最初、キットンが「どうぞ」ってジュースを渡してきたとき、何か変だなあ、って思ったんだよね。 
 綺麗なオレンジ色のジュース。だけど、味はオレンジじゃなくて……何だろ? すごく不思議な味。 
「これ、何?」って聞いたら、「新発売のジュースですよ。試供品をもらったんです」なんていうキットンの言葉を真に受けて、飲んでしまったわたしはちょっと迂闊だったと思う。 
 ジュース……いやいや。その謎の液体そのものは、別にまずくはなかったんだけど。 
 飲んだら、何だか無性に眠たくなったんだよね。 
 今日はバイトも無いし原稿も無い。まあ、いっかと思ってベッドに横になって。 
 そのままうつらうつらと眠っちゃって…… 
 そして。 
 起きたら、この状況。 
 い、一体これはどういうことなのー!? 
  
 ふっと目が覚めた。 
 いやいや、目が覚めたっていうより、あれはもう気がついたら、としか言いようがない。 
 とにかく、寝転んでいたはずのわたしは、何故か気がついたら立っていた。 
 もうそれだけで、「あれ?」なんて思ってぐらっと倒れそうになってしまう。 
「どうしたの、大丈夫かい?」 
 そのとき、突然声をかけられて、そこではっきりと目が覚める。 
 えーっと……? ……ここ、どこ? 
 慌てて姿勢を立て直して、まわりを見回す。 
 ……どう見ても、みすず旅館……じゃないよね。 
 そこは、何だかお城の一室みたいだった。 
 すっごく豪華な家具。赤い絨毯が真ん中にひかれていて、その先にはいわゆる王様と王妃様が座ってるような豪華な椅子が二つ。もっとも、今は誰も座ってないけど。 
 でも、誰もいないわけじゃない。わたしの目の前には、四人の人が立っていた。 
 その中の一人が、わたしに声をかけてくれたんだけど…… 
「……クレイ? な、何? その格好」 
 わたしが言うと、まわりの空気が凍りついた。 
 いやいや、凍りつきたいのはわたしの方だよ。だって…… 
 目の前に立っていたのは、クレイとキットン、ノルとルーミィ。いつも見ているパーティーのメンバー。 
 だけど、何故か……皆の格好は変だった。 
 クレイは、絵本に出てくる王子様みたいなすっごく豪華な衣装を着ている。ルーミィもお姫様みたいなドレス。これがまた二人ともすっごくよく似合ってて、それはそれは絵になってるんだけど。 
 二人の後ろに立っているノルとキットン。ノルは鎧に身を固めていて、キットンは…… 
 ……何故か破滅的に似合わない燕尾服姿。 
 みんな、一体どうしちゃったの?? 
「あの、ねえ、その格好どうしたの? クレイ……何がどうなってるの?」 
 わたしが聞くと、クレイは目を点にして……そのかわり、キットンがずいっと前に出てきて叫んだ。 
「殿下に向かって何という口のききかたをするんです! あなたそれでも侍女ですか!?」 
 はあ?? 
 じ、侍女? 何のこと? 
「まあまあキットン。そんなに怒らなくても、まだ慣れていないんだし」 
「クレイ様、あなたはお優しすぎます。こういったことはきっちりとしつけなければいけません!」 
 わたしは頭の中が?マークでいっぱいだったんだけど、そんなわたしに構わず二人の会話は続く。 
 侍女……ってわたしのこと、だよね? え? 何で?? 
 あれ、でも、そういえば…… 
 ふと気づいて、自分の格好を見下ろす。 
 やっぱり……というか。薄々気づいていたんだけど。 
 今のわたしは、いつもの冒険者の格好じゃなく、紺のワンピースに白いエプロン。わたしは服なんて大して枚数持ってないからね。言い切れるけど、こんな服持ってない。 
 ど、どーいうこと??? 
 誰かに状況説明してほしいんだけど、でも、誰もこの状況を不思議に思ってないみたい。 
 えーと、いやいや待って待って。混乱しててもしょうがない。ちょっと考えてみよう。 
 キットンに渡された液体を飲んで……目が覚めたら、こうなってたんだよね? 
 もしかして……これは、夢? すっごくリアルな夢とか? 
 夢なら、まあ何でもありだからどんな変なことになってても納得できるんだけど。 
 ぎゅっとほっぺをつねってみると痛かった。どうやら、夢じゃないみたい。 
 うーんっ…… 
 クレイ、とかキットン、とか、名前は一致してるんだよね。でも、キットンはクレイのことを殿下って呼んでて……殿下って、つまり、王様の息子……王子様? 
 立場が違う……これって、いわゆるパラレルワールド?? 
 何だかすごく信じがたいんだけど、あのキットンの作った薬だもんね。何が起こっても不思議じゃない。 
 とすると……わたしはどうすればいいんだろう? どうすれば、元に戻れるんだろう? 
 下手に逆らったりしない方が、いいのかな? ちょっと様子を見た方が……? 
「とにかくですね! 新入り侍女としてまず覚えていただくことは! 言葉使いに礼儀作法! 全く最近の若い娘は最低限の常識もわきまえてないんですねえ」 
「は、はいっ!?」 
 わたしが色々考えていると、キットンが突然振り返って叫んだ。声の大きいところは、元世界のキットンと同じ。 
 うーっ、それにしても常識って……まさか、あのキットンの口からそんな言葉が出るとは…… 
「わかりましたか!? いいですか、雇ってしまったものは仕方が無いので今更追い出したりはしませんが、侍女として、クレイ様、ルーミィ様に馴れ馴れしく口をきくことのないよう……」 
「何の騒ぎだよ。うっせえなあ」 
 キットンの長いお説教が始まろうとしたときだった。 
 不意に、背後からすごく聞きなれた声が聞こえてきた。 
 この声って…… 
 振り返る。想像通りの人物が、そのとき、扉を開けて入ってきた。 
 さらさらの赤毛、ひょろっとした体格。間違いない。トラップだ。 
 ……それはいいんだけど。 
 トラップの格好は、クレイに比べてちょっとシンプルだけど、それでも凄く高そうなこざっぱりした黒い服。その背中には、深緑色のマントがかけられていて…… 
 ほえーっ、こっちの世界のトラップって、服の趣味いいじゃない! かっこいい…… 
 普段見慣れない姿だけにわたしが思わず凝視すると、トラップは眉をひそめて言った。 
「おいキットン。何だ? この貧相な女は」 
 ………… 
 一瞬、何を言われたのかわからなくなってしまう。 
 ひっ、貧相ですって!!? し、失礼なっ!! 
「ああ、彼女はですね……」 
「貧相で悪かったわねっ!!」 
 キットンがわたしを紹介しようとしたそのとき。 
 わたしは、思わずトラップの前に出て叫んでいた。 
 口が悪いのはこっちのトラップも同じってこと!? 
 トラップは、わたしの剣幕に面食らったみたいだけど、やがてにやっと笑って言った。 
「怒るってこたあ、気にしてるってことか?」 
「なっ、なっ……」 
「安心しろ。少なくともルーミィに比べりゃあ、いくらかは女らしい」 
 っきーっ!! 腹の立つっ!! 
 る、ルーミィってまだ外見年齢三歳くらいじゃないの!! 比べる対象が間違ってない!? 
 気がついたときには、わたしはばちんっ、とトラップをひっぱたいていた。 
 いやいや、元の世界ではこんなの日常茶飯事だからね。ついついいつもの調子で…… 
 その瞬間だった。 
「ななな何てことをするんですかっ!!」 
 血相を変えたキットンとノルにはがいじめにされた。 
「仮にも第二王位継承者に向かって、何てことを!!」 
 …………はあ? 
 だ、第二王位継承者? それって…… 
「ステア様、お怪我はありませんか?」 
 わたしのことはノルにまかせて、キットンが即座にトラップの元に歩み寄る。 
 ……ってあれ? ステア?? 
 それって……トラップの本名、よね。こっちの世界では、トラップはそう呼ばれてる、ってこと? 
 だけど。わたしが不思議に思っていると、トラップは、わたしを見るときとは全然違う凄く冷たい目で、キットンを見下ろした。 
「……その名前で呼ぶな、と言わなかったか?」 
「はっ……し、失礼しました」 
「けっ」 
 それだけ言うと、トラップは即座に背を向けてその場を去ろうとしたんだけど。 
「とにかく! あなたの態度はいくら何でも侍女として問題がありすぎます! すぐにここから出ていってもらいましょう!!」 
 キットンがわたしの方を向いて叫んだ瞬間、ぴたりと足を止めた。 
 もっとも、わたしはそれどころじゃなかったんだけど。 
 えーっと、えーっと……展開が急すぎてついていけないのよ!! 
 ど、どうやら、クレイもトラップもルーミィも、この世界では身分の高い人、みたいよね? で、わたしはお城に雇われた新入り侍女として紹介されている途中だった、と。 
 キットンは大臣か執事? で、ノルは傭兵? 騎士? 
 いやいや、とにかくわたしは、すっごく偉い立場にいるクレイ達を思いっきり呼び捨てにしちゃって、トラップをひっぱたいて、で、侍女失格として追い出されようとしている、と。 
 うーんっ、ど、どうすればいいんだろう。 
 ここを追い出されたって、元の世界に帰れるとは限らないんだよね? 行くところもないし。 
 かと言って、それはここにいても同じことだし…… 
 うーんっ…… 
 わたしがおろおろしていると。 
 出て行こうとしていたはずのトラップが、何故かこっちに戻ってきた。 
 ……あれ? 
「おい、キットン」 
「はい?」 
「こいつは、侍女なのか?」 
 トラップの言葉に、キットンは最初ぽかんとしてたみたいだけど、やがて大きく頷いた。 
「はい。今日から城に勤めることになった……そういえば、まだあなたの名前聞いてませんでしたね?」 
「あ、えっと、ぱ、パステル・G・キングです」 
 急に話をふられて、思わず本名を名乗ってしまう。 
 いやいや、いいんだよね? だって、他のみんなも元の世界と同じ名前みたいだし…… 
 わたしが名乗っても、誰も動揺しなかったし。やっぱり、わたしはこっちの世界でもパステルなんだ。 
「ふーん、パステル、ね……」 
「はっ。ですがあまりにも態度に問題がありますので、解雇しようかと……」 
「……いや」 
 キットンの言葉に、トラップはにやりと笑って言った。 
「気にいった。こいつ、俺がもらうわ」 
「……は?」 
「だあら、こいつは今日から俺の世話係だ、っつってんだよ。まさか、文句はねえだろうな?」 
 トラップがにらみつけると、キットンは困ったようにクレイの方を見やったけど、クレイは肩をすくめて、 
「まあ、いいんじゃないか? どうせ人手が足りてなかったんだし」 
 と言った。 
 殿下直々の言葉だもんね。キットンも、それ以上は反対できないみたいだった。 
「よし、決まりな。そうと決まったら来い」 
「きゃああ!?」 
 反対がなくなったところで、トラップはわたしの腕をつかむと、ずんずんと歩き出した。 
 ちょっとちょっと。 
 誰か……誰かこの状況を何とかして――!! 
  
 城はすんごく広くて、またトラップの足はすっごく早かった。 
 わたしは半分ひきずられるような形で後を追ったんだけど、階段を降りようとしたところでさすがに悲鳴をあげてしまった。 
「ちょ、ちょっとトラップ! もっとゆっくり歩いてよ!!」 
 その瞬間、ぴたりとトラップは立ち止まった。言ってしまってから、しまった、と思う。 
 わーん、わたしのバカバカッ!! トラップって、こっちの世界では身分の高い人なんだよね!? しかも、こっちでは「ステア」なんだよね!? ううっ、どうしよう。 
 何てごまかそうかわたしがあたふたしていると、トラップは、ゆっくりとこっちを振り返った。 
 でも、その目は全然怒ってない。驚いていて、そして優しかった。 
「……おめえ、何で知ってんだ?」 
「え??」 
「俺のあだ名。言ってねえだろ? 何で知ってんだ?」 
 え、えーっと…… 
 実はわたしは別世界から来まして……なんて言っても通じないよね。な、何て言えばいいんだろう? 
 わたしが困っていると、幸いなことに、トラップは勝手に解決してくれた。 
「ああ、そうか。クレイの奴に聞いたのか。しっかし、おめえすげえ度胸だな。仮にも第二王位継承者に向かって、侍女がタメ口であだ名を呼ぶかあ?」 
 うっ……そ、その通り。 
 元の世界がどうあれ、今のわたしはただの侍女で、トラップはわたしのご主人様……なんだよね? それなりの対応しなくちゃ。 
「も、申し訳ありませんでした……ステア、様」 
 キットンの言い方を真似して言うと、すっとトラップの目が細まった。 
 ……あれ? 
 そういえば、トラップ、言ってたよね。ステア、って呼ぶキットンに「その名前で呼ぶな」って。 
 あれは…… 
「トラップでいい」 
「え?」 
「トラップでいい。無理して敬語使う必要なんかねえよ。どうせ俺は……」 
 そこで、トラップはわたしから視線をそらして言った。 
「余計もんの王子だからな」 
 吐き捨てるように言ったその口調は……何だか、とても寂しそうだった。 
  
 とにかく、人間関係だけでも把握したい。 
 わたしは、田舎から出てきたばかりでよくわかってない、と言い張って、トラップからこの世界の基本的な人間関係を聞き出した。 
 どうやら、このお城はアンダーソン王家、らしい。クレイのお父様が今の王様で、お祖父様もまだ健在だとか。 
 で、第一王位継承者……わかりやすく言えば王様の長男がクレイ、次男がトラップ、末娘がルーミィ、らしい。つまり、彼ら三人は兄弟ってことになる。 
 で、キットンがわたしの想像通り執事頭で、ノルが王様直属の護衛。お城には、他に何人か侍女がいるけど、王家の割りに数はそんなに多くないとか。それで、わたしが雇われたらしいんだけどね。 
 トラップに連れて行かれたのは、どうやら彼の部屋。 
 いやいやさすが王子様。その部屋の広かったこと、豪華だったこと! 
 わたし達が普段泊まってるみすず旅館の部屋、全部合わせたくらいの広さがあるんじゃない? っていうくらい豪華で、ベッドなんか天蓋がついてたもんね。 
 ただ…… 
 見た瞬間思ったのは、何となく、寂しそうな部屋だな、っていう印象だった。 
 うーん、うまく言えないんだけど、みすず旅館みたいな、いるとほっとする、っていう雰囲気が全然無いんだよね。普段こんな広い部屋、使ったことが無いからかな? 
「しかし、おめえ本当に何も知らねえんだな。よくそんなんで侍女として採用してもらえたな」 
「え? いや……あはは……」 
 呆れたようにつぶやくトラップに、愛想笑いでごまかす。 
 うーっ、わたしにだってわからないんだもん。こっちの世界のわたし、何て言って採用してもらったんだろ? 
 そうして、しばらくトラップととりとめのない話をしてたんだけど。 
 窓の外がそろそろ暗くなるなー、っていう時間になって気づいた。 
 わたし……トラップの世話する侍女、になったんだよね? 
 世話って……何すればいいんだろ? 
「あの、あのね、トラップ」 
「ん? あんだよ」 
 トラップは、わたしが普段通りの口調で話しかけても全然気にしてないみたいだった。だから、わたしも遠慮なく普通にしゃべってるんだけど。 
「ええっと……実は、わたし侍女の仕事ってどういうものかよくわかってないんだけど。あなたの世話をするって、何をすればいいの?」 
 わたしが言うと、トラップは目をまん丸にしてたけど、やがて、ぶっと吹き出した。 
「お、おめえ……そんなことも知らずに城に来たわけ?」 
「う、うん……」 
 来たくて来たわけじゃないんだけどね。 
 心の中でつぶやくと…… 
 トラップは、にやっと笑って、わたしを手招きした。 
 ……何だろ? 何か嫌な予感。トラップがこういう笑い方するときって、絶対何かろくでもないこと考えてるんだよね。 
「何?」 
「ちょい来い。耳貸せ」 
「うん?」 
 わたしがトラップの口元に耳と寄せると…… 
 ぐいっ、と肩をつかまれた。そして。 
 気が付いたら、ベッドに押し倒されていた。 
 ……えええええええええええええ!!? 
「なっ、何!? 何何!?」 
「あんだよ。教えて欲しいっつったろ? 侍女の仕事」 
「し、仕事って……」 
「他にも色々あるけどな。一番の仕事は何つっても、夜の相手、だろ」 
「……え?」 
 よ、夜の相手って……それって……それって…… 
 見上げるとすぐ近くにトラップの顔。元の世界のトラップと全く同じ。 
 その顔が、徐々に近づいてきて…… 
 ……って駄目駄目駄目ー!! 
「や、やだやだやめてやめて!!」 
「うっ、おっ、い、いてえって!!」 
 わたしがぶんぶんと腕を振り回すと、偶然にもそれがトラップの顎に当たったらしく、トラップが慌てて身をそらす。 
 その隙に、ずざざざざっと壁際まで後ずさった。 
 うーっ、何!? じ、侍女ってこんなことまでしなきゃいけないの!? そ、それはさすがに…… 
「わっ、わたしっ……困る、そんなことできないわよっ!!」 
 目に涙をためて言うと……トラップは。 
 まじまじとわたしを見つめた後、天井を仰いで大爆笑した。 
 ……え? 
 目の端に涙まで浮かべて、お腹を抱えて笑ってるトラップ。段々と事態が飲み込めてくる。 
「トラップ……か、からかったわねえ!?」 
「ひーっひっひっひっひ、ひっかかる方が間抜けなんだって!! 大体誰がおめえみてえな幼児体型相手にするかってんだ」 
「よ、幼児体型って!!」 
 思わずかっとして手を振り上げる。 
 だけど、振り下ろしたその手は、トラップの頬に当たる寸前でつかまれた。 
 ぐいっとひっぱられる。反動で、わたしの身体はぼすん、とトラップの身体に引き寄せられた。 
「わっ!?」 
「本当に、おめえっておもしれえ奴だな」 
 わたしの顔を覗き込んで、トラップは。 
 元の世界でも滅多に見たことのないような、すっごく優しい笑みを浮かべたのだった。 
  
 そんなこんなで、わたしは侍女としてお城で生活を始めることになった。 
 トラップの世話係り、ということで、わたしはトラップの隣の部屋を与えられたんだけど。 
 これがまあ、そりゃトラップの部屋に比べればすごく狭いけど、それでも普段使ってるみすず旅館の部屋の何倍? ってくらい広い部屋で。 
 どうにもこうにも落ちつかない。大体、普段はルーミィ達と寝てるもんね。一人で広いベッドを使うのに慣れてないから。 
 そんなわけで、この世界にやってきて一日目の夜は、なかなか眠れないまま終わった。 
  
 翌朝。 
「いつまで寝てるんですか! 仕事はいくらでもあるんです、さっさと起きてください!!」 
 わっ!! 
 ドアの外から響くキットンの声に、思わず飛び起きた。 
 うーっ、気がついたら寝ちゃってたみたい。は、早く起きないと。 
 実は、眠って目が覚めたら元の世界に、なーんて都合のいいことを想像してたんだけど、残念ながらわたしはまだこの世界にいるみたいだった。 
 あたふたとベッドからおりて、昨日着ていたワンピースに着替える。 
 そういえば、結局昨日トラップは教えてくれなかったんだよね。侍女って、何をすればいいんだろう? 
 慌てて外に出ると、ドアの外でキットンがすごくイライラしたように立っていた。 
「ご、ごめんなさい……」 
「全く。まあ今日は大目に見ますけどね。明日からはちゃんと一人で起きてくださいよ」 
「は、はいっ」 
 ちなみに、時間はまだ夜が明けたばっかり、っていう時間。 
 ううっ……侍女ってこんなに早起きしなくちゃいけないんだ…… 
「えっと、何をすればいいんでしょう?」 
「朝の仕事は、城の掃除です。朝食の時間になったら、ステア様に朝食を運んでください。あなたの朝食はその後です。朝食の後は、ステア様の指示に従ってもらいます。あなたはステア様の世話係ですからね。普通の侍女とはちょっと仕事内容も違うんですよ」 
「はあ……」 
「じゃあ、お願いしますよ。まずは二階の廊下の掃除です」 
 キットンに言われるまま、掃除を開始する。お城のあちこちから水の音やほうきで掃く音が聞こえるから、どうやら皆でいっせいに綺麗にしてるみたい。 
 わたしも廊下を掃いて雑巾がけをしたんだけど、いやこれが大変で。何しろ広いし長いし、結局朝食の時間までずっとそこを掃除する羽目になった。 
 まあ、実はありがたかったんだけどね。何しろほら……わたしは方向音痴だから。 
 こんな広いお城、一人で掃除しろって言われたら絶対迷っちゃうもん。後でトラップに案内してもらおうかな? 
「まあ、いいでしょう。ちょっと時間がかかりすぎてますね。明日からはもっと早く終わらせてくださいよ? では、厨房でステア様の朝食をもらってきてください」 
「はいっ……あの、厨房って、どこですか?」 
 キットンの案内で連れて行かれた厨房は、また広いところだった。 
 猪鹿亭がすっぽりおさまっちゃいそうだったもんね。 
 ちなみに、そこで料理を作っていたのは…… 
「り、リタ!?」 
「はいっ……あら、あなたが噂の新人侍女? どうしてあたしの名前知ってるの?」 
 わたしが思わず叫ぶと、リタはにっこり笑った。 
 そうなんだよね。台所で料理を作っていたのは、元の世界のリタと全く同じ顔をした人。名前もやっぱりリタ。 
 うーっ、何なのかなあ。このままだと、後何人かくらい知り合いに会いそう。 
「あ、あのっ……とらっ……ステア様に聞きました。パステルと言います。よろしく」 
「知ってるわよ。ステア様の世話係になったんですって? あの方の世話は大変よ。今まで何人も侍女がやめてるからね。まあ、頑張ってね」 
 そう言うと、リタは朝食を載せたトレイを、キャスターのついた台の上に置いて渡してくれた。 
「じゃあ、これがステア様の朝食ね。あの方は寝起きが悪いから、がんばってね」 
「は、はい」 
 知ってます、と言いかけて慌てて首を振る。 
 うーん、どうやらこっちの世界のトラップも寝起きは悪いみたい……どうやら、本当に違うのは立場とか身分だけで、性格と外見は全く一緒みたい。 
 それにしても、トラップの世話ってそんなに大変なのかなあ……あの口の悪ささえ慣れちゃえば、悪い人じゃないと思うんだけど…… 
 そんなことを考えながら、何とかトラップの部屋にたどり着く。途中何回か迷いかけたけどね。幸い、親切な侍女仲間の一人が、案内してくれたんだ。 
 ちなみに、その侍女さんも、シルバーリーブで顔くらいは知っている人だったりするんだけど、名前までは知らない。後で聞いてみようかな? 
 深呼吸してドアをノック。元の世界のトラップなら、これくらいじゃ絶対起きないけど…… 
「トラップ、朝だよ、起きて!」 
 ドアをノックしながら叫ぶと、たまたま通りかかった使用人の一人にぎょっとした顔をされてしまった。 
 い、いけないいけない。今のわたしは侍女で、トラップはご主人様なんだ。せめてみんなの前では、それらしい対応をしないと。 
 もう一回ノック。 
「ステア様、お食事をお持ちしました」 
 こ、こんなものでいいかな? おかしくはないよね? 
 ドンドン 
 だけど、何回ノックしても、やっぱりトラップは目を覚まさない。 
 もーっ、しょうがないなあ。 
 がちゃん、とノブをひねると、鍵はかかってないみたいだった。 
 このままだとせっかくの食事が冷めちゃうもんね。 
 朝食を部屋に運び込む。案の定、ベッドでは見慣れた赤毛頭がぴくりとも動かず横になっていた。 
「トラップ、起きてってば。朝だよ、ご飯!!」 
 ゆさゆさ 
 ゆさぶっても叩いても全然起きない。もーっ、こんなとこまで元世界のトラップと同じでなくてもいいのに!! よーし、こうなったら…… 
「トラップってば! ほら、そこに宝箱が!!」 
 ………… 
 しーんっ。 
 元世界のトラップなら一発で起きる必殺の文句は、こっちの世界のトラップには通用しなかった。 
 ううっ、よく考えたら、こっちのトラップは王子様だもんね。宝なんか見慣れているはず。 
 ど、どうしよう。困ったなあ。 
 おろおろしながらトラップの肩を揺すっていると。 
 不意に、手首をつかまれた。 
 ……起きた? 
「トラップ、おはよう。朝ごはん持って来たよ」 
「……ん……」 
 だけど、わたしの言葉に、トラップはうめいたっきり起き上がろうとはしなかった。 
 もーっ、いいかげんに起きてよーっ!! 
「とらっ……」 
 耳元で叫ぼうとして、思わずどきり、としてしまう。 
 トラップの顔なんて見慣れてる、と思ったけど…… 
 間近で見る寝顔は、すごく整っていてかっこよかった。 
 そうだよね。クレイばっかり言われるけど、トラップだって黙っていればかなりかっこいい部類に入るよね。綺麗な顔立ちしてるし。背だって割と高いし。 
 って、いやいやいや。何を考えてるんだろう、わたしってば。 
 思わずぶんぶんと首を振ってまた起こそうとしたんだけど。 
 トラップがあんまり気持ち良さそうに寝ているものだから、何だかわたしまで眠たくなってきた。 
 昨日、あんまり寝てないんだよね、そういえば。 
 駄目駄目、寝ちゃいけない。寝ちゃ…… 
 ………… 
  
「ステア様!! 起きておられますか!!?」 
 ドンドンドン!! 
 目が覚めたきっかけは、やっぱりキットンの声。 
 うーんっ…… 
 はっ 
 ばちっ、と目を開ける。ま、まずいっ、わたし、寝ちゃって…… 
「やだっ……」 
「……おめえ、仮にもご主人様のベッドで、よくもまあぐーすか寝れるなあ……」 
「きゃああああああああああ!!?」 
 目を開けた途端、トラップの顔がドアップになって、わたしは思わず悲鳴をあげた。 
 な、な、何!? あ、わたし……まさか、トラップのベッドで寝ちゃって……? 
 そこでわたしはきょろきょろとまわりを見回したんだけど、状況はそんな甘いものじゃなかった。 
 なんと、わたしはトラップの胸の上につっぷして寝ていたのだった…… 
 起こそうとして肩を揺すってたからね。どうも、そのまま寝ちゃったみたいで…… 
 ううっ、何やってんだろう、わたしってば。 
 思わず落ち込んでしまう。そんなわたしを尻目に、トラップは顔をしかめて起き上がった。 
 寝巻き姿だし赤毛も乱れているけど、どうももうちょっと前から起きてたみたい。 
 も、もしかして、わたしがもたれかかってたせいで起きれなかった? ど、どうしようっ…… 
「なんですか今の悲鳴は!? まさかパステルもそこに? パステル、あなた何やってるんですか!!」 
 そして、ピンチはそれだけじゃなかった。わたしの悲鳴を聞きつけたのか、キットンの声とドアのノックの音がさらに大きくなる。 
 わーん、どうしようっ。一体、どれくらい寝ちゃってたんだろう? 
 わたしがおろおろしていると、ぽん、と頭に何かが乗った。 
 見上げると、トラップの手が、わたしの頭に乗っていて…… 
「何でもねーよ。朝っぱらからうっせえな。パステルはな、今俺の命令で部屋の掃除してんだよ。わかったら邪魔すんじゃねえ!!」 
 と、外に向かって怒鳴った。それっきり、キットンは静かになる。 
 あれ、もしかして…… 
 ……庇ってくれた? 
「おい、飯持って来たんだろ? 俺、腹減ってんだけど」 
「あ、うん。ご、ごめんね」 
「ああ? まあいいよ。俺もゆっくり寝れたしな」 
 トラップは投げやりに言うと、壁にもたれかかった。 
 ええっと、食事って……まさか、ベッドで食べるのかな? そういえば、王子様ってそんなイメージがあるよね。 
「あの、ご飯、ここで食べるの?」 
「あん?」 
「いや、あのね、ちゃんとテーブルについて食べた方がいいと思うよ。ベッドが汚れるし」 
 そうそう。油の染みとかがつくと、洗濯が大変だもんね。元世界でもたまーにルーミィがお菓子をベッドに持ち込んだりするんだけど、そのたびにシーツを汚してたもんなあ。 
 わたしが言うと、トラップはしばらくこっちを凝視してたけど、何も言わず立ち上がって大人しく椅子に座った。 
 嘘、素直? あのトラップだから、絶対「あんだよ、いちいちうっせえな」とか言うと思ったんだけど。 
 わたしが見つめ返すと、トラップは何故か真っ赤になってそっぽを向いた。うーん、こっちの世界のトラップは、何だか何を考えてるのかよくわからないかも。 
 そんな彼の前に、用意された朝食を並べていく。それはすごく豪華でどれも美味しそうだったけど、やっぱりというか、冷めきっていた。 
「ご、ごめんね。あの、よかったら温めなおしてもらってこようか?」 
「……なんで? 別に構わねーよ。いつものことだしな」 
「え?」 
 わたしが聞き返すと、トラップは何でもないことのように言った。 
「今までの世話係りって、何回か呼びかけても俺が起きなかったら、飯だけ置いてさっさと自分の仕事に戻ってたからな。起きたときは大抵冷めきってたぜ?」 
 ……嘘。それって、いいの? 世話係りって、そんなものでいいの? 
 わたしのイメージでは、起きたり着替えたり食事したり、そのたびにいちいち呼ばれては雑用を言いつけられる〜って印象があったんだけど。 
 いやいや、着替えを手伝えって言われたら困っちゃうけどね。でも、どうやらわたしの印象は違ってたみたい。 
「そうなんだ。ふーん……」 
「ああ。だあら、嬉しかったぜ?」 
「……え?」 
 嬉しい? 
 わたしがきょとんとしていると、トラップは、例のいたずらっこみたいな笑みを浮かべて言った。 
「目え覚めたとき、傍に誰かがいたのなんか初めてだったから、嬉しかったぜ?」 
 ……え? 
 そ、そんなもんなの? というより、わたしは目が覚めたとき一人だった、っていう経験の方がずっと少ないから、よくわからないけど…… 
 でも。何だか……そう言ってもらえると、嬉しいかも。 
 思わず顔がほころぶ。そんなわたしを見て、トラップは言った。 
「できれば、もっとグラマーな姉ちゃんが添い寝しててくれたらもっと嬉しかったんだけどな」 
 ………… 
 やっぱり、こっちの世界でもトラップはトラップだよね。 
 一言多いってば! 
  
 そんなこんなでトラップの朝食が終わった後、わたしは厨房にお皿を返しに行って、やっと自分の朝食を食べることができた。 
 怒られるかな、とちょっと思ったんだけど、トラップの「部屋を掃除しろっていう命令を受けた」っていう言葉がきいたのか、むしろみんなに「大変ね」「あの方は気まぐれだから」みたいな同情を受けてしまった。 
 ううっ、トラップ、ごめんね…… 
 他のみんなはもう食事を終えていたので、わたしは一人でご飯を食べたんだけど。普段食べているよりずっと豪華な食事なのに、やっぱりすごく味気なかった。 
 あーあ、元の世界だったら、こんなこと無いのに。……早く帰りたいなあ。 
 思わずつぶやいてしまったけど、それで帰り方がわかるわけでもなく。 
 食事の後、トラップの指示を受けるべく、わたしは再び彼の部屋に戻った。 
  
 キットンによれば、世話係りの役目とは、昼食の時間になったら厨房にトラップの食事を取りに来い、その後自分の食事をすませてまたトラップの指示を受けろ、夕食の時間になったら〜という。 
 つまりは、食事の時間と寝る時間以外はずっとトラップの傍にいろ、というものらしい。 
 逆に言えば、トラップの許しさえ受ければ、自由にしててもいいんだそうな。 
 ふーん。思ったよりは楽な仕事かも、これって。 
 そんなことを考えながらトラップの部屋へ。ノックすると、「開いてっぞー」っていう声が聞こえてきた。 
「失礼します……あ、トラップ。あのね、キットンに言われたんだけど……」 
 言いながら部屋に入っていって、そこで硬直してしまう。 
 トラップは、もう寝巻きから普段着らしきシャツにズボンという姿に着替えてたんだけど。 
 彼の傍に、もう一人、人がいた。 
 トラップよりも長身、王子様みたいな正統派の黒髪の美形。 
 つまりは……クレイが。 
 ……どっ、どうしようっ!? 聞かれた、聞かれたよね!? 王子様に向かってタメ口でしゃべるところ!! 
 わたしは思わず青ざめてしまったんだけど、そんなわたしを見て、クレイはぷっと吹き出した。 
「か、可愛いなあ、君。パステルっていったっけ?」 
「は、はいっ」 
「よかった、トラップとはすっかり仲良くなったみたいだね。安心したよ」 
 そう言ってにこにこ笑う顔は、元の世界のクレイと全く一緒で、全然怒ってなんかいないみたいだった。 
 ……あれ? 
「気にすることねーよ。俺がそれでいいっつったんだからな」 
 わたしの様子に、トラップが手を振りながら言った。 
「心のこもってねえ儀礼的な敬語なんかより、ずっといいさ。なあ、クレイ?」 
「そうだな」 
 トラップの言葉に、クレイが苦笑しながら答える。 
 うーっ、クレイってば本当にいい人! やっぱりどこの世界でもクレイはクレイだよね! 
 ……あれ、でも、そういえばクレイって、何しに来たんだろ? 
「あの、トラップ。わたし、キットンからトラップの指示を受けろって言われてきたんだけど……」 
「ああ? あーそっか。おめえ世話係りだもんな。っつっても、別になあ……」 
 彼はしばらく迷ってたみたいだけど、やがて、ぱちんと指を鳴らした。 
「そーだクレイ。こいつも一緒に連れてってやっていいか?」 
「え?」 
「ああ、構わないよ」 
 え? 連れてくって、どこへ? 
「よし、決まりだ。パステル、おめえ、これから厨房行って飯を三人分用意してもらってきてくれ。これから出かけるっつってな」 
「う、うん」 
 出かける……ってどこへだろ? 
 まあいいか。外がどうなってるのかも気になるし。 
 言われた通り、わたしは厨房まで行って、リタに三人分のお弁当を作ってもらうように頼んだ。 
 いきなりで大変なんじゃないかな、と思ったけど、リタは瞬く間に用意してくれた。実は、クレイとトラップの二人がどこかに出かけるのは、別に珍しいことじゃないんだって。 
 もっとも、それに誰かを一緒に連れて行くのは初めてらしいけど。 
「パステル、あなたきっとステア様に気にいられたのね。よかったじゃない」 
 とは、リタの言葉だけど……うーん。気にいられた……のかなあ? 
  
 お城を出ると。周囲には森が広がっていた。 
 それはズールの森とは違って、モンスターなんかも全然出ない、本当に綺麗な森。 
 そんな中を、二人は馬に乗ってのんびりと進んでいた。 
 最初、わたしにも「馬を用意させようか?」ってクレイが聞いてくれたんだけど。 
 「たかが侍女に馬一頭なんて出してくれるわけねえだろ」とトラップに一蹴されてしまった。 
 ううっ、そりゃそうだけどさあ。いや、それにわたし馬になんか乗れないからいいんだけど。 
 もーちょっと、優しい言い方できないのかなあ。 
 はあ、とわたしがため息をつくと、「おら」と馬上から手を伸ばされた。 
「……え?」 
「あにやってんだ。さっさとつかまれ」 
「え? あ、うん」 
 ぎゅっ、とトラップの手をつかむと、そのまま、わたしはあっという間に馬上に引きずりあげられた。 
「き、きゃああああ!?」 
「ばっか暴れるな! おめえ、どうせ馬になんか乗れねえだろ」 
 ずばり、と言われて思わず赤面してしまう。み、見抜かれてた? 
「やっぱりな。だあら、乗せてやるよ。ほれ、しっかりたずな握ってろ」 
「う、うん」 
 言われる通りしっかりたずなを握ると、後ろからトラップの手が添えられる。 
 へー、もしかして……わたしが馬に乗れないかもって考えて、そのつもりで? 
 ふーん……こっちの世界のトラップって……優しいじゃん。 
 そんなわたし達を、クレイはぽかんとしながら見てたんだけど。 
「くっ……はっ、はははっ。よかったな、トラップ」 
 と言って、肩を震わせて笑い出した。 
 ……よかったな? 
 言葉の意味がわからなくて、わたしがトラップを振り仰ぐと。 
 トラップは、ひどく不機嫌そうにクレイをにらんでいた。 
 ……一体どういう意味なんだろう? 
  
 トラップとクレイが連れていってくれたのは、城から馬でしばらく行ったところにある泉のほとり。 
 そこは森の奥深くにあって、訪れる人もほとんどいないし、近くには小屋まであって、子供のときから二人だけの秘密基地になってるんだとか。 
「まあ、ルーミィがもうちょっと大きくなったら連れてきてあげようとは思うけどね。まだしばらくは、二人だけの秘密の場所にするつもりだったんだ。ここなら、気兼ねなくしゃべれるしね」 
 とは、クレイの言葉だったんだけど。 
「……でも、そんな場所にわたしを連れてきて……いいの?」 
「ああ、構わないよ」 
 わたしの言葉に、クレイは即座に頷いて言った。 
「パステルは特別だよ。なあ、トラップ?」 
 意味ありげに笑って、トラップに目をやる。 
 ?? 
 はて、どういう意味なんだろう? 
 視線の先のトラップは、「うっせえ」と小さくつぶやいてそっぽを向いていたけど。 
 その顔は、耳まで真っ赤だった。 
 変なの。 
  
 それから、わたし達は、日が暮れるまで泉のほとりに座っておしゃべりをしていた。 
 リタの作ってくれたお弁当はとっても美味しかったしね。やっぱり、誰かと一緒に食べる食事って美味しい。 
 わたしがそう言うと、「んじゃ、明日っから、俺の飯運んでくるとき、おめえの分ももらってこいよ」とトラップに言われた。 
「え?」 
「一人で食ったってうまくねえんだろ」 
 うん? まあそれはそうなんだけど。 
 わたしが首を傾げていると、クレイにそっと耳打ちされた。 
「明日から、一緒に食事しようって言われてるんだよ。あいつ照れ屋だから、素直に言えないんだ」 
 ……ああ、なるほど。 
 そりゃもちろん、トラップと一緒に食事できるのは嬉しいけど……別に、照れるようなことじゃないじゃない。 
 わたしがそう言うと、クレイは、「おい、これは大変だぞ。がんばれよ」と言いながらトラップの肩を叩いていた。 
 うーん? どういう意味なんだろう。 
 まあそんな感じで、気がついたらすっかり日が暮れていたんだけど。 
 トラップ達とおしゃべりするのは、すっごく楽しかった。二人とも、性格は元の世界の二人と全く同じだしね。クレイも、王子様だって言うのに「じゃあ、俺のこともクレイって呼んでいいよ」ってすごくにこにこしながら言ってくれたし。 
 もっとも、キットンに知られるとうるさいだろうから、みんなの前では様づけで呼んだ方がいいね、ってことだけど。 
「また、ここに来るときは一緒に誘ってくれる?」と聞くと、「ああ、もちろん」「駄目だったら今日だって誘わねえよ」と、二人ともすごく快く頷いてくれた。 
 うん。最初は変な世界にとばされて、どうなることかと思ってたけど。 
 慣れたら、こっちの世界でも、案外何とかなりそうかも? 
  
 そんな感じで、わたしは何だかあっという間にこっちの世界になじんでしまった。 
 相変わらずキットンは厳しかったしトラップは朝なかなか起きてくれなかったけど。 
 お城の人たちは基本的にみんな親切だったし、トラップもクレイも、たまにクレイと一緒におしゃべりするルーミィも、元の世界と全く同じ性格で全然気を使う必要がなかったしね。 
 元の世界に戻りたい、っていう気持ちは変わらないけど、こっちの世界でずっとやっていくことになったとしても、それはそれで何とかなるかも? なーんて思い始めていた。 
 そして、わたしがこっちの世界にやってきてから、一週間が過ぎた。 
  
 わたしの一日は、お城の廊下や部屋を掃除した後、トラップの部屋に行くことから始まる。 
 トラップとわたし、二人分の食事を用意して、トラップを四苦八苦しながら起こした後、二人でご飯を食べる。その後は色々。たまにはクレイと一緒にあの秘密基地に一緒に行ったり、ルーミィを交えて中庭でおしゃべりしたり、そうかと思えば部屋でトラップと二人だけでだらだらしゃべったり。 
 今日は、トラップの元に家庭教師が来るってことだったので、わたしは午前中は好きなことをしていていい、って言われた。 
 あのトラップに、家庭教師ねえ…… 
 何だかすっごく意外だったんだけど、王子たるもの、やっぱり色々勉強することも多いみたい。週に一回だけだけど、様々なことを教える先生が来るんだって。 
 そんなわけで、珍しく暇になったわたしは、どうしようかとしばらく迷ったんだけど。 
 思いついて、お城の中庭に行ってみることにした。 
 ここの中庭って、花がいっぱい咲いててすごく綺麗なんだよね。普段は通り過ぎるだけで長居している暇が無いんだけど、今日は自由にしてていいって言われたことだし。のんびりできるよね。 
 よーし、決めた! 
 リタに頼んで、水筒に暖かい紅茶とちょっとしたお茶菓子を用意してもらうと、わたしは中庭に出て行った。 
 うーん、気持ちいい!! 
 今日はすごくいい天気で、暑すぎず寒すぎず、風が爽やかな一日。絶好の散歩日和、ってとこかな? 
 花壇の間にあるベンチに座ってのんびりお茶をすすっていると、何だかとっても幸せな気分になれた。 
 ふー。結局、わたしがどうしてこの世界にとんできたのかわからないけど…… 
 何だか、本当にこっちの世界にこのままいてもいい、って気分になってきたなあ。 
 いやいや、帰りたくないわけではもちろん無いんだけど、何しろパーティーのみんなは全員ここにいるもんね。立場が全然違うけど、そんなこと気にしなくてもいいって言ってもらえたし。 
 別世界なのに……別世界って気がしないなあ…… 
 そう考えて、わたしがぼんやりと空を見上げていたときだった。 
「そこにいるのは……パステル?」 
「え?」 
 突然声をかけられて振り向く。立っていたのは、本を小脇に抱えたクレイだった。 
「やっぱり、パステル。どうしたの? こんなところで。トラップは?」 
「あ、うん。今日は家庭教師が来るから、午前中は好きにしてていいって言われたの」 
 わたしが答えると、クレイは「ああ、そうか」なんて言いながら、わたしの隣に腰掛けた。 
「クレイは、どうしたの?」 
「俺? 俺もここに本を読みに来たんだ。ここはのんびりできるからね。あの秘密基地の次に好きな場所なんだ」 
 そう言って優しく笑いながら、クレイが持っていた本を見せてくれる。 
 ……そういえば、こっちの世界に来て本なんか全然読む暇なかったなあ。 
 こっちでは、どんな本があるんだろう? 
「ねえ、クレイ。その本、ちょっと見せてもらっていい?」 
「あ? ああ、構わないけど」 
 クレイが渡してくれた本。幸いなことに、字は、わたしが読めるものだった。 
 何だか随分言い回しが古めかしいけど、意味は大体わかる。 
 ぱらぱらと読んでみたけど、内容も普通の小説みたいだった。ちょっと面白そうかも。 
「パステルは、本が好きなの?」 
「うん、好き。本を読んでると、時間を忘れちゃうくらい」 
「へーっ。よかったら、俺の部屋に来る? 好きな本を貸してあげるけど」 
「え、本当? いいの?」 
 うっ、嬉しいっ。 
 実は、ここでの生活はそれなりに楽しいけど、やっぱり、夜一人で寝るのだけは、慣れてないせいか寂しくってなかなか寝付けないんだよね。 
 おかげで最近寝不足。本でもあったらいいのになあって、よく思ってたんだ。 
 トラップの部屋だって本棚はあったんだけどねえ。まあ彼が読書にふけるような性格じゃないのは見ての通りで。その中は勉強のために使う参考書らしきもの以外何もなくてがらがらだったんだ。 
 クレイは快く頷いてくれて、わたしは午前中いっぱい、彼の部屋で過ごすことになった。 
  
「ありがとう、クレイ。いいの? こんなに貸してもらって」 
「ああ、どうせ俺は全部読んだしね。そろそろ昼食の時間だろ? もう行った方がいいよ」 
「うん!」 
 クレイの部屋で、わたしはたくさんの本を貸してもらって、かなり満足していた。 
 彼の部屋は、トラップの部屋と同じような作りなんだけど、トラップの部屋に比べると剣とか本とか、そういう趣味で使うようなものがたくさん置いてあった。 
 その部屋を見て、何となく思ったんだ。 
 トラップの部屋がちょっと寂しい感じがするのは、そういう余計なものが全然置いてないからじゃないかな、って。 
 考えてみると、トラップって、このお城でくつろいでるところをあんまり見たことがないんだよね。 
 彼がリラックスした顔を見せるのは、秘密基地に出かけたときや、クレイとルーミィ、わたしとしゃべってるときくらい。 
 それ以外の彼は、何だかすごく冷たい雰囲気。お城のみんなも不思議がってたもんね。「ステア様の世話なんて大変でしょう? あの方は無愛想な方だから」って。 
 無愛想、ねえ……何だかトラップにはすごく似つかわしくない言葉な気がするんだけど。 
 そんなことを考えながら、階段を上ろうとしたときだった。 
「おい」 
「きゃあ!?」 
 突然肩をつかまれて、持っていた本を落としてしまう。 
 もーっ、何なのよ一体。 
 振り向くと、そこに立っていたのはトラップ。心なしか、何だか不機嫌そう。 
「あ、トラップ。もう勉強は終わったの?」 
「ああ、まーな」 
「じゃあ、昼食もらってくるね。部屋で待っててくれる?」 
「ああ……」 
 トラップは何だか何か言いたそうな顔をしていたけど、わたしがそう言うと、黙って階段を上っていった。自分の部屋へ戻るんだろうな。 
 さてさて、昼食昼食っと。……それにしても。 
 トラップ、あんなところで何をしてたんだろう? 
  
 わたしが昼食を持っていくと、やっぱりトラップは既に部屋で待っていた。 
 けれど、何だかその顔は不機嫌そうだった。……どうしたんだろう? 
「はい、今日も美味しそうだよ。ねえ、午後はどうする?」 
「あー、そうだな……」 
 わたしはしゃべりながら食事をテーブルに並べていったんだけど、何だかトラップは上の空みたいで、何を言っても「ああ」とか「うん」とかそんなことしか言わない。 
 もー、どうしたんだろう? 
 そのうちしゃべるのを諦めて、もくもくと食事をすることにしたんだけど。 
「……あのさあ」 
 トラップが口を開いたのは、もうほとんど料理を食べ終わる頃だった。 
「ん? 何?」 
「いや……おめえ、午前中……」 
「うん?」 
 午前中? がどうしたんだろう? 
 珍しく歯切れの悪いトラップに首を傾げると、彼は、何だかすごく重たい口調で言った。 
「……おめえ、午前中はクレイと一緒にいたのか?」 
「え? うん、そうだよ」 
 それがどうしたんだろう? 
 何でそんなことを聞かれるのかわたしにはわからなかったんだけど、その答えに、トラップはますます不機嫌になったみたいだった。 
 ……? 
「……あに、してたんだ?」 
「うん。中庭にいたんだけど、そこで偶然クレイに会ってね。部屋に誘われたから、本を読みながらおしゃべりしてたの」 
 わたしがそう言うと、トラップの顔が強張った。 
 あれ? わたし、何かまずいこと言ったっけ……? 
「部屋って、クレイの部屋にか?」 
「え、そうだけど……」 
「二人だけで?」 
「う、うん」 
 わたしが答えるたび、トラップの声が段々剣呑になってくる。 
 い、一体どうしたっていうの……? トラップ、何だか怖い…… 
 わたしがちょっと身を引くと、それに気づいたのか、トラップがふと顔を上げた。 
 その顔には……今まで見たこともないくらい冷たい笑みが浮かんでいる。 
「おめえ、クレイが好きなんか?」 
「はあ??」 
 突然言われて、わたしはますますわけがわからなくなった。 
 ええ? 何でそんな結論が出るの? 
「な、何言ってるのよ突然」 
「いんや、別に。たださあ」 
 トラップの顔はすごく意地悪だった。いや、今までだって意地悪な顔はいくらでも見てきたけど、今の顔は、それまでのとは違って……何だか、「悪意」みたいなものが含まれていて。 
「やめといた方がいいんじゃねえ? クレイは王子様だぜ。それも王位をいずれ継ぐ第一王子。おめえみてえなただの侍女に、手の届く相手じゃねえって」 
「…………」 
 ただの、侍女。 
 ああ、そうだよね。この世界でのわたしの立場は、確かにそうなんだけど。 
 ……改めてそう言われると、何だか寂しい。トラップは、そんなこと気にしないでいてくれるって思ってたのに。 
「第一、あいつにはもう婚約者がいるからな。知ってるか? 隣の国のマリーナっつう姫なんだけどよ」 
 突然出てきた名前に、わたしは今度は別の意味でぽかんとしてしまう。 
 ま、マリーナ……そっか。こっちの世界でのマリーナは、隣の国のお姫様なんだ…… 
 会ってみたいなあ。トラップやクレイを見る限り、マリーナもきっと元の世界と同じ性格だと思うんだけど。 
 わたしがそんなことを考えていると、トラップは……ぼそっとつぶやいた。 
「マリーナはな、おめえと違って美人だわグラマーだわ頭はいいわで、逆立ちしたってかなう相手じゃねえよ。だから、やめといた方が無難じゃねえ?」 
 ……はあ? 
 そのあんまりと言えばあんまりな言い草に、思わず頭に血が上ってしまう。 
 た、確かにわたしはマリーナほど美人じゃないしグラマーでもないし頭だってそんなによくないけどっ……何でトラップにそんなこと言われなくちゃいけないのよ!! 
 あ、いやいや待てよ。もしかして。 
「ねえ、トラップ。もしかして、トラップもマリーナのこと好きとか?」 
「はあ?」 
 わたしの言葉に、今度はトラップがしばらくの間ぽかんとしていた。 
 いやいや、元の世界でも密かに思ってたんだよね。トラップはマリーナが好きなんじゃないかって。もしかしたら、こっちでも? 
 だけど、次のトラップの言葉は、全然別のことを指していた。 
「おめえ、マリーナのこと知ってんのか?」 
「え、いや、その……」 
 し、しまったあ。何回同じミスしたら気がすむのよ、わたしってば! 
「だ、だから、クレイに聞いたんだってば」 
「ふーん……」 
 クレイの名前を出した途端。トラップの表情に、また意地悪そうな色が戻ってきた。 
「クレイ、ね。おめえら、ちっと見てねえ間に随分仲良くなったんだな?」 
「へ、変な勘違いしないでよ!! わたしは別にクレイを好き、なんて思ってないったら」 
「ふーん。その割には、二人っきりで部屋に行ったりしたんだろ?」 
「だ、だからあ!」 
 絡むような言い方が、ますます気に障る。 
 もー、何でこんなことまでいちいち説明しなくちゃいけないわけ!? 
「本を貸してくれるって言うから行っただけだってば! わたし、最近あんまり眠れないから、時間を潰すのに読む本が欲しくて……本当にそれだけなんだって!」 
 わたしがそう言うと、トラップは一瞬虚をつかれたみたいだった。 
 その顔から、悪意みたいな感情が、段々と消えていく。 
「おめえ……眠れねえのか?」 
「……わたし、あんまり部屋で一人で寝ることってなかったから。あんな広い部屋で一人でいると、何だか寂しくって」 
 わたしがそう答えると、トラップの表情が、また変わった。 
 ただ、それはさっきみたいな意地悪そうな顔ではなく、悪意なんか全然含まれてなくて…… 
 どっちかと言えば、優しい、そして悲しい顔だった。 
  
 それから、トラップはあんまり口をきかなかったけど。 
 さっきみたいな不機嫌さはなくて、何か考え込んでいるみたいだった。 
 トラップがいい、って言ってくれたので、午後はずっと、彼の部屋でクレイに借りた本を読んでいたら一日が終わったんだけど。 
 それは、その夜のことだった。 
 後は寝るだけ、になって部屋に一人っきり。明日の朝も早いから早く寝なくちゃいけないのはわかってるんだけど、やっぱり、広くて冷たいベッドはすごく寝心地が悪い。 
 けど、今日は大丈夫だもんね! クレイに借りた本があるから。 
 トラップの部屋で途中まで読んだ本を取り出し、続きを読もうとしたときだった。 
 部屋に、突然ノックの音が響いた。 
 ……え? 
 窓の外は真っ暗。当然だよね、もう真夜中だもん。 
 こんな時間に、誰? 
「はい……誰?」 
「……俺だけど」 
 トラップ!? 
 外から聞こえたのは、トラップの声。 
 え、何? 何だろ、こんな時間に。 
 だって、いつもだったらとっくに寝てる時間なのに。 
「ちょっと、いいか?」 
「え? うん……どうぞ」 
 鍵を開けると、外に立っていたのはやっぱりトラップ。 
 いつも束ねている赤毛はほどかれていたけど、服は寝巻きじゃなくいつも着ているシャツとズボン。 
 ……寝てたんじゃ、なかったの? 
「どうしたの? こんな時間に」 
「あー、……まあ。その、だな」 
 わたしが聞くと、彼はきょろきょろとまわりを見回して言った。 
「ちっと話してえんだよ。それとも、寝るとこだったのか?」 
「え? う、ううん。違うけど……」 
 話したい? こんな夜中に? 
 わたしが首を傾げていると、トラップは、わたしのベッドにどかっと腰掛けた。 
 その目はすごく何か言いたそうなんだけど、でも、結局切り出せない、そんな雰囲気。 
「トラップ……何? どうしたの?」 
「……信じて、いいか?」 
「え??」 
 信じるって……何を? 
「おめえ、昼間……クレイのことは、別に好きじゃねえ、って言ってたよな……それ、信じてもいいのか?」 
 はあ? 
 信じるも何も……はっきりそう言ったじゃない。 
「そうだよ。確かにいい人だなあ、って思うけど……それだけ」 
「……じゃあ、な……」 
 わたしの言葉に、トラップは真っ赤になってつぶやいた。 
「…………って、いいか?」 
「え??」 
 声が小さくてよく聞き取れない。わたしが聞き返すと、トラップは、顔をあげて言った。 
「惚れた、って言っていいか、って聞いたんだよ!!」 
「はあ??」 
 言われた意味がわからなくて、わたしはしばらくぽかんとしていた。 
 ほ、ほれた……惚れた!? 
「ええっ!!?」 
 思わず後ずさってしまう。もっとも、すぐに壁にぶつかったけど。 
 ほ、惚れたって……トラップが、わたしにい!? 
 あ、ありえない。何でそんな展開に…… 
 いやいや、待て待て。あのトラップのことだもん。また冗談とかからかってるとか、そんな可能性も…… 
 そう考えてわたしは身構えてしまったんだけど。 
 トラップの顔は……真面目だった。 
 すごく真面目で、冗談なんて雰囲気は全然なくて……そして、かっこよかった。 
 どきん、と心臓がはねる。 
 トラップ。 
 こっちの世界に飛んできてから今までのことが、色々と頭の中を駆け巡る。 
 困ったときにさりげなく手を貸してくれたり、優しくしてくれたり、一人の食事が寂しい、と言うわたしに、一緒に食事をしようと誘ってくれたり。 
 そう言えば、こっちに来てから今まで、わたしが楽しく過ごせたのは……ほとんど、トラップのおかげだった。 
 嫌いじゃない。トラップのことは嫌いじゃない。むしろ…… 
 で、でも、でもでも! 
「だ、駄目だよ!!」 
「あ?」 
 わたしの答えに、トラップの表情が曇る。 
 ……違う。嫌いなんじゃない。そうじゃなくて…… 
「駄目だよ……昼間、トラップも言ってたじゃない。ただの侍女が、王子様なんか好きになっちゃいけないって」 
「…………」 
「トラップは……第二王子、でしょ? 駄目だよ。わたしは、ただの侍女で……」 
 そう言った瞬間。 
 トラップの腕が伸びたかと思うと……わたしは、彼に抱きすくめられていた。 
 見た目は細いのに、思ったよりたくましい身体。抱きすくめられて、心臓がはねるのを感じた。 
「と、トラップ……?」 
「……関係、ねえよ」 
 つぶやかれた声は、酷く自嘲的だった。 
「関係、ねえ。どうせ、俺は余計もんの王子だ」 
「……え?」 
「知らなかったのか? 誰も言わなかったか? ……俺は、王子っつっても……妾腹の王子だ」 
「え? しょう……」 
 妾腹……? つまり…… 
「クレイと俺は、半分しか血が繋がってねえ。親父が愛人に生ませた……いらねえ子供、っつうことだ」 
 トラップは、何でもないことのように言ったけれど。 
 その言葉は、酷く寂しげだった。 
「俺だけじゃねえ、ルーミィもだ。気づかなかったか? クレイも、俺も、ルーミィも……兄弟だっつーのに、全く似てねえだろ? 俺もルーミィも母親に似ちまったからな……」 
「トラップ……」 
 そう、言われてみれば……そう。 
 似てないよね。クレイは黒髪、トラップは赤毛、ルーミィはシルバーブロンド…… 
 そっか……だから…… 
「せめて俺が女だったら。女だったら王位を継ぐことはできねえから、ルーミィみてえに無邪気でいられたのに……男に生まれたから。クレイと王位継承権を争える存在だから、ガキの頃から余計なもんって扱いをされてきたよ。親父は無関心だし、お袋……クレイのお袋にしてみりゃあ、俺は裏切りの象徴みてえな存在だからな。何で引き取ったんだ、ってガキの頃に聞いたことがあるよ。そしたら、あいつは何つったと思う?」 
 トラップは、ひきつった笑いを浮かべて言った。 
「クレイに万が一のことが起きたとき、かわりが必要だろう? 親父は平然とそう言ったんだよ。城の連中もそうだ。みんな、俺のことを『王子』って扱ってるけど、腹の中じゃあ、クレイのおまけくれえにしか考えてねえ。誰も気を許さねえ。成人したらこんなとこ飛び出してやるって、ずっとそう思ってたんだけどよ……」 
 そう言って、トラップは、じっとわたしの顔を見つめた。 
「おめえだけだ。最初から、俺のことを『王子』って扱わなかったのは。あだ名で呼んでくれたのも、朝、起きるまで待っていてくれたのも、一緒に飯を食ってくれたのも……おめえだけだ。おめえが城に来てくれたから……俺の世話係りになってくれたから、俺は……初めて、『この城に来てよかった』って思えたんだ」 
「トラップ……で、でも……」 
 そ、そんなことないよ。だって、クレイとはあんなに仲が良さそうだったじゃない。ルーミィだって、あんなに懐いてたじゃない。 
 わたしがそう言うと、トラップは、寂しそうな表情を崩すことなく言った。 
「ああ、そうだな。ルーミィはまだガキだから何もわかってねえにしろ……クレイはいい奴だよ。俺のことを本当の弟として扱ってくれる。絶対に差別なんかしねえし、俺の陰口を叩いていた使用人を一喝してくれたこともある。『俺の弟にそんな口をきくことは許さない』っつってな。でもな……」 
 そう言って、彼は……うつむいた。 
「いい奴だから、辛いんだよ。あいつがすげえ嫌な奴だったら……憎めたのに。嫌いになれたら楽だったのに。クレイがいい奴だから、憎めねえから……余計に辛いんだよ。俺はおめえに何かあったときの代用品なんだぞって、わめいてやりてえ。だけど、それは言えねえんだ。言ったら、あいつはきっと、何も悪くねえのに自分を責めるだろうから」 
 わたしを抱きしめるトラップの腕が……震えていた。 
 トラップ。 
 わたし、わたしは…… 
「一人で飯食うのが寂しいって言われたとき、一人で寝るのが寂しいって言われたとき、嬉しかったんだよ。おめえは俺と同じことを思ってるって。俺もいつも思ってた。誰も気を許せねえこの城で、たった一人で飯を食うのが味気なくて、なかなか寝付けなくて……なあ、パステル」 
 ぎゅっ 
 トラップの腕に、力がこもる。 
 ちょっと苦しかったけど……決して、嫌じゃなかった。 
「パステル、俺は……おめえのことが好きだ。おめえのためなら、こんな王位なんか……すぐに捨ててやる。おめえさえいれば、何もいらねえんだ。身分なんか関係ねえ。俺と一緒に……生きて欲しいんだ」 
 まっすぐにわたしを見つめるトラップの視線を……わたしは、受け止めた。 
 トラップ。 
 わたし、わたしも…… 
 ゆっくりと塞がれる唇。 
 わたしは……拒否は、しなかった。 
  
 ゆっくりとベッドに押し倒される。 
 わたしにのしかかっているのは……とても真剣な顔をしたトラップ。 
 ベッドの上を、クレイに借りた本が滑って……床に落ちた。 
「……いい、のか?」 
「いいよ……」 
 最初にこの世界に来たとき、凄く不安だった。 
 身分に違いがあるんだって聞いて、とまどった。 
 その壁を取り払って、わたしに手を差し伸べてくれたのは……トラップ。 
 その手を、ずっとつかんでいたいと思ったから…… 
「好き、だから……」 
 つぶやいたとき。トラップの唇が、わたしの唇を塞いだ。 
 軽く触れるようなキスの後、ゆっくりと深いキス。 
 あたたかい舌が、わたしの上あごをくすぐるようにして侵入し……ゆっくりとからみあった。 
 キスしたのは二回目。一回目は、元の世界で、ギアって言うファイターが相手だった。 
 あのときは、あっという間でわけがわからなかったんだけど…… 
 知らなかった。本当に好きな相手とのキスって……こんなにも、気持ちのいいものだったんだね。 
 トラップとゆっくりと交わりあうような感覚。 
 唇が離れ、首筋に、胸元に、熱い吐息がかかる。 
 トラップの手が、わたしの寝巻きにかかり……ボタンを、一つ一つ外していった。 
「……あんまり、見ないで……」 
 トラップの視線を感じて、わたしはあわてて顔をそむけた。 
 部屋の明かりは消えていたけれど、窓からさしこむ月明かりで、十分に表情がわかったから。 
 そんなわたしを見て、トラップは小さく笑ったみたいだった。 
 唇が、わたしの胸を這い回る。 
「……ひゃんっ」 
 冷たい、と一瞬感じる。それは、すぐに暖かい感覚に変わった。 
 トラップの舌が、わたしの胸をゆっくりとつまみあげ、転がすようにして吸い上げる。 
 そのたびに、わたしの背中には……びくん、びくんとひきつるような感覚が走って…… 
 やだっ……何、これ…… 
 意外と大きな手が、わたしの頭を優しくなでる。そのまま、首筋を伝って、手が、背中へとまわった。 
 ……ぞくりっ 
 背筋をなでられたとき、悪寒に近い感覚が走りぬける。それは、決して不快な感触ではなかったけれど…… 
「やあっ……」 
「……綺麗、だな。おめえの身体は……」 
 わたしの顔を見て、トラップはにやり、と笑った。 
「もっと、よく見てえんだけど。服……全部脱がせていいか?」 
 ……意地悪っ。 
 わたしの答えを聞く前に、トラップの手は、既に服を完全に脱がせていた。 
 ぱさっという音がして、ベッドの下に寝巻きが落ちる。ついで、細い指が、器用にブラのホックを外していた。 
 パンティ一枚になって触れる空気は、少し……冷たかった。 
「……寒いんだけど」 
「わりいな……すぐに、あっためてやるよ」 
 言いながら、トラップもシャツを脱ぎ捨てる。 
 直に触れるトラップの身体は、とても……暖かかった。 
 しばらくものも言わずに、お互いの身体にしがみつく。 
 トラップの手が、少しずつ動くたび……わたしの身体は、とても暖かく、やがて熱くなっていった。 
 息が荒くなる。抑えようとしても、唇からは声が漏れる。 
 脚の間にトラップの身体が割り込んできた。その手が……唯一残った下着に触れる。 
「やあっ……」 
「…………」 
 下着が、するりと抜き取られた。 
 トラップの指が、ゆっくりと脚をなであげる。ふくらはぎ、太ももの内側。少し熱い…… 
 ぐっ 
 指が、わたしの中心部をさすった。 
「っ……や、あんっ……」 
 びりっ、というような、今まで感じたことのないような快感。 
 鼓動が早くなる。全身が火照る。何だろう、この感じ…… 
「と、トラップ……?」 
「……なるべく、痛くないようにしてやりてえけど……」 
 ぐじゅっ 
 ひゃんっ!! 
 指が、もぐった。わたしの中を、かきわけるようにして、奥へ、奥へともぐっていく。 
「俺も、初めてだから……よくわかんねーんだよ……許してくれよな」 
「とらっ……」 
 ぐいっ 
 トラップの腕が、わたしの太ももを強引に開かせた。 
 指が引き抜かれる。その瞬間。 
 わたしと彼は、一つになっていた。 
  
 ぐっ 
 貫かれた瞬間、痛みが走った。 
 それは、傷口を無理やり引き裂かれるような……強い痛み。 
 だけど…… 
「っ…………」 
 涙が浮かぶ。だけど、わたしは悲鳴をあげなかった。 
 トラップの背中にぎゅっとしがみつく。さらに奥へと、トラップ自身が侵入してくる。 
 痛い。けど、辛くはない。 
 それは、とても幸せな気持ちだった。とてもとても、幸せな……瞬間。 
 トラップの身体が動く。彼の荒い吐息が、わたしの耳元に触れる。 
 動きは段々早く、激しくなっていった。痛みは強くなり……そして、快感も強くなる。 
 ああ……何だろ、この感じ…… 
 トラップ…… 
 ぎゅっ、と彼の背中に爪を立てると、トラップは綺麗な顔をしかめて……そして微笑んだ。 
 少しの間、動きが止まる。彼の腕が、乱暴にわたしの上半身を起こす。 
 トラップの首にしがみつき力を抜くと、ひときわ奥深くにトラップが入っていくのがわかった。 
 そして。 
 トラップの腕が、強くわたしを抱きしめた瞬間……わたしの中で、何かが弾ける気配がした。 
  
 翌朝、わたしとトラップは一つのベッドで目覚めた。 
「……返事は?」 
 ぶっきらぼうにつぶやく彼に、わたしは笑顔で、「嫌だったら、一緒に寝ていない」と答えた。 
 こ、こういう関係になっても……改めて「好き」って言うのって、勇気がいるよね? 
 わたしの答えにトラップは不満そうだったけど、その唇に軽く触れるキスをすると、満面の笑みを浮かべてわたしを抱きしめた。 
 とても、幸せだった。 
 それから、わたし達の生活の何が変わったわけじゃないんだけど。 
 トラップは言った。 
「クレイが二十歳になったらな、王位を継ぐことになるんだとよ。そんときさ、おめえのこともはっきりさせる。親父は多分許さねえだろうしな」 
 クレイなら、絶対わかってくれるから。 
 そう言って笑ったトラップの顔は、今までのわだかまりを全部捨てた、すごく素敵な笑顔だった。 
 元の世界に戻れなくてもいい。ここにはみんながいる。もしかしたら、「元の世界」と思っていた世界こそが、夢だったのかもしれない。 
 そんな風にすら思っていたのに。 
 本当に幸せだったのに。ずっと、その幸せが続くと思ったのに。 
 それは、ある日突然、訪れた。 
  
 それは、わたしがこっちの世界に来てから、もうすぐ一ヶ月が過ぎる、という日だった。 
 わたしがトラップと部屋で話していると、廊下で物凄い音が響いてきた。 
「な、何だ?」 
 あまりにも凄い音に、トラップがさすがに顔を上げる。 
 そのときだった。 
 ばたんっ!! 
 ノックもなしに、突然ドアが開いて、キットンと……そして。 
 一ヶ月も城に住んでいながら、滅多に顔をあわせることもなかった、トラップの父親……現王、アンダーソン陛下が、そこに立っていた。 
 え? ええっ!!? 
 突然のことに、頭がパニックになる。 
 な、何で? 一ヶ月もここにいて、アンダーソン陛下がこの部屋に来ることなんて一度もなかったのに。 
 何で、突然…… 
「親父……」 
 それを見て、トラップは酷く冷めた表情を向けながら立ち上がった。 
 その声は、どこまでも冷たい。わたしにかける声とは、全然違う。 
「……久しぶりだな。突然、何の用だ?」 
「ステア。聞け」 
 トラップの言葉を全く無視して、アンダーソン陛下は、有無を言わせぬ口調で言った。 
「クレイが、死んだ」 
 ………… 
 ……え? 
 突然言われた言葉が理解できなくて、わたしとトラップはしばらくぽかんとしていた。 
 クレイ? クレイって……あの、クレイ……だよね? 
 し、死んだ……? 何、それ。どうして、突然…… 
「あに、言ってやがる」 
 トラップは、かさかさに乾いた声で言った。 
「年とってボケたんじゃねえの? あいつが死ぬわけ……」 
「中庭で、暗殺者に襲われた」 
 トラップの言葉なんか聞こうともせず、陛下は続けた。 
「城に直接侵入してくるとはな。我が王家を乗っ取ろうとする近隣の国が雇った者だとは思うが……残念なことに取り逃がしたため、詳細は不明だ。クレイは、毒を塗られた剣で斬られて、さっき息を引き取った」 
 ………… 
 何、それ……わけが、わからないよ。 
 クレイが……死ぬなんて。そんな、バカなこと……あるわけ…… 
 バンッ!! 
 そのとき。トラップが、机を叩いて陛下をにらんだ。 
 指が白くなるくらい、拳を握り締めて。その瞳には、酷く冷たい怒りが浮かんでいた。 
「……自分の息子が死んだ、ってーのに……顔色一つ変えねえとはさすがだな、親父。それで? 俺に何を言いに来たんだ」 
「バカなことを聞くな。お前もわかっているだろう」 
 陛下の口調はとても事務的だった。決まりきったことを告げるだけ、そんな口調。 
「クレイが死んだ今、第一王位継承者はお前だ、ステア。既に、マリーナ姫のもとに使者を送ってある。お前が、マリーナ姫と結婚して、アンダーソン王家を継ぐのだ、ステア」 
 ………… 
 え…………? 
 けっ……こん……? 
 トラップが……マリーナと、結婚……? 
「嘘……」 
 思わずつぶやく。そのとき、陛下は、わたしの存在に初めて気づいたように、こっちに視線を向けた。 
 嘘……何、この展開。 
 だって……どうしてクレイが死ぬの? あんなに元気だったのに。昨日まであんなに元気だったのに。 
 それで……トラップが結婚? どうして…… 
「どうして……嘘でしょ? 何で、そんなこと……」 
「何だ、この娘は」 
「す、ステア様の世話係で……パステル・G・キングです」 
 陛下の問いに、キットンがしどろもどろになりながら答える。 
「世話係? 随分躾の行き届いた世話係だな」 
「も、申し訳……」 
「ちげえよ」 
 謝りかけたキットンの言葉を遮ったのは、トラップの言葉。 
「ちげえよ。こいつは、こいつはなあ、俺の女だ。例え親父だろうとな、バカにすることは許さねえ!!」 
 トラップが、庇うようにわたしの前に立つ。だけど、陛下は顔色一つ変えなかった。 
「側室を持つことは王として恥じることではない」 
「そっ……」 
「準備をしておけ、ステア。お前ももう18。後二年で戴冠式だ。それまでに、学ぶこと、準備することはいくらでもあるからな。キットン、家庭教師の手配をしろ」 
「は、はいっ……」 
「待て、親父! てめえ勝手なことばっかりぬかしてんじゃねえよ!! ずっと……ずっと放ってきたくせして今更っ……」 
 トラップの言葉に、立ち去りかけた陛下は、ぴたりと足を止めた。 
 だけど、振り返ろうとすらしなかった。 
「今更何を言っている。わかっていたはずだろう? 自分がクレイの代わりだったということは」 
 ――――!! 
 それだけ言うと、陛下とキットンは部屋を出て行った。 
 トラップの顔は、ショックのためか……ひどく強張っている。 
「と、トラップ……」 
「…………」 
「トラップ、大丈夫? ねえ……」 
 わたしが彼の腕に手をかけると……トラップは、優しく、その手を振り払った。 
「わりい……一人に、してくれ……」 
「…………」 
 彼の言葉に、わたしは何も答えられなかった。 
  
 クレイが死んだ、ということを実感できたのは、その夜のことだった。 
 午後。トラップの部屋はかたく鍵がかけられていたので、仕方なくお城の掃除をしていたんだけど。 
 あっちでもこっちでも、すすり泣きの声が聞こえていた。 
 クレイは、トラップと違って、侍女達にもすごく優しかった。だから、城中の人に好かれていたんだよね。 
 クレイ、何で? 何で…… 
 夜、みんなが寝静まった時間に。 
 わたしは、ベッドで一人、泣いた。涙が溢れて止まらなかった。 
 初めて会ったとき、いきなり呼び捨てにされて面食らっていたクレイ。 
 わたしとトラップの会話を見て、本当に楽しそうに笑っていたクレイ。 
 本を貸して、と頼むたび、快く頷いてくれたクレイ。 
 わたしとトラップのことを知って……心から祝福してくれたクレイ。 
 もう、会えない。あの優しい笑顔も、胸に響くような言葉も、もう見れない、聞けない。 
 そう実感して、わたしが泣いていたときだった。 
 こんこん、と、ノックの音が響いた。 
 ……? 
 はっ、と顔をあげる。 
 まさか……トラップ? 
「トラップ?」 
 ばたん、とドアを開ける。 
 だけど、そこに立っていたのは……わたしが望んでいた人物ではなかった。 
「キットン……?」 
「パステル。……お話があるんですけれど、よろしいですか?」 
 とても思いつめた顔のキットンに、わたしは頷くしかなかった。 
  
「話って……何?」 
 キットンに椅子を勧めたけど、彼はそれを断った。そして、深々と頭を下げて言った。 
「初めに言っておきます。パステル、私はあなたに感謝しているんです。あなたが来てくれてから、ステア様は、とても明るい顔をされるようになったから。あなたが来る前のあの人は、誰にも心を許さず、いつも冷たい顔をしていらした。とても、感謝しているんです」 
「は、はあ……」 
 き、キットンからそんなことを言われるなんて……意外だなあ。 
 わたし、いつも怒られてばっかりだったのに。 
 そんなことをぼんやりと考えていると、キットンは続けて言った。 
「だから……とても心苦しいんですが……ですが、アンダーソン王家のためなのです。パステル……今日中に、ここを出て行ってもらえませんか?」 
「……え?」 
 突然の、キットンの言葉。何を言われたのか、しばらくわからない。 
 え、どういうこと……? 何、何で…… 
「本当なら……私も、あなたとステア様のことを、応援してあげたかったんです。ですが、事情が変わりました。ステア様には、どうしてもマリーナ様と結婚していただき、アンダーソン王家を継いでもらわねばならないのです。王家存続のために……」 
 キットンの言葉は弱々しいけれど。だけど、全然ためらいが無かった。 
 ああ、そうだね。キットンは、元の世界でもそうだった。 
 厳しいことでも、相手が傷つくことでも、それが事実ならはっきりと言える、ある意味、トラップと似ている人だったよね。 
「ですが、ステア様のことです。あなたがいる限り、決して……マリーナ様との婚姻を認めようとはしないでしょう。一介の侍女であるあなたを、王妃とするわけにはいかないのです……察して、もらえませんか? もちろん……相応のお礼は、します」 
 そう言ってキットンが取り出したのは、重たい、金貨が詰まっているらしい袋だった。 
 きっと、中には、わたしが今まで見たこともないような金額が詰まっているんだろうけど…… 
 トラップと、離れる? そんなこと…… 
 今更、そんなことっ…… 
 わたしがぼんやりとその袋を見下ろしていると、キットンは、おずおずとつぶやいた。 
「それに……これは、ステア様のためでもあるんです」 
「……え?」 
「あの方は……これまで、クレイ様の代用品として、王陛下初め周囲より冷遇されてきました。ですが……正式な第一王子となった暁には、きっと、皆の目も、変わるでしょう。やっと、表に立つことが許されたんです。ステア様のことを本気で考えてくれるのなら……どうか、きいてはもらえませんか?」 
「…………」 
「パステルも……ステア様のことが、好きなんでしょう?」 
 この問いにだけは、迷わず頷くことができた。 
 好きだよ。トラップのことが……どうしようもないくらい、好き。 
 だから……諦めなくちゃいけないの? トラップの幸せのために…… 
「どうか……お願いします」 
 床に手をついて頭を下げるキットンに、わたしは…… 
 頷くくしか、なかった。 
 わたしと結婚しても、トラップは幸せになれないから。 
 マリーナと結婚して、王家を継げば……もう、寂しい思いはしなくてもすむから。 
 わたしと結婚しても……王家の追及の手が、やむとは思えないから。もう、王位を継げるのはトラップしか残っていないんだから。 
 こそこそと逃げながら、隠れながら生活するより……堂々と、頭を上げて、暮らして欲しい。 
 これまで、ずっと光の差す場所を歩けなかったんだから。 
  
 その夜のうちに、わたしは大して無い荷物をまとめると、そっと城門を抜け出した。 
  
 夜の森は、とても暗かった。 
 明るいところでは、あんなに綺麗な森なのに…… 
 わたしは、そんな中、一人ぼっちで歩いていた。 
 これから、どうしよう? 
 ……元の世界に帰る方法もわからない。 
 城にも戻れない。 
 トラップの元にも、戻れない。 
 これから……どうしよう? 
 キットンからもらったお金は置いてきた。わたしは……トラップのことを考えて、城を出たんだから。キットンに頼まれて出たんじゃないんだから。 
 お金なんか、もらえる筋合いじゃない。 
 とぼとぼと歩き続ける。足が自然に向いたのは……よく、クレイやトラップに連れてきてもらった、秘密基地。 
 ……もう一度、あそこに行きたい。 
 涙が溢れる。わたしは、普段馬で行っていた道を、ひたすら歩き続けた。 
 途中で、道に迷ってしまって……どこを向いているのかわからなくなって、それでも歩き続けた。 
 絶対、たどり着ける。 
 もう一度、あそこに。トラップと、クレイとよくしゃべったあの泉に、もう一度行きたい。 
 それから、どれだけ歩き続けたんだろう? 
 気がついたら、東の空が、そろそろ明るくなるんじゃないか、っていう時間。 
 わたしは、泉のほとりに立っていた。 
 やっと……ついたっ…… 
 足ががくがくして、立っているのも辛かった。かなり遠回りしたもんね、多分。 
 でも、確かにあの泉だった。近くの小屋もそのまま、いつもと同じ光景。 
 トラップ達とよく座っていた場所に、そっと腰を下ろす。 
 ……綺麗、だな。 
 もう一度、トラップと、クレイと、ここに来たかった。 
 ずっと、一緒にいたかった。 
 ずっと、あのままでいたかったのにっ…… 
 一度は止まった涙が、再び溢れるのを感じた。 
 そのときだった。 
 じゃりっ…… 
 背後から響くのは、微かな足音。 
「おめえ……遅えよ……一体どんだけ迷ってやがったんだ……」 
 ……え? 
 聞こえてきたのは、とても懐かしい……そして、愛しい声。 
 え? でも、まさか。 
 まさか、彼が、ここにいるわけが…… 
 振り向く。そこに立っていたのは…… 
 長めの赤毛を束ねて、黒い簡素な服に深緑のマントがとてもよく似合う……いつも、わたしの傍にいてくれた人。 
「トラップ……」 
「おめえの考えることなんてな、お見通しだっつーの」 
 ゆっくりと近づくトラップ。そして。 
 その瞬間、わたしは……彼の腕の中にいた。 
「リタに聞いたんだよ。キットンが、おめえを追い出そうとしてる、ってな……奴の考えそうなこった。人のこと考えてるつもりで、どっかずれてんだよな、あいつは」 
「トラップ……」 
「バカか、おめえは!!」 
 耳元で炸裂する怒鳴り声。 
 思わず首をすくめる。その声は、今まで聞いたどんな声よりも怖かった。 
「バカか……俺のため? おめえ、バカじゃねえの? おめえがいない人生なんて……おめえを失わなきゃ継げねえ王家なんざ、何の魅力も、あるもんか」 
「トラップ……」 
「俺の、俺の幸せはなあ、おめえと一緒に生きることなんだよ。貧乏したっていい。逃げ回る生活になったっていい。おめえと一緒なら、それで満足なんだよ!! 何……つまんねえこと、考えてんだ……」 
「とらっ……」 
「……好きだ」 
 ぎゅっ 
 トラップの腕に、力がこもる。 
「好きだ。もう離さねえ。おめえ以外何もいらねえ。俺と一緒にいてくれ。それだけでいいんだ……」 
「トラップ!!」 
 わたしも、好き。 
 トラップのことが、好き! 
 そう、叫ぼうとした瞬間だった。 
 足音も、何の気配もなく。 
 トラップの背後に、闇と同じ色の服を着た、覆面をつけた人が……たたずんでいた。 
 本当に、何の前触れもなく。 
 わたしの身体に、酷く冷たい感覚が走った。 
  
 ごぼりっ 
 口元から、血がこぼれる。 
 わたしを抱きしめたまま……トラップの目が、大きく見開かれた。 
 彼の肩越しに。わたしは見ていた。 
 覆面をつけた闇色の人が、何のためらいもなく、トラップの背中に、剣を突き刺したのを。 
 その剣は、トラップの身体を貫いて……そして、同時にわたしの身体も貫いたことを。 
 痛い、とは感じなかった。ただ、ひどく冷たくて……熱い感触。 
 トラップの口元からも、一筋、血があふれてくる。だけど……彼は、腕の力を、ゆるめようとはしなかった。 
 そんなわたし達を、闇色の人は、ひどく冷徹な口調でつぶやいた。 
「アンダーソン王家第二王子、ステア殿とお見受けする」 
 その声は……何だか、聞き覚えがあるようだけど……もう、誰なのか、って考えることもできなかった。 
「貴殿に恨みは無いが、これも我が主の命令故……アンダーソン王家滅亡のため、死んでもらう」 
 それだけ言うと、闇色の人は、ふっと姿を消した。 
 ……ああ、そうか。 
 彼が……クレイを殺した…… 
 トラップの顔を見た。 
 彼の顔からは、ひどく血の気が引いていて……わかった。 
 もう、助からない。トラップも、わたしも、もう助からないって。 
「とらっぷ……」 
 最後の力を振り絞って、声を出す。 
 伝えなくちゃ、トラップに。わたしの、気持ち…… 
 トラップは、そんなわたしを、ひどく優しい目で見つめて……つぶやいた。 
「パステル。……俺は、信じてるからな」 
「……え……」 
「ここで、死んでも……生まれ変わったら、また、パステルに、会うかんな。また、おめえのこと……好きに、なるからな」 
「トラップ……」 
「次に、会うときは……こんな、関係じゃなくて。王子と、侍女じゃなくて……対等な立場で、生まれてえな。んで、堂々と……おめえに、好きだって……言う、からな」 
 トラップ。 
 そうだね。そうなりたい。 
 例え死んでも、生まれ変わって、またあなたに会いたい。 
 そのときは、お互い何の遠慮もなく好きって言える、対等な関係で生まれたい。 
 身分違いの恋は、辛すぎるから…… 
「好き、だよ。トラップ……」 
「……俺、もだ」 
 トラップの唇が、ゆっくりとわたしの唇をふさいだ。 
 そして。 
 段々目の前が真っ暗になり。力が入らなくなり…… 
 わたしは、そのまま意識を失った。 
  
 ……ル…… 
 ん…… 
 ――ステル…… 
 誰…… 
「おい、パステル!!」 
「きゃあっ!!」 
 耳元で炸裂した声に、わたしは慌てて飛び起きた。 
 ……あれ? な、何? 
 わたし……刺されて、あれ? あれ? 
 目の前に立っていたのは、トラップ。 
 さらさらの赤毛も、細い身体も、全く変わらない。 
 ただし、服装は……いつものオレンジ色のジャケットに、緑のズボン。 
 あれ? 
「ああ、目が覚めましたか?」 
 バタン、とドアが開いて入ってきたのは、キットン。その後に…… 
「く、クレイ!?」 
「な、何だ?」 
 当たり前のように部屋に入ってきたクレイに、わたしは思わず叫び声をあげた。 
 え? え? クレイは、死んだんじゃ……あれ、もしかして。 
 部屋を見回す。そこは、見慣れているはずなのに、何だかとても懐かしい、みすず旅館の…… 
「わたしっ……戻って……」 
「おい、パステル……どーした? ついにおかしくなったんか?」 
 トラップがくるくると頭の上で指をまわしているけど、そんなこと気にかけてる暇もなかった。 
 ど、どういうことなの? あれは……夢? 
 でも、夢にしては…… 
「戻って、ということは……」 
 わたしの言葉に、キットンがきらりと目を輝かせる。 
「パステル、もしかしてあなた、今まで別の世界にいませんでしたか?」 
「はあ?」 
 キットンの言葉に、トラップが間の抜けた声をあげる。 
 ……今まで、別の…… 
 その瞬間、わたしはキットンの首を締め上げていた。 
「キットン! 一体、一体どういうことなの!?」 
「ぐっ……ぐ、ぐるじい……です……」 
「ぱ、パステル、落ち着いて。丸一日ずっと寝てたんだから、あまり無理しないほうが」 
 慌てて声をかけるクレイ。その言葉に、わたしは思わずキットンの首を離してしまう。 
 丸……一日……? 
 だって、わたし……一ヶ月は、あの世界に…… 
 ねえ、どういうこと、なの……? 
「キットン……」 
「ええと、あのですね。昨日、パステルに渡したジュースなんですけどね。あれは、わたしが作った薬なんですよ」 
「……薬?」 
 えと……どういうこと? 
「あのですねえ、画期的な薬なんですよ? 皆さんは、前世、って信じますか?」 
 キットンの言葉に、トラップやクレイ達は顔面にいっぱい?マークを浮かべていたけど。 
 わたしには、わかった。キットンの言いたいことが、何となく。 
「前世……って、あれか? 自分が生まれる前に歩んでいた人生、っていうあれか?」 
「そうですそうです。わたしの薬はですねえ、その前世に歩んでいた人生の、最後の一ヶ月を一日で体験できる、という画期的な薬なのです!!」 
 ………… 
 え、それって…… 
 それじゃあ、あれは。わたしの、あの体験は……? 
「あなた、多分体感時間で一ヶ月ばかり別世界にいたんじゃないですかね? それはですね、あなたの前世なんですよ。そして亡くなることによってこの世界に戻ってきた、とまあそういうことです」 
 それだけ言ってキットンはぎゃっはっは、と大笑いしたんだけど。 
 みんなは、しーんと静まり返っていた。 
 だって……趣味が悪いと思わない? 
 一ヶ月も別世界……前世? の生涯を経験して、っていうのはともかく。自分の死の瞬間まで体験するんだよ? それって、あまりにも…… 
 でも…… 
「で、パステル。どうでした? あなたの前世は、どんな人生だったんですか?」 
 キットンの言葉に……改めてよみがえる、あの記憶。 
 あの一ヶ月間の……とっても素敵で、幸せだった記憶。 
「けっ、死ぬ間際の一ヶ月だろ? どーせよぼよぼのばばあで一ヶ月過ごして、最後は老衰でぽっくり、ってとこじゃねえの? んな人生歩んで何がおもしれえんだよ」 
 そう言ったのは、トラップだけど…… 
「げっ、おめえ、何泣いてんだよ!!」 
 ぼろぼろと涙をこぼすわたしに、トラップが思いっきりうろたえた声を出す。 
 最後の言葉。 
 今度生まれ変わったら、気兼ねなく好きだって言える対等な関係に生まれたい。 
 生まれ変わっても、絶対まためぐりあって、パステルに好きだって言うから。 
 トラップ。ありがとう、約束を守ってくれて。 
「トラップ……」 
「な、何だよ!? 俺が何したってんだ!?」 
 慌てて身をひこうとするトラップに、ぎゅっとしがみつく。 
 ありがとう。わたし、あなたに会えて……よかった。 
「トラップ。好き」 
「は?」 
 わたしの言葉に、トラップの目が点になる。 
 クレイやキットンも完全に固まっていたんだけど……やがて、顔を見合わせて、そそくさと外に出て行った。 
 ばたん、とドアが閉じて、部屋にはわたしとトラップだけが残される。 
 トラップは、しばらく茫然とわたしを見つめていたけど……やがて、そっとわたしの背中に手をまわした。 
「……何があったんだ、おめえ?」 
「何も、無いよ……」 
「嘘つけ。何で、突然……」 
「言いたかったから。いつ、どうなるかわからないから。言えるときに言っておきたいから。だから、言わせて」 
 わたしは、トラップの顔をじっと見つめて言った。 
「あなたのことが、好き。トラップのことが……一番、好き」 
「…………」 
 トラップの腕に、ぎゅっと力がこもる。 
「まさか、おめえに先に言われるとはな……」 
「……返事、は?」 
「ばあか、態度でわかれ……好きだ。ずっと前から……おめえのことが、好きだ」 
 ゆっくりと、トラップの唇が、わたしの唇を塞ぐ。 
 幸せになるよ、今度こそ。 
 あなたに会えて、本当に、よかった。

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