好きな相手と、ずっと一緒にいたい。
これは、恋する女の子全員に共通する考えじゃないだろうか?
もちろん、四六時中一緒にいるなんて無理だとわかっているけど。
相手が自分と違う人間である以上、考え方や好みに違いがあって、そんなささいなことで離れなきゃならないときもあるんだってことは、理屈ではわかっているけど。
理屈通りにいかない、それが恋、というものだろう。
ましてや。
それまでずーっとずーっと、飽きるくらいに同じ時間を共有してきて、それに慣れてしまったら。
いざ離れるときが来たとき。その寂しさは、普通に離れるときよりもずっとずっと強いものになるんじゃないだろうか……
そのとき、自分の選択を曲げて相手についていくか。
あるいは、大人しく諦めるか。
あるいは、相手に選択を曲げてもらうか。
どの道を選ぶかで、その恋の行方は、大分違ったものになるんじゃないだろうか……
9月の第二週の月曜日。
わたし達の前に配られているのは、愛想も何も無い白い紙だった。
そこに書かれている言葉は、「進路希望調査票」
「……さて、今日から通常授業に入るわけだが」
担任のギア先生の言葉が、教室に響き渡る。
先週までの午前中授業が終わり、やっと二学期が始まった! と実感できる時期。
もっとも、外はまだまだ残暑が厳しく、わたし達が着ているのも夏物のセーラー服とカッターシャツだけど。
「今配った紙の提出期限は今週いっぱいだ。来週から進路に関する個人面談をするので、そのつもりでよく考えておくように」
……進路。
そうだよね。もう高校二年生だもんね……早いなあ、時が経つのって。
何となく感慨にふけってしまう。
もっとも、わたし達の通う学校、聖フォーチュン学園は、幼稚舎から大学まで完全エスカレーター式。
よっぽど成績がひどく無い限り、大学進学のために厳しい受験勉強をくぐり抜ける必要は無いから、そのへんは他の学校の受験生に比べたら楽なのかもしれないけど。
うーん、どうしよう……
紙に書かれているのは、大学進学か就職希望か、あるいは外の大学を受験するかの選択項目。
9割以上の生徒がこのまま大学まで進むことを選ぶけど、どうしても、と希望すれば、別の大学を受験することも、あるいは高校卒業と同時に就職を選ぶこともできる。
わたしの場合は、普通にこのまま大学まで上がるつもりなんだけど。
次に書かれているのは、文系か理系かの選択肢。そして、大学進学を希望した場合の志望学部。
一応、わたしは小説家を目指していて。大学に進むのもそのための勉強をしたいから、だから。
文系希望、志望学部は文学部……以前までなら、迷わずそう決めていたんだけど。
ちらり、と隣の席に目をやる。
さらさらの赤毛を無造作にまとめて、端正な顔立ちに引き締まった身体がなかなかかっこいい、わたしの同居人にして恋人でもある人、トラップ。
いつもなら、ギア先生の言葉、というだけであからさまに興味の無さそうな顔をして椅子にふんぞり返っているか机につっぷして寝ているかしている彼だけど。
今日は珍しいことに、手元の紙を真剣に見つめていた。
……トラップは、どこの学部を志望するんだろう?
彼は凡人たるわたしと違って、成績は学年でも五指に入るほど頭もよく、かつ運動神経も抜群にいいという、何だかとても不公平な人なんだけど。
トラップなら、希望すればどこの学部でも楽に入れるだろう。でも多分、彼のことだから選択は理系? 工学部? 理学部?
どっちにしろ、わたしには無理だろうなあ……
はあっ、とため息が漏れる。
わたしもね、別に成績は目もあてられないほど酷い、ってわけじゃないけど。国語や英語なら、そこそこ上位に名前を連ねることもあるけど。
数学や物理はねえ……全然駄目。どうしてあんな教科を理解できる人がいるのか、そもそもそれが理解できない。
だから、例えわたしが理系に行きたい、と言っても。先生達はみんな止めるだろうなあ……
つまり、大学に行ったら、多分トラップとは別の学部になっちゃうんだ。
……そう考えると、何だか寂しいかも。
いやいや、大学は遊びに行くところじゃないんだからして。トラップがいるとかいないとか、そんなことで学部を選ぶのは間違いだ、ってわかってるんだけど。
同じ家に住んでいて、クラスも同じ。トラップと顔を合わせない時間の方が少ない、という現在の状況。
それに慣れきってしまった今……少しでも彼と離れることになるかも? と考えると……何だか、妙に寂しく感じる。
両親が死んだわたしにとって、トラップは大切な恋人にして、家族と同じような存在で。
一緒にいるのが当たり前、みたいになってしまったから……
あーもう! わたしってば、いつの間にここまでトラップのこと好きになっちゃったわけ!?
思わず机に身体を投げ出してしまう。
いやいや、原因はわかってるよ? つい先日の、トラップのおじいちゃん襲来事件。
あのとき、どさくさまぎれに言われたプロポーズまがいの言葉……きっと、あのせいなんだろうなあ……
うう、思い出したらまた顔が赤くなってきた。
だってだって、わたしまだ16歳なんだよ? それなのに、プロポーズ?
そして、わたし自身、その言葉をすっごくすっごく嬉しく思っていて……
……ま、少なくとも今すぐどうこう、ってことはまず無いだろうけどね。第一トラップは17歳。まだ結婚できない年だし。
「おい」
あー、それにしてもっ……結婚。結婚かあ……そんなのまだまだ先だと思ってたのになあ……
「おい」
するとしたら、大学卒業してから? こ、高校卒業直後っていうのはいくら何でも早いよね? すると、後五年……そう考えるとまだまだ……
「おいっ、パステルっ!」
「きゃあっ!?」
耳元で叫ばれて、わたしは思わずとびあがった。
振り返ってみれば、教室中の視線がわたしに集中していて……
「な、何よトラップ、急に大声出して!」
「何よ、じゃねえ! さっきからずーっと呼んでんのに、あに一人で百面相してんだおめえは!」
「ひゃ、百面相って……」
うっ、み、見られてた!? うわーっ恥ずかしいっ……
いやいや、いくらトラップでも心の中までは読めるわけじゃないと思うけどね。心底それで良かったと思う。
何考えてるのか知られたら、きっとここぞとばかりに……まあいいけど。
「ご、ごめん。何か用だった?」
「だあら……おめえ、やっぱ聞いてなかっただろ」
「? 何を?」
「だ、か、ら! 今日の放課後、生徒会役員の話し合いがあるから、授業終わったら生徒会室に集合しろっつってんの! おめえ、自分が役員だってこと忘れてねえだろうな?」
「し、失礼なっ! 覚えてるわよっ!」
実は半分くらい忘れかけてたんだけど……
だ、だって。実際に仕事をしてくれるのはクレイで、わたしとトラップなんてほとんど話しを聞いてるだけじゃない?
いや、まあそんなのはただの言い訳だけど……
「わかった、放課後ね」
「おう」
役員会議かあ……一体、何を話し合うんだろう?
「体育祭の準備?」
「そう。十月の第二週に、あるだろ? 後一ヶ月だから、ちょっと急がないとな」
放課後、生徒会室にて。
集まっているのは、生徒会長のクレイに、副会長のトラップと書記のわたし。
集められた理由は、聞いての通りで……
体育祭かあ。そういえば、そんなのもあったなあ……
一年生のときは、わたしは単純に、ちょこちょこっと徒競走か何かに出て、後は応援してただけだから。あんまり記憶にも残ってないんだけど。
そうかあ……準備って、生徒会役員の仕事なんだ。
「何すればいいの?」
「実際に準備を担当してくれるのは、体育委員と実行委員。俺達の役目は、彼らに指示を与えることだよ」
そう言って、クレイはどさっ、と大量の書類を取り出した。
「……何、これ?」
「全クラス全学年の、それぞれ男女別の人数と、開催種目と、それぞれに割り当てるべき人数とか……まあそういう資料」
電話帳か、と思うような分厚い書類を取り上げて、彼はにこやかに言った。
「明後日までに、各クラスがどの種目に何人参加者を出すか、の割り当てを作らなきゃいけないから。俺は三年生を担当するから、トラップは二年生、パステルは一年生をよろしく」
そう言って渡される、一年生の資料。
ちなみに、それでも普通の文庫本並の分厚さがあった。
「これ……明後日までに?」
「そうだよ。練習期間もいるだろう? むしろちょっと遅いくらいなんだ。本当は夏休みから準備を始めなきゃいけなかったところだからね」
そう言って、クレイは苦笑した。
「ちょっと大変かもしれないけど。頑張ってくれよ? まだまだ、やらなきゃならないこと、決めなきゃいけないことは山のようにあるから」
「…………」
生徒会役員なんて……生半可な気持ちでなるようなもの、じゃないかもしれない……
うちの学校の体育祭は、六色の団に別れて点数を競い合う。
その組み分け方は、A組ならA組、B組ならB組、というようにクラス別に別れていて、学年は一年生から三年生まで一緒くたになっている。
クレイは三年B組だから、二年A組のわたし達とは違う団になる。まあそれはともかくとして……
「えと……つまり、それぞれ種目ごとに参加する人数は決まってるから、各色からなるべく均等に参加者を出すように、人数を割り振ればいいのね?」
「ま、そういうこと」
その日の夜。わたしとトラップは、居間で顔をつき合わせて、必死に与えられた仕事をこなしていた。
何しろ、これで終わり、ってわけじゃないもんね。クレイの言葉によれば、人数の割り当てが決まったら今度は各クラスでどの種目に誰が出るかを決めてもらって、その結果をまとめて表にして、練習が必要な種目にはいつどこで練習してもらうかを決めて、用具を借りなきゃいけないような種目にはその手配をして……と。
とにかく、やるべき仕事はまだまだたっくさんあるそうなので。
つまりは、絶対に遅れるわけにはいかないのだ。明後日まで言われたら、徹夜してでも明後日までに仕上げなきゃいけない。
そんなわけで、わたしは電卓を持ち出して、必死に計算していたんだけど。
何しろ、こんな作業をするのは生まれて初めてだから。どうもなかなか……要領がわからない。
「ねえ、トラップ。あのね、一年生なんだけど、A組に比べてB組の方が男子が多いんだよね。ってことは、必然的に男女混合競技とかだとB組の方が有利になりそうなんだけど……」
「そーいうときはな、参加人数をちっといじくれ。何もバカ正直に男女同じ人数出さなきゃいけねえわけじゃねえんだよ」
あーでもない、こーでもないと紙の山と電卓片手に話し合うこと数時間。
どうにかこうにか、うまく人数割り当て表を埋めていくことができたんだけど。
チラリ、と視線を上げれば、驚くくらい真剣な顔で書類を見ているトラップの顔がある。
……何か、意外だなあ。
トラップって、こういう面倒くさい作業、一番に嫌がりそうだと思ってたのに。
そういえば、何で、彼は生徒会役員を引き受けたんだろう?
ふとそんなことを思う。
確か、わたしとトラップが役員に任命されたのは……クレイの指名があったから。
ちょうどその頃、わたしはその……担任の先生に告白されるというごたごたに巻き込まれていて、そのことで二人に随分迷惑をかけたんだけど。
その最中だったんだよね。「書記をやってくれ」って頼まれたのは。
クレイがトラップを任命したのは、わからなくもない。彼らは幼馴染らしいからね。でも、どうしてわたしまで?
そして、断ることもできたのに、どうしてトラップは引き受けたんだろう?
それに……
「ねえ、トラップ」
「ん? あんだよ?」
「あのさあ、前から聞きたかったんだけど。わたしを書記にしてくれって……もしかして、トラップがクレイに頼んだの?」
カラン
わたしがそう言うと、トラップの手からシャーペンが落ちた。
「何だよ、いきなり」
「いや、ちょっとだけ気になっちゃって。トラップって、こういう面倒な仕事一番嫌いみたいなのに。何で役員なんか引き受けたのかなあ……って思ったら、ちょっと」
「…………」
のろのろとシャーペンを取り上げて、トラップは仕事を再開した。
わたしの質問に答える気配は、無し。
……怪しいっ!
「トラップってば」
「…………」
「ねえ。何か理由があるの? 引き受けた理由。わたしを役員にした理由!」
「…………」
無言でシャーペンを走らせるトラップ。だけど、聞こえてないわけじゃない。その振りをしてるだけだっていうのが、よくわかる。
だって、シャーペン、芯が出てないんだもの。
「トラップ……」
「…………」
あくまでもだんまりを決め込むつもりらしい。よーし、そっちがそのつもりならっ……
ガタン、と立ち上がる。書類の整理も大分進んで、今はちょうどキリのいいところだし。少し休憩しよう。
冷凍庫を開けて氷を取り出し、グラスに入れる。冷蔵庫に冷やしてあったアイスティを注ぎいれると、カランっ、と氷にひびが入った。
9月とは言え、まだまだ暑い。グラスはあっという間に汗をかき始めて、握るとひんやりと心地よい冷気が漂ってきた。
「トラップ」
「あ、俺、どっちかっつーとアイスコーヒーの方が……」
「嫌いになっちゃうから」
ゴトッ
重たい音に振り向くと、トラップが、電卓を取り落とすところだった。
……トラップの弱点? パステルだろ? なんて、当たり前のように言ってきたクレイやマリーナの顔を思い出す。
それを聞いたときは、「まさか」なんて言ってたんだけど……
「教えてくれないんなら、トラップのこと嫌いになるよ。それでもいい?」
「…………」
わざと顔を見せないようにして言うと、背後から、すごーくどろどろしいオーラが漂ってきたような気がした。
ふーんだ。教えてくれないそっちが悪いんだもんね。
だって、もし本当にトラップの手引きでわたしが役員に任命されたんだとしたら……こんな大変な目に合ってるんだもん。せめて、理由くらいは教えてくれたっていいと思わない?
紅茶の中にガムシロップを入れて、長いスプーンでかき混ぜる。レモンにしようか、ミルクにしようか迷っていると……
スッ
真後ろに、人が立つ気配がした。
「トラップ」
「もう一回、言ってみろよ」
「何を?」
「俺を……何だって?」
「教えてくれないトラップが悪いんだよ」
くるり、と振り向くと。軽薄な表情の中、目だけは真剣にわたしを見つめているトラップがいた。
うっ、何だか心がぐらぐらするっ……駄目駄目、負けちゃ駄目よパステル。
ああ言えばトラップがどう出てくるかくらい、大体予想してたでしょ?
「嫌いになっちゃうから」
そう言うと、トラップの手が、がしっ、とわたしの肩をつかんできた。
「なれるもんなら、なってみろよ」
「…………」
まあ、多分無理だろうな、なんて心の中では思いつつ。それを表情には出さないよう努力する。
「おめえに、俺を嫌いになれるのか?」
「別に、トラップを嫌いにならなくても。例えば、他の人を好きになるとか?」
そう言うと、トラップの表情が一段と険しくなった。
……あ、まずい。これ以上はまずい。本気で怒るかも。
「どうして教えてくれないのよ」
「…………」
「そこまでして、隠すような理由でもあるわけ?」
「……そ、それはなあ……」
「何よ?」
「…………」
「本当に嫌いになっちゃっても、いいの?」
そう言うと。
トラップの唇が、首筋に降りてきた。
熱い吐息が触れて、一瞬、ぞくりとする。
「なれるもんなら、なってみろ」
ぐいっ、と、片手が背中の方にまわりこんできた。
薄いシャツ越しに感じる体温は、とても温かかった。むしろ暑い。
「他の男を好きになる? 上等じゃねえか」
するりっ、とシャツの中にもぐりこんでくる手。
パチンッ、と、ブラのホックが外されたのがわかった。
同時に、脚が、わたしの脚の間に割り込んでくる。トラップの膝が押し入ってきて、スカートが、中途半端にめくれあがった。
「誰を好きになろうと、ぜってーおめえは俺のところに戻ってくるぜ? 俺がそうさせるから」
「……そっ」
手が触れるたびに、力が抜けそうになるのがわかった。
だけど、負けないもんね。わたしだって、いつまでもやられっぱなしじゃないんだから!
ぐいっとシャツがまくりあげられた。トラップの唇が、胸元に下りてきて……
無防備な首筋が、わたしの目の前にさらけ出された。
「トラップ」
「…………」
トラップは答えない。行為に没頭している。
いやいや、下手したらわたしもそのまま流されてしまいそうなんだけどね。だけど、だけど! 意思を強く持って、パステル!
すっ、と手をトラップの背中にまわす。彼が身につけていたのは、薄手のTシャツ。
その下に手をもぐりこませて……
「っ……いっ……てえ――――っ!?」
思いっきり脇腹をつねりあげると、さすがに、トラップは悲鳴と共に顔をあげた。
「あ、あにしやがるっ!?」
「おあずけっ!!」
その目をにらみつけて、ついでにベーッと舌まで出して、わたしは宣言した。
「教えてくれるまで、わたしに触らないでっ! 触ったら本当の本当に嫌いになっちゃうからねっ! 本気だからねっ!!」
「おっ、おいおい……」
「お・あ・ず・け! さ、続きやるよっ。いつまで経っても終わらないじゃないっ!」
少しぬるくなったグラスを取り上げて、テーブルに戻る。もちろん、乱れた服を直すことも忘れない。
嫌いになる、というのはただの前哨戦。本当の仕返しは、これだもんね。
だって……
悔しいし、何だか寂しいもん。
トラップがわたしに何か秘密を持っている。何だか、それって……妙に寂しいから。
「おーい、パステル……」
「二年生の分、終わった?」
なるべく冷たく聞こえるように言い放つと、トラップは諦めたらしく、「はあっ」と息をついて椅子に座った。
結局、その夜。わたしとトラップがベッドに入ることができたのは、夜の一時をまわってからだったりする。
それにしても。
あれだけ言っても教えてくれないって、一体どんな理由があるだろう?
無事に書類を作り終えて、生徒会室に向かう傍ら。わたしはそんなことを考えていた。
結局、トラップは理由を教えてくれなかったんだよね。ずーっとだんまり。もっとも、「おあずけ」をちゃんと守ってるあたり、彼なりに気にしてはいるみたいだけど。
そんな大層な理由? でも、わたしを生徒会役員にする意味なんて、何かあるのかなあ? 別にそんな大した仕事をまかされたわけでもないのに。
うーん、と首をひねりながら生徒会室に入る。クレイは、まだ来てないみたいだった。
ちなみに、トラップは今、ギア先生に呼ばれて職員室に行っている。
最近、ギア先生はよくトラップを呼び出してるみたいなんだけど……何かあるのかな?
トラップの方も不機嫌そうな顔しつつちゃんとそれに応じてるから、別に嫌な用事を押し付けられてる、ってわけじゃないみたいなんだけど。
そのとき、ガラッ、と背後で戸が開いた。
振り返ると、そこにはまた山のように書類を抱えたクレイが立っていた。
「やあ、パステル。どう? 人数割り当ての方は」
「うん、ちゃんと終わった。あ、これはトラップの分ね」
「あいつは?」
「今職員室に呼び出されてるの。……あ、そうだ」
そうだそうだ、何もトラップに聞く必要なんか無かったんだ。
裏で手引きしたのはトラップだろうけど、実際にわたしを役員に指示したのはクレイなんだから……
「ねえ、クレイ。どうしてわたしを書記に任命したの?」
「……え?」
どさどさっ、と机の上に書類を並べていたクレイだけど。
わたしがそう言うと、ぎょっとしたように顔をあげた。
「ぱ、パステル? 急にどうしたんだ?」
「ううん。昨日、ふっと気になっちゃって。だって、あのとき、クレイはわたしとは会ったばかりだったじゃない。何でマリーナじゃないのかなあ、って思ってたんだけど。ねえ、それって、トラップに頼まれたの?」
「…………」
サッ、とあからさまに目をそらされる。
……クレイまでっ!?
「ねえ、何で隠そうとするの? そんなことされたら、余計気になるじゃない」
「……いや、その」
「教えてってば」
わたしが詰め寄ると、クレイは困ったように微笑んで言った。
「きっと、そのうちトラップの奴が教えてくれるよ。あのときもそう言っただろう?」
「それが教えてくれないから聞いてるのよっ!」
わたしが身振り手振りつきで昨夜の出来事を説明すると、クレイは、「はああ〜〜っ」と大きなため息をついた。
「全く。あいつも素直じゃないんだから」
「……え?」
「いや、こっちの話。本当に悪いけど、俺が話したって知ったらトラップの奴に絶交されかねないから。気長に待っていればそのうち教えてくれるよ、きっと」
「気長にって……」
「さっ、仕事仕事。まだまだやることはたくさんあるから」
その話題は終わった! とばかりに、書類整理を再開するクレイ。
……何で?
一体どうして、そこまで秘密にしようとするのー!?
まあ、でも。
教えてくれないものは仕方がない、というか。そのうちわたしはそんなことは忘れてしまって……
というか、忘れざるを得なくなった。片付けても片付けてもわいてくる仕事に忙殺されて。
まずひと悶着起きたのが、週末にあるロングホームルームの時間。
「ええっと、今日の議題は、体育祭の種目別参加割り当てについて、なんですけど」
議長をしているのは、クラス委員のマリーナとトマス君。
あ、トマス君は、短い金髪にそばかすと眼鏡がよく似合う、小柄な男の子。
すっごく穏やかで優しくて、人望が厚いんだ。まあそれはともかく。
「ええっと、うちのクラスからは、100メートル、200メートル、1000メートルの各徒競走と、借り物競争と障害物競走、後二人三脚リレーに、全員参加の応援合戦に……」
ずらずらとマリーナが読み上げる種目を、トマス君が黒板に書き連ねていく。
あの人数割り当てを作ったのは、ちなみにトラップなんだけどね。一応、どれもこれもちゃんと均等に人数が割り振られている。このあたり、さすがは理系のトラップだなあ、と感心するくらい、見事。
「一人一種目は、必ず参加してね? ええっと、まず、希望を取りたいんだけど……それとも、先に推薦にする?」
マリーナが声をあげたときだった。
「徒競走は、トラップに全部出てもらえよ」
と、誰かが叫んだ。
男子の誰かなんだけど、それが誰か、を認識する前に、似たような声があっちこっちから上がり始める。
「そーだよな。トラップが出たら、うちの組が絶対優勝だろ?」
「去年だってそうだったんだし。今年も頼むよ」
「お前普段クラブもやってねえんだから、こういうときくらい頼むぜ!」
ざわめきが、段々大きくなる。
おおお、すごい。さすがトラップ。
密かに感心してしまう。そういえば、去年の体育祭のとき、徒競走全種目を制覇した一年生がいる、って話、聞いたなあ。
その頃、わたしはトラップのことを知らなかったから、「へえ。すごい人もいるんだなあ」くらいの感想しか浮かばなかったんだけど。
「はいはいはいっ、静かにしてっ!」
ぱんぱんと手を叩いて、マリーナはトラップに視線を向けた。
「ああ言ってるけど。いい? 100メートルと200メートルと1000メートル、三種目参加で」
「……いや」
「え?」
「いや。俺、今年はちっと遠慮する」
途端にブーイングの嵐が沸き起こる。
「えー、そりゃねえだろ」
「おまえを当てにしてたのにー」
口にこそ出さなかったけど、わたしも驚いていた。
トラップの運動神経がいいのは自他ともに認めるところなんだけど。特に足の速さは折り紙つきだもんね。何しろ、去年の陸上部の部長は、トラップの勧誘に失敗したことを理由に部長の職を退いた、とかいうまことしやかな噂まで流れていたくらいで。
面倒くさがりだけど、トラップは基本的に目立つことは好きだもんね。何で、今年は出ないんだろ?
「じゃあ、どうするの? 何か一種目には、出てもらうわよ?」
「だあら、誰も体育祭に参加しねえ、なんて言ってねえだろうが。おい、おめえら」
ガタンと立ちあがって、トラップはクラスを見回した。
「俺はなあ、生徒会役員やらされて、準備準備で忙しいんだよ。本番も何やかんやと用事を言いつけられるだろうしな。だあら遠慮すんの。わかったかあ?」
そう言うと、さすがにそれ以上のブーイングはとんでこなかった。
ああ、なるほどね。そういえば、当日も多分何か用事はあるんだよね。
ううっ、今から気が重いなあ……
「そういう理由ならしょうがないけど……ああ、そうだ。でも、三種目全部に出ろ、なんて言わないから。どれか一つには出てよ。できれば1000メートル。これ、一番得点高いしね。あんたが出れば絶対優勝でしょ? ね、お願い」
マリーナがそう言うと、トラップはしばらく迷ってたみたいだけど、「……ちっ、しゃあねえな」と結局頷いた。
1000メートルねえ……わたしには絶対無理な競技だなあ。ははっ。多分出たらみんなの失笑を買うに違いない。
そんなことを思っているうちに、マリーナはてきぱきとみんなの意見をさばいて、それぞれの種目に割り振っていく。
……わたしはどうしようかなあ。無難に100メートルでも? 運動はあんまり得意じゃないんだよね。遅くもないけど早くもない、まあまあ普通? ってところで。
そんなことを考えていたとき、だった。
「じゃあ、次は二人三脚ね。これ、男女ペアだからね。ええっと、うちのクラスからは一組。誰か希望者……」
「はい」
「え?」
ぐいっ、と腕を捕まれた。
マリーナのきょとんとした視線が刺さる。……いや、マリーナ。できればわたしも同じ視線を向けたい。
な、何なの、この……わたしの腕を無理やり挙手させてる腕、は。
「ちょ、ちょっと、トラップ?」
「はい、立候補。俺とこいつが出る」
「ちょ、ちょっとお!?」
な、何なのよ!? あんたさっき、「ちっと遠慮する」って言ったんじゃなかったの!?
「……トラップ。あんたまさか、それが理由じゃないでしょうね?」
「さあ、何のことやら? それとも、俺とこいつが出ると、何かまずいことでもあんのか?」
「……他に立候補者いる?」
マリーナがクラス中を見回したけれど。誰も手を挙げる人はいない。
……そりゃ、いないでしょうよ。トラップがあれだけ睨んでれば、ねえ……
「パステルは、いいの?」
「え? いや、えと……」
いいも悪いも。状況がよくつかめない、というか……
「もちろん、いいよなあパステル」
「え?」
「いいよな?」
ううっ、何よお、その押し付けるような口調はっ……
トラップ、あんた一体何を考えてるわけ!?
「……じゃ、二人三脚はトラップとパステルね。じゃ、次は……」
抗議の声をあげる暇も無く、それは決定事項として扱われ、議題は次へと流れていった。
ちなみに、種目数と人数の関係上、一人が参加できる種目は三種目以内と決められていた、と知ったのは、この少し後だったりする。
「もー、何で強引に人の種目決めちゃうわけ!?」
「…………」
放課後の教室にて。
わたしとトラップは、例によって体育祭の雑用に追われていた。
ちなみに、今日やっているのは各クラスが今日決めた種目別参加者を表にする作業。
「ちょっと、トラップってば!」
「あんだよ。別にいいだろー? それとも、おめえ嫌なのかよ? 俺と二人三脚?」
「……い、嫌というか」
嫌じゃない。嫌じゃないけど……
「無理があるでしょ? わたしとトラップじゃ、足の速さが全然違うんだから。きっと、足、ひっぱっちゃうよ」
「ふん。おめえがそんな殊勝なこと言うなんて、槍でも降るんじゃねえ?」
「トラップー!」
ああ、もうっ。何なの最近のトラップは。
何だか、この間から様子が変じゃない? どうしたんだろ?
「トラップはあんなに足が速いんだから。徒競走に出ればいいじゃない。みんな、あんなに期待してたんだから」
そう言うと。
トラップは、舌打ちして顔をあげた。その顔は、かなり不機嫌。
「飽きたんだよ」
「え?」
「飽きたの! おめえなあ。俺は中等部の頃から、体育祭っつーとずーっと徒競走ばっか出場させられてたんだぞ? たまには別の競技に出てみてえと思っちゃ、いけねえのかよ?」
「え? え?」
まくしたてるような口調で、トラップは言った。
「足が速いとか優勝確実とか言うけどなあ! 徒競走ほどつまんねえ競技はねえぞ? ただ決められたコースを走るだけで、何の駆け引きもありゃしねえ。俺とタメはるくらい足が速い奴がいていい勝負になるってーのならまだしも、圧勝するとわかりきってんだぞ」
うわっ、さすがトラップ。自信満々。
「だあら、たまには別の競技をやってみてえって思ったんだよ。自分の実力だけじゃどうにもなんねえような競技にな。おめえみてえな鈍くせえ奴と一緒の二人三脚なら、ちっとは面白い勝負になるだろ?」
「ど、鈍くさいですってえ!?」
ひ、人を強引に巻き込んでおいて何て言い草!
わたしがガタンッ、と音を立てて立ち上がると、トラップは、ぐっ、と手をつかんで言った。
「いっぺんやってみたかったんだよ、あの競技。おめえと一緒に」
「…………」
不覚にもドキッとしてしまう。こんなときに真面目な表情するなんて反則だって!
「も、もういい。わかったわよっ。ほら、続きやろ、続き。まだまだ仕事はいっぱいあるんだからっ」
「……ああ」
握られた手を引き抜いて、再び作業を続ける。
危ない危ない、またトラップのペースに巻き込まれるところだった。いや、巻き込まれてたかな? とにかく深みにはまらなくてよかった。
……そういえば、役員につけた理由教えてくれるまで触らないで、って言ってたんだよなあ……まあいっか。手くらい。
そんなことを考えていたときだった。
「……最後の機会になるかもしんねえからな」
「ん?」
ボソッ、と囁かれたのは、よく意味のわからない言葉。
「最後? 何が?」
「……何でもねえ」
ぷいっ、と視線をそらして、書類の方に向き直るトラップ。
……やっぱり。
やっぱり、トラップ……何か、変?
週末は、書類の山と格闘して終わった。
各競技に必要な道具をかきだしたり、用具室にあるかどうかをチェックしたり。
足りなかったら、中等部や初等部の倉庫から借りる手はずを整えたり。
まあようするに、雑用なんだけどね……
わたしもトラップもそれぞれ別の仕事を割り当てられていたから、ゆっくり話す暇も無く。
だから、わたしは気づいてはいたのに聞こうとはしなかった。
トラップの様子が変な理由。何だか最近、よく考え込んでいる理由を。
週があけて月曜日。
「今週からは、放課後に個人面談を実施する。出席順番に男女それぞれ三人ずつ、進路指導室に来るように」
ギア先生の声が響く中、わたしは机の下で、今日クレイに渡す書類が揃っているかのチェックをしたりしていたんだけど。
進路希望調査。そういえばそんなのもあったなあ……
いやいや、もちろん提出はしたよ? 悩むほどのことでもないし。結局、無難に文系志望、文学部志望で、紙を渡されたその日のうちに。
出席順番で三人ずつ、ってことは……わたしは大分後の方だから、木曜日くらいになるのかな?
「パステル、あなた、どこの学部で志望だした?」
HRが終わった後で、マリーナが声をかけてきた。
マリーナも、それともう一人の親友リタも、わたしと同じくこのまま大学に上がるはず、だけど。
「わたしは文学部。マリーナは?」
「わたしはねえ……迷ったんだけど。理系に行こうかな、って思ってるの」
「え!? 理系!?」
「そっ。わたし、将来服飾関係につきたいのよね。それも、自分でお店を持ちたいのよ、できれば。だから、経理とかに強くなりたくて……」
「へーっ……」
さ、さすがマリーナ。既にしっかり将来設計ができてるんだ。
自分でお店を持つ、かあ……マリーナなら、きっと実現するだろうな。
……わたしはどうなんだろう? 小説家、なんて、まさに夢そのもの。実現する可能性は……あるのかなあ?
「ねえ、あんたは?」
「んあ?」
わたしが思わず考え込んでいると、マリーナが、隣の席のトラップに視線を向けた。
「トラップは、どこにするの? あんたのことだから理系よね? あの成績なら、医学部だって行けるんじゃない? どこにするの?」
「…………」
マリーナの言葉に、トラップはしばらく黙っていたけど。
「……ま、適当に、行けるとこでも」
とだけ答えて、机につっぷした。
最近仕事仕事で寝る時間がどんどん遅くなってるから、その分を取り戻すつもりらしい。
「嫌味ねえ。あんたの成績で、行けないとこなんて無いでしょうに」
「…………」
トラップは返事もせず、そのまま眠り込んだみたいだった。
行けないとこは無い、かあ。
そういえば、トラップって……将来の夢とか、あるのかな? 聞いたことないけど。
今度、聞いてみようかな。
ちょうどそのとき、チャイムが鳴って、先生が教室に入ってきた。
マリーナが慌てて席に戻る。
……トラップ、起こした方がいいんだろうか。いや、彼のことだから、どうせ起きないだろうなあ……
早々に諦めて、わたしは机から教科書を取り出した。
雑用に追われまくっているうちに、あっという間に日は流れていって。
わたしの個人面談が行われたのは、予想通り木曜日のことだった。
ちなみに、出席順番で男女三人ずつ、ということは。
わたしと同じ出席番号であるトラップも、当然同じ日に面談があるわけで。
ぎりぎりまで仕事を追われて、二人で進路指導室まで行く。
……この部屋でギア先生と二人っきり、っていうと……何だか、ちょっとアレな思い出が蘇ってきたりするけど……
だ、大丈夫だよね? 何しろ今回は本当に進路指導なわけで。わたしの後にまだ次の面談の子が控えてるし。何も心配することは、無いよね?
なーんて言い聞かせてしまう自分が悲しい……
ギア先生は、もう何もしないって誓ってくれたんだから! 先生を信じなくてどうするの!
トラップが部屋に入っている間、わたしはずっと、そんなことばっかり考えていた。
だってねえ……面談、と言っても。
一応進学に問題ない程度の成績はキープしてるし。志望学部も決まってるし。別に話すようなことは何も無いはずなんだよね。
昨日のうちに面談を終わらせたリタとマリーナも、「志望をもう一度確認して、成績を確認して、それで問題が無ければはいおしまい、程度の面談だったわよ」って言ってたし。
だから、あまり緊張するようなことでもないし、そう長くはかからないはず、なんだけど。
何故か、わたしの前に教室に入っていったトラップは、なかなか出てこなかった。
……何話してるんだろ?
トラップだもん。成績に問題がある、ってわけじゃないよね? 何かもめてる……? まさか喧嘩してるってことはないでしょうけど。
部屋に入るわけにはいかないし、声は全然外に漏れてこないから、推測することしかできない。結局、トラップが外に出てきたのは、それから20分後のことだった。
「トラップ、随分遅かったね。何話してたの?」
「…………」
「トラップ?」
「お、おう? あ、いや、別に」
何やらボーッとしていたらしく、わたしが声をかけても、しばらく反応が無かった。
……おかしい。何だか、全然いつものトラップらしくない。
そういえば、最近よくギア先生に呼び出されてたよね? ……本当に、どうしたんだろう?
「トラップ、何かあったの?」
「……別に。おめえ、早く行けよ。後がつかえてんだから……ギアの奴が待ってんぞ」
トラップの声に押されるようにして、教室のドアを開ける。
……怪しい、おかしい。絶対変。
最近、トラップ……わたしに何も言ってくれなくなったような気がする。
どうしたんだろ。一人で悩まないで、相談してくれればいいのに。
……わたしじゃ、頼りないからかな?
「パステル。来てるか? 早くこっちに来て欲しいんだけど」
「あっ! す、すいませんっ」
ギア先生の声に、慌てて部屋の奥へと入る。
小さなテーブルと、向かいあわせに置いてあるソファ。
ギア先生の向かいに腰掛けると、この間提出した進路志望調査票と、わたしの成績表が、並べられた。
「さて……パステル、君はこのままうちの大学の文学部に進学希望でいいんだな」
「はい」
「希望は文系……まあ、君の成績なら問題は無いだろう。何か悩みはあるか。成績が伸び悩んでいる、とか」
「いえ、特に無いです」
「そうか」
たったこれだけで会話は終わってしまった。
うわっ、本当に短い。
それ以上、ギア先生は何も言わない。もう話は終わった、ってことだよね?
それなら、わたしはもう帰ってもいいんだろうけど。先生が何も言わないものだから、立ち上がるタイミングを逃してしまった。
「あの……」
「パステル」
「はい?」
すっ、と真面目な視線が、わたしを捉えた。
一瞬ドキッとしてしまう。こうやって見ると、ギア先生ってやっぱりかっこいい……って何考えてるのよわたしってばー!!
「あ、あの、何ですか?」
「君は、ステア・ブーツから何か聞いているか?」
「え?」
ステア・ブーツ。
それはトラップの本名。両親の仕事の都合で、危険が無いよう本名をなるべく名乗らないようにしている、というのが彼の言葉だったけど。
「何か、って?」
「……何も聞いていないのか、彼から」
「あの、だから……何を、ですか?」
言われた意味がわからなくてわたしが聞くと、ギア先生はしばらく黙っていたけど、やがて言った。
「彼が、何も言っていないというのには……多分、彼なりの理由があるんだろうな」
「……あの?」
「いや、おかしなことを聞いたね……すまない。もう行ってもいい。次の生徒が来ていたら、呼んでくれないか」
「はい。あの……先生。トラップに、何か……」
何か、あるんですか?
そう聞きたかったけれど。
聞いても教えてはくれないような気がした。クレイと同じように。
トラップが何も言わないのには、何か考えがあって。それは、他人が教えるような類のことではなくて。
「……わかりました。失礼します」
だから、わたしは黙って立ち上がり、頭を下げた。
何だか、無性に悲しかった。
ガラリ、と戸を開けると。そこにトラップが立っていた。
「トラップ!? 何、してるの?」
「……いや」
彼は黙ってわたしを見つめた後、ぶっきらぼうに言って歩き始めた。
「どうせ、この後も生徒会室に行かなきゃなんねえし? それに、まーたおめえがギアの野郎に誘惑でもされんじゃねえかと、わざわざ心配して残っててやったんだよ」
「ゆ、ゆ、誘惑って!!」
ど、どういう目で見てるのよ、失礼な! わたしって、そんなに信用無い!?
「し、失礼しちゃう。もっとわたしを信頼してよ!」
「けっ。できるかっつーの。おめえみてえな頼りねえ奴」
「なっ……」
頼りない。
それは、きっとトラップにとっては何気なく言った一言なんだろうけど。
その言葉は、やけに胸に突き刺さった。
「どうせ……わたしは頼りないわよ」
「…………?」
わたしの口調に、ただならぬ様子を感じたのか。
トラップは、足を止めて振り返った。
放課後の、人気の無い渡り廊下。差し込む夕陽が、トラップの頬を赤く染めた。
「そうよ。わたしは頼りない……何でもできるトラップと違って、わたしは何にもできない。だから何も言ってくれないの? わたしじゃ相談相手にならないから。だから何も教えてくれないの?」
「……おめえ、何言ってんだ?」
言葉ではそう言っているものの。
トラップの目は、わたしが何のことを言っているのか。薄々察しているみたいだった。
「どうして、教えてくれないの?」
「…………」
「役員に任命した理由も結局言ってくれなかった。それにっ……トラップ、今何か悩んでるでしょ? 最近ずっと様子が変だったよね? 何かあったの? 何で何も言ってくれないの?」
「…………」
「わたしだってトラップのこと心配してるのに……話してみなきゃ、わからないじゃない。どうして何も言ってくれないのよっ!?」
「……話したって」
その顔に浮かぶのは、苦痛を堪えるような……そんな表情。
「話したって、どうにもなんねえことは、あるだろ」
一歩、前に出てきた。
そうして、トラップとわたしの距離が少しだけ縮まった。心の距離は、遠く離れていっているのに。
「話したってしょうがねえことを、何でわざわざ言わなきゃいけねえんだ。俺はおめえに何もかも話さなきゃなんねえのか? おめえは俺に何もかも話してるっていうのか?」
「っ…………」
トラップの言ってることは、すごく正論だったけど。
正論だったけど、悲しい言葉だった。
「俺にだってなあ、話したくないことくらい、あるんだよ。……いつまでもくだらねえこと言ってねえで、行くぞ。クレイが待ってるだろうしな」
「……くだらない、って」
くだらないこと。
そうなんだ。トラップにとっては……これは、くだらないこと、なんだ。
そうなんだ……
「こんなの、違う」
「あ?」
「こんなのっ……おかしい。恋人同士なんじゃないの? わたし達」
「…………」
「おかしいよ。こんなの恋人同士じゃない。トラップは、本当にわたしのことを好きなの?」
「疑うのか、俺を」
かけられた言葉は、ひどく冷たかった。
「疑うのか? 俺の気持ちを。おめえを好きだって、あんだけ言ったのに。それでも疑うのかよ?」
「だってっ……」
悲しいのは、トラップを好きだからだろう。
トラップもわたしを好きでいてくれている。疑っているわけじゃない。わたしと彼は、間違いなく両思いのはずなのに。
何で、こんなことになるの……?
「だって、トラップは……いつだって、わたしのことなら何でもわかっていたじゃない」
「…………」
「それなのに、今はわかってくれてない。全然、わかってくれてないよ……」
「そりゃ、そうだろ」
凍りついたような無表情で、トラップは言った。
「俺は、おめえじゃねえ」
「…………」
「おめえのことなら、何でもわかる? そんなわけねえだろ。俺とおめえは他人なんだ。何もかもわかるなんて、そんなわけ、ねえだろ」
「…………」
他人。
それは、正しい言葉だけど……とても、とても、冷たい言葉。
「わかった……」
「…………」
「もう、いいよ……わかった。もう、何も聞かない」
たたっ、と、トラップの脇を駆け抜ける。
早く、行かなきゃ。クレイが待ってるから。
泣いちゃいけない。変に思われるから。
泣いちゃ……
そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど。
わたしの目から、涙がどんどん溢れ出て、止まらなくなった……