて、どんどん長くなっていった。 
 まだ日はそんなに短くないはずなのに。今も、窓の外はもう暗くなっている。 
 それに、まだまだ仕事が終わったわけじゃないしね。家に帰った後も、わたし達には色んな書類のチェックがある。話している時間も惜しい状態なんだ。 
 立ち上がるわたしに、クレイはなおも何か言いたそうだったけれど。ひきつった笑顔を返したら、それ以上何も言おうとしなかった。 
 ううっ、ごめん。ごめんね、クレイ。 
 こんなこと、クレイに相談するようなことじゃないから…… 
 書類をまとめて、クレイ、トラップも立ち上がる。以前なら、この後三人でご飯を食べに行ったりもしたんだけど。この時期になるとそんな余裕すらなくなってしまって、そのまま家に真っ直ぐに帰っている。 
 そして、わたしとトラップは同じ家に住んでいるから。必然的に、クレイと別れて二人だけで帰ることになる、んだけど…… 
 気が、重い。 
 視線を向けても、トラップはわたしの方を見ようともしない。 
 わたしとトラップの喧嘩なんて、珍しいことじゃない。だけど、いつだって数日以内にはどっちかが折れて、そして元の関係に戻っていた。 
 それなのに。今回は、もう二週間以上もまともに話していない。もちろん、用事があるときは別だけど、そんなときでも必要最小限のことしか話さない。 
 同じ家に住んでいるのに……ううん、だからこそ余計に、この状態は……辛い。 
 はああ…… 
 だからって、わたしにできるのはため息をつくことだけ。謝りたくても、どう謝ればいいのかわからない。わたしは、何か彼に間違ったことを言ったんだろうか? 
 トラップのことが好きだから。何か悩んでいるのなら話を聞いてあげたい。こんな大変な目にあってるんだから、わたしを巻き込んだ理由を知りたい。それって、そんなにおかしいことだろうか? 
 悪いと思っていないのに口先だけで謝るなんて嫌だ。だけど、他に方法が思いつかない。 
 ……どうすれば、いいんだろう…… 
「パステル、もう鍵をかけたいんだけど……」 
「あっ、ご、ごめんっ!!」 
 そんなことを悩んでいるうちに、クレイ達は既に部屋の外に出てしまっていた。どうやら、わたしはまたしてもボーッとしていたらしい。 
 最近いつもそう。こうやってトラップとのことで悩んでばっかりで、ついつい大事な話を聞き逃したり、仕事に身が入らなかったり。こんなのじゃ、真剣に仕事に取り組んでいる人に申し訳ない。 
 わたしが真っ赤になって外に出ると、クレイは心配そうな目を向けてくれたけど、トラップは相変わらずの無表情だった。 
 チラリとわたしの方を見ただけで、何も言おうとしない……一体、何を考えているんだろう? 
「じゃ、帰るか」 
 クレイの言葉に、三人で歩き出したときだった。 
「あのっ!」 
 突然、背後から声がかかる。 
「えっ?」 
 くるっと振り向くと、そこに一人の女の子が立っていた。 
 すっごく鮮やかな金髪を縦ロールにして、制服の上からでもわかる抜群のプロポーションが魅力的な、すっごく可愛い女の子。 
 あれ? ええっと、彼女は確か…… 
「君は……二年E組の実行委員さん?」 
「はい。わたくし、マックスと申しますわ。あの、今、よろしいかしら?」 
 名乗られて思い出す。 
 そうそう、マックスさん。数多くいる実行委員さんの中でも、一人異彩を放っていた人だ。 
 どういう風にって言うと…… 
「今? ええっと……」 
「用が無いんでしたら、夕食に付き合って欲しいんですの。もちろん、わたくしが代金をお支払いいたしますわ。いかがでしょう?」 
「い、いかがでしょうって……」 
「あら! 何か御用でもおありでしょうか?」 
「い、いえ、無いですけど」 
 マックスが勢い良く詰め寄ってきて、思わず頷いてしまう。 
 そう! 彼女って、決して人は悪くないんだけど……何て言うんだろ? すごーく強引っていうか。 
 話し方を聞いてる限り、すっごくいいところのお嬢様みたいなんだけど。そのせいなのかなあ? すごくマイペースな人なんだよね。 
 でも、「これをお願いね」って言ったことはちゃんとやり遂げてくれる人だから。頼りにはなるんだけど。 
「夕食、ねえ……俺達を?」 
「はい! ぜひお話ししたいことがあるんですの。あの……」 
 クレイの言葉に、マックスがもじもじしながら、一人黙って事態を静観していたトラップに目を向けたときだった。 
「面倒くせえ。俺はパス。先帰ってるわ」 
「え? お、おい、トラップ!?」 
 止める暇もなく、トラップは一人でさっさと歩いていってしまった。 
 いつもなら、「おごり」と聞けばとんでくるはずなのに。帰るにしたって、そういうときは絶対にわたしも一緒にひっぱっていくはずなのに。 
 ……やっぱり、怒ってるんだ…… 
「パステル……あいつ、どうしたんだ? 何かあったのか?」 
「……何でも、ない」 
 信じたわけじゃないだろうけど。わたしがそう言って首を振ると、クレイはそれ以上はしつこく聞こうとしなかった。ただひたすら、心配そうな目を向けてくるだけ。 
 そんなわたし達の様子を交互に見て、マックスは首を傾げていたけれど。トラップの姿が見えなくなってから、彼女はぐいっとわたしの手を引っぱった。 
「あなた、生徒会の書記、パステル・G・キングさんですわね? パステル、とお呼びしてもよろしいでしょうか? わたくしのこともマックスと呼んでくださいな」 
「え? う、うん、いいよ。よろしくね」 
「こちらこそ! わたくし、ずーっとパステルとお話ししたいと思ってましたのよ? さあ、こちらにどうぞ」 
 そう言うと、彼女はわたしの手を引いて、すたすたと歩き出した。 
 クレイは、どうしようか迷ったみたいだけど。結局わたし達の方についてきた。 
 何だろう。すっごく強引なんだけど。 
 何だか憎めない。マックスには、そんな不思議な魅力があった。 
  
 マックスが連れてきてくれたのは、すっごく高級な料亭だった。 
 クレイだって結構いいところのお坊ちゃんなはずなんだけど……その彼が目を丸くしていたくらいに立派なところ。 
 そこに、マックスは臆する様子もなく堂々と歩いていった。 
 さらに驚いたことに、彼女を見た瞬間、高そうな着物を身につけた従業員の人達が、一斉に頭を下げたのよ! 
 どうやら、彼女はこの店の常連さんみたい……そうなんだろうな、とは思ってたんだけど。やっぱりすごくいいところのお嬢さんなんだ…… 
「パステル、クレイさん。こちらに来てくださいます?」 
 マックスに案内されたのは、ゆったりとした個室。 
 他のお客さんの声が一切聞こえなくて、プライベートな話でも周りを気にせず話せそうな、そんな場所だった。 
 出されたメニューに書かれていた料理も、何と言えばいいのか……庶民のわたしには聞いたこともないような料理ばかりで、結局全部マックスにお任せしてしまう。 
 ううっ、すごーくいいところだとは思うけど……落ちつかない。 
「あの、マックス……さん? 結局、俺達に話って、何だい?」 
 そう思ったのはわたしだけじゃないらしい。クレイは、正座した足を窮屈そうに組み替えながら、ひきつった笑顔で声をかけた。 
 そうそう。彼女、わたし達に話があるって言ってたよね……一体、何の用なんだろう? 
 E組さんに、何か問題でも起きたのかな? 
「まあ、失礼しましたわ。わたくしったら、理由も話さず突然呼び出して。ごめんなさいね。あの方がいらっしゃらないと聞いて、ショックだったものですから動揺していたみたい」 
「あの方??」 
 わたしとクレイの顔に、?マークが浮かぶ。 
 そう聞くと、マックスは、ポーッと顔を赤らめて言った。 
「あの……副会長の方ですわ。トラップさん、とおっしゃったかしら?」 
「……は?」 
「わたくし、トラップさんのことが好きなんですの! あの凛々しいお姿、堂々とした態度、あんな素敵な殿方を見たのは初めてですわ。実行委員を引き受けたのも、これを機会に少しでも仲良くなりたいと思ったからなんですのよ!」 
 シーン、と場が水を打ったように静まり返った。 
 クレイは困ったような顔でわたしとマックスを見比べていて。わたしは…… 
 何だろう。正直に言えば、ちょっと唖然としてしまっていた。 
 トラップはもてる。まあもてる要素が揃ってる人だから、それは当たり前なんだけど。 
 でも、彼はわたしと付き合ってることを隠そうともしないし、軽く見えるけど本気で怒らせるとかなり怖い人だから。わたしと知り合う前はわからないけど、今は彼に言い寄ろうとする女の子はいない。 
 付き合い始めた当初は、実はわたし、影で結構色んな嫌がらせを受けてたんだけどね。気にしてもしょうがない! って堂々としていたら、やがてそれも減っていった。 
 だから、こんなにあっけらかんと「好きだ!」っていう女の子と会ったのは久々で。 
 ……うーん、ど、どうすればいいんだろう? 
「あの、マックス……?」 
「ですから、パステルとクレイさんに、わたくしのことをトラップさんに紹介して欲しいんですの。何も、すぐに付き合ってくれ、などと言うつもりはございませんわ。まずはお友達から。お願いしてもよろしいかしら?」 
「…………」 
 このとき、わたしはどうして、「ごめん」と言えなかったんだろう。 
 「ごめん、それはできない、トラップはわたしの恋人だから」と……そう言わなかったんだろう? 
 何故か、言えなかった。今の状態で、わたしは彼の恋人だと、胸を張って言えるんだろうか。そう考えたら、口に出せなかった。 
「パステル……」 
「わかった」 
 クレイが何か言おうとするのを遮って、わたしは頷いていた。 
 心の動揺を悟られないように、精一杯明るい笑顔を取り繕って。 
「わかった。トラップに、話してみるよ。大丈夫だよ! マックスみたいに魅力的な女の子だもん。トラップも、絶対気に入るって」 
 本当に、そう思う。 
 美人でスタイルもいいし、強引だけど何故か憎めない。不思議な雰囲気で、それが十分魅力になっている、マックスはそんな女の子。 
 これと言って取り得もないわたしとは、違う。 
 ……もしかしたら、本当にトラップは、彼女を選ぶかもしれない。 
 何となく、そんなことをぼんやりと考えていた。 
  
 食事はすごく美味しかったし、食べ終わった後、マックスが電話をかけただけで、物凄く大型のリムジンがとんできて、わたしとクレイをそれぞれの家まで送ってくれた。 
「パステルと仲良くなれてよかったですわ。またお話ししてくださいね」 
「うん! 今日はどうもありがとう!」 
 家に到着したとき、マックスは凄く残念そうに別れを惜しんでくれて、いつまでも手を振ってくれていた。 
 本当に、いい子だと思う。高級料亭での食事なんて初めてだから、すごーく緊張していたわたしだけど。マックスは作法とかそんなのは全然気にしなくてもいいと言ってくれて、普通の女の子と同じように、どうでもいいようなことを色々と話してくれた。 
 彼女と喋っているうちに、緊張していたことなんか忘れちゃったもんね。いいお友達になれそうだと、本当に思った。 
 ……だけど…… 
 はああっ、と盛大なため息をついて、玄関をくぐる。 
 だけど、彼女はトラップのことが好きなんだよね。そして、わたし(とクレイ)に、協力して欲しい、って思ってるんだよね。 
 ……何て言えばいいんだろう。 
 いつもの癖で、部屋にカバンを置いた後、台所に向かう。 
 そう言えば、トラップは、今日の夕食をどうしたんだろう? まあ駅前にいくらでもお店はあるし。彼も料理はそれなりの腕前を持ってるし。心配するようなことじゃないんだけど。 
 台所を覗くと、そこには誰もいなかった。食器の類も使った様子は無いから、やっぱりどこかに食べに行ったみたい。 
 冷蔵庫を覗き込んで、明日の朝食になりそうなものが残っているかをチェックする。 
 うーん、明日は卵と牛乳、買いにいかなくちゃ。和食のメニューって手間がかかるしなあ…… 
 そんなことを考えながら、作り置きのアイスティに手を伸ばしたときだった。 
「……おい」 
 びくんっ 
 急に声をかけられて、思わずびんを取り落としそうになる。 
 振り向くと、そこに立っていたのは……トラップ。 
 お風呂上りらしい。パジャマがわりのTシャツにハーフパンツ、おろした赤毛をわしゃわしゃとタオルで拭きながら、こっちをジーッと眺めている。 
「と、トラップ……」 
「遅かったな」 
 余計なことは一切言わず、トラップはずかずかと台所に入ってきた。わたしを押しのけるようにして、冷蔵庫を開ける。 
 その態度は、やっぱり冷たい。悲しくなるくらいに。 
「うん……夕食、食べてきたから。あの、マックスって、すごくいい子で。話してると時間を忘れちゃって……」 
「ふーん」 
 わたしがしどろもどろに言うと、トラップは全く興味が無い、という表情で、牛乳を取り出した。 
 あ、明日の牛乳がなくなっちゃう…… 
 見た瞬間そんなことを考えてしまう自分が悲しい。 
「何で、誘われたわけ? おめえ、あの女と知り合いだったのか?」 
「……え?」 
 空っぽになったらしく握りつぶされた牛乳パックを見て、明日の朝食をどうしようか、と考えていると。 
 顔を上げた途端、トラップと目が合った。 
 言葉は冷たかったけど、表情は、いつもの彼のまま。その中に、聞きたいけど聞き出せない。でも聞きたい、そんな表情が見え隠れしている。 
 ……気にしてくれてる? 
「あの……ね。彼女……」 
 何て言えばいいんだろう。嘘はつきたくないし、マックスのあの様子だと、そのうち本人にアタックをかける可能性だって十分にある。 
 後でばれるくらいなら、今、正直に話した方が……いいよね? 
「あのね、トラップ。マックス、あなたのことが好きなんだって」 
「…………」 
 そう言っても、トラップの表情はぴくりとも動かなかった。 
 穴が開くんじゃないか、というくらい、ジーッとわたしのことを見つめている。 
「だから……仲良くなりたいから、って。それで……」 
「おめえは」 
「え?」 
「おめえは、それを受けたのかよ?」 
 ふと、冷たい気配がした。 
 表情は何一つ変わっていないのに。わたしを凄く冷たい目で見ているような、そんな気がした。 
「受けた、って……」 
「俺のことを好き? 協力して欲しい? そんな女の言うことを、おめえはほいほい受けたのかよ? 家まで送り届けてもらって、えらく仲良さそうに喋ってたみてえだけど」 
「み、見てたの!?」 
 あ、あんたお風呂入ってたんじゃなかったの!? 嘘、どこから見てたんだろう……? 
 そんな疑問が浮かんだけど。聞いても答えてくれそうな気配はなかった。 
 トラップの雰囲気はどんどん冷たくなっていって……そして。 
 ダンッ、と音を立てて、牛乳の入ったグラスをテーブルに置いた。そして、そのまま、わたしの肩をつかんできた。 
 ぎりっ、と骨にまで食い込みそうな力。痛さのあまり、顔をしかめてしまう。 
「トラップっ……」 
「おめえ、一体どういうつもりなんだよ!? そこまで、俺のことが……」 
「ち、ちが……」 
 違う。トラップが何を考えているのか、正確にわかるわけじゃないけど。 
 でも、違う。彼が考えているような……わたしが彼を嫌いになった、とか。興味がなくなった、とか。そんなことは全然無い。 
「違うっ、わたしは、ただ……」 
「何がどう違うって……」 
 ぐっ 
 凄い握力だった。トラップの本気の力。本気で怒ってる。それがはっきりとわかる……そんな力。 
 痛さに涙がにじんできた。何か言わなくちゃ、とわかってるのに。言葉がうまく出ない。 
「わたしはっ……」 
 ボロボロと涙が溢れてくる。それを見て、トラップは…… 
 ふっ、と肩が楽になった。 
 じーん、という、しびれにも似たような熱だけが、残される。 
「……わりい」 
「…………」 
「強制するようなことじゃ、ねえよな……わりい」 
 ふいっ、と身を翻して、トラップは台所を出て行った。 
 一人残されて、ぺたん、と床に座り込む。 
 ……どうして。 
 どうして、こんなことになるんだろう。何で、わたしは自分の思っていることすら満足に伝えられないんだろう? 
 自信が無かった。トラップのことが好きだから、彼のことを本気で思っているからこそ。何も理解できないわたしなんかが恋人と名乗っていいのか、と……自信が無かった。 
 そう言いたかったのに。マックスにだって、本当は胸を張って「ごめん、それはできない。トラップはわたしの恋人だから」と言ってしまいたかったのに。 
 何で、わたしは……いつもいつも…… 
 溢れる涙は、いつまで経っても止まりそうになかった。 
  
 その日以来、トラップの態度はますます頑なになった。 
 声をかけようという気になれない。冷たく拒絶されるのが怖くて、顔を見たら黙ってうつむいてしまう。 
 同じ家に住んでいるからこそ、これは……辛い。 
 わたしが作ったご飯もお弁当も綺麗に食べてくれるし、体育祭の仕事だって、わからないと言えばちゃんと教えてくれるけど。 
 その態度はとてもよそよそしくて、あのいたずらっこみたいな表情を全く見れなくなって。 
 そして何より。あのトラップが、いくら二人っきりになっても、ちっともわたしに迫ってこようとしない。 
 これだけでもう、彼が本気で怒っているんだということが、びしばしと伝わってきて。 
 とにかく……辛かった。 
 そんなわたし達の様子にクレイも、それに他の実行委員の人達も気づかないはずはないんだけど。触らぬ神にたたりなしというか、忙しすぎて構っている暇も無い、というか。 
 とにかく、みんな見て見ぬ振りをしてくれているみたいで。それはすごくありがたかった。 
 ただ、マックスだけが 
「どうしたんですの、パステル? 元気が無いようですけれど。あの、トラップさんと喧嘩でもしたんですの?」 
 と、心配そうに声をかけてくれたけどね。まさか、あなたが原因なんです、とも言えないから。笑って「何でも無い」と答えるしかなかった。 
 マックスは悪くない。誰がトラップを好きになろうと、それは自由だもん。悪いとすれば、はっきり本当のことを言えなかったわたしの方。 
 それは、わかっているんだけど……わかっていたって。できるかどうかは別問題。 
 誰かに相談したところで。例えば、クレイあたりにいさめてくれるように頼んだところで。 
 あのトラップのことだもん。余計に頑なになるに決まってる。いつだって、「自分のことは自分で何とかしろ、甘えるな」って言ってる人だから。 
 そんなわけで、わたしは誰にも頼ることもできず、かと言って自分ではどうすることもできない、という八方塞がりな状況に陥ってしまっていた。 
 そして、結局どうしたかといえば。体育祭の準備に没頭することで、今の辛い状況を忘れることにした。 
 まあ、実際に、本番が近づくにつれて真夜中に近い時間まで学校に残る羽目になったり、と。忙しいことは事実なんだけど。 
  
 そんな状態のまま、体育祭本番の日は、やってきた…… 
  
 本番当日、わたし達生徒会役員と実行委員は、一般生徒よりずっと早く学校に集合して、朝から色んな準備に狩りだされることになっていた。 
 そんなわけで、今朝の起床時刻は五時。 
「ううっ……眠いっ……」 
 昨日だって、夜の一時近くまで起きて最後の追い込みをかけてたからね。正直言って物凄く辛かったけど。 
 でも、しょうがない。今日さえ終われば、後は随分楽になる……はず。 
 思わず布団に倒れこみそうになるのを必死に我慢して、身体を起こす。 
 わたしがこれだけ早く起きたのは、お弁当作りのためもあるんだけどね。 
 体育祭だもん。やっぱり、いつもとは違う豪華なお弁当にしたいし。 
 カバンの中に体操服を詰め込んで、下に降りる。 
 今日のお弁当は海苔巻きにする予定。お母さんがまだ生きてた頃、こういう特別な日のお弁当っていったらいっつもこれを作ってくれたんだよね。 
 実は初挑戦だからうまくできるかどうかわからないんだけど。……トラップに食べてもらいたいし。 
 無意識にそう考えているあたり、やっぱりわたしは、彼のことが好きなんだと。どれだけ気まずくなっても、冷たくされてもそれは絶対に変わらないんだと、実感してしまうけど。 
 考えたってしょうがない。とりあえず、今は目の前の問題をクリアしよう。 
 台所では、夜のうちにタイマーを入れておいた炊飯器が湯気をあげていた。 
 ほんわかと美味しそうに炊けたご飯を大きなボールにあけて、少し冷ます。その間に具の準備。 
 卵焼きを焼いたり、油揚げを煮付けたり、カニかまぼこをほぐしたり。 
 勝手がわからなくてちょっとあたふた手間取ってしまっているうちに、時間だけがどんどん過ぎていく。 
 あああ、嘘うそっ。海苔巻きって、意外と難しい!? う、うまく切れないっ…… 
 そんなこんなで、わたしがバタバタしていると。 
 どたどたどたっ!! 
 階段の方から、盛大な足音が響いてきた。 
 トラップ……? だよね。よかったあ、自力で起きてくれたんだ。 
 正直、今の状態で部屋まで起こしに行くのは辛いから、どうしようかと思ってたんだよね。 
 そんなことを考えながら、何とか形になった海苔巻きをお弁当箱に詰め込んでいると。 
「おいっ、パステルっ!」 
「きゃあ!?」 
 いきなり台所にとびこんできたトラップが一気に詰め寄ってきて、わたしは思わず身を引いてしまった。 
 な、何? 何なになにー!? 
「と、トラップ!?」 
「おめえ、あにやってんだ!? 遅刻だ遅刻!」 
「え?」 
 ふいっ、と時計を見上げれば。時刻は朝7時。 
 確かに焦らなきゃいけない時間だけど…… 
「しゅ、集合時間8時でしょ? あ、ごめん、すぐ朝ごはん用意するから……」 
「バカ、あに言ってんだおめえは!? 俺達は7時半集合! ほれ、さっさと着替えろっ!!」 
「え……?」 
 7時半……? 
 えと。あれ? そう言えば、一般生徒がいつもと同じ集合時間で、実行委員が8時集合で。 
 でも、わたし達生徒会役員は、その前に色々打ち合わせたいことがあるから、と…… 
「あ……ああああああ!!?」 
 わたしが声を上げている間に、トラップはお弁当箱をさっさとナプキンで包んで自分のカバンに放り込んでいた。ついでに、余った海苔巻きをぽいぽいと口に放り込んでいる。 
 ちょ、ちょっと待って、ちょっと待って! 
 後片付けを全部放り出して、慌てて部屋に駆け戻る。 
 あたふたと制服に着替えてカバンを持って階段を降りると、わたしの分のお弁当が宙をとんできた。 
「あ、危ないじゃないのっ!」 
「いいから急げっつーの!!」 
 文句なんか言う暇も無い。 
 ぐいっと手を引かれ、あれよあれよという間に頭にヘルメットを被せられる。 
 ま、まさかっ…… 
「と、トラップ!?」 
「しゃあねえだろ、間に合わねえんだから」 
「だ、だからってっ……」 
 ひょいっ、と肩に担がれて、ぼすんと乗せられたのは……随分久しぶりな気がするバイクの後部座席。 
 響き渡るエンジン音。慌ててトラップのウエストにしがみつくと、近所迷惑な騒音と共にバイクは走り出していた。 
 ……久しぶり、だなあ…… 
 ちょっと冷たい朝の空気がびしばしとわたしの身体を叩いていく中、ぎゅっとトラップの制服を握り締める。 
 久しぶり、だった。トラップとあんな風に話せたのは。こんな風に、温もりを感じることができたのは。 
 例え、わたしがまたまたドジを踏んで迷惑をかけたのがきっかけだったとしても。きっと、これでまた彼の機嫌が悪くなるんだろうな、と思っても。 
 それでも、わたしは、嬉しかった。 
  
 朝早いせいか、渋滞にひっかかることもなく。どうにかこうにか、わたしとトラップは、7時半ギリギリに学校に到着した。 
 慌てて体操服に着替えて、グラウンドに走り出ると、クレイが苦笑を浮かべて立っていた。 
「ご、ごめん、クレイ……」 
「いいよいいよ。どうせ、トラップの奴が寝坊したんだろ? 大丈夫、打ち合わせっていったって、そんなに大したことじゃないから」 
 そう言ってクレイは優しく微笑んでくれたけど。 
 うう、ごめんなさい。わたしが集合時間を勘違いしていたんですう…… 
 心の中で頭を下げる。 
 それとほぼ同時、着替え終わったトラップが、男子更衣室の方から出てきた。 
 頭にはちまきを巻きながら、のんびりと歩いてくる。ちなみに、わたし達は赤組だから赤いはちまき。 
「わりい、待たせたな。んで? 打ち合わせって何だ?」 
「ああ。まず、最初の選手宣誓の挨拶なんだけどな……」 
 細かいことを決めているうちに、他の実行委員さん達も少しずつ集まってきてくれた。 
 マックスが、わたしに気づいて輝くような笑顔を浮かべて手を振ってくれた。 
 それに手を振り返していると、トラップにぎろっと睨まれてしまったけれど。 
 集まったみんなの顔は一様に緊張している。 
 ……泣いても笑っても、今日が本番。今まで準備したことを無駄にしないためにも…… 
「みんな揃ったか? よし。それじゃあ……今日も一日、よろしくお願いします」 
 クレイの言葉に、皆が一斉に「おー!」と叫んだ。 
 かくして、体育祭本番が、幕を開けた。 
  
 いやそれにしても。 
 今まで体育祭のときって、単純に競技に出て自分が出ないときは応援にまわって、美味しいお弁当を食べてマリーナ達と笑って勝ち負けに一喜一憂して、で終わっていたんだけど。 
 いざそれを運営する側にまわると……大変。 
「パステル! 点数計算頼む!」 
「怪我人出たから救護班まで案内してやってー!」 
「誰か点数ボード書き直しに行ってくれた?」 
「おい、次の競技の参加者の誘導アナウンス、終わったのかあ?」 
 誰がどの台詞を言っているのやら。 
 わたし達実行委員は、基本的に自分のクラスの待機場所じゃなくて本部テントの中で右往左往していたんだけど。 
 もちろん、委員達にもそれぞれ出場種目はあるしね。それもあって、誰がどの仕事を頼まれたのか、どの仕事が終わってないのか、誰も全部は把握しきれないっていうそんな状況。 
 でも、そんな中幸いだったのは、わたし達の努力が無にならず、体育祭は滞りなく進んでいるってことで。 
 わーきゃーと楽しそうな声援が飛び交う中、走り回るのは大変だったけれど。決して、嫌な気分じゃなかった。 
 そんなこんなで、やっと一息つけたのは朝の11時。 
 競技は、団体種目の組体操やマスゲームに入って、やっと少し座る暇ができた。 
「これが終わったら……次、お昼ご飯だっけ?」 
「そうだよ。お疲れ、パステル。今のうちに少し休んでおくといいよ」 
 わたしが用意された椅子に座り込むと、クレイが優しく笑ってスポーツドリンクを放り投げてくれた。 
 ちなみに、クレイは会長という立場に加えて、青組の応援団長まで任されているらしい。 
 ……自分の方がよっぽど大変だろうに。人に対する気遣いを忘れないって……いい人だよなあ、本当に。 
 そして、トラップは現在、足の速さをかわれてあっちこっちへの連絡係をまかされているため、今は本部テントにいない。多分、どこかの組の待機場所にまぎれこんでるはずなんだけど。 
 無意識にその姿を捜していると、ふっ、と誰かがわたしの顔を覗きこんできた。 
「パステル? 誰かを捜しているんですの?」 
「え? ……あ、ああ、マックス。ううん、別に」 
 相変わらずの鮮やかな金髪を、今日はきりっと上にまとめあげてリボンで結っている。 
 Tシャツにブルマーという体操服姿になると、そのスタイルの良さが際立って……何なんでしょう。目のやり場に困るというかため息が漏れるというか。 
 ううっ。わたしももう少し、胸が大きければなあ…… 
 はあっ、とため息をついていると、マックスがちょっと眉をひそめて、わたしの隣に腰かけた。 
「大丈夫ですの? 疲れているんじゃありません?」 
「ええ? いやいや、大丈夫大丈夫。そりゃ疲れてるけど。でも、やりがいがあるし、楽しいし」 
「そうですわよね。わたくしも、こんなに忙しかったのは初めてだったんですけれど。でも、こんなにわくわくしたのも初めてですわ! トラップさんと仲良くなりたいために引き受けた実行委員なんですけれど……わたくし、引き受けてよかったって、心から思っているんですのよ?」 
 そう言って、マックスはぱあっと微笑んだ。 
 その笑顔は、女の子のわたしから見てもすっごく魅力的。 
 ……いいなあ。マックスって。 
 彼女は、わたしから見れば「恋のライバル」という奴なんだけど。 
 どうしても嫌いになれないし憎めない。ちょっと強引なところはあるけれど、悪意なんか全然無いし…… 
「パステル?」 
「マックスって、いい子だよね」 
「え?」 
「わたしも、マックスみたいになれたらなあ」 
 自分の思いを、素直に伝えることができたら。素直に表情に出すことができたら。 
 そうしたら、トラップとのことだって、きっとこんなにこじれずに済んだのに。 
 そう思いながら言うと、マックスは、「とんでもない!」と首を振った。 
「わたくしの方こそ、パステルが羨ましいんですのよ? トラップさんは、パステルのことをとても信頼しているように見えますし」 
「……え?」 
 言われた言葉に耳を疑ってしまう。 
 し、信頼? ……トラップが? 
「ま、まさかあ。わたしなんか、いつも頼りないって怒られて……」 
「いいえ、そんなことありませんわ。トラップさんは、口では何と言おうとも、パステルのことを一番信頼しているように見えますわよ? ですからわたくし、とてもパステルが羨ましいんですの」 
 そう言って、マックスはふうっ、とため息をついた。 
「わたくしも、パステルみたいに……トラップさんに信頼してもらえるように、なれるかしら……」 
 彼女の表情は、とても寂しそうで……不安そうで。 
 何だか、胸がきゅーんっ、となってしまった、というか。 
 彼女の願いを叶えてあげたい、と本気で思ってしまった。 
 ああー……このへんが、わたしがお人よしだって言われる原因なんだろうなあ。 
 自分の恋人を好きだっていう女の子に、協力してどうするの! 
 理性ではそうわかっているんだけど。でも、何でだろう。せっかく仲良くなれたんだし。友達になれるように協力するくらいはいいんじゃないか、って。そう思ってしまった。 
「そんなことないよ。大丈夫、トラップも、マックスみたいな女の子に好かれたら、絶対悪い気はしないと思うし」 
「そうかしら? 本当にそう思います?」 
「うん! わたしにできることがあったら、何でも言ってね」 
 すがるようなマックスの目に負けて、思わずそう言うと。 
 マックスは、キラキラ目を輝かせながら、がしっ、とわたしの手を握った。 
「でしたら、パステル。わたくし、ぜひともパステルにお願いしたいことがありますの」 
「……え?」 
「後夜祭のときなんですけどね」 
 後夜祭というのは、ちなみに体育祭が終わった後に行われる、参加自由のお祭りのこと。 
 みんなでフォークダンスを踊ったり花火をしたり、そうして色んな団がごっちゃまぜになって、お互いの健闘を称えあうんだ。 
 もっとも、わたしは去年は参加しなかったから、どんなものかはよく知らないんだけどね。中等部の頃は、こんなの無かったし。 
 でも、今年は委員をやってる関係上、最後まで残らなきゃならない。 
「後夜祭?」 
「ええ。そのときなんですけどね、パステル。わたくし、あなたと役を交代して欲しいんですの」 
「役って?」 
「ええ。あら、パステルはご存じありませんの? 後夜祭のフォークダンスなんですけどね、そのとき……」 
 マックスが何かを言いかけたときだった。 
「役員! ちょっと集まってくれー! 点数計算がちょっとおかしい!!」 
 実行委員の誰かの言葉に、その場にいた全員が立ち上がる。 
 つられて、わたしとマックスも腰を上げた。 
「と、とにかくお願いしたいんですの! よろしいかしら?」 
「う、うん」 
 役割交代、と言われても。後夜祭でわたしが何の役をやるんだろう? そんな話してたっけ? 
 わからないけど。まあ別に、いいよね、多分。 
 わたしは曖昧に頷いて、集合場所へと走り出した。 
  
 昼食時間は一時間。 
 ちなみに、わたし達は昼食もそれぞれの組の待機場所じゃなくて、本部テントで食べている。 
 もちろんどこで食べたって自由なんだけど、いつ呼び出しがかかるかわからないしね。移動の手間を考えたら、最初から……というのが、全員の共通の思いだったみたい。 
 トラップはクレイと他数人の男の子と椅子を囲んでいる。普段教室では、わたし、マリーナ、リタとそれにトラップっていう組み合わせで食べることが多いんだけどね。さすがに、男の子ばっかりの中にわたしが混じるのは気まずいから、今日はマックスと二人だけ。 
「あら。パステルのお弁当、美味しそうですわね!」 
 わたしのお弁当を覗き込んで、マックスが賑やかな声をあげた。 
「これ、もしかしてパステルが作ったんですの?」 
「うん。そういうマックスのお弁当も美味しそうじゃない!」 
「恥ずかしいですわ。わたくしのなんか、本当に簡単なものばかりですのよ」 
 いやいや、それは謙遜じゃないかなあ。 
 マックスのお弁当はサンドイッチ。それも、普通の三角や四角のサンドイッチだけじゃなく、ロールサンドとかオープンサンドイッチとか、いろんな種類が混じっている。 
「良かったら、一つ交換していただけません?」 
「うん、いいよいいよー」 
 そんなことを言いながら、二人できゃあきゃあお弁当を囲んでいたときだった。 
「おい、パステル!」 
 頭上から降ってきた声に、かきーんと凍りつく。 
 隣でマックスが、「まあ!」と顔を赤らめているのがわかったけれど。わたしは怖くて、それ以上彼女を見れなかった。 
 おそるおそる視線を上げれば、わたしを妙に意地悪そうな顔で見下ろしている見慣れた顔。 
「と、トラップ……?」 
「おめえ、この海苔巻き卵の殻が入ってたぞ!!」 
 ぐいっ、とお弁当箱がつきつけられる。その光景に、マックスが目を丸くしていた。 
 そ、そりゃそうだろうなあ。トラップのお弁当とわたしのお弁当、当たり前だけど中身が全く同じだし…… 
「ご、ごめんっ……」 
「けっ。おめえせっかく料理はうまいんだから、後はもうちっと落ち着いて作れよなあ」 
 ちょっと離れた場所で、「おい、トラップ!」とクレイが声をかけていたけれど、彼はそれを全く無視していた。 
 マックスの前だって言うのに、全然気を使う様子が無い。わたしのお弁当からひょいっ、と海苔巻きを取り上げて、自分のお弁当に移し変える。 
「ちょ、ちょっと!?」 
「量が少ねえんだよ! 俺、この後長距離に出るんだからなあ。もうちっと多めに作れっつーの」 
 それだけ言うと、彼は半端な笑い声をあげながら自分の席へと戻って行った。 
 「おい、せっかく作ってもらったのに文句言うなよ」「いーんだよ、別に」なんて言い合っている声が、ここまで届く。 
 と、トラップってばー!! 
「パステル……」 
 びくりっ 
 かけられた声にそーっと顔を上げると、複雑な表情でわたしとトラップを見比べているマックスの姿がある。 
 うっ…… 
「パステル。トラップさんのお弁当も、パステルが作ってあげてるんですの?」 
「え? う、うん……」 
 あああ、まずいってば! 何て言い訳しよう!? 
 わたしがおろおろしていると、マックスは顔をほころばせて言った。 
「やっぱり、パステルとトラップさんはすごく仲がよろしいんですのね」 
「あ。う、うん……」 
「わたくしにも、今度お弁当を作ってきてくださいます? パステルのお料理、とっても美味しいんですもの。わたくしも、パステルに何か作ってきますわ!」 
「う、うん……」 
 そう言うマックスの顔は、凄く楽しそうな笑みを浮かべていたけれど。 
 それが彼女の本心なのか、本当に気にしていないのか……わたしには、何とも判断がつかなかった。 
 それにしてもねえ、トラップ! 
 あんた……怒ってたんじゃなかったの!? 一体何なのよ、今日のその態度は――!? 
  
 午後一番の競技は応援合戦。 
 その後にいくつかの競技が続いて、最後は色別対抗リレーで全種目終了、となる。 
 ちなみに、色別対抗リレーだけど。これは特殊な競技で、出場する人は体育で残っている徒競走の記録から、強制的に決まる。 
 一応一人三種目までしか出場できないっていう決まりになっているけど。このリレーだけは完全に別扱いなんだよね。だから、トラップも去年までは、徒競走三種目に加えてこのリレーを毎回走っていたらしい。 
 まあわたしには関係の無い競技(だって、リレーの選手に選ばれるなんてまずありえないもんね)だと思っていたから、委員になるまでそんなことちっとも知らなかったんだけど。 
 というわけで、今年ももちろん、赤組のアンカーはトラップが務めることになっている。 
 まあ、それはともかく。 
 体育祭も半分が終わって、そろそろ点数にも開きが出始めている頃。 
 流れたアナウンスに、わたしは思わず青ざめてしまった。 
『二人三脚に出場する生徒は、西ゲートに集合してください。繰り返します。二人三脚に……』 
「あら、いけない。わたくし、この競技に出るんでしたわ」 
 そう言ってわたしの隣で立ち上がるマックス。 
 ええ!? あ、あなたも!? 
「マックスも二人三脚に出るの!?」 
「ええ。気がついたら選ばれていましたの。あら? もしかしてパステルもですの?」 
「う、うん……」 
 ひきつった笑いを浮かべて立ち上がる。 
 し、しまったあ。すっかり忘れてた! そういえばわたし、トラップとこれに出場することになってたんだった! 
 ううっ、気まずいよう…… 
 なーんて言っても、今更代理が見つかるわけもなく。 
 西ゲートに行くと、頭からはちまきを外してくるくる振り回しているトラップが、わたしを見てニヤリと笑いかけてきた。 
「よお。まー適当に頑張ろうぜ」 
「う、うん……」 
「あら? パステルの相方さんは、トラップさんですの?」 
「そ、そうなの。ほら、同じクラスだし、同じ役員同士だし? それで、ちょうどいいんじゃないか、って」 
 ううっ、我ながら苦しい言い訳だわっ。 
 冷や汗がだらだら背中を伝い落ちていく。わたしの言葉を聞いて、マックスは「そうなんですの」と頷いていたけど、トラップはぎゅっ、と眉をひそめた。 
 うわあ、怒ってる。絶対、怒ってるう…… 
 わたし達の間を、緊迫した空気が流れたそのときだった。 
「マックスお嬢様。こちらにいらしたのですか」 
「あら、ウォーレス!」 
 突然の闖入者に、その場の雰囲気が一気に壊れる。 
 え、誰? 
 振り向くと、マックスの傍に走りよってきたのは、ちょっと顔色の悪い男の子。 
 彼は、わたしとトラップを見るとちょっと不機嫌そうな顔をしたけれど。マックスの腕を、ぐいっとひっぱった。 
「早く整列いたしましょう。皆さん待っておられますよ」 
「もう! ウォーレスったら焦りすぎですわ! ほら、パステル達が驚いてるじゃありませんの!」 
 そう言って、マックスはにこにこ笑ってウォーレス、と呼ばれた彼をわたし達に紹介してくれた。 
「彼は、ウォーレス・ロレンス。わたくしの二人三脚の相方ですの。小さいときから我が家に仕えてくれているんですのよ。ウォーレス、学校ではお嬢様はやめて、と言ったでしょう?」 
「し、失礼しました、マックス様」 
 ほえー、つ、仕えてる…… 
 わたしが感心していると、遠くから笛が鳴る音が聞こえた。 
 どうやら、集合時間みたい。 
 わたしとトラップ、マックスにウォーレスは、慌てて集合場所へと走り出した。 
  
 ぎゅっ、とお互いの足首を縛って、立ち上がる。 
 二人三脚だから……しょうがないと言えばしょうがないんだけど。トラップの腕がわたしの肩にまわって、身体を密着させることになる。 
 ううっ、ドキドキする……そういえば、朝も思ったけど。本当に久しぶりじゃない? こんなにトラップの近くにいるのは…… 
 マックスとウォーレスは、わたしの隣できゃあきゃあ言いながらどちらの足を先に出すかでもめている。彼女、多分内心ではわたし達の方を気にかけてるんじゃないか、と思うんだけど。そんな様子をちっとも見せない。 
 こ、心苦しいっ……こんなことなら、どうしてもっと早くに言っておかなかったんだろう、本当のこと!? 
 ああ、もうっ。何でわたしって、いつもいつも……っ!! 
「おい。おめえ、一人で何ぶつぶつ言ってんだ? 出番だぞ」 
「え? あ、ああ。うん……」 
 トラップに引っぱられるようにして、ひょこひょことスタートラインに立つ。 
 しかもどうして、一緒に走るメンバーの中にマックス達が混じってるんだろう…… 
「お互い頑張りましょうね、パステル!」 
 わたしの動揺なんかいざ知らず。マックスは、相変わらずの笑顔で言った。 
「わたくし、絶対に負けませんわよ?」 
「私とお嬢様は、小さいときからずっと一緒に暮らしてきたのです。負けるはずがありません」 
「ウォーレス! お嬢様はやめなさい!」 
「はっ、失礼しました」 
 ううっ、いいコンビだなあ、この二人。 
 きゃあきゃあと賑やかなマックスが羨ましくて、わたしは心の中でしみじみとつぶやいた。 
 わたしとトラップだって、ちょっと前はこんな風だったのに。今は…… 
 チラリと見上げれば、呆れたようにマックス達を眺めるトラップの顔がある。 
 一体、彼は何を考えているのか。 
 この三週間ほど、喧嘩して怒ってろくに口も利かなくて。それなのに、今日は朝から妙に態度が変というか……いつもの態度に近い、というか。 
 でも近いようで、絶対どこかいつもと違うんだよね。 
 本当に、一体何を考えてるの? 怒ってるのか怒ってないのか……せめて、それだけでも知りたい。 
 ぐっ、と肩をつかむ手に力がこもった。視線を向ければ、随分久々に見る、妙に軽薄な……絶対何かをたくらんでいるような、そんな表情。 
 ……トラップ? 
 そのとき、パーン、とスターターが鳴り響いた。 
 中足をひっぱられるような感覚。って、うわわっ! ボーッとしてる場合じゃない! 
 ほとんど引きずられるような格好で、わたしは走り出した。 
  
 走るって行っても、距離的には大したものじゃないんだけどね。 
 何しろわたしは二人三脚未経験なもので。なかなかうまく進めない。 
 わたしの前を、マックスとウォーレスがきゃあきゃあ言いながら走ってる。 
 何だかんだで足がもつれそうになるマックスを、ウォーレスがうまく支えている感じ? 
 まあそれは、こっちも同じなんだけど…… 
「……ったく、おめえは……」 
「え?」 
 耳元でつぶやかれて顔をあげると、どこか不機嫌そうな、それでいて嬉しそうな妙な表情を浮かべたトラップが、わたしを見て笑っていた。 
「おめえは、どうしてそーなんだろうな……」 
「え? え?」 
 トラップの足の速さについていけなくて、縛られた足首が痛い。 
 ちょっと顔をしかめていると、つかまれた肩に、ぎゅっと指が食い込んだ。 
「トラップ、痛い……」 
「どうしておめえじゃなきゃ、駄目なんだろうなあ……」 
「え?」 
 ぐいっ 
 トラップの走る速度が、上がった。 
 ついていけなくて、上半身が泳ぐ。 
「ちょっと、早すぎる! わたしっ……きゃあっ!?」 
 わたしの悲鳴に、前の方でマックスが振り向くのがわかったけれど。 
 それに「大丈夫」と言う暇も無い。わたしは、前のめりに地面に倒れこみそうになって…… 
 そのときだった。 
 ぴたり、とトラップが足を止めた。急なことにあわあわと両手を振り回すわたしに構わず、しゃがみこむ。 
 するっ、という微かな音と共に足首の拘束が緩む。 
 その瞬間! ひょいっ、と身体が、宙に浮いた。 
「……え?」 
 ぶんっ 
 耳をかすめていく風が、凄く冷たく感じる。 
 ……え? え!? 
 顔の脇を、唖然とした顔のマックス達、さらに彼女達の前を走っていた他の組の人達が通り過ぎていく。 
 ざわめきが、グラウンドを支配した。 
 え? え? え…… 
 目の前に迫るのは、ゴールを示す白いテープ。 
 さっきまではもっと遠くにあったはずのそれが、あっという間にわたし達に迫ってきて…… 
 ゴールテープを握っている実行委員がぽかんとする中、わたしとトラップは、一等でゴールインしていた。 
「どうよ?」 
 見上げると、トラップはとてもとても楽しそうな表情で、笑っていた。 
 両手で抱きかかえていたわたしをとん、と地面に下ろして、唖然としている後続の選手達を眺めている。 
「言っただろー? おめえみてえなハンデがいれば、少しはおもしれえ勝負になるかもしれねえ、って」 
 お、おもしろいって……!! 
 わたしが手を振り上げるのと、すっとんできたクレイに「失格! 二人三脚じゃないだろそれは!」と頭をはたかれるのが、ほぼ同時だった。 
 な、な、何考えてるのよー!! ああもう、恥ずかしいったら!! 
 穴があったら入りたい、というのはこういう気分のことを言うんだろう。 
 わたしはただひたすらうつむいて、周囲からの好奇の視線に耐えるしかなかった。 
  
 そのとき、マックスがどんな表情をしていたか。 
 わたしは知らない。 
 あの後クレイに怒られながらも、わたしの出場する種目はこれで全部終わって。 
 でもトラップはまだ1000メートルとリレーに出なきゃならないから、と、一度離れて。 
 わたしは本部テントでまた仕事に追われて、忙しくて。 
 だから、わたしは気づかなかった。 
 そして…… 
  
「パステル様、でしたか?」 
「え?」 
 使い終わった用具を抱えているところに声をかけられて振り向くと、そこに立っていたのは…… 
「あ、ええっと。ウォーレスさん?」 
「ウォーレスで結構です。ちょっとよろしいですか?」 
「え? うーん」 
 本当はよろしくなんか無かった。だって、まだまだ片付けなきゃいけないものはたくさんあったし。 
 わたしが悩んでいると、ウォーレスは「手伝いましょう」と、わたしが持っている用具に手をかけてくれた。 
 う、いいのかな? でも、正直言ってちょっと重たかったんだよね。 
「ありがとう。あの、何か用?」 
「はい。実はですね……ああ、これ、どちらに片付ければよろしいのでしょうか」 
「これは用具室。こっち」 
 方向音痴なわたしだけど。体育祭の準備を通して、嫌というほど行った場所だもんね。さすがにもう迷うことは無い。 
 あんまり広くない体育用具室に道具を片付けて手をはたくと、ウォーレスは頭を下げて言った。 
「実は、お嬢……マックス様のことなんですが」 
「え?」 
 マックス? そう言えば、彼女の姿を本部テントで見ていなかったことに気づく。 
「彼女がどうかしたの?」 
「パステル様と、二人っきりでお話ししたいことがあるから呼んできてくれ、と頼まれました。こちらに来ていただけますか?」 
「ええ?」 
 ま、マックスが? 何の用だろ……って。 
 大体、想像はつく。多分……トラップのこと、だよね? 
 うわわっ、そういえばさっき、わたしってばマックスの目の前でトラップに抱きかかえられてなかった!? 
 も、もしかしたらそれを気にして……? 
「ウォーレス……マックス、怒ってた?」 
「いえ、まさか。お嬢様は心優しいお方です。ご心配なさらないでください」 
 淡々と告げるウォーレスの言葉に、ちょっとホッとするけど。 
 それでも、心配するなっていうのは無理な話。女の子にとって、好きな男の子が目の前で他の女の子を、その……お姫様抱っこだよ? をしている姿を見たら、やっぱりショックだと思うし…… 
 うわわ、何て言おうっ……!? 
 悩むわたしが連れてこられたのは、時期的にもう使わないプールだった。 
「こんなところで?」 
「ここなら、誰も来ないだろう、ということですので」 
 まあ、そりゃそうだろうけど。 
 校舎を挟んでグラウンドの裏に当たるから、体育祭の真っ最中とは思えないくらいに静まり返っている。 
 張ったままの水が、ちょっと寒々しい。わたしが自分の身体を抱きしめながら、ウォーレスの後をついていくと。 
 案内されたのは、プールの片隅にある小さな更衣室だった。 
「ここ?」 
「はい。こちらでマックス様がお待ちです」 
 ガタン、とドアが開けられる。中は真っ暗で、様子がよくわからない。 
 わたしがそーっと中を覗きこんだときだった。 
 ドンッ 
「えっ!?」 
 突然背中を突き飛ばされて、中に転がり込む。 
 その瞬間、バターン、と音を立てて、ドアが閉まった。 
「え? え、ちょっと!?」 
 ドンドン、とドアを叩いてみるけど。何をどうしたのか、どれだけ引っぱっても押しても、ドアは開かない。 
「ちょっと、ちょっとウォーレス!?」 
「申し訳ありません、パステル様」 
 外から響いてくるのは、全然悪いと思ってなさそうなウォーレスの声。 
「後で必ず迎えにきますので。しばらくここで大人しくしていただけますか? 後夜祭が終わるまで」 
「ちょ、ちょっと、困るってば! わたし、わたし後片付けがっ……」 
「ご安心ください。私がパステル様のかわりに働きます。これもマックスお嬢様の望みを叶えるため。少しの間、我慢していてください」 
「ちょっとー!!?」 
 わたしの悲鳴を無視して、ドアの前から歩き去っていく足音が響く。 
 後には、真っ暗で狭い部屋の中に取り残されたわたしだけ。 
 もちろん、マックスの姿なんて影も形も無い。 
 ちょっと…… 
 こ、これは一体どういうことなの――!! 
  
 どれだけ叫んでも、こんなところからじゃ声はグラウンドまでは届かない。 
 どれだけドアを叩いても、開きそうな気配は全くない。 
 はあー…… 
 どうにもならなくて、やがてわたしは諦めて座り込んだ。 
 後で迎えに来る、って言ってたし。 
 まさか、ここで夜明かし……なんてことは、無いよね? 
 ううっ、それはできればやめてほしいなあ…… 
 壁にもたれかかると、冷たさが身にしみた。半袖のTシャツじゃ、ちょっと寒い。 
 ……クレイ達、捜してるだろうなあ…… 
 ウォーレスがかわりに働く、って言ってたけど。彼じゃ勝手がわからないだろうし…… 
 トラップは……心配してくれるかなあ…… 
 膝を抱えて、顔を埋める。 
 ウォーレスは、マックスのため、って言ってたよね。後夜祭が終わるまでは……って言ってたから、多分、あのときマックスに頼まれた、「役割交代」が関係あるのかな……? 
 わたしって、一体何をやる予定だったんだろう? 本気で覚えが無いんだけど……トラップがらみ、なのかな? 交代して欲しいってことは、そういうことだよね? 
 ……こんなことしなくたって、約束は守ったのに。信用されなかったのは……やっぱり、二人三脚のあれが原因? 
 はあ。 
 何回も後悔したのに、そのたびに何だかんだと言い訳して、ここまで本当のことが言えずにずるずる引っぱって。 
 そして結局こんなことになってる。……わたしって、本当に……優柔不断で、頼りなくて。トラップに信頼されないのも、当たり前だよね。 
 ことん、とロッカーに頭をもたせかける。 
 窓の外では、太陽が段々と西に傾いてきていた。 
 多分、そろそろ競技が終わる頃。それから、みんなでグラウンドを片付けて、後夜祭の準備をして……全部終わるのは一体何時になるんだろう? 
 それまでずっと、わたしはここにいなきゃいけないのかな。 
 自然に涙が溢れてきた。泣いたってどうしようもないことはわかってるんだけど。それでも、止められない。 
 そんなことをしているうちに、これまでの疲れとか、寝不足とか緊張とか、そんなのが一気にどーっと押し寄せてきて…… 
 気がついたら、わたしは寝てしまっていたみたい、だった…… 
  
 がたがたがたんっ 
 目が覚めたのは、ドアの外から響く大きな音。 
 ……何……? 
 がたんっ!! 
 ぱっ、と目を開けて驚いた。 
 気がついたら、更衣室の中は、もう真っ暗になっていたから。 
 窓の外はすっかり日が沈んでいる。 
 ……嘘っ、今何時なんだろっ!? 
 立ち上がろうとして、気がついたら身体がすっかり冷え切っていることに気づいた。 
 10月の初め。まだ秋も始まったばかりだけど、こんな時間に半袖のTシャツ、ブルマー姿は、さすがに寒い。 
 っていや、そんなこと言ってる場合じゃなくて! 
「だ、誰かっ! 誰かー!! このドア開けて、開けてくださいっ!!」 
 慌ててドアに駆け寄って叫ぶ。この機会を逃したら、次に助けが来るのはいつかわからないっ!! 
 わたしがどんどんとドアを叩いて叫ぶと、外が一瞬静かになった。 
 そして。 
「……ちょっと離れてろ」 
「はい! ……え?」 
 慌ててドアの前からとびのきながら。わたしは、驚きを隠せなかった。 
 い、今の声って…… 
 バーンッ!! 
 その瞬間、すさまじい音を立ててドアが内側に倒れこんできた。 
 危うく頭をぶつけそうになって、慌てて横方向に逃げる。 
 あ、危ないなあ、もう! 
 もうもうとほこりがたちこめる中。ドアがあった場所に、蹴りを入れたと思われる姿勢で立っていたのは、声から想像していたのと同じ人。 
「トラップ……」 
「……あにやってんだおめえ。こんなところで」 
「な、何って……」 
 トラップの顔はすごく不機嫌そうだった。心配していた、とか。そういう様子は全然見えない。 
「わ、わたしはっ……」 
「こんなところでさぼりかあ? おめえ一人がいなくなっただけで、後の奴らがどんだけ迷惑したと思ってんだ? ったく……」 
「さ、さぼってたわけじゃっ……」 
 寝ている間に止まっていた涙が、また溢れ出した。 
 何で……何で気づいてくれないのよ? 
 ドアを蹴り開けたってことは、外から開かないように工夫されてたってことでしょ? それなのに、どうしてそんな言葉が出るのよっ!? 
「わたしはっ……」 
 悲しいのと悔しいのがごちゃまぜになって、わたしがしゃくりあげていると。 
 ふうっ、とあったかい空気が、わたしの身体を包み込んだ。 
「……え?」 
「…………」 
「あ、あの、トラップ……?」 
「……わりい」 
 つぶやかれたのは、とても小さな声。 
 わたしの身体をぎゅうっと抱きしめて、トラップは言った。 
「わりい。悪ふざけが、過ぎた」 
「……え?」 
「わあってるよ。どーせ、あのマックスって女か……ウォーレスのどっちかだろ? おめえを閉じ込めたのは……わあってる。だけど」 
 ぐしっ、と頭をなでられる。 
 久々なその行為が、何だかすごく懐かしくて。わたしは、トラップにされるがままになっていた。 
「だけど、おめえもわりいんだぜ。おめえがはっきり言わねえから。……俺はおめえの恋人だろ? 違うのかよ?」 
「……だって」 
 恋人。トラップは、そう言ってくれた。 
 自信をなくしていたわたしにとって、それは一番の慰め。 
「だって、わたし、トラップのこと何にもわかってなくて……怒らせてばっかりで。何考えてるのか全然わからなくて。本当に恋人って言ってもいいのかな、って思って……」 
「ばあか、あに言ってんだか」 
 答えは即座に返って来た。 
「言っただろ? 俺はおめえじゃねえし、おめえも俺じゃねえ。わかんねえことがあって当然なんだよ。何もかもわかるなんて、例え家族だってありえねえ。あにつまんねえこと、気にしてんだよ……」 
「…………ごめん」 
 ずっと、謝ろうかどうしようか迷って。 
 わたしは悪くない、そう思うとこっちから頭を下げるのは何となく納得がいかなくて。 
 でも、今は素直に謝れた。 
 ごめん。わたし、思い上がってた。 
 わたしだって、トラップに言ってないことはたくさんある。全部話したつもりになってたって、きっとある。 
 トラップが何を考えてるかなんて推測するしかないのに、全部わかろうなんて、わかるはずだ、なんて……思いあがっていた。 
 人の心は、そんなに簡単に理解できるものじゃない。 
「ごめん。ごめんね、トラップ……」 
「ばあか。謝るのは、俺の方だって……」 
 ふうっ、と。唇が耳元に寄せられた。 
「言えなくて、悪かった。今日まで黙ってようと思ったんだよ。おめえを、生徒会役員にした理由……」 
「……え?」 
 どういうこと? と聞く前に。 
 トラップの唇が、襟元にもぐりこんできた。 
「ちょ、ちょっと……」 
「……教えるまで、おあずけくらってただろ?」 
 ひょい、とトラップが顔を上げる。 
 その表情に浮かんでいたのは、わたしがいつもいつも見ていた、トラップの笑顔…… 
「教えてやるよ。生徒会役員にした理由。だあら、な……」 
 随分と久しぶりな気がした。 
 トラップと、唇を重ねたのは…… 
  
「んっ……」 
 唇をこじ開けるようにして割り込んでくる、熱い舌。 
 上あごをくすぐるようにしてわたしの舌を絡めとリ、深く、深く侵入してくる。 
 頭がじーんとしびれて、ぐったりと上半身から力が抜けた。 
「やっ……」 
 するり、とTシャツの下にもぐりこんでくる手。脇腹をなで上げるようにして、下着の中に無遠慮に押し入ってくる。 
「やっ、ちょっと……だ、誰か来たらっ……」 
「来るわけねえだろー? 俺がおめえを見つけるのに、どんだけ手間取ったと思ってんだ……」 
 つぶやきながら、首筋へと熱いキスを落としてくる。 
 絶対、痕が残ってるっ……! 
 やめて、って言いたかったけど。言えなかった。 
 すごく久しぶりだった。久しぶりすぎて、忘れていた。 
 気持ち、いい……? 
 震えるほどに寒かったはずなのに。身体が熱い。 
 まくりあげられたTシャツとずらされた下着。 
 胸元におりてきた唇が、そっと先端部分をなめあげた瞬間、思わず叫びそうになった。 
 や、やっ……な、何だろう? いつもより……以前より、ずっと……っ! 
 暗い更衣室。もしかしたら誰かが来るかもしれない、という羞恥心。 
 きっと、それらの要素が色々組み合わさったせいだと思う。わたしの身体が、ひどく敏感になっていたのは…… 
「やっ、ああっ……う、ひゃんっ……」 
「おめえ、何か今日は……」 
 つぶやくトラップの口調は、妙に嬉しそう。 
「やけに、燃えてんな……?」 
 耳に息を吹き込まれて、ぞぞっ、と背中に悪寒に似た感覚が走った。 
 や、や、やだっ……理性が……持たないっ…… 
 すうっ、とふとももを這い上がった指が、ブルマーの隙間からもぐりこんできた。 
 冷たい指が、わたしの中にもぐりこんでくる。 
「やっ、ちょ、ちょっとっ……」 
「あんだよ」 
「だ、だからっ……こ、こんなところでっ……」 
「……おめえ、なあ」 
 わたしの肩に顔を埋めるようにして、トラップはつぶやいた。 
「俺がおめえにおあずけくらってどんだけ辛かったか。おめえがいなくなってどんだけ青ざめたか。いいじゃねーかこれくらい。ご褒美っつーことで」 
「ご、ご褒美って……っ!!」 
 ぐいっ、とブルマーが引きおろされる。 
 コンクリートに直にお尻があたって、やけに冷たかった。 
「だ、駄目っ……駄目だってばっ……」 
「駄目っつっても。おめえ、きっちり反応してるみてえだけど」 
 だから駄目なんだってばー!! 
 こ、このままだと……わたし、わけがわからなくっ…… 
 額に、頬に、まぶたに……そして、唇に。 
 軽く触れるようなキスが落とされる。 
 トラップの手が、わたしの太ももを抱えあげた、そのときだった。 
 ドーンッ!! 
 突然響いた大きな音に、わたしも、トラップも、びくりと顔を上げた。 
 ドーン、ドーンッ!! 
「え、これって……」 
「……ったく。もうこんな時間かよ」 
「え?」 
 な、何? 
 わたしがぽかんとしているうちに、トラップはあっさりと身体を離して立ち上がった。 
 そして、ささっと手を貸して、わたしの服を直してくれる。 
「あ、あの?」 
「花火」 
「え?」 
「後夜祭開始の合図なんだよ! おら、立てっ!」 
「え? えーっ!?」 
 慌ててブルマーを直して立ち上がると、ぐいっ、と手を引かれた。 
 な、何!? 何なのー!!? 
 ずるずると引きずられるようにしてグラウンドに戻る。 
 本部テントに行くと、そこでは実行委員達が全員集合していた。 
「パステル、トラップ!! お前ら、一体何をやってたんだ!?」 
 振り向いたクレイの顔は、かなり、かなーり怖い。 
 ううっ、ごめんなさい…… 
 思わずうなだれるわたしとは対照的に、トラップはへらへら笑いながら「まーいいじゃんいいじゃん」と手を振っている。 
 いいわけないでしょバカー!! 体育祭の後片付け……結局、何もやらなかったことになるんだよ、わたし達!? 
 ううっ、みんなの視線が痛いっ…… 
 わたしはかなり恐縮してしまったけれど。幸いなことに、それ以上お咎めはとんでこなかった。 
 というより、それどころじゃなかったみたい。 
「まあいい。それより、これから後夜祭だ。体育祭もこれで最後。みんな、気をひきしめて頑張ろう!」 
 クレイの言葉に、「おー!」と拳をつきあげる委員さん達。 
 真っ暗なグラウンドのそこかしこにライトが置かれ、あちこちで打ち上げ花火があがる。 
 中央で赤々と輝いているのは、キャンプファイヤー。 
 ちなみに燃えているのは、薪じゃなくて体育祭で利用した看板やポスターその他だったりするんだけど。 
 そして、それを中心にして円陣を組んでいる一般生徒達。 
 外側に男子、内側に女子っていう、二重の円ね。 
 そっかあ、フォークダンス…… 
 炎に照らされたその光景が凄く綺麗で、わたしが見とれていると。 
 ぎゅっ、と、手を握られた。 
 振り向くと、隣に立っていたのはトラップ。 
「……行くぞ」 
「え?」 
「いいから、ほれ」 
「え? ちょっと、ちょっと?」 
 ひきずり出されたのは、円陣の中央。 
 皆の視線が、一斉に集まるのがわかった。 
 え? ええっ!? 
『皆さん!』 
 瞬間、スピーカーを通して響いたのは、クレイの声だった。 
『体育祭最後を飾る後夜祭です。各色の健闘を称えて、敵味方関係なく、楽しんでやりましょう! まず最初は、親睦を深める意味でフォークダンスを行いたいと思います。それでは……』 
 ジャンッ、という前奏の後、誰もが知ってる有名なダンスミュージックが流れ出した。 
『中央に立っている生徒は、皆さんご存じ生徒会副会長と書記のコンビです。この二人が見本を見せますので、それに合わせて踊ってください。それでは』 
 ガガッ、という音とともに、マイクスイッチが切られるのがわかった。 
 同時に、クレイと他の実行委員達が、ぞろぞろと輪の中に混じり始める。 
 え? み、見本っ!? 
「ちょっと……トラップ!?」 
「……これがやりたかったんだよ」 
「え?」 
 ひょいっ、と肩に手が回された。そのまま、トラップがわたしをうまく誘導するようにして、踊り始める。 
 つられて手足を動かしていると、音楽の間を縫うようにして、トラップの声が届いてきた。 
「毎年のお約束なんだよ。後夜祭のフォークダンスで、生徒会役員の二人が手本を見せる、っつーのは……普通のフォークダンスだと、パートナーチェンジがあるけどな。俺達には、それがねえ……おめえと一緒に踊ってみたかった。それが、理由」 
「……ええ?」 
 そ、そんな……理由? もっと、何か重大な理由があるんじゃないか、と思ったのに。 
 それだけの……理由? 
「じゃ、じゃあ、何で今まで黙ってたのよ!?」 
「バカ言えるかっ! おめえ、逆の立場だったら言えるか? 『フォークダンスで一緒に踊りたいから生徒会役員になってもらいました』なんて……タイミング逃して、余計に言いづらかった、ってのもあったしなあ」 
 うっ……言われてみれば、そうかも…… 
「それに、な」 
 すっ、と踊りの一部に見せかけて、さりげなく顔が寄せられる。 
 すぐ目の前に、明るい茶色の瞳があった。最近ずっと見てきた、冷たい色の浮かんだ瞳じゃない。心底嬉しそうな、楽しそうな、そんな瞳。 
「準備にかこつけて、ずっとおめえと一緒にいたかったし? 俺が生徒会役員をやるってのは、クレイとの約束だったからな。だあら……」 
「約束……? 何で……」 
 くるっとターンして、手を組みかえる。 
 わたし達の動きを真似るようにして、周囲の円陣も、そろそろと動き始めた。 
「約束。クレイの親ってさ、うちの学校の理事長なんだよな。つまり、クレイに頼めば、学校で大抵のことは通ったりすんだけど……」 
「うん……?」 
「ちっと、裏工作頼んだわけ。おめえと同じクラスになれるように、ってな」 
「……ええっ!?」 
「バカっ、大声出すなっつーの!!」 
 鋭い声が届く。 
 慌てて口をつぐんだけれど、幸いなことに、誰も気づいた人はいないみたいだった。 
 お、同じクラスに……? 
 そう言えば思い出す。初めて、トラップと一緒に登校した日。 
 前日の始業式、トラップは学校を休んでいた。それなのに、その翌日、彼はちゃんと自分が何組かを知っていた。 
 まさか……あれは、その裏工作のせいでっ……? 
「な、何で……」 
「中等部から、ずーっと狙ってたのに。結局一度も同じクラスになれなかったからなー……」 
 一曲目が終わった。二曲目は、少しアップテンポの曲。 
 わたしはダンスなんてろくに知らないんだけど。トラップに合わせて動いているだけでそれっぽい動きになるのが、不思議だった。 
「こんなことでもしなきゃ、一生おめえと話す機会なんかねえんじゃねえか、と思って。あの頃は、まさかおめえが家に来るなんて知らなかったからな。言ったろ? 俺はな……」 
 おめえが入学してきたときから。ずっとおめえのことを見てたんだよ…… 
 囁かれた言葉は、あのときと。告白してきたあのときと同じような言葉。 
 わたしは…… 
「バカ、おめえ泣くなよこんなとこでっ!?」 
「だって、だって……」 
 だって、嬉しいんだもん。 
 トラップにそう言ってもらえて、すごく、すごーく嬉しいんだからっ…… 
  
 後夜祭は、大成功に終わった。 
 フォークダンスをして、花火を見て、簡単なクイズやゲームをやって。 
 終わったのは、夜の九時過ぎ。 
 本当は、この後実行委員が片付ける予定だったんだけど。あんまりにも遅くなると夜道が危ないから、って。後片付けは明日以降やることになった。 
「みんな、今日までお疲れ様。まだ後片付けが残っているけど、ゆっくり休んで体力を取り戻してくれ」 
 一般生徒が帰宅して、誰もいなくなった校舎の中で。 
 玄関に集められた委員達に、クレイが言った。 
 やっと、終わった。大変だった体育祭が…… 
 うーん、何だろう。すごく……すっごく開放感がある! 
 思わず伸びをする。そのときだった。 
 ポン、と肩を叩かれて振り向く。そこには、にこにこと微笑むマックスが、立っていた。 
「あ……」 
「パステル、お疲れ様!」 
「あ、うん。お疲れ様……あっ!」 
 マックスの顔を見て思い出した。彼女が言っていた、「後夜祭での役割交代」での意味が。 
 そ、そっか。彼女は知ってたんだ。生徒会役員の二人が、フォークダンスで見本を踊るってこと。 
 それで、わたしと代わってくれって……! 
「ご、ごめんね、マックス! わたしっ……」 
「あらあ、いいんですのよ、パステル。わたくし、わかってますから」 
 マックスの笑顔は、崩れなかった。 
 ちょっとだけ寂しそうではあったけれど。恨めしそうとかそういう嫌な感情は全然含まれていない。 
「わたくしこそ、ごめんなさいね。困らせるようなことを言ってしまって」 
「…………」 
「パステルも、トラップさんのことが好きだったんですのね。わたくし、ちっとも気づきませんでしたわ」 
「うん……ごめん。ごめんね、マックス」 
「泣かないでください。パステルが謝ることじゃないでしょう?」 
 そう言って、マックスはぎゅっとわたしの手を握ってくれた。 
「わたくし、パステルのことが大好きだから。トラップさんのことは抜きにして、お友達でいたいって思ってるんです。パステルは、嫌かしら?」 
「……ううん」 
 ぶんぶんと首を振る。 
 まさか、そんなわけない。わたしだって思ってた。マックスはすごくいい子で、ずっと友達でいたい、って……そう思ってた。 
「わたしも、マックスと友達でいたい」 
「ああ、よかった! 断られたらどうしようかと心配していましたのよ」 
 にっこり笑って、マックスはわたしにぎゅっとしがみついた。 
「ウォーレスが、何か失礼なことをしたみたいですけれど。あれは、わたくし知りませんでしたの。知っていたら、そんなことさせませんでしたわ。信じていただけます?」 
「もっちろん!」 
 大きく頷くと、マックスは身体を離して、にっこりと笑った。 
「これからも、よろしくお願いしますね、パステル」 
「うん!」 
 よろしく、マックス。ありがとう、そしてごめんね。 
 こうして、わたしには、また一人、大切な友達ができたのだった。 
  
 帰り道。 
 時間は夜十時過ぎ。誰も歩いていない道を、トラップと二人、肩を並べて歩く。 
 本当はバイクで来たからバイクで帰るはず、だったんだけど。他の実行委員さんと歩いているうちになりゆきで電車に乗っちゃってね。仕方無いから、バイクは明日以降取りにいくことにしたんだ。 
 それに、何だか歩きたい気分だったし。身体はすごく疲れているはずだけど。色んなことが解決して、すっごく満足だった。 
「トラップ、ありがとうね」 
「んあ?」 
「わたし、生徒会役員になってよかった。今まで経験できなかったことが、いっぱい経験できて。楽しかった。本当にありがとう」 
「…………」 
 じいっと目を覗き込むと、トラップは真っ赤になって、ぷいっとそっぽを向いた。 
「な、何急に素直になってんだよ。気持ちわりいな」 
「何よお、その言い方」 
 ふんだ、素直じゃないんだから。 
 すたすたと足を速めると、即座にトラップが追いついてくる。 
 そうそう、わたしは更衣室に閉じ込められて知らなかったんだけど、トラップはしっかり1000メートルもリレーも優勝して、赤組を優勝に導いたんですって! 
 さすがだよねえ……まあ二人三脚では大失敗したけれど。 
「あれ? そういえば」 
 ふっと思い出して振り向く。 
「二人三脚のときの、あれ……あれは、何で……」 
「ああ?」 
「何で、急に抱き上げたりしたの?」 
 わたしがそう聞くと、トラップはひどく意地の悪い笑みを浮かべて言った。 
「あのマックスって女に教えてやるためだよ」 
「……え?」 
「おめえが言えねえみてえだから。俺はパステルにぞっこん惚れまくってて、おめえの入り込む余地はねえって教えてやるため」 
「〜〜〜〜っ!!」 
 ボンッ、と頭に血が上ってしまう。 
 な、な、なーんてことを言うのよこの人は!? 
「と、トラップったら!」 
「けっけ。これでわあったろー? おめえはもう、俺と付き合うしかねえんだって。俺がぜってえ逃がさねえから!」 
 ふっ、と驚くぐらいに素早く唇を奪って、トラップはたったっと駆け出す。 
 家までは、後数分。 
 ……全くっ。トラップには……多分、わたしは一生かなわないんだろうなあ…… 
 マックスにすっごく申し訳ないと思いつつ、頬が緩むのを止められなくて。 
 わたしは、その後を追って、走り出した。 
 ……そう言えば。 
 生徒会役員につけた理由は教えてもらったけれど。ギア先生と何を話していたのか、は、まだ聞いてない。 
 ……いっか。 
 無理に聞き出さなくても、いずれ絶対教えてくれるよね。 
 トラップを信じて、いいんだよね? 
 玄関をくぐると、暖かい空気が、わたしを包み込んだ。  

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