好きになると、相手の欠点が見えなくなると思う。
あばたもえくぼ、って言葉があるけど。欠点すらも長所に見えてしまう。本当に相手に夢中になっているときって、大体そんなものじゃないだろうか?
そうして、少し熱が冷めたときに、長所に見えていたところが欠点に見えるようになって。そこで急速に恋心が冷めていくか、あるいはかえって燃え上がるか。
欠点をひっくるめて好きと言えるかどうか。憧れと恋の違いはそこじゃないか、とわたしは考えたりする。
人間である以上、完璧な人なんてありえない。絶対に、どこかしら欠点は存在するはず。
するはず……なんだけど。
本当の本当に欠点が見当たらない人。そんな人を好きになったとしたら……熱が冷める瞬間、なんて、あるんだろうか?
そのまま、憧れを恋心だと誤解してしまう……そんなこともありえるんじゃないだろうか?
わたしは今まで、完璧な人なんていないと思っていた。
大体、人間何かしら苦手な分野はあるものだと思っていた。
だけど、わたしは17年生きてきて初めて知った。
世の中には、完璧に近い人間というのは、確かに存在するんだと……
お風呂に入るのって、気持ちいい。
特にこんな、もう九月になったっていうのに残暑が厳しくて、薄着をしていても汗が止まらないような日は。
「ふんふんふーん♪」
ふふふ、つい鼻歌が出てしまう。
今日のお風呂は、買ったばかりの入浴剤入り。
今までの緑と違って、お湯の色は海のような青。
同居人は、「夏場に風呂なんか沸かすな。シャワーで十分だろ」なーんて言ってるけど。
夏だからこそ、暑いお湯にしっかりつかって、汗をたーっぷり流すのが気持ちいいんじゃない!
そう言ったら「信じられねえ」と言われてしまったけど。いいじゃない。わたしは好きなんだから。
そんなわけで、わたしは夏でも冬でも、水道代がもったいないとかガス代がもったいないとかぶつぶつ言う同居人を諭して断固お風呂を沸かしている。
立ち込める湯気の中で、ほのかに香る入浴剤の香りは花のような甘い香り。新発売だって言われて、ついつい買っちゃったんだよね。
ああっ、楽しみっ!
ざばざばとお湯をかきまわして、ちょうどいい温度になってることを確かめて、いそいそと脱衣所で服を脱ぐ。
Tシャツにミニスカートに下着。脱いだものを全部洗濯機に入れて、そうっとお風呂場に足を踏みいれる。
まずは、シャワーで軽く身体を洗って。シャンプーをした後髪をしっかりタオルでまとめて。
それから思う存分お風呂を堪能するんだ!
くいっ、とシャワーのコックをひねると、少しぬるめのお湯が降り注ぐ。
汗まみれの身体を綺麗に洗い流し、タオルに石鹸をこすりつけようとしたとき、だった。
視界の端を、何かが走り去っていったのは。
「……うん?」
きゅっ、とシャワーを止める。湯気でけぶって見えた視界が、ほんの少しクリアになる。
何だろ、今の。目の錯覚かな?
きょろきょろと周りを見回したけど、何も見えない。
気のせい……かな?
気を取り直して、タオルを泡立てようとしたとき。
サッ
すぐ目の前を、何かが……通り過ぎた。
「…………」
見間違い、じゃない。
確かに、何かが通り過ぎた。黒くて小さくて、すごく素早い、影。
「…………」
その正体が何か、大体想像はついていたりするけど。それを認めたくはなかった。
無視しよう、と一瞬思ったけれど。一度見てしまったものは脳裏に焼きついていて、なかなか取れそうもない。
ぎぎいいっ、と音がしそうな動きで、立ち上がる。そのわたしの足元を、サササッ、と走り抜けていったのは……
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
喉の奥から振り絞るようにして、悲鳴をあげていた。頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなった。
あ、あ、あ、あれはっ……
「きゃあきゃあきゃあきゃあああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
よろめく足取りでお風呂場のドアを開ける。そのまま脱衣所に転がり出て、震える手でそのドアを開けようと……
「きゃあああきゃああああきゃあああああああああああああああああああああああああ!!!」
「あんだ!? どーしたっ!!!」
バンッ!!!
そのとき、つかもうとしたドアノブが勝手にまわって、外からドアが開かれた。
そこに顔を出したのは、サラサラの赤毛に端正な顔立ち、スラッと引き締まった身体がまあまあかっこいい、わたしの同居人……にして恋人でもある人、トラップ。
彼は、わたしの姿を見た瞬間、ぎょっとしたように足を止めたけれど、わたしはそんなことに構っていられなかった。
「トラップ、トラップトラップトラップ!! た、た、助けてえええええ!!!」
「な、何だよ、だあら、何が起きたんだ!?」
パニックになってトラップの胸にしがみつくと、彼は、わたしの両手首をつかんで、じっと顔を覗き込んできた。
「お、お、お風呂場に……」
「覗きでも出たのかっ!?」
「ち、ちがっ……」
要領をえないわたしの言葉に、彼は舌打ちして自らお風呂場へと足を踏み入れた。
そして。
「…………」
あわあわと言葉が出なくて身振り手振りで状況を説明しようとするわたしに、とっても冷ややかな視線を注いできた。
「おい、パステル」
「う、うん?」
「まさか、おめえが騒いでいた原因は、これか?」
「きゃあああああああああああああああああああああ!!!」
サササ、とお風呂場を走り回る侵入者。
それを素手でつかまえて、トラップは、ぐいっとわたしにつきつけてきた。
いやあああああああああ!! ち、近寄らないでよおおおおおお!!
「ば、馬鹿っ。バカバカバカバカー!! 捨てて捨てて、早く捨てて見せないでーっ!!」
「あのなあっ。たかが虫一匹に大げさなんだよっ!!」
「だ、だってだってだってだってー!!」
まだ生きてるらしく、トラップの手の中でカサカサ動くその足を見て、わたしは失神してしまいたくなった。
な、何で平気なのよ!? どうして素手でつかめるのよっ!!?
そ、それは……ゴキブリなのよー!!!?
ぐしっ、とトラップが手に力を入れた瞬間、侵入者はあっさりと昇天してしまったみたいだった。
トラップは、それを窓の外からぽいっ、と放り出して、「はああああああ」と盛大なため息をついてみせた。
その一部始終を見せられて、わたしはもう、腰が抜けてしまって……
世の中、あれを好き、なんて人はいないんじゃないかと思う。
特に、女の子なら、10人に9人、100人に99人が悲鳴を上げるんじゃないだろうか?
ご多分に漏れず、わたしもあの生物が大の苦手だったりするんだけど。
それをあっさり素手で抹殺してみせたトラップの視線は、どこまでも冷ややかだった。
何だか顔が赤いように見えるのは、暑いせいだろうか。
「ったく。おめえって奴は……今にも殺されそうな悲鳴あげるから、何があったんだととんできてみりゃあ……」
「だだだ、だって……」
情けないことに、わたしはもう半泣き状態。
だってねえ……「今から出ます」と予告されて心の準備をしていたのならまだしも、すっかりリラックスしていたときに突然目の前に現れたんだもん!
お、女の子なら当然の反応じゃない!?
わたしがそう言うと、トラップは「けっ」と笑って言った。
「何がどう怖いんだよ。別にかみつきゃしねえし刺すわけでもねえし。怯える理由がねえだろうが」
「そ、そういう問題じゃないのよ!」
きいい! そんな冷静な物差しで計れる問題じゃないのよっ!
何て言うんだろう……生理的嫌悪感? とにかく、見た瞬間背筋がぞおっとするっていうか……言葉でうまく説明するのは難しいけれど。怖いものは怖い。それが真実。
そんなようなことを訴えると、トラップは「わかったわかった」と手を振って、そして、しゃがみこんで、わたしと視線を合わせた。
その表情が、困ったような怒ったような表情から、一気に軽薄な……いたずらっこのような笑みに変わる。
…………?
びびびっ、と走る嫌な予感。彼がこんな顔をするときは、大抵ろくでもないことを考えていて……
「トラップ……?」
「パステル。わかったわかった。さてはおめえ……わざとだろ?」
「え?」
「そうだよなあ。あんくらいのことで大騒ぎするなんて、おめえらしくねえもんな? もう泣かねえって約束したしなあ」
「は、はあ?」
そういう約束は確かにしたけれど、それはちょっと状況が違うというか……とにかく、何で今、この場でそんなことを言われるのかがわからなくて、わたしが首をかしげていると。
「つまり、おめえ……俺を誘ってんだろ?」
「はあああああ?」
ニヤニヤ笑いながら言う彼の顔は、どう見ても冗談を言っているようにしか見えないけれど。
それでも、何でそんな冗談が出るのかがわからない。
「な、何言ってるのよ?」
「いやあ。だって、おめえ……」
じーっ、と視線を顔から下にずらして、彼は言った。
「そんな格好でしがみつかれたら、男なら誰だってそう思うだろ?」
「…………」
トラップの視線をたどる。
お風呂に入っている最中の出来事だった。当たり前だけど服は全部脱いでいた。
つまり、今。わたしは、トラップの前で、一糸まとわぬ姿をさらしていて……
「…………!!」
今更そんなことに気づいて、ぼんっ、と顔が真っ赤に染まるのがわかった。慌ててタオルと服に手を伸ばそうとしたけれど、その手は、がっしりとトラップにつかまれてしまう。
「ちょっ、やだっ……」
「今更やだっ、って言われても。誘ってきたのはおめえだし?」
「誘ったんじゃないってば!!」
わたしの抗議なんか完全に無視して、トラップは、実に楽しそうにわたしを脱衣所の床に押し倒した。
「ちょっとっ……」
「いやあ。我慢しようしよう、と思ったんだけどなあ。いつまでもそんな格好でいられたら、俺も男として、何かしらの反応を示さねえとかえって失礼にあたるんじゃねえかと」
「な、ないない、そんなことないってば! は、離し……」
すっ
首筋に唇が降りてきて、びくっ、と背中がのけぞった。
シャワーを浴びた後だったから、身体にはまだいくらか水滴が残っていて。
トラップの舌が、その水滴を一つ、また一つとなめとっていった。
ぞくり、ぞくりとした感覚が背筋を走る。
「あっ……」
「……おめえの味がするな」
ぺろり、と唇をなめあげて、トラップはニヤリと笑ってみせた。
ば、ばかばかー! 何言ってるのよっ!!
最初は冗談交じりの行為だったのに。どうやらトラップは段々と本気になってしまったらしい。
軽薄な表情に真面目な表情が混じり始めるのを見て、一瞬身体が強張った。
裸を見られている、と思う羞恥心と。微妙な部分に触れる唇。それらが全身にしびれるような快感を与えて……
「トラップっ……」
すいっ、と太ももをなでらる。目に涙が滲み始めたのは、決して不快な気分になったからではなかった。
やっ……もう、抵抗できないっ……
実は、恋人同士なのに。一緒に暮らしているのに。まだ、キス以上の経験をしていないわたし達。
ここぞというときに色々邪魔が入ったり。わたしが抱かれるということに妙な抵抗を感じていたりするせいなんだけど。
でも、嫌か、と聞かれたら……それ自体は決して嫌じゃない。トラップを好きだ、という気持ちに偽りは無い。
何が嫌なのかって、「付き合う=身体の関係を結ぶ」になってしまうことでっ……
「やあっ……だから、駄目だってばっ……」
「駄目って言われてもなあ。おめえ、きっちり反応してるくせに……」
耳元で、意地悪そうなささやき声が漏れる。
そっと頬をなでられた。身体を這い回っていた唇が、わたしの唇へと降りてくる。
「助けてやったんだからよ。お礼の一つくらいもらったって、いいだろ?」
「…………」
助けてやった、という言葉に、わたしの頭に浮かんだのはさっきの出来事。
……あれ、そういえば。
頬に触れる手。それを見て、わたしは重大なことに気づいた。
「や、やだやだやだやだーっ!!」
「うおっ!?」
ぶんぶんと手を振り回す。いきなりの激しい抵抗に、トラップは驚いたように身を離した。
「やだっ、触らないでー!!」
「な、何だよ突然!? おめえなあ、一体俺のこと……」
文句を言いかけるトラップに、びしいっ、と指をつきつけた。
そういう問題じゃ、無いのよ!!
「ゴキブリを触った手でわたしに触らないでー!!」
そう叫んだ瞬間、トラップはがっくりと肩を落として、「気分がそがれた……」なーんて言いながら脱衣所を出て行った。
あ、当たり前でしょっー!? 乙女の身体を何だと思ってるのよ!!
その後、無事にお風呂に入り直すことができてやっと一息つけた。
はあ。どれだけ綺麗にしてるつもりでも、やっぱりあの生物を完全駆除するのは無理なんだよねえ……
特に、今はまだ暑いから。冬場になれば少しは減るんだろうけど……
ううっ、駄目駄目、早く忘れよう。
ぶんぶんと頭を振って、気持ちを切り替える。
そういえば、何だかんだでトラップにお礼言いそびれたなあ。後でちゃんと言わなくちゃ。
そんなことを考えながら、パジャマに着替えて髪の毛を乾かした後、台所に顔を出す。
何となく予想していたけれど、そこには不機嫌そうにアイスコーヒーを飲んでいるトラップの姿があった。
「トラップ、さっきはごめんね」
「ああ?」
椅子に座りながらそう言うと、トラップはすっごく皮肉っぽい笑みを浮かべて言った。
「謝るってこたあ……お礼くれんの?」
「ありがとうありがとうありがとう。はい、お礼」
そう言って頭を下げると、トラップはすんごく不満そうな顔でぷいっと視線をそらしてしまった。
……冗談だってば。
「ごめんごめん。でも、本当に感謝してるよ? ありがとう」
「けっ。わかりゃあいいんだよ、ったく。まあったく、そんなに怖いもんなのかねえ、あんな虫が」
「怖いわよ」
そう言うと、「女ってわかんねえよなあ」なんて言われてしまった。
……わたしにしてみれば、「何で怖くないの?」って聞きたいんだけどなあ。男の人にだってあれが苦手な人はいっぱいいるのに。素手でつかんだ挙句に握りつぶすなんて、ちょっと信じられないんですけど。
「トラップって、怖いものないの?」
「ああ?」
「だって、よく考えたらわたし、トラップの弱点とか、そういうの見たことないなあと思って」
そう言うと、トラップは「ふん。俺に弱点なんざ、あるわけねえだろ?」なーんて言ってきたんだけど。
うーん。でも、その言葉否定できないんだよねえ。
トラップ。本名ステア・ブーツ。
わたしと彼の関係は、親同士が友達だった、という縁から、わたしの両親が事故で死んだのをきっかけにブーツ家に引き取られてきたことから始まった。
それから実は婚約してただとか色んな事実が判明し、様々な経験を乗り越えて恋人同士になったんだけど。
彼のご両親は麻薬取締官という非常に特殊な仕事についていて、ほとんど海外で暮らしている。結果、わたしとトラップは同居というより同棲に近い形なんだけど……まあそれはともかく。
わたしが来るまではほぼ一人暮らし状態だった彼だから、料理を始めとして一通りの家事はできる。
手先が物凄く器用で、先日浴衣の着付けすらできることが判明したし、17歳にしてバイクの免許も所持している。
運動神経は抜群によくて、一年生の頃は運動部からの勧誘が物凄かったらしい。もっとも、彼本人は「部活動なんて面倒くせえ」とそれから逃げ回っていたみたいだけど。
それでいて頭もいい。中間試験も期末テストも、彼の名前は学年上位五位以内に必ず入っていた。
そして、さっきも言ったけれど。中身がそれだけ完璧な上に、外見もそこそこ整っている。背も割と高いし足も長い。見た目はすっごく細身だけど、それは無駄な贅肉が全然無いからで力はしっかりある。
しいて難があるとすれば寝起きが悪いところと口が悪いところなんだけど。決して性格が悪い、ということはない。むしろ見えないところではすごく人に気を使っている人だと思う。まあ、それが非常に表からはわかりにくい性格でもあるけど。
特に好き嫌いも無く何でも食べてくれるし、さっきも言ったようにゴキブリですら彼を恐れさせることはできなかった。怖いもの知らず、っていうのはきっとこういう人のことを言うんじゃないだろうか。
欠点、弱点が見つからない完璧な人……改めて考えると、トラップってすごいなあ、と思ってしまう。
……何だか悔しい。
「ねえ、本当に何も無いの? 実は歌が苦手とか、注射が嫌いとか」
「……おめえなあ。何でそうこだわるんだ? そんなに俺の弱点が知りてえかよ?」
「知りたいっ」
そう言うと、「はああ〜〜」と盛大なため息をつかれてしまった。
……だって、悔しいじゃない。わたしには苦手なものとか嫌いなものとかいっぱいあるのに。トラップにはそういうのが全然無いなんて、何だかずるい。
それに……ねえ。
好きな人のことは何でも知りたいって思うのは……変、かな?
いやいや、これは口に出さないけどね。言ったら調子に乗りそうだし。
わたしがじいっ、と見つめると、トラップは、ちょっと天井を見上げてつぶやいた。
「そうだなー。俺の嫌いなもの……怖いもの、ねえ……」
しばらく沈黙が流れる。考えなきゃ自分の欠点がわからないなんて……そのあたりが既に普通の人じゃないと思うんだけど。
わたしがそんなことを考えている間、彼はたっぷり数分かけて、うんうんと唸り、やがてパチン、と指を鳴らした。
「あー、あるぜ。怖いこと」
「何!?」
あるんだ、やっぱり!? そうだよね。トラップだって人間だもんね!
がばっ、と身を乗り出すと、彼は、ニヤリッと笑って、わたしの肩をつかんだ。
「おめえ」
「……え?」
ぐいっ、と身体を引き寄せられた。あっという間に、唇にかすめるようなキスが降って来る。
「おめえに嫌われること。それが怖いな」
「…………っ!!」
ぼぼんっ、と頭に血が上る。そんなわたしを見て、彼は大爆笑しながら台所を出て行った。
かっ……からかわれたっ!? ま、ま、まったくう!!
へたへたと力が抜けて、椅子に座り込んでしまう。
……でも、冗談だとしても。
そう言ってもらえて、ちょっと……かなり、嬉しかったかも?
にへらっ、と表情が緩むのを自覚しながら、わたしはトラップが置いていったグラスを流しへと運んだ。
助けてくれたお礼と、さっきの言葉のお礼。
洗い物くらい、かわりにやってあげることにしよう。
結局のところ、トラップには本当に弱点なんか無いのかもしれない。
新学期が始まったばかりの学校で、わたしが親友のマリーナやその恋人、クレイに話すと、二人は揃って「トラップの弱点? パステルでしょ」なーんて言ってきたけど。
まあその言葉の真偽はともかく、「わたし以外には?」と聞いたら、二人も「うーん」と首をかしげてしまった。
無いものは見つけようもないわけで、「世の中不公平だなあ」なんて、諦めのいいわたしは早々にその話題を忘れることにしたんだけど。
意外なところからトラップの弱点が発覚したのは、それから数日後のことだった。
その日、珍しいことに、わたしとトラップの帰宅時間がずれた。
わたしも彼も部活動はしていないし、同じクラスで同じ家に住んでいるから、大抵一緒に帰ってたんだけど。
今日、トラップは担任のギア先生に、「話があるから放課後残れ」って言われて、いつ話が終わるかわからないからわたしは先に帰ることにしたんだ。
ギア先生とトラップ。実はとある出来事のせいで、二人の仲は決して良好とは言えないんだけど。
話があるって言われたとき、トラップ、顔ひきつってたもんね。「けっ。受けて立つぜ」なんて明らかに何か勘違いしたことを言いながら教室を出て行ったんだけど……何の話しなんだろう?
ま、いいや。帰ってから聞こう。
駅から家までの道すがら、途中で夕食の買い物を済ませて住宅街の中を歩いていく。
この街に来たばっかりの頃は、しょっちゅう迷子になってたんだけどね。さすがに、もう何ヶ月も暮らしていると、近くの地理くらいは覚えてくる。
てくてく歩いて、家まで後数分、というところまで来たときだった。
曲がり角を曲がった瞬間、誰かにどんっ、と激突してしまう。
「きゃっ」
「おっと、失礼」
倒れそうになったところを、ぐっ、と腕をつかんで支えられる。
「悪かったのう。大丈夫かい?」
「は、はい。すいません」
ぺこり、と頭を下げて、そして驚いた。
わたしの腕をつかむ手は、すっごく力強かったけれど。相手は、どう見ても70歳近いお爺さんだったから。
見事な白髪と、綺麗に整えられたひげがすっごく上品な雰囲気。頭に帽子をのせて、身につけているのは随分と高そうなスーツ。背筋はしゃんとしていて、年より10歳以上は若く見えそうなお爺さん。
「あ、あの、本当にごめんなさい」
「いやいや。わしがボーッとしてたのが悪いんぢゃ。怪我はないかの、お嬢さん」
「はい、大丈夫です!」
そう言うと、お爺さんはにかっ、と笑った。すっごく素敵な笑顔だなあ、と思わず見とれてしまう。
そのまま成り行きで、わたしはその人と一緒に歩き出した。まあ、わたしはすぐに家についちゃうんだけどね。お爺さんは、どこまで行くんだろう?
「そう言えばお嬢さん。この近辺に住んでおるのかな?」
「はい」
「ほうほう。では、ブーツという家をご存じかな?」
「……え?」
言われた言葉に、一瞬ぽかんとしてしまう。
ブーツ……って、トラップの家のこと、だよね?
そうだよね。この近所に同姓の人はいなかったと思うし。
……あれ?
「はい。わたし、その家の住人です」
「ほお?」
わたしの言葉に、お爺さんは目を細めて、じーっとわたしを見つめた。
「お嬢さん、ブーツ家の人間かね?」
「いえ、両親が亡くなって、引き取られたんです。父が、ブーツさんとお友達だったそうで」
「ほお」
そう言うと、お爺さんは納得したように頷いた。
「そう言えば、テリーの奴め、そんなこと言っとったな。お嬢さん、もしやキングさんかな?」
「はい。パステル・G・キングといいます。あの、お爺さん……」
話しているうちに、家に辿り付いた。門を開けると、お爺さんも一緒についてきて……
「あの、お客様ですか?」
「客。客なあ……まあ、そんなもんぢゃな」
「そうなんですか」
うわあ、すごい偶然……でも、この人誰なんだろう?
テリー。テリーねえ……誰の名前だっけ? 何だか聞き覚えがあるような。
まあとにかく、お客様なんだからおもてなししなくちゃね。
とりあえず、わたしはお爺さんを居間に通して、熱い緑茶を出してみた。
まだ外は暑い時期だけど、ご老人にはこの方がいいよね、多分。
「いやいやありがとう。全くこんなに丁寧にもてなしてもらえるとは予想外ぢゃったわい。あの小僧だったら、こうはいかんからのう」
「小僧?」
「おお。そういえばお嬢さん……パステル、と言ったな。今は、あんた一人しかおらんのかね?」
「はい。あ、でも、もう少ししたら、トラップが……この家の息子さんが戻ってくると思いますから」
「ほう……懐かしいのう。あいつは元気にやっとるか?」
「はい。とっても」
お爺さん、トラップのこと知ってるんだ? あれ? ってことは、この人はもしかして……
わたしが、彼の正体の想像がついたときだった。
がちゃん、と玄関の鍵が開く音がした。
あ、帰ってきたんだ。よかったー、話は短くすんだみたい。
「トラップ、お帰り! あのね、お客さんが来てるよ」
そう言いながら玄関に出迎えに行くと、トラップはやけに不機嫌そうな顔で、「ああ? 客う?」と言ってきたんだけど。
わたしの後ろから顔を覗かせたお爺さんを見て……すうっ、とその顔から血の気がひいた。
……あれ?
どさっ
不審に思っていると、トラップは、腰を抜かしたみたいに玄関に座り込んで、震える指でお爺さんを差して叫んだ。
「じ、じ、じいちゃん!? あんでこんなとこに!!?」
「大層な言い方ぢゃな。可愛い孫の顔を見に来たに決まっとるぢゃろうが」
そう言って、お爺さんは、にかっ、と素敵な笑みを浮かべたのだった。
……トラップの、お祖父さん?
何となく想像はしていたけれど。改めて言われると、「へえっ」と思ってしまう。
そう知ってから見てみると、ちょっと雰囲気がトラップに似てるかも? どこがどう、って言われても困るんだけどね。
……それにしても。
トラップのあんな顔……初めて見た!
「うぷぷぷぷっ……」
「あに笑ってんだ、おめえ……」
トラップの、この上なく不機嫌そうな声が背中にふりかかる。
「な、な、何でもない……」
震える声でそう答えると、「けっ」と言いながら、彼はわたしが差し出したお盆を持って居間へと向かった。
ただいま夕食の準備の最中で、トラップはそれを手伝ってくれている。
あのトラップがだよ? いつもなら、わたしが料理するのを後ろで眺めて「おーいまだかあ。俺腹減ってんだけど」なーんてことをほざいているあの人が!
それもこれも、原因はみーんな……
「ほれ小僧。もっとちゃきちゃき動かんか! パステル嬢ちゃんの手を煩わせとるんぢゃなかろうな?」
「っ……だあら、ちゃんと手伝ってんだろーが!? どこ見てんだよじじい!」
「口の悪い小僧め。そういうことを言うのはこの口か? この口か? ああん?」
「ひてっ、ひたい、痛い、いてえっつーのー!!」
ぷっ……ぷぷぷぷぷっ……
と、トラップには悪いけど、笑いが止まらない……
だってだーって、あのトラップがだよ? 学校の先生にさえクラスメートと大差ない態度とって、いつだって「自分が一番!」っていうあの人がだよ?
おじいちゃんの前では、あんなに……
「くっ……あはははははははははっ!」
「パステルっ! てめえ、何笑ってやがるっ!」
「な、何でもない……」
「……後で覚えてやがれ」
背後から、すごーく黒いオーラが立ち上ったようだったけれど。
そのオーラは、ぽかっ、という軽い音とともに、あっという間に霧散した。
「女性に向かって何という口の聞き方ぢゃ、嘆かわしい……テリーの奴め、だから言ったんぢゃ。わしに預けてみせれば、今頃立派な……」
「けっ。てめえなんぞに預けられてたら、今頃命がなくなってらあ」
そんな憎まれ口を叩いた瞬間、さっきと同じくほっぺたをつねりあげられるトラップ。
あ、ちなみにテリーさんって、トラップのお父さんの名前なんですって。し、知らなかったわ……
まあ、それはともかく。
あのトラップが! おじいちゃんの前では形無しというか……
弱点や欠点なんか無い、と思っていたトラップだけど。やっぱり彼にも、苦手なものはあったんだ。
うわあっ、意外な発見だあ。
「はい、お待たせしましたー」
「おおう、すまんのう。この能無し小僧が役立たずなもんで」
「いいえ、そんなことないです」
の、能無し小僧。あ、駄目だ……わ、笑いがっ……
今日のメニューは、おじいちゃんのことを考えて、ちょっとあっさりした味付けの和食。トラップと二人だと、どうしても洋食中心になるからね。たまにはこういうのもいいでしょう。
「ほほう。うまそうぢゃのう……若いのに大したもんぢゃ」
「いえいえ、トラップのお母さんみたいにはいきませんけど」
「うむ。あの嫁の料理は抜群ぢゃからな。また食ってみたいものよ……テリー達は、相変わらずかね?」
「はい。仕事が忙しいみたいで」
会話だけ抜き出すと、すごーく和やかな食事風景に見えるかもしれないけれど。
会話の外では、トラップが料理に手を伸ばそうとしてはおじいちゃんにおかずをかっさらわれていたりする。
「このじじいっ!」「あーん? 聞こえんのう」なんていう小声のやりとり。聞いているだけでも、顔がにやけてしまうっ……
まあ、そんなこんなで。久々に賑やかな夕食風景となった。
「ふう、いや堪能させてもらったわい。パステル嬢ちゃんはきっといい嫁さんになるぞ」
「ありがとうございます」
うわあ、照れるなあ……というか、料理を褒めてもらったの久しぶりかもしれない。
トラップって、食べることはしっかり食べるくせに滅多に褒めてくれないんだもんなあ……ちょうどいいや。これを機におじいさんに色々言ってもらおうかな?
一瞬そんな考えが頭を掠めたけど。トラップのぐったり疲れきった顔を見ていると何だかかわいそうになったのでやめておくことにした。
そんなわけで、しばらくわたしとおじいちゃんはほのぼのと会話を交わしていたんだけど。
「あ、そろそろお皿片付けないと」
とわたしが立ち上がったときだった。
「おい、小僧」
「あんだよ」
すっかりふてくされてソファーに寝転がっていたトラップに、おじいちゃんの声がとんだ。
「お前、パステル嬢ちゃんは既にものにしたのか?」
どたっ!!
その言葉に、トラップは派手に床に転げ落ちた。
……ものにした?
えと。それって……
言われた意味がわかって、わたしがかーっと真っ赤になっていると、トラップがおじいちゃんにつかみかかっていった。
「い、いきなり何言い出すんだこのじじい!」
「ぢゃからじじいと言うな。ふふん、わしの目を甘く見るなよ? お前がパステル嬢ちゃんにぞっこん参っとるのは見た瞬間わかっとったわい。で、どうなんぢゃ?」
「…………〜〜〜〜っ!!」
トラップの顔が一瞬のうちに真っ赤に染まった。
何か言いたげに口をぱくぱくさせているけど、何も言葉が出てこないみたい。
ところが。
そんなトラップをしばらく眺めた後、おじいさんは、げらげらと笑い出した。
「わあっはっは。カマをかけてみたんぢゃが……図星のようぢゃのう」
「じじい〜〜〜〜っ!!」
「怒るな怒るな。何もかも未熟なお前ぢゃが……そうぢゃな」
そこで、お爺さんはわたしの方をちらりと振り返った。
「女性を見る目だけは確かぢゃと、認めてやってもいいぞ?」
「…………」
おじいさんの言葉に、トラップも、そしてわたしも、しばらく何も言えなかった。
えと……えと、それって……
トラップは、しばらくうつむいていたけど、「けっ。あたりめえだろ?」なんて言って、もう一度ソファーに寝転がった。
耳まで見事に赤く染まっている。……照れてる?
まあ、それは、わたしも同じなんだけど……
おじいさんは、そんなわたし達の様子に気づいているのかいないのか、げらげら笑いながら食後のビールを楽しんでいて……
この家では、きっとこの人にかなう人は誰もいないんだろうなあ。
わたしは、何となくそんなことを悟っていた。
すっかりおじいさんにやりこめられて、下手なことを言えば墓穴を掘るだけだと悟ったのか。
トラップは、「風呂入ってくる」と言い捨てて、居間を出ていってしまった。
あー、そういえばまだお風呂沸かしてないや……トラップはシャワーだけでいいんだろうけど……沸かしておいてくれるかな?
……無理だろうなあ。
声をかけようかと思ったけれど。トラップの姿はもう脱衣所に消えていた。
いいや。今日はちょっとくらい遅くなったって。
そんなことを思いながら紅茶を入れていると、おじいさんが飲み終えたビールのびんとグラスを流しまで持ってきてくれた。
「あ、いいんですよ。置いておいてください」
「いやいや。突然来たからのう、これくらいは。迷惑ぢゃったか?」
「いいえ、全然。すごく楽しかったです。いつもトラップと二人だけだから、本当に嬉しかった」
これは本音だった。トラップだって随分賑やかな人だけど。やっぱりこの広い家に二人だけだと、それも限界がある。
わたしがそう言うと、おじいさんは顔をほころばせてわたしを手招きした。
「え?」
「ちょっと話を聞いてくれるかのう。何、老人のたわごとぢゃて。聞き流してくれればいいんぢゃが」
「い、いえ。わかりましたっ」
洗いかけのお皿を置いて、台所の椅子に座る。
おじいさんは、そんなわたしを、じいっと見つめていた。
……何だろ? わたし、何か失礼なことしたかな?
何だか落ち着かない気分になってわたしがもじもじしていると、おじいさんは柔らかい笑みを浮かべて言った。
「パステル嬢ちゃん」
「はい?」
「あいつを……トラップのことを、よろしく頼んでいいかね?」
「え??」
思わずまばたきをしてしまう。何で突然そんなことを言われるのかわからなくて。
頼む……トラップを? わたしに?
「わたしに頼む必要なんか、ないと思います……むしろ、わたしはいつもトラップに助けてもらっていて」
わたしの言葉を、おじいさんは黙って聞いていた。
「トラップは、何でもできるから。わたしなんか、方向音痴だし、ドジだし、いつもいつもトラップに迷惑かけちゃって……」
「いいや」
ふるふるとおじいさんは首を振った。その顔は、相変わらず優しかったけど。でも、目は真面目だった。
「あいつは半人前ぢゃよ。一人では何にもできん奴ぢゃ」
「そんなこと……」
「いいや。わしは、今日ここに来て……驚いたよ。あの小僧が、あんなに生き生きとしとるのは、初めてぢゃったから」
「……え?」
意外な言葉だった。
初めて? わたしが見ているトラップは、いつだって生き生きとしてて、自信満々で……
わたしがそう言うと、おじいさんはふうっ、と息をついた。
「パステル嬢ちゃん。あいつの親が、仕事仕事であいつのことをあまり構ってやれなかったのは……知っとるかね?」
「……はい」
それは、トラップ自身に以前聞いていた。
ご両親が忙しいから、小さい頃はずっと親戚の家に預けられていた、と。
だから誕生日も祝ってもらったことはなかった……そう言って、彼は、誕生日パーティーを開こうと言ったわたしに、心底嬉しそうな笑みを浮かべてくれた。
「まあ、あいつも今はいい年ぢゃからな。大して気にもしとらんようぢゃが……子供の頃は、よう一人でべそをかいとったわ。本当はわしが引き取ってやれればよかったんぢゃがなあ。わしもその頃は仕事を持っとってな。それに、あれでも唯一の内孫。ゆくゆくはブーツ家の名前を背負ってもらう奴ぢゃからな。ついつい厳しくしつけてしまってのう。『じいちゃんと暮らすのは嫌だ。怖い』と言われてしまったわい。全く恩知らずな孫ぢゃて」
……何だか、「厳しく」って言葉がさっきの光景とはちょっと結びつかないんだけど。
どんな躾をしてたんだろう……? そういえばさっき、「命がなくなってる」とか不穏な発言が出ていたような……
色んな疑問がとびかったけど。わたしの様子に気づくことなく、おじいさんの話は続く。
「それなりの年になって一人で暮らすようになって。年に一度くらいは、顔を見に来とったんぢゃがな。いつだって、何というか……いつもいつも騒がしいが。それは空騒ぎをしとるというか、心から笑ったことなどないんじゃないか、そう思って気にかけとったんぢゃがなあ……ああ見えて寂しがりやな奴でな。全く男のくせに情けない奴ぢゃて」
そう言って、おじいさんはわたしが入れたお茶をぐっと飲み干したんだけど。
さ、寂しがりや……? トラップが?
何だか、すっごく似つかわしくない単語なんですけど……
でも、ありえないことだ、とは言い切れない気がした。
ずっと小さい頃からほとんどご両親に会えなくて、中学生くらいから一人暮らしをしてて……
それって、何だかすごく寂しい生活なんじゃないか、と思う。わたしも両親は忙しい人だったけど、朝と夜は必ず顔を見せてくれたもんね。トラップとは、次元が違う。
「けどな、今日顔を見て、安心したわい。あんたと一緒にいると、あいつはそれはそれは楽しそうぢゃから……これからも、トラップをよろしく頼んだぞ」
そう言って、おじいさんはにっこり微笑んだ。
「パステル嬢ちゃんなら、安心してまかせられる。どうぢゃ? いずれ本当にあいつの嫁にならんか? わしとしては、嬢ちゃんみたいな子が孫になってくれると嬉しいんぢゃが」
「…………っ!!」
かあっ、と顔が真っ赤に染まる。
よ、嫁って……嫁って。わ、わたし達、まだ高校生なんですけどっ!?
「あ、あのっ……」
「トラップが、気にいらんか?」
「い、いえ。そんなことはっ。むしろ……」
ちらり、と脱衣所のドアに目をやる。……まだ、あがってこないよね。大丈夫だよね?
「……大好きです。今は、まだそんなことまで考えられないけど。いずれは……」
そう言うと、おじいさんは豪快に笑って言った。
「わしが、生きとる間にパステル嬢ちゃんの花嫁姿が見たいもんぢゃな」
「……わたしも」
こっくりと頷いて、わたしは言った。満面の笑みを浮かべて。
「おじいちゃんに、見てもらいたいです」
翌朝、「わしだって色々忙しいんぢゃ」なんて言いながら、おじいさんは自分の家へと戻っていった。
どうやら、ここから結構遠いところに住んでるみたい。もっと近くに住んでいたら、気楽に会えるんだろうけどなあ。
「だああああ……やーっと帰ったかよ」
おじいさんを見送った後で。トラップは、だらーっと居間のソファーに寝転がった。
「もートラップったら。自分のおじいちゃんでしょ? そんな言い方して」
「おめえなあ。昨日俺があのじじいにどんな目にあわされたのか、見てなかったのかよ?」
いや、見てたけど。
でも、すっごく楽しそうだったじゃない。
「トラップ、本気で嫌がってはいないんでしょ?」
「はあ?」
「おじいちゃんのこと、大好きなんでしょ? もー。素直になればいいのに」
そう言うと、トラップは決まり悪そうに頭をかいていたけど。
やがて、ぷいっと視線をそらして、「ま、あんなんでも血の繋がったじいさんだしな」なーんて可愛くない言い方をしていた。
全く。本っ当に素直じゃない!
……でも……
「いいなあ……」
「あ?」
ぼそり、とつぶやくと。トラップは、くるりと振り向いた。
「何か言ったか?」
「いいなあ、って。わたしも、あんな素敵なおじいちゃん、欲しかったな」
ふっと思い出す。お葬式のとき、わたしのことを冷ややかに見ていたおばあさまの目を。
わたしの両親は、駆け落ち同然で一緒になった、って言ってた。
おじいさまの顔なんか覚えてもいないし。今のところ唯一の身内であるおばあさまは……わたしのことを、疎ましく思ってるみたいだし。
だから、トラップが羨ましかった。
例え滅多に会えなくても、ちゃんとご両親がいて。あんな素敵な……トラップのことを親身になって考えてくれているおじいちゃんがいて。
「羨ましいよ。わたしは、おじいちゃんやおばあちゃんに、ほとんど会ったこともないから」
そう言うと、トラップは、ひょいっと身を起こした。
すいっ、と近寄ってきて、ごくごく自然に、わたしの顎に手をかける。
……え?
ぐっ、と力を入れられて、自然にトラップの顔を見上げる体勢になる。彼の薄い茶色の目が、じーっとわたしを覗き込んで……
「あんなじじいでよかったら、いくらでもやるぜ?」
「……え?」
「簡単じゃん」
ふうっ、と顔が近づいてくる。
わたしの耳元に唇を寄せて、トラップは囁いた。
「おめえが俺と結婚すりゃ、自動的にあのじじいはおめえのじいちゃんになるぜ?」
「……〜〜っ! なっ……」
一気に頭に血が上る。
なっ……こっ、こっ、これはっ……
「トラップ……?」
「見せてえんだろ?」
「え?」
ふいっ、と唇が移動してくる。後ほんのちょっとで、わたしの唇と触れる。そんな距離で……
「花嫁姿……あのじじいに見せてえんだろ?」
「〜〜〜〜っ!! と、トラップ……あんた……」
よみがえる昨夜の会話。ま、まさか、トラップ……
「き、聞いてたわねー!?」
「あんなでっかい声でしゃべってりゃ、自然に聞こえるっつーの」
「だ、だからって盗み聞きなんてっ」
抗議の声は、唇によって止められてしまった。
反射的に身を引こうとしたけれど、トラップの手が、がっしりと背中を支えて、それもできない。
隙間から熱い舌がすべりこんできて、無理やりわたしの舌をからめとった。
むさぼるような、激しいキスに、頭がジーンとしびれてくる。
「んっ……」
すうっ、とトラップの手が、わたしの腰にまわってきた。そのまま、服の下に侵入しようとして……
がちゃんっ
「おーいすまんすまん! 帽子を忘れていったわい。年は取りたくないのう! がっはっは!!」
玄関から響いた声に、二人同時に、慌てて飛びのいたのだった。