初めて会ったのは、確か夏。 
 わたしは買ってもらったばかりの半袖のワンピースを着ていたから、暑い時期だったと思う。 
 初めてその家に来たとき、わたしは何だか恥ずかしさを感じて、お母さんのスカートにつかまって顔だけを覗かせていた。 
 そうしたら、大人たちに混じって、自分とほぼ同じ目線の男の子がいることに気づいた。 
 男の子はじーっとわたしを見ていたけれど、目が合うと、ちょっと赤くなって目をそらした。 
 仲良くなりたい。 
 何でそう思ったのかはわからないけれど、わたしはそのとき、心から思った。 
 だから、大人同士が難しい話をしている中、ちょこちょことその男の子のところまで歩いて行って、ぺこり、と頭を下げた。 
「あのね、わたしぱすてるっていうの。あなたは?」 
「…………」 
 その男の子は、わたしを目を合わせないまま、ぼそぼそと自分の名前を名乗った。 
 そんな彼の様子に気づいた大人達が、笑いながら何かを言っている。 
「照れちゃって」「かわいいな」「子供は子供同士、仲良くやりなさい」 
 確か、そんな言葉をかけられた気がする。 
 もちろん、言われなくても、わたしは彼と仲良くするつもりだった。 
「いっしょにあそんでくれる?」 
「別に、いいけど」 
 わたしが手を出すと、男の子は、ぎゅっとその手を握ってくれた。 
 それが嬉しくて、わたしはにこにこ笑っていた。 
「何、にやにやしてんだよ。気持ちわりいな」 
 男の子はそんな憎まれ口を叩いたけれど、気にならなかった。 
 男の子の案内で、近所の公園へ連れていってもらう。わたしと同い年くらいの男の子が、公園で一人、ブランコに乗っていた。 
「おーい」 
 ぶんぶんと男の子が手を振ると、ブランコの男の子も、手を振り返してこっちに来た。 
「その子、誰?」 
「父ちゃんの友達の子だってさ」 
「ふーん。はじめまして。俺は……」 
 それから始まる自己紹介。 
 ブランコの男の子は、今四歳だと言った。わたしを連れてきてくれた男の子も四歳。 
 じゃあ、わたしより一つ年上なんだね。わたしはまだ三歳だから。 
 そう言うと、「おめえは俺より年下だし女なんだから、ちゃんと守ってやんねえとな」と男の子は言って。ブランコの男の子は「お前がそんな優しいこと言うなんて珍しいなー」なんて言って笑っていた。 
 それから、三人でお昼ごはんの時間まで遊んだ。 
 家に帰った後、もう一度遊びに行きたかったけれど、男の子は何故かそっぽを向いて連れていってくれなかった。 
 だから、わたしは仕方なく一人で出かけることにした。 
 見事に道に迷って、男の子が捜しに来てくれるまで泣く羽目になるのは、その後のことだった。 
 もしかしたら、年齢は五歳と四歳だったかもしれない、ブランコの男の子は鉄棒で遊んでいたかもしれないし砂場で遊んでいたかもしれない、そもそも公園じゃなかったかもしれない。 
 本当に曖昧で、まるで雲をつかむような記憶。 
 けれど、頭のどこかで覚えていた。 
 あのときの男の子の真っ赤になった顔。約束だと小指をからめた記憶。 
 あの男の子は、今、どこでどうしているんだろう。 
  
 バタン 
「トラップー! トラップってば。もう、起きて起きて、遅刻しちゃうよ!!」 
「……んー……」 
 朝7時。これから朝食を食べて、準備をして電車に飛び乗って、学校につくのは多分始業ぎりぎり。 
 今起こさないと間に合わない。トラップは、何しろとても寝起きが悪い人だから。 
「ほらあ! 起きて起きて起きてー!!」 
 ゆさゆさゆさ 
 身体をゆする。けど、やっぱりトラップは「うーん」と言ったっきり寝返りをうって向こうを向いてしまう。 
 トラップの部屋は、わたしの部屋と同じくらいの大きさで、ベッドと机とタンス、その他趣味のパズルやゲーム、CDやMDなんかが雑多に並べてある棚が置いてある。 
 床に落ちていたクッションを取り上げてぼすぼす頭を叩いてみたけど、やっぱり彼は無言。 
 もー、わたしまで遅刻しちゃうじゃない! こうなったら…… 
「トラップってば!! ほら、起きて……」 
 ばさあっ!! 
 かけられていた布団を、一気にひっぺがす。そして…… 
「き……きゃああああああああああああああああああ!!?」 
 わたしは、近所中に響き渡りそうな悲鳴をあげ、その悲鳴にさすがのトラップも飛び起きたのだった。 
  
 わたしとトラップは同じ家で暮らしている。学校も一緒、クラスも一緒。 
 そして、この家には、今のところわたしとトラップしかいない。トラップのご両親は、仕事の関係で外国に行ってしまっている。 
 何でそんなことになったのか、というと、わたしの両親が事故で死んでここに引き取られることになったからで、そうなるまでにはまあ色々と経緯があったのだけれど。 
 一緒に暮らすようになって三日目。今日は金曜日。今日が終われば明日と明後日は休みで、月曜日から通常授業が始まる。 
 そんな日。わたしは、トラップに背中を向けて、朝食を食べていた。 
 わたしが作ったサンドイッチとスープ。ここに来てから、最初の日以外ずっとわたしが食事を作っている。 
 まあね、それはいいんだ。美味しいって言ってもらえると、嬉しいし。 
「おめえなあ……いつまですねてんだよ」 
 ラフに着込んだ学生服姿のトラップが、呆れたような声を出している。 
 すねてるわけじゃないもん。ちょっとショックだっただけだもん。 
 だって……だって…… 
「おめえが勝手に見たんだろうが。俺の方が悲鳴をあげてえよ」 
 けっ、という声とともに、トラップが立ち上がる。冷蔵庫に飲み物を取りにいったらしい。 
 お父さん、お母さんごめんなさい。ふしだらな娘でごめんなさい。 
 わたし、生まれて初めて、男の人の裸を見てしまいました…… 
 いやいや、誤解しないでね。見たって言っても上半身だし、生まれて初めてっていうのは大げさかもしれないけれど。 
 でも、ショックだったんだもん。 
 トラップいわく、風呂あがりで暑かったからそのまま寝ちまった、ということで。彼はパジャマの下だけを身につけて布団にくるまっていた。 
 心の準備もなく見たその上半身は、ほっそりしているのに意外にたくましくて…… 
 見た瞬間、どきんっ! としてしまったのは、わたしだけの秘密。絶対に秘密。 
 で、ねえ……その後が…… 
 わたしの悲鳴に、トラップが飛び起きる。目の前に裸の胸が迫ってきて、わたしは慌てて視線をそらした。 
 下の方へと。 
 そのとき、目に入ってきたのは…… 
 あああ、もう駄目。わたし、お嫁に行けないかもっ 
 ぶんぶんと首を振るけれど、目に焼きついたその光景は当分離れそうもなかった。 
 そ、そりゃね。わたしも一応、保健体育とかの授業で習ったから、知識としては知ってたよ? 
 だけど、だけど初めて見たんだもん。お、男の人って……朝は…… 
「あああああああ……」 
「……おめえって見てて飽きねえ奴だよな」 
 一人で赤くなったり青くなったりうめいたり頭を抱えたりしているわたしに、トラップが心底呆れた、という風につぶやいている。 
 わたし達の生活は、いつもこんな風に始まる。 
 一人暮らしだったら絶対経験できないようなことばかり。賑やかで、楽しくて、たまに怒ったり、その後笑ったり。 
 寂しがりやのわたしにとって、両親がいなくなったという寂しさを、とてもまぎらわせてくれるから。 
 だから、わたしは感謝しているんだけどね。 
  
「遅刻するぞ」 
 その一言にどうにか気を取り直して、家を出たのは7時50分。 
 始業は8時40分だから、もうかなりギリギリ。 
 二人で走って、電車に飛び乗って、予鈴の音に全力で階段をかけあがる。 
 この三日、もう恒例となってしまった行事。 
 けれど、今日は何とか、本鈴の時間には間に合った。ギア先生はまだ姿を見せていない。 
 そのことにちょっとホッとしつつ、席につく。トラップも同じく、 
 ちなみにわたしとトラップは席が隣同士だ。出席番号が同じだったからなんだけれど、偶然って恐ろしい。 
「おはよ。毎朝毎朝大変ねー」 
 そんなわたしに、親友のマリーナが離れた席から手を振ってくる。 
 わたしとトラップが一緒に住んでることは、内緒……ということになっている。 
 いや別にそう決めたわけじゃないんだけど……恥ずかしいじゃない? 
 だけど、毎朝毎朝一緒に登校してくるものだから、マリーナにはばれちゃってるみたい。 
 そして、クラスのみんなには、わたしとトラップが付き合ってる……と思われているらしい。 
 ううっ、誤解なのに。でも、この誤解を解こうと事実を話したら、もっともっと誤解される。 
 わたしの新学期は、そんな悪循環で始まっていた。 
  
 教室に入ってきたギア先生の目は、何だか冷たかった。 
 もともとそういう顔立ちなんだけれど、新学期に入って、余計に冷たくなったような気がする。 
 人より鈍いって言われるわたしが気づくくらいだから、ギア先生ファンクラブ(水面下で誰かが作ったらしい)のメンバー達の間では、すごく噂になっていた。 
 いわく、失恋したんじゃないか? って。 
 その噂を聞いたとき、わたしは頬がひきつるのを感じた。 
 実は、わたしは以前、ギア先生に告白をされている。わたしはどうしてもそんな風に見れないから、それを受け入れることができなかったんだけど。 
 ギア先生は言った。「いつまででも待つ」って。 
 両親が死んだときも、よかったら一緒に暮らさないか、とまで言ってくれた。 
 けれど…… 
 けれど怖かった。告白のとき、先生に押し倒された。あのときの背中の冷たい感触が、どうしても忘れられなくて。 
 それ以来、先生と二人きりにならないように努力している。マリーナやリタ、あるいはトラップ、いつも誰かと一緒に行動するようにしている。 
 ふとした瞬間感じるとても冷たい視線のことは、あえて無視するようにして…… 
  
 と、思っていたのに。無視しよう、気にしないようにしようと思っていたのに。 
「パステル・G・キング」 
 放課後。わたしがマリーナやリタと話していると、教室の入り口から、ギア先生が声をかけてきた。 
 びくり、と身体が震えるのがわかる。マリーナ達はきょとんとわたしと先生を見比べていて、まだ残っている他のクラスメートは気にもしてないみたい。 
 トラップは……どこに行ったんだろ? カバンが残ってるから、帰ってはいないと思うけど…… 
「な、何ですか?」 
 不自然にならないように気をつけて返事をすると、先生は入り口から動かずに言った。 
「ちょっと聞きたいことがある。進路指導室まで来なさい」 
 ………… 
 進路指導室。聞きたいこと。 
 普通に考えれば、進路についての何か、だよね。話って。 
 怖い、けど……断るのは、不自然だよね。 
 いくら何でも、まだ昼間。生徒も先生もそこら中にいるのに、変なことになったりは……しないよね。 
「わかりました」 
 ちょっと言ってくる、と二人に声をかけて、立ち上がった。 
  
 進路指導室は、四階の端っこ。 
 三年生になったらしょっちゅう出入りすることになる、とは、同じ学校の三年生に彼氏がいるマリーナの言葉だけど。 
 まだ二年生になったばかりのわたしは、ここを利用するのは初めて。 
 部屋の中はそんなに広くはなくて、大学案内とか就職案内とか、そんな本がつまった棚に囲まれて小さなテーブルとソファが向かい合わせに置いてある、そんな部屋。 
「先生……何ですか? 話って」 
 ギア先生は、ここに来るまで一言もしゃべらなかった。 
 どん、とソファに腰掛けて、じっとうつむいている。 
 その表情は見えないけれど……何だか、悩んでいるように見えた。 
「先生……?」 
「……ああ、すまない。少しぼーっとしていた。パステル、そこに座りなさい」 
 先生に促されて、向かいのソファに腰掛ける。 
 ……居心地悪いなあ。早く帰りたい。 
 わたしがうつむいて黙っていると、目の前に、一枚の紙が差し出された。 
「えと……?」 
「これについて、ちょっと聞きたいんだけどね」 
 とん、と指差されて、改めて紙を見る。 
 それは、連絡網だった。クラスが新しくなるたび、住所と電話番号の変更確認も兼ねて、みんなに配られる全クラスメートの名前と住所、電話番号が書かれた紙。 
 出席順番に、左側に男子、右側に女子の名前が羅列してあるんだけど。 
 先生が指さした場所を見て、思わずドキリとする。 
 わたしとトラップは、出席番号が同じ。つまり、この紙でも、名前が並んでいる。 
 そして、そこに。 
 全く同じ住所と電話番号が、並んでいた。 
 わたしはトラップの家に引っ越したとき、もちろんそのことを学校に連絡してあった。元の家には、もう他の人が住んじゃってるからね。大事な連絡があったとき困るもん。 
 だけど、連絡したとき、わたしは自分がトラップと同じクラスになるとは思ってなかった。そもそも同じ学校だってことすら知らなかったから。こんなことになるなんて思ってなかった。 
 多分、この紙は来週にでも配られる予定だったんだろうけど…… 
 ど、どうしよう――!? 
 わたしが青くなっていると、先生の手が、肩に触れた。 
 ぽん、と軽く叩かれただけ。それなのに、全身が震えそうになるくらい怖い。そんな叩かれ方。 
「あの……」 
「何かの間違い、だよな」 
 ギア先生の声は静かだったけれど、でも、とても冷たかった。 
「多分、誤植か、あるいは事務が間違えたんだろう。……変更しなければならないから、正確な住所と電話番号を教えてほしいんだが」 
 どうしよう。 
 嘘をついたってどうせすぐばれる。そのうち家庭訪問だってあるだろうし、ただでさえ、毎日わたしとトラップが一緒に登校してきてるのは、クラスのみんなも知ってるのに。 
「違い……ます」 
 散々悩んだ後、結局嘘はつけないと確信する。 
 それなら、事情をちゃんと説明しなくちゃいけない。ギア先生は……担任の先生なんだから。 
「あの、わたし……今、とらっ……ブーツ君の家に住んでるんです。お父さん同士が友達で、一人になったわたしが寂しいだろうからって、引き取ってくれたんです」 
 わたしがそう言った瞬間。 
 ギア先生の目が、すっと細められた。 
  
「先生……?」 
「君は、ステア・ブーツのことが好きなのか?」 
 沈黙に耐えられなくて声をあげたとき。 
 ギア先生の口から出てきたのは、質問というよりは確認に近い言葉。 
 その言葉に、頭に血がのぼってしまう。 
 す、好きって……多分、先生が聞いてるのは、あの意味の「好き」だよね? 
 ままままままさかっ……そんなこと、あるわけないじゃない。 
 わたしが好きなのは、どっちかと言えば優しくて頼りになる王子様みたいな人で…… 
 そりゃ、トラップだってたまには優しいけど。頼りにだってなるけど。 
 で、でも、違うもん。一緒に暮らしてるのはただの偶然と成り行きだし。あんな意地悪な奴、好きなわけ…… 
「ち、違い……ます」 
 だけど。 
 その返事をするまでに、大分長い時間がかかってしまった。 
 どうしてだろう。どうして、きっぱり言えないんだろう? 
 それに、どうして……こんなに口調が弱々しくなっちゃうんだろう? 
「違います。そんなつもりはありません」 
 顔をあげて、今度こそ、はっきりと告げる。 
 その瞬間…… 
 意外なほどに間近に迫っていた、ギア先生の顔。あっ、と思ったときには、もう、唇を塞がれていた。 
「んっ……」 
 触れるだけの軽いキスじゃない、わたしの全てをからみとってしまうような、熱い、深いキス。 
 あの寒い用具室でされたキスよりも、もっと長い時間。振りほどこうとしたときには、腕を捕まれて、もう身動きできなくなっていた。 
「せ、先生……」 
 ど、どうしよう。顔が……熱い。 
 頭がぼーっとしている。視界がぼやけているのは……もしかして、涙がにじんでいるせい? 
「自分が、ここまで嫉妬深いとは思わなかった」 
 テーブルを挟んでいたはずなのに。 
 気がついたときには、わたしは先生に抱きしめられていた。 
「毎朝君がステア・ブーツと一緒に登校してくるのを見て、反射的に彼を殴りたくなるのを抑えるのに苦労したよ」 
「先生……」 
 耳元で囁かれる甘い言葉。 
 その言葉に、ますます頭がくらくらしてくる。 
 先生の手が、ゆっくりと……セーラー服の上着をまくりあげた。 
「やっ……」 
「ステア・ブーツのことを好きじゃない。そう聞いて、安心した」 
 どさっ! 
 膝が震えて、姿勢を保つのが難しくなった。 
 気がついたときには、もう、わたしの身体は、ソファーの上に横たえられていた。 
 そんなに大きくないソファ。肩を抑えられて、身動きが取れない。 
 ギア先生の手が、上着を強引にまくりあげる。スカートがひるがえって、足が、太ももまであらわになった。 
「やだっ……」 
「どうして、ついてきたんだ?」 
「……え……」 
 耳元で囁かれた言葉に、背中が強張る。 
「この間のことを忘れたわけじゃないだろうに、どうして一人でついてきたんだ?」 
「……それは……」 
「こうなることがわかっていたんじゃないのか?」 
 びくりっ 
 首筋に熱い感触。先生の冷たい唇が、わたしの肌に強く吸い付く。 
「俺に抱かれたい……心の中では、そう思ってるんじゃないのか?」 
「ち、ちがっ……」 
 違う、そうじゃない。 
 それは違う。わたしは別にギア先生が好きなわけじゃない。 
 ただ、わたしは甘く見ていただけ。まだ昼間だから。人がいっぱいいるから。先生はどうせ本気じゃないに決まってる。そんな風に甘く考えて…… 
「大丈夫、怖がることはないから」 
 ギア先生の手が、するりと下着と素肌の間に滑り込んだ。 
 くいっ、と胸をつままれて、びくり、と背筋をのけぞらせる。 
「俺にまかせておけばいい……ステア・ブーツの家になんかいることはない。俺の家に来るんだ、パステル。きっと、君を幸せにするから」 
「やあっ……」 
 どうしよう、どうしよう。 
 ぐるぐると色んなことが頭をかけめぐる。だけど、それは、まとめてしまえば一つの考えになる。 
 嫌だ、やめて、逃げたい。 
 わたしはトラップの家にいたい。ずっとあの家で暮らしたい。 
 だから…… 
 ぐっ 
 脚を無理やり開かされて、下着をはぎとられる。 
 わたし自身だって滅多に触らないような場所に、何かがもぐりこんでくる気配。 
 っ……だ、誰かっ…… 
「い……やあっ!!」 
 ばっ、と腕を振り上げると、ガラスの板を乗せただけの簡単なテーブルが、派手な音を立ててひっくり返った。 
 がしゃんっ! という音に、ギア先生の手が一瞬止まる。 
 そのときだった。 
 どんどん 
 部屋に響いたのは、扉をノックする音。 
 舌打ち一つ残して、ギア先生は立ち上がった。 
 ずるっ、と力が抜けて、ソファから滑り落ちる。 
 た、助かった……の? 
「誰だ?」 
「失礼します。三年B組のクレイ・S・アンダーソンです。進路についてちょっと……」 
 響いたのは、知らない声だった。 
 よく通る涼しそうな声。知らない声だけど、でも、その名前には聞き覚えがあった。 
 クレイ・S・アンダーソン。成績優秀で剣道部主将、王子様のような正統派美形で、校内の女の子で彼を知らない人はいない、とすら言われている。 
 とても優しくて、お家は結構なお金持ちなのにそれを全然鼻にかけるようなこともなく、男子からも女子からも大層人気があるそんな人。もうすぐ行われる生徒会選挙では、彼が生徒会長になるのは間違いないと言われていた。 
 そして、わたしの親友、マリーナの恋人でもある人。 
 とにかく、今がチャンス、だよね。 
 わたしは、慌てて服装の乱れを直した。大丈夫、おかしなところは無い……よね? 
 いつかみたいな失敗はしてないよね? 
 何回か大きく息をついて、呼吸を整える。よし。 
 ギア先生は、まだクレイ先輩と話しているみたいだったけど、顔をあげるのが怖くて、目を伏せろくに確認もせずその脇をすり抜けて、廊下に出る。 
「先生、わたしはこれで失礼します」 
「あ、ああ……」 
 ぺこり、と頭を下げると、さすがに先生も引き止めることはできないようだった。 
 平静を装って廊下に出る。そのまま、教室に戻ろうとして…… 
「おい」 
「きゃあっ!?」 
 角を曲がろうとしたところで突然肩をつかまれて、思わず悲鳴をあげる。 
 そのまま、その人影は、わたしを近くの教室にひっぱりこんだ。 
 あまり使われていない社会科教材室。ほこりっぽいその部屋にひきずられて、ドアが閉じられる。 
「と、トラップ……?」 
「おめえは……んっとに、あにやってんだよ!!」 
 わたしをひきずりこんだ人影、トラップは、頭の上から怒鳴るようにして叫んだ。 
 その顔はかなり怖い。本気で怒ってる。 
「ご、ごめんな……」 
「ったく。おめえ、前あんなことがあったってのに、あんでのこのこついていくんだよ」 
「…………」 
 それは、ギア先生にも言われたこと。 
 その答えは、わたしが油断していた、ただそれだけのこと。 
 ギア先生が好きなわけじゃない。ましてや、抱かれたいと思ったなんて……そんなこと…… 
 返事をしないわたしに苛立ったのか、トラップは、顔をゆがめてドン、と壁を叩いた。 
 振動で棚のガラスが震える。それくらい強く。 
「……ごめ……」 
「おめえ、やっぱあいつのことが好きなんか?」 
 かけられた口調は、とても冷たかった。 
「好きだから、のこのこついてったわけ? だったら余計なことして悪かったな」 
「ち、違うよっ!」 
 それは違うから。誤解されたくない、トラップには誤解されたくない! 
「違うの。だって……まだ昼間だし、学校にはいっぱい生徒も先生も残ってるし。まさかって……」 
 あの冬の日とは違う。放課後とは言っても、今日はまだ短縮授業だから昼前で終わっているし、新入生が入ってきて部活動も始まってるから、そこら中に人がいる。 
 だから大丈夫だと思ったのに…… 
 わたしがそんなようなことを一生懸命話すと、トラップは…… 
 はーっ、と大きなため息をついた。 
「ったく。おめえは……無防備っつーか……甘いっつーか……」 
「だって……だって、先生だよ!? いくら何でも……」 
「甘い! 甘い甘い甘い甘い甘い!! おめえは男ってーのを甘く見すぎてんぞ!! 男ってのはなあ、惚れた女が目の前にいたら、周りが見えなくなるんだよ! 二人っきりになった時点で怪しいと思え!」 
「な……」 
 びしっ、とわたしに指をつきつけるトラップに、思わず反感を抱いてしまう。 
 な、何よ何よ。そこまで言わなくたっていいじゃない。 
 先生を信頼して、何が悪いのよっ! 
「な、何よ! そこまで言わなくたって……いいじゃない。だって……」 
 だって、それを言うなら。 
「それを言うなら、わたしとトラップだって家でいつも二人っきりになってるじゃない!」 
 そう言った瞬間。 
 トラップの手が、ぴたり、と止まった。 
 その顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。 
 ……え? 
「と、トラップ?」 
「……あ、あに言ってやがる。俺はギアみてーな物好きと違って、おめえみてえな出るとこ引っ込んで引っ込むところが出てるような幼児体型には興味ねえんだよ!!」 
「な――なんですってえ!?」 
 そのあんまりと言えばあんまりな言い草に、わたしが思わずつかみかかろうとしたときだった。 
 突然、ガラリと扉が開く。 
 予想もしていなかったので反射的に振り返ると、そこには……黒髪黒目、割と長身なトラップよりもさらに10センチ近くは背の高い、すごい美形が入ってきた。 
 学生服がちょっと不似合いだなあって思うくらい、大人びた容貌に、思わずぼーっと見とれてしまう。 
「クレイ」 
 先に声をあげたのは、トラップだった。その言葉に、思わず目を見開く。 
 この人が、クレイ・S・アンダーソン。 
 噂だけは何度も聞いていたけど、実は顔を見るのは初めてだった。 
 マリーナの恋人。だけど、写真の類は見せてもらったことがない。 
 いわく、「あんまりにもかっこいいから、他人には見せたくないのよ」ってことだったけど。 
 その気持ち、わかる。確かに、こんなかっこいい人だったら……女の子なら、誰でも好きになっちゃうかも…… 
「おまえらなあ、外まで響いてたぞ? トラップ、おまえが言いすぎだ。ちゃんと彼女に謝れよ」 
「あ、あのなあっ……や、それより、どーだった?」 
「うん、適当にごまかしてきたよ。……だけど……」 
 わたしのことそっちのけで、二人は会話を始める。 
 え、待って。ちょっと待って。 
 こ、この二人って……知り合いなの!? 
「トラップ……アンダーソン先輩と知り合いだったの?」 
 わたしがそう言うと、トラップが口を開くより早く、クレイが言った。 
「はじめまして。俺はクレイ・S・アンダーソン。クレイでいいよ。君は……パステル・G・キング?」 
「は、はいっ!」 
 じーっと見つめられて、思わず舞い上がってしまう。 
 って、駄目駄目。クレイはマリーナの恋人だもん。変なこと考えちゃ駄目だってば。 
「俺とクレイはな、昔家が近所で、幼馴染だったんだよ」 
 ぼそっとつぶやいたのはトラップ。心なしか、その声は不機嫌。 
 どうしたんだろう? 
「大変だったんだよ。さっき……」 
 クレイの話によると、放課後、トラップの姿が見えなかったのは、クレイに何やら話をしにいってたらしいんだけど。 
 話の内容は、関係の無いことだから、としゃべってくれなかった。まあそれはいいとして。 
 で、話も終わって、トラップが教室に戻ったところ、わたしの姿が見えない。 
 マリーナに、ギア先生に連れていかれたと聞いて、血相変えて走っていったところ、言い忘れたことがあって教室に伝言に来たクレイとぶつかった、と。 
 で、後は見ての通り。進路指導室まで行ったら、中から大きな音がしたので、三年生で教室を訪ねても不自然じゃないクレイが、わたしを助けるためにノックをした、ということらしい。 
 そっか。助けてくれたんだ…… 
「ま、大きなお世話か、とも思ったんだけどな」 
 背後から響く意地悪そうな声は、もちろんトラップ。 
 もー、何よ、さっきから。何を怒ってるの? 
「そんなこと無いよ。ありがとう」 
 わたしが頭を下げると、けっ、とそっぽを向かれてしまった。 
 ……もう。 
 何だか悲しくなってわたしがうつむいていると、そっとクレイが耳元で囁いた。 
「照れてるだけだよ。俺も『まさか先生が?』って最初は信じられなかったんだけど、あいつがどうしても、ってね。よっぽど君のことが心配だったんだよ」 
 その声が聞こえたのか、トラップがぎろっとこっちをにらんできたけど…… 
 へー、そうなんだ。へー……心配、してくれたんだ。そんなに。 
 へへ。ちょっと嬉しいぞ。 
 わたしは思わずにこにこしてしまったけれど。 
 だけど、そのささやかな幸せも、次のクレイの言葉で木っ端微塵に壊れてしまった。 
「だけど……おまえらの声、大きかったから。あれは、多分聞こえてるぞ」 
「え?」 
 トラップとわたしが怪訝そうな声を出すと、クレイは声の調子を落として言った。 
「俺と一緒にリンゼイ先生も外に出たんだ。そのとき、パステルの『それを言うなら、わたしとトラップだって家でいつも二人っきりになってるじゃない』って声が聞こえてさあ。先生、ちょっと顔がひきつってたぜ? 俺、見てて怖かったもん。まあ、そのまま階段降りて行ったから、それ以上は知らないけどな」 
 ………… 
 思わず、トラップと顔を見合わせる。 
 背中がぞーっとするのを感じた。ど、どうしよう……? 
「まあ、例の件もあるし。困ったことがあったらいつでも相談に乗るよ。じゃ、俺は部活があるから」 
 それだけ言うと、クレイは教室を出て行った。 
 後には、わたしとトラップだけが残される。 
 どうしよう。ばれた……よね。よく考えたら担任の先生だもん。どうせいずれはばれたと思う。 
 トラップのご両親が、ほとんど外国で生活してて家には滅多にいないってこと。 
 どうしよう……? 
 そのとき。 
 ばさり、と何かが肩に被せられた。 
 見上げると、Yシャツ一枚になったトラップの姿。 
 肩にかけられたのは、彼の上着。 
「あの……?」 
「……着てろ」 
「え、何で……」 
 不審に思ってつぶやくわたしの前で、トラップは、とん、と自分の首筋を指差した。 
 え? 
 ポケットからいつも持ち歩いている小さな鏡を取り出した。 
 そこに、首筋をうつしてみる。 
 そこには、赤くて丸い痕が、くっきりと残っていた。 
  
 並んで帰る間中、トラップはずっと不機嫌だった。 
 わたしは、彼の詰襟をきっちりと着こんで首筋を隠してたんだけど。 
 トラップの学生服は、わたしには大き過ぎるから、だぶだぶでちょっとみっともない。 
 早く家に帰りたくて早足で歩いているのに、何故か、トラップはいつも以上にゆっくり歩いている。 
 ……どうしたんだろう? 
 そっとその表情をうかがう。やっぱり、不機嫌そう。 
 ……こんなことなら、マリーナ達とお茶してから帰ればよかったかなあ。 
 教室に戻ったとき、マリーナとリタは、まだ残って待っててくれた。「放課後、どこかに行かない?」と誘われもした。 
 だけど、例によってトラップが、強引にわたしを連れていっちゃったんだよね……二人のぽかんとした顔が目に浮かぶ。 
 ううっ……ごめんね。 
 はあ、とわたしが大きくため息をついたときだった。 
 突然、トラップが振り返った。 
 え? 何? 
 電車を降りて、家まで後五分と言うところ。住宅街に入ってて、人通りはかなり少ない。 
「トラップ?」 
「クレイは、やめといた方がいいぜ」 
 何の前置きもなく、トラップはずばっと言った。 
 ……はあ? 
「やめとく……って?」 
「だあら、クレイはやめとけって。あいつには、ちゃーんと彼女がいるからな。おめえと違って美人でグラマーの」 
 しばらくぽかんとしていたけれど、やがて言われた言葉の意味を悟って、ふつふつと怒りがこみあげてくる。 
 な、な、何を勘違いしてるのよ!! 
「知ってるわよっ! マリーナの恋人でしょう? クレイは」 
「あんだ、知っててボーっと見とれてたのかあ?」 
 トラップの言葉は、どこまで意地悪。 
 きーっ! 何でこんなこと言われなきゃならないのよ!! 
「親友の彼氏を奪おうなんて、そんなこと思うわけないでしょ! そりゃかっこいいなあとは思うけど……ただそれだけだってば!」 
 わたしが真っ赤になって力説すると、トラップは「ふーん」なんて言いながらそっぽを向いた。 
「ギアといいクレイといい、おめえ、かっこいい男なら誰でもいいのか?」 
「なっ……」 
「言っとくけどなー、おめえちっと鏡見た方がいいぜ? もうちっと無難っつーか似合いの相手を探した方が……」 
「大きなお世話、よ!」 
 ばこんっ!! 
 思わずカバンを振り回す。トラップは凄く身が軽いから、普段ならこんな攻撃あっさりかわされちゃうんだけど、今回のは予想外だったらしく、まともに後頭部にくらっていた。 
「いてー!! てめえなあ!?」 
「何よ何よ何よ!! 悪かったわね、マリーナみたいに美人じゃなくて、スタイルもよくなくて! そんなの、トラップに言われなくたってわたしが一番よくわかってるわよ!!」 
 それだけ叫んで走り出す。 
 もー、バカバカバカ! 人が気にしてることをー!! 
 だけど……何で、わたしこんなに悲しいんだろ。 
 トラップが意地悪言うのなんか、いつものことじゃない。いや、まともに会話するようになってまだ日は浅いけど、その短い間に、あんなことは何回も言われてきた。 
 いいかげん慣れなくちゃいけないって、わかってるのに。 
 背後からトラップが何か言ってるみたいだったけど、聞いてなかった。 
 そのまま、わたしは一目散に道を走っていった。 
  
 そして。 
「こ……ここ、どこお?」 
 わたしは、情けない顔で周囲を見渡していた。 
 えと、確か、家まで後五分くらい……の距離まで来てたんだよね? 
 なのに、何で……20分近くも走り続けて、家じゃなくて全然知らない場所に来てるの……? 
 ああ、もうわたしのバカバカ! 自分が方向音痴だってことは、嫌ってくらいわかってたはずなのにー!! 
 気がついたら、そこは大きな池が中央にある森林公園。こんな場所があるってこと自体知らなかったんだけど。 
 公園というには広すぎるその敷地内で、わたしは途方にくれていた。 
 えーと、多分、そんなに遠くまでは来てない……よね? 
 走ったって言ったって、わたしの足だもん。多分、家まで、歩いても30分か……一時間はかからない距離、のはず。 
 ……ただ、どっちに向かえばいいのかもわからないっていうのが、問題なだけで…… 
 はあっ、と大きく息をつく。時計に目をやると、もう結構時間が経っていた。 
 池が近くにあるせいか、冷たい風が吹いてきて、思わずぶるっと身震いする。 
 トラップの上着がなかったら、震えてたかも。 
 ちょっと上着の前を握り締める。そういえば、前もこうして、上着借りたんだよなあ。 
 あの後、返すまで、トラップはどうしてたんだろう? 予備の上着を持ってるのかな。 
 ぼんやりと池を眺めていると、何故だか、トラップのことばっかり頭に浮かんだ。 
 何でだろう……? 
 スカートのポケットに手を入れると、硬い手触りが返ってくる。携帯電話。 
 これを使えば、トラップに「助けて」って言える。そうすれば、彼のことだ。きっと見つけてくれるだろうけど…… 
 だけど……あんな別れ方して、今更「助けて」なんて言えるわけない! 
 ぎゅっと目を閉じる。何で、トラップはあんなに意地悪を言うんだろう。 
 わたし、何か彼の気に障るようなことをしたんだろうか? 
 それなら、謝らなくちゃいけないけど……その理由がわからない。 
 どうしよう…… 
 わたしが落ち込んでいる間にも、時間はどんどん過ぎていって、どんどん寒くなっていった。今は四月だけど、まだ寒さは抜けきってない。 
 空が夕焼けに染まる。……このまま、帰れなかったらどうしよう。 
 はあ、と大きく息をついたときだった。 
 ふわり、という柔らかい感触が、わたしの身体を包んだ。 
「……え?」 
「んなとこでボーッとしてると、風邪ひくぞ」 
 耳元で聞こえたのは、すごく優しい声。 
「トラップ……?」 
 えと、何? 何でしょう。 
 何で……わたしの身体に、彼の腕が、まわってるの? 
 わたしの顔に、?マークがいっぱいに浮かぶ。だけど、振りほどこうっていう気には、なれなかった。 
「あの……」 
「ったく。おめえって天才的な方向音痴だよな。一体どこまで行きゃあ気が済むんだよ?」 
「なっ……」 
 わ、わざとじゃないもん。それに……そう。 
 今回のことは、トラップだって、悪いんだから。 
 わたしが上目遣いでトラップを見上げると、彼は、何だか盛大なため息をついていた。 
 その格好は、別れたときと同じ。Yシャツに制服のズボン。 
 ……もしかして、あれからずっと、捜しててくれた? 
 そう確認したかったけれど、聞けなかった。照れ屋な彼のことだ。素直にうんと言うわけないけれど、答えはわかりきっていたから。 
「……ごめん」 
「あにが?」 
 そう思ったら、謝罪の言葉は割りとすんなりと出てきた。 
「ごめん。わたしが甘かったんだよね? 心配してくれたのに、色々ごめん」 
「……もーいいよ。わかったんなら、これから気いつけろよ」 
「うん」 
 ぎゅっ、と腕に力がこもる。……ああ、もしかしたら、トラップも寒いのかもしれない。 
 彼の上着、わたしが借りてるもんね。……けど…… 
 もう少しこのままでいたいから。だから、上着は、家に帰ったら返すね? 
 トラップが耳元で何か囁いたけど、それはよく聞き取れなかった。 
 陽が完全に沈むまで、わたしとトラップは、そうして池をぼんやりと眺めていた。 
  
 ――おめえは、俺が守ってやるから―― 
  
 不意にその言葉がよみがえったのは何でだろう? 
 あの後、トラップのバイクにまたがって、わたしは無事、家まで帰ることができた。 
 よく考えたらお昼ご飯も食べてなくて、お腹もぺこぺこだったんだよね。 
 だから、感謝の意味もこめて、夕食はせいいっぱい腕を振るった。 
 トラップは、別に特に褒めることもなく、いつものように「うん、うめえ」とだけ言ってもくもくと食べてたけど。 
 彼の顔がすんごく嬉しそうで、わたしもつられてにこにこしちゃったんだよね。 
 その後、トラップが先にお風呂に入って、わたしが自分の部屋に戻ったとき。 
 不意によみがえったのは、すごくすごく小さい頃に言われた言葉。 
 ……あの男の子…… 
 わたしより一つ年上だったから、今は高校三年生かな? 今、どうしてるのかな。 
 わたしのことを守ってやるって言って、そしてお嫁さんにしてくれるって、真っ赤になって言っていた男の子。 
 思わず笑いが漏れる。彼本人は、そんなこと覚えてもいないだろうけど。わたしは忘れていない。 
 確か、お父さんの友達の息子さんだったはず。ひょっとしたら、お葬式にも来てくれたかもしれない。 
 名前を覚えてないのが残念だけど。 
 そんなことを考えながら、昼間っから借りっぱなしだったトラップの上着を丁寧に畳む。 
 どうせ、明日と明後日は学校が休みだもんね。このままクリーニングに出しちゃおう。幸い、翌日仕上げを宣伝にしているクリーニング屋さんが、近くにあるし。 
 そう考えてポケットを探ると、中から生徒手帳が出てきた。 
 他にも、シャーペンだとかハンカチだとか色んなものが出てくる。 
 それらを全部机の上に並べて、何の気なしに手帳をめくってみた。 
 表紙の裏に、今よりちょっと髪の短いトラップの写真。学ランのボタンをきちんと止めている、ある意味貴重な写真。 
 そして、その下に…… 
「へえ。トラップ、五月生まれなんだ。三日……もうすぐじゃない」 
 書かれた生年月日を見て、思わずカレンダーに目をやる。後二週間ちょっとで、トラップの誕生日。 
 何か、お祝いを用意しておかなくちゃ。 
 ちなみに、わたし自身の誕生日は二月だから、先は長いというより最近終わったという感じ。わたしがやっと16歳になったばかりなのに、トラップはもう17歳になるんだなあ。 
 そう考えると、何だか不思議な気がした。 
「おい、パステル。風呂空いたけど」 
「あ、はーい」 
 どんどんとドアをノックされて、慌てて立ち上がる。 
 明日の土曜日は、色々と買い揃えたいものもあるし。 
 トラップ、買い物に付き合ってくれないかな? 
 そんなことを考えながら、わたしはドアを開けた。 
  
 上半身裸で首にタオルをひっかけただけというトラップの姿を見て、わたしが悲鳴をあげるのは、それから数秒後のことだった……

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