あの夜のことは、「無かったこと」にしよう。 
 どちらから言い出したわけじゃないんだけど。それは、暗黙の了解、というやつだった。 
 同じパーティーの仲間だもん。こんなことがみんなに知られたら、絶対ぎくしゃくするから。 
 第一……あれは、別にその……そういうつもり、でしたことじゃないから。 
 それは、ただの勢い。そして、トラップにとっては、きっとただの気まぐれ。 
 わたしにとっては…… 
 ……何だったんだろう? 
  
 その日、珍しいことに、わたしとトラップの二人だけで夕食をとることになった。 
 他のみんなは、エベリンにマリーナの手伝いに行っている。幸いなことにお店の経営が順調で、新しいアルバイトを雇うまで手伝ってくれないか、って頼まれたんだ。 
 でも、わたしは原稿を抱えてて行けなかった。トラップは、そのとき別のバイトを引き受けていたからやっぱり行けなかった。 
 本当はルーミィもこっちに残りたがったんだけど、「原稿の邪魔だろう?」なーんて言って、クレイが一緒に連れていってくれたんだ。 
 おかげで、ここ数日、わたしは静かに原稿に集中することができて、無事、締め切り前に提出することができた。 
 うん、クレイに感謝しなくっちゃ。 
 原稿を出して帰ってくると、ちょうどみすず旅館の前でバイト帰りのトラップとばったり出くわしたから、「じゃあ、飯でも食いに行くか?」と言われて、わたしとトラップは、猪鹿亭へと向かったのだった。 
 席につくと、リタがにこにこしながら注文を取りに来てくれた。 
「いらっしゃーい。あら、パステルとトラップだけ?」 
「うん、みんなは今エベリンに行っちゃってるんだ」 
「へー、そう言えばここ数日みんなを見ないなあって思ってたのよ。で、いつ帰ってくるの?」 
「明後日くらいになるって」 
「そう、それじゃあ、それまでパステルとトラップ、二人っきりなのね」 
 リタは、何だか意味ありげに笑うと、わたし達の注文を厨房に伝えるべく離れていった。 
 二人っきり、ねえ…… 
 まあ確かにここ数日そうだったけど。わたしとトラップは当たり前だけど部屋は別々だし、わたしは原稿に追われててほとんど外に出なかったしトラップはバイトとギャンブルで寝るときくらいしかみすず旅館にいなかったもの。 
 実はここ数日、ほとんど話もしてなかったんだけどね。 
 でも、改めて言われると……そうなんだよね。 
 ちらっとトラップの方を見ると、彼は彼で、何だかぼんやりとリタの後姿を目で追っていた。 
 何考えてるんだろう? 
「トラップ?」 
「…………」 
「トラップってば」 
「……あ? あ、おう。何だ?」 
 わたしの声に、ハッと振り向くトラップは……やっぱり、様子が変。 
 どうしたんだろう。もしかして、ギャンブルに行きたいのにもうお金が無いから落ち込んでた、とか。 
 うーん、すっごくありえそう。 
「どうしたの? 何か変だけど」 
「いや。別に。なあ、ビール頼んでいいか?」 
「もーっ、またあ?」 
「いいじゃねえか。ここ来んのも久しぶりだしな」 
 トラップの言葉に、わたしは仕方なく頷いた。 
 まあね、確かに。わたしはここしばらく宿屋にこもりっきりで、食事も全部宿の食堂で済ませてたし。 
 トラップはトラップで、バイト先でご飯を出してもらってたみたいだしね。 
 注文をすると、リタは、あっという間にビールと、そしてわたしの前にしゅわしゅわと泡立つピンクのジュース……みたいなものを出してくれた。 
「えっ、わたし頼んでないけど」 
「サービスよサービス。うちの新製品なんだけどね、ちょっと飲んでみてくれる?」 
 リタの言葉に、ちょっと飲んでみる。しゅわっ、っていう喉越しと甘い味。だけど、甘いだけじゃなくて、ちょっとほろ苦い。 
「うん、美味しい。これ、何?」 
「何だと思う? 今日だけはお代わり自由だから、どんどん飲んでね」 
 それだけ言うと、リタは鼻歌を歌いながら厨房へ。 
 ふーん、新製品。かわった味…… 
「どんな味だ? ちっと飲ませろ」 
 わたしがちびちびと飲んでいると、横からトラップがコップを奪い取った。 
 ちょっとちょっとお、こぼれたらどうするのよ、乱暴なんだから! 
 わたしの抗議の視線なんかどこ吹く風で、トラップはぐいっ、とジュースを飲んで。 
 そして…… 
「おめえ、これ……」 
「何? あー、もうほとんど残ってないじゃない。リタ! おかわりくれる?」 
「はいはーい」 
「待てって! おめえ、これなあ……」 
「はい、どうぞ! あら、トラップももっと飲む? はい、ビール」 
 トラップが何か言いかけていたけど、それに全然構わず、リタはどんどんどん、と料理のお皿とコップをテーブルに置いていった。 
「ちょ、ちょっと待てって」 
「あによう。あーっ、おいしいっ!」 
 しつこく手を伸ばそうとするトラップを振り払って、ジュースを一気に飲み干してしまう。 
 うん、最初はちょっと苦い、って思ったけど。慣れたら本当に美味しい。 
 何だかすごく熱くなってきたけど。 
 お料理も美味しいし。やっぱり猪鹿亭はいいなあ。 
 わたしがごくごくとジュースを飲んでいると、トラップも、諦めたみたいにビールを一気に飲み干していた。 
「おい! おかわり!!」 
 厨房にコップをつきつける姿は……何だか、ちょっとやけっぱちになってるように見えたんだけど、気のせいかな? 
  
「ふわあ〜とらっぷぅ、おいしかったねえ〜〜」 
 猪鹿亭の帰り道。 
 わたしとトラップは、ふらふらとみすず旅館へと戻っていた。 
 え? 何でふらふらなのかって? 
 うーん。何だかよくわからないけど足元がふらつくのです。頭もぼーっとしてるんだけど、でも、とっても気持ちいい。 
 トラップもトラップで、顔がちょっと赤い。もー、あんなにビール飲むから。きっと酔っ払ってるんでしょー? 
「とらっぷぅ、ねぇ〜。よっぱらってるぅ?」 
「ああ? あーそうかもな。でもおめえほどじゃねえよ」 
 わたしが腕をつかんでにこにこしながら言うと、トラップはぶっきらぼうに言って腕を振り払った。 
 なによお。わたしはよっぱらってなんかいないもん。 
「酔ってなんかいないよお。ねえ、とらっぷぅ」 
 ちょっと夜風が冷たい。身体は熱いんだけど、でも、ちょっと寒いかな? 
 そう思って、わたしはトラップにぎゅっとしがみついた。 
 わーっ、トラップの身体、あったかーい。 
 あったかい身体にぎゅーっと抱きつくと、わたしは何だかすごくほっとしたんだけど。 
 トラップは、そんなわたしを、ぎょっとした視線で見つめていた。 
「お、おめえなあ! ぜってー酔っ払ってるだろ!? ったく。リタの奴、何考えてんだか」 
 トラップが何かぶつぶつ言ってるけど……よくわからないなあ。 
 リタが、どうしたんだろ? 
 それにしても、何だかすごく迷惑そう。トラップはわたしが嫌いなのかな? わたしは好きなのに。 
「ねー、とらっぷぅ」 
「……あんだよ」 
「好きだよ」 
 えへへ。言っちゃえ言っちゃえ。 
 わたしがそう言うと、トラップはまじまじとわたしを見つめて、そしてため息をついた。 
「おめえ、自分が何言ってっかわかってねえだろ?」 
「あによお。わかってるもん。わたしはあ、トラップも、クレイも、ルーミィも、キットンも、ノルも、シロちゃんも、だーいすきなんだからあ!」 
「やっぱわかってねえ」 
 はーっ、と大きなため息。 
 何よお。みんな大好きだから、一緒にパーティー組んでるんじゃない。 
 わたし、何か変なこと言ってる? 
 何でトラップは、こんなに不機嫌なんだろう? 
 うーん、としばらく考えてしまったけど、やがて、ポン、と手を打った。 
 何だ、そんなことかあ。 
「そっかそっかあ。とらっぷはあ、マリーナが好きなんだよねえ?」 
「……はあ??」 
「なのにい、マリーナに会えないから寂しかったんだねえ? 残念だったねえ。マリーナ、綺麗だもんねえ」 
 そんなわたしを、トラップはぼんやりした目で見ていた。 
 その目は、すごく暗くて、どんよりしている。 
 やっぱり、酔っ払ってるよねえ。トラップ、お酒に強そうに見えたけど、そうでもないんだあ。 
 もしかして、マリーナに会えなかったやけ酒? うーん、そんなに好きなのかあ。 
「いーいなあ。ねえ、とらっぷぅ、どーしたら、マリーナみたいに、美人になれるのかなあ?」 
「…………」 
「ねえ?」 
「……ま、おめえにゃ無理だろ」 
 わたしの問いに、トラップはため息をつきつき言った。 
「何しろ、おめえにゃマリーナと違って色気っつーもんが全く備わってねえからな」 
 そう言いながらトラップがポケットから取り出したのは、小さなビン。 
 中に茶色の液体が入ってたんだけど、それをぐっと飲み干して、また歩き出す。 
 その足はとっても速いけど、やっぱりちょっとふらついていた。 
 それにしても……何なのよお、その言い方! 
「あによお! 色気が無い無いって、見たこともないくせにしっつれいなあ!!」 
「ああ? じゃー見せてくれんのか? おめえに色気ってもんがあるってとこを」 
「いいわよお!」 
 きーっ、バカにして! わたしにだって色気くらい、くらい、くらい…… 
 わたしの答えに、トラップはちょっとぽかんとしていたけれど。 
 やがて、にやりっ、と笑ってわたしの腕を引っぱった。 
「そーだな、たまにゃ、いいか」 
 そんなことを言いながら、ずんずんと歩いていく。もうみすず旅館は目と鼻の先だった。 
「たまにゃ?」 
「おう。何かすっげえ開放感、っつーのか? 酔っ払うって、きっとこんな感じ、なんだろーな」 
 ちらっとわたしを見るその顔は。 
 さっきまでの暗い影は消えて、やけに明るく、ついでに真っ赤だった。 
 ……酔っ払ってる、よねえ。 
  
 そして、場所は変わってここはみすず旅館のトラップの部屋。 
 何故か、そのベッドの上で、わたしとトラップは見つめあっていた。 
 うーん? 何でこんな展開になってるんだろう?? 
「さあ、見せてもらおうじゃねえの?」 
 トラップは、やけに嬉しそうにわたしを見ている。 
 えーと。見せて……色気? だよね。 
 どうやればいいんだろう? 
「えっとお?」 
「い・ろ・け。おめえの考える色気って、どんなんだ?」 
「うーん」 
 そう改めて言われると……困る、なあ。 
 何なんだろうねえ? とりあえず…… 
「じゃあー、こんなん、でどう?」 
 言いながら、わたしはぶちぶちぶちっ、とブラウスのボタンを外した。 
 何だか、熱い、んだよねえ。何でだろう? 
 ばさあっ、とブラウスを脱ぎ捨てると、トラップは…… 
 どん、と壁に背を預けて、わたしをじーっと見ていた。 
 むーっ、何よお。何が不満なわけえ? 
「ほらあ、どう?」 
「……貧相な身体、っつー感想なんだが、言っていいか?」 
 きーっ! もう言ってるじゃないのよお!! 
「わ、悪かったわねえ! でもお、別に色気って胸の大きさだけで決まるもんじゃないんだからあ!」 
「ま、そりゃ確かにな」 
 にやにや笑いながら、トラップは言った。 
「で。そんだけ?」 
「ええ?」 
「他に何かできねえの?」 
「んーっと……」 
 えと、そういえばこれだけで終わりじゃあ、いくら何でもねえ。 
 えとえと。 
 とりあえず、ぽいっ、とスカートを床に落とした。下着だけになると、さすがにちょっと寒い。 
「ん〜さむぅい。ねーとらっぷぅ、あっためてくれるぅ?」 
「あん?」 
 トラップの返事を待たずに、ぎゅーっ、と彼にしがみつく。 
 ふふふ、やっぱりトラップの身体ってあったかーい!! 
 トラップは、しばらく動かなかったんだけど……やがて、耳元で囁いてきた。 
「どうなるかわかんねえぞ」 
 え? 
「俺も、酔っ払ってるみてえ。理性が完全になくなっててな。今、おめえを見てすっげえ欲情してんだけど、いいのか?」 
 よくじょう?? 
 何、それえ。どういうこと? 
 よくわかんないけど。でも、トラップがわたしにひどいことするわけないもんね。 
「うん、いいよお」 
 へらっ、と笑って言うと、トラップは…… 
 皮肉っぽい笑顔をはりつかせたまま、くるっとわたしを抱きかかえて……ぼすん、とベッドに押し倒した。 
「……えっとお?」 
「まあ、おめえにゃまだわかんねえだろうから、俺が教えてやるよ」 
「うん?」 
「色気、っつーのが何なのか、な。知りてえだろ?」 
 教えてくれる? ふーん、優しいじゃん。 
 そうなんだよねえ。改めて言われると、どうすればいいのか、わかんないんだよね。 
 知りたい知りたい。 
「うん、教えて」 
「……まずな、キス、してみな」 
「うん?」 
「俺に、キスしてみろよ」 
 キスぅ? 何でだろ? 
 まあ、いっかあ。うん、言われた通りにすればいいんだよね? 
 目の前にあるトラップの顔。わたしは、ぐいっ、と顔をあげると、トラップの唇にえいっ、とキスしてみた。 
 何だか、柔らかくて……ちょっと、甘い。 
「えと……」 
「違うな」 
 唇を離すと、トラップは笑いながら……今度は、自らわたしの方に顔を近づけた。 
「キス、っつーのはな、こうするもんなんだよ」 
 柔らかい唇の感触。舌先が、ゆっくりとわたしの唇をこじあけて……歯や上顎をくすぐるようにしながら、わたしの口の中へと入ってくる。 
 舌と舌が、からまった。 
 ……苦い味ぃ。これって、ビールの味? 
「……わかったか? やってみな」 
 つぶやくトラップに、わたしは言われた通り、トラップの真似をしてみた。 
 んー? 意外と難しいかも。えと、えと…… 
 飴をなめるみたいな要領で、トラップの舌をからめとって吸い上げてみる。 
 うん、やっぱり……苦い。 
「どお?」 
「……ま、いいんじゃねえ?」 
 トラップの手が、わたしの肩のあたりに触れて……そのまま、背中にまわる。 
 ぱちん、と音がして、外されたブラが下に落ちた。 
「さて、次は、っと」 
 すんごく嬉しそうなトラップの顔。彼の指先が、つつつっ、と背中から肩をまわって……胸へと、触れた。 
「にゃんっ!?」 
「どーだ。感じるか?」 
「かん……じるぅ?」 
 正直、くすぐったい、って感じしかしなかったんだけど。うーん? でも、足をくすぐられたときとかのくすぐったい、とはちょっと違うなあ。 
 これが、「感じる」ってこと、なのかなあ? うん、多分そうかな。 
「感じるぅ」 
「どうして欲しい?」 
「んー」 
 どうして欲しい、んだろ? 
 胸を触られたとき、ちょっとびくっ、としたけど。 
 でも、手が離れたとき、思ったんだよね。 
 もっと触ってほしい、って。 
「えへへ。もっとぉ」 
「…………」 
「もっと、触ってほしい」 
「ばあか、素直すぎるんだよ、おめえは。ちっとは恥じらいってもんをみせろ。それが色気っつーもんだ」 
 もー何よお。聞くから答えただけじゃないのよお。 
 じぃっ、とトラップの顔を見つめると、トラップは……やっぱり笑っていた。 
 その顔は真っ赤。うーん、きっと彼は酔っ払ってるよね。それも、かなり。 
「恥じらいってえ?」 
「『やだ、そんなこと言わせないで』とかだな、『恥ずかしい……』とかだな」 
「うーん……」 
 わたしが考えている間にも、トラップの手は、胸を優しくつかんできて……指先が、くりっと頂点をもてあそんでいた。 
 やあっ……何だろ? これ…… 
「やんっ……」 
「どうよ? 気持ちいい、か?」 
「うん……」 
 ああ、何だろ? 本当に……何だか、すっごく…… 
 わたしが頷いた途端。 
 トラップは、ぱっと手を離した。 
 ……えと? 
「トラップぅ?」 
「言ってみろよ」 
 トラップの顔は、すっごく意地悪そうな笑みを浮かべていた。 
「言ってみろよ。どうして欲しいんだ?」 
「……やだ、そんなこと……言わせないでよお……」 
 んと、これでいいのかな? 恥じらいだよね、恥じらい。 
 トラップは、満足げに頷くと、わたしの耳元で囁いた。 
「もっと乱れてみせろよ」 
「……?」 
「こうして欲しいんだろ?」 
 くりっ 
 トラップの手が、再びわたしの胸をもてあそぶ。 
 うーっ……何だか、からかわれてる? 意地悪されてる? 
「乱れる……?」 
「どうして欲しいか言えよ。俺を誘ってみろよ」 
 難しいなあ……トラップ、何、言ってるのよ…… 
「えと……ね? もっと、触って……」 
「……そうして欲しいなら、俺をその気にさせてみな?」 
「どうやって?」 
 その気にさせるって、どういうこと? 
 わたしが顔をあげると、再び、トラップの唇がわたしの唇を塞いだ。 
 そして…… 
 彼の手が、わたしの手首をつかんだ。そのまま、わたしの手を自分の体の上をなぞらせるように動かして…… 
 触れたのは、とてもかたい、そして熱い感触。 
「握ってみろ」 
「……やあっ……」 
「触って欲しいんだろ? 握ってみろ」 
「…………」 
 握る、って、何で? こんなことで、その気になるの? 
 ぎゅっと握ってみる。手の中で、「それ」はちょっとはねて……ちょっと大きくなった。 
「とらっぷぅ?」 
「……そう、それで、いい」 
 何だか苦しそうに笑うトラップ。そして。 
 わたしの手首をつかむ彼の手が、ぐいっと上に引き上げられた。 
「え……?」 
「そのまま、手を動かしてみな。握ったまんま」 
「うん……?」 
 言われたとおりにしてみる。わたしの手が動くたび、トラップの息が段々荒くなって…… 
 手首が解放された。そのまま、彼の手は、今度はわたしの背中にまわって…… 
 ぞくり、という感覚が、また戻ってきた。 
「ふわあっ……」 
「感じる、か?」 
「うん……」 
 熱い。何だか、すっごく、熱い。 
 いつのまにか、わたしは下着も完全に脱がされていたけど……いつ脱がされたのかも、全然気づかなかった。 
 耳元で熱い吐息が触れる。太ももを、何かが伝って落ちる。 
「おめえって、結構……」 
「うん……?」 
「いや……で、おめえはこの先、どうして欲しい?」 
 ……? 
 わたしが首を傾げていると、トラップは…… 
 指先を、するりとわたしの中にもぐりこませた。 
「ひゃあっ!!?」 
「……もっとしてほしいか?」 
「う、うん?」 
 初めての感覚。それは、ひどく気持ちよくて。 
 そう、トラップに言われた通り……そのとき思った。 
「うん、もっと……」 
「じゃあ、言ってみな?」 
「え……?」 
 言うって、何て言えばいいの? どう言えば…… 
「もっと……して?」 
「違うな」 
 ふるふると首を振って、トラップは囁いた。 
「俺のものが欲しいって、そう言ってみな?」 
 ………… 
 何だろ? 意味がよくわからないんだけど…… 
 それを口に出すのは……何故か、すごくためらわれた。 
「言えよ?」 
「やあっ……」 
「言わねえと、やってやらねえぞ?」 
「…………」 
「いいのか? このままやめちまって」 
 言う、しかないのかな。 
「欲しい……」 
「あん? 聞こえねえな」 
「欲しい。トラップのものが……欲しい」 
 せいいっぱい大きな声を出す。喉が強張って、それでも普段に比べたら全然小さな声しか出なかったけど…… 
 わたしの言葉に、トラップは酷く満足そうに頷いて、言った。 
「いい子だ。合格、ってことにしてやるよ。……ごほうびは、これな」 
 ずんっ 
 瞬間、貫いたのは……酷く大きな、快感と痛み。 
  
 それから後のことはよく覚えてないんだけど…… 
 気がついたら、わたしは寝てしまったみたいだった。 
 うーん? 頭、痛い…… 
 がんがんする頭を抱えて起き上がる。ベッドに手をつこうとして…… 
 暖かい何かに、触れた。 
「……え?」 
 えと? 何だろう。 
 振り向く。わたしはベッドに寝ていた。隣に寝てたのは…… 
「……と、トラップ……?」 
 隣でぐっすりと眠っているのは、トラップ。間違いないよね。さらさらの赤毛も、細い身体も、いつもと同じ。 
 しいて違うところと言えば……服を、着てないことくらい、で…… 
「…………」 
 まわりを見回してみる。わたしの部屋とよーく似てるけど……微妙に違う。 
 ここって、トラップの部屋、だよね。 
 わっ、わたし……昨日、何、したっけ? 
 思い出す。猪鹿亭に行って、トラップと一緒にご飯を食べて、一緒に帰って、そして…… 
  
 ――ああ? じゃー見せてくれんのか? おめえに色気ってもんがあるってとこを 
 ――いいわよお! 
  
 ――言ってみろよ。どうして欲しいんだ? 
 ――……やだ、そんなこと……言わせないでよお…… 
  
 ――あん? 聞こえねえな 
 ――欲しい。トラップのものが……欲しい 
  
 ……ぼんっ!! 
 昨日の記憶がぜーんぶ戻ってきて……わたしは、一気に頭に血がのぼってしまった。 
 わたしってば……な、何て、こと…… 
 慌ててベッドからおりる。完全な裸。下着もつけてない。 
 お腹よりもうちょっと下のあたりに感じる、鈍い痛み。太ももに残ってる、血の跡。 
 ………… 
 ど、どうしよう、どうしよう。 
 頭の中でぐるぐるぐるぐる色んな考えが走ってる。 
 どうしよう。な、何で? こんなことになっちゃうの? 
 えと。あれは……多分、わたし、酔っ払ってた……よね? 
 すごく身体が熱くなって、頭がぼーっとして。あの新製品のジュースって、お酒……? 
 トラップも、かなり酔っ払ってたよね。ビールごくごく飲んでたし。それに、帰りにも何か飲んでたみたいだし…… 
 酔っ払ってた、勢い? ……だよね。 
 深い意味なんか、無いよね? 
 でも……何でだろう? 
 何でわたしは……嫌、って思わなかったんだろう? 酔っ払ってたからって……まさか、誰でもいい、なんて思ったわけじゃないよね? 
 何で、トラップならいいって、思ったんだろう? 
 わ、わからないけど……い、今は、トラップと顔を合わせたくない!! 
 わたしは、慌ててベッドの下に落ちてた服を着ると、部屋をとびだした。 
 後ろで、何だか物音がしたみたいだけど。振り返ることができなかった。 
  
 クレイ達が帰ってくるまでの二日間、わたしはほとんど部屋にこもりっきりだった。 
 とてもじゃないけど、トラップと顔を合わせられなかった。 
 トラップの方も、別に部屋に訪ねてきたり、ということはなく。いつも通り、バイトに行ったりギャンブルに行ったりしているみたいだった。 
 窓からたまに見かけるトラップの後姿は、別にいつもと何のかわりもなく。 
 ……ねえ、トラップ。 
 どういうつもりで……? ただの気まぐれ? 酔った勢い、だよね? きっと。 
 深い意味なんか……無いよね。 
 忘れた方がいいよね? 何も無かったことにした方がいいよね? 
 あれは、いわゆる「一夜の過ち」だよね? 
 そう言ってしまいたいんだけど。 
 口に出すのが怖くて、結局何も言えないまま時間だけが過ぎて……クレイ達が帰ってくる日が来た。 
  
「ただいま、パステル。何もなかった?」 
 エベリンから久々に帰ってきたみんなは、当たり前だけど前と何も変わってない。 
 そんなことが気になるのは……わたしが変わったから、かな? 
「う、うん。別に、何も」 
「そうか。マリーナがパステルによろしくってさ。これ、お土産」 
「あ、ありがとう」 
 クレイから渡されたのは、多分エベリン名物のお菓子。 
 それを受け取って曖昧な微笑を浮かべていると、クレイはきょろきょろとまわりを見回して、 
「ところで、トラップは?」 
 どきんっ 
 心臓がはねる。 
 今日はバイトの無い日だから、トラップも部屋にいるはず。クレイ達が帰ってきたことがわからないはずはないのに、降りてこない。 
 何で…… 
「さ、さあ。部屋にいるんじゃない?」 
「そっか。あいつにも土産があるんだけど……」 
 クレイが階段を見上げたときだった。 
「あんだよ。うっせえな」 
 びくっ!! 
 思わず振り返ってしまう。聞こえたのは、何だか懐かしい感じさえする、いつもの声。 
 階段の上に姿を現したトラップが、赤毛をかき乱しながら降りてくるところだった。 
「お、クレイ。何か久しぶりだな。帰ってきたのか?」 
「今日帰るって言っただろ。お前こそ、こんな時間までまさか寝てたのか?」 
「ああ? 昼寝だよ昼寝。ここんとこバイトが忙しかったかんな」 
 そう言うトラップの口調は、本当に……いつもと変わらない。 
 トラップ。……気にして、ない? 
 わたしがじーっと彼を見つめると。トラップは。 
 振り返った。わたしの視線を受け止めて、そして。 
「あにじろじろ見てんだよ。俺があんまりいい男だからって、見惚れてんじゃねえぞ?」 
 全くいつもと同じ口調で言って、にやりと笑った。 
 いつものトラップ。それを見たとき、わたしは悟った。 
 あの夜のことは、口にしちゃいけない。 
 あれは、何でもないこと。ただ、お酒の上での勢い。 
 別に無理強いされたわけじゃない。怒るのは筋違いだし、かといって真剣に考えちゃいけない。 
 無かったことにしなきゃ。気にしてないふりをしなきゃ。 
 だから、わたしは彼の肩をばしっと叩いて言った。 
「もー。何言ってるのよ。それよりっ! クレイ達だって疲れてるんだから、荷物運ぶの手伝ってあげてよ」 
 気にしてない、気にしちゃいけない。 
 忘れちゃえ。それが一番楽だから。 
  
 そのまま、わたしとトラップは、あの夜のことを口にすることもなく。 
 だからといって、別にぎくしゃくするようなこともなく、いつも通りに会話をして、いつも通りにふざけあって、いつも通りに喧嘩して、そんな日々が続いた。 
 だけど、わたしの中で、あの夜のことは、いつまでもいつまでもこびりついて取れなかった。 
 忘れようとしても忘れられない。なのに忘れたふりをしなくちゃいけない。 
 今のままでいたいから。変にぎくしゃくするのは嫌だから。 
 最初は、それがすごく辛かったんだけど。そのうち、その辛さにも慣れてしまった。 
 何とかなる。わたしさえそれを我慢すれば、何とか、関係を壊すことなくやっていける。 
 そう思っていたのに。 
 全てが壊れてしまったのは、それから三ヶ月も経ったある日のことだった。 
  
 その日、わたし達はちょっとしたおつかいクエストに出かけていたんだけど。 
 まあそれは何ていうことの無いクエストで、出かけたその日のうちに無事クリアして、シルバーリーブに帰ることができたんだ。 
 その、帰り道。 
「……うっ……」 
 不意に気分が悪くなって、わたしは立ち止まった。 
「パステル? どうした?」 
 そんなわたしの様子に気づいて、クレイも立ち止まってくれる。他のみんなは、少し先を行っていて…… 
「パステル?」 
「ごめん、ちょっと……」 
 わたしはクレイに手を振ると、必死に道から外れて森の中へと入っていった。 
 みんなの目が届かない場所まで来て、やっとひといきついたかと思うと……そのときには、胃の中のものを全部吐き出していた。 
 き、気持ち悪い……なんだろ、風邪? 
 げほげほとせきこんでいると、遠くから心配そうにわたしを呼ぶクレイの声。 
 ……戻らなくちゃ。早く戻らなくちゃ。でも。 
 吐けるものは全部吐いちゃったのに、それでも吐き気はおさまらなかった。 
 何だろ……何か、変なものでも、食べたっけ? 
 ごほっ 
 口元からあふれたのは、苦くて酸っぱい……胃液。 
 ひきつれたように胃が痛い。頭も痛い。 
 立ち上がれなくてうめいていると……がさがさと木々をかきわける音がして、クレイが迎えに来てくれた。 
「パステル、どう……」 
 言いかけて、わたしの様子に立ち止まる。 
 何でもないよ、と言いたかったんだけど、とても声が出せなかった。 
 頭がぐらぐらする。わたしがふらふらと木にもたれかかったとき…… 
「お、おい! パステル!!」 
 わたしを抱きとめる力強い腕を感じた。それを最後に……わたしは、ふうっと意識を失った。 
  
 目が覚めたとき、わたしはみすず旅館の部屋のベッドに寝かされていた。 
 額には冷たいタオル。枕元には、心配そうなルーミィとキットン。 
「ぱーるぅ。大丈夫かあ?」 
「ルーミィ……」 
「ああ、目が覚めましたか? パステル、どうしたんですか。何か変なものでも食べたんですか?」 
 キットンの問いに、わたしはふるふると首を振る。 
 食べたもの……なんて、みんなと同じものしか食べてない、よね。 
「そうですか。まあ、ここのところちょっと疲れてたみたいですしね。ゆっくり休んでみた方が、いいかもしれませんね」 
「うん……ごめんね」 
「いえいえ。私より、クレイとトラップにお礼を言った方がいいですよ」 
 ……え? 
 クレイ、はわかる。わたしを心配して運んでくれたんだよね。 
 何で……トラップ? 
「ああ、えっとですね。実はあなたが倒れてからもう丸一日くらい経っているんですけどね。いやーよく寝てましたねえ」 
 そう言いながら、キットンはぎゃっはっはといつもの大笑いをしてから言った。 
「寝ないで看病してくれたのは、トラップなんですよ。夜通しつきっきりでタオルを取り替えたり何やかんや世話してくれてたみたいですから、ちゃんとお礼を言った方がいいですよ? 今はさすがに疲れたのか、私と交代して寝てますけどね」 
 ………… 
 看病……トラップが? 
 それは、すごく意外だった。何も無い普段のトラップだったら、病人の看病なんて一番しそうにもないタイプなのに。 
 何で…… 
「で、どうです、気分は?」 
 キットンの言葉に、慌てて考えていたことを振り払う。 
 へ、変なこと考えちゃ駄目。深い意味なんか無いに決まってる。 
 あのトラップだもん。どうせ……何かの気まぐれ、だよね。 
「うん、まだ、気持ち悪い……」 
「食事、とれそうですか? 何か食べないと身体に悪いと思うんですけど」 
「うん……」 
 これは本当だった。吐き気は、ちょっとは楽になったけれど。それでも、何かを食べようっていう気にはなれなくて。 
 わたしが首を振ると、部屋にノックの音が響いた。 
 入ってきたのは、クレイ。 
「パステル、大丈夫か? 宿のおかみさんが食事用意してくれたけれど……」 
 その手に載せられていたトレイには、湯気の立つおかゆが入ったお皿とコップ。 
 とってもおいしそうだった。だけど…… 
「うっ」 
「ぱ、パステル?」 
 うろたえるキットン達をつきとばすようにしてベッドからとびおきると、部屋から飛び出した。 
 トイレにかけこみ、必死に吐こうとするけど……何も食べてないからか、何も出ない。 
 すごく気持ち悪い。おかゆのにおい。普段なら全然気にならない程度のすごく微かなにおいなのに、何だかそれがすごく鼻について…… 
「……おい」 
 後ろから声をかけられて、びくり、と振り向く。 
 立っていたのは、ドアにもたれかかるようにしてこっちを見ている……トラップ。 
「トラップ……ね、寝てたんじゃ」 
「……おめえが騒がしいから、目え覚めた」 
「そ、そう。ごめんね……」 
 何だろ。何だか……ドキドキする。 
 わたしは、トラップの脇をすりぬけて部屋に戻ろうとしたんだけど。 
 ぐいっと腕をつかまれた。振り仰ぐと、滅多に見ない、真面目な顔をしたトラップ。 
「トラップ……何?」 
「……気分わりいのか?」 
「う、うん」 
 何だろう? 何か……言いたいことでも、あるのかな? 
 あ。 
「あの……看病、してくれたんだって? ありがとう。ごめんね、迷惑かけて」 
「いや……おめえ、もしかして、さ」 
 トラップが何か言いかけたときだった。 
「パステル、大丈夫ですか?」 
 声と共にどたどたと足音がして、キットンとクレイが階段を降りてきた。 
 二人は、わたし達の様子にちょっと面食らったみたいだけど。 
「……おめえらが騒ぐから目え覚めたんだよ。俺、もっかい寝るから、ちっと静かにしててくんねえ?」 
 そう言いながら階段を上っていくトラップに、何も声をかけようとはしなかった。 
 トラップ…… 
 何を、言おうとしたの? 
  
 吐き気はなかなか収まらなかった。 
 わたしがしょっちゅう夜中に目を覚ますものだから、ルーミィとシロちゃんはクレイ達の部屋で寝ることになった。 
 一人でベッドを使った方が、少しでものんびりできるだろうから、っていうみんなの配慮でね。 
 そうして、わたしは三日くらいベッドで寝ていたんだけど。 
 食事もあんまりとれないのに、吐き気だけが続くものだから、もう体調はボロボロ。起き上がることも辛くなっていた、そんなときだった。 
 夜中に、ノックの音が響いたのは。 
 コンコン、と言う遠慮がちなノックの音。 
「……誰?」 
 がさがさにかすれた声でつぶやくと、ドアの外から聞こえてきたのは…… 
「俺、だけど……」 
 どくん 
 聞き間違えるわけがない。この声は…… 
 トラップ? 
「トラップ……何?」 
「入っていいか?」 
「う、うん」 
 わたしの看病は、みんなが交代でやってくれている。 
 もちろん、その中にはトラップも含まれていたんだけど。 
 そのとき、彼は別に何を言うでもなく、食事を運んでくれたり、わたしの背中をさすってくれたりと、当たり前のことをしてくれているだけで。 
 改めて……何なんだろう? 
 部屋に入ってきた彼は、何だかすごく強張った顔で、わたしを見つめていた。 
「……何?」 
「まだ、治らねえのか?」 
「う、うん……」 
 トラップの言葉に頷く。 
 当たり前だよ。治ってたら……こんなに酷い声してないもん。 
 わたしが目で訴えると、トラップは……視線をそらして、わたしのベッドに腰掛けた。 
 ベッドが軽く沈む。トラップの身体を間近に感じて……わたしは、何だかすごくドキドキしてしまった。 
 な、何なんだろ? 
「トラップ、あの……」 
「おめえ、もしかして、な」 
 わたしの言葉を遮って、トラップは言った。とても、強い口調で。 
「妊娠、してねえか?」 
 ―――― 
 それは……わたしが、頭の片隅で考えていたこと。 
 考えるたびに、怖くて、慌てて否定してきたこと。 
 三ヶ月目、止まらない吐き気、異様に匂いに敏感になった身体…… 
 それは、まだわたしがガイナで学校に通っていた頃。先生や友達ときゃあきゃあ言いながらしゃべっていたときに教えてもらった症状に、とてもぴったりと一致していたから。 
 つわり…… 
「……どうなんだよ」 
「わ、わからないよ。何、言ってるの? トラップ。まさか……」 
 まさか。トラップ、覚えてるわけ……ないよね? 
 トラップは忘れてたんじゃないの? あれは、酔った勢いでやっちゃったことで…… 
「何、言ってるの? おめえこそ、何言ってんだ」 
 トラップは、吐き捨てるようにして言った。 
「三ヶ月前……何があったのか、おめえ、覚えてねえのか?」 
 ………… 
 覚えて、る。 
 トラップは覚えてる。ずっと……覚えてた? 
 ねえ、それなら、どうして。 
 わたしに……何も言ってくれなかったの? 
 迷惑だから? ただの気まぐれなのに、うるさく騒がれたら迷惑だから? 後悔、してたから? 
「……覚えてる。忘れるわけ、ないよ」 
「…………」 
「トラップは、忘れてたんじゃないの? 酔った勢いで……記憶にも残ってなかったんじゃ、ないの?」 
「……んなわけ、ねえだろうが」 
 ぐっ、と肩に重たい感触。 
 トラップは、わたしの肩に顔を埋めるようにして、つぶやいた。 
「んなわけ、ねえだろ。誰が……忘れるもんか。それとも、おめえは忘れたかったのかよ。後悔してたのか? それとも、相手が俺じゃなくてもよかった、そんな程度のことだったのかよ!」 
「そんなこと!!」 
 そんなこと……あるわけ、ない。 
 そうだよ、そんなわけない。誰でもよかったなんて、そんなことあるわけない。 
 例えば……あのとき、一緒に残ったのがクレイだったとしたら。キットンだったとしたら。あるいは、誰か他の男の人だったとしたら。 
 例え、同じことを言われても……わたしは、絶対にそんなこと言わなかったししなかった。 
 トラップだったから…… 
 だから、あのときのことは後悔してない。後悔、してるとしたら…… 
「後悔してるよ……」 
「…………」 
「後悔、してる。どうして、あのときわたしは酔っ払ってたんだろうって。どうして……ちゃんと、言わなかったんだろうって」 
「…………言う、って、何をだ?」 
 顔を上げないまま、トラップがつぶやく。 
 言いたかったこと。言えなかったこと。酔っ払っていたせい、トラップだってただのなりゆきで、深い意味なんか無かったはずだ。 
 それは、わたしの卑怯な言い訳。口に出して、拒否されるのが怖かったから。 
「好き、だから」 
「…………」 
「好きだから、って言いたかったのに、酔ってたせいだからって言い訳して、自分の気持ち、認めたくなかった。だから、後悔してる……あのとき、ちゃんと好きって、伝えなかったこと」 
 ぐいっ 
 トラップの腕が、背中にまわって……わたしは、強く抱きしめられていた。 
「……まさか、って、思ったんだ」 
 ぼそりとつぶやかれた声は、聞いたこともないくらい、弱々しい声。 
「まさか、そんな都合のいい話があるわけねえって……思ってたんだ。どうせ、おめえのことだから、酔っ払って朝起きたら何も覚えてねえに違いねえって、そう思ってたんだ。……俺も、後悔してた。おめえを傷つけたって、何も知らねえおめえを酔った勢いで抱いたって、すげえ卑怯なことしたって、後悔してた」 
「…………」 
「……まさか、って思ったんだ。おめえが倒れたとき。まさか、って……まさか、俺の子供が……」 
「どうしよう……」 
 改めて言われて、わたしは…… 
 事が、とても重大なことであるのに、今更気づいた。 
「どうしよう、どうしようトラップ。わたし、どうしたらいいの?」 
「パステル……」 
「どうすればいいの……わたし、わたし思ってるの。トラップの子供なら、生みたいって。だけど……生んだら、トラップに迷惑だよね? 子供ができちゃったら、もうクエストになんか出れない。トラップは、修行のために冒険者になったんだよね? わたし、足をひっぱることになるよね? どうすればいいの、わたし、どうすれば……」 
「ばっ……」 
 わたしが叫んだとき。 
 耳元で、トラップの声が炸裂した。 
「バカか、おめえはっ……んなこと、あるわけねえだろ!!?」 
 キーン、と耳鳴りがする。 
 すっごく大きな声。くらくらする頭を抱えてトラップの顔を見ると。 
 彼は、とても真剣な顔で、言った。 
「んなこと、あるわけねえ……迷惑なんて、そんなこと思うわけねえだろ!!? 嬉しいに……決まってんじゃねえか。俺だって思ってたんだ。おめえに迷惑なんじゃねえかって。生みたくないって言われたらどうしようって。……生みたいって言われて、俺がどんだけ喜んだか……おめえにはわかんねえのかよ?」 
「トラップ……」 
「生めよ」 
 ぎゅっ、と腕に力がこめられる。 
「生めばいい。ドーマか、シルバーリーブか、それともガイナか? どこでもいい。おめえが望むところに、どこまでもついて行ってやるから」 
 ……え? 
 それって…… 
「俺はなあ、別にドーマに戻ったって戻らなくたってどっちでもいいんだよ。盗賊団なんかな、一緒に暮らしてる連中の誰かが適当に継ぐだろうさ。おめえが嫌だってんなら、あんな家、いくらでも誰かにくれてやらあ。だから……」 
 聞かされた言葉は、とても素敵な言葉だった。 
「……結婚……してくれっか? 順番、狂っちまって、わりいけど……」 
 ………… 
 何、だろ。何で…… 
 何で、涙が出るんだろう。嬉しいのに。すっごく、嬉しいのに…… 
 こんな素敵なこと……本当に起こって、いいの? 
 じっとわたしを見つめるトラップの視線は、すっごく真面目で……そして、不安そうだった。 
 答えなくちゃ。早く、不安にさせないように。 
 わたしが口を開きかけたそのときだった。 
 ガタンッ 
 ………… 
 ドアの外から響いた声に、わたし達は思わず固まってしまう。 
 ……今の音、何? 
 トラップの顔は、面白いくらい青ざめて……ドアの方を、凝視している。 
 普段のトラップだったら、絶対気づいたはずなのに。 
 それくらい……動揺してた、ってこと? 
「わっ、バカキットン!!」 
「クレイが押すからでしょう!?」 
「と、とにかく静かにっ……」 
 聞こえてきたのは、想像通りというか……想像通りの声。 
「……ばれ、てんだよ……おめえら……」 
 トラップがぶるぶると拳を震わせて言ったときだった。 
 バタン、とドアが開いて……クレイ、キットン、ノルは宿の中に入って来れないからいないけど……ルーミィとシロちゃんまでが……廊下から気まずそうな顔でこちらを見ていた。 
  
 なっ、なっ、なっ…… 
 何で、みんながここにー!? 
 わたしが金魚のように口をぱくぱくさせていると、トラップは、手で顔を覆ってつぶやいた。 
「……ちなみに聞くが、いつからそこにいた?」 
「『妊娠してねえか』のちょっと前くらい、ですかねえ」 
 ひょうひょうと答えるキットンに、わたしは一気に真っ赤になってしまった。 
 それって……ほとんど最初からじゃないのー!! 
「いや、だってですねえ!!」 
 拳を握り締めて立ち上がったトラップに、キットンがあたふたと手を振りながら言った。 
「だって、あの一度寝たら起きないトラップがですよ? 夜中にこっそり出て行くんですから。気になって当然でしょう!? あんな狭い部屋にあれだけ人数がいて、誰にも気づかれずに外出しようっていう方が無理ですって!!」 
「そ、そうそう。別に立ち聞きするつもりじゃあ、なかったんだ。ただ……」 
「で、出て行くタイミングを見失った、と言いますか。あまりにもショッキングな内容だったもので……」 
 キットンとクレイの言い訳に、トラップは天井を仰いでベッドに再び腰掛けた。 
 もう……何を言えばいいのやら…… 
 恥ずかしいやら何やらでわたし達が何も言えないでいると……ルーミィとシロちゃんが、とことこと歩いてきた。 
 そして、トラップをじーっと見つめた。 
「……あんだよ」 
「とりゃー、ぱーるぅとけっこんするんかあ?」 
 その瞳はすっごく無邪気。……ルーミィ、結婚の意味、わかってるんでしょうね? 
「……ああ、そうだな。俺はそうしたいな」 
「ふーん。ぱーるぅは?」 
「え?」 
「ぱーるぅは、とりゃーとけっこんしたいんかあ?」 
 大きなブルーアイが、じーっとわたしを見つめている。 
 なっ、何を…… 
 すると。 
 トラップも、わたしの方をじーっと見つめていた。……わたしの返事を待っているかのように。 
 ……言ってない、もんね。まだ言うしかないのかな。 
「……うん。そうだね。わたしもしたいよ、トラップと結婚したい」 
 わたしがそう言うと。 
 ルーミィとシロちゃんは、ぱあっと花が開くような笑顔を見せていった。 
「おめでとうだおう!!」 
「パステルおねえしゃん、トラップあんちゃん、おめでとさんデシ!!」 
 二人の言葉を皮切りに。 
 それまで入り口ではらはらしながら見守っていたクレイとキットンが……やっと顔をほころばせて、部屋の中に入ってきた。 
「おめでとうございます」 
「おめでとう……お前ら、素直になるのが遅すぎるよ」 
「本当に。いつこうなるかとひやひやしてたんですけどね」 
 ……そのひっかかる言い方は何なんだろう? まさかこの二人、ずっと前から気づいてた? 
 でも、まあいいや。 
 振り仰げば、トラップは……満面の笑みを浮かべて、わたしをぎゅっと抱きしめた。 
 お腹に力がかからないように精一杯気を使ってくれているのがすごくよくわかる、そんな抱きしめ方。 
 ありがとう。わたし……幸せ、だよ。 
 これから、もっと幸せになれるよね。 
 夜はすっかり更けていたのに、みすず旅館のわたしの部屋は、いつまでも明るかった。 
  
 と、ここで話は終わるはずだったんだけど。 
 後は、ドーマとガイナに行ってみんなに報告してまわるだけ、だったんだけど。 
 後でとんでもない事実が発覚してしまった。 
「えっ、妊娠してないい!?」 
「はあ……」 
 キットンの言葉に、わたしはシルバーリーブ中に響きそうな大声をあげていた。 
 トラップはトラップで、ふてくされてベッドに寝転がっている。 
 そうなんだよね。あの後、詳しくチェックしてみましょうか? なんて言って病院に行ってみたんだけど。 
 その診断結果を見てのキットンの一言が……これだった、ということで。 
「あの、ですね。パステル、相当ストレスをためこんでいませんでした? そのせいで、胃炎を引き起こして……ということ、らしいです」 
「い、胃炎……」 
「はあ。あのー……こんなことわたしの口からきくのはちょっとあれですけど……月のもの、は、ちゃんと来てませんでした? この三ヶ月間」 
 ………… 
 言われてみれば……来てました。ちゃんと。 
 なっ、何でこんな簡単なことに気づかなかったんだろうっ…… 
 わたしががくっと膝をつくと、キットンやクレイは困ったように顔を見合わせていた。 
 ルーミィ達は意味がよくわからないらしく、きょとんとしている。 
 ど、どうしよう…… 
 振り返るのが怖くてわたしがうつむいていると……不意に。 
 背後から腕が伸びてきて、ぎゅっと、抱きしめられた。 
「ま、いいんじゃねえの」 
「トラップ!?」 
「しゃあねえだろ、できてなかったもんは。……別にいいんじゃねえの。だってさ」 
 振り返って見上げたトラップの顔は、あのときと同じ、満面の笑みで言った。 
「別に、子供ができたから結婚する、っつったわけじゃねえだろ? 好きだから結婚する……だったら、別に関係ねえだろ? そのまま結婚しちまおうぜ」 
「トラップ……」 
「何、それともおめえは違ったの? 俺のことを好きじゃなくて、子供ができたから仕方なく結婚する、っつったのかよ?」 
 ぶんぶんぶん 
 慌てて首を振る。まさか! そんなことあるわけない。 
「だったら、いいじゃねえか。なあ? それに、もーしばらくこのままおめえらとクエスト続けられそうだしな」 
 後半の言葉は、クレイ達に向けての言葉。 
 彼らは、困惑しながらわたし達を見てたけど……その言葉に、笑顔で頷いた。 
 ……そうだよね。何も、変わらない。 
 わたしがトラップを好き、っていう気持ちは、何も変わらないから。 
「んじゃ、式は予定通りっつーことで。ドーマに行くのもガイナに行くのも予定通り……でいいよな?」 
「……うん」 
 わたしが頷くと、クレイ達は何故か…… 
 誰から言うでもなく、そそくさと部屋を出て行った。もちろん、ルーミィ達も一緒。 
 で、部屋にはわたしとトラップだけが残される。 
「……あの?」 
「あいつらも、わかってきたみてえだな」 
 背後から聞こえるトラップの言葉。 
 どういうこと? と振り返った途端、唇を、塞がれる。 
 ……ああ、そういうこと。 
 トラップの目を見て微笑む。 
 軽いキスの後、トラップは耳元でささやいた。 
  
 ――本当は、ちっとがっかりしてんだけどな。 
 ――え? 
 ――子供。ちっとがっかり。なあ、本気で作らねえ? 
 ――ば、バカッ。何言ってるのよっ! 
 ――嫌か? 
 ――嫌、じゃない、けど…… 
  
 だって。 
  
 ――好き、だから。トラップのこと。 
 ――俺も。 
  
 ふぅっと身体にかかる重み。 
 そのまま、わたし達は、ベッドに倒れこんでいた。

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