男の人の中には、愛が無くても抱ける人がいるらしい。 
 わたしには、きっとその気持ちが一生わからないと思う。 
 女の子はそうじゃない。好きでもない相手に抱かれるなんて、死んでも嫌だ……きっと、普通の子な 
らそう思う。 
 それでも、例え心では拒否していても。 
 力づくで抱かれそうになったとき、身体が反応してしまうことが……たまらなく辛かった。 
 わたしは汚れているんじゃないか、本気でそう思った。 
 きっと、だから。 
 だからわたしは身体をなかなか許せないんだと思う。 
 許したつもりになっていた。本当に好きな相手になら、抱かれてもいいと思った。 
 思っていても、きっと、いざとなったら…… 
 今まで色々な邪魔が入ったことを、心の奥底ではホッとしている自分に気づいたから。 
 それを言わないのは卑怯だと思った。相手に失望だけ与えて、自分は安堵しているなんて、そんなの 
は相手に失礼だと思った。 
 だから、わたしははっきり言ったのだ。 
 しばらく、身体の関係を迫るのは、やめて欲しいと。 
 もっとも、彼がそれをわかってくれたかどうか……いまひとつ、自信が無いのだけれど。 
  
 夏だった。 
 窓の外は物凄くいい天気で、容赦なく強い日差しが入り込んできて。 
 とにかく……すっごく暑かった。 
「……あっつ〜〜い……」 
 髪はきりりとポニーテールに結い上げて、着ているのはTシャツとミニスカートで。 
 もうこれ以上涼しい格好をしようと思ったら、裸になるしかない。それだけ薄着をしているのに、汗 
は容赦なく全身をつたっていた。 
「ううう……」 
 ベッドに横たわったまま、ちらり、と備え付けてあるクーラーを見上げる。 
 今日の気温は、軽く35度は行くって天気予報で言ってた。普段は、電気代を気にしてエアコンの類 
はあまりつけないようにしてるんだけど……これだけ暑いんだもん。つけてもいいよね? 
 そう思って、リモコンに手を伸ばしたのは30分くらい前のことだった。 
 そして、うんともすんとも言わないクーラーに絶望したのは29分前。 
 どうしてっ……こんなときに、故障なんかするかなあっ…… 
 はああ。ため息しか漏れない。 
 間の悪いことに、わたしの部屋は物凄く日あたりがいい。それは、冬場は喜ぶべきところなんだけど 
……夏場はただうらめしいだけだった。 
「あーっ! もう無理っ! 限界っ!」 
 がばっ、と身を起こす。 
 居間にもクーラーはあるもん。そこで涼もう。ついでに、電気屋さんに電話して修理に来てもらおう。 
そうしよう。 
「夏は嫌いじゃないけど……はあ。この暑さだけは、どうにかならないかなあ」 
 暑くなきゃ夏じゃねえだろ……同居人が言い出しそうなツッコミが浮かんで、思わず笑ってしまう。 
 読みかけの小説を抱えて、わたしは部屋を出た。 
 そのとき。 
 バタンッ 
 全く同時に、隣の部屋のドアが開いた。 
「あ、トラップ」 
「んあ? ……どーした?」 
 出てきたのは、トラップ。 
 本名ステア・ブーツ。両親が亡くなったわたしを引き取ってくれた一家の息子さんで、わたしの恋人 
でもある人。 
 鮮やかな赤毛と綺麗に引き締まった身体。頭も良ければ運動神経もよく、ただし口は悪い、そんな人。 
 トラップの両親は仕事の関係でほとんど外国暮らしをしているので、わたしとトラップは実質同棲状 
態、だったりするんだけど……実際恋人同士でもあるんだけど……まあ、色々あって、今のところは健 
全な関係を保っていたり、する。 
 まあそれはともかく。 
 トラップは、白いTシャツにハーフパンツという格好だった。人一倍暑さには弱いはずだけど、その 
顔には汗一つ浮いていない。 
 ……さては。 
 どんっ、とトラップを押しのけるようにして、彼の部屋に入る。 
 ……す、涼しいっ!! 
「あ、あんだよおめえ、突然……」 
「トラップ! しばらく部屋にいさせてー!!」 
「……は?」 
 トラップの部屋は、わたしの部屋とほぼ同じ広さで作りも同じ。もちろん、きっちりエアコンも完備 
されている。 
 ほどよく冷えた部屋。びっしょりかいていた汗が、一気にひいていく。 
 き、気持ちいいっ…… 
「おい、おめえ自分の部屋にだってクーラーあるだろ?」 
「だって、壊れちゃったみたいなんだもん! ううーいい気持ちっ」 
 思わずトラップのベッドにごろごろ寝転がってしまう。 
 冬場にほどよくあったまった部屋でもそうだけど。どうして人ってこういうとき、寝転がりたくなる 
んだろう? 
 そんなわたしを見て、トラップははあ〜〜っとため息をついていたけど、それ以上文句は言わなかった。 
 そのまま部屋の外に出ていって、そしてそのまま戻ってこない。 
 ……どこ行ったんだろ? まあいっか。部屋、借りてもいいってことだよね? 
 夏用毛布をお腹のあたりにかけて、わたしは読みかけていた本をゆっくり読むことにした。 
 頬をなでていく冷たい風がすごくすごく気持ちいい。 
 最近、夜も暑くてあんまり寝れないからなあ…… 
 ふわあっ、とあくびが漏れる。本はとっても面白いんだけど、いまいち内容が頭に入ってこない。 
 ……眠い。ちょっとだけ、寝ちゃおうかな? 
 トラップはまだ戻って来ない。どこか、外に出かけたのかもしれない。 
 ってことは、しばらく、ベッド使ってもいいってことだよね? 
 ぼすん、と枕に頭を埋めると、微かにシャンプーの匂いがした。 
 ……トラップの匂い、だあ…… 
 何だか、トラップに包まれてるような感じ。えへへ……いい、気持ちい…… 
 そのまま、わたしは眠気に身を委ねていた。 
  
 目が覚めたのは、肩にかかる重みだった。 
 ぱちん、と目を開ける。そして…… 
 ほんの数センチしか離れていない場所にトラップの顔があるのを見て、かちーんと固まってしまった。 
 なっ、なっ、なっ…… 
 ぼひゅんっ、と顔に血が集まるのがわかった。なっ、何がっ…… 
 きょろきょろ見回すと、既に窓の外は夕焼けだった。思ったよりも長く寝ちゃったらしい。 
 そして、わたしがいるのは……トラップの部屋。寝ていたのも、トラップのベッド。 
 ええっと、つまり…… 
 わたしの隣に、トラップが寝ていた。肩に置かれているのは、トラップの手。 
 そして、目の前の彼は、規則正しい寝息をたてて目を閉じていて……つまりは、寝ていた。 
 ええっと…… 
 これは、つまり……どこかに出かけていたトラップが戻ってきて、でもベッドが塞がっていて。 
 でも彼も昼寝がしたかった。だからわたしの隣で寝た……ってことだよね? 
「〜〜〜〜〜〜っ!!」 
 反射的に視線を下に向ける。だ、大丈夫。ちゃんと服も着てるし、お腹のあたりにかけていた毛布も 
そのまま。べ、別に何かされた……ってことは、ないみたい。 
 ホッとしたのと、ちょっと残念だなって思う気持ちがからみあって、何だか複雑な気分になる。 
 恋人同士だけど、わたし達は、まだキス……以上の関係にはなっていない。 
 寸前までは行ったけど、大体いつも何だかんだと邪魔が入って……トラップは、それがすごく不満み 
たいなんだけど。 
 でも、わたしとしては……何だろう? その、「身体の関係を結ぶ」ことに関して、変なこだわりが 
あったりトラウマがあったりするので、そのことにちょっとホッとしてるんだけど。 
 もし寝てるときに迫られたら、多分凄くショックを受けただろうと思う。 
 けれど、全然手を出されないのも……「わたしって魅力無い?」なんていう悲しい疑問が浮かんでしまう。 
 ああっ、もう……どうして人の心って、こんなに複雑なんだろうっ!? 
 あー、うー……とうなっていると。 
 ぐいっ、と肩を引き寄せられた。 
 あっ、と思ったときには、もう唇を塞がれていた。 
「……うっせえ」 
 ボソリ、と囁いたのは、不機嫌そうなトラップの声。 
「俺はまだ眠いんだよ……」 
 そう言って、ぎゅーっとわたしを抱きしめて……そして、そのまままた目を閉じてしまう。 
「…………」 
 離して、って言おうかとも思ったけれど。夕方になって少しクーラーききすぎかな? と思う部屋の 
中では、トラップの身体はとても暖かくて……気持ちよかった。 
 まあ、いっか。 
 トラップの胸に頭をもたせかけて、わたしも目を閉じることにした。 
 ちょっと前の彼なら、こんなとき、手は服の下にもぐりこもうとしていただろうから。 
 それをしようとしないだけ……この間のわたしの言葉、ちゃんと考えてくれてるんだとわかったから。 
 だから、これくらいは、許してあげないとね。 
 トラップの腕に包まれているうちに、何だかまた眠たくなってきて、わたしは素直に目を閉じることにした。 
  
 と、そうやってちょっと気を許すと。 
 つけあがるのがトラップだとは、わかっていたのだけれど…… 
 次に目を覚ましたとき、部屋の中はもう暗かった。時計を見ると、五時間近く寝ていたみたい。 
 うわあっ、夕食の準備っ! 
 慌てて起き上がろうとすると……ぎゅっ、と、トラップの腕に力がこもった。 
「ちょ、ちょっと……」 
「…………」 
「お、起きてるんでしょ!? ほら、わたし夕ご飯の準備しなくちゃいけないからっ……」 
「後でいい」 
 ぎゅうっ、と苦しいくらいに抱きしめられて、一瞬息がつまった。 
「ちょっ……」 
「この状態で我慢しろってのは……おめえ、そりゃ無理な話だろ」 
「ちょっと!」 
 ぐるんっ、と体勢がひっくり返された。 
 ぼすん、と仰向けになり、視線をあげれば……わたしの上にうつぶせになってるトラップの視線とぶつかる。 
「ちょっと……やだってば……」 
「おめえ、人のベッド占領しといて……そういうこと言うかあ?」 
 首筋に顔を埋めるようにして、囁かれる。 
 吐息が直接触れて、一瞬背筋がぞくりとした。 
「もうっ……やっ……」 
「いいじゃん。ベッドのレンタル料ってことで」 
「やだっ、安いっ!!」 
 ああっ、違う。つっこむところはそこじゃないのにっ…… 
 頭の中がぐるぐるパニック状態になって、言葉がうまく出てこない。 
 Tシャツの中にもぐりこんでくる手は、何だか冷たかった。 
 つけっぱなしのクーラー。すっかり冷えてしまった部屋。 
 逃げたいけど逃げられない。逃げたくないような気もする。 
 どどど、どうしよう、どうしようどうしようっ…… 
「やだってば……」 
 言葉が段々弱くなっていくのが、自分でもわかった。 
 胸に刺激を感じて、びくりっ、と背筋がのけぞる。 
「トラップっ……」 
「寝てるとこ襲わなかっただけ、感謝しろよなあ……? あんだけ無防備な寝顔見せられて、おめえ俺 
がどんだけ辛かったと思ってんだ。言っとくがなあ、これでもかなり努力したんだぜ? そのごほうび」 
 勝手なことを言いながらも、トラップの手は止まらない。 
「やあっ……」 
 も、駄目っ……理性を、保てないっ!! 
 するり、とスカートの中にもぐりこんでくる手。わたしが観念しかけた、そのときだった。 
 ぴろろろろろろろろろろ♪ 
「…………」 
「…………」 
 とてもとても場違いな音に、わたしとトラップは同時に動きを止めた。 
 机の上でちかちか光って音を奏でているもの。トラップの携帯電話。 
「ほらっ、電話っ……」 
「…………」 
「は、早く出た方がいいんじゃない?」 
 わたしが慌てて言うと、トラップは舌打ちして身体を起こした。 
「今度から電源切っとくか」 
 そう言いながら、携帯電話を取り上げる。 
 あ、あ、あ危なかった…… 
 ばくばく言う心臓を抑えていると。 
 小さな声で会話をしていたトラップが、ちょっとこっちを振り向いた。 
「パステル。おめえ、浴衣持ってるか?」 
「……へ?」 
 突然と言えば突然の言葉に、首を傾げる。 
 浴衣……浴衣ねえ。 
 多分あったはず。随分昔のだけど。 
 わたしがそう言うと、トラップは軽く頷いて電話に何か言っていた。 
「誰?」 
 通話が終わった後。話しかけると、トラップはクローゼットに向かいながら言った。 
「クレイから。何か、これから夏祭りに行かねえか、って」 
「夏祭り!?」 
 思わぬ単語に、思わずベッドからとびおりる。 
「そんなの、あるの?」 
「ああ。近所の神社でな。行くか?」 
「行く! 行く! 行きます!!」 
 な、なるほど。それで浴衣ね。 
 ううーっ、お祭り! この単語を聞いてわくわくしない人はいないでしょう! 
「着替えてくるっ! ちょっと待っててねっ」 
「早くしろよ。クレイとマリーナ、先に行ってるみてえだし」 
 トラップの声を聞きながら、わたしは慌てて自分の部屋に戻った。 
 何だか、さっきまであんな雰囲気だったのが信じられないんだけど。 
 ま、いいよね。わたし達らしくって! 
  
 タンスの中をひっかきまわして、大分昔に着たっきりの浴衣をひっぱりだす。 
 紺地に朝顔の花模様の、すっごくお気に入りの浴衣。 
 ちょっと不安だったけど、羽織ってみたら、幸いなことに不恰好なほど丈が短くなってるってことは 
なかった。 
 ……この浴衣、お母さんが縫ってくれたんだよね。 
 中学生のとき。それまでの白い浴衣が急に子供っぽく思えて、どうしても紺色の浴衣が欲しいってねだって。 
 それで、お母さんが「しょうがないわね」って笑いながら、自分の浴衣をほどいて縫ってくれた…… 
 うっ、駄目だ。思い出すと泣いちゃいそう。今から出かけるのに、それはまずいっ。 
 帰ってから……ゆっくり泣けばいいや。 
 そうしてしんみりと自分に言い聞かせたんだけど。 
 その直後、そんな感慨をふっとばすような重大なことに気づいてしまった。 
 ……浴衣の帯って、どうやって結べばいいの……? 
 最後に浴衣を着たのは、確か中学三年生のとき……だったかな? 
 そのときは、ううん、それまでもずっと、お母さんに着せてもらっていたから…… 
 え、ええとちょっと待って。は、羽織って、それから…… 
 う、嘘ー!? どうしようっ…… 
 びろーんと長い帯を手に、途方に暮れてしまう。 
 ど、どうやったら、あんなきれいなリボンの形になるの、これが!? 
 ああもう、クレイ達が待ってるのにー!! 
 途方に暮れてしまったけれど。いくら途方に暮れたって、帯が勝手に結ばれるわけもない。 
 ……しょうがないや。普通の服で行こう。 
 そうわたしが諦めかけたときだった。 
「おい。おめえまだ着替え終わんねえの?」 
 がちゃん 
 ノックもなく、突然ドアが開いてトラップが顔を覗かせた。 
 中途半端に浴衣を脱ぎかけた状態で、思わず固まってしまう。 
 トラップもトラップで、そんなわたしをじーっと見つめて…… 
「あ、わりい」 
「わりい、じゃなーい!!」 
 ぶんっ!! 
 手近にあったカバンを投げつけたけど、そんなもの、トラップにとっては何の攻撃にもなりゃしない。 
 あっさりと避けられてしまう。ううっ、く、悔しいっ…… 
 慌てて浴衣を羽織りなおす。もーっ、何でこう……みっともないとこばっかり見られるの!? 
「の、ノックくらいしてよね!?」 
「だあらわりいって言っただろーが。それよりとっとと着替えろよ。あにぐずぐずしてんだあ?」 
「…………」 
 着替えられるものなら着替えたい。 
「だからっ……着替えるから部屋出てってよ!」 
「あんでだよ。後帯を結ぶだけだろー? あ、そーか。おめえ……」 
 出てって、の言葉は綺麗に無視して、トラップはニヤニヤ笑いながらわたしの顔を覗きこんだ。 
「さては、一人で帯が結べねえんだろ?」 
「…………」 
 くっ……当たってるから、言い返せないから、悔しいっ…… 
「そうよ……悪かったわねえっ! だから、普通の服に着替えるから出てって、って言ってるの!」 
 夏祭りって言ったら、普通は浴衣。 
 わたしだって着れるものなら着たかった。だけど、こればっかりはしょうがない。 
 ぎゅっ、と唇をかみしめてうつむくと、トラップが、ぽん、と肩を叩いた。 
「後ろ向け」 
「え?」 
「いいから。後ろ向け!」 
 なっ、何……? 
 言われるままにくるりと背中を向けると、トラップの手が、後ろから伸びてきて…… 
「ば、バカバカっ! どこ触ってるのよエッチー!!」 
「ああ!? おめえ、人がせっかく着付けをしてやろうとしてんのに、そういうこと言うか!?」 
 ……え? 
 着付け。その言葉の意味を理解して、唖然としているうちに、トラップの手が、わたしの浴衣をきっ 
ちりと整えてくれて…… 
 それからはあっという間だった。言われるままに腕の上げ下げをしてくるくると身体を回転させて、 
五分もしないうちに、帯は綺麗なリボン型に結ばれていた。 
「と、トラップ……着付け、できるの?」 
「母ちゃんの着付けよく手伝わされたからなー。自然に覚えた。第一、おめえ気づけよ。俺の格好」 
「へ?」 
 言われて、そういえば……と初めて気づく。 
 トラップも、男物の浴衣姿になっていることに。 
「自分で着たの?」 
「他の誰が着せてくれるっつーんだよ。おら、行くぞ」 
 ぐいっ、と手を引かれる。 
 何だかね。トラップの手先が器用なことはよーく知っていたけど…… 
 こ、この人にできないことっていうのは無いの!? 
 
「パステル! こっちこっち!」 
 トラップが案内してくれた神社は、歩いて15分くらいの場所にあった。 
 すごい人通り。にぎやかな声とちょうちんの明かり、いっぱいに並ぶ屋台…… 
 うわーっ、楽しそうっ! 知らなかった。こんなところが近所にあったなんて…… 
 入り口付近で手を振ってくれているのはマリーナ。そのすぐ横でにこにこしながら立っているのはクレイ。 
 クレイって、背が高いからね。人ごみの中でも、頭一つ飛び出てて目立つんだ。 
「マリーナ! クレイ! ごめーん遅くなって!」 
「いいのよーこっちこそ突然呼び出してごめんねっ!!」 
 きゃあきゃあと手を取り合って叫ぶ。そんなわたし達を、クレイとトラップが苦笑しながら見つめて 
いるのがわかった。 
 いいじゃない、よく考えたら、夏休みに入ってからマリーナとは一度も会ってなかったんだから。 
 ああっ、でもでもっ……も、もしかして二人、デート中だったんじゃ!? い、いいのかな、わたし 
とトラップ、邪魔じゃないのかな? 
「あ、変な気を使わないでよ?」 
 わたしの顔色を読んだのか、何も言わないうちに、マリーナが耳元で囁いた。 
「せっかくのお祭りだもん。大勢で来た方が楽しいじゃない? それに、デートなら昼間のうちにたっ 
ぷり済ませたから」 
「そ、そうなんだ……」 
 の、のろけられちゃった……いいなあ。羨ましい…… 
 わたしとトラップなんてねえ……なまじっか同じ家に住んでるから、しょっちゅう二人っきりになっ 
てるせいで、かえってデートなんかしないんだよね。 
 特に、トラップは暑いのが嫌いみたいで、部屋の中でごろごろしてばっかりだし。 
 はああー、と思わずため息をついていると、ぐいっ、と腕をひっぱられた。 
 つかんでいるのは、トラップ。 
「ちょっと……痛いんだけど……」 
「ばあか、こんな人ごみではぐれられたら、捜すのが面倒だろーが。ほれ、行くぞ」 
「わっ、ちょっとちょっと!?」 
 ぐいぐいひっぱられて思わずたたらを踏む。そんなわたし達を見て、マリーナとクレイが笑っている 
のが見えた。 
 み、見てないで助けてよー!! 
  
 わたがしにたこ焼きに焼きそば。金魚すくいに射的にスーパーボールすくい。 
 お祭りなんて、いつ以来かなあ……まわりの光景が、何だかすごく懐かしく見える。 
「おっ、これうまい」 
「こっちもー美味しいっ!」 
 クレイとマリーナは、二人で一つの焼きそばをつつきあっていた。二人とも美男美女だから、そんな 
光景ですらすっごく絵になっている。 
 で、わたし達はと言うと…… 
「よっ、ほっ、ほれっ」 
「うわあー! 兄ちゃんすっげえー!」 
「次! 次俺のもー! 俺のも取って!!」 
 金魚すくいの前で。トラップは、すっかり子供達のヒーローになっていた。 
 屋台のおじさんの顔が、すごーくひきつっている。 
 まあねえ……100円かそこらで、何匹も何匹も持ってかれちゃあね。商売あがったりでしょう…… 
 浴衣の着付けができるくらいに手先の器用なトラップのこと。彼にかかれば、金魚すくいも射的もス 
ーパーボールすくいも、ほんの子供だましみたい。 
 さっきからあちこちの屋台に顔を出しては、商品を根こそぎ持っていくもんだから、彼の行くところ 
にはすっかり子供の人だかりができている。 
 で、またトラップが楽しそうなんだなー。満面の笑顔っていうのか。 
 トラップって、たまにすっごく大人っぽく見えるときもあるんだけど……こういう子供っぽい場面も、 
いっぱいあるんだよね。何だかつかみづらい人かもしれない。 
「パステル、退屈そうね」 
 そんなわたしの様子に、マリーナが苦笑しながら話しかけてきた。 
 まあね。さっきからトラップは一人で楽しんでるから。そう見えるかもしれないけど。 
「うーん……でも、まあ見てるだけでも面白いし。トラップのあんな姿、滅多に見れないもん」 
「確かにねえ、意外だったわ。あいつって、あんなに子供好きだったの?」 
 思わず三人でひそひそと話し合ってしまう。 
「ほれ、これでいいかあ?」 
「兄ちゃんありがとー!」 
「次、次あたしもー! あの金魚さん、とってー!」 
「ようしまかせとけ!!」 
 ああ微笑ましい。ぎゅーっと浴衣をひっぱる四歳くらいの女の子に、嫌な顔一つ見せずにどの金魚が 
いいか聞いてるその姿。 
 何というか、娘のわがままを聞くのが楽しくってしょうがないお父さん、って感じ。 
「あいつは、祭りになると昔っからああだったからなあ」 
 笑いながら言ったのはクレイだった。 
「『屋台荒し』とか言って、祭りではすごく有名だったんだぜ? まあ、最近はあいつと祭りに行く機 
会も滅多になかったんだけど」 
 そう言って、クレイはわたしを優しい目で見てくれた。 
「パステルを連れてってやりたいって言われてね……あ、これ、俺が言ったって内緒だぜ?」 
「……え?」 
 唐突に言われた言葉に、ぽかんとしてしまう。 
 へ? な、何、それ? 
「わたしを……?」 
「ああ。何だか、せっかくここに引っ越してきたんだから……この街の楽しいところを、いっぱい教え 
てやりたいって。君が引っ越してきたすぐ後かな? そう言ってたんだ」 
 クレイは、笑いながら続けた。 
「どうせ、あいつのことだから祭りの日付なんか忘れてるんじゃないかって思ったんだよなあ」 
 ……この街の、楽しいところ…… 
 そんなこと、考えてくれてたんだ。 
 どうしてクレイとマリーナが、デート中だったのにわざわざわたし達を呼び出してくれたのか。 
 その謎が解けて……わたしは、トラップに視線を戻した。 
 全く。 
 どうして……いつも意地悪なくせに。そうやって、わたしの気づかないようなところでばっかり、優 
しいのよ? これじゃあ、お礼も言えないじゃない。 
「じゃ、楽しまなくちゃね」 
「当たり前でしょ? お祭りなんだから!」 
 顔を見合わせて、三人で同時に吹き出す。 
 うん。楽しもう。 
 念に一度の夏祭りだもんね! 
  
 ……ああ、それなのに。 
 何で……こんなことになってるんでしょう? 
 すっかり子供達のヒーローと化しているトラップはひとまず置いておいて。わたしとマリーナとクレ 
イ、三人で一回りしてこようか? ってことになって。 
 トラップにその旨伝えて、歩き出したんだけど…… 
 どうして……気が付いたら、わたし一人になってるわけ……? 
「こ、ここどこお……?」 
 神社の境内。結構大きな神社だったらしく、その敷地は広い。 
 いたるところに似たような屋台がいっぱいあって、メインストリートから外れた場所まで人でいっぱいで。 
 気が付いたら、わたしはもう、自分がどっちから来たのかもわからなくなってしまっていた…… 
 ああもうっ! 自分の方向音痴が情けないったら!! 
 人がいっぱいだから、はぐれないようにってあれだけ言われたのに!! 
 本当に、ほんのちょっとの間だったんだよね。綺麗なアクセサリーを売っている屋台があって、それ 
にちょっと目を奪われて……それも、ほんの数秒だよ? 
 で、目を戻したら、クレイもマリーナもいないんだもんなあ…… 
 ど、どうしよう。自力で見つけるのは……無理、だよね? 
 相変わらず人、人、人だらけの通りを見て、わたしは早々に、自力で合流することを諦めた。 
 前、トラップに怒られたんだよね。うろうろ歩き回るから余計に迷うんだって。はぐれたらその場所 
で大人しくしてろって。 
 よしっ、携帯で助けを呼ぼう! こんな人ごみだもん。意地張ってる場合じゃないし。 
 そうして、わたしは手に持っていたきんちゃく袋を開けたんだけど。 
 その中には、お財布しか入ってないことに気づいて、一気に青ざめてしまった。 
 そ、そういえば……こういう格好だから、普段のカバンじゃなくてきんちゃく袋にしようと思って…… 
 お財布は、無いと困るものだもんね。ちゃんと入れ替えたけど…… 
 け、携帯電話、家に置いてきちゃったー!! 
 急に不安になってくる。連絡手段が無いと、こんなに心細くなるなんて…… 
 ど、どうしよう。どっちに行けばいいんだろう? きっとマリーナ達のことだもん。捜してくれてる 
……よね? はぐれたことに気づいてるよね!? 
 わたしがおろおろと周りを見回したときだった。 
「おっ、お嬢さん、一人?」 
「へ?」 
 ポン、と肩を叩かれて、思わず振り向く。 
 そこに立っていたのは、Tシャツにジーンズっていう特徴の無い格好をした、三人の男の子達。 
 多分、わたしと同い年くらいかな? どの子達もまあまあそれなりにかっこいいけど、あんまり特徴 
が無いせいで目をひくところは全然なかった。 
「あ、あの……」 
「一人? 良かったら、俺達と遊ばない?」 
 うちの一人が、馴れ馴れしく肩を抱いてくる。 
 こ、これって……もしかしなくても、ナンパ!? 
「い、いえ、連れがいますから……」 
「まあまあいいじゃん。連れったって、今お嬢さん一人に見えるけどー?」 
「そうそう。こーんな可愛い子ほったらかしてるような奴やめてさ、俺達と遊ぼうぜ?」 
「そっちの方が絶対楽しいって」 
 言いながら、男の子達はずるずるとわたしを引きずっていく。 
 な、何て強引な人達なの!? 
「や、やめてくださいっ! 困りますってばっ!!」 
 振りほどこうとしたけれど、男の子達の力は強かった。そのまま、どんどん引きずられて…… 
 う、嘘っ!? な、何でどんどん人通りが少なくなってくの!? 
 慌てて逃げようとしたけれど、両側からがしっ、と腕をつかまれてしまう。 
 こっ、怖い……誰か……トラップ! 
「や、やだっ、やだってば!」 
「おーい、怯えてるぜーこの子」 
「かーわいいよなあ。な? 怖がることねえって」 
 男の子達はにやにや笑いながらそんなこと言ってきたけど。 
 む、無理に決まってるでしょう!? な、何するつもりなのよー!! 
  
 どん! 
 連れてこられたのは、すっかり人通りもなくなった神社の裏手。 
 大きな木に背中を預けるような形で、きっと顔をあげる。 
 三人の男の子達は、相変わらずすごーくにやにや笑ってて、わたしのまわりを取り囲んでて…… 
 ま、負けないんだから! 
「おーおーにらんでるぜ。怖いなー」 
「まあまあ、可愛い顔が台無しだぜえ?」 
「は、離してくださいってば!」 
 肩をつかんでくる手を、ばっと振り払う。 
 こ、こんな人達には負けないんだから! わ、わたしだって、やればっ…… 
 ばしん 
「あ……」 
 振り回した手が、勢いあまって、うち一人の頬に炸裂する。 
 そんなに力をこめたわけじゃなかった。けど、やけに大きな音が響いて…… 
 頬を叩かれた男の子の表情が、変わった。 
「痛いじゃねえか」 
 ぎゅっ 
 腕をつかまれる。その力は、強かった。 
「お嬢さーん。調子に乗らねえ方がいいぜえ?」 
「そうそ。俺達だってさ、できれば手荒なことしたくねえのよ」 
 じりっ、と詰め寄ってくる気配。 
 何だろう? さっきまでの、冗談っぽい、軽い空気が、綺麗に消えていた。 
 かわりに取り巻いているのは、妙に重苦しい…… 
 どんっ! 
「痛いっ!」 
 思いっきり肩をつきとばされる。木にしたたか身体を打って、悲鳴が漏れた。 
 だけど、男の子達はそんなことには全然構わず、浴衣の襟ぐりをつかんで力いっぱいひっぱった。 
「きゃああああああああああああああああああ!!?」 
「あんま胸はねえなあ……」 
「いーじゃんいーじゃん。そういうロリっぽいとこがまたいいんだって」 
「そうそ」 
 浴衣がはだけた。そこに遠慮なく手が伸びてくる。 
 肌に痛みが走るくらい荒っぽい手つきに、涙がにじんできた。 
 だっ、誰かあっ…… 
「や、やだっ!!」 
「暴れるなっつーの! 怪我してえのかよっ!!」 
「やだあっ!!」 
 だんっ!! 
 思いっきり足を踏み下ろした。 
 浴衣だから、下駄を履いていた。そして、男の子達は、素足にサンダルを履いていて…… 
「っ痛――!!」 
 正面にいた男の子がうずくまった。他の男の子がそれにひるんだ隙に、思いっきり手を振り回す。 
 ……逃げられる!! 
「ま、待ちやがれっ!!」 
 後ろから怒声が響いてくる中、わたしは全速力で駆け出した。 
 浴衣に下駄。およそ走るには向いてない格好だけど、そんなことに構ってられない。 
 とにかく……人通りの多いところにっ!! 
 ばたばたばたっ!! 
 足音が迫ってくる。に、逃げ切れないっ!!? 
 焦って足がもつれそうになった。足元が砂利だらけで走りにくかったから余計に。 
「きゃあっ!?」 
 がくんっ!! 
 浴衣の裾を踏んで、こけそうになったその瞬間。 
 誰かの腕が、わたしの身体を抱きとめた。 
 ……え? 
 ぐいっ!! 
 疑問に思う暇も無い。その誰かは、わたしの身体を抱えると、そのまま通りから外れた場所へと走り 
出して…… 
「おい、いねえぞ!?」 
「ちっくしょー、逃げられた!!」 
 暗がりに引き込まれた瞬間、さっきの男の子達の声が、通り抜けて走り去っていった。 
 た、助かった……? 
「あ、ありが……」 
「あにやってんだよこんなとこで!!」 
 耳元で炸裂したのは、大体予想していた声だった。 
 こういうとき。わたしが困っているとき、絶対に助けに来てくれるのは……いつもこの人だった。 
「と、トラップぅ……」 
「ったく! おめえがいねえってマリーナとクレイが、焦って電話してくっから捜してみりゃあ…… 
あんでこんなとこにいるんだよ!?」 
 トラップの声は、すっごく怒ってるみたいだった。彼の手とか腰には、金魚だスーパーボールだと色 
んなものがぶら下がっていて、多分楽しんでいるところを放り出して探しに来てくれたんだろうなーっ 
てことが、わかる。 
「つ、連れてこられて……」 
「さっきの奴らにか?」 
「こ、怖かった。怖かったあ!!」 
 助かった、と実感して、段々と冷静になってきて。 
 自分がどれだけ危ないところだったかを理解して。その瞬間、両目からぶわっと涙が溢れてきた。 
「お、おい!? おい、泣くなってば」 
 トラップが困ったように言ってきたけど、それに構ってもいられない。 
 わたしは、彼の浴衣にすがりついて、わんわんと子供のように泣きじゃくった。 
  
 どれくらい泣いていたのかわからないけれど。 
 あんなに怒っていたはずなのに。トラップは、何も言わず、泣きたいだけわたしを泣かせてくれた。 
 どうにか落ち着いて、ひっくひっくとしゃくりあげるような声しか出なくなったとき、ぽん、と頭に 
手が乗せられる。 
「気いすんだかよ」 
「……うん。ごめん、言うのが遅れちゃった。助けてくれて……ありがとう」 
「そっか」 
 素っ気無いくらに短い言葉。だけど、トラップの目は優しかった。 
 優しくて……不安そうだった。 
「な、何も無かったからっ……」 
「…………」 
「ちょ、ちょっと胸触られたけど……でも、嫌だって思ったから。絶対に嫌だって思ったから。だから、 
ちゃんと……逃げてきたから」 
「見りゃあわかるって」 
 そこで、彼は気まずそうに目をそらした。 
「その格好見れば」 
「……え?」 
 はた、と自分の格好を見下ろす。 
 そして、思わず悲鳴をあげてしまった。 
 だ、だってっ……わ、わたしの格好って…… 
 浴衣の前は完全にはだけて、足なんかもうむき出しで……本当に、「ただ肩から浴衣を羽織ってるだけ」 
に近い状態になってたのよ!? 
 全力疾走してたから、まあ当たり前といえば……当たり前なんだけど…… 
「や、やだっ、見ないで……」 
「ああ……ったく。ほれ、直してやるから、後ろ向けよ」 
「う、うん……」 
 トラップの手が、優しく肩にまわってきた。 
 さっきの男の子達の荒っぽい手つきとは、全然違う。 
 照れくさいのか、顔を真っ赤にしながら、それでもあっという間に浴衣を直してくれた。 
「あ、ありがと……」 
「ったく感謝しろよなあ? この俺の我慢強さに。目の前であーんな格好されて、それで手え出さずに 
いれる男なんて、そうはいねえぜ?」 
 そう言う彼の口調はすっごくぶっきらぼうだったけど。 
 でも、何となくわかった。 
 きっと、今手を出そうとしたら、わたしがすごく傷つくだろうってことをわかって……わたしがショ 
ックを受けていることをちゃんとわかって、何もしようとしないんだって。 
 トラップはそういう人だから。好き勝手なことばっかり言ってるみたいだけど、ちゃんとわたしのこ 
とを、わかっててくれてる人だから。 
「ねえ、トラップ……」 
「あんだよ」 
「どうして、男の人って……好きでもない女の子を、抱けるんだろうな」 
 そう言うと、トラップはぎょっとしたように振り返った。 
「お、おめえ、また何つーことを……」 
「だってっ……適当にナンパした……初めて会った女の子に、どうしてこんなことができるの? わた 
し、やだって言ったのに。やめてって言ったのに、どうして……」 
 言っているうちに、また恐怖がよみがえってきた。せっかく止まった涙が、また溢れ出してくる。 
 トラップは、しばらく困ったように視線をさまよわせていたけれど……やがて、ぎゅっとわたしを抱 
きしめてくれた。 
「まあ、男っつーのはなあ……独占欲っつーか、支配欲みてえなのがあるからなあ……」 
「…………」 
「嫌がる相手を、無理やり……っつーのにもえる奴とか。心と身体は完全別物っつーか……まあ、世の 
中には色んな奴がいるんだよ。女にだっているだろー? 金のために誰とでも寝る奴とかさ」 
「…………」 
 こくん、と頷く。 
 それは、わたしには到底理解できないことだったけれど。そういう仕事が存在するってことくらいは、 
さすがに知ってる。 
「まあな。人には色んな考えがあるから……その全部を理解しようったって、無理じゃねえ?  
だからさ……」 
 ぎゅっ、と腕に力がこもる。 
「大切な奴の考えだけわかってりゃ、いいんじゃねえ? 少なくとも、俺はそう思うぜ」 
「……うん」 
 完全に納得できたわけじゃないけれど。 
 でも、トラップの言葉はとてももっともな気がした。 
 あんな人達の考えなんかわからなくてもいい。トラップの考えてることがわかればいい。 
 素直にそう思えた。だから、抱きしめられても、ちっとも嫌だって思わず……むしろ、嬉しかった。 
 そうして、わたしはしばらく、されるがままになってたんだけど…… 
「まあ……そうだな。おめえに浴衣を着せたのは、失敗だったな」 
 急に軽薄になった口調に、びびびっ、と警戒心が走る。 
 トラップがこういう言い方するときって…… 
「な、何で? 似合わなかった?」 
「いやあ。すっげえよく似合ってるぜえ?」 
 顔をあげると、心底面白そうなトラップの視線とぶつかった。 
「すっげえ色っぽい。ほれ、よく言うだろ?」 
「……え?」 
「和服は、幼児体型によく似合う、って」 
 …………!! 
 言われた意味を悟って、どかんっ、と頭に血が上る。 
「と、トラップー!!」 
「へへっ、怒ったあ? パステルちゃん」 
「もーっ! せっかく、せっかく感心してたのにっ! バカー!!」 
 ぶんっ、と手を振り回すと、がしっ、と受け止められた。 
 そのまま、一気に唇を塞がれる。 
「んっ……!?」 
「訂正してやる」 
 ぱっ、と顔を離して、トラップは言った。 
「おめえなんか身体目当てで抱く奴なんざいねえ、っつったけど……そういう格好してると、おめえは 
十分色っぽい」 
「…………っ!!」 
 もうっ……知らないんだからっ。 
  
 ようやくマリーナ達と合流できたときには、もうお祭りも終わりに近い時間。 
 どんどん店じまいする屋台に、ため息が出る。 
 あーあ。何だか、あんまり買い物とかできなかったなあ。 
「ごめんねえ、パステル。わたし達がぼーっとしてたせいで……」 
「う、ううん、違うよー。ボーッとしてたのはわたし! わたしの方こそ、迷惑かけてごめんねー」 
 すまなそうな顔をするマリーナに、慌てて言った。 
 だって、マリーナとクレイってば、わたしがいなくなったことに気づいて、トラップに連絡入れた後 
もずーっと捜してくれてたんですって! 
 ううう、こちらこそ申し訳ない。せっかくのデートを台無しにしちゃって…… 
「でも……」 
「本当、気にしないで。十分楽しかったし! それに……」 
 マリーナと、クレイと、そしてトラップ。三人の腕を、一気に抱え込む。 
「お祭りは、また来年もあるし!」 
 来年も来ようね。そう言うと、三人は一斉に頷いてくれた。 
 すったもんだの夏の夜は、そんな風にして、終わろうとしていた…… 
  
 家に帰りついたときは、もう夜の11時近かった。 
「ふう。色々あったけど……楽しかった」 
「そっか」 
 どさどさっ、と戦利品をテーブルの上において(金魚だけは、子供達に全部配ったみたいだけど)、 
トラップは大きく伸びをした。 
 そういえば、結局何だかんだでこの人が一番お祭りを楽しんだんだろうな。 
 まあ、いいんだけどね。 
「ありがと、トラップ」 
「ん?」 
「すっごく、楽しかったよ。また、教えてね? この街の、楽しいところ」 
 そう言うと、トラップの顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。 
 「くっそ、クレイの奴……」なーんてぶつぶつ言ってたけど。 
 へへへ、本当に。ナンパは怖かったけど。でも……久しぶりに浴衣を着れて嬉しかったし、お祭りっ 
て、見てるだけでもすごくわくわくするもんね。 
 そう思ってにこにこしていたら、トラップは「けっ、不気味なんだよ」なーんて可愛くないことを言 
いながら、お風呂場へ行ってしまった。 
 本当、素直じゃないんだから。 
 一人にされてしまったので、仕方なく自分の部屋に戻る。夜とは言え、まだまだ気温は高い。閉め切 
った部屋は、すっごく蒸し暑かった。 
「暑い……やだ、汗でべっとべと」 
 走ったりしたせいで、わたしは全身汗びっしょりだった。トラップがあがったら、すぐにお風呂入ら 
なくちゃ。 
 無意識のうちにリモコンをつかんで、エアコンのスイッチを押していた。 
 すると…… 
 フィーン…… 
 微かな音とともに、涼しい風が流れてきた。 
 うーん、気持ちいい! ……って、あれ? 
 ばっと振り向く。何の問題もなく稼動しているエアコンが、目に入った。 
 ……あれ? こ、壊れてたんじゃなかったっけ? 
 しばらくリモコンとエアコンの間で視線を往復させて……首をかしげて。 
 そのまま視線をずらして、そして納得した。 
 机の上に、一枚のレシートが置いてあった。 
 部屋のゴミ箱の中には、見慣れない袋が入っている。それは、近所の電気屋さんの袋で、中には電池 
の包み紙が一緒に捨ててあった。 
 リモコンの電池切れ。それが故障の正体。 
 そして、そうと気づいて電池を買ってきてくれたのは…… 
「全く……一言言ってくれれば、わたしだってベッドを借りたりしなかったのに」 
 レシートに記された金額だけ小銭を出して、思わずつぶやく。 
 置いてあるってことは、お金を返せ、ってことだよね? 
 優しいように見えて、ちゃっかりしてる。こういうところって、やっぱりトラップだよね。 
「おい、風呂空いたぞ」 
「はーい!」 
 レシートと小銭をトラップの部屋の机に置いたところで、一階から声が飛んできた。 
 さて、シャワーでも浴びて、さっぱりして。 
 そうして、冷たいアイスティーでも入れよう。 
 今日は、一日中トラップのお世話になりっぱなしだったから! 
 階段に向かうと、ちょうどタオルを頭に被せたトラップが、上がってくるところだった。 
「浴衣、クリーニングに出すから置いておいてね」 
「ああ。タオルとか、全部出しといたぜ」 
「へー? 珍しいね。ありがと」 
 そんな会話を交わしながら、お風呂場に向かう。 
 脱衣所には、確かに新しいタオルが出してあった。 
 珍しい。トラップがこんなことしてくれるなんて…… 
 そんなことを思いながら、浴衣の帯に手をかけたとき。 
 タオルの上に、光を反射する何かが置いてあるのに気づいた。 
「ん? 何だろ、これ?」 
 取り上げてみる。そこに置いてあったのは…… 
「……指輪?」 
 何だか見覚えがある。確か、マリーナ達とはぐれるきっかけになったアクセサリー屋さん。 
 そのお店で売っていた商品の一つに、よく似ている。 
 多分石はガラスだと思うけど、とてもそうは見えない、凝ったデザインで…… 
「……トラップってば」 
 さりげなく、リングの部分に「P to T」と彫ってあるのを見て、苦笑する。 
 一体、いつの間に買ったんだろう。彼のことだから、きっと「たまたま」とか言うんだろうけど。 
 きっと、これは……お詫びのつもりなんだと思う。 
 自分が別のことに夢中になって、わたしから目を離して、そしてわたしに怖い思いをさせたっていう、 
彼なりのお詫び。 
「口で言えばいいのに。素直じゃないんだから」 
 指輪をそっとパジャマの上に乗せて、わたしは浴衣を脱いだ。 
 きっと、お風呂からあがってきたとき、わたしの指にはこの指輪がはまっているに違いない。 
 そう確信して、お風呂場の戸を開けた。  

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