手を繋いで帰ってきたわたしと男の子を見て、大人達は大騒ぎだった。
やれどこに行っていたの、何をしていたのと怒られて、泣かれて、抱きしめられた。
どうやら、わたしは相当に遠くまで出歩いていて、両親にいたく心配をかけたらしい。
「ごめんなさい」
そうやって謝ると、「無事に見つかってよかった」と両親の友人が頭を撫でてくれた。
そして、「お前もよくやった」と自分たちの息子を褒めていた。
彼は、照れくさそうに笑っていたけれど……
随分と遅くなってしまって、わたし達家族はその家に一泊することになった。
わたしの両親も、男の子の両親もそれはそれは忙しい人達だったから、本当はそんなことできるはずもなかったけれど。
子供達の方が大事だ、と笑って、仕事を無理してキャンセルしてくれたらしい。
そしてその日、大人達は大人達で話しに花を咲かせている間、わたしと男の子は一緒の部屋で眠った。
「約束、忘れんなよお」
「わすれないよお」
寝る前に男の子が確認するように言ってきたので、わたしは大きく頷いた。
もう道に迷ったからって泣いたりしない。そして、いつか……
「大きくなったら、おめえのこと迎えにいくからな」
「うん、まってる」
「んで、俺の嫁さんになるんだぞ」
「うん、なるー」
「約束だからな」
「うん、約束」
もう一度指切りをして、二人で一緒に眠った。
懐かしい思い出。とても懐かしい思い出。
あの男の子は、わたしを迎えに来てくれると言った。
もしかしたら、白馬の王子様に憧れているわたしにとって、本当の王子様だったのかもしれない。
彼の、名前は……
「うーん……」
わたしは悩んでいた。
時刻は夜の12時。場所はわたしの部屋。
「ううーん……」
明日もちゃんと学校はあるし、そろそろ寝ないと朝がきつい時間。
だけど、寝れそうにもなかった。
「うーん、うーん……」
わたしが悩んでいるのは、担任の先生であるギア先生のこと。
好きだ、と言ってくれたけれど、その気持ちが受け入れられなかった。けれど、わたしがはっきり断らなかったせいで、ギア先生には「いつまでも待ってる」と宣言されて。
そして、色々と……その、実力行使に出られてしまった。
そのたびに、同居人であるトラップや、彼の友人クレイに助けてもらっていたんだけど。
このままじゃいけない。ちゃんとはっきり言わないと、と決心したのが三日前。
そして三日間、わたしは悩み続けているんだけど。
いざ、言うとなると……難しい。どう言えばいいんだろう、って思っちゃう。
以前は、わたしも思ってたんだよね。
ギア先生はかっこいいと思うし、好きか嫌いかって言われたら好きな方だと思う。
わたしが気になってるのは、先生と生徒であるっていうそのことだけで、そしてギア先生は、わたしのためなら教師の職を捨ててもいい、とさえ言ってくれた。
もし本当に先生が先生じゃなくなったら、好きになっちゃうかもしれない、そう思ってたんだよね。
でも、最近思う。多分、それはもう無いだろうって。
何でだかわからないけれど、わたしの中で、妙にもやもやする感情。
これが「好き」っていう感情なのかはわからない。でも……
口が悪くて寝起きが悪くて、派手好きで。
ギア先生とは、ある意味正反対なそんな人。王子様みたいな優しい人が好み、と言っていたわたしにとっては、かなり正反対なタイプ。
だけど……最近、何だか気がついたら彼の姿を目で追ってしまう。
料理を美味しいと褒めてもらえたり、バイクの後ろに乗せてもらったり、ふと目があったり。
そんなとき、妙にドキッとしてしまう。
トラップ。
わたしは……彼のことが好き、なのかなあ……
いやいや、嫌いじゃないのはそりゃ確かなんだけど……男の人として好き、なのかなあ……?
まあ、とにかく。
トラップと出会って、どんどん彼の意外な一面を知って、そしていつの間にか心の中の大部分がトラップで占められるようになって。
そうなってくると、わたし、思ったんだよね。多分、先生が先生じゃなくなっても、どれだけ時間が経っても、わたしはギア先生のことを好きにはならないだろうなって。
何で、って言われても困る。困るけど……そうなんだから、仕方ない。
だけど、それをどう伝えればいいんだろう……
ううーん……
そんなわけで、ここ数日、わたしはずーっと悩み続けているわけなんだけど。
できるだけ早く話をしなくちゃ、って思ってるのに、時間ばかりが流れちゃって……はあ。情けないなあ。
トラップに怒られるのも無理は無いんだよね。「おめえがはっきり言やあすむことだろ」って。
だけど、どう言っても「振り向いてくれるのをいつまでも待ってる」って言われちゃったら……ねえ。
はあ。
ため息をつくのにも疲れて、わたしは立ち上がった。
駄目駄目、このままじゃいくら悩んでも堂々巡りしちゃう。
何かあったかいものでも飲んで、気持ちを落ち着かせよう。そうしよう。
そう考えて、わたしは部屋を出た。
試験勉強の夜食のときに作ったのはホットミルクだった。
今日は、熱いミルクティー。
水を一旦沸騰させて、それから少し冷まして、紅茶の葉を蒸らして……
いつもは面倒だからってティーバッグを使うことも多いんだけど、こんなときは本格的な紅茶を飲みたくなるんだよね。
うん、今日はダージリンにしよう。
食器棚からティーカップを出して、準備は完了。後は、お湯がわくのを待つだけ。
ふう……
こぽこぽと泡を立て始めるお湯をボーッと見つめていると……思考は、やっぱり目下の一番の悩みへととんでしまう。
つまり、わたしはギア先生を振ろう、としてるんだよね。
好きな人に振られるって……辛いことだよね。
なるべく傷つけたくはない。……そりゃ、いっぱい嫌なこともされたし、絶対許せないとは思うけど。
でも、先生は……本気で、わたしのことを好きだ、って言ってくれたんだよね。
何て言えばいいんだろう。「嫌いじゃないけどそういう対象として見れないんです」が、一番無難な気もするけど。
これは駄目だよね。「そういう対象として見てくれるまで待つ」、そう言われたらおしまいだもん。
じゃあ……「嫌いだから」?
これも駄目だ。嫌い、じゃないから。許せないけど、どうしても嫌いにはなりきれない。
こんなことになる前、先生はすごく優しかった。重たい荷物を持っていたときさりげなく手を貸してくれたり、帰りが遅くなったときさりげなく待っててくれたり。
大好きな先生の一人だった。……好きになれたら、きっと幸せにしてもらえたと思う。
……どうしよう。
「他に好きな人がいるんです」とか……?
そう考えたとき、思い出したのは以前先生に言われた台詞。
「君は、ステア・ブーツのことが好きなのか?」
ステア・ブーツ。トラップの本名。
あのときは、「違う」って答えた。
……今は……
「おい、水沸騰してんぞ。何ボーッとしてんだ?」
「えっ!?」
ちょうど考えていた相手の声が聞こえて、わたしは思わず振り返った。
お風呂上りらしい、微かにシャンプーの匂いが漂う、下ろした髪の毛。下はハーフパンツ、上半身はだぼっとしたTシャツ姿で、首にタオルをひっかけた……
「と、トラップ!? あの……」
わわわ、ど、どうしよう。何て言えばいいのっ!?
後になってよーく考えたら、別に慌てるようなことじゃないんだけど。
そのときは、ちょうど「トラップのことを好き?」なんて考えていたせいで、わたしは思いっきりうろたえてしまって……
怪訝そうな顔をするトラップを尻目に、反射的に後ずさって、ドン、と流しに当たって止まる。
その瞬間……
「うわっ!!」
「え……?」
振動で、お湯を沸かしていたヤカンが揺れた。
スローモーションのように、ヤカンが傾いて……
バッシャーン
「いやっ!! 熱いっ……」
「パステル!?」
十分に沸騰していたお湯を足に被って、わたしはたまらず悲鳴をあげた。
いやああああ!? 何だか、みるみるうちに足が、赤くっ……
「ああああああああああああああ!! やっ、水、水……」
「じっとしてろ、動くな!」
「え……?」
あっ、と思ったときには、わたしはもう、トラップの両腕で抱き上げられていた。
間近に彼の顔が迫って、ぼんっ、と頭に血が上る。
「やっ、と、トラップ、下ろして! 大丈夫だから下ろしてってば!!」
「バカ、じっとしてろ! 痕が残ったらどーすんだ!!」
わたしの抗議なんかどこ吹く風で、彼は軽々とわたしをお風呂場まで連れ込んで、シャワーでいきなり冷水を浴びせ始めた。
「やだっ、冷たいっ……」
「ばあか、火傷には冷やすのが一番なんだよ。ったく、おめえってどこまでもドジな奴だな」
「…………」
返す言葉もありません。
うー、自己嫌悪……何でわたしって、いつもこうなのかなあ……
ばしゃばしゃばしゃ
容赦なく浴びせられる冷水は冷たかったけど、それは、火照った肌には気持ちよかった。
しばらくわたしはされるがままになってたんだけど……
「うし、こんなもんでいいか。後は薬塗って包帯でも巻けば、痕は残んねえだろ。立てるかあ?」
「あ、うん……あ、ありがとう」
幸い、すぐに水をかけたのが良かったのか、大して酷い火傷にはならなかったみたい。
わたしは、お礼を言って立ち上がろうとしたんだけど……
トラップが、何だか顔を真っ赤にしてわたしを凝視しているのを見て、ふとその視線を辿る。
……きゃあああああああああああ!!?
太ももまで捲り上げられたスカートと、水を浴びせられてべっとりと肌に張り付いた服。
自分の格好を見て、わたしを思わずうずくまってしまう。
あ、あわわわわわ、ど、どうしようっ!?
顔が真っ赤になるのがわかる。
……あれ?
以前も、似たようなことがあった。あのときは、「バカ、見ないでよ」とか何とか言って、ひっぱたいたりしていたんだけど。
何でだろう……今は、何だか、すっごく……
ばさあっ
上から被せられたのは、トラップのTシャツだった。
「と、トラップ?」
「……わりい。見るつもりじゃ、なかったんだけど……」
……あれ?
トラップも、変……前だったら、こういうときは絶対、「んな色気のねえ身体なんか頼まれたって見ねえよ」とか何とか、意地悪なこと言って……
「あ、あの……あの、あの……あ、ありがとう……」
言いたいことがいっぱいあるようで、そのくせちっともまとまらなくて。
結局、わたしはトラップのシャツを被って、小さくお礼を言うことしかできなかった。
怪我に薬を塗って、包帯を巻いて、着替えて。
それだけやって、わたしはまた台所におりていった。
準備していた紅茶がもったいなかったしね。……ただ、それだけ。
決して、トラップが台所にいたから……ではない、と思う。
「さっきは本当にありがとう。紅茶、飲む?」
「ん……」
自分の分と、トラップの分のマグカップに、沸かしなおしたお湯で紅茶を入れる。
いい匂いがいっぱいに広がって、いつもならそれだけですごく幸せな気分になれるんだけど。
何だか……今は、落ち着かない。
しばらく、紅茶をすする音だけが響いた。
……気まずい、なあ……
「ふう……」
「……んで、おめえ、こんな時間に何をぼけーっとしてたんだ?」
ぶっ!!
突然の質問に、思わず紅茶を吹いてしまう。
目の前でトラップが顔をしかめていたけれど、それに気を払う余裕もなく。
そ、そうだそうだ。なごんでる場合じゃなかった。
わたし、トラップとクレイに約束したんだよね。「なるべく早く話をつける」って。
別にその後二人にせかされたわけじゃないけど……いまだに迷ってる、って言ったら、多分バカにされる。
トラップは、こういうとき容赦が無い。例え相手が傷つくだろうってわかってても、それしか方法が無いのなら、ためらわない人だから。
えと、な、何て言おう……
わたしは思いっきりうろたえてしまったんだけど。
そんなわたしを見て、トラップの目が、意地悪そうに輝いた。
「ははーん。さてはおめえ、ギアに何て話そうかって悩んでただろ?」
「…………」
お父さん、お母さん。
世の中には、人の心を読める人がいるって、わたし初めて知りました……
何でわかるのおおおお!!?
返す言葉もなくてわたしがうつむいていると、トラップは鼻で笑って言った。
「ばあか、おめえの考えてることなんてな、お見通しだっつーの。どーせ、『嫌いじゃないから傷つけたくない』とか中途半端なこと考えてんだろ?」
ぎくっ
あからさまに顔色を変えるわたしに、トラップは心底呆れた、という風にため息をついた。
「んっとにおめえってわかりやすいよなあ。あのな、傷つけようがどうしようが、きっぱり言うことだって大事なんだよ。おめえ、自分にあてはめて考えてみろよ。おめえにもしすげえ好きな奴がいたとして、相手から『君のことを好きにはなれないけど、傷つけたら可哀想だから嫌いじゃないって言ってあげるよ』とか『つきあってあげるよ』とか言われて、おめえ嬉しいかよ?」
「……嬉しく、ない」
実際にそんなはっきり言う人は少ないだろうけど。
そんな気持ちでつきあってもいいって言われたら……多分、すごく悲しいだろうな、とは思う。
「そうだろ。おめえはギアのことを好きじゃねえ。つきあってほしいって言われても、振り向くまで待ってるって言われても迷惑だ。そうきっぱり言やあいいだろ」
…………
トラップの言ってることは、多分すごく正論なんだと思う。
だけど……頭でわかってるのと、実際に行動できるかっていうのは、別問題だもん。
一緒にできる人なんて、限られてる。わたしは、トラップみたいに割り切れない。
「……まさか、おめえギアはかっこいいから振るのが惜しい、とか思ってねえだろうな?」
「…………」
答えないわたしに吐き捨てるようにつぶやかれた言葉。
それは……ちょっと前のわたしの心境を、そのまま表していた。
そう、多分わたしは、ちょっと前までそう思っていた。
大好きな先生だしかっこいいと思う。本気で好きだって言ってくれている。
今はそんな風に見れないけど、もっと後になったらわからない。だから、きっぱり振るのが惜しい、そんな風に思っていた。
「マジか? ……おめえ、それは……」
「違う」
だけど、違う。今は違う。
今は……
「どう言えばいいのかわからないんだもん。『振り向いてくれるまで待つ』『教師をやめたっていい』……ギア先生は、そこまで言ってくれたんだよ? 何を言ったって、『それでも待つ』って言われたら、それ以上どう答えればいいの。トラップ、教えてよ。好きな人のことを完全に諦めるときって、どんなことを言われたとき? わたし、嘘はつきたくないの。先生は真剣だったから。だから、『嫌い』とは言えない。酷いことされたから許せないとは思うけど、だけど嫌いになりきれないの。トラップ、わたしどうしたらいいの?」
適当にごまかすなんてことしたくない。本音をぶつけたい。
だけど傷つけたくはない。それは……わたしのわがままだってわかってるけど。
わたしがじっとトラップを見つめると、彼は、しばらく黙ってわたしの視線を受け止めていた。
立ち上がって、空になったマグカップを流しに戻して、そして。
わたしの背後に、まわりこんできた。
「……トラップ?」
「優しいのは、おめえのいいところでもあるんだけどよ。同時に悪いところでもあるんだよな」
「…………」
「好きな奴のことを完全に諦めるとき……俺だったら、相手が他の男のことを好きだって言われたとき、だな。そいつが、自分よりいい男だったら、諦める。俺だったらな」
「…………」
トラップとギア先生の考えが同じとは限らないけど、それは確かに一つの方法だと思う。
好きな人がいる、そう言ってしまえば……多分、話は一番簡単。
「わたしに、他に好きな人がいるって……」
「一番簡単な方法教えてやろうか?」
「え?」
トラップの言葉に、振り返る。
そんなわたしを、彼は……椅子の背もたれごしに、抱きしめてきた。
「と、トラップ!?」
「俺とおめえは婚約してるって、そうギアに言っただろ。手っ取り早く既成事実作っちまえばいい。一番簡単な方法だと思うわねえか?」
「……え?」
既成事実?
「どういうこと……?」
「こういうこと」
見上げたわたしに迫ってきたのは、予想外なまでに間近にあった彼の顔。
唇に柔らかいものが押し当てられる。暖かいものが、間に差し入れられ……歯や上あごをくすぐりながら、ゆっくりと中に侵入してくる。
舌をからめとられて、そこまで来て初めて、わたしは自分が何をされているのかを理解した。
「ん……んん――!?」
口いっぱいに広がるミルクティーの味。頭の芯がしびれるような感覚。
最初は強張っていた身体から、段々力が抜けていくのがわかった。
「……どうよ?」
「…………」
やっと唇を解放されても、わたしはしばらく何も言えなかった。
ほんの数センチ前にある、いたずらっこみたいに輝く彼の瞳。
段々と顔に血が上っていくのがわかった。
な、な、な……
「と、トラップ……?」
「既成事実。『わたしはもう身も心もトラップのものなんです』って言っちまえば、さすがに向こうも諦めると思わねえ?」
「なっ……」
一瞬、何を言われてるのかわからなかったけど。
その直後、嫌というほど思い知ることになった。
再び塞がれる唇。背後からまわっているトラップの手が、ゆっくりとわたしの胸を押し上げて……
「やっ……」
ぶつんっ
パジャマのボタンが外された。あっという間に、上から三つくらい。
差し入れられるトラップの手は、とても暖かかった。
「ふっ……あっ……」
下着を押し上げるようにして、胸にあてがわれる手。
その指が微妙に動くたびに、思わず声を漏らしてしまう。
な、何? 何なの、突然……
「感じるか?」
びくっ
耳元で囁かれて、震えが走った。
背もたれを挟んでいるから、触れているのは手だけ。
そして、それを……わたしは、残念に思ってる。
もっと触れたい、もっと感じたいって、思ってる……
な、何で?
ギア先生のときは、怖くて、やめてほしくて、それでも感じてしまう自分がすごく嫌だったのに。
何で、トラップなら……
「っあ……や、ひゃんっ……」
耳に、うなじに、キスの雨がふる。
ざらり、と湿った感触がして、ぞくぞく感がどんどん強くなる。
「と、トラップ……」
「嫌なら嫌って言え。……言えるだろ。俺はギアじゃねえ。嫌がるおめえを無理やり抱くなんてしたくねえ」
ぶつんっ
パジャマのボタンが全開になった。
手が、胸から肩へと移動する。
するり、とパジャマが肩から外され、背もたれと背中の間で、中途半端に止まる。
トラップの視線を痛いほど感じて、わたしは顔が真っ赤になるのを感じた。
「……嫌なら嫌だと言え。このまま先に行ってもいいなら……立ち上がれ。おめえが自分で選べ」
甘い吐息と共に囁かれる言葉。
身体に走るのは、多分快感。何も考えたくない、何も考えられない。
だから、反射的に動いた。素直に、自分の本能で動いた。
立ち上がる。わたし達の間にあった障害物が、ゆっくりと音を立てて倒れた。
間を遮るものは、何も無い。
振り向くと同時、意外とたくましい腕が、わたしの全身を包み込んだ。
ぱさっ、と微かな音を立てて床に落ちるパジャマ。
ふと見上げれば、真剣な茶色の瞳がわたしを覗き込んでいる。
これが……わたしの本心?
目を閉じる。三度目のキスは、自分から求めた。
つまり、わたしはトラップのことが好きなんだ。
床に横たわったまま、わたしは嫌でも自覚せずにはいられなかった。
のしかかってくるトラップの身体。そして、自分でもそれを求めようとしていることがわかったから。
「……俺が脱がせてもいいのか?」
「自分で……脱ぐよ」
するり、とズボンから脚を抜く。
視線を感じる。身体を見られたのは初めてじゃない。ちょっと前に、着替えの最中に乱入されたこともある。
だけど、そのときの視線と、今の視線は違う。
真剣に、わたしのことを見つめてくれてる……そんな視線。
唇と、指と、トラップは様々なものを使って、わたしの身体をほぐしていった。
触れられれば熱くなり、声が漏れる。
息が荒くなるのがわかった。同時に、トラップの息も同じくらい荒いってことも。
一つになりたい。それが、わたしの正直な思い。
無理やりじゃない愛撫が、こんなに気持ちいいものだったなんて……知らなかった。
「やあっ……あ……」
「あー……やべえ……」
何がやばい、のか。トラップは言わなかったけれど。
酷く苦しそうな彼の息遣いは、何となく、次にどう来るかを予想できるものだった。
「トラップ……」
わたしの呼びかけに、ぴくりと反応する。
その首に腕をまわし、わたしは彼の耳元で囁いた。
「いいよ……もう。来て……」
「……痛いかもしんねえぜ?」
「うん……」
どんな痛みも、我慢できるから。
あなたと一つになれるのなら。
わたしが微笑むと、彼も見たこともないような優しい笑みを返して……
割り開いた脚の間に押し入ってくる。
来る……自然に身体が強張った、その瞬間だった。
ガチャン
…………
唐突に響いた音に、わたしも、トラップも、身体を強張らせた。
わたしの聞き間違えでなければ……それは、ドアの鍵が外れる音、で……
「ただいま! 珍しく休みが取れたから帰ってきたよ! トラップ、パステル、いるんだろ?」
「おーい息子よ、娘よ! 両親の帰宅だぞ! ちゃんと出迎えんか!」
玄関から響いた声に、トラップは疾風のごとくわたしから離れた。
パジャマと下着が放り投げられる。わたしがあたふたとそれを身につけている間に、彼は素早く服装を直して玄関へと走った。
「親父! 母ちゃん! 何なんだよ突然!」
「まあ、何だいこの子は。親が帰ってきたってのにちっとは嬉しそうな顔をしたらどうなんだい?」
「いや嬉しい。すげえ嬉しいとも。だからせめて予告くらいしてくれっつーの!」
「自分の家に帰るのに何でいちいち知らせる必要があるんだい。ほれ、疲れてるんだからさっさと休ませておくれ」
「だーっ!! 待て、ちょっと、ちょっと待てー!!」
焦りまくった彼の声を尻目に、着替えを終える。
だ、大丈夫だよね? おかしなところは無いよね!?
横倒しになった椅子を起こして、わたしはあたふたと玄関へと走った。
「お、おかえりなさい! お久しぶりですっ」
「ああ、パステル! 元気そうでよかった。どうだい? トラップが何か悪さしなかっただろうね?」
「いいいいいいええ、全然っ! とてもよくしてもらってましたっ!!」
わたしとトラップの顔に冷や汗がだらだらと流れていたことに気づいていたかはわからないけれど。
とにかく、本当に突然、トラップの両親であるところのブーツ夫妻は、帰宅したのだった。
「あー、全く生き返るよ。やっぱり我が家が一番だねえ」
わたしが入れたお茶を飲んで、おじさんとおばさんは大きなため息をついた。
どうやら、仕事が一つ急にキャンセルになって、突然休みができたんだとか。
明日の夜にはまた飛行機らしいけれど、とりあえず今晩はゆっくりできる、とのことだった。
「どうだい、パステル。少しは落ち着いた?」
「は、はい。何とか」
「うちのバカ息子の世話は大変だろう? 全く苦労をかけるねえ」
そんなことを言っている二人の顔は、何だかとても優しい笑顔で。
何だかんだ言って、トラップのことをすごく信頼しているのはよくわかった。
だから、わたしも笑って頷いた。
「トラップには凄くお世話になっています。わたし、この家に来てよかった。本当にありがとう」
ずっと言いたかったお礼。わたしが頭を下げると、おばさんは目を細めて、わたしの頭を撫でてくれた。
「堅苦しい挨拶はいい、って言っただろ? もうパステルはうちの娘なんだから」
「うんうん、全くだ。小さい頃からそうだったが、本当に素直ないい娘さんじゃねえか。なあ、トラップ」
にやり、と笑うおじさんの顔は、トラップがよく浮かべる笑顔に本当にそっくりだったけど。
同意を求められたトラップは、そっぽを向いていた。
何となく不機嫌そうなのは……タイミングが悪すぎたせい、なんだろうなあ……
はあ。わたしも、実はちょっとだけだけど、残念だった、って思ってたりする。
いやいや、もちろん、おじさんとおばさんが帰ってきてくれたのはすごく嬉しいんだけど。
にこにこしながら二人が話してくれた外国の話は、とても面白かった。
もう時間は深夜に近いのに、ちっとも眠くならない。四人で囲むテーブルは、本当に久しぶりだったから。
しばらく、わたし達は夢中で話していたんだけど……
とんでもない話を耳にして、わたしは身体が強張るのを感じた。
「いやー、しかし、可愛いし素直だし気はきくし、おまけに料理も得意なんだろお? おいトラップ、どうだ。いっそおめえの嫁さんに来てもらうってのは」
ぶはっ!!
おじさんの言葉に、トラップは飲んでいたお茶を派手に吹き出した。
わたしはわたしで、瞬時にぼんっ、と頭に血が上るのがわかったんだけど……
「全くねえ。こんなにいいお嬢さんになるとわかってたら、キングさんにちゃんと話しとくんだったよ」
続くおばさんの言葉に、ひっかかるものを感じて、わたしは首をかしげた。
あれ……?
視線を向けると、何となく焦った表情のトラップ。
あれれ……?
「おう、惜しいことをした。けどなあ、うちのバカ息子に大切な一人娘を下さい、なんて言えねえだろうが」
「あーそれはそうだね。トラップにパステルはもったいないね。もっといい相手がいくらでも……ほら、アンダーソンさんの三男坊とか」
「おお。あいつか。確かに……」
「あ……あのなあ!! 黙って聞いてりゃ、本人目の前にして好き勝手なこと言ってんじゃねえよ!!」
あんまりな言われように、さすがにトラップが立ち上がったけれど。
わたしの剣呑な視線を感じたのか、すーっと表情を変えてまた座りなおした。
……どういう、こと?
親同士が決めた許婚……じゃなかったの? わたし達。
「あの、おじさん、おばさん。わたし、そろそろ休みますね。明日の朝は、腕によりをかけてご飯を作りますから、楽しみにしててください」
「おお! 楽しみにしてるとも」
「悪いね、気を使ってもらって」
「いいええ……トラップも、そろそろ寝る? 明日も学校だけど」
わたしがにっこり微笑むと。
トラップは、ひきつるような笑いを浮かべて、立ち上がった。
「トラップ……あのね、わたしが聞きたいこと、わかってるよね……?」
二階のトラップの部屋にて。わたしとトラップは向かい合っていた。
バツの悪そうな表情で視線をそらすトラップ。
……ごまかされないからね。
「トラップ。わたし達って、親同士が決めた婚約者だー、って言ったよね、最初にここに来た日に」
「…………」
「とぼけても駄目だからね。わたし、ちゃんと覚えてるから」
「……言った」
ぐいっ、と視線の先に移動すると、さすがに諦めたらしく、トラップはため息つきつき頷いた。
……やっぱり、嘘だったんだ……
わたしをからかってたの? 婚約者だって聞かされて、うろたえるわたしを見て、楽しんでたの?
最初は、びっくりしたけど……最近では、それを喜んでもいたのに。
「何で、そんな嘘ついたの?」
「…………」
「ねえ、トラップ……」
何か、理由はあるよね。意味もなく嘘をついたわけじゃないよね?
トラップを信じたい。だから……納得いく理由を教えてよ。
わたしがぐっと身体を寄せると、トラップは……
何故だか、盛大なため息をついた。
……何、その反応……
「トラップ?」
「……あのさあ。おめえ、覚えてねえの?」
「は?」
言われた意味がわからなくて、首をかしげる。
そんなわたしに苛立ったのか、トラップはやや強い口調で重ねて聞いた。
「何も、覚えてねえのか?」
「何を?」
「……確かに、親同士が〜ってのは嘘だったよ。けどな、俺とおめえが婚約してるってのは、嘘じゃねえ」
「……はあ?」
何よそれ。わけがわからない。
素直にそう言うと、トラップは何だか傷ついたように目をそらした。
……一体何が言いたいわけ……?
「トラップ?」
「……あのさあ、おめえ、小せえ頃に一度うちに遊びに来たことがある、っつったろ? 覚えてるか?」
「え? うーん……」
小さい頃……ねえ。お父さんの友人だ、という人の家に遊びに行ったのは、覚えてる。
凄くおぼろげだけど、最近よく思い出す。
あのとき、一緒に遊んだ男の子……
あれ? いや、ちょっと待って。あれは、だってわたしより一つ年上の男の子で。
トラップとは違う……よね? あれはブーツさんじゃなくて別の友人?
あのときの男の子の名前は……
「……ステア……?」
――わたし、ぱすてるっていうの。
――俺の名前は、ステア。
ステア。トラップの本名は、ステア・ブーツ……
「え、何で!?」
「はあ?」
「何で? そんなわけない。だって、あの男の子は、わたしより一つ年上だって……トラップは同い年じゃない! そんなわけない……」
「……何だ、覚えてんじゃねえか……何で、こんな簡単なことに気づかねえかねえ……」
はあ、とまたまた大きなため息。
そしてトラップが取り上げたのは、生徒手帳についてるスケジュール表。
「覚えてんだろ? そーだよ。ステア。あのとき、迷子になったおめえを迎えに行ってやっただろーが。そんとき、約束しただろ? もう泣かない、約束を守ったら、俺の嫁さんにしてやるって」
「……覚えて、る」
覚えてる。あれは多分わたしの初恋だった。
意地悪ばっかり言われたのに、いざ助けて欲しいとき、真っ先に助けに来てくれたから。
わたしを守ってくれるって言ったから。
あの男の子は……トラップのことだったの?
「でも、年齢が……」
「おめえが俺の家に来たのは夏。7月だったか、8月だったかは覚えてねえ。6月だったかもしれねえな。でも、少なくとも5月よりは後のことだった」
一年のカレンダーがつきつけられる。
5月3日が来た時点で、彼はわたしより先に年を重ねる。
そして、わたしの誕生日は……
「おめえの誕生日は冬だろうが。2月だったかあ? その時点で誕生日が来てなかったから、俺達の年齢が一つずれたんだよ。それをおめえは単純に年上だと勘違いしてたわけ」
……そう、だ。言われてみれば、その通り。
何で……こんな簡単なことに気づかなかっただろう?
今だって年齢だけ見ればそうだ。トラップは17歳、わたしは16歳……
「あの男の子が……トラップだったの? わたしを助けてくれて、守ってやるって言ってくれて、お嫁さんに、してくれるって……」
「……そーだよ。忘れたこと、なかった。おめえのことを、忘れたことはなかった。偶然同じ学校に入学して、すげえ嬉しかったけど。おめえは俺のことを覚えてねえみたいだった。……正直、ショックだったぜ?」
そう、覚えていなかった。
すごくおぼろげで、彼がどんな顔をしていたか、何ていう名前だったか、それすらもはっきり覚えていなくて。
そのうち、わたしの中で、それは「子供の頃の思い出」として頭の奥に押し込められてしまった。
最近、それをよく思い出すようになったのは……トラップに出会ってから……
「言っただろ。大きくなったら、おめえを迎えに行くって」
「……だって、わたし、約束守れてない。いつも泣いてばっかりで、助けてもらってばっかりで……」
「だけど、迷子になっても……泣かなくなったじゃねえか。何も、絶対泣くな、なんて言ってねえよ。泣く必要の無いときは泣くな、そう言ってんだ」
「…………」
ふわり、と優しく抱き寄せられる。
ぎゅっと腕に力がこもる。押し付けられたトラップの胸は、温かかった。
「迷子になったって泣く必要なんかねえんだ。どこに行ったって、おめえは俺が見つけてやるから」
「……じゃあ、約束、守ったって……認めてくれるの?」
「認める。おめえがあの学校に入ってきたの、中等部からだよな? 入学式でおめえを見て、一目でわかったんだよ。そんときから、ずっと……いんや、初めて会ったガキの頃から、ずっと……」
ずっと、おめえのことが好きだったんだ。
頬を挟む彼の手に、そっと自分の手を重ねる。
ふわり、と落ちてくる唇を受け止める。
もっとも、パジャマのボタンに伸ばされた手は、さすがに拒否したけど。
下におじさんもおばさんもいるんだってば!
そう囁くわたしに、トラップは微かに不満そうな顔をして。
そのかわりとばかりに、唇は、なかなか解放してもらえなかった。
そうして、わたしとトラップは初めて、本当の婚約者同士になった。
翌朝、わたしが腕を振るった朝食は、おじさんにもおばさんにも大好評だった。
いつもよりちょっと賑やかな朝。いつもよりもっと慌しい登校。
でも、何とかいつもの時間に学校につく。
「おはよう、パステル。どうしたの? 何だか嬉しそうね」
「えへへ。そう見える?」
にぎやかな朝食が楽しくて、わたしは朝から顔が緩みっぱなしだったんだけど。
ギア先生が教室に入ってくると、一気に顔がひきしまるのを感じた。
いよいよ……だね。
はっきりさせなくちゃいけない、と思ったのは、随分前。
今まで、ずるずると返事を引き延ばして、先生にも酷いことしたな、って思う。
……だから、はっきりさせるね。
「今日のHRはこれまで。連絡事項は特に無い。以上だ」
起立、礼の挨拶の後、教室を出て行く先生の後を追いかける。
「先生!」
わたしが声をかけると、ギア先生は、ぴくり、と肩を揺らして振り返った。
「……どうした。何か用か?」
「話したいことが、あるんです。昼休みに……屋上に来てもらえますか?」
表情から、先生はわたしの言いたいことがわかったのかもしれないけれど。
それでも、軽く頷いて、職員室へと戻って行った。
昼休みの屋上。
うちの学校は、本当は屋上は立ち入り禁止なんだよね。
だけど、わたしは一年生のとき、偶然知った。ドアの鍵が壊れていて、簡単に出入りできることを。
落下防止用の柵にもたれかかって、じっと待つ。
先生が来たのは、ほんの数分後だった。
「パステル・G・キング。話しとは?」
「……先生、今でも、わたしのことを好きだって……教師の職を捨ててもいって、本当にそう思ってますか?」
わたしが聞くと、先生は迷わず頷いた。
「君のことを、思わないときは無い。それくらい……本気だ」
「……先生の気持ちは、嬉しかったです。無理やり抱かれそうになって、怖くて、許せないと思って、それでも嫌いにはなりきれなかったんです。こうなる前の先生は、本当に優しかったから」
わたしの言葉にも、先生は何の反応も示さなかった。
ただ黙って聞いているだけ。だけど……その手は、指先が白くなりそうなほど、きつく握り締められていた。
「結局、君は何が言いたい?」
「ごめんなさい、って言いたかったんです。ごめんなさい、先生。先生が先生じゃなくなっても、いくら時間が経っても、わたしは先生のことが好きになれません。……わたしは」
すうっ、と息を吸い込む。
誰にも言っていない。当の相手にすら、うやむやのまま言いそびれた、わたしの本音を。
「わたし、トラップが……ステア・ブーツのことが好きなんです。……ごめんなさい」
ぺこり、と頭を下げる。
もっと色々言いたいことはあった。だけど、結局、これが一番いいんじゃないかと思った。
わたしの本音。わたしが一番好きなのは、多分これから先もずっとトラップだろうっていう、本音。
先生は、しばらく何も言わなかった。
……もしかしたら、また、力づくで……
そう考えると、手が震えたけれど。でも、逃げようとは思わなかった。
じっと先生の顔を見つめる。視線をそらしたのは、向こうが先だった。
「……奪い取れるものなら、奪い取りたかったな」
「…………」
「いつも自信が無さそうだった君を、守ってやりたいと思った。何もかも、俺が助けてやればいい。それが君にとって幸せなんだと、そう思っていた」
「先生……」
「いつの間に、俺の目をまっすぐ見れるようになった? 君にそれだけの自信を与えたのは、ステア・ブーツなんだろうな。彼の愛し方は俺とは正反対だった。君を必要以上に甘やかさず、突き放しておきながら、影から手助けをして、君を成長させていた。君が望んだのは、そういう愛され方だったんだな」
「……はい」
その通りだから。わたしは大きく頷いた。
わたしを守ってくれる、王子様。
だけど、甘やかして欲しかったわけじゃない。人形のような愛され方なんて嫌だった。
わたしを、一人の人間として認めてくれる、そんな愛され方がしたかった。
だから、わたしはトラップのことが好きなんだ……そう気づくまでに、本当に時間がかかったけれど。
わたしの答えに、先生は軽く笑って言った。
「俺には、そんな愛し方は無理だろう……ステア・ブーツには勝てないだろう。諦めることにするよ。だが、多分君以上に愛せる相手は、なかなか見つからないだろう……そんな相手が見つかるまでは、君のことを想い続ける。それくらいは、許してもらっていいか?」
「……はい。でも、もう……」
「わかっているよ。……もう殴られたくはないからね。ステア・ブーツに伝えておいてくれ。あの一発は、なかなか効いた、と」
そうだろうなあ……トラップいわく、「全力をこめて殴った」だもん。
普段のギア先生なら、多分トラップの拳くらいなら受け止められると思うんだけど。
それだけ……トラップが本気だった、ってことだよね?
甘やかさず、突き放して、でも影からこっそり見守って、わたしのことを真剣に考えてくれる。
わたしが好きになったのは、そういう人だから。
「はい」と小さく頷くと、先生は優しい微笑を浮かべて、背を向けた。
その後姿は、何だか寂しそうで……わたしは思わず叫んだ。
「先生!」
先生は振り向かなかったけれど、ぴたり、と足を止めた。
「先生……教師、やめたりしないですよね?」
「……君のために捨てるなら、惜しくはなかった。けれど、それ以外の理由で捨てるには……ちょっとばかり、惜しいね」
「…………」
「君達の今後を見守っていきたい。卒業までちゃんと面倒を見てやりたい。ステア・ブーツが君を幸せにするか見張ってやりたい。……今しばらく教師でいるよ。君には迷惑かもしれないけどね」
「迷惑だなんて、そんなこと、無いです」
それも、本音だった。わたしの心からの本音。
「わたし……先生のこと、大好きですから。先生としての先生は、大好きですから」
「……ありがとう」
軽く手を上げて、ギア先生は、今度こそ、屋上から姿を消した。
……終わった、んだ。やっと、終わった。
やっと自分の気持ちをはっきり伝えることができた。……大分時間がかかったけど、色んな人に迷惑かけたけど。
大きく息をついた。そう思ったら、何だかずっともやもやしたものがたまっていた胸が、すっきりした気分。
うーん、と大きく伸びをして、階段へ向かう。
今から戻れば、まだお昼ご飯を食べる時間くらいはあるはず。
ドアを開けて、階段を降りようとしたそのとき。
「おい」
「きゃあ!?」
ドアの影から伸びてきた手に腕をつかまれて、わたしは思わず悲鳴をあげた。
……この声は。
「トラップ!?」
「……よう」
ドアの影から顔を覗かせるのは、わたしの大好きな……赤毛の、細身の男の子。
「ま、まさか、盗み聞きしてたの!?」
「人聞きのわりいことを言うな! 万一おめえが襲われでもしたらと思って、待機しててやったんだろーが!!」
わたしの言葉に、真っ赤になって怒鳴る。……声が大きいってば。
「心配しすぎだって。いくら何でも……」
「甘い! 甘い甘い甘い甘い! おめえは男ってーのを甘く見すぎてる。前にも言っただろーが!」
「な、何よお!」
びしっ、と指をつきつけられて、思わず反論しようとしたそのとき。
感心するような素早さで、つきつけられた腕が翻って……わたしを抱き寄せた。
触れる唇。押し入ってくる温かい舌。
「男ってーのはな、惚れた女が目の前にいたら、場所とか状況なんか、目に入らなくなっちまうんだよ」
「……よく、わかった」
だけど、さすがにこんな場所では。
セーラー服の中にもぐりこもうとした手を、わたしは思いっきり振り払った。
――ぱすてるって言うの。
――俺の名前は、ステア。
――いっしょに、あそんでくれる?
――年下で、女だから、守ってやらなきゃな。
――やくそくまもったら、およめさんにしてくれるの?
――大きくなったら、絶対おめえを迎えに行くから。
初恋は実らないって言うけど。
たまには、例外もあるんだって、わたしは初めて知った。
わたしの学園生活は、まだ終わらない。
トラップと二人の学園生活は、まだまだ、続く――