ファーストキスは、結婚式までとっておきたい。 
 今時珍しいねって言われようと、わたしはずっとそう思っていた。 
 だけど、最近何故か思い出す幼い日の記憶。 
 遠い昔、お父さんの友達だという人の家に遊びに行った記憶。 
 そういうことがあった、とは覚えてはいたけれど、細かいことはもう忘れてしまっていたのに、最近何故か、そのことを思い出す。 
 仲良くなった、一つ年上の男の子。 
 一緒に遊んで、喧嘩して、そして助けてもらって。 
「泣くなよ。約束だからな」 
 男の子は言った。笑っている方が可愛い、そう言ってもらえた。 
「約束を守ったら、俺の嫁さんにしてやるよ」 
 ぶっきらぼうにそう言った男の子に、わたしは笑顔を返した。 
 お嫁さんになるということは、綺麗なドレスを着れるということ。 
 あの頃のわたしにとって、認識はそんな程度だったけど。 
「うん。わたし、大きくなったら、……君のお嫁さんになる」 
 そう言うと、彼は嬉しそうに微笑んだ。 
 そして…… 
 あのとき、唇に感じた柔らかい感触は、あれは、もしかして。 
 もちろん、幼かったわたしに、その意味などわかるはずもないけれど。 
 実際、今の今まですっかり忘れていたけれど。 
 多分友人達に話したら、「そんなのは数のうちに入らない」と言われるんだろうけれど。 
 でも、わたしは思う。 
 あれこそが、わたしにとってのファーストキスだった、って。 
 そう思わなければ……悲しすぎるから。 
  
 うーん…… 
 わたしの前には、広げられたノートと教科書。 
 ううーん…… 
 目の前に踊っているのは、数字と記号の羅列。 
 この記号の意味は何だっけ? ここにこの公式使うんだっけ? えと、その場合定義は……? 
 うんうんと唸っても、わからないものはわからない。だって問題の意味がまずよくわからないんだもん。 
「ああーもう!」 
 思わずノートを投げたくなったけれど、それは何とか我慢する。やつあたりしたってしょうがないもんね。 
 五月の半ば。中間試験まで、後数日。 
 国語と英語はねえ、好きだしまあまあ得意だから。 
 社会も、覚えるだけだから。多分何とか。 
 でも、数学と理科は、わたしにとってはもう未知の教科。 
 中等部の頃までは何とか理解も追いついたけど、高等部に入ってから加速度的に難しくなったこの教科が、わたしは大の苦手なんだよねえ。 
 これさえなければ、試験の順位も大分上がる、とはマリーナの言葉だけど。 
 はう…… 
 ため息をついた立ち上がった。時間はもう夜の1時過ぎ。 
 もうちょっと頑張ろう。明日は幸い休みだし。 
 今日は金曜日。土曜日、日曜日と挟んで、月曜日からもう試験。 
 もう一ヶ月以上も経つんだ。月日が流れるのって、早いよねえ…… 
 何となくしんみりしながら、わたしは部屋を出た。 
 夜食でも作ろう。何だかお腹が空いちゃったし。確か、朝ごはんにしようと思ってサンドイッチの材料、そろえてあったはずだし。 
 じゃあ、明日の朝ごはんは? なーんて声が頭の中をかすめていったけれど。 
 ま、そのときはそのとき。何とでもなるでしょう。 
  
 台所に立って、簡単な野菜サンドイッチとあったかいミルクを入れる。 
 うん、おいしそう。試験勉強は好きじゃないけど、夜食を食べれるのが唯一の楽しみだったんだよね。 
 まだ両親が生きていた頃、遅くまで勉強していると、たまにお母さんがあれやこれや作って差し入れてくれた。 
 もっとも、お母さんが家にいることは滅多になかったけれど。 
 ……あれ? 
 両親のことを思い出しても、もう以前ほどには辛い気持ちにならない自分に、ちょっと驚く。 
 以前は、ちょっと思い出すだけで、涙が溢れて困ったのに。 
 ……大分、立ち直った……ってことなのかな。 
 これが、ふっきれた、ってこと? だとしたら…… 
「おめえ、こんな時間にあにやってんだ?」 
「きゃあ!?」 
 ボーッと考え事をしているときに突然声をかけられて、わたしはマグカップを取り落としそうになった。 
 わたし以外にこの家に住んでいる人物は、今のところ一人しかいない。 
「と、トラップ?」 
「あんだよ。……お、うまそうじゃん。一個もらい!」 
「あ、こらー!!」 
 作りたてのサンドイッチをかっさらわれて、思わず立ち上がる。 
 もー、油断も隙もないんだから!! 
  
 トラップ。本名ステア・ブーツ。 
 両親が死んだわたしを引き取ってくれたブーツ一家の一人息子で、わたしと同い年で同じ学校で同じクラスで席も隣。 
 口が悪くて手癖が悪くて寝起きも悪い、けれどいざというときは頼りになるし何だかんだで何でもできるし表には出にくいけどとても優しい。 
 そういう、複雑な人だったりする。ちなみに、彼のご両親は仕事の都合で海外に行ってしまっていて、今のところほぼ二人暮らし状態。 
 そう言うと、「同棲生活!?」なーんて言われるかもしれないけれど、今のところ、わたし達はそんな関係では……無い。 
 実は一度キスはしたけれど。それは……その、なりゆきというか。場の雰囲気というか。感謝のお礼というかっ……そう、あれは深い意味など何もなくて! 
 それが証拠に、キスまでした関係だというのに、以前となーんにも変わらないこのトラップの態度! 彼にとってはあんなこと、冗談の範疇内なんだろう、多分。何だかんだでまあまあかっこいいからそれなりにもてるみたいだし(マリーナいわく)。 
 だから、わたしも気にしないことにした。そう、気にしてなんかいない。 
「……一人で何ぶつぶつ言ってんだ?」 
 ハッ! 
 思ったより近くで声をかけられて、わたしはわたわたと手を振った。 
「な、何でもない、何でもない」 
「ふーん。ま、いいけど。で、おめえこんな時間に何で飯なんか作ってんだ?」 
「え? そりゃあ……」 
 サンドイッチにしつこく手を伸ばしてくるトラップをべちんとはたいて……そこで我に返る。 
 そうだそうだ、こんなことしてる場合じゃなかった。 
「決まってるでしょ、勉強してたのよ! もうすぐ中間試験じゃない」 
「んあ? そーだっけ?」 
 くっ、この男のこの余裕は一体どこから来るんだろう…… 
「そうなのよ! もう、トラップは勉強してるの?」 
「してねえ」 
 やっぱりね。まあ彼は、荷物が重たくなるとか面倒くさいとか言って、教科書もノートも学校に置きっぱなしにしてる人だから。 
 それにしても、少しは焦るとか無いのかなあ…… 
「いいの? それで」 
「んあ? あんでだよ。だってどーせ授業で言ったことがそのまま出るんだろ? だったら授業受けてりゃあ、別に改めて勉強する必要なんかねえじゃん」 
「うっ」 
 トラップの言葉は、何だかすごく正論に聞こえた。 
 言われてみれば……そうだよねえ。っていやいや、授業で言ったことを全部丸ごと覚えてるなんて無理だよ。 
 それに、予習をちゃんとしないと授業がそもそも理解できないし。復習しないと忘れちゃう。 
 だから、勉強は必要なんだって、やっぱり。 
 まあ、いいけどね。トラップの成績がどうだろうと、わたしには関係ないから。 
「とにかく、そういうことだから。わたし、もう少し勉強してるから邪魔しないでね」 
「けっ、誰がするかってんだ。で、今は何の勉強してんだ?」 
「数学」 
 そう答えて、いつの間にか半分くらいに減ってるお皿とコップを手に立ち上がる。 
 やれやれ、結構時間が経っちゃってる。眠くならないうちに頑張らないと…… 
 落さないように注意して階段を上っていくと、後ろからトラップもついてきた。 
 ああ、彼も自分の部屋に戻るんだな、と特に注意もしてなかったんだけど。 
 部屋のドアを開けると、何故かトラップも、一緒に入ってきた。 
「……ちょっと」 
「ふーん、割と綺麗にしてんだな」 
「ってちょっと! 勉強するんだから邪魔しないでって言ったじゃない!」 
「んあ? 邪魔なんかしてねーよ」 
「だって……」 
 わたしの抗議なんか無視して、トラップは机の方に歩み寄った。 
 教科書をちらっと見て、ノートを取り上げる。 
「ふーん……」 
「ちょっとちょっと! 返してってば。わたし勉強……」 
「おめえ、ここ計算ミスってんぞ」 
「え?」 
 トラップが指摘したのは、どうしても解答と計算結果が一致しなくて困っていた問題。 
 彼が指差しているのは、かなり最初の段階の計算過程。 
「え? 嘘っ」 
「後、ここ。この時点でこの公式当てはめても使えねえよ。その前にこっちの計算やって数値を出して、その数値を代入しねえと意味がねえから」 
「え? えー?」 
 ま、待って待って待って。 
 トラップって、もしかして…… 
「トラップって、数学得意なの!?」 
「……何で苦手なんだよ。言われた通りに計算して公式に当てはめるだけじゃん」 
 何でもないことのように言うトラップ。その言葉に、わたしは何だか眩暈さえ感じた。 
 お父さん、お母さん。 
 人は皆平等だって言うけどそれは嘘です。 
 わたしがあれだけ努力しても解けない問題を、何の苦労もなくさらっと解いてみせるこの男の存在は、絶対不条理です! 
 わたしが一人落ち込んでいると、トラップは面白そうに笑って言った。 
「勉強手伝ってやるからよ。そんかわり、俺にも夜食、作ってくれよな?」 
 
 それから今日と土日の二日間。わたしはトラップの猛特訓を受ける羽目になった。 
「ばあか、何でそこでxの値を使うんだよ。最初にyを求めてからだなあ……」 
「おめえなあ! F=ma ってのがどういう意味の式か、わかってんのかあ!?」 
「違うっつーの。この公式はな、何で成立するのかってーと……」 
 10分に一回は怒鳴られて、30分に一回は拳骨が落ちたけど。 
 少なくとも、一人でやるよりは随分効率的に、理解することができた。 
 ……絶対おかしい。 
 トラップがこんなに勉強できるなんて、絶対間違ってるって!! 
  
 月曜日は国語と地理と物理。火曜日は英語と化学。水曜日は歴史と数学。 
 国語はもともと得意だったし、地理もまあいつもと同じくらいには。 
 一番問題だった物理も、トラップの猛特訓のおかげか、何だか普段よりは格段にできたり。 
 火曜日も同じく。英語は得意な方だったし、化学も何とか乗り切った。 
 問題は、明日。数学は、トラップの猛特訓でどうにかなると思うけど…… 
「ううっ、範囲が広い……」 
 火曜日夜。わたしは歴史の教科書とノートと暗記カードの山に埋もれる羽目になった。 
 覚えるだけだから何とかなる。その前に物理と数学を何とかしちゃおう。 
 そんなことを考えていたら、いつのまにか物理と数学だけで時間が過ぎちゃったんだよね…… 
 わーん、わたしのバカバカバカー! 
「おめえって、本当にどっか抜けてるよなー」 
 トラップには笑われるし。うう、最悪…… 
 こればっかりは、手伝ってもらうようなことも無いもんね。ひたすら覚えるだけだもん。 
 ううう…… 
 そんなわけで、わたしは試験最終日に向けて、なかなか眠れない夜を過ごす羽目になった。 
  
 水曜日の朝。今日を乗り切れば、明日と明後日は試験休み、土日も含めた4連休。 
 試験中は午前中で授業が終わるから、お弁当も作る必要がなくて少しのんびり寝ていられる。 
 前夜遅くまで勉強していたせいで、わたしはそれこそギリギリまで寝ていよう、そう思ったんだけど。 
「おい、パステル。起きてっかあ? あのさあ、朝飯……」 
 目が覚めたのは、トラップの声。 
 んん……? 
 枕元の時計を引き寄せると……時間は既に7時半。 
 ……きゃああああああああああああああああああ!!? 
「いやああああ!! ち、遅刻遅刻!!」 
「あんだ、どーした?」 
 バタン 
 わたしが焦ってパジャマを脱ぎ捨てたところで、部屋のドアが開いて制服姿のトラップが顔を覗かせた。 
 ……硬直。 
「ば、ばかあああああああああああああああああ!!!」 
「うわあああああああああ!!」 
 ばこーん!! 
 投げつけた時計は、トラップの顔面にクリーンヒットした。 
 いやあああ、もう最低っ!! 
  
 朝ごはんなんか食べてる暇も無い。 
 あたふたと制服に着替えて、教科書をカバンにつめこむ。 
 うー睡眠不足のせいかな? 何か頭痛い……今日の試験、大丈夫かな…… 
「……用意できたか」 
 部屋のドアでは、物凄く不機嫌そうな顔をしたトラップが待ち構えていた。 
 その額がちょっと赤くなってるのは……わ、わたしのせいじゃないからね! 
「ったくよお。わざわざこの俺が起こしに来てやったっつーのに、こんな熱烈な礼をくれるとは思わなかったぜ」 
「だだだだって、トラップが悪いんでしょー!? 人の着替え覗くから!」 
「はああ? 誰がんなどこが背中か胸か理解に苦しむ身体を……てててっ!!」 
 ぎゅうううう、と憎まれ口を叩くトラップの背中をつねりあげて、わたしは階段を駆け下りた。 
 時間は既に7時50分! 
「いやあ、もう最低……絶対遅刻しちゃう。今日試験なのに……」 
 わたしが嘆きながら靴を履いていると。 
 ポン、と何かが投げられた。 
 反射的に受け取ったそれは……ヘルメット。 
「……え?」 
「おら、行くぞ」 
「え? ちょっとちょっと?」 
 ぐいっ、と手をひかれる。指差されたのは…… 
「ま、まさかこれで行くつもりなの!?」 
「ああ? 遅刻するよりいいだろうが」 
「だ、だって校則違反じゃない! 見つかったら……」 
「ごちゃごちゃ言わずに乗れ!」 
「きゃあああああ!!」 
 肩にかつぎあげられて、強引に座らされる。即座にトラップも前にまたがって…… 
「おら、しっかりつかまってろ!」 
「いいやあああああ! わたし、わたしスカート……」 
 ぶろろろろろろろっ!! 
 わたしの抗議の声は、急発進のエンジン音でかき消された。 
 バイクで登校なんて……見つかったら停学ものじゃないのよおおおお!! 
  
 バイクは駅の駐車場に停めて、そこから歩く。 
 学校の最寄り駅に到着したとき、時間は8時30分だった。 
「ほれ、間に合っただろうが」 
「……もう二度とバイク登校はしない……」 
 ひょうひょうと言い放つトラップに、ヘルメットを投げつける。 
 だってだって! きちんと座りなおす暇もなく走り出すから、スカートが物凄く派手に翻って…… 
 そ、それを抑えるために、片手でトラップのウェストにつかまってたのよ!? 
 生きた心地がしなかった……ううう…… 
 とまあ、言いたい文句は山のようにあったけれど。 
 今は差し迫った試験の方が問題だよね、うん。 
 気を取り直して歩き出す。トラップの意見で、途中にあるコンビニで朝ごはんを調達することにしたんだけど。 
「あんだよおめえ、食わねえの?」 
「あんまり食欲無い……」 
 ストレスのせいか、あまり食べたいって気がしない。おにぎりだ唐揚げだと買い込むトラップを尻目に、わたしはお茶だけ買うことにした。 
 わたしってこんなに繊細だったっけ? どっちかというと楽観的な性格だと思ってたんだけど。 
「ほら、行こう。遅刻しちゃう」 
「ああ」 
 何だかじーっと顔を見てくるトラップをひっぱって、わたしは店を出た。 
  
 学校に到着したのはまたまた始業ギリギリの時間。 
「今日は試験最終日だな。明日からしばらく休みになるが、すぐに期末テストもある。あまり気を抜かないように」 
 ギア先生の言葉に、みんなの反応は薄い。 
 目前に迫った歴史試験のことで、頭がいっぱいだからだけどね。 
 かくいうわたしも、机の下でこっそり暗記カードをめくって…… 
 ふと視線を感じて顔をあげる。 
 ギア先生が、じっとわたしのことを見つめていた。その視線は……やっぱり、冷たい。 
 慌てて視線をそらす。 
 ギア先生は、実はわたしのことを好きだと言ってくれている。一緒に暮らそうとも言ってくれている。 
 だけど、わたしは先生は先生としか見れないから、受け入れられなかった。トラップの家に住んでいることに、何の不満もなかったし。 
 そのせいで、ギア先生はトラップを目の敵にしているような節があるんだけど……ちょっと前に「婚約者だ」とトラップが言い放ってから、特に何かを言われたことは、無い。 
 ただ、わたしとトラップに向ける視線は、酷く冷たくて……まあ、トラップは「気にすんな」って言ってるけど。 
 ちなみに婚約者云々は別に嘘じゃないけれど、本人同士は了承してなかったりする。念のため。 
 気まずい沈黙が流れる中、チャイムが鳴り響いた。 
「……試験開始だ。筆記用具以外は、机の中に閉まって」 
 先生の言葉に、皆が一斉に動き始めた。 
  
 昨日の猛勉強のおかげか、歴史はまあまあ無難にクリアできた。 
 後は数学さえ終われば、晴れて自由の身。 
「うう……」 
「んあ? どーした?」 
 うめいていると、隣のトラップに声をかけられる。 
 試験はまだ終わってないけど、多分トラップの中では既に終わったも同然なんだろうなあ。数学得意みたいだし。 
 いやまあそれはともかく。 
「パステル?」 
「ん……何でもない」 
 何か頭痛い。寝不足のせい……? ボーッとする。 
 駄目駄目、まだ試験が残ってるのに。特に数学は、トラップに散々迷惑かけたんだから。 
 がんばらないと。 
「おい、おめえ……」 
「大丈夫、大丈夫。せっかく教えてもらったんだから、がんばらないとね」 
 手を振るわたしに、トラップはなおも何か言おうとしたみたいだけれど。 
 そのとき、チャイムが鳴り響いて、数学の先生であるミケラ先生が入ってきた。 
 最後の試験が始まる。 
  
 いつもは苦戦する問題も、今日は何なく解ける。 
 方程式、公式、代入。どこにどれを使うのか、いつもならおたおたするところだけど、トラップが教えてくれたことを思い出すと、今まで悩んでいたそれらが、すごく簡単なことに思えてきた。 
 これなら、いける。 
 試験時間は50分。時間いっぱいかけて、わたしは解答を埋めた。 
 後少し、後少し頑張れば…… 
 チャイムが鳴った。 
「よし、終了。後ろから答案用紙を集めてきてくれ」 
 がたがたと机の動く音、大きく息をついたり伸びをしたりするクラスメート。 
 終わった……! 
「ま、思ったより簡単だったな。おめえ、どうだった?」 
 声をかけてくるトラップに、満面の笑みを返す。 
「うん、ありがとう。トラップのおかげで、割とスラスラ解けたよ」 
「あったりめえだろ? 感謝のしるしに飯でもおごれよ」 
「うん、何でも……」 
 何でもおごるよ。 
 そう、言おうとしたんだけれど。 
 目の前のトラップの顔が……不意に、ぼやけた。 
 ……あれ? 
「パステル?」 
 頭、痛い。何だか、暑い…… 
 ぼやん 
 視界が揺れる。気が遠くなる。 
「おい、パステル!?」 
 悲鳴のようなトラップの声が響く中。 
 わたしは、ゆっくりと気が遠くなっていくのを感じた。 
 最後に感じたのは、力強い腕が、わたしの背中と膝裏にまわる感触。 
 誰かが、わたしを抱き上げて…… 
  
 ――ただの、風邪でしょう。 
 遠くに聞こえるのは……あの声は、保健室の先生、キットンの声だ。 
 ――おうちの人に迎えに来てもらいますから、あなたはもう帰っていいですよ。 
 キットンの声は大きいから聞こえるけど、相手の声までは聞こえない。 
 ――え? あなたが? ははあ。しかしどうやって連れて帰ります? 誰か、車で来ている先生に頼みますか? 
 この、感じ。ベッド? わたし、ベッドに寝かされてる……? 
 ――ははあ、バイク? あんまりお勧めしませんがねえ……まあ無理はさせないようにしてくださいよ? 季節の変わり目の風邪は怖いですから。 
 暑いなあ……何があったんだろう…… 
 ――バイク取りに行ってきますか、そうですか。わかりました。 
 頭、痛い…… 
 わたしは目を閉じたまま、じっとその会話を聞いていた。 
 風邪……それって、わたしのことだよねえ…… 
 カーテンがひかれる音。誰かが、わたしの顔を覗きこんでいる。 
 そして…… 
 唇に、何か柔らかいものが触れた。 
 けれど、それを感じたときには……わたしはもう、眠気に素直に身をまかせていた。 
  
 傍にいた人が離れた。 
 夢の中の出来事なのか、それとも現実なのかよくわからない、ふわふわした状態。 
 ドアが開いて誰かが出て行く。しばらくは静かだったけれど…… 
 ――ああ、そうだ! 今日は保険医会議があるんでした! うわああもうこんな時間だ!! 
 キットンの騒がしい声が微かに耳に届く。 
 ばたばたとまた一人、誰かが出て行った。 
 それっきり、部屋の中は静かになる。 
 ……眠い、なあ…… 
 すーっ、とまた眠気が襲ってくる。 
 暑い。布団から両手を出して、わたしが大きく息をついたときだった。 
 ガラリ、とドアが開く音がした。 
 誰か、来た……? 
 ぼんやりとそんなことを考えたけど、目を開けるのも億劫だった。 
 誰かが近づいてくる。カーテンをひく音がして、枕元に立つ気配。 
 視線を、感じる。誰……? 
 そのときだった。 
 暑さのため布団から出していた上半身。 
 その胸元に、微かな気配を感じる。 
 ……え? 
 そう思ったときには、セーラー服のスカーフが、乱暴にひきぬかれていた。 
 な、何!? 
 目を開けようとした。だけど、そのときには……わたしは、乱暴に身体をひっくり返されていた。 
「ふわっ!!」 
 ぐいっ、と顔を枕に押し付けられる。一瞬息がつまった。 
 力強い腕。両腕をねじりあげられ、痛みに涙がこぼれそうになる。 
 そのまま、わたしの腕は、ベッドのポールに縛り付けられた。 
 ななな何!? 何が起きてるの!? 
 縛り付けているのは、わたしのスカーフ。 
 腰のあたりに感じる重み。誰かが、わたしの上に…… 
 不意に、自分が何をされようとしているのかを察した。 
 悲鳴をあげようとしたけれど、その瞬間、また頭を押さえ込まれる。 
 苦しいっ……!! 
 暴れようとしたけれど、身体にうまく力が入らない。 
 誰か、誰か助けてっ……!! 
 セーラー服をまくりあげられる。背中に生暖かい空気が触れた。 
 ばちり、とブラのホックが外される音。 
「んーっ! んんっ!!」 
 抵抗しようとしたけれど、両腕は動かせないし、腰に誰かが乗っているせいで、身動きがままならない。 
 だ、誰か――!! 
 ぞわりっ 
 背中を撫でられて、全身に悪寒が走る。手が動いて、胸を包み込むように、身体をわずかに持ち上げられた。 
 怖い…… 
 手が、胸を優しくもみしだく。反応なんかしたくないのに、声が漏れるのを抑えられない。 
「やあっ……あ、ああっ……」 
 背中にキスの雨が降る。強く吸い上げられて、わたしは背筋をのけぞらせた。 
 脚の間に誰かが割り込んでくる。スカートがまくりあげられる。 
 下着が引き下ろされて、こらえきれず涙をこぼした。 
 何で? 何が……何がどうなってるの!? 
 つつっ、と太ももを撫でられる気配。 
 手は、容赦なく、わたしの中へと侵入していった。 
「っああああっ!!」 
 その手の冷たさに、悲鳴をあげる。 
 これ……この手……まさか、まさかっ!? 
 まさか、そこまで……嫌だ、もう嫌っ…… 
「助けて……」 
 わたしの微かなつぶやきを黙殺して、相手の手は、容赦なくわたしの中をかきまわす。 
 ぐじゅっ、という音とともに、太ももを、粘液が伝い落ちるのがわかった。 
 反応してる。こんなことされて、反応してる。 
 嫌だ。嫌……こんなのは、嫌…… 
「助けて……」 
 ぐっ、と腰を持ち上げられた。四つんばいになるような格好を強いられて、羞恥に顔が赤くなる。 
 誰か…… 
「助けて、トラップ!!」 
 叫んだ瞬間。 
 がっしゃーん!! 
 響いたのは、窓ガラスが割れる音。 
 ついで、「うっ」という小さなうめき声。 
 その声を聞いて、わたしは確信する。 
 やっぱり……やっぱり…… 
 ばたばたと走り去る音。ドアが開いて、誰かが出て行く。 
「パステル、大丈夫か!?」 
 窓の外から響いたのは、わたしが求める声ではなかった。 
「クレイ……?」 
「ぱすて……」 
 必死に窓の方に顔を向けると、割れたガラスの向こうで、クレイと目が合った。 
 クレイは何故か硬直している。その顔が、段々と真っ赤に染まって…… 
「ごごごごめんっ! 見てないから、あの……」 
 ばっと顔をそむけられる。 
 彼の視線を辿って……わたしは、今の自分の格好を思い出した。 
 両腕をポールにしばりつけられて、四つんばいにされて、セーラーの上着は胸の上までまくりあげられて、スカートは腰まで…… 
「い、いやあああああああああああああ!!?」 
 服を直したくても。腕を縛られたわたしには、どうすることもできない。 
 じたばたと脚をばたつかせて、どうにかスカートだけ腰から落とす。 
 ななな何てことっ! こんな格好を、クレイに……男の人に見られるなんてー!! 
「やだあ……何で、何で……」 
 涙がこぼれる。腕を振ったけど、スカーフの結び目は硬く、なかなか解けそうにない。 
 わたしの泣き声に気づいたのか、クレイはしばらく躊躇した後、窓を開けて中に入ってきた。 
 必死に目をそらしながら、腕の拘束を解いてくれる。 
 慌てて服装の乱れを直す。何で…… 
 何で、こんな目に合わなくちゃいけないのっ…… 
「うっ……ふっ……う、ううう……」 
 あふれる涙を止められない。 
 クレイは、しばらく黙っていたけれど、優しく頭を撫でてくれた。 
 我慢できなかった。 
 わたしは、クレイの身体にすがりついて、小さな子供のように、大声で泣いてしまった。 
  
 どれくらい泣いていたのかわからない。 
 涙って、こんなにたくさん溢れるんだ。そんな変なことに感心していたとき。 
 クレイの手は、優しくわたしの背中を撫でてくれている。 
 喉が枯れて、しゃっくりのような声しか出なくなった。 
 そのときだった。 
 ガラリ、とドアが開く音。 
「ったく参ったぜ。道路が混んでてよお……キットン、いねえのかよ?」 
 ずかずかずか 
 足音は、何のためらいもなく部屋に入ってきて。 
 そして、ベッド脇のカーテンをひいて……そのまま身を強張らせた。 
 立っていたのは、わたしが助けを求めた人物。 
「おめえら……」 
 トラップの顔が強張る。拳が握り締められる。 
 その表情に怒りが浮かび、クレイが何かを言おうとして…… 
 だけど、一番早かったのはわたしだった。 
「トラップ……トラップ、トラップ!!」 
 もう声は出せないと思った。 
 もう涙なんか枯れ果てたと思った。 
 だけれど、その顔を見たら、新たな涙が、すごい勢いで溢れ出して…… 
「遅いよ……ばかあ! 怖かった、怖かったんだからあ!!」 
「お、おい!?」 
 クレイから身を離し、今度はトラップにすがりついて、わんわんと泣き喚いてしまった。 
 後ろでクレイが苦笑している気配と、トラップの戸惑った気配。 
 遅いよ。 
 助けて欲しかったのに、どうしてもっと早く来てくれなかったの。 
  
 ――守ってやるって言ったじゃない―― 
  
「……あにがあった?」 
 あの後。 
 どうやら、わたしは風邪をひきこんで熱を出して倒れたらしい。トラップが保健室まで運んでくれて、バイクを学校まで持ってこようと離れた。 
 すぐに戻るつもりだったけれど、道路の渋滞と、一方通行の関係でかなり回り道を強いられたらしい。それで、時間がかかったそうなんだけど。 
 まあとにかく、キットンも会議があるとかで保健室を出て、一時的にわたしが部屋に一人になったとき。 
 それは、起こった。 
 部活に出ようと、たまたま窓の外を通りかかったクレイが、石を投げてくれたおかげで……最悪の事態は避けられたけど。 
 バイクに乗せられて、帰宅した後。 
 説明を求めるトラップに、わたしは……何て言えばいいのかわからなかった。 
 どう説明すればいいのよ。あれは……あれはわたしの油断、じゃないよね。 
 だって、気がついたら一人で寝かされていて……気がついたら、もう脇に誰かが立ってて。 
 熱があって動けなくて、わたしのせいじゃ……無いよね? 
 でも、そう言ったら……多分、トラップは自分を責める。 
 一人にしたって、守れなかったって、自分を責める。 
 それは、嫌。 
「何でも、無い……」 
「ばあか、信じられるわけねえだろうが。……何が、あったんだよ?」 
「何でも……」 
 思い出そうとすると、また涙が溢れてくる。 
 動けない身体を自由にされた恐怖と……そんなことをされながら、感じてしまった羞恥。 
 そんな感情がいっぱいいっぱい交じり合って……もう、何が何だか…… 
「うっ……ふ、ううっ……」 
 涙を止められない。泣き顔を見られたくない。 
 両手で顔を覆って、うつむくわたしを、トラップは…… 
 ぎゅっ 
「う……?」 
「……ギア、か?」 
 抱きしめられる腕は、とても温かかった。 
 とても安心できる、腕。 
 トラップの言葉に、軽く頷く。 
 あの冷たい手と、声。あれは……あれは、間違いなく…… 
 クレイは多分見ていたはずだけれど、言おうとはしなかった。多分、彼は彼で、色々考えていることがあるんだろうけれど。 
 言わなくても……トラップには、お見通しだった。 
「トラップ……怖い、怖いよ。わたし……」 
 泣きじゃくるわたしを、トラップはただ抱きしめてくれた。 
  
 その後、再度熱が上がって、わたしはせっかくの4連休をほとんどベッドの中で過ごすことになった。 
 ショックはなかなか抜けそうもなかったけれど…… 
 暇さえあれば部屋に顔を出して、おかゆだ飲み物だタオルだ氷枕だと世話をやいてくれるトラップの顔を見ると、早く忘れなくちゃ、と思えた。 
 心配してくれるトラップに、泣き顔を見せちゃいけない、と思った。 
 幸い、最悪のところまではいかなかった。 
 忘れ、なくちゃ。早く……忘れなくちゃ。 
「どーだよ。うまいか?」 
 おかゆを差し出すトラップに、微笑んでみせる。 
 わたしの笑顔を見て……トラップは、微かに笑うと、くしゃり、と頭を撫でてくれた。 
  
 そして、4連休が終わる。 
  
 学校が始まる日が憂鬱だった。担任の先生だから、嫌でも顔を合わせなくちゃいけない。 
 怖い…… 
 わたしが暗い顔をしているのがわかったのか。 
 朝食を食べながら、トラップは、にやりと笑って言った。 
「大丈夫。心配すんなって」 
 その言葉がどういう意味なのか、ただの気休めなのかはわからなかったけれど。 
 その笑顔に、わたしは「ありがとう」と答えるしかなかった。 
 なるように、なる。 
 先生は、わたしが気づいたと思ってないかもしれない。 
 わたしが、何も気づかないふりをしていれば…… 
 相変わらずの混雑した電車に乗って、学校へ。 
 「おはよう」と声をかけるクラスメートに、いつも通りの挨拶を返す。 
 いつも通り……だよね? わたし、どこも変な態度じゃないよね? 
 席につくと、程なく先生が姿を現した。 
 さすがに、背中が強張ったけれど…… 
「今日は試験の結果発表の日だな。答案も授業中に随時返って来るだろう。復習を怠らないように」 
 淡々と連絡事項を告げる先生の口調は、いつも通りだった。 
 特に、わたしに目を向けてくることも、ない。 
 ……まさか、わたしの勘違い……なんてことは、ないよね? 
 間違いない、よね。だったら…… 
 だったら、どうしてあんなに平然としていられるの? 先生…… 
 涙がこぼれそうになって、慌てて目を伏せた。 
 気にしちゃいけない、忘れなくちゃいけない、忘れなくちゃ…… 
 うつむくわたしのことは気にもとめず、先生は帳簿に欠席者のチェックだけして、HR終了の合図をした。 
 そのときだった。 
 ガタン 
 隣で誰かが立ち上がる。 
「……トラップ?」 
 クラスメートの怪訝な視線が、一斉に集まる。 
 ギア先生の目が、冷たくトラップを見据えて…… 
 トラップの表情に浮かぶのは、怒り。 
 彼は、そのままずかずかと教壇まで歩いて行って…… 
「トラップ!?」 
 瞬間的に声をあげて立ち上がったけれど、遅かった。 
 そのときには、トラップは、拳を固めて…… 
 ガツンッ!! 
 派手な音を立てて、ギア先生を殴りつけていた。 
  
 うろうろ、うろうろ。 
 わたしは今、校長室の前で行ったりきたりしている。 
 ちなみにしっかり授業中だったりするんだけど、とても授業を受けようなんていう気にはなれなかった。 
「頭が痛い」 
 一時間目の授業がたまたま数学で、ミケラ先生はわたしが試験のとき倒れたことも知っていたから。あっさり信じてくれた。 
 ううう、嘘ついてごめんなさい……でも、でも多分今授業を受けても、何も頭に入らないと思いますので…… 
 校長室の中では、ギア先生とトラップ、そして校長ジェローム・ブリリアント三世(大げさな名前だよねえ……)がしゃべっているはず。 
 どんな事情があれ、いきなり生徒が先生を殴ったんだもん。 
 停学……下手したら、退学もあるかもしれない。 
 それに、確信できる。トラップは、多分絶対事情を話したりしない。わたしのことを、絶対口にしたりしないだろうって。 
 トラップ……ごめん。ごめんね。 
 わたしのせいだよね。わたしが泣いてたから、傷ついて忘れられなくて落ち込んでいたから。 
 だから……わたしのかわりに怒ってくれたんだよね? 
 わたし……どうすればいいんだろう。 
 ギア先生にされたことを、洗いざらい全部話せばいい? ……だけど、それは…… 
 それは、嫌だった。思い出したくない。口にしたくない。人に知られたくない。 
 わたし、どうすれば…… 
 うろうろ、うろうろ。 
 部屋の中からは全然声が聞こえてこない。一体、どんな話をしてるんだろう? 
 校長先生は面白い先生だ。ゲームが大好きであまり先生っぽくないけど、理由も聞かずに問答無用で処分を下すような先生ではない、と思う。 
 だけど、理由を話さなかったら…… 
 そのとき、チャイムが鳴った。一時間目が終わったんだ…… 
 ざわざわと廊下が騒がしくなる。わずかな休み時間。 
 後十分で二時間目が始まる。どうしよう、一度教室に戻った方がいいのかな……? 
「パステル!」 
 声をかけられて、思わず振り向いた。 
 そこに立っていたのは…… 
「クレイ!?」 
「パステル、話はマリーナから聞いたよ。トラップは……」 
「まだ、中に……」 
 クレイが言うには、授業が終わってすぐ、マリーナが三年生の教室にとびこんできたらしい。 
 マリーナ、ありがとう! クレイなら…… 
「クレイ、お願いトラップを助けて! トラップは悪くないの。わたしが悪いのよ、わたしのためにトラップは怒ってくれたんだから! お願い……」 
 わたしの言葉に、クレイはただ優しく微笑んだ。 
 ああ、彼は何もかもわかってくれているんだ……そう確信する。 
 クレイの行動に、迷いは無かった。 
 即座に、ドアをノックする。 
「誰だね」 
「三年B組クレイ・S・アンダーソンです。失礼します」 
 返事も聞かずに、クレイは中へと入っていった。わたしの腕をつかんで。 
 ……え? 
 問答無用で部屋の中に連れ込まれ、ドアを閉められる。 
 机についているジェローム・ブリリアント三世先生(長いから普段はJB先生って呼んでるんだけど)と、その前に立っているギア先生とズボンのポケットに手をつっこんだトラップが、一斉にこっちを注目した。 
 JB先生とギア先生は無表情だったけど、わたしとクレイを見て、トラップが少し表情を動かす。 
「おめえら……」 
「失礼します。校長先生、生徒会長のクレイ・S・アンダーソンです。彼女は二年A組、生徒会書記のパステル・G・キングです」 
 トラップの言葉を無視して、クレイは校長先生に詰め寄った。 
「ほお、生徒会役員か。んん? そういえばこっちの赤毛の小僧はステア・ブーツとか言ったな? こいつも……」 
「はい。とらっ……ステアは生徒会副会長です。同じ生徒会役員のしでかしたこととして、私も一言謝罪を、と思いまして」 
 興味深そうに身を乗り出すJB先生にクレイが答える。 
 ……どうするつもり? 
「ふむ。謝罪か。この小僧はさっきから一言も口をきかんしギア・リンゼイも何も言わんからわしも困っておったところだ。お前は理由と原因を知っているのか?」 
「はい。校長先生、これはちょっとした誤解と勘違いが招いたことでして、リンゼイ先生とステア・ブーツの個人的な事情です。生徒と教師、そういった立場は関係の無いことなんです。そこのところをご理解いただけますか?」 
「ふむ?」 
 クレイの言葉に、JB先生はトラップとギア先生に視線を向けたけど。 
 二人は無言。クレイが何を言い出すのかわからなくて、対応に困ってるみたい。 
 ……まあわたしもなんだけど。 
「個人的な事情、な。それは、わしが聞いてはまずい事情か?」 
「いえ、やましいようなことは一切ありません。……彼女に関することなんです」 
 ぐいっ 
 そこで押し出されたのは……わたしだった。 
 はいいいいいい!!? 
「ほう? この娘が原因で、このような騒ぎになった……と?」 
「そうです。彼女は両親を亡くし、親同士が知り合いであったステアの家に暮らしています。つまり、同居をしているわけです。ギア先生は、それを聞いて同棲生活を送っているのかと勘違いをされて……」 
「ふむ。わしも今聞いたときそう思ったぞ。違うのか?」 
「同居です。ステアは両親と共に暮らしています。彼女は彼の家族です。ですが、誤解を招くのもまあ仕方の無いことでしょう。ギア先生がステアに話を聞いたところ、両親を失い、傷心の彼女を傷つけまいと守っている家族のことを邪推された、と怒ったわけです」 
「ふむ」 
「ですが、ギア先生とて彼女の身を案じてのこと。決して、悪気があったわけではありません。そのへんの誤解が高じてあのような騒ぎになった、ということです」 
「お前は随分事情に詳しいな?」 
「私はステアの幼馴染です。彼について知らないことはありません」 
 ……よくも、まあ。 
 ぺらぺらと嘘を並べ立てるクレイに、わたしは唖然としてしまった。 
 よーく聞けば色々おかしいところはあるはずなんだけど、JB先生はそれに全然気づいてないみたい。 
 クレイって、あんなに口がうまかったっけ? 
 そっとその顔を覗き見てみると、額に冷や汗が浮かんでいた。 
 ……クレイはトラップと違って、そう嘘がうまいわけじゃないもんね。かなり緊張しているみたい。 
「校長先生、これは双方ともに彼女のことを心配して起こったことでして……どうか、穏便な処置をお願いします」 
「ふむ。確かに事情を聞けばいたし方のないようにも思える。だが、生徒が教師を殴った、という事実に変わりはないぞ」 
「……ステアが理由もなく人を殴るような性格かは、私が一番よく知っています。それに、彼は生徒会副会長、このような不祥事があったとばれては、学園全体の名誉に傷がつきますよ? それに!」 
 バン! 
 そこで、クレイは机の上に何かを叩き付けた。 
 その紙を見て、JB先生が興味深そうに目を見開く。 
「ほう……」 
 え、何? 何だろ。 
 先生の態度が気になって、わたしもクレイの後ろからこっそり覗き見る。 
 それは、生徒の名前がずらずらと書かれた紙で…… 
「ステア・ブーツ。700点満点中652点、総合第五位か。この小僧、見た目によらず随分優秀だな」 
 ……はい? 
 思わず身を乗り出してしまう。名前と、点数が書かれた……試験の結果発表の紙だ。い、いつの間に…… 
 確かに、第五位のところにトラップの名前があった。 
 う、嘘でしょー!? 
「このような言い方は私の本意ではありませんが、これだけ成績優秀な生徒を停学、あるいは退学にすることは、学園にとって損失にあたるのではないかと思います。無論犯罪行為を犯したというのなら、話は別ですが……先生、いかがでしょう」 
「ふむ。そうだな。そこまで言うのなら……」 
 そこでJB先生が見たのは、ギア先生だった。 
「ギア・リンゼイ。後はお前次第だが……お前がいいと言うのなら、この小僧は今回だけはお咎め無しで済ませてやってもよい。どうだ?」 
「…………」 
 全員の視線が、一斉にギア先生に集まる。 
 先生は、しばらく目を閉じて考え込んでいたけれど…… 
「私にも、非はあったことです。寛大な処置、感謝致します」 
 と、頭を下げた。 
 ……え? ってことは…… 
「わかった。この件は無かったことにする。お前達、もう帰ってもいいぞ。授業が始まっとるだろう」 
 JB先生の言葉に、わたし達はぞろぞろと部屋を出て…… 
 ギア先生は、何も言わずそのままさっさと歩いて行った。 
 そして…… 
「クレイ、トラップ! ありがとう、よかったああ!!」 
 二人にぎゅーっと抱きついて、わたしは思わず叫んでいた。 
  
「えええ!? あの筋書き、全部トラップが考えたのお!?」 
「まーな」 
 二人にご飯でもおごる、と放課後立ち寄ったファーストフードのお店で。 
 トラップは、ジュースをすすりながらこともなげに言った。 
「参ったよ。突然協力してくれって言われたときはさあ。俺の柄じゃないって断ろうかと思ったんだけど……」 
「んあ? ただ俺が書いた筋書きをしゃべっただけだろうが。俺なんかなあ、おめえらが何かミスしやしねえかとひやひやしてたんだぜ」 
 そう、呆れたことに。 
 殴った後、トラップ、ポケットの中で携帯を操作して、クレイに筋書き通りに動いてくれってメールを送ってたんですって。 
 おかしいと思ったんだよね。クレイがあんなにぺらぺら嘘をまくしたてるなんて。 
 クレイがメールを読んで何のことだ? と疑問に思ってるときに、マリーナが呼びに来てくれたとか。本当にいいタイミングだったみたい。 
「でも、それって自分で話せばいいことなんじゃないの?」 
「ふっ、甘えな。同じ話でもな、俺が話すのとクレイが話すんじゃ受けが違うんだよ、受けが」 
「まあ、それはそうかもね」 
「……納得すんなよ」 
 いやいや、でもそれはあると思う。 
 クレイって、何ていうか……人のよさが顔に出てるんだよね。 
 クレイが嘘をつくわけないって、無条件に信じちゃうような、そんな雰囲気が。 
 人柄、っていうのかなあ…… 
「でも、もしクレイがメールに気づかなかったら? マリーナが呼びに行かなかったらどうするつもりだったの?」 
「そんときゃそんときでまた何か考えたさ。ギアの野郎も黙りこくってたしな。正直、あいつが『退学にしろ』ってわめいたら、ちっとやばかった」 
 ま、言うわけねえとは思ってたけどな、とはトラップの言葉だったけれど。 
 でも……つくづく思った。 
 わたし、トラップやクレイに助けられてばっかりで……こんなことじゃいけないって。 
「トラップ」 
「あんだよ?」 
「今回のことは、本当にごめん……これって、わたしがはっきりさせないからいけないんだよね? ……わたし、ギア先生にちゃんと言うから。そんなつもりありませんって、はっきり言うから」 
 わたしがそう言うと、トラップはじーっとわたしを見つめていたけれど…… 
「……最初っからそう言えっつってんだろ? 遅えんだよ、ばあか」 
 そんな可愛くない返事をして、ぐしゃっと頭を撫でられた。 
 でも、言い方はきついけど……その目は、すごく優しかったんだ。 
 ちゃんと言わなきゃ、はっきりさせなきゃね。 
 もう、迷惑はかけられないから…… 
 だから、わたし、頑張る。 
 そう言って微笑むと、トラップも、クレイも、すごく優しい顔で、笑いかけてくれた。 

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