キキ、っと鋭い音をたてて自転車を止める。  
 明日もバイト朝からだから乗って帰っちまった。まーいいだろ。  
 
 あー疲れた。  
 朝っぱらから赤チャリで走りっぱなし、ようやくメッセンジャーのバイトを終えて帰宅したみすず旅館。  
 まっすぐ2階に上がってぐてっと寝転がるつもりだったが、台所前を通って気が変わった。  
 開けっ放しのドアを覗き込むと、視界に入るのは柔らかそうなはちみつ色の束ねた髪。  
 後姿ですぐわかるうちの方向音痴マッパーが、エプロンをかけてなにやら立ち働いていた。  
「おーいコーヒーくんねえ?」  
「そこにあるよ」  
 即答。  
 つ、冷てえな、この野郎。  
 仕事して帰ってきた人間にもーちっとやさしくできねえのかよ?  
「いいじゃん、ついでくれたって」  
「忙しいのよ。それくらい自分でやってよね」  
 にべもない返事。  
 確かに忙しそうではあるが、それくれえしたって罰は当たらねえだろうが。  
 ブツブツ言っても振り向きさえしないパステルには、何を言っても無駄らしい。  
 仕方なく食器棚からマグカップを取り出すと、テーブルの上にあるポットからコーヒーを注ぐ。  
 所在無く立ったままでぬるいコーヒーを飲んでいると、ふと目に留まったのは籐製の籠。中には編み棒が数本とはさみ、小さい毛糸玉が幾つか入っているだけだ。  
 よく見れば籠の傍に切り落としたとおぼしき糸端も落ちていたりする。  
 あれ? 確か昨夜はまだこいつなんか編んでた気がするが、もう仕上がったのか。  
 昨夜見たそれはあまり大きくない編地で、確かピンクとベージュの毛糸じゃなかったっけな。  
 その配色からして、バレンタインが近いというのに俺用じゃねえな、くそっとひとりいじけてはいたんだが。  
 
 こいつが編んでたあれ、もしかして……毛糸のパンツじゃねえのか?  
 そうかそうか、それなら納得がいく。  
 仕上がったから速攻履いてヌクヌクと台所仕事をしてるというわけか。相変わらず色気のねえこった。  
 ひとり得心してニヤニヤ笑いつつ、パステルの後姿に目をやる。  
 この前リタにもらったとか言ってたエプロン姿。  
 ……言々撤回だな。  
 エプロン姿の女の後姿というのは、なぜか訳もなく背後に立つ男をかきたてるものである。  
 例えそのスカートの中身が毛糸のパンツであろうとも!  
 
 職業柄得意の忍び足で、相変わらず食材と格闘しているパステルにそっと近づく。  
 まぁ何も気配を殺して近づかずとも、にぶいこいつは気づきもしねえだろうが。  
 しかし真昼間なんだよな。背後から抱きつくわけにもいかねえし、押し倒そうもんなら包丁かフライパンで半殺しにされる。ならば。  
 俺は大きく息を吸い込むと、力いっぱいスカートを跳ね上げた。  
「きゃああああっ!!!」  
「あ……あれ? 履いてねえのか?」  
「は、履いてないってなんなの、何するのよトラップ!!」  
 一瞬にして顔を真っ赤に染め上げ叫びまくるパステル。  
 俺がめくりあげたミニスカートの中にあったのは、真っ白のふつーのパンツ……予想と違って毛糸のパンツではなかった。  
「おかしいなー、ぜってぇおニューの毛糸のパンツだと思ったのによ」  
「おニューって何の話よ!」  
「とりゃー、今のなんらぁ?」  
 この非常時唐突に、舌ったらずな声がした。  
 振り向けばちびエルフがきょとんとした顔をして台所の入口に佇んでいる。  
「お、おぉルーミィ、なんでもねえよ。新しい遊びだ。それよりおめえその帽子」  
 シルバーブロンドが被っているのは、何やら見慣れないニットキャップ……その色が……ピンクとベージュ!!  
「ぱーるぅができたよ、ってさっきくれたんだお!」  
「……だろうな」  
 パステルが編んでたのはルーミィの帽子で、俺の早とちりだったってことか。  
 まぁ生パンツ拝ませてもらって得したっちゃ得だが……毛糸のパンツならまだしも、そっちを見られたパステルが黙って許してくれるかが微妙だが……  
「……トラップ」そらきた。案の定、片手には武器と推測されるおたまが握り締められている。包丁でないだけまだ可愛げがあるなぞと思いつつ、じりじりと入口方向へ移動する俺。  
 俺とパステルを見比べてきょろきょろしているルーミィを、格好の障害物としてパステルの方へ押しやる。  
 脱出の算段が整ったところでまた現れたのは、招かれざる闖入者。  
「パステルー、頼まれたオレンジとレモンってこれで良かったのかな」  
 場の空気に関係なく実にさわやかな、紙袋を抱えたクレイ。軽く身を屈めて台所を覗き込んできた。  
「あれ? おまえ何してるんだ」  
「いやちょっとな、ははは」  
 白々しく笑いながら不思議そうなクレイに半笑いを返す。  
 クレイと体を入れ替えようとすると、俺が逃げようとしているのに気づいたのか、今更待ったがかかった。  
 
「ちょっと待ちなさいよトラップ!」  
「ねえねえぱーるぅ、ルーミィもいっしょに遊ぶぅ」  
 足元にまとわりつくルーミィに阻まれるパステル。よしよし、計算どおりだな。  
「今ね、すごーく忙しいんだけどな。ひとりで遊んでてくれる?」  
「わかったお!」  
 満面の笑みのちびエルフを作り笑顔で見下ろしたパステル。  
 わけのわかっていないクレイをやり過ごして台所から退避した俺を追いかけようとしたのだが……そのとき悲劇は舞い降りた。  
「いい子ね、さてトラ……ルーミィっ!?」  
「うわっ」  
 ごとん、バサっ、ゴロゴロゴロゴロ……  
 にぎやかな悲鳴と派手な落下音。  
 廊下まで転がってくる、クレイが落としたと思われる紙袋のオレンジやレモン。  
 既に階段に足をかけていた俺に現場は見えなかったが。おおよその予想はつく。  
 ルーミィ……俺の真似してスカートめくったな……くそ、2回目見逃した。  
「もう、もう、何なのよぉー」  
「ごめんパステル、俺、俺決して見るつもりはっ」  
「とりゃーが教えてくれたんだおう!」  
 やべ。  
 この後の流れを想定して、俺は急遽方向転換して玄関へと走った。  
 部屋でのんびりするつもりだったけどよ、さすがの俺も命が惜しい。  
 しゃあない、ほとぼりが醒めるまでカジノでも行ってくっかなー  
 
 
 今日に限ってチャリに乗って帰ってたのは先見の明があるな、さすが俺。  
 赤い自転車に勢い良く飛び乗ると、頬に刺さる冬の冷たい風もむしろ心地よく、俺は立ち漕ぎでみすず旅館を後にした。  
 
 

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