何だか、隣の部屋から、妙な物音が聞こえた気がした。
みすず旅館は自他共に認めるボロ旅館ですから! 壁も相当薄いんだよねえ。だから、隣の部屋のいびきが筒抜け、なんていつものことで。わたしもいちいち気にしたりはしないんだけど。
今日の物音は……何だろう? 無視するには、聞きなれない音だった、というか……
ありていに言えば、誰かがうめき苦しんでる声に聞こえたんですけど!?
「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」
確か、今日はキットンとトラップはバイトに行っていたはず。わたしも原稿が忙しいから、ルーミィとシロちゃんは気遣って外に出て……
も、もしかして彼女達の身に何か!? と、わたしはノックもせずに隣の部屋のドアを開けた。
そして、直後に、「空気が凍りつく」という言葉を実感した。
「っ……ぱ、ぱ、パステルっ!?」
「くっ……れ、い……?」
その部屋に、ルーミィ達の姿はなかった。多分、納屋のノルに相手してもらっているんだろう。
隣の部屋に居たのは、クレイ一人だった。
いつもなら、部屋にいるときの彼は、大抵愛用の剣の手入れをしているんだけど……
「う……」
「ち、ちがっ……これはっ……あの、そのっ……と、とにかく、あっち向いてくれないかっ!?」
何だろう。こういうとき、一体何を言えばいいんだろう?
クレイの手に、剣はなかった。代わりに、何と言うか……ある意味、それも「武器」と言えなくもないモノを握っていた。
赤らんだ頬。汗で張り付いた前髪。息を荒げている姿は、それでもやっぱりため息が出るほどにハンサムで。
だからこそ余計に、ズボンと下着を膝までずり下げて中腰になった姿が、途方もなく間抜けだった。
こ、これは……もしや、これが、噂に聞いた、あのっ……
「ご、ごめんっ! お邪魔しましたっ!」
ばーんっ!!
ああ、この衝撃をどう伝えればいいものやら。
とにかく、今見た光景は絶対絶対忘れた方がいい、と悟ったわたしは、素早くドアを閉めて、自分の部屋に逃げ帰った。
いやいや、鈍い鈍いと言われるわたしにしてはさあ? 上出来な判断だったんじゃないかなあ、うん。
一応、わたしとてそれなりの年ではあるから。世の中に「そういう行為」があることくらいは知っていた。
学校でも、一応その手の授業を受けたことがあったし。
リタ辺りは、客商売をしているからかな? その手の性質の悪い冗談を受けることも多いんだよねー、って、笑いながらイロイロと教えてくれたし!(イロイロ、の中身は、とてもわたしの口からは言えない)
ともかく、そのおかげかな? 何しろ、初めて見たモノだけに、最初の衝撃こそ大きかったけれど。
時間が経って落ち着いてくると。胸に浮かんだのは、「男の子って大変だよねえ」という、自分でも「それってどうなの?」と言いたくなるような感想だった。
いや、だってさあ。多分、普通の女の子なら「いやー最低! 不潔! 大っ嫌い!」とでも言うべきなんだろうけど。
あれが、例えばトラップだったというのなら、もしかしたらそんな反応をしていたのかもしれないけど。
あのクレイだよ、クレイ? パーティーのリーダーとして、人一倍正義感が強くて、誰にでも優しくて公正で、曲がったこととかが大嫌いなクレイですよ?
あの彼ですら、「その行為」にふけらずにはいられない、なんて――
それを初めて聞いたときは、「トイレに行きたくなるのと同じ。生理現象よ」なーんて言うリタの説明が全く信じられなかったんだけど。これは、信じるしかないのかなあ、なんて気になってしまう。
うん。トイレに行くのを我慢しろ、なんて酷だよね。よく考えたら、彼ら男三人は常に相部屋。一人になれる機会なんてそうそうないし、誰かに見られながらやるようなものでもなし。きっと、こういう機会って貴重なんでしょう。
ああ、邪魔して悪いことしちゃったなあ……
と、わたしが頭の中で無理やり整理をつけて、一人で納得していたときだった。
不意に、部屋に、遠慮がちなノックの音が響いた。
「……はーい?」
「あの……パステル、いいか? その……俺、だけど……」
「…………」
心の中では納得していたつもり、だったけど。やっぱり、まだまだ記憶も生々しい今は、顔を合わせたくなかった、というか……
い、いや、でも、まさか無視するわけにはいかないよね? いい、パステル。普通によ、普通にっ……
「な、何っ!? クレイ……」
ああ、我ながら引きつってるなあ……という笑顔を浮かべて、ドアを開ける。
そこには、ものすごーく気まずそうな顔をしたクレイが、立っていた。
……気まずいなら、少し落ち着いてから来てほしかった!
「ええと、さっきは! その、ごめんっ!」
がばあっ! と頭を下げる彼に、「いいよ、気にしないで」以外の言葉を言えるはずがない。
「いいよ、いいよクレイ。わ、わたしも悪かったんだもん。ごめんね、ノックもしないで!」
「っ……い、いや、悪いのは俺だよ。パステルもルーミィも宿にいたのに、あんなっ……」
「う……え、えと、その、気にしないで! る、ルーミィに見られたっていうのなら、さすがに困るけどっ……その、わたしも、その! そういうコトくらいは知ってたし!」
心底済まなそうな、情けない顔を浮かべているクレイを見ると、まるでわたしが悪いことをした気分になっちゃうじゃない!
いや、実際、ちょっとは悪いと思うんだけどっ!
「ほ、本当に気にしないでっ!」
「……け、軽蔑、しただろうな……」
「え?」
「俺のこと……軽蔑、しただろ? 本当に、ごめんな、パステル……」
「…………」
しゅん、とうなだれるクレイを見て、わたしは……うーん、どう言えばいいのか。何だろう? 胸の辺りが「きゅん」となってしまった。
いやいや、だってさあ。クレイはわたしより年上で、しかもパーティーのリーダーで。いつだって、誰よりも頼れる存在だったんだよ?
その彼がさ、まさか、こんな……
「気にしないで、ってば! 軽蔑なんかするわけないじゃない!」
「……いや、でも……」
「本当に、軽蔑なんかしてないって! そ、そのっ……そりゃ、ちょっとはショックだったよ? でも、クレイだって、年頃の男の子なんだからさあ」
ぴくっ、と、クレイの肩が揺れた。
けれど、わたしは、それが何を意味するのか、全然気づかなかった。
「だからさ、しょうがないんじゃない? むしろ、そういうのに全然興味が無い方が変だ……って思うよ? 多分、気づかれないようにしてるだけで、トラップとか……その、ノルもキットンもやってるんじゃない? クレイだけが特別じゃないよ! だから、気にしないで!」
「――違うんだっ!」
わたしの言葉を、強引に断ち切って。
クレイは、ばんっ! と、両手を床についた。
「違うんだよ、パステル」
「……え?」
「俺……あのとき……」
クレイの身体は、震えていた。
言うのが怖い。でも、言わずにはいられない――黙って知らんふりをすることは、彼のプライドが許さない。
そんな様子で。
「あのとき……俺……き、君を、想像してたんだ」
「は?」
「だ、だからっ! あのときっ……俺は、パステルのこと、想像してっ……その、してたんだよっ!」
「――はああああああああああああああああああああっ!?」
それはある意味、クレイの実に雄々しいモノをばっちり見たときよりも衝撃的な告白だった。
「なっ、なっ、何!? 何をっ!?」
「本当なんだ! あのとき……俺、パステルのっ……その、裸、とか、想像してたんだ! ここにパステルが居てくれたら、この手でパステルの身体を思いっきり抱けたら……触れることができたら、って! そんなことを想像してたんだよっ!!」
「何で――っ!?」
力いっぱい絶叫してしまったわたしを責めるのは、酷ってものじゃないだろうか!?
いやいやいやいや! その、何も無いところでその行為は不可能だっていうのは、わかるよ!?
普通なら、その、いかがわしい雑誌とか! その手の道具が必要なんだってことは、知ってたよ!?
でも、でも! 何でよりによってわたしなの!?
「ええっ、な、何でっ!? クレイの周りには、もっと綺麗でスタイルのいい女の子がいくらでもいるじゃない! 何でわたしっ!?」
「好きだからだよっ!!」
ぶつっ――と、頭の奥で、何か大事なものが切れてしまったような、そんな音を聞いた気がした。
「お、俺は、パステルのことが好きなんだ! ずっと、ずっと前からっ……」
「っ……く、クレイ……」
「だ、だから、俺はリーダーだから、そんなことは許されないって、そう思ってたけどっ……でも、我慢できなくて! 今日が……初めてってわけじゃ、ないんだ……」
「…………」
「卑怯なことだってわかってたんだ! だけど……や、やめられなくて。ずっと……謝りたかった……」
深々と、頭を下げて。クレイは、嘘や冗談なんてひとかけらも混じっていない口調で、つぶやいた。
「……ごめん……」
「…………」
消え入りそうな彼の言葉を聞きながら。わたしの胸に渦巻いたのは……何だろう? 「きゅんきゅんっ」っていう、そんな、すごーく変な気持ち。
クレイのことを好き? って聞かれたら、はっきり「好き」って言える。
でも、男の子として好き? って聞かれると、とっさには答えられない。正直、そんな風に考えたことがなかったから、「わからない」としか言えない。
でも……
クレイの「好き」っていう言葉は、すごく、すごく嬉しかった。
それは、絶対に確か。
「謝らないでよ、クレイ」
「……パステル」
「謝らないでよ……クレイは、ずっと苦しかったんでしょ?」
「…………」
「あの、あのさ、わたし……」
――どう言えばいいのか。
わたしも好きだよ、と今すぐには言ってあげられない。クレイはこんなにも真剣に「好き」って言ってくれたんだから、わたしも同じくらい「好き」って言えるようになるまでは――
でも、こんなにも落ち込んでいる彼を、何とか慰めてあげたい。本当に軽蔑なんかしてないし、好きって言葉はすごく嬉しかったよって、伝えてあげたい。
「あのっ……そ、想像で、我慢しなくても、いいよ……?」
「――え?」
「あのっ! ひ、貧弱な身体で本当に申し訳ないけどっ!!」
それは、100%の善意なんかじゃない、きっと。
多分、わたしも……初めて見てしまった「男の子の身体」っていうものに、興味を持ってしまった。
もっと知りたいって、思ってしまった。
だから、こんなことが言えるんだと思う。
「クレイが……そうしたいって思ってくれるなら……その、いいよ?」
「パステル……?」
「わたしの身体……好きに、して?」
胸を手にあてがって、ブラウスのボタンを1つ、2つと外していく。
するり、と布地が肩を滑っていった瞬間、クレイのたくましい腕に抱きすくめられていた。
END