「あっちい。何か飲むものくれ」 
 バイト帰り、そうつぶやいた俺に飲み物を差し出したのがキットンだったという事実を、もう少し深く考えるべきだった。 
 お人よしのクレイやノルやパステルならともかく、この、興味の無いことに関してはとことん無関心を貫くキットンが、名指しで呼びかけたわけでもない言葉に反応したこと自体がそもそもおかしい。 
 だが、そのときの俺はんな細かいことを考えているような余裕も全くなく、とにかくそれくらい喉が渇いていた。 
 差し出されたのは、オレンジ色の液体。そう、見た目はそれこそオレンジジュースそのものだった。 
 だから、特に疑いもなく、「さんきゅ」などとお礼まで言いながら一気飲みをした。 
 飲んだ後で、それがオレンジジュースなんかじゃないことに気づいたが、別にまずくはなかった。 
「何だこれ?」 
 尋ねた俺に、奴は「新発売のジュースです」と、いつもの含み笑いをしながら言った。 
 ぜってー怪しい。何か企んでんだろ? 
 そう問い詰めようとしたとき、急激に襲ってきた眠気。 
 ちきしょう、何飲ませやがった…… 
 起きたら、覚えてやがれ…… 
 耐え難い眠気に、たまらずベッドに倒れこむ。 
 そのまま、俺は心地よい睡魔に身を委ねて…… 
  
 ふかふかと全身を包み込む感覚に、俺はぼんやりを目を開けた。 
 まだ眠気が取れねえ。普段なら、ここでもう一眠りしようとして、クレイやパステルにどやされるところだ。 
 ところが…… 
 口では説明しにくい違和感。何だか、慣れねえところで寝ているような、居心地の悪い感覚。 
 何だあ……? 
 ばっと目を開く。その瞬間、眠気は完璧に吹き飛んでいた。 
 な、な、な…… 
 バカみてえに口をぱくぱくさせて、周囲を見渡す。 
 俺は、とんでもなく豪華なベッドで寝ていた。 
 その広さときたら、多分俺とクレイとノルとキットン、四人まとめて寝てもまだ余裕があるんじゃないか、という大きさ。しかも、見上げれば天蓋、などという生涯で初めて目にする代物までついていた。 
 慌てて飛び起きる。部屋の中を見回すと…… 
 そこはまたベッドに似つかわしい、えらく豪華な部屋だった。 
 広さはみすず旅館がそのまますっぽり収まりそうな大きさ。でっかい机やら椅子やらソファやら本棚やら、家具の一つ一つがいちいち一財産になりそうなそんな部屋。 
 きっぱりと言うが、こんな部屋に見覚えはねえ。 
 ……何がどうなってんだ? 
 何となく嫌な予感がして、部屋にあった鏡を覗き込む。 
 ……いつもの俺だな。うん。顔はいつもの俺だ。 
 鏡にうつったのは、見慣れた自分の顔。ただし、服装が違った。 
 着ていたのは寝巻きと思しき服。だが、それも肌触りから察するに、多分超高級な絹が使われている。 
 デザインも、シンプルな白で……ありていに言えば俺の好みからは外れていた。 
 な、何がどうなってんだー!? 
 慌ててもう一度部屋を見回す。そこで気づいたが、ベッド脇の椅子に、服がたたまれてあった。 
 広げてみると、簡素なデザインの、しかしかなり高級品の、こんなもん着るのは貴族しかいねえ、というような服。色は黒一色。そしてマント。こっちは深緑。 
 まさかとは思うが……これに着替えろ、ということか? 
 俺の趣味じゃねえ、が…… 
 部屋の中にはタンスのようなものは見当たらねえ。どうやら、寝巻きを除けばこれしか無いらしい。 
 しゃあねえ。 
 渋々その服に袖を通す。あつらえたかのように、サイズはぴったりだった。着心地も最高で、締め付けるようなデザインなのに動きにくいところが全く無い。 
 ……さて。一体この状況、どうなってやがる? 
 ここはシルバーリーブ……じゃねえよなあ。こんな豪華な部屋がある家なんて、あのちっぽけな村にあるわけがねえ。 
 俺は寝る前何をした? 
 キットンが差し出したジュースを飲んで……急に眠たくなって…… 
 ……キットンの奴。さてはあのジュース……だか何だかに、変な薬しこみやがったか!? 
 即座に怒鳴りつけてやりたいところだが、残念ながら部屋の中には俺一人きり。 
 問い詰めるのは、まず状況を把握してからだな…… 
 ゆっくりと部屋を観察することにする。窓があったので外を覗いてみると、外に広がるのは深い森。 
 ズールの森じゃねえな。モンスターの気配が全くねえ。 
 窓から身を乗り出して確認する。建物の外装から察するに……ここは、城か? 
 外装は、城だった。かなり典型的な城。 
 俺がいた部屋は、三階にあるらしい。 
 うーん。見覚えのねえ光景だな。ロンザじゃねえ。リーザでもねえ? キスキン……? 
 俺が頭を抱えていると。 
 とんとん 
 突然、扉がノックされた。 
 思わず振り返る。そ、そうだな。城ってこたあ、まさか俺一人なんてことはねえよな? 他にも誰かいるはずだ。 
 とにかく、そいつに話を聞いて…… 
「ステア様。起きておられますか?」 
 外から響いた声に、俺は目が点になった。 
 ステア。その名前で呼ばれたのは、多分軽く14〜5年振り、というところか。 
 じっちゃんの名前を引き継いだものの、誘拐だの何だのの危険を交わすために、いつの間にか本名より慣れ親しんだトラップというあだ名。 
 いつの間にか、それが本名なんじゃねえかと誤解しそうになる、それくらい長い時間。 
「ステア様?」 
 俺の返事が無いのに戸惑ったのか、ノックの音が大きくなる。何だか、その声には聞き覚えがあるようだが…… 
「あ、ああ。起きてるぞ」 
 俺が答えると、「失礼します」という声とともに、扉が開く。 
 そこから入ってきたのは…… 
「……リタ!?」 
「はい?」 
 俺の言葉に、入ってきた女は、いぶかしげに顔をあげた。 
 間違いねえ。その女は、いつも行っている猪鹿亭のウェイトレス、リタだった。 
 ただ、いつもはロングスカートにエプロンという格好をしている彼女が、今はコックのような白い制服を着ていて…… 
「リタ……だよな?」 
「はい。ステア様、どうかされましたか?」 
「いや……」 
 待て、俺。落ち着け。何だか混乱してきたぞ。 
 リタ、と呼ばれてこの女は返事をした。つまり名前はリタでいいんだろう。 
 だが、俺が知っているリタは、俺に対してこんな丁寧な喋り方なんざ絶対にしねえ。名前だって「トラップ」と完全に呼び捨てだ。 
 そもそも、リタに俺の本名を教えたことなんざ、あったか……? 
 とにかく、この状況は普通じゃねえ。余計なことはしゃべらねえ方がいい、よな。多分。 
「いや、何でもねえ……何か用か?」 
「朝食のお皿を下げに参りました」 
「朝食?」 
 ってこたあ、今、朝か? 
 俺が首を傾げていると、リタの視線がベッド脇あたりに注がれた。 
 そこで初めて気づいたが、そこには大きな台車が置いてあった。上には、蓋を被せられた皿が並んでいて…… 
 ……あれが朝食かよ。あまりにも見慣れねえもんだから飯だと思わなかったぞ? 
「まだお召しあがりになっておられませんか」 
「あ、ああ。今起きたばっかだからな、うん」 
 そう言うと、リタは深々と頭を下げた。 
「ご不自由おかけします。本日新しい世話係りが来ることになっておりますので、今しばらくご辛抱下さい」 
「はあ?」 
「朝食の皿は、後ほど下げに参りますので」 
「あ、ああ」 
「では、わたくしは昼食の準備がございますので、失礼させていただきます」 
「ああ……」 
 俺がぽかんとしている間に、リタは丁寧に頭を下げて外に出て行った。 
 ……わけがわかんねえ。 
 リタのあの態度もわかんねえし、ステア「様」と呼ばれてあんな丁重な扱いを受ける理由もわかんねえ。世話係り? 世話係りっつーのはあれか。王様とか王子様とやらにつく、専属の召使みてえなもんか? 
 ……何で俺にそんなもんがつくんだ? 
 わかんねえことだらけで、首をかしげるしかねえ俺だったが。 
 ぐーっ、と不満の声をあげる腹に、台車の方へ視線を向けた。 
 ……とりあえず。飯食ってから考えよう。 
  
 飯は、冷めきってはいたがうまかった。味はな。 
 けど、なーんか食った気がしねえ。こんな静かに飯を食うことなんざまずねえからな。いつもうるせえあいつらの顔が、何だかすげえ懐かしく感じる。 
 皿を空にした後、考える。さて、一体どうなってやがる? 
 何しろ原因がキットンだからな。奴のこった。どんなわけのわからん薬を開発しても不思議じゃねえ。 
 俺の名前が「ステア」。リタは「リタ」。 
 名前はどうやら同じ。顔も同じ。ただ、服装、態度、部屋の様子から見るに…… 
 あまり想像できないが、どうやら、俺は相当に高い身分に位置しているらしい。 
 リタは……何なんだろうな。料理長か? とにかく、ここが城ってことを考えると、下働きみてえなもんなんだろうな。 
 名前も顔も、後俺の言葉遣いなんかに違和感を感じてねえところを見ると、性格すらも全く同じで、違うのは立場や身分。 
 ……まさか、なあ。そんな下手な小説みてえなこと、と思うが…… 
 まさか、これはパラレルワールドという奴なのか?? 
 小一時間近くあーでもないこーでもないと考えた挙句、出た結論は、普段の俺なら絶対に一笑に付すようなそんな馬鹿馬鹿しい考え。 
 だが……いくら超現実主義者の俺だろうと、現実がこうなってる以上……認めざるをえねえよなあ。 
 まさか、俺をからかうためだけに、こんな壮大なことするわけねえしな。 
 よし。 
 ぽん、と膝を叩いて立ち上がる。 
 そうなったら、やることは一つだ。 
 とっとと元の世界に帰る。それしかねえ。 
 もしすぐには帰れねえようだったら……ぞっとしねえ考えだが、もしこの世界にいるしかねえ、となったら。 
 そのためにも、情報収集は必要だ。 
 部屋の扉を開くと、長い廊下といくつものドアが見えた。 
 手当たり次第に侵入してやりてえところだが、中に人がいたら不審がられるだろうな…… 
 とにかく、誰か捜そう。リタがいたってこたあ、きっといるに違いねえ。 
 パステル、クレイ、キットン、ノル、ルーミィ。俺がパーティーを組んでいる仲間が。 
 そいつらを探し出して、何とか話を聞くしかねえ。 
 そう決心すると、俺は廊下に出た。 
  
 歩いていると、すれ違う奴が皆一斉に頭を下げやがる。 
 慣れない雰囲気に背中がむずがゆくなるような感覚を覚える。 
 顔くらいは見覚えのある連中。どいつもこいつも、俺が通りかかった瞬間、一斉にばっと頭を下げて「ステア様、おはようございます」と来たもんだ。 
 まあ、正直ちっとばかりいい気分がしなくもねえ。こんな風に丁重に扱われたのは生まれて初めてだからな。 
 だが…… 
 何だかなあ。薄っぺらいんだよ。心がこもってねえというか、儀礼的というか……まあ、下働きの主人に対する本音なんて、そんなもんかもしれねえけどな。 
 誰かを捕まえて話を聞きてえところだが、どいつもこいつも俺と目を合わせようともしねえし。挨拶だけすると、そそくさと離れて行く。 
 ……こっちの世界の俺。何か知らんが嫌われてるみてえだぞ? 何したんだよ、ったく。 
 そうしてうろうろと城を歩き回っているときだった。 
 すげえ耳慣れた声が、どこかから響いてきた。 
「……新入り侍女としてまず覚えていただくことは……」 
 耳を済ませる。その声は、ちょうど俺の斜め前の扉の中から聞こえてくるようだった。 
 しかも…… 
 この、やけに大きな声。喉に引っかかるようなダミ声とでも言えばいいのか。 
 間違いねえ。この声……キットン? 
 全ての原因の声を聞いて、一瞬怒りが再燃しそうになったが。 
 待て待て、焦るな。それはあくまでも元の世界のキットンであって、こっちの世界のキットンには何の関係もねえ。というかキットンで合ってるのかどうか。 
 好奇心にかられて、扉に耳を当てる。気配を探ると、どうも人は4〜5人いるらしいが、聞こえてくるのはキットンの声だけだ。 
 まさか……キットンがいる、ってこたあ…… 
 バタン、とドアを開ける。すると、中にいた連中が、一斉に振り返った。 
 やっぱりか。そこに並んでいたのは、すげえ見慣れた連中だった。 
 俺よりも絢爛豪華な、だが容姿にとんでもなく似合っている服を身につけたクレイ。フリルがやたらたくさんついたドレスを着たルーミィ。 
 その後方に、全身を鎧で包んだノル。前方に……おい、これは何の冗談だ? 恐ろしく似合ってねえ燕尾服姿のキットン。 
 そして。 
 俺に唯一後姿を向けているのは、蜂蜜色の長い髪を後ろでまとめた女。紺のワンピースに白いエプロンと、城ですれ違った女どもと同じ服装をしていて、何故かキットンに必死で頭を下げている。 
 こいつは、パステル……だよな。いや、ちょっと待て。何だか見事に服装にばらつきがあるな。もしかして、こっちの世界の俺達は、そんなに身分に差があるのか? 
「ステア様。丁度いいところに」 
 キットンが、深々と頭を下げて言った。 
 ……どうでもいいが、キットンなんぞに「ステア様」と言われるとどうしようもなくバカにされてるように感じるのは何故だろう。 
 俺が不愉快そうな顔を見せたことに、キットンはやや慌てた様子で頭を下げた。 
「し、失礼しました。ええと、紹介します。新しく城に勤めることになった……」 
「ぱ、パステル・G・キングと言います。よろしくお願いします!!」 
 キットンの言葉に、パステルは、ばっと振り向いて頭を下げた。 
 ……おいおい。 
 まさか、とは思ったが。本当に……下働きかよ、パステルが? 
 いや、それを言うなら、キットンの奴もどうやら身分的には俺より下らしいな。クレイとルーミィは……格好から察するに、俺と同等、もしかしたら奴らの方が高いか? 
 人間関係が把握できねえってのは辛いな。誰かに説明してもらいてえ。 
 と、そこで俺の頭にナイスアイディアが浮かぶ。 
 新しく城に……ってこたあ、パステルはここに来たばっかりなんだな? 
 俺に紹介した、ってこたあ、こっちの世界ではこれが俺とパステルの初対面になるんだな? 
 よし。 
「キットン」 
「はい!」 
 呼びかけると、即座に返事が返ってきた。リタやパステルで想像がついたが、やっぱり名前は元の世界と同じらしいな。 
「やけに田舎くせえ女だな」 
「はあ?」 
「なっ……!!」 
 俺の言葉に、キットンはぽかんとして、パステルは真っ赤になった。 
 ……何つーか、いちいち反応が元世界のパステルと同じ、というところが、性格を表してるよな。 
 賭けてもいい。こいつら、立場や身分は違えど、根本的な性格は変わってねえ。 
「ステア様?」 
「いや、きっとこんな場所に来たのは初めてだろうから、ちゃんと俺達のこと説明してやった方がいいんじゃねえかと思って」 
「し、し、しっつれいな!!」 
 キットンが何か言うより早く、パステルがずかずかと俺の方に歩み寄ってきた。 
 後ろでノルとキットンが慌てふためいているが、それには気づいてねえらしい。 
「わ、わたしだって、城に勤めるって決まったとき、ちゃんと勉強したもん!」 
「ほー、じゃあ答えてみな。俺は誰だ?」 
「第二王子ステア様でしょ!? バカにしないで!」 
 ………… 
 パステルの返事に、俺はかなりの間呆けてしまった。 
 だ、第二王子!? 
 身分が高い、とは思ってたが、せいぜい貴族……と思っていたのに。王族かよ!? 
 だが、俺のその様子を、パステルは誤解したようだった。 
「え、え、間違えた!? あ、もしかして、第一王子クレイ様でした!? し、失礼……」 
「くっ……ははははは!!」 
 突然響いたのは、それまでずっと黙って事の成り行きを見ていたクレイ。 
「あ、あんまりからかうなよ。違う違うパステル。それで合ってるよ。俺がクレイで、そいつが俺の弟のステア、ついでにこの子が妹の……」 
「ルーミィだおう! よろしく、ぱーるぅ!」 
 ルーミィを抱き上げるクレイに、パステルが真っ赤になってぺこぺこ頭を下げている。 
 それはともかく。 
 ちょっと待て。何だ、その設定は。 
 何でもありなパラレルワールドとは言え、あまりにも無茶苦茶だろ!? 俺とクレイとルーミィが兄弟妹!? 
 頭痛くなってきた……何なんだよ、この状況は…… 
 俺が一人状況についていけず頭を抱えているときだった。 
 必死に頭を下げていたパステルが、くるっと俺の方を振り向いた。そして…… 
「か、からかったのね!? ひどい!!」 
 とわめいた。どうやら、俺がわざと意地悪をした、と思いこんでいるらしい。 
 いやちげえよ。俺にだってわけがわかってねえんだよ、と言ってやりてえところだが。 
 しかし何と説明すればいいのやら。こんなこと、逆の立場だったら、俺は絶対信じねえだろうしな。 
 それに…… 
 本っ当に元のパステル、まんまだな。怒ったら真っ赤になるところ、状況が見えなくなるところなんかそっくりじゃねえか。 
 そんなパステルを見ていると、むくむくと悪い癖が出てきて…… 
「俺は何も言ってねえぜ? おめえが勝手に勘違いしただけだろうが」 
「なっ……」 
「あんまかっかするとしわが増えるぜ。元々大した顔じゃねえのに年くったら泣くことになんぞ」 
「なっ、なっ、なっ、何よ!!」 
 ぶん! とパステルの手がうなる。 
 あー、俺の悪い癖だよな。どーも、こいつの反応が面白れえもんだから、からかっちまう。 
 ま、こいつ程度に殴られる程、俺は鈍くねえがな。 
 その手が頬にぶちあたる寸前で捕まえてやろうと、俺は身構えた。 
 が。 
「な、な、何てことをするんですか!!」 
 がしっ!! 
 そんなパステルに、血相を変えたノルとキットンが後ろから羽交い絞めにした。 
「あなた、仮にも第二王位継承者に向かって何てことを!!」 
「だ、だって……」 
「だってじゃありません! 全く。いくら何でも、あなたの態度は侍女として問題がありすぎます! すぐに出ていってもらいましょう!!」 
「ええ!?」 
 キットンの言葉に、パステルが真っ青になった。 
 いや、待て。ちょっと待て。それは……さすがにまずいだろ。 
 どう考えても悪いのは俺じゃねえか。なのに何でパステルが追い出されるんだ? 
 ちら、と目をやると、パステルは今にも泣き出しそうな顔でうつむいている。 
 ……まじいな。 
 どうすればいいもんか、と俺が頭を悩ませたとき、視線を感じた。 
 目を上げれば、クレイが、何やら意味ありげな視線を送ってきている。 
 ……助けろ、ってことか? いや、そうだろうな。あのお人よしのこった。こんなパステルを見て、「出て行け」なんて言える奴じゃねえ。こっちのクレイが元世界のクレイと同じ性格なら、だが。 
 しゃあねえ。 
「待て、待てキットン。何も追い出すこたあねえだろ?」 
「ステア様! ですが……」 
「いや……ええと、あのな。そうだ」 
 そこでリタに言われたことを思い出せた俺を褒めて欲しい。記憶力がいい方だなんて思ったことはねえが、こんなわけのわかんねえ状況だ。何となく印象的で覚えてたんだよな。 
「俺の新しい世話係が来るって聞いたんだけどよ。こいつがそれなんだろ?」 
「いえ、まさか滅相も無い! このような新人を……まずは適当なところに配置して仕事を覚えてもらってから、です。パステルが入った部署から、誰か適当な人材をつけるつもりでしたが」 
「いや、いい。いい。あのな……」 
 にやり、と笑みを浮かべて、パステルの腕をつかむ。 
「気にいった。こいつ、俺がもらうわ」 
「……は?」 
 俺の答えに、キットンはぽかんとしていた。ちなみにクレイは笑いをこらえていた。 
 おめえが助けろって合図したんだろうが!? ったく。 
「だあら、こいつは今日から俺の世話係だ、っつってんだよ。まさか、文句はねえだろうな?」 
 俺がたたみかけると、キットンは助けを求めるようにクレイを見たが。 
 まさか、クレイがそこで「駄目だ」なんて言うはずもなく。 
「まあ、いいんじゃないか? どうせ人手が足りてなかったんだし」 
 と、何とものんびりした返事をした。 
 第一王子と第二王子が揃ってこう言ったんだ。まさか、嫌というはずもねえ。 
 ……というか、キットンの立場って何なんだ? パステルよりは上で俺達よりは下? 執事頭ってとこか? 
 ……似合わねえ…… 
「あ、あのっ……」 
 パステルは、いまいち状況がわかってねえらしく、交互に俺とキットンを見つめている。 
 ……よし。探りを入れるとしたら、やっぱこいつ以外にはいねえよな。 
「よし、決まりな。そうと決まったら来い」 
「きゃああ!?」 
 ぐいっ、とパステルの腕をひっぱる。キットンが何か言う前に、部屋の外に出た。 
 目指すは、さっきまでいた俺の部屋。 
 そこでじっくり話を聞かせてもらおうじゃねえか? 
  
「ちょ、ちょっと! ちょっと……ステア様! もう少しゆっくり歩いてください!!」 
 ずかずかずか、と足を進める俺に、パステルがさすがに悲鳴をあげた。 
 ちっと早かったか。それにしても…… 
 慣れねえっ……キットンに呼ばれたときも思ったが、「ステア様」なんて呼ばれると、全身に寒気が走るっ! 
「トラップでいい」 
「はあ?」 
 俺の言葉に、パステルはぽかんとしていた。……ま、そうだろうな。 
「トラップ。あだ名みてえなもんだと思え。それと、敬語もいらねえ」 
「そ、そんなわけには……」 
「いーんだよ。俺がいいっつってんだからな」 
 俺がそう続けると、パステルは困ったようにうつむいた。 
 そうだろうな。向こうにしてみりゃ、俺は王子様だもんな。軽々しく「あだ名で呼べ」って言われても困るだろうな。 
 けど、俺が嫌なんだよ。おめえとの間に、「身分」なんつー壁を作るのは。 
「返事は?」 
「……あの、本当に?」 
「しつけー奴だな。いいっつったらいいんだよ」 
 俺が重ねて言うと、パステルはしばらくもじもじしていたが、ぱっと顔を上げて言った。 
「わかりまし……えと、わかった。わかったわ、トラップ……で、いいんですか?」 
「いいんだって」 
「……うん。よろしくね、トラップ」 
 にこっ、と微笑んだパステルの顔は、元の世界のパステルと全く同じ笑顔で…… 
 ちっとドキッとしちまったじゃねえか。ったく。 
 真っ赤になった顔を見られないように、俺はぷいっと背を向けて歩き出した。 
 今度は、パステルがちゃんとついてこれるようにゆっくりペースを心がけながら。 
  
 部屋に戻ったところで、「ちゃーんと勉強したのかどうかテストしてやる」などと言いながら、うまいことパステルから話を引き出す。 
 どうやら、この城はアンダーソン王家、らしい。 
 何でアンダーソンで俺とルーミィが王子と王女? って思わねえでもねえが。 
 とにかく、現王アンダーソン陛下が、クレイ、俺、ルーミィの父親に当たるらしい。 
 んで、キットンが想像通り執事頭で、ノルが王様直属の傭兵なんだとか。 
 パステルは、まあ「田舎くさい」などと言ったのは口からでまかせみてえなもんだったのに、本当に田舎から出てきたばかりらしい。 
 両親が死んで身寄りがなくなったので、たまたま下働きを募集していたこの城に来たとか。 
 なるほどなあ……誰だこんなめちゃくちゃな設定考えた奴は。 
 心の中でこのパラレルワールドの創造主に文句を言いつつ、俺は部屋をもう一度見回した。 
 何で突然こんな世界に来たのか。パステルの話では、その理由はわからなかった。 
 ついでに、元の世界に戻る手がかりも、当然つかめなかった。 
 ……俺はこれからどうすればいいんだか。 
 それに、だ。 
 ぐるぐると首をまわす。 
 何つーか……この部屋は、俺の部屋のはずなのに……居心地が悪いんだよな。 
 寒々しいというか。本当に、これから俺、ここでしばらく過ごすのかあ? 
 ……勘弁してくれよ。頼むから元の世界に戻してくれ。俺は王子なんて柄じゃねえって。 
 俺が心の中で嘆きながら天井を仰いだときだった。 
「でも、トラップって、変わってるよね」 
「んあ?」 
 にこにこと微笑みながら声をかけてきたのは、パステル。 
「わたし、王子様って、もっととっつきにくい人たちだと思ってたけど。クレイ様もルーミィ様も、すごく優しかった。トラップも……何だかんだ意地悪だったけど、でも助けてくれたんだよね? わたし、ここに来てよかったなあ」 
「…………」 
 そういやあ、こいつは、両親が死んだからここに来たんだよな。 
 これから、一人で生きていくために。 
 辛くねえわけねえと思うが……それを表に出してねえ。やっぱり、こいつは強い奴だ。 
「くっ……はっ……ははっ……」 
「と、トラップ?」 
「いや……」 
 突然笑い出した俺に、パステルは不審そうな顔を向けて来たが……気にならねえ。 
 そうだよな。悩んでも、来ちまったもんはしょうがねえ。 
 基本的な人間関係はわかった。まわりの奴らが、元の世界とほぼ同じ性格だってこともわかった。 
 それなら……別に、普段通りの俺で過ごせばいいじゃねえか。 
 まさか一生ここで過ごすなんてこたあねえだろう。それまで、せいぜい楽しんでやればいい。 
「何でもねえ……いや、これからよろしくな、パステル」 
「うん!」 
 微笑むパステルに、何故か俺は思った。 
 世話係り……つまり、ここにいる間は、少なくとも、パステルはずっと俺の傍にいてくれるわけだ。 
 それなら……この世界も悪くねえ。 
 何でそう思ったのかは、わからねえけど。 
  
 これからのことをキットンに聞いてくる、とパステルが出ていった後。 
 俺は、無駄に広いベッドにごろっと横たわった。 
 これからは、この広い部屋で、広いベッドで一人で寝るんだよな。 
 ……気が重い。普段は狭い狭いと文句ばっか言ってたが。 
 どうしてどうして……俺は、自分で思っていた以上に、あの生活が気にいっていたらしい。 
 全く。こっちの世界の俺。おめえよくこんなところで寝れたよな…… 
 変な世界に飛ばされて一日目。俺は、想像通りなかなか眠れねえ夜を過ごすことになった。 
  
 まどろみの中で、誰かがゆさゆさと肩を揺さぶっている。 
 耳元で名前を呼ばれたような気もする。 
 だが、眠気が、その声を意図的に無視した。 
 やっと手に入れた睡眠。 
 目を覚ませば、また眠れなくなるに決まっている。 
 だから……起こさないでくれ。 
 肩を揺さぶる何かを、無意識につかんで止める。 
 つかんだ何かは、びくり、と強張ったが……無理に振りほどこうとはしなかった。 
 誰かが顔を覗き込んでいる気配。……誰、だ? 
 それはとても暖かい気配。 
 この冷たい部屋の中で、唯一感じる温もり。 
 離したくない、と思った。傍にいて欲しい、と思った。 
 ずっとこのままでいたいと思ったから、あえて目を開けなかった。 
 何故そう思ったのかは、わからないけれど。 
 ふっと部屋が静かになる。けれど、ぬくもりは傍にある。 
 それに安心して……俺は、再び眠りについた。 
 浅い眠りから、深い眠りへと。 
  
 ふっと目を覚ましたのは、一体どれくらい時間が経ったときか。 
 わからねえが……きっかけとなったのは、胸のあたりにある重み。 
 ……何だあ……? 
 ふっと視線を下に向ける。とびこんできたのは、蜂蜜色。 
 ……パステル!? 
 瞬時に目が覚める。何と、パステルが、俺の胸の上にもたれかかるようにして……眠っていた。 
 傍にあるのは昨日も見た台車。どうやら、朝飯を届けに来たらしいが…… 
 そこで気づく。俺が、パステルの手首をしっかりとつかんでいたことに。 
 ――――!! 
 異様に照れくさくなって、ばっと手を離す。あれは……夢じゃなかったのか? 
 つまり、俺を起こそうとしてたのはパステルで……でも、俺が起きなかったもんだから、そのうち自分まで寝ちまった、と。 
 こいつらしいというか、何というか…… 
 とにかく起こそう。このままじゃ俺が起き上がれねえ。 
 そう考えて、パステルの肩をつかもうとしたときだった。 
 目に入るのは、パステルの寝顔。 
 幸せそうな寝顔。色白な頬と、わずかに開いた唇。思ったより長いまつげ…… 
 ………… 
 無意識のうちに唇を寄せそうになって、俺はぶんぶんと首を振った。 
 な、何を考えてんだ俺は。パステルなんかに欲情してどうする!? 
 俺の好みはなあ、こう出るとこはばーんと出て引っ込むところはきゅっと引っ込んでるナイスバディな女なんだよ。間違ってもこんな出るとこ引っ込んで引っ込むところが出てるような幼児体型じゃ…… 
 ………… 
 何でこんなこと考えてんだよ。誰に言い訳してんだ? 
 俺……まさか、パステルのことが? まさか…… 
 俺がそうやって悩んでいる間も、パステルは起きる気配も見せねえ。 
 くらくらと理性がとびそうになる。顔を近づける。手を肩にかけようとしたその瞬間。 
「ステア様!! 起きておられますか!!?」 
 ドンドンドン!! 
 理性を引き戻したのは、ドア越しに響くキットンの大声。 
 その声に、パステルがうーんとうめく。 
 や、やばいっ! 
 ばっと出しかけた手を引っ込めるのと、パステルが目を開けるのは同時だった。 
「きゃああああああああああ!!?」 
 至近距離で見詰め合った直後。響いたのはパステルの悲鳴。 
 ま、待て待て待て! それじゃ俺が悪いみたいじゃねえか!? いや悪いんだけどな。 
 けど、先に寝たのはっ…… 
「お、おめえ……仮にもご主人様のベッドで、よくもまあぐーすか寝れるなあ……」 
 精一杯平静を取り繕うと、パステルは「えっ!?」と叫びあたふたとまわりを見回した。 
 そして、初めて、自分が俺の胸の上にもたれかかっていたことに気づいたらしく、真っ赤になって飛びのいた。 
「ご、ごめんっ……」 
「なんですか今の悲鳴は!? まさかパステルもそこに? パステル、あなた何やってるんですか!!」 
 パステルの謝罪にかぶさるように響く、キットンの声。その声に、真っ青になるパステル。 
 あー……まずいな、こりゃ。 
 どうも元世界のキットンとイメージがずれるが、こっちのキットンは、妙に礼儀作法にはうるせえらしい。下働き、世話係りのパステルが俺のベッドで寝た、なんつったら……怒るよなあ…… 
「何でもねーよ。朝っぱらからうっせえな。パステルはな、今俺の命令で部屋の掃除してんだよ。わかったら邪魔すんじゃねえ!!」 
 気がついたときには、外に向かって怒鳴っていた。それっきり、キットンは静かになる。 
 パステルはしばらくきょとんとしていたが、ようやく、助けてもらったことに気づいたらしい。 
 真っ赤になって、ぺこりと頭を下げた。 
 全く。こっちの世界のパステルも……世話が焼ける女だぜ。 
「おい、飯持って来たんだろ? 俺、腹減ってんだけど」 
「あ、うん。ご、ごめんね」 
「ああ? まあいいよ。俺もゆっくり寝れたしな」 
 そう。何となく思い出す。 
 なかなか寝付けなくて、浅いまどろみを繰り返して…… 
 ぐっすり眠れたのは、パステルの温もりのおかげだった、と。 
 よっ、と身体を起こしてベッドから下りる。すると、パステルが意外そうな顔をした。 
「え、トラップ……どこ行くの?」 
「ああ? だあら、飯」 
「ここで食べるんじゃ……ないの?」 
 ……ここお? 
 ここって、ベッドの上か? 
「んなところで食うわけねえだろ。何のためにテーブルと椅子があんだよ」 
「そ、そうなの? 王族の人たちって、何となく、そんなイメージがあって」 
 どんなイメージだよ、そりゃ。それは多分間違った認識だぞ。 
「いいからさっさと準備してくんねえ? 俺、マジで腹減ったんだけど」 
「ご、ごめんっ。ちょっと待っててね」 
 どかっ、と椅子に腰掛けた俺の前に、パステルはあたふたと料理を並べ始めた。 
 どの料理もうまそうだったが……一体パステルはどれだけ寝てやがったのか。どれもすっかり冷めきっていた。 
「ご、ごめんね。あの、よかったら温めなおしてもらってこようか?」 
「ああ? ……別にかまわねーよ」 
 よく考えたら、昨日の朝食はベッド脇に放り出してあったもんな。 
 あれは、もしかして俺が起きなかったから放っていったのか? ったく、誰が置いてったのか知らねーが、それが王子に対する態度かよ。 
 そう考えたら、こいつは俺が起きるまで待とうとしてくれたんだもんな。文句を言うのはやめといてやるか。 
 冷めてたってうまいしな。 
 そうして俺は食べ始めたのだが。 
 目の前のパステルは、料理に手もつけず、じーっと見てるだけ。 
 ……他人に見られながら一人で食事するのが、これほど気まずいとは思わなかったぜ。 
「おめえは食わねえの?」 
「え? 何言ってるのよ。それはトラップのご飯。わたしは後でみんなと一緒に食べるの」 
「ふーん……でも、もうこんな時間だぜ?」 
「え?」 
 俺が壁にかかった時計を指差して、初めてパステルは、今がもう朝より昼に近い時間だと知ったらしい。 
「嘘お……もうご飯の時間終わってる……」 
「ま、しゃーねえよな。眠っちまったおめえが悪いんだし」 
「な、何よお!! そ、そりゃ……そうなんだけど」 
 面白いくらいにしょぼんとうなだれるパステル。 
 本当に……おめえって奴は。どこに行っても、どんな世界でも変わらねえよな。 
「ほれ」 
「え?」 
 俺がフォークで料理を刺して突き出すと、パステルはきょとんと首をかしげた。 
「食わねえの?」 
「え? だって……」 
 ぐーっ 
 パステルは、さすがに断ろうとしたらしいが。 
 自分の腹から響いた盛大な音に、真っ赤になってうつむいた。 
 本当に……面白え。けど色気のねえ奴だな。 
「ぷっ……くっ、くくっ……」 
「な、何よお! 笑うことないでしょ!! 朝すっごく早かったんだからあ!!」 
「わりいわりい、つい本音が……」 
「本音って!!」 
「ほれ」 
 ぐいっ 
 もう一度フォークを突き出す。パステルは、俺と料理を交互に見やって……ぱくり、と、恥ずかしそうに口にした。 
「どーだよ、うめえだろ」 
「うん……うん、すごく美味しい! わたし、こんな美味しい料理初めて!」 
「よかったな」 
 それからしばらくかけて、二人で一人分の料理を食い終えた。 
 量だけなら、俺が普段食ってる量より随分と少ないが。 
 何だか、えらく満足できたのは……多分、気のせいじゃねえな。 
  
 その後、皿を下げて今後の指示を受けるべく、パステルは部屋を出て行った。 
 取り残された俺には、何もやることがねえ。 
「ったく。王子ってーのは退屈な身分なんだな」 
 椅子の背もたれにもたれかかって、本棚に並んだわずかな本のタイトルを見ていたときだった。 
 コンコン 
 響いたのは、遠慮がちなノックの音。 
 何だ? キットンか、パステルか? まあ誰でもいいか。退屈しのぎにはなんだろ。 
「開いてっぞー」 
「失礼するよ」 
 がちゃん 
 ドアから入ってきたのは、クレイだった。相変わらず、正統派王子様的デザインの派手な服を着ているが。 
 不思議と、よく似合うんだよなあ。まあ、元からこいつはそういう顔だったしな。 
「あんだ、クレイか」 
「随分な言い草だなあ、トラップ。今日はいつものとこには行かないのか? せっかく迎えに来たのに」 
 ……いつものとこ? 
 何だそら。というか…… 
 ……今、こいつ、トラップって……呼んだか? 呼んだよな。 
 何でだ? こっちの世界では、俺はステアじゃねえのか? トラップと呼ばせてるのは、パステルだけのはず…… 
「おい、クレイ」 
「ん?」 
「あのさ、変なこと聞くけど……」 
「ああ」 
「俺の名前ってステアじゃねえのか?」 
 俺の言葉に、クレイは目を点にしていた。 
 ま、そりゃそうだろうなあ……どこの世界に自分の名前を他人に尋ねる奴がいるんだよ。 
「何言ってるんだ? あんな親父のつけた名前なんかで呼ばれたくないからトラップと呼べと言ったのは、お前だろう? トラップ。お前、おかしくなったか……?」 
「ち、ちげーよ!! 実は、だなあ……」 
 親父? 親父ってアンダーソン陛下のことだよな? 何でそこでその名前が出るんだ? 
 いやいや、今はんなこと気にかけてる場合じゃねえか。 
 クレイは、何やら不審な目を俺に向けていて。俺はそれに思いっきりうろたえて…… 
 ああもう! どう説明すりゃいいんだよ!? 
 いやいや、けど待てよ俺。よーく考えてみろ。 
 パステルは所詮この城に来たばかり。事情だってろくにわかっちゃいねえから、得られた情報なんざわずかなもんだ。 
 だけど、俺の兄貴……ってことになってるクレイなら、そりゃーもう生まれたときからこっちの世界の「俺」と一緒にいるんだよな? 
 なら、クレイをうまいこと言いくるめりゃあ……もしかして、もっと色んな情報つかめるんじゃねえか? 
「いやさ、聞いてくれよ、クレイ実はな」 
「うん」 
「俺さ、記憶が何か色々無いんだわ」 
 がたたっ!! 
 俺が深刻な表情を作って言うと、クレイは、腰を抜かしたように床に座り込んだ。 
 大げさな奴だなあ……いや、それが普通なのか? よく考えたら、俺、さらっとすげえこと言ったよな。 
「と、トラップ……?」 
「いやあ、何でだろーな? おめえの名前とかはちゃんと覚えてんだけど、何かところどころで記憶がすっぽり抜けてるんだよなあ。昨日朝起きたとき、床で寝てたからな。もしかしたらベッドから落ちて頭打ったのかもしんねえ」 
「おいおい……」 
 俺の言葉に、クレイは呆れたようにベッドに目をやった。 
「よくあんな大きなベッドから落ちることができたなあ……」 
「うっせーな。しょうがねえだろ、落ちたもんは。で、まあんなわけで、俺たまに変なこと口走ったり当たり前のこと忘れてるかもしんねえ。ちっと色々教えてくんねえか? 記憶取り戻す手伝い。おめえなら大抵のことわかるだろ?」 
 俺が言うと、クレイはため息をついて椅子に座った。 
「まあなあ。なっちゃったものはしょうがないな。それにしても、そうだったのか。それで昨日、様子がおかしかったんだな?」 
「は?」 
 おかしい? おかしかったか、昨日の俺? 
 パステルをからかうなんざ、俺にとって日常茶飯事な出来事なんだが。 
「おかしいと思ったんだよな。お前が俺とルーミィ以外の人間とあんな風に話すなんて」 
「はあ??」 
 クレイの言葉はわけがわからなかった。 
 何でだ? こっちの世界の俺、もしかして無口なのか? 
「お前……まさか、それも覚えてないのか?」 
 俺の様子に、クレイはかなり驚いたようだったが。やがて、ふっと微笑んだ。 
「まあ、いいさ。忘れるには忘れるなりの理由があるってことだろう? 忘れた方がいい記憶だってあるんだ。俺に教えられることはできる限り教えてやるけど、どんな風に変わったって、お前はお前だよ、トラップ」 
 クレイの言葉は、何だか妙に意味ありげだったが。 
 まあ、全部を一度に知ろうってのは無理だよな。のんびり聞いていけばいいか。 
 とりあえず…… 
「あのな、いつものとこって、どこだ?」 
「ん? ああ、俺達がよく行っている、森の奥にある泉のほとりだよ。誰にも知られてない穴場で、二人だけの秘密基地にしてたんだ。俺達、週に四回はそこに出かけてたんだぜ? 本当に覚えてないのか?」 
「わ、わりいな……」 
 そうか。こっちの世界の俺も、やっぱりクレイとは親友同士だったわけだな。 
 いや兄弟だから親友ってのはおかしいか? 
「で、どうするんだ? 行くか?」 
「ああ、そうだな。連れてってくれ」 
 こっちの世界の俺が秘密基地にしていた場所。興味があるな。 
 クレイから色々聞きだすチャンスだし。どーせ暇だしな。行くしかねえだろ。 
「よし、じゃあ早速……」 
 クレイが立ち上がったときだった。 
 コンコンコン 
 再びノックの音。今度は誰だあ? 
「開いてっぞー」 
 俺が声をかけると、がちゃっとドアを開けて入ってきたのは、パステル。 
「失礼します……あ、トラップ。あのね、キットンに言われたんだけど……」 
 そう言いかけて、そして視線がクレイに止まる。 
 そのまま、パステルはかちん、と硬直した。 
 ……どーしたんだ? こいつ。 
 クレイの方を見ると、クレイはクレイで茫然としたようにパステルを見ている。 
 何だあ? 
 しばらく考え込むが、やがて、ふと思い当たってポンと手を叩く。 
 そーか、何かすげえ忘れてたけど、一応俺って王子なんだよな。んで、クレイも王子。で、パステルは下働き、って立場なんだよな? 
 下働きが王子に対してあだ名でタメ口。そりゃあ……まずいよなあ。 
「くくくクレイ様!? し、失礼しましたっ。あの、あのっ……」 
 面白いくらい慌てふためくパステル。クレイは、そんなパステルをじーっと見て…… 
 ぷっ、とふきだした。すぐに、それは大きな笑い声になる。 
「か、可愛いなあ、君。パステルっていったっけ?」 
「は、はいっ」 
「よかった、トラップとはすっかり仲良くなったみたいだね。安心したよ」 
 そんなクレイの様子に、パステルはぽかんとしている。 
 ま、そりゃそうだろうな。どう見ても王子の態度じゃねえぞ、それ。 
 けど、ちっと安心したな。やっぱ、こっちの世界でもクレイはクレイってことか。 
「気にすることねーよ。俺がそれでいいっつったんだからな」 
 パステルを安心させるために、ひらひらと手を振って続けてやる。 
「心のこもってねえ儀礼的な敬語なんかより、ずっといいさ。なあ、クレイ?」 
「そうだな」 
 俺が話を振ると、クレイは苦笑をはりつかせて頷いた。 
 おめえもわかってんだろ? 俺が誰のこと指してんのか。 
 昨日廊下ですれ違った他の使用人達の、すげえ丁重だけど全く心のこもってねえ挨拶。 
 あんな挨拶されるくれえなら、いっそ無視された方がマシだ。 
 パステルの言葉遣いは、王族に使う言葉遣いじゃねえかもしれねえが。 
 それでも、その笑顔は本物だ。そっちの方が何倍もいい。 
 パステルは、しばらく俺とクレイを交互に見つめていたが、やっと安心したのか微笑みを見せた。 
 そして。 
「あの、トラップ。わたし、キットンからトラップの指示を受けろって言われてきたんだけど……」 
 と言ってきた。 
 ああ、そういや、こいつは一応仕事中ってことになるんだよな。 
 けど、俺の指示? こいつにしてもらいてえこと、ねえ…… 
「ああ? あーそっか。おめえ世話係りだもんな。っつっても、別になあ……」 
 こういうとき、普通の王族なら何て言うんだろうな? 掃除か? それとも着替えを手伝え、とか? 
 けどなあ……こっちの世界の俺がどうだか知らねえが、俺としては、だ。パステルとは、対等な関係でいてえんだよ。命令なんてしたくねえ。「お願い」ならともかく。 
 うーん、と首をひねってみたが、すぐに手を叩く。 
 何も迷うこたあねえじゃねえか。 
「そーだクレイ。こいつも一緒に連れてってやっていいか?」 
「え?」 
「ああ、構わないよ」 
 首をかしげるパステルと、すぐに頷くクレイ。 
 そーだよな。迷うこたあねえよ。俺の世話係りなんだしな。ようは俺の傍にいりゃあいいってことじゃねえか。 
「よし、決まりだ。えーと、こんな時間だしな。昼飯は……」 
「リタに頼んで弁当を作ってもらえばいい」 
 俺の言葉に、クレイが即座に言う。もしかしたら、いつものことなのかもしれねえな。 
「うっし。パステル、おめえ厨房に行ってきてくれ。弁当三人分な」 
「う、うん……」 
 パステルの顔は不安そうだ。何を心配してんだ? 
 まさか…… 
「おめえ、まさか厨房まで一人で行けねえ、とか言うなよ?」 
「なっ!? ちっ、違うわよ!!」 
 えらく慌てたところを見ると、想像通り、こっちの世界のパステルも方向音痴みてえだな。 
 ったく。やっぱパステルはパステルか。 
「本当かあ? ついてってやろうか?」 
「い、いいわよっ! 一人で行けるわよっ。待ってて、すぐに戻ってくるから!」 
 そう言い残すと、パステルは部屋を飛び出していった。 
 大丈夫かあ? ……まあ、城内だしな。迷うったってたかが知れてるだろうが。 
 いやいや、あいつのことだしなあ…… 
 俺が不安を拭いされずにドアを眺めていると、後ろから「くっくっくっ」という笑い声が響いた。 
 振り向くと、腹を抱えてうずくまっているクレイ。 
 ……何がそんなにおかしいんだよ。 
「あんだよ」 
「いや……お前はわかりやすいなあと思って」 
「はあ?」 
 何が言いてえんだよ、ったく。 
 俺が憮然としていると、クレイは立ち上がって肩を叩いた。 
「まあ、俺は嬉しいよ。お前がやっと心から素直になれる相手が見つかって。うまくいくように祈ってるから」 
「はああ?」 
 ……心から、素直になれる相手? 
 何のことだよ、そりゃあ。やっと、って…… 
 俺にとっては……クレイも、ルーミィもキットンもノルも、もちろんパステルも……素直になれる相手だぜ? いや、パステルは、ちっと違うかもしれねえが。それにしたって…… 
 こっちの世界の俺。おめえ、一体どんな奴なんだ? 
 パステルが戻ってきたのは、それから30分後くらいだった。 
 どうやら、道には迷わなかったらしい。 
  
 そうして三人で出かけたわけだが、城を出るところでまたひと悶着が起きた。 
 どうやら、普段俺……こっちの世界の俺とクレイは、馬でその場所まで出かけてたみてえなんだが。 
 ちなみに俺は馬に乗った経験はほとんど無い。馬車なら腐るほどあるが……まあ、運動神経には自信があるしな。何となるだろう。 
 問題はパステルだ。「馬を出してくる」と聞いて、あからさまに青ざめやがった。 
 まあ、この鈍くさい女が、あんなバランス感覚を問われる乗り物に乗れるわけがねえよなあ。 
「心配しなくてもいいよ。パステルの分の馬もちゃんとあるから」 
 気がきくようでどっか抜けてるクレイは、そんなパステルの顔に何か誤解した解釈を下したらしい。 
 全く、わかってねえなあ。 
「あに言ってんだよ。こんな奴乗せたら、馬が気の毒だろうが」 
「なっ……!!」 
 俺の言葉に、パステルは相当頭にきたらしく、腕を振り回して無言の抗議をしてきた。 
 声に出さねえのは、多分、「じゃあ乗れ」と言われるのが怖いから、だな……間違いねえ。 
「おいおい、トラップ、いくら何でも……」 
「必要ねえって。おら、さっさと俺とおめえの分の馬、出してこいよ」 
「あ、ああ……」 
 クレイが馬小屋に消えた後、パステルは恨みがましい目で俺を見てきた。 
「じゃあ、わたしだけ歩きなの? そもそも、一体どこに行くつもり?」 
「んあ? あーそういや説明してなかったな。ま、来りゃあわかるって」 
「もーっ」 
 説明してやりたくても、俺にもよくわかんねえんだよ。 
 クレイと二人だけの秘密基地、ねえ……一体どんな場所なんだか。 
 クレイが戻ってきたのは、それからすぐだった。 
 素人目に見ても立派な体格の馬を二頭連れている。 
 ……大丈夫だよな。一応基礎くらいは知ってるし。何とかなるよな。 
 ひょい、とクレイが馬にまたがる。その動きを真似して、俺もどうにか上に乗る。 
 おー、思ったより高えな。やっぱ俺の読みは正解だな。これはパステルには無理だ。 
「おら」 
「……え?」 
 馬上から手を伸ばすと、パステルはきょとんとした目を向けてきた。 
 ……ったく。鈍い奴。 
「あにやってんだ。さっさとつかまれ」 
「え? あ、うん」 
 ぎゅっ、とパステルが手をつかむ。そのまま、一気にその身体を馬上までひきあげて俺の前に座らせる。 
「き、きゃああああ!?」 
「ばっか暴れるな! おめえ、どうせ馬になんか乗れねえだろ」 
 ぼそっと耳元で囁くと、パステルは真っ赤になって頷いた。 
 ほれ見たことか。俺に感謝しろよ、ったく。 
「やっぱりな。だあら、乗せてやるよ。ほれ、しっかりたずな握ってろ」 
「う、うん」 
 たずなを握らせていると、「くっ……はっ、はははっ。よかったな、トラップ」と、後ろから声がした。 
 振り向くと、クレイの野郎は肩を震わせて笑っていた。 
 ……何が「よかったな」だよ。俺だって馬なんか慣れてねえんだぞ? こんな鈍い女と二人乗りなんて、今から気が重いんだからな。 
 ……嫌、じゃねえけど。 
 じろり、とにらんでやると、クレイはさっと視線をそらして馬を進めた。 
 秘密基地までは、馬ならそう遠くは無いらしい。 
  
 クレイの先導でたどり着いた場所は、時間はそうかからなかったものの、かなり森の奥深くに行ったところだった。 
 クレイの言った通りの場所。訪れる人間はほとんどいない泉のほとり。近くには小屋もあって、のんびりしゃべるにはうってつけの場所だった。 
「まあ、ルーミィがもうちょっと大きくなったら連れてきてあげようとは思うけどね。まだしばらくは、二人だけの秘密の場所にするつもりだったんだ。ここなら、気兼ねなくしゃべれるしね」 
 とは、パステルに説明するクレイの言葉だが。 
 もう「二人だけ」の秘密の場所じゃねえんだよなあ。すまんな、こっちの世界の俺。まあ許してくれ。 
 保証してやるよ。おめえだって「俺」なんだろ? 性格も何もかも同じ、違うのは身分だけの「俺」。なら、おめえだって絶対パステルならいいって思うはずだ。 
 俺がそうだからな。 
「……でも、そんな場所にわたしを連れてきて……いいの?」 
 その言葉に、パステルは不安そうに俺を見てきたが。 
「ああ、構わないよ。パステルは特別だよ。なあ、トラップ?」 
「?」 
 即座に答えたのはクレイ。不思議そうなパステル。 
 クレイ。 
 おめえは……パステルとためはれるくらい鈍いくせして、何でこーいう余計なことばっかり鋭いんだよ!! 
「うっせえ」 
 小さくつぶやいて顔をそむける。 
 それは、真っ赤な顔を見られたくなかったから……じゃねえぞ。断じて違うからな。 
 多分。 
  
 それから、俺達はだらだらと日が暮れるまでしゃべり続けた。 
 リタが作ってくれたという飯はうまかったしな。何つーか、城の中は息がつまって落ちつかねえ。あんなところで暇を持て余してるのに比べたら、こっちの方がずっといい。 
「美味しい。誰かと食べるご飯って、美味しいね」 
 弁当を食べながら、パステルはにこにこして言った。 
 聞くと、昨日の昼飯も晩飯も、キットンに怒られたり俺としゃべっていたりしたせいで、一人だけ時間がずれてみんなと食べれなかったとか。 
 一人で食う飯がうまくねえってのは、同感だな。それは俺も昨日思ったことだ。 
「んじゃ、明日っから、俺の飯運んでくるとき、おめえの分ももらってこいよ」 
 そう思ったとき、言葉は意外にすんなり出てきた。 
 「え?」と不思議そうな顔をするパステルに、さらに続けて言う。 
「一人で食ったってうまくねえんだろ」 
 それは、パステルに向けた言葉というより、俺自身の気持ちでもあったんだが。 
 パステルはしばらくきょとんとしていたが、見かねたのか、クレイがわかりやすく説明した。 
「明日から、一緒に食事しようって言われてるんだよ。あいつ照れ屋だから、素直に言えないんだ」 
 ……うっせえよ。 
 別に、深い意味なんざねえよ。……飯を楽しく食いたい、そう思って何が悪いんだ? 
「え? 別に照れるようなことじゃないと思うけど……わたしも一緒に食事できて嬉しいし」 
 それをまた、鈍感なパステルは意味を正しく理解してねえし。 
「おい、これは大変だぞ。がんばれよ」 
 肩を叩いてくるクレイを、手荒に振り払う。 
 ったく。 
 大変なことはなあ……わかってんだよ。ずーっと前から、な。 
 まあ、そんな感じで今日は終わった。 
「また、ここに来るときは一緒に誘ってくれる?」 
 帰るとき、パステルは嬉しそうに言った。 
「ああ、もちろん」 
「駄目だったら今日だって誘わねえよ」 
 クレイとそう言ってやったときのあいつの笑顔。それを見て笑うクレイ。それは、元の世界の二人と、全く同じ表情だった。 
 わけのわかんねえパラレルワールドだと思ってたけど…… 
 この世界も、慣れれば、悪くねえかもしれねえな。 
  
 基本的に、俺は別に何もすることがねえ。 
 ただ起きて飯食って、それで一日が終わる、そんな生活を送っても、誰も文句を言う奴はいねえらしい。 
 だが、この俺が、だ。んな退屈な生活に耐えられるはずもなく。 
 三日と空けずにクレイとパステルと秘密基地に出かけたり、城の中を散策したり、パステルをからかったり、そんな生活を送ること一週間。 
 気いついたらすっかりこっちの世界に慣れ親しんでいたりするが。 
 変化が現れたのは、一週間と一日後だった。 
  
 その日、いつものように朝飯を食って、パステルが皿を厨房に下げに行った後のことだった。 
 食後の茶を飲んでいると、ノックの音が響く。 
 ……何だ? 戻ってきたにしてはやけに早いな。 
「開いてっぞ。誰だ?」 
「失礼します」 
 入ってきたのは、キットン。いつもの全く似合わねえ燕尾服姿で、俺の前にびしっと立って言った。 
「ステア様。本日いつものように家庭教師が参りますが……」 
 ぶはっ!! 
 キットンの言葉に、俺は飲んでいたお茶を吹き出していた。 
 か、家庭教師だとお!? あんだ、そりゃ!!? 
「いかがなされました?」 
「い、いや、何でもねえ……家庭教師? そうだったっけな?」 
「お忘れですか? 週に一度は必ず呼ぶようにと、陛下より承っております」 
 陛下? ……ああ、こっちの世界の俺の親父か。 
 っつーか元世界で言うところのクレイの親父だよな。やっぱ、同じような性格してんのか? 
「あの、話を続けてもよろしかったでしょうか?」 
「あ? ああ、いいぞ」 
「えーと、ですね。本日は朝十時より来られるとのことです。今日は経済学の授業だそうですので、教科書を用意しておいてくれ、とのことでした。よろしくお願いします」 
「あ、ああ」 
「では、私はこれで失礼します」 
 元世界のキットンでは絶対できねえような丁寧な礼をして、キットンが部屋を出る。 
 経済学、ねえ…… 
 まさかこの俺が、そんなものを勉強する羽目になろうとは。 
 っつーか、教科書? どこにあんだよ、それ。 
 机の引き出しを開けてみたが、簡単な筆記用具と紙が入っているだけで、本の類はなかった。とすると、本棚かあ? 
 棚の方に歩み寄る。小難しそうな本ばっか並んでたから、ほとん見てなかったんだが。 
 タイトルを見ていくと、「経済学のすすめ」とやらが目に入った。もしかしたら、これか? 
 ずるっと本を引き出したとき……ふと、俺の目に、まるで隠すように置いてある本が目に入った。 
 背表紙ではなく表紙を向けて並べてある本。その上に普通に本が並べてあって、一見してもわからねえようになっているが…… 
 上に並べてある本をよけると、そこから出てきたのは「日記」と書かれた本だった。 
 署名は、「ステア」。 
 ……ステア? って俺だよな。 
 こっちの世界の俺……日記なんざつけてたのか!? 
 そのときだった。 
 コンコン、とノックの音。思わず、日記を背中に隠す。 
「あの、トラップ? 今日は……」 
 顔を覗かせたのはパステルだった。こいつは、毎日食事の片づけをすませると、今日は何をするべきなのか俺に聞いてくる。 
 まあ、色々言ってるが、ようするに「俺の傍にいろ」と言うのがいつものパターンなんだが。 
「あー……今日はな、家庭教師が来るから。おめえ、自由にしてていいぞ」 
 そう言うと、「わかった」と一言だけ告げて、パステルは出て行った。 
 足音が遠ざかるのを確認して、もう一度日記を取り出す。 
 ぱらぱらとめくってみると、「日記」とは名ばかりで、やけに日付がとんでいた。 
 どうやら、気が向いたときだけ書いてたらしいな。……俺らしいっつーか。 
 ちなみに、この世界の暦は、ジグレス暦じゃねえ。聞いたこともねえ暦だった。 
 日記の最後の日付が最近のものだとすると、今は323年になるらしい。そして、日記の一番最初の日付は、313年。 
 おいおい、こっちの世界の俺。そもそも日記をつけるっつー習慣があったことすらちと意外なんだが……いくら何でも、同じ日記帳を十年も使ってるっつーのは、既に「日記」とは言わねえんじゃねえか? 
 俺が密かに苦笑して1ページ目を読もうとしたときだった。 
 ごんごんごん 
 再び響くノックの音。 
「ステア様、家庭教師のアンドラスです。失礼いたします」 
 やべっ、家庭教師のことすっかり忘れてたぞ!? しかもアンドラス!? 
 どうやら、この世界の人間はとことんまで元世界と同じ住人で構成されてるらしいな。まあわかりやすくていいんだけどよ。 
「あー、アンドラス? あのよ、わりいんだけど……」 
 どどどっ、とドアにかけより、鍵をかけながら言った。 
「俺、今日ちっと気分が悪くてな。わりいけど、休ませてくんねえ?」 
「ステア様。ですが……」 
「ですがじゃねーよ! 病気だっつってんだろーが。何なら明日でも明後日でも代わりを受けてやっから、今日は本当に休ませてくれ」 
 俺がそう言うと、アンドラスは「わかりました」とだけ言って、部屋の前から去って行った。 
 わりいな。もしかしたら、親父から怒られるのかもしれねえけど。 
 こんなもの見つけちまっちゃあ、どうせ勉強になんかなんねえだろうしな。 
 俺は、ベッドに横たわると、日記をめくり始めた。 
 稚拙な字で最初に書かれていたのは、 
 「今日から日記をつけろってアンドラスに言われた。めんどくせえなあ。そう言ったら、『文章を書くのに慣れておくのは必要なことです』って言われた。しゃあねえ、やるか」 
 こんだけ。 
 おいおい、こっちの世界のさらに十年前の俺。これは日記とは言わねえぞ、多分。 
 それからも、似たような短い文章だけがとびとびに書かれている。大抵は、「今日はクレイと基地に行った」だの「今日の勉強はつまらなかった」だの、どうでもいいような文章だが。 
 ばらばらと流し読みをしていく。結構な厚さがある割りに、あっという間にページは進んで行ったが…… 
 あるページに来たところで、俺は思わず身を起こした。 
 そこに書かれていた日付は、今からちょうど6年前。年齢が元世界の俺と同じなら、12歳のときってことになる。 
 そこに書かれていたのは…… 
「今日、キットン達が話をしてるのを聞いた。俺はクレイと半分しか血が繋がってねえしょうふくの王子だって言ってた。俺がいるのに気づいて慌てて話をやめてたけど、気づくのがおせえよ。でも、しょうふくってどういう意味だ?」 
「しょうふくの意味を聞いてみたけど、誰も教えてくれねえ。しょうがねえから辞書を引いてみた。愛人の子っていう意味らしい。そっか。俺って親父の子ではあるけど、母ちゃんの子じゃあなかったんだ。だから、母ちゃんはいつも俺を冷たい目で見てるんだな」 
「親父に『何で俺をひきとったんだ?』って聞いてみた。『クレイに万が一のことが起きたとき、かわりが必要だろう』って親父は言った。そうか、俺はクレイのかわりなんだ。だから、城の連中は、みんな俺のことを心から大事にはしてくれねえんだな。俺に対する態度とクレイに対する態度が全然違うもんな。同じにしてるつもりかもしれねえけど、ばればれなんだよ」 
「今日から俺の名前はトラップだ。第二王子ステアじゃねえ。俺は代用品なんかじゃねえ」 
「クレイはいい奴だ。『俺、お前とは半分しか血が繋がってないんだってな』って言ったら、『何言ってるんだ。お前が俺の弟だっていう事実には、何の関係も無いだろう』って言って小突かれた。あーあ、あいつはどうしてあんなにお人よしなんだろうな」 
「今日、ルーミィが家に来た。髪の毛が銀色で、俺にもクレイにも全然似てねえ。母ちゃんの目は、やっぱり冷たかった。そうか、ルーミィも妾腹の子なんだな。俺と同じか。だけど、まだ赤ん坊のあいつは、そんな事情なんか知らねえですげえ無邪気に笑ってた。羨ましい」 
「もうこんな王家なんか知らねえ。クレイさえいれば十分なんだろう? 俺がこんなところにいる理由は何だよ。俺はいつか絶対出て行ってやる。こんな王家、いつか絶対に捨ててやる」 
 そこで、日記は終わっていた。 
 ばたん、閉じて、元の場所に戻しておく。 
 何だかなあ……このことだったんだな。クレイの言っていた「忘れていた方がいい記憶」ってのは。 
 妾腹の王子……ね。なるほど。 
 道理で。城の連中が、俺に対して上っ面だけの礼しかしねえわけだ。 
 クレイやルーミィが兄妹なんておかしいと思ってたんだよな。全く似てねえじゃねえか。……そういう理由かよ。ったく。 
 もちろん、これはこっちの世界の俺の事情であって……俺には何の関係も、無い。無いはず……だ。 
 けど……何なんだろうな。この胸の中に残る、異様な寂しさは。 
 馴染んじまったっていう証拠なんだろうな。元世界に戻る方法は全然わかんねえし、もうこうなったらこっちの世界に移住するしかねえ、どうせみんなここにいるんだからそれもいいって、心の奥底で思い始めてたっていう……証拠なんだろうな。 
 はあ。 
 何でだかため息が漏れた。何と無く窓辺に近づいて外を見る。 
 どぐん 
 そして、心臓がはねた。 
 窓の外に広がるのは森。真下に見えるのは、城の中庭。 
 その中庭に……クレイとパステルが、いた。 
 何を話してるかまではわかんねえが、ベンチに腰掛けて、何やら楽しそうに話している。 
 ……パステル。 
 そうか、そうだったよな。 
 そういえば、元世界のおめえは……クレイのことが、好きなんだったよな? 
 性格も外見も全く同じなんだ。元世界でそうだったのなら、こっちの世界でも……当然、そうだよな? 
 ……何だよ。何で、こんなにショックを受けてんだよ、俺は。 
 気にすること、ねえじゃねえか。パステルが誰を好きだろうと…… 
 そのとき、眼下で、二人が立ち上がった。そのまま、城内へと入っていく。 
 ほとんど反射的だった。反射的に…… 
 俺は、部屋を飛び出していた。 
  
 パステルとクレイがどこへ行ったのか。 
 何しろ、この城は広い。一週間もここにいたが、いまだに俺は行ってねえ場所があるくれえだ。 
 だけど、予感がある。 
 それは、すげえ当たって欲しくねえ予感だが……悲しいことに、俺の予感は、当たるんだよな…… 
 向かったのは、クレイの部屋。 
 俺の部屋から結構離れた場所にあるが、1〜2度行ったことがある。 
 そこに駆けつけて、そっとドアに耳を寄せる。 
 聞こえてきたのは……俺の予想が当たっていたことを示す声。 
 内容まではよく聞きとれねえが、中から響く笑い声は、間違いなく……クレイとパステルだ。 
 ……随分と、楽しそうだな。 
 いっそ、部屋に踏み込んでやろうか。 
 そんな考えが浮かぶが、自分がみじめになるだけだと思いなおす。 
 ……わかってたこと、だろ? 
 そうだ。わかってたはずだ。こうなることは。 
 だから、俺は気にしないふりをしていた。自分の気持ちに気づかねえふりをしていた。 
 認めたくはなかった。どうせ実るわけがねえと思っていたから。 
 パステルのことが好きなんだと……認めたく、なかった。 
  
 パステルがクレイの部屋から出てきたのは、そろそろ昼飯の時間になる、というときだった。 
 自分の部屋に戻ろうと何度も思ったが、結局、そのままクレイの部屋を見張っていた。 
 我ながらバカなことをしていると思う。通りすがりの使用人達がすげえ不審な目で俺を見て行ったが、にらみつけると何も言わずに去って行った。 
 ……気にくわねえ。本当に、気にくわねえ。 
 何で認めちまったんだ。何で気づいちまったんだよ。 
 自分のバカさ加減に腹が立ってくる。全く、何で……パステルなんかに、惚れちまったんだよ。 
 パステルは、両手いっぱいに本を抱えて、上機嫌で歩いていく。どうやら、自分の部屋に向かおうとしているみてえだが…… 
「おい」 
「きゃあ!?」 
 ぐっと肩をつかむと、ばさばさと本を落として振り向いた。 
 その顔に、意外そうな表情が浮かぶ。 
「あ、トラップ。もう勉強は終わったの?」 
「ああ、まーな」 
「じゃあ、昼食もらってくるね。部屋で待っててくれる?」 
「ああ……」 
 おめえ、一体クレイの部屋で何してた? 
 俺がいねえ間……何を、話してたんだ? 
 聞きてえことは山のようにあったけど、それが言葉になる前に、パステルはさっさと階段を上って行った。 
 なあ、パステル。 
 おめえは、知ってるのか? 俺が妾腹の王子だってことを。 
 おめえが最後にクレイを選ぶ理由に……それは、含まれているか? 
  
 先に部屋に戻って待っていると、パステルが昼食を運んできた。 
 もっとも、腹なんかちっとも減ってなかったが。 
 機械的に口に運んでいく。パステルは、何やら色々と言ってきたが、ほとんど聞いちゃいなかった。 
 「ああ」とか「うん」とか適当な返事をしているうちに、やがてパステルも何も言わなくなった。 
 ……どうすればいい。 
 黙って、諦めて、それで俺はいいのか? 
 やっとわかった。クレイが、「心から素直になれる人間が見つかってよかった」と言っていたわけが。 
 日記からあふれてきていたのは、誰も信じないという暗い思い。 
 生まれたときから代用品であることを強制されて、誰も本気で向き合ってはくれなくて、クレイのことを憎みたかったのに憎めなくて、怒りのやり場を失った人間。 
 それが、こっちの世界の「俺」。……何だかなあ。自分だから、って言うわけじゃねえけど……哀れ、だよな。 
 けど、パステルは……違う。絶対に、違う。 
 こいつだけは、そんな身分とかを気にするような人間じゃねえ。俺が妾腹だろうが正当な後継者だろうが……変わらない態度を取ってくれたはず、だ。 
 唯一心を許せる存在。そんな存在さえも、クレイにくれてやるなんて……いくら何でも、あんまりじゃねえか? 
 そう思ったとき、俺はつぶやいていた。 
「……あのさあ」 
「ん? 何?」 
 やっと俺から話しかけてきたのが嬉しいのか、パステルが身を乗り出してくる。 
 ……聞くぞ。聞いちまうから、な。 
 俺にとって、おめえは唯一の心の拠り所だから。おめえがいてくれるおかげで、俺はこの冷たい城で、元世界と同じように過ごすことができたから。 
 だから、聞かせてくれ。本当のことを。 
「いや……おめえ、午前中……」 
「うん?」 
「……おめえ、午前中はクレイと一緒にいたのか?」 
「え? うん、そうだよ」 
 あっさりと答えてくる。 
 ……隠そうとしねえってことは……やましいことはしてねえ、そう思っていいのか? 
「……あに、してたんだ?」 
「うん。中庭にいたんだけど、そこで偶然クレイに会ってね。部屋に誘われたから、本を読みながらおしゃべりしてたの」 
 部屋に誘われた。 
 そうか、誘ったのは、クレイの方か……あいつに限って、妙な下心を持ったりはしねえと思うが。 
 それにしても……この、鈍感女が。 
 二人っきりで、部屋に誘われて……それで、普通のこのこついていくか? いや、確かにパステルとクレイなら、滅多なことは起こらねえだろうけどよ。 
 それを言うなら、俺とだってしょっちゅう二人きりだしな。 
 それにしても…… 
「おめえ、クレイが好きなんか?」 
「はあ??」 
 我慢できずに漏らした質問。 
 その質問に、パステルは心底不思議そうな顔をした。 
「な、何言ってるのよ突然」 
「いんや、別に。たださあ」 
 平静を装いながら、内心はびくびくものだった。 
 これは、俺の賭けだ。おめえが、立場を、身分を気にしているかどうか。俺とクレイの間に、何か「違い」のようなものを感じているか。 
「やめといた方がいいんじゃねえ? クレイは王子様だぜ。それも王位をいずれ継ぐ第一王子。おめえみてえなただの侍女に、手の届く相手じゃねえって」 
「…………」 
 それは、ある意味で自虐的な言葉だった。 
 それを言うなら俺だって同じだ。立場だけなら、俺は第二王子。十分に……ただの侍女に、手の届く存在じゃねえ。 
 外から見たら、な。 
 俺の言葉に、パステルはしばらく黙っていたが。 
「へ、変な勘違いしないでよ!! わたしは別にクレイを好き、なんて思ってないったら」 
 その表情は、わずかに……暗い。 
 何で、暗いんだよ。ショックなのか……? クレイを好きになれないと改めて言われて、ショックなのかよ……? 
「クレイ、ね。おめえら、ちっと見てねえ間に随分仲良くなったんだな?」 
「な、何言ってるのよ。『クレイでいいよ』って言ってくれたから、そう呼んでるだけじゃない。第一っ……」 
 パステルは、きっと俺をにらみつけるようにして言った。 
「何でトラップにそんなこと言われなくちゃいけないの? 本を貸してくれるって言うから行っただけだってば! わたし、最近あんまり眠れないから、時間を潰すのに読む本が欲しくて……本当にそれだけなんだって!」 
 ……え? 
 その言葉は……意外だった。 
 眠れない? ……こいつも? 
 そう、それは、俺と同じだったから。 
 俺もよく眠れなかった。普段寝ているみすず旅館のベッドより、寝心地では断然上のはずなのに……ひどく落ち着かなくて、どうしても熟睡できなかった。 
 そのせいで、朝もなかなか起きれなくて、パステルの手を煩わせていたわけだが…… 
「おめえ……眠れねえのか?」 
「……わたし、あんまり部屋で一人で寝ることってなかったから。あんな広い部屋で一人でいると、何だか寂しくって」 
 それは、全く俺と同じ答えだった。 
 寂しい。そう、まさにそれが俺の気持ち。 
 この城にいても落ちつかねえ。誰も彼も、俺のことを「ステア様」と敬ってくれるが、その態度には全然心がこもってねえ。 
 話し相手になってくれるのは、クレイか、パステルか、あるいはルーミィか。 
 こんな広い部屋で、広い城で、たった三人だけ。 
 いつも賑やかな場所で過ごしてきた俺にとって、それは……酷く慣れない経験だった。 
 いつもうるさいと文句ばかり言っていたような気がする。たまには、俺の方が「うるさい」と怒鳴られた。 
 部屋が狭いと文句を言って、飯が貧しいと文句を言って。 
 だけど、そんな生活が楽しかったんだと。すごく充実していたんだと気づいたのは、こっちの世界に来てからだった。 
 そして、気づいたときには、もう、元の世界に戻る方法はわからなくなっていた。 
 俺の傍に残ったのは、パステルだけ。パステルと一緒にいるときだけが、元の世界の、心から落ち着けた時を取り戻せた。 
 ……失いたくねえ。パステルを、失いたくねえ。 
 おめえは言ったよな。クレイを好きなわけじゃねえと……言ったよな? 
 俺は、それを信じるぜ。 
 信じないと……この世界にいることが、辛くなるから。 
 「本を読んでもいいか」と聞いてくるパステルに黙って頷いてやると、それから、パステルはずっと俺の部屋で本を呼んで過ごした。 
 その姿を見ているうちに……俺の中に、ある衝動が、膨れ上がってきた。 
  
 真夜中。 
 散々悩んで、後悔しねえかと自問自答して、結局それしか方法が無いのだと自分に言い聞かせて。 
 やっと決心がついたのは、こんな時間。 
 そっと部屋を出る。外には誰もいねえ。まあ当たり前だが。 
 まわりを見回して、素早く隣の部屋をノックする。 
 もしかしたら、寝てるかもしれねえけど。あいつが、パステルが、俺と同じように眠れないと悩んでいるのなら。多分…… 
「はい……誰?」 
 案の定、答えはあっさり返って来た。 
 ……これからが、問題だ。 
「……俺だけど。ちょっと、いいか?」 
「え?」 
 パステルは、ひどく驚いたみてえだが……それでも、迷わず鍵を開けてくれた。 
「うん……どうぞ」 
 ドアを開けると、目の前には、寝巻き姿のパステル。 
 部屋の中は月明かりだけしかなかったが、十分に明るかった。 
 月光を浴びて立っているパステルの姿は、何だか妙に扇情的だった。 
「どうしたの? こんな時間に」 
「あー、……まあ。その、だな」 
 くっそ、緊張する。あんだけ悩んで決心したんだろうが。今更ためらってどうする、俺! 
「ちっと話してえんだよ。それとも、寝るとこだったのか?」 
「え? う、ううん。違うけど……」 
 パステルは不思議そうだった。ま、そりゃそうだろうな。 
 こんな時間に話す用事なんて……普通、思いつかねえよな。 
 どかっ、とベッドに腰掛ける。 
 言えよ、言っちまえ。言わねえと後悔する。それだけは確かなんだから。 
「トラップ……何? どうしたの?」 
「……信じて、いいか?」 
「え??」 
 目を白黒させるパステルに、重ねて言う。 
「おめえ、昼間……クレイのことは、別に好きじゃねえ、って言ってたよな……それ、信じてもいいのか?」 
 俺の言葉に、パステルはしばらく首をかしげていたが、 
「そうだよ。確かにいい人だなあ、って思うけど……それだけ」 
 大きく頷く。 
 ……本当だな。本当に、本当なんだな? 
 じゃあ……言うぞ。言って、いいんだな? 
「……じゃあ、な……」 
 くそっ、声がうまく出せねえ。こんなに緊張するものなのか!? 
「…………って、いいか?」 
「え??」 
「惚れた、って言っていいか、って聞いたんだよ!!」 
「はあ??」 
 俺の一世一代の告白。それを、パステルの奴は、実に不思議そうな顔で切り返した。 
 まさか……何言われたのかわかんねえ、って言うんじゃねえだろうな!? 
 この俺が、柄にもなく自分から告白したんだぞ!? 
 が、さすがのパステルも、これだけはっきり言えば、伝わることは伝わったらしい。 
 しばらく、きょとんと俺を見ていたが…… 
「ええっ!!?」 
 真っ赤な顔で、後ずさった。どん、と壁に背中をぶつけて、そこで止まる。 
 その目は、まっすぐに俺を見つめている。 
 ……そらさねえからな。冗談じゃねえから。本気だから。 
 だから、絶対にその目は、そらさねえ。 
 じっと見返してやると、パステルは…… 
 何故だか、悲しそうにうつむいた。 
「だ、駄目だよ!!」 
「あ?」 
 その答えは……半分くらいは、予想していたものだったが。 
 駄目、か。いざ言われると……ショックなもんだな。 
 けど。 
 一瞬諦めかけた俺にかけられたのは……ある意味、当たり前の言葉。 
「駄目だよ……昼間、トラップも言ってたじゃない。ただの侍女が、王子様なんか好きになっちゃいけないって」 
「…………」 
 そう、確かに俺はそう言った。 
 自分でそう言った。こいつはクレイを好きなんだと誤解して。 
 こっちの世界の「俺」なら、もしかしたら……隠し通したかも、しれねえな。 
 けどな…… 
「トラップは……第二王子、でしょ? 駄目だよ。わたしは、ただの侍女で……」 
 それ以上は、言わせねえ。 
 気がついたとき、俺は……パステルの身体を、抱きしめていた。 
 見た目以上に細い、華奢な身体を、力いっぱい抱きしめる。 
「と、トラップ……?」 
「……関係、ねえよ」 
 関係ねえんだ、立場なんか。身分なんか。 
 どうせ…… 
「関係、ねえ。どうせ、俺は余計もんの王子だ」 
「……え?」 
 パステルの言葉は、酷く間が抜けていた。 
 心底意外そうな……そんな表情。 
「知らなかったのか? 誰も言わなかったか? ……俺は、王子っつっても……妾腹の王子だ」 
「え? しょう……」 
 妾腹。 
 余計物。クレイの代用品。いてもいなくてもいい存在。 
 いや、むしろ…… 
「クレイと俺は、半分しか血が繋がってねえ。親父が愛人に生ませた……いらねえ子供、っつうことだ」 
 腕に力をこめる。 
 パステルにわかって欲しい。俺は、クレイとは違うってことを。 
 俺はクレイとは違う。その気になれば、その気になりさえすれば、いくらでも立場を捨てられるってことを。 
「俺だけじゃねえ、ルーミィもだ。気づかなかったか? クレイも、俺も、ルーミィも……兄弟だっつーのに、全く似てねえだろ? 俺もルーミィも母親に似ちまったからな……」 
「トラップ……」 
「せめて俺が女だったら。女だったら王位を継ぐことはできねえから、ルーミィみてえに無邪気でいられたのに……男に生まれたから。クレイと王位継承権を争える存在だから、ガキの頃から余計なもんって扱いをされてきたよ。親父は無関心だし、お袋……クレイのお袋にしてみりゃあ、俺は裏切りの象徴みてえな存在だからな。何で引き取ったんだ、ってガキの頃に聞いたことがあるよ。そしたら、あいつは何つったと思う?」 
 俺がその体験をしたわけじゃない。 
 そんな体験をしたのは、あくまでもこっちの世界の「俺」。 
 なのに、不思議なくらい、スラスラ言葉が出てきた。 
 日記でしか知らねえこっちの世界の「俺」。だけど、「俺」がどんな気持ちで18年間を過ごしてきたのか、俺にはよくわかったから。俺にしかわからなかっただろうから。 
「クレイに万が一のことが起きたとき、かわりが必要だろう? 親父は平然とそう言ったんだよ。城の連中もそうだ。みんな、俺のことを『王子』って扱ってるけど、腹の中じゃあ、クレイのおまけくれえにしか考えてねえ。誰も気を許さねえ。成人したらこんなとこ飛び出してやるって、ずっとそう思ってたんだけどよ……」 
 そう言って、パステルの目を見つめる。 
 パステルの目は、潤んでいた。自分のことでもねえのに。他人の人生を聞いて、涙を流そうとしていた。 
 そうだ、おめえはそういう奴だよな。 
 救いようのねえお人よしで……他人のことを自分のことのように考えることができて、いつだって一生懸命で。 
 だから、俺はおめえになら心を許せたんだよ。おめえなら、絶対に軽く考えたりしねえって思ったから。 
「おめえだけだ。俺が王子でも、そうでなくても……変わらない態度をとってくれるのは、おめえだけだ。おめえがいたから、俺は……何でもない日常が、すげえ貴重なものだったって、知ることができたんだ。心から安らげるってのがどんなに貴重か、知ることができたのはおめえのおかげだ、パステル」 
「トラップ……そんな、そんなことないよ。だって、クレイだって……ルーミィだって、あんなに、トラップのこと……」 
 パステルの、必死の声が耳に届く。 
 ああ……そうだな。 
 クレイ。元世界の俺にとっては、親友。こっちの世界の俺にとっては…… 
「ああ、そうだな。ルーミィはまだガキだから何もわかってねえにしろ……クレイはいい奴だよ。俺のことを本当の弟として扱ってくれる。絶対に差別なんかしねえしな。けどな……」 
 けど、違うんだ。 
 こっちの世界の「俺」は、決してクレイに気を許せねえ。兄貴だからこそ。 
「いい奴だから、辛いんだよ。あいつがすげえ嫌な奴だったら……憎めたのに。嫌いになれたら楽だったのに。クレイがいい奴だから、憎めねえから……余計に辛いんだよ。俺はおめえに何かあったときの代用品なんだぞって、わめいてやりてえ。だけど、それは言えねえんだ。言ったら、あいつはきっと、何も悪くねえのに自分を責めるだろうから」 
 それは、日記にも書いてなかったこっちの世界の「俺」の本音。 
 嫌な奴だったらよかった。憎めたらよかった。 
 そうすれば、このやり場の無い怒りをぶつけることができたのに。 
 クレイがいい奴だからこそ、余計に辛かった。ぶつけようの無い怒り、嫉妬、そんなものを抱えて生きていくのがどんなに辛かったか。 
 腕が震えるのがわかった。 
 俺は全てを話した。何もかも。自分の気持ちも、立場も、身分も。 
 だから…… 
「一人で飯食うのが寂しいって言われたとき、一人で寝るのが寂しいって言われたとき、嬉しかったんだよ。おめえは俺と同じことを思ってるって。俺もいつも思ってた。誰も気を許せねえこの城で、たった一人で飯を食うのが味気なくて、なかなか寝付けなくて……なあ、パステル」 
 抱きしめる。パステルの身体を。 
 離したくない。絶対に離さねえ、そんな思いをこめて。 
「パステル、俺は……おめえのことが好きだ。おめえのためなら、こんな王位なんか……すぐに捨ててやる。おめえさえいれば、何もいらねえんだ。身分なんか関係ねえ。俺と一緒に……生きて欲しいんだ」 
 じっとパステルの目を見つめる。 
 これで、全部だ。俺の思いは、全部話した。 
 パステル。おめえは……どうする? 
 しばらく見詰め合っていた。パステルの目は……それない。 
 そのまま、俺の目をじっと見つめている。 
 顔を近づける。パステルは、何も言わず……ただ、目を閉じた。 
 ゆっくりとその唇を塞ぐ。抵抗は、無かった。 
  
 ゆっくりと、その身体をベッドに押し倒す。 
 思った以上に華奢な身体。力をこめたら……折れそうな身体。 
「……いい、のか?」 
「いいよ……」 
 パステルは、俺の目を見つめて、ただつぶやいた。 
「好き、だから……」 
 その言葉を聞いた瞬間、止まらなくなった。 
 逸る心を抑えて、再び唇を重ねる。 
 最初は軽く、やがて深く。 
 唇を割り開くようにして奥に押し入ると、パステルはわずかに震えたようだった。 
 初めて……だよな? なら、優しく……してやらねえとな。 
 正直、いつまで持つか不安なんだが。 
 深いキスを何度も重ねながら、徐々に唇を移動させる。 
 首筋に、胸元に。触れるたびに、熱い痕が、残った。 
 寝巻きのボタンに手をかけると、パステルは、暗がりでもわかるくらいはっきりと顔を赤らめて、視線をそらした。 
「……あんまり、見ないで……」 
 ……ばあか。 
 んなこと言われたら……ますます、見たくなるじゃねえか…… 
 ボタンを全開にする。とびこんできたのは、下着をつけていない胸。 
 さして大きくもねえが……それすらも、愛しく感じる。 
 そっと唇を近づけると、その身体がわずかにはねた。 
「ひゃんっ」 
 力をこめて吸い上げる。白い胸に、赤い痕。俺だけのものだという、印。 
 先端部分に吸い付くと、唇の中で、それは少しずつかたくなっていった。 
 割と、敏感だな、こいつ…… 
 舌先で転がしながら、手でゆっくりと頭を撫でてやる。そのまま、首筋へ、背中へと、愛撫を続ける。 
 びくり、びくりとパステルの身体が震える。初めてだろうが、ちゃんと感じている。 
 俺の愛撫に、感じている。 
「やあっ……」 
「……綺麗、だな。おめえの身体は……」 
 顔を見つめて、微笑んでやる。パステルの顔が、羞恥のためか、さらに赤く染まった。 
 まだ、だぜ。ここから先が、本番なんだから。 
「もっと、よく見てえんだけど。服……全部脱がせていいか?」 
 嫌だ、っつっても、脱がせるけどな。 
 パステルの返事を聞く前に、寝巻きを完全にはぎとる。 
 邪魔なそれをベッドの下に蹴落とし、下着に手をかける。 
 隠すものが何もなくなったパステルの裸身は……多分、俺が今まで見たどんなものよりも、綺麗だった。 
 俺の視線に耐えられなくなったのか、パステルは、視線をそらして、ぶっきらぼうにつぶやいた。 
「……寒いんだけど」 
「わりいな……すぐに、あっためてやるよ」 
 俺の身体でな。 
 ばさり、とシャツを脱ぎ捨てる。抱きしめたパステルの身体は……暖かかった。 
 しばらく、何も言わずただお互いの身体にしがみつく。その暖かさが、今この腕の中にパステルがいると、確信させてくれて、言いようの無い幸福感を感じることができる。 
 小刻みに手を動かす。触れるたび、確実にパステルの身体は火照ってきていた。 
 耳元に荒い息が触れる。……そろそろ、か? 
 膝を使って脚を割り開き、その間に俺の身体を滑り込ませる。 
 指先でかるく脚をなであげると、小さなうめき声が、響いた。 
 最初はふくらはぎ。やがて、それは太ももへと移動し。 
 最後に、俺を受け入れてくれる場所へと、到達した。 
 最初はさするだけ。ただ、指先で軽く触れるだけ。 
 それだけで……パステルの唇からは、うめき声ともあえぎ声ともつかない声が漏れた。 
 触られたことはもちろん、触ったことも、ねえんだろうな…… 
 軽く指をもぐらせる。まとわりついてくるのは、生暖かい何か。 
 駄目だな、もうこれ以上、我慢できそうもねえ…… 
「と、トラップ……?」 
「……なるべく、痛くないようにしてやりてえけど……」 
 ぐじゅっ 
 指をもぐらせる。か細い悲鳴のような声が、響いた。 
 そのまま、かきまわすようにして、奥へ、奥へと進んでいく。 
「俺も、初めてだから……よくわかんねーんだよ……許してくれよな」 
「とらっ……」 
 反射的に閉じようとする脚を、強引に開かせる。 
 既に十分すぎるほど反応しきっていた俺自身を、引き抜いた指のかわりにあてがう。 
 とまどいは、なかった。 
 次の瞬間、自分でも驚くほどスムーズに、俺とパステルは一つになっていた。 
  
 貫いた瞬間、俺の首にしがみつくパステルの腕に、力がこもった。 
 その目に浮かぶのは、涙。 
 ……痛いんだろうな。痛いって言うしな。 
 わりい。俺ばっかり、気持ちよくて。 
 パステルの中。そこはひどく快感だった。 
 暖かく、適度に狭く、適度に締め付ける。 
 まとわりつくようにしてうごめきながら、俺を確実に高みへと上らせる。 
 ゆっくりと動き始めると、パステルは、小さなうめき声をあげて目を閉じた。 
 けれど、その唇から「痛い」「辛い」「やめて」という言葉は、漏れなかった。 
 我慢、してくれてるのか。俺の、ために? 
 動きは少しずつ早くなる。 
 今すぐにでもイキそうになる自分を、限界まで持たせて…… 
 もう駄目だ、と思った瞬間、俺は、パステルの身体を抱き起こしていた。 
 太ももの上に座らせるように、パステルの身体を、より深く貫く。 
 パステルの身体から力が抜ける。もうこれ以上は入らない、そこまでいったとき。 
 俺は、パステルの中に、欲望を放っていた。 
  
 気がついたら、俺はそのままパステルのベッドで寝ちまっていたらしい。 
 朝起きたとき目にとびこんできたのは、やけに真っ赤になったパステルの顔。 
「……返事、そういや聞いてねえけど」 
 にやり、と笑って耳元で囁くと、「嫌だったら、一緒に寝ていない」という、何とも素直じゃない答えが返って来た。 
 ま、いいけどな。「好きだ」って言葉に出すのがどんなに勇気がいるかは、俺もよく知ってるから。 
 その後も、別に俺達の生活に何か変化があったわけじゃねえ。 
 ただ、夜寝るとき、どちらかの部屋にどちらかが訪ねるようになった、ただそれだけだ。 
 ただ、一つだけ約束した。 
「クレイが王位を継いだら、おめえのこともはっきりさせる。あいつなら、絶対わかってくれるからな」 
 そう言ってやったときのあいつの笑顔は、多分一生忘れねえ。 
 そう、俺達は幸せだった。 
 こっちの世界でパステルと幸せになれるなら。もう、無理して元の世界に戻ることもねえんじゃねえか。 
 かなり本気で、そう考えていた。 
 なのに。 
 何で、こうなっちまうんだ? 
 ずっと、幸せは続くと思ったのに。パステル以外は何もいらないと思ったのに。 
 その日は、ある日突然、やってきた。 
  
 それは、多分俺がこっちの世界に来てから一ヶ月程経ったとき。 
 俺とパステルは、部屋の中で他愛もねえ話をしていた。 
 そのときだった。どたどたどたっという足音が、廊下から響いてきたのは。 
「な、何だ?」 
 そのとき俺を襲ったのは、言いようのない不安。 
 根拠も無くよぎった……とてつもない、不安。 
 思わず立ち上がる。そのときだった。 
 ばたんっ!! 
 ノックもなしに、突然ドアが開いた。入ってきたのは、キットン。そして…… 
 ……え? 
 一ヶ月も経っているのに、ほとんど顔も見たことがなかった。 
 元世界では、何度も見ていたけれど。こっちの世界では、妙に近寄りがたい雰囲気を持っている奴。 
 現王アンダーソン陛下……つまり、俺の親父が。 
 冷たい目つきで、俺のことを見ていた。 
「親父……?」 
 言葉は、割と素直に出てきた。 
 こいつが、こいつこそが。 
 俺を、この冷たい城に縛り付けていた……元凶。 
「……久しぶり、だな。突然、何の用だ?」 
「ステア、聞け」 
 親父は、俺の言葉など全く無視して、ただ事務的な口調で告げた。 
「クレイが、死んだ」 
 ………… 
 ……は? 
 何を……言ってやがる? 
 言われた言葉が理解できなくて、しばしぽかんとその顔を見つめる。 
 だが、親父の顔は、どこまでもくそ真面目で……冗談を言っているような雰囲気は、微塵もなかった。 
「あに、言ってやがる」 
 漏れた声は、自分でも驚くほど、かすれていた。 
「年とってボケたんじゃねえの? あいつが死ぬわけ……」 
「中庭で、暗殺者に襲われた」 
 親父の声は、あくまでも事務的だった。何の感情もこもってねえ、そんな声。 
「城に直接侵入してくるとはな。我が王家を乗っ取ろうとする近隣の国が雇った者だとは思うが……残念なことに取り逃がしたため、詳細は不明だ。クレイは、毒を塗られた剣で斬られて、さっき息を引き取った」 
 ………… 
 何、だよ……それは…… 
 クレイは、クレイは……そんな理由で、殺されたってのか? 
 ただ、第一王子だから。そんな……理由で? 
 そんなくだらねえ理由で……あいつが、死んだってのか? 
 バンッ!! 
 気がついたときには、拳は机に振り下ろされた。 
 全ての怒りをこめて、親父をにらみつける。そんな視線を食らったところで、顔色一つ変えねえだろうことは、この短いやりとりで十分すぎるほどわかっていたが…… 
「……自分の息子が死んだ、ってーのに……顔色一つ変えねえとはさすがだな、親父。それで? 俺に何を言いに来たんだ」 
「バカなことを聞くな。お前もわかっているだろう」 
 親父の声は、事務的で、そして、全く迷いがなかった。 
 決まった事項を伝えに来ただけ、そんな口調で。 
 俺に言った。全てを破滅させる言葉を、告げた。 
「クレイが死んだ今、第一王位継承者はお前だ、ステア。既に、マリーナ姫のもとに使者を送ってある。お前が、マリーナ姫と結婚して、アンダーソン王家を継ぐのだ、ステア」 
 ………… 
 マリーナ……だと……? 
 そう言えば、どこかで聞いた。クレイには婚約者がいる、王家を継ぐために親同士が決めた隣国の姫。 
 それが……マリーナ? そして。 
 クレイが死んだから……俺に、結婚しろ、と? 
「嘘……」 
 隣でつぶやかれたのは。それまで、ただ蒼白な顔で話を聞いていた、パステルだった。 
「どうして……嘘でしょ? 何で、そんなこと……」 
「何だ、この娘は」 
 パステルのつぶやきに、親父は、初めて視線を動かした。 
 今までは目にも入っていなかった、下働きなんか人間とも思ってねえ、そんな目で。 
「す、ステア様の世話係で……パステル・G・キングです」 
「世話係? 随分躾の行き届いた世話係だな」 
 しどろもどろに説明するキットンを、ばっさりと切り捨てる。 
 ……違う。 
「も、申し訳……」 
「ちげえよ」 
 謝ろうとするキットンの言葉を遮る。 
 ……俺のことなら、何と言われても我慢できる。代用品だろうが消耗品だろうが、好きなように言えばいい。 
 だけど、こいつは。こいつだけは…… 
「ちげえよ。こいつは、こいつはなあ、俺の女だ。例え親父だろうとな、バカにすることは許さねえ!!」 
 親父の不躾な視線から守るために、パステルの前に立ちはだかる。それでも……親父は、顔色一つ変えなかった。 
「側室を持つことは王として恥じることではない」 
「そっ……」 
 側室!? つまり……マリーナと結婚して、パステルを愛人にしろ……ってことか? 
 どこまで……人をバカにすれば気がすむんだよ、こいつは……!! 
「準備をしておけ、ステア。お前ももう18。後二年で戴冠式だ。それまでに、学ぶこと、準備することはいくらでもあるからな。キットン、家庭教師の手配をしろ」 
「は、はいっ……」 
 だが、抗議の声をあげる暇は無かった。親父は、言いたいことだけ言い捨てると、さっさと部屋を後にしようとして…… 
「待て、親父! てめえ勝手なことばっかりぬかしてんじゃねえよ!! ずっと……ずっと放ってきたくせして今更っ……」 
 叫べたのは、ただそれだけだった。多分こっちの世界の「俺」だったとしても叫んだだろう……ただそれだけの言葉。 
 その瞬間、親父は一瞬足を止めた。だが、振り返ろうとは、しなかった。 
「今更何を言っている。わかっていたはずだろう? 自分がクレイの代わりだったということは」 
 ――――!! 
 ああ……これか。 
 5〜6年前、まだ子供だったこっちの世界の「俺」に叩きつけられたのは、この言葉なのか。 
 なるほど……よくわかるぜ。 
 自分自身を認めてもらえねえ、誰かの代理としてしか見られてねえことが、こんなに辛いことだなんてなあ……!! 
 気がついたときには、親父とキットンの姿は無かった。 
 傍に残っていたのは、パステルだけ。おろおろと入り口と俺を見比べた後……そっと、俺の方に寄ってくる。 
「と、トラップ……」 
「…………」 
「トラップ、大丈夫? ねえ……」 
 そっと腕に触れる優しい手。 
 だけど…… 
 だけど、駄目だ。今は……おめえを思いやっている余裕が、ねえんだ。 
 そっと手を振り払うと、パステルは、酷く辛そうな視線を向けた。 
「わりい……一人に、してくれ……」 
「…………」 
 俺の言葉に、答えは、なかった。 
 やがて、俺は部屋に一人になった。 
  
 一人で部屋にこもっていると。クレイとの思い出が、次々と頭をよぎっていった。 
 ああ、そうだ。クレイは、こっちの世界でも、やっぱりクレイだった。 
 どうしようもなく優しくて、自分よりもまず他人を思いやって、優柔不断で、お人よしで……誰からも好かれる、そんな奴。 
 俺はクレイの親友だと思っている。きっとあいつもそうだろう。 
 あいつには、色々と嫌な目にも合わされた。何しろあいつはもてるからな。俺が目をつけた女は片っ端から奪われたと言っても過言じゃねえ。 
 しかも始末の悪いことに、本人にその自覚がねえときたもんだ。 
 だけど…… 
 そんな奴でも、憎めなかった。あいつなら仕方ねえか、と素直に思えた。 
 クレイ、死んだって、本当なのか……? 
 俺とパステルのことを、自分のことのように喜んでくれたのに。 
 秘密基地で三人で話したとき、元世界のクレイと全く同じ笑みを浮かべて……王子だっつーのに、下働きのパステルにも全く平等な笑顔を振りまいて、幸せそうに笑ってたじゃねえか。 
 あんないい奴が……ただ、第一王子だから、そんな理由で……死んじまうなんて…… 
 どれだけ悩んでたのかわからねえ。 
 気がつけば、もう真夜中に近くなっている、そんな時間。 
 そのときだった。俺の部屋に、微かなノックの音が響いたのは。 
「…………?」 
 返事もせずにドアに歩み寄る。一瞬、空耳じゃねえかと思ったが…… 
 こんこん 
 聞こえた。誰かが、外にいる。……パステル? 
「……誰だ?」 
「…………あたしです」 
 聞こえた声は、ひどく意外な声だった。 
  
「……どうしたんだよ、こんな時間に?」 
 俺が声をかけると……リタは、ぎゅっと唇をかみしめてうつむいた。 
「こんな時間に、申し訳ありません。いかような罰でもお受けします。ですが……ステア様に、どうしても聞いていただきたいことがあるのです」 
 …………? 
 わけがわからねえ。何だ? 突然。 
 とにかく、リタを部屋に招き入れる。本来、こんな時間に王子の部屋を訪ねるなんざ、許されることじゃねえんだろう。リタの身体は、震えていた。 
「どうしたんだ? 何があったんだよ」 
 そう声をかけると、リタは、大きく息をついいていった。 
「ステア様。単刀直入に言います。パステルが……城から出て行きます」 
 …………!? 
 聞かされた言葉は、にわかには信じがたい言葉。 
 何で……だ? 
 クレイがいなくなって……いよいよ、俺のまわりにはパステルしかいなくなったのに。 
 何で…… 
「キットンが……話しているのを聞いたんです。ステア様。キットンは、あなたのために、パステルに身を引くようにと……そう言ったそうです」 
「……は?」 
 俺の、ため? ……何だ、そりゃあ? 
 視線で続きを促すと、リタは、表情を歪めてつぶやいた。 
「こうなったのは、あたし達にも責任があります。ステア様、あなたを、クレイ様の代用品としてしか見てこなかったあたし達も悪いんです。キットンは……ただの侍女を、王妃にするわけにはいかないと。ただ、パステルがいたら、ステア様はきっと結婚の承諾などされないだろうと。今まで陽のあたる道を歩けなかったステア様が、やっと全てを手に入れるチャンスをつかんだのだから。あなたが本当に愛しているのなら……身を引いてくれと、そう言ったそうです」 
 ………… 
 リタの言葉は……嘘だ、とはねつけるには、リアリティのありすぎる内容だった。 
 そうだ、確かにキットンなら言うかもしれねえ……こっちの世界のキットンは、王家に絶対の忠誠を誓っていた。俺に王家を継がせるためなら……それくらい、言うかもしれねえ。 
「パステルは出て行きます。あなたのことを本当に愛しているから、あなたのために身を引こうとしているんです。ステア様、あたしごときがこんなことを言うのは差し出がましいとわかっています。だけど……」 
「いい。それ以上言うな」 
 そのときには。俺はもう、立ち上がっていた。 
 そうだ。いつまでも落ち込んでいる場合じゃねえ。 
 俺はまだ一人じゃない。俺には、まだ……何を犠牲にしてでも、守りたいと思う奴が、いるから。 
「リタ」 
「はい!」 
 俺の言葉に、リタは弾かれたように顔をあげた。 
「……さんきゅ。教えてくれて、感謝するぜ」 
「ステア様……」 
 やるべきことは、一つしかねえ。正確には、それしか思いつかねえ。 
「俺のマント、取ってくれるか?」 
 俺の言葉に、リタは、満面の笑みで頷いた。 
  
 城を抜け出すのは造作も無かった。ま、忘れかけてたけど、俺は本来盗賊だしな。 
 夜の森は、昼間と違ってかなり不気味だ。 
 城を出る前に、パステルの部屋を覗いてみた。だが、部屋の中はもぬけの空だった。 
 あのバカ……本当に、何、考えてんだ…… 
 何が、俺のため、だ。本当に、俺のことを考えてくれるんなら…… 
 おめえがいなくなることが、俺にとって一番辛いって、何で、わかってくれねえんだよっ…… 
 森の中を走り出す。 
 パステルの行きそうな場所なんて、一つしかねえ。 
 正確には、一つしか思い浮かばねえ。 
 俺とあいつが二人でいった場所。城の中を除けば、それは一つしかねえから。 
 俺とクレイ、そしてパステル、三人だけの、秘密基地。 
 馬に乗ればすぐの道も、走ってだと、結構かかる。 
 パステルの足なら、なおさらだろう。特に、あいつは方向音痴だしな。 
 だけど。 
 俺は確信を持っていた。あいつは、絶対来る。 
 ここに。 
 休まず走り続けて、辿り付いたのは、もう夜も大分更けた時間。 
 後1〜2時間もすれば夜が明ける、そんな時間。 
 秘密基地は、静かだった。 
 誰もいねえ。誰も来た気配もねえ。泉も、小屋も、森も。夜だということ以外はいつもと全く変わらねえ。 
 ……いいや、来る。あいつは、絶対来るに決まってる。 
 ふらり、と小屋の中に足を踏み入れて、壁に背を預ける。 
 さすがに、疲れた。よく考えたら、全力で走ったのは、随分久しぶりだもんな。 
 なあ、パステル。早く来いよ。 
 待ってるんだからな。俺は……おめえを、ずっと待ってるからな。 
  
 それから、どれくらい時間が過ぎたのか。 
 じゃりっ、という微かな足音に、俺は跳ね起きた。 
 いつの間にか、うたたねをしていたらしい。それくらい疲れていたのか、精神的に参っていたのか。 
 そっと小屋の窓から外をのぞき見る。 
 間違いなかった。長い蜂蜜色の髪をまとめた後姿。 
 泉のほとりにうずくまって、肩を震わせているその姿は……何だか、とても小さく見えた。 
 泣いて……んのか? 
 そうか、そうだろうな。おめえは……泣き虫だもんな。 
 なあ、泣くなよ。俺は、おめえの泣き顔なんか……見たくねえんだ。 
 その気になれば、俺は気配もなくあいつの後ろに立つこともできるが。 
 驚かせる意味はねえ。早く俺に気づいて……泣き止め。 
 わざと足音をさせて後ろに立つ。 
「おめえ……遅えよ……一体どんだけ迷ってやがったんだ……」 
 振り向くパステルの顔に浮かぶのは、驚愕の表情。 
「トラップ……」 
「おめえの考えることなんてな、お見通しだっつーの」 
 そうだ。おめえの考えることなんかわかっていた。 
 リタの話を聞かなくても……朝、おめえが姿を見せなければ。俺は、即座におめえを追ってこれたぜ? 
 それくらい、俺は、おめえに……とりこになってんだからな。 
 顔を見た瞬間、我慢ができなくなった。 
 そのときには、もう、強引にその身体を、抱き寄せていた。 
「リタに聞いたんだよ。キットンが、おめえを追い出そうとしてる、ってな……奴の考えそうなこった。人のこと考えてるつもりで、どっかずれてんだよな、あいつは」 
「トラップ……」 
「バカか、おめえは!!」 
 耳元で怒鳴る。最大限のボリュームで。 
 森中に響きそうな大声に、パステルが首をすくめる。 
 なあ……わかってっか? おめえ。 
 俺は、怒ってるんだぜ。 
 「俺のため」なんて言いながら、俺のことをちっともわかってなかったおめえに。 
 すげえ……怒って、そして安心してるんだぜ? 
 やっと、おめえを捕まることができたことに。 
「バカか……俺のため? おめえ、バカじゃねえの? おめえがいない人生なんて……おめえを失わなきゃ継げねえ王家なんざ、何の魅力も、あるもんか」 
 そうだ。王家なんか捨ててやる。潰れようとどうなろうと知ったことか。 
 後のことなんか知らねえ。こいつを失うことに比べたら、恐れることなんか……何も、ねえんだからな。 
「トラップ……」 
「俺の、俺の幸せはなあ、おめえと一緒に生きることなんだよ。貧乏したっていい。逃げ回る生活になったっていい。おめえと一緒なら、それで満足なんだよ!! 何……つまんねえこと、考えてんだ……」 
「とらっ……」 
「……好きだ」 
 腕に力をこめる。もう絶対に、逃がさねえ。 
 おめえは俺のものだから。一生、俺のもんなんだからな! 
「好きだ。もう離さねえ。おめえ以外何もいらねえ。俺と一緒にいてくれ。それだけでいいんだ……」 
「トラップ!!」 
 パステルの声に含まれるのは、喜び。 
 そう、喜びだった。悲しみでも戸惑いでも怒りでもなく、まぎれもない喜び。 
 それは……いいんだな? 俺を受け入れてくれたと思って、いいんだな? 
 俺と一緒にいてくれると、そう思って……いいんだよな? 
 俺の背中に、パステルの腕がまわる。 
 耳元に、吐息が触れる。 
 それは、多分今までの人生で、一番幸せな瞬間だった。 
 そして。 
 その瞬間、幸せは……ぶったぎられた。 
  
 そのとき、感じたのは……酷く冷たい、そんな感触。 
 身体の中を何かが通り抜けていく、そんな感触。 
 パステルの目が、大きく見開かれた。その口元からあふれ出るのは、血。 
 そして。 
 俺の口元から、わずかにあふれ出たもの。それも……血。 
 何かが、俺とパステルの身体を繋いでいた。俺の身体を貫いて、パステルの身体も……貫いていた。 
 目にとびこんできたのは、パステルの背中から突き出る、血にまみれた剣先。 
 な、に、が…… 
 身体が酷く重くてだるい。振り向こうとしても振り向けねえ。 
 何が、起き…… 
「アンダーソン王家第二王子、ステア殿とお見受けする」 
 背後から響いてきたのは、どっかで聞いたような……感情のこもらない声。 
 アンダーソン王家第二王子ステア。それは……誰のことだ? 
 俺、じゃねえよ。それは……捨てた名前だ。 
「貴殿に恨みは無いが、これも我が主の命令故……アンダーソン王家滅亡のため、死んでもらう」 
 言葉は、それだけだった。 
 たったそれだけを言い残し……再び、背後は静かになる。 
 ……あいつか。 
 クレイを殺したのも……あいつなのか。 
 そして、俺も。 
 クレイと同じ。アンダーソン王家に生まれたと……そんな、ただそれだけの理由で。 
 こうして、ここで、死ぬ……のか? 
 これが、俺の運命? 
 ふっ、とパステルの顔を見つめる。その涙で彩られた表情は、絶望に染まっていた。 
 俺の顔を見て、そんな表情をするのか。……そうだろうな。 
 おめえの顔を見て、俺も多分、今同じ表情を浮かべている。 
 わかっちまったから。もう助からねえって。この傷は致命的で、俺達の命は、もうあといくらも残ってねえって……気づいちまったから。 
「とらっぷ……」 
 耳に届いたのは、微かな、本当に微かなパステルの声。 
 多分、声を出すのは相当にきついはずだが……それでも、パステルは、必死に声を出していた。 
 そうだな……おめえは、泣き虫で、ドジで、だけど……すげえ、根性のある奴だったよな。 
 だから、俺も。 
「パステル。……俺は、信じてるからな」 
「……え……」 
 だから、俺も根性を出して見せるぜ? 
 最後に残った力を……全て、おめえのために、使いきってみせる。 
「ここで、死んでも……生まれ変わったら、また、パステルに、会うかんな。また、おめえのこと……好きに、なるからな」 
「トラップ……」 
 俺は、こんなところで死んじまうようだけど。 
 だけど、これで終わりじゃねえ。元世界みてえに、俺とおめえと、クレイと、キットンとルーミィとノルと。 
 みんな一緒に、楽しく笑える世界だってあるんだ。確かに、あったんだ。 
 だから、これで終わりじゃねえ……絶対に、終わりじゃねえ。 
「次に、会うときは……こんな、関係じゃなくて。王子と、侍女じゃなくて……対等な立場で、生まれてえな。んで、堂々と……おめえに、好きだって……言う、からな」 
 身分違い。そんな言葉なんて関係ねえ。 
 おめえを好きだという気持ちに、何の偽りもねえ。 
 そんなことが理由で引き裂かれるなんて、納得いかねえから。 
 だから、俺は、絶対にまた戻ってくる。 
 どんな世界だろうと、おめえのいる世界に戻ってきて、またおめえとめぐり合って。 
 そして、もう一度おめえを好きになる。 
 だから、おめえも……忘れるんじゃ、ねえぞ……パステル。 
「好き、だよ。トラップ……」 
「……俺、もだ」 
 最後に聞いたのは、一番聞きたかった言葉。 
 そして、最後に言えたのは、一番言いたかった言葉。 
 じっとパステルを見つめ……そして、その唇を塞ぐ。 
 最後に見たのは、一番見たかったもの。 
 最後に触れたのは……一番、触れたかったもの。 
 その瞬間。 
 俺の意識は、そのまま、途絶えた。 
  
 ……プ…… 
 ………… 
 ――ラップ―― 
 何、だ……? 
「トラップってば!!」 
「うわっ!?」 
 耳元で突然炸裂した声に、俺は思わず飛び起きた。 
 な、何だ!? 何が……どーなった? 
 俺は、確か……あのとき、刺されて……そして…… 
「もう、トラップってば! そんなに驚くことないでしょう!?」 
「……あ?」 
 目の前に立っていたのは、蜂蜜色の長い髪をなびかせた、はしばみ色の目が印象的な女。 
 ただ、その姿は……この一ヶ月ばかり毎日見ていた紺のワンピースではなく、白いブラウスに赤いミニスカートという、いつもの姿で…… 
「ぱ、パステル……?」 
「え? 何?」 
 きょとんとするパステル。その姿は、本当に……何の変化も、ねえ。 
 何が……どーなった……? 
「ああ、目が覚めましたか?」 
 バタン、とドアが開いて入ってきたのは、いつもの小汚ねえ姿のキットン。そして…… 
「く、クレイ!?」 
「な、何だ? どーした……?」 
 当たり前のように部屋に入ってくるクレイに、俺は思わず叫んでいた。 
 な、何だ……? 生きてる……クレイ、だよな。青いマントも黒い髪も、いつものあいつだもんな。 
 あれは……何だったんだ? クレイが死んだっていう、あの言葉は…… 
 そこで、改めて部屋を見回す。硬いベッド。狭い部屋。見慣れてるはずだっつーのに、何か、すげえ懐かしい感じのする、みすず旅館の…… 
「戻って……きたのか?」 
「ちょっと、トラップ……変だよ。どうしたの?」 
 俺の様子に、パステルが不審そうにつぶやくが……んなことに構ってる暇はなかった。 
 何だったんだ? あれは……まさか、夢、だってのか? あんなにリアルで、長い夢……? 
 だけど、覚えてる。あの痛みも、あの甘さも、そして…… 
 ちらり、とパステルを見る。向こうはきょとんとしているだけだったが…… 
 覚えている。あの身体を抱いた感触。まさか、あれも…… 
「戻って、ということは……」 
 俺の言葉に目を輝かせたのは、キットンだった。 
「トラップ、もしかしてあなた、今まで別の世界にいませんでしたか?」 
「はあ?」 
 キットンの言葉に、俺を除く全員が間の抜けた声をあげたが。 
 それを聞いた瞬間、俺は、キットンにつかみかかっていた。 
 そうだ、全てを思い出した。 
 そもそものきっかけは、こいつが渡したジュースを飲んだことで始まった。 
 今まで、別の……だと? 
 何を知ってやがるんだ、こいつは! 
「キットン! てめえ、俺に何をした!!」 
「ぐっ……ぐ、ぐるじい……です……」 
「と、トラップ、落ち着け。丸一日ずっと寝てたんだから、あまり無理すんなって」 
 そんな俺を、慌てて後ろから羽交い絞めにしたのはクレイ。 
 その身体を振り払おうとして……ぴたっ、と動きが止まる。 
 丸一日……だと? 
 どういうことだ? 俺は……少なくとも、一ヶ月は、あそこで過ごしていたぞ? 
 一体…… 
「キットン……」 
「ひっ! ちゃ、ちゃんと説明しますから!!」 
 俺の声にこもる不穏な響きにびびったのか、キットンはばたばたと両手を振り回して言った。 
「ええと、あのですね。昨日、トラップに渡したジュースなんですけどね。あれは、わたしが作った薬なんですよ」 
「……薬?」 
 薬、ね。まあ、それは予想の範疇内だ。 
 問題は、その効果なんだよ。 
「あのですねえ、画期的な薬なんですよ? 皆さんは、前世、って信じますか?」 
「前世……って、あれか? 自分が生まれる前に歩んでいた人生、っていうあれか?」 
 キットンの言葉に、クレイが答えている。 
 前世……前世。まさか……? 
「そうですそうです。わたしの薬はですねえ、その前世に歩んでいた人生の、最後の一ヶ月を一日で体験できる、という画期的な薬なのです!!」 
 ………… 
 何、だと? それじゃあ、まさか。 
 俺が過ごした、あの一ヶ月は。 
 俺の、前世の……人生? 
「あなた、多分体感時間で一ヶ月ばかり別世界にいたんじゃないですかね? それはですね、あなたの前世なんですよ。そして亡くなることによってこの世界に戻ってきた、とまあそういうことです」 
 それだけ言って、キットンはいつものぎゃっはっはというバカ笑いをかましたが。 
 それに答える奴は、誰もいなかった。 
 まあ、当たり前だよな。元の世界に戻る方法が死ぬこと、だと? 
 誰が飲むんだよ、そんな物騒な薬。死んで確実に戻ってこれる保証もねえのに、飲む奴なんかいるのかよ? 
 いや、実際俺は戻ってきたけどな。多分最初に話を聞いてたら、それこそ死んでも飲もうなんて思わなかっただろうな。 
 けど…… 
「で、トラップ。どうでした? あなたの前世は、どんな人生だったんですか?」 
「…………」 
 キットンの言葉でよみがえる。あの一ヶ月の記憶。 
 パステルと一緒に過ごした、記憶。 
 最後の言葉。 
 今度生まれ変わったら、気兼ねなく好きだって言える対等な関係に生まれたい。 
 生まれ変わっても、絶対まためぐりあって、パステルに好きだって言うから。 
 パステル……俺は、守ったぜ。 
 おめえとの約束……ちゃんと、守ったからな。 
 だから。おめえも、守れよ。 
 俺の気持ち、ちゃんと……受け止めろよ? 
「おい、おめえら、ちっと部屋から出ろ」 
「はい?」 
「いいから、出てけっ!!」 
 俺が怒鳴ると、キットン達は顔を見合わせて、肩をすくめながら部屋を出て行った。 
 そして、その後をパステルが…… 
 って、おめえが出ていってどーすんだよ!! 
 ぐいっ、とその肩をつかむ。 
 パステルが振り向いたとき、ドアが、完全に閉じられた。 
「トラップ……?」 
「運命って、信じるか?」 
「え?」 
 パステルの表情に、困惑が浮かぶ。 
 それを無視して……俺は、パステルの身体を、抱きしめた。 
「と、トラップ!?」 
「人間なんて、いつどうなるかわかんねえよな。どこでどんな風に運命が交わるかわかんねえよな。俺さ、前世でそれを体験してきた」 
「……え?」 
 約束は守るぜ。言っただろう? 
 生まれ変わっても、絶対まためぐりあって、パステルに好きだと言うって。 
「好きだ」 
 俺の言葉に、パステルの背中が強張る。 
 前世では、運命に引き裂かれた。 
 だから、今度は、運命で結ばれてやる。 
 運命の神なんて奴がいるとしたら、今こうして俺とおめえが再びめぐりあったのは、前世で運命に引き裂かれたお詫びとしか思えねえから。 
「好きだ。おめえのことが、ずっと前から好きだった」 
「トラップ……?」 
「冗談なんかじゃねえからな。おめえ以上に欲しいものなんて、何もねえ……そう心から思った」 
「…………」 
 きゅっ、と背中にまわされたのは、俺よりずっと細い、パステルの腕。 
「……返事は?」 
「まさか、そう言ってもらえるなんて思わなかった。どうせトラップはマリーナのことが好きに決まってるって、そう思っていたから、諦めようとしてたのに……」 
 ふっと顔をあげたパステルの目は、涙で濡れていた。 
「好きよ。わたしも、トラップのことが……好き」 
 ほら、見てみろ。 
 やっぱり……約束は、ちゃんと守っただろ? 
 泣くことなんざなかったんだよ。あの別れは……この出会いのための、別れだったんだから。 
 ゆっくりとパステルの唇を塞ぐ。 
 あの最後の冷たい血の味がするキスとは違う、甘いキス。 
 今度こそ、幸せになってみせる。 
 巡り合った奇跡を、無駄にはしねえ。 
 おめえに会えて、本当に、よかった。

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