それはいつもの光景のはずだった。  
 わたしは、部屋の中で読書をしていた。クレイはバイト、キットンは隣の部屋で薬草の実験。ルーミ 
ィとシロちゃんはノルに連れられて公園に行っていた。  
 珍しく部屋で一人になれたから、前から読みたかった本をじっくりと読んでたんだよね。  
 内容は、恋愛小説。普段滅多に読まないジャンルだけに、読んでる間、すごくドキドキしたんだ。  
 ありがちなのかもしれないけど、身分の違いから引き裂かれたお姫様と従者が、何もかも捨てて二人 
だけで生きようと駆け落ちする話。  
 お姫様は今まで見たことのなかった外の世界で、とまどうことも辛いこともいっぱい経験するんだけ 
ど、いつも傍で彼女を見守ってくれている従者のおかげでそれに負けることなく、やがて成長していく 
っていうそんなストーリー。  
 もう、お姫様が健気で、従者はひたすらかっこよくて! わたしは夢中になって読み進めていたんだ。  
 だから、後ろから本を取り上げられるまで、誰かが部屋に入ってきたことに全然気づかなかった。  
 ぐいっ  
「きゃあ!?」  
 後ろから乱暴に本をひっぱられて、わたしは思わず悲鳴をあげて振り返った。  
 もー誰よ! いいところなのに。  
「ふーん。おめえもこういう本読むんだ?」  
「トラップ!!」  
 後ろに立っていたのは、我がパーティー一番の現実主義者でトラブルメーカー趣味はギャンブル特技 
毒舌の赤毛の盗賊、トラップ。  
 まあね、よく考えたら、こんなことしそうな人は彼しかいないんだけど。  
「ちょっと、何するの。返してよ!」  
 取られた本を取り返そうとしたんだけど、そこは身軽なトラップ。手を伸ばすたびにひょいひょいっ 
と避けられて、全然相手にならない。  
 くーっ、悔しいっ!  
「もうっ、何しに来たのよトラップ! まさか、その本が読みたかったの?」  
「はあ? バカ言え。何で俺がこんな作者の妄想で成り立ってる紙と字の塊なんざ読まなきゃなんねえ 
んだよ」  
 絶句。何、その言い方。  
 まあ、確かにトラップが本なんか読みそうもない性格なのは、よーくよく知ってたけど。  
「そんな言い方しなくたっていいでしょ! わたしには面白いんだから。興味が無いなら返してよ!」  
「ふーん……おめえ、こういう本に興味あんのか?」  
 
 わたしの言葉なんか無視して、トラップはぱらぱらとあらすじページを読みながら言った。  
 その顔はにやにや笑っていて、内心ですごーくバカにされてるのが手に取るようにわかった。  
 わ、悪かったわねえ。わたしだって年頃の女の子なんだから! いいじゃない、恋愛小説を読んだっ 
て。  
「そ、そうよ。悪い? わたしだって、素敵な恋愛したいなって思うときくらいあるんだから」  
「はあ? やめとけやめとけ。おめえにゃ無理だって」  
 きーっ! 何でそんな風に言い切れるのよ! というより、一体何しにきたのよ!!  
「と、トラップには関係ないでしょ!? わたしがどんな恋愛をしようと! もう、一体何の用があっ 
てきたのよ!!」  
 わたしが本に手を伸ばしながら叫ぶと。  
 何故か、トラップの目が細まった。  
 ……え? 何、どうしたんだろう……?  
 わたしの手は、あっさりとトラップの持っていた本をつかんでいた。力をこめると、何の抵抗もなく 
わたしの手元に戻ってくる。  
「……トラップ?」  
「ふーん……なら、おめえはどんな男がタイプなんだ? どんな恋愛がしたいわけ?」  
「え??」  
 突然の質問に、わたしは頭が真っ白になってしまう。  
 な、何でそんなこと聞くんだろう? トラップ、ちょっと変じゃない?  
 でも、改めて聞かれると確かに言葉に詰まる。わたしの好みのタイプ、ねえ……  
「ええっと……そ、そうだね。背が高くてかっこよくて、すごく優しくて頼りになる人……かな?」  
 ちなみに、これは本の中に出てきた従者そのままなんだけどね。  
 うーん。でもまあ、やっぱりこういう人に、女の子なら誰でも憧れるんじゃないかな?  
 わたしがそう言うと。  
 何故か、トラップの顔が少し辛そうにゆがんだ。  
 ……え? 何、わたし、何か悪いこと言ったっけ?  
 わたしは聞こうとしたんだけど。それより、トラップの言葉の方が早かった。  
「ふーん……つまり、おめえの好みってクレイみたいな奴なんだ?」  
「え??」  
「ま、気持ちはわかるけどな。やめといた方がいいんじゃねえ? おめえとはつりあわねえって」  
「ちょ、ちょっと、トラップ!?」  
 
 く、クレイ? いきなり何を言い出すのよ!?  
 あ、でもまあ確かに、さっきの言葉はクレイにもぴったりあてはまるよね、うん。  
 うーん、クレイ……確かにいい人だと思うし、好き? って聞かれたら好きって答えるけど……  
 でも、恋愛対象としては、ねえ……  
 わたしが悩んでると。  
 トラップは、ぽん、とわたしの頭を叩いて、部屋から出て行った。  
 ……ちょっと。  
 一体、何しに来たのよー!?  
   
 ……わかってたじゃねえか。  
 手に残る、あいつの髪の感触。それを握り締めて、俺はつぶやいた。  
 わかってたじゃねえか、あいつが誰を好きかなんて。  
 言いたくても言えなかった言葉、伝えたかった言葉が、頭の中でうずまいてやがる。  
 結局、俺は何しに来たんだか。  
 大切なことを伝えに来たはずなのに。あいつが柄にもねえ本を読んでやがるから、ついいつもの調子 
で声かけちまった。  
 まあな。好きな本をバカにされりゃ、誰でも腹が立つだろう。あいつが怒ったのは当たり前だ。  
 ……何でこんな言い方しかできねえんだろうな、俺は。  
 もっと素直になれりゃあ。クレイの奴みてえに優しくなれりゃあ。今頃もっと違った関係を築けたか 
もしれねえのに。  
 今更後悔したって、仕方ねえけどな。何もかもが遅すぎた。  
 片手で顔を覆う。あいつの髪の感触が、微かに残る手で。  
 仕方ねえか。盗賊として、俺はあらゆるものを盗める自信があるが。  
 人の気持ちだけは、どうにもならねえ。あいつだけは、手に入れることができなかった。  
 それは、しょうがねえことだ……  
 俺は、部屋に戻るとポケットにつっこんでいた手紙を取り出した。  
 部屋の中ではキットンの奴が何やら大騒ぎしていたが、まあいつものことだ。  
 もう一度手紙を読み返す。何度読んだって、内容は変わりゃしねえ。  
 俺は机に近寄って、紙とペンを取り上げた。  
 返事は……早い方がいい。  
 
 その日の夕食は、何だか気まずかった。  
 いつもは人一倍騒がしいトラップが、やけに静かだったんだけど。  
 さっきのこと、まだ気にしてるのかな? いや、でもあの場合、怒るのはわたしの方だよね。  
 もちろん、トラップの口が悪いのなんて今に始まったことじゃないから、わたしはもう気にしてない 
んだけど。  
 でも、わたし、トラップを怒らせるようなこと言ったっけ……?  
 チラッと目をやると、トラップはもくもくと食事を食べていた。わたしの方を見ようともしない。  
 うーんっ……  
 わたし達の雰囲気に、クレイも気づいたみたいで、心配そうにこっちを見ている。  
 心配かけてごめんね。でも、わたしにも原因がよくわからないんだ……  
 もう一度トラップに目をやると、偶然なのか、今度はばっちり彼と目が合ってしまった。  
 わっ、ど、どうしよう?  
 もう気にしてないよ、ってことを伝えるために、わたしは無理やり微笑んでみせたんだけど。  
 トラップは、それに何の反応も示さず、ふいっと目をそらしてしまった。  
 うーっ、もうっ。一体何なのよー!!  
「ごっそーさん」  
 そのとき、食事を終えたトラップが、真っ先に立ち上がった。  
 お皿には、まだ半分くらい料理が残ってる。  
 め、珍しいっ!? あのトラップが食事を残すなんて!!  
「トラップ、もういいのか?」  
「ああ、食欲ねーんだよ。ルーミィ、これやる」  
「ほんとかあ? とりゃー、ありがとお!!」  
 トラップが差し出したお皿に、ルーミィが喜んでフォークを伸ばす。  
 ……絶対、様子が変だよね……  
 トラップは、そのまま食堂を出て行こうとした。その様子は、いつものギャンブルに出かけるように 
も見えなくて。  
 どうしたのかなあ、と目で追っていると、不意にトラップが振り向いた。  
 目が合う。いつものふざけた様子の全然ない真面目な視線が、わたしをばっちり捉えていた。  
 うっ、ど、どうしたんだろ?  
 
 不意にはねあがった心臓。今までに無いくらいドキドキしている。  
 ど、どうして? トラップと目が合うなんて、珍しくないじゃない……  
 だけど、トラップの視線はすぐにわたしからそれた。彼は、そのままクレイの方に目をやって、  
「クレイ、ちょっと話があんだけど。後で部屋に来てくんねえ?」  
「あ? あ、ああ。構わないけど」  
「さんきゅ。んじゃ、後で」  
 それだけ言うと、今度こそ本当に出て行った。  
 ……変。  
「どうしたんでしょうねえ、トラップは。具合でも悪いんでしょうか?」  
 そう思ったのはわたしだけじゃないらしく、キットンが入り口の方を見やりながら言ってきた。  
 やっぱり、そう思うよねえ。  
「トラップにも、悩みくらいあるだろう」  
「悩みねえ。私が想像している通りの悩みなら、まあ当分解決することはないでしょうから気長に待つ 
しかないと思うんですが」  
 キットンは、意味深な発言をすると、何故かわたしの方を見てぎゃっはっはと笑った。  
 な、何がおかしいのよう。  
 しかも、そのキットンの様子に、クレイとノルまで苦笑をはりつかせて頷いている。  
 もーっ、一体何なのよう!!  
   
 クレイの奴が来たのは、俺が部屋に戻って十分もした頃だった。  
 急いで食事を終えてきたんだろうな、ちょっと息が荒い。  
 気をきかせてくれたのか、同室のキットンはまだ来ねえ。ま、別に遅かれ早かれわかることだから、 
いたって問題なかったんだけどな。  
 それでも、やっぱりありがてえ。  
「トラップ、どうしたんだよいきなり。何かあったのか?」  
 クレイは、自分に何かあったってここまですまいと思えるくらい心配そうな目で俺を見ている。  
 相変わらずお人よしだな。まあ、それがおめえのいいところなんだけどよ。  
「なーに、来るべきもんが来たってことだよ」  
 深刻そうな声を出したってしょうがねえ。もう返事は出しちまったし、今更俺がどれだけ落ち込んだ 
って状況は変わらねえからな。  
 平静を装って、俺はくしゃくしゃになった手紙を取り出した。  
 
 それは、今朝、俺に届いた手紙。  
 いつまでも続くんだと思い込んでいた日常をぶったぎる、そんな手紙。  
 クレイはしばらくそれに目を通していたが、やがて真っ青になって顔をあげた。  
 ……そんな顔、するなよ。いつかはこういう日が来るって、わかりきってたんだから。  
「トラップ、おまえ……」  
「ま、しょうがねえわな。どうせいつかは来ると思ってたんだ。それが予想よりちっと早かった、それ 
だけのことだよ」  
 軽く答えて、俺は椅子の背に体重を預けた。  
 ぎしっ、ときしむ背もたれ。……この宿も、いいかげんぼろいからな。  
 俺が初めてここに来た頃は、これくらいできしむことなんてなかったんだが。  
「……それは、そうだけど……それで、トラップ、おまえどうする気なんだ?」  
「ああ? んなの、決まってるじゃねえか」  
 当然聞かれるとわかっていた質問だ。だから、何度も何度も答えを頭の中で繰り返しておいた。  
 ただ、それを口にすればいいだけだ。  
「俺は……」  
 俺の答えに、クレイはうつむいた。  
 こいつにはわかるはずだ。それしか答えが無いことを。そう答えるしかないってことを。俺の意思だ 
けじゃどうにもならねえってことを。  
 何しろ、どうせいずれは自分も辿る道だからな。  
「……そうか。で、いつ?」  
「急には無理だからな。準備もあるし、バイトのこととかもあるしな。ま、5日後くれえかな」  
 俺の答えに、クレイは軽く頷いた。  
 
 さすが、パーティーのリーダーだぜ。どうしようもないことを無駄に騒ぎたてたりしねえ。何よりも 
相手のことを考え、尊重し、その立場を思いやる。  
 だから、俺はおめえのことを嫌いになれねえんだよ。……いっそ、嫌いになれたら……楽だったのに。  
「みんなには、いつ言うつもりだ?」  
「……前日くれえ。だってよ、早めに言ったって、しょうがねえだろ? あいつらのこったから、騒ぎ 
そうだし。俺はそういうのは嫌いなんだよ」  
「……ま、おまえはそうだろうな」  
 長い付き合いだ。俺の気持ちが変わらねえことは、よくわかってるんだろう。  
 特に反対もせず、クレイは頷いた。  
 もう話は終わりだ。これ以上、言うことはねえ。  
 俺は椅子から立ち上がった。気は乗らねえけど、今はみんなの顔を見たくねえ。カジノにでも行って 
くっか。  
 そのまま外に出ようとしたときだった。  
「トラップ」  
 突然、背中にかけられた言葉。真剣に問いかける、クレイの言葉。  
「パステルのことは、どうするつもりだ?」  
 ……聞くなよ。  
 そりゃあ、俺だって本当は……けど、しょうがねえだろう? パステルが好きなのは、おめえなんだ 
から。  
「クレイ、おめえにまかせる……幸せにしてやれよ」  
「お、おい!?」  
 俺の答えが余程予想外だったのか、慌てて立ち上がる気配がしたが……  
 駄目だ。これ以上、クレイの顔を見れねえ。  
 俺は、乱暴にドアを閉めた。  
 
 食事の後、眠ってしまったルーミィとシロちゃんをベッドに寝かしつけると、わたしはもう一度部屋 
の外に出た。  
 読書の続きがしたかったからね。暖かい紅茶でも入れようと思ったんだ。  
 ちょうどそのとき、隣の部屋のドアが乱暴に閉じられる音がした。  
 出てきたのは……トラップ。  
 今まで見たこともないくらい辛そうな顔。そういえば、さっきクレイに話があるって……だから、ク 
レイもみんなより一足先に部屋に戻ったんだよね。  
 ……話、終わったのかな?  
「トラップ、あの……」  
 黙っていられなくて、何かを言おうとした。何を言おうって決めていたわけじゃないんだけど。  
 でも、わたしの言葉を無視するように、トラップはわたしの傍をすり抜けて階段に向かった。  
 ……ちょっと! 何でそんな態度取るのよ。わたし、何かした!?  
「トラップってば! 待ってよ!!」  
 今にも階段を下りようとしたトラップの腕を無理やりつかんだ。  
 だって、このまま気まずいなんて嫌なんだもん。どうしてトラップが怒ってるのかよくわからないけ 
ど……せめて理由くらい知りたい。わたしが悪いなら、ちゃんと謝らなくちゃ。  
「ねえ、トラップ。本当に様子が変だよ? わたし、何か気に障るようなことした?」  
「……別に、何でもねえよ」  
「嘘! だって、食事のときだって全然しゃべってくれなかったし……ねえ、何を怒ってるの?」  
「っ……怒ってねえよっ」  
 全然説得力の無いことを言って、トラップは乱暴にわたしの手を振り払った。  
 トラップ、細いように見えて力は結構強いんだよね。わたしくらいの力じゃ、とても止められないん 
だけど。  
「ま、待ってってば。ねえ、本当に変だよ? どうしちゃったの、トラップ」  
 でも、何故だかわからないけど、トラップをこのまま行かせちゃいけないような気がする。  
 わたしは、なおもトラップに追いすがろうとした。そして……  
 
「っきゃあ!!?」  
 うーっ、わたしのドジ!!  
 階段を下りかけているトラップの腕をつかもうとして、わたしは見事に足を滑らせていた。  
 落ちる!! 衝撃を予想して、ぐっと身をかたくしたんだけど。  
 その瞬間、わたしの身体は、力強い腕に抱きとめられていた。  
 ……へっ?  
 見上げると……当たり前だけど、受け止めていたのはトラップ。  
 呆れたような、悲しそうな、辛そうな、そんな複雑な顔で、わたしのことをじーっと見つめている。  
 な、何?  
「あ、ありが……」  
 ぎゅっ  
 ――!!??  
 お礼の言葉は、途中で止まってしまった。  
 わたしの身体は……そのまま、トラップに抱きしめられていて……  
 え? え? 何? ど、どうしたの突然……  
「と、トラップ?」  
 わたしが顔をあげると……  
 トラップは、はっとしたようにわたしの身体を突き放した。  
 どすん、と床にしりもちをついてしまう。それでも、わたしが階段から落ちたりはしないように気を 
使ってくれたんだろうけど。お尻は痛かった。  
 もう、何するのよっ!!  
 抗議しようと口を開いたとき。  
 既に、その場にトラップの姿はいなかった。  
 ……何なのよ、もう。わけがわからない。一体、トラップ、どうしたんだろう?  
 ……それに。  
 どうして、わたしはこんなにトラップのことが気になるんだろう?  
 
 腕に残る、あいつの身体の感触。  
 それを忘れようと、俺は自分自身を抱きしめた。  
 ……何、やってんだろうな、俺は。  
 諦めるって、決めたんじゃねえのか? もうどうしようもねえって、わかっていたはずじゃないのか?  
 それなのに、あいつの存在を間近で感じた瞬間……俺は、自分を抑えられなくなった。  
 しっかりしろよ、トラップ。今からそんなことでどうする?  
「……ざまあねえな。まさか、この俺が……」  
 欲しいものは盗んででも手に入れる。そうやって生きてきた俺が。  
 まさか、たった一人の女を手に入れられないと、苦しむことになるなんて……  
 カジノに行こうなんて気はとっくに失せていた。  
 仕方なく、俺は行き先を変えた。しばらくバイトさせてもらっていた郵便屋へ。  
 こんな時間だが……まだ寝てはいないだろう。  
 急なことで申し訳ねえけど……ちゃんと言わなくちゃな。  
 俺は、夜の村を歩いて行った。  
 何故だか、ひどく寒かった。  
   
 その話は、本当に突然のことだった。  
 トラップの様子がおかしくなってから、4日後のこと。  
 その間、わたしはほとんど彼と話すことはなかった。話しかけるチャンスもなかったんだけど。  
 そうなると、余計にトラップのことが気にかかってしょうがなかった。わたし、どうしたんだろう?  
 今日こそは、今日こそはちゃんと話をしようとずっと思っていたんだけど、何故かトラップを前にす 
ると、うまく言葉が出なかった。  
 そんなときだった。その宣言が来たのは。  
 その日の夕食の席。わたしはいつものように、ルーミィとクレイに挟まれて食事をしていた。  
 向かいにはトラップ、キットン、ノル。たまたま、わたしの真正面にトラップが座っていたんだけど。  
 注文した品が運ばれてきた途端、突然、トラップが立ち上がって言った。  
 
「あー、あの、さ。突然でわりいんだけど」  
 トラップの言葉に、料理に手を伸ばしかけていたルーミィですら手を止めた。  
 それくらい、トラップの口調は、遠慮がちで、弱々しかった。いつもの明るい声とは、全然違う。  
「とりゃー、どうしたんだあ?」  
「そうですよ。何ですか、突然?」  
 ルーミィとキットンの問いに、トラップは言いにくそうにうつむいた。  
 クレイの方をうかがうと、彼は、何とも言えない曖昧な表情でトラップを見ている。  
 そのとき、わたしにはわかった。ああ、クレイは、クレイだけは何もかも知ってるんだなって。  
 きっと、今からトラップが言おうとしていることが、この数日、様子がおかしかった理由なんだって。  
「あー、いや、本当に突然なんだけどよ、俺……ドーマに、帰ることになったんだわ」  
 それは、突然の宣告だった。  
 ドーマに、帰ることに……  
 頭を何かで殴られたような衝撃。トラップの声が、わんわんと反響している。  
 え? え? 何、それ……それって、どういうこと?  
「ドーマというと……トラップの故郷ですか。どうしてまた?」  
「実はよ。俺が冒険者やってたのは、まあようするに修行のためだった、ってわけなんだが。……そろ 
そろ、家戻って来いって手紙が来たんだよ。もうそろそろ3年か?  
 修行はもう十分だろうから、そろそろ家を継ぐための準備しろって。ま、よく考えたら俺ももう18だ 
しな。いつかは来るとわかってたんだけど」  
 トラップの声はとても弱々しかったんだけど、でも、顔はやけに明るかった。そう、わざとらしいく 
らいに。  
 何となくわかった。トラップは、すごく無理している。でも、それをわたし達に悟らせないようにし 
ている。  
「ああ、そういえばトラップは一人息子でしたねえ。まあ、それはしょうがないことですね。つまり… 
…」  
 キットンの言葉を受け継ぐように、トラップは頷いた。  
「ああ。つまり、おめえらのパーティーから……抜けさせてもらう、ってこった」  
 
「とりゃー、いなくなるんかあ?」  
「……わりいな、ルーミィ。そういうこった」  
「やだあ……」  
 トラップの言葉に、ルーミィの綺麗な目から涙があふれてきた。  
「やだあ、とりゃー、行っちゃやだおう!! 一緒にいたいおう!!」  
 そう叫ぶと、ルーミィはテーブルの上に身を乗り出して、トラップの頭に抱きついた。  
 ……ルーミィ。  
 ルーミィは、そんなにトラップと仲が良かったわけじゃない。「ガキの子守なんかまっぴら」って、 
よく邪険にされていたけど。  
 いざというとき、いつも守ってくれたこと、かばってくれたこと、大事にしてもらっていたことを、 
ちゃんとわかっていたんだね。  
 わたしは羨ましかった。そうやって素直に泣けるルーミィが。  
 誰も何も言わない。ルーミィの泣き声だけが、しばらく響いていたんだけど。  
 やがて、トラップは、ポン、とルーミィの背を叩いて言った。  
「泣くなっつの。いいか? 別にずーっと会えねえわけじゃねえんだ。いつだって、遊びにくりゃいい。 
そうだなー、おめえはもちっと成長したらすげえ美人になるだろうしな。そうなったら、デートしてや 
ってもいいぜ?」  
「でーと?」  
 言われた意味がわからないのか、ルーミィはきょとんとしていたんだけど。  
 それ以上何か言われる前に、クレイがルーミィの身体を引き戻した。  
 ……わたしだって、本当はルーミィみたいに泣いてしまいたい。そして引き止めたい。  
 でも、それはできない。家の事情なんだから。そう、いつかはどうせ戻らなきゃいけなかったんだか 
ら。  
 トラップは、ブーツ盗賊団の跡取りで。わたし達とパーティーを組んでいたのは、修行のため。  
 引き止めることは、トラップの邪魔をすることになっちゃう。笑って、送り出してあげなくちゃ。  
「そ、そう。ねえ、出発は、いつ?」  
 わたしは、無理やり笑顔を作って聞いた。頬がひきつっていること、見抜かれないといいけど……  
 そう言うと、トラップは初めてわたしの方を向いた。  
 真正面に座っていたのに、目が合ったのは初めてなんだと、このとき気づいた。  
 
「……明日」  
「え!? 明日!? もう、もっと早く言ってよ。お別れ会とかしてあげたかったのに」  
「ばあか。おめえらはどうせそうやって大騒ぎするだろうって思ってたから、ぎりぎりまで黙ってたん 
だよ」  
「そ、そうなんだ……」  
 駄目、声が震える。  
 明日。そうだね。トラップの性格なら、そうかもしれない。  
 うるさく騒がれたり、湿っぽく別れるのは嫌いな人だから。  
 でも……それでも、もっと早く言ってほしかったよ。こんな、急に。心の準備もできてないのに。  
「明日……朝の乗合馬車ですか?」  
「ああ」  
「なるほど。それでここ数日、やけに荷物がきれいにまとめられてたんですねえ」  
 そう言うと、相変わらず理由のわからない大笑いを浮かべたのはキットン。  
 だけど、その声も、心なしか、いつもより小さい。  
 ノルは黙っていたけど、トラップを見る目は、すごく寂しそうだった。  
 クレイは……すごく優しい目で、トラップを見ていた。  
 この数日、1番辛かったのはトラップのはず。1番悩んで、結論を出して、一人で決めて一人で行こう 
としているトラップを、じっと見守っていたのは……クレイだったんだよね。  
 わたしは……  
 それ以上、トラップの顔を見てられなかった。見たら、きっと泣いてしまうから。  
 だから、すっかり冷めてしまった料理の方に目を落として、言った。  
「じゃあ、一緒に食事するのも、今日で最後なんだね……ねえ、今日は好きなもの頼んでいいよ。お別 
れパーティーのかわり。どんどん頼んで」  
「……おう」  
 わたしの言葉に、トラップはぶっきらぼうに答えた。そして、言った。  
「おめえが迷子になっても、もう捜してやれねえから。少しはマッピングの腕、あげろよ?」  
 ……バカ。  
 一生懸命、我慢してたのに。  
 わたしの声が震えていたこと。目から涙が一粒こぼれ落ちたこと。  
 それにトラップが気づいたかどうかは……わからなかった。  
 
 荷物を完全にまとめてしまうと、もう夜は完全に更けていた。  
 やっぱ、ぎりぎりになっちまったなあ……本当は、もちっと早く準備しておくつもりだったんだけど。  
 ふっと振り返ると、二つのベッドでは、キットンが大いびきをかいて寝ていた。  
 クレイの奴も、布団の中に入ってはいるが……多分、起きてるだろうな。  
 あいつはそういう奴だ。こういうとき、ぐーすか寝れるほど神経の太い奴じゃねえ。  
 きっと、俺が声をかければ、一晩中でも話しにつきあってくれるだろうが……  
 わりい、今はそんな気分じゃねえや。  
 俺はそっと部屋を出た。  
 キットン。  
 最初に会ったときは、「変な奴だ」っつー印象しかなかったけど。  
 おめえの知識や、薬草に、何度も助けられたっけな。  
 記憶も戻って、キットン族とやらの魔法も覚えて、後はスグリっつー奥さんと再会するだけか?  
 わりいな、最後まで見届けてやれなくて。無事に再会できること、祈ってるぜ。  
 ノル。  
 最初に会ったときから、おめえには助けられっぱなしだったよな。  
 最初は驚いたぜ。巨人族なんて、見るのは初めてだったからな。一瞬モンスターと間違えそうになっ 
たもんだ。  
 無口で、ほとんど会話をしたことはなかったけど。  
 誰よりもパーティーのみんなのことわかってたのは、おめえかもしれねえな。  
 妹のメルとも再会できたのに、なのに何でおめえはここまで俺達と一緒についてきてくれたんだ?  
 わからねえけど……でも、嬉しかったんだぜ、おめえがパーティーから離れなくて。  
 
 ルーミィ。  
 おめえはさっさと大きくなれよ。  
 こうやって、いつかはみんな離れていっちまうんだから。  
 大丈夫、おめえの魔法の才能は本物だよ。あんなに小せえのに、おめえは一生懸命役に立とうとがん 
ばったよな?  
 知ってたからな。おめえが一生懸命練習していたこと。これからもしていくだろうってことは。  
 おめえの成長した姿、ちっと見てみたかったぜ。  
 シロ。  
 ホワイトドラゴンの子供なんて、最初は信じられなかったんだよなあ。  
 どう見たって犬だもんな。だけど、おめえのブレスや治癒能力、空を飛ぶ能力に、何度も助けられた 
っけ。  
 何故かおめえとは気が合ったよな。二人でもっと色んなところに出かけたかったな。  
 ギャンブルの楽しさ、教えてやりたかったぜ。  
 おめえは、ずっと俺のことを「あんちゃん」って慕ってたっけな。そんで、あいつのことを「おねえ 
しゃん」……何でだ? 他の奴らは全員「しゃん」づけだったのに。  
 もしかして、おめえは気づいてたのか? 俺の気持ちに。  
 クレイ。  
 もう15年以上も一緒に過ごしてきたよな。二人でいたずらしたり、修行したり、トラブルに巻き込ま 
れたり……楽しかったぜ。  
 おめえにだって、色々悩みはあるんだろう? こんな弱っちいパーティ−じゃなきゃ、おめえはもっ 
と実力を発揮できたはずだ。  
 おめえの剣の実力は、俺が1番よく知ってるんだからな。  
 でも、多分おめえは、俺達以外の奴らとパーティー組むことなんて、考えもしなかったんだろうな。  
 おめえはそういう奴だよ。底抜けにお人よしで……自分のことより他人のことを思いやれる、すげえ 
奴だ。  
 だから、おめえなら安心なんだよ。  
 おめえなら、あいつをまかせてもいいって思えたから。  
 ……パステル。  
 なあ、最初に会ったときに俺が言ったこと、おめえ本気にしてたのか?  
 今まで色々言ってきたよな。色気がねえとかバカとかドジとか間抜けとか。  
 だけどな、それは……全部、本気だったけど、本気じゃなかったんだぜ?  
 俺はな、おめえのことが……ずっと、ずっと前から……  
 
 考えながら、俺はいつのまにかみすず旅館の裏まで来ていた。  
 一人になれる場所。ゆっくり考えられる場所を探して。  
 ぐるっと建物をまわりこんで、そして思わず立ち止まった。  
 そこに、あいつがいたから……  
   
 眠れなかった。  
 何でこんなに眠れないんだろう。やっぱり……あいつのことが気になるから?  
 わたしは、ベッドから身を起こした。  
 ルーミィは、すやすや眠っている。ほっぺたに涙の跡が残ってるのは、夕食の後、改めてトラップが 
いなくなるってことがわかって、ずっと泣いてたから。  
 わたしだって泣きたかったよ、ルーミィ。  
 でも、泣いちゃ駄目なんだよね。トラップのことを考えたら。  
 それ以上、部屋の中にいることが辛くて、わたしは外に出た。  
 一人になりたい。そして、よく考えたい。  
 わたし、変だよね。わかってたはずだもん。ずっと一緒にいられるわけがないって。  
 多分、そのうちばらばらになる。クレイだって婚約者がいるんだし、いつかは家に戻っちゃうだろう。  
 キットンだって、スグリさんが見つかったら、一緒に暮らすことになるだろう。  
 ノルも、ずっと捜していた妹さんがやっと見つかったんだもん。いつかは、メルさんと一緒に暮らす 
日が来るはず。  
 ルーミィとシロちゃん……最後まで一緒にいるとしたら、この二人かな。でも、それだってずっとじ 
ゃない。いつか、いつかは絶対、お別れの日が来る。  
 トラップは、それがたまたま早かっただけ。それなのに……  
 わたしは、どうしてこんなに悲しいんだろう?  
 トラップだから? 他の誰かだったら、こんなに辛くはなかったんじゃないかって思う。  
 もちろん、悲しくはあるけど、それで幸せになれるんだったら、笑って「おめでとう」って言ってあ 
げれると思う。  
 どうして……  
 
 みすず旅館の裏に広がる花畑。そこは、わたしのお気に入りの場所。  
 大きな木にもたれてるようにして座り込んだ。綺麗な月を見上げていると……  
 かさっ、と足音がした。  
 振り返って、そして目を見開いた。  
 そこに立っていたのは……まぎれもなく、今、わたしがずっと考えていた、トラップだったから。  
「……トラップ。どうしたの? 明日……早いんでしょう?」  
 口をついて出たのは、思ってもいなかった言葉。  
 本当に言いたかった言葉は……  
「寝れねえんだよ。ま、いいさ。馬車ん中だっていくらでも寝れるからな」  
「そう……」  
「……おめえは?」  
「わっ、わたしも……寝れなくて」  
 どうしよう、どうしよう。  
 心臓がドキドキしてきた。何を言えばいいのか、よくわからない。  
 お願い、早くどこかに行って。  
 駄目、わたし、トラップの顔を見てたら……  
 だけど、わたしの祈りも空しく。  
 トラップは、ゆっくりと歩いてくると、木に手をついてわたしを見下ろした。  
 凄く間近に、トラップの身体がある。そんなことは、珍しいことじゃないんだけど。  
 それだけのことで、わたしは……ますますドキドキして……  
「……泣くなよ」  
「え?」  
 突然のトラップの言葉。  
 言われて、頬に手をやって気づく。  
 わたし……泣いて……何で。泣かないって、決めたはずなのに……  
「泣くなよ。おめえの泣き顔なんか、見たくねえ」  
「だってっ……」  
 
 勝手なこと言わないで。  
 誰のせいで泣いてると思ってるの?  
 わたしが……全然平気だと。トラップがいなくなっても笑っていられるって、本気で思ってるの?  
 わたしはそんなに……強くないよ。  
 だけど、それは言っちゃいけない言葉。  
 引き止めちゃいけない。心配かけちゃいけない。  
 わたしは大丈夫。トラップがいなくても大丈夫だから。そう、言わなくちゃ。  
 そう、わかっていたのに……  
「寂しいもん……」  
 わかっていたのに、駄目だった。  
 口をついて出たのは、夕食のとき、言いたくても言えなかった本音。  
「寂しいもん。わたしはトラップがいなくなって寂しいもん。本当は行かないでって言いたい。ルーミ 
ィみたいに、行っちゃ嫌だって言ってしまいたい」  
「…………」  
「ずっと助けてくれたよね。初めて会ったときからずっと。  
 マッピングのやり方を教えてくれたのも、迷子になったのを助けてくれたのも、怖い目にあったり辛 
い目にあったり、そのたびに助けにきてくれたり慰めたりしてくれたよね? 離れたくない。わたしは 
ずっと一緒にいたい、トラップと一緒にいたいよ?」  
「っ……」  
 そのとき。  
 トラップの顔が、ゆがんだ。すごく、辛そうな、悲しそうなそんな顔で。  
 そっとかがみこんだ。わたしと、目線を合わせる。  
「……おめえな、そういうことは……俺に言うんじゃねえ」  
「……え?」  
「そういうことは……クレイの奴にでも言ってやれよ。好きでもない男に……そんなこと、言うもんじ 
ゃねえ」  
 …………っ!!  
 違う。わたしが好きなのは……クレイじゃない。  
 わたしが、好きなのは……  
「トラップっ……」  
 わたしが、答えようとしたそのときだった。  
 
 ……え……?  
 唇に、微かに触れる柔らかい感触。  
 焦点を失うくらい近くにあった、トラップの顔。  
 え……?  
 わたしが、我に返ったとき。  
 トラップは、背を向けて立ち去るところだった。  
 ……トラップ。  
 ねえ、今のは? まさか……  
 ねえ、トラップ。もしかして、あのとき。あの、読書の最中に起きたあのことは。  
 あのとき、トラップの機嫌が悪くなったのは、もしかして……?  
   
 早朝。見送りに来たのは、クレイとノルとキットンの三人だった。  
 パステル達は、まだ寝ていたらしい……いや、ルーミィとシロはともかく、パステルの奴は……わか 
んねえけどな。  
 バカなことしちまった。  
 昨夜のことを思い出して、俺は自嘲した。  
 最後だから。もう会えないから。  
 そう思ったら、我慢できなかった。……きっと、あいつは怒ってんだろうな。まあ、普通は怒るだろ 
うけど。  
 起こそうか、とクレイは言ってくれたが、俺は断った。  
 ルーミィの泣き顔なんか、これ以上見たくねえ。  
 パステルと顔を合わせたくなかった。合わせたら、決心が鈍るかもしれねえ。気まずいしな。  
「おめえらだけで、十分だよ。俺がいなくなったら、すげえ痛手だろうけど……まあ、がんばれよ」  
 俺がそう言うと、三人そろって目に涙なんか浮かべやがって。野郎の涙なんかで見送られても嬉しく 
ねえぞ。  
 ドーマまでの旅は長い。今までは、一人じゃなかったから、気もまぎれたけど。  
 話す相手もいねえってのは……辛いな。  
 がたごと揺れる馬車の壁に背を預けて、俺は目を閉じた。  
 そうだな。とりあえず、寝ておくか。  
 きっと、家に帰ったら、じいちゃんや親父の特訓の日々が待ってんだろうしな……  
 
 わたしが目を覚ましたとき、もうあいつは行ってしまった後だった。  
 ……起こしてくれればよかったのに。  
 そうクレイに告げると、すまなそうな顔をされて言われた。  
「あいつが、いいって言ったから。パステル達の泣き顔なんか、見たくなかったんじゃないかな」  
 ……それでも、最後のお別れくらい、したかった。  
 それに、わたしの気持ち、伝えたかったよ。  
 わたしが寝坊をしたのは、昨日、トラップがいなくなった後も、ずーっと考えてたから。  
 あのときのトラップの行動の意味。そして、わたしの気持ち。  
 自意識過剰って言われるかもしれないけど……わたし、思ってもいいのかな。  
 ねえ、トラップ。あなたはわたしのことを……  
 もし、そうだとしたら……  
 ああっ、でもでも。勘違いだったら。いや、例え勘違いでも。  
 でも、わたしは、トラップのことが……  
 トラップがいなくなってから2日。とても静かになってしまった宿で。  
 わたしは、一日中そんなことばかり考えていた。  
 どうしたらいいんだろう。わたし、どうすればいいんだろう?  
 考えて、悩んで、泣いて、そんなことの繰り返し。  
 ……駄目だ。こんなことじゃ駄目!  
 みんな何も言わない。トラップがいなくなって、クエストに行こうっていう話も出ない。  
 キットンはずっと薬草をいじくっていて、クレイとノルはバイトで、ルーミィとシロちゃんは一日中 
元気がなくて。  
 こんなことじゃ駄目。やらなきゃ。  
 例え無駄でも、迷惑に思われても、やらなきゃ!!  
 わたしは立ち上がった。  
 今なら、部屋にクレイがいるよね?  
 隣の部屋をノックすると、思ったとおり、クレイが出迎えてくれた。  
「パステル、どうした?」  
「クレイ、あのね、話があるの」  
 
 当たり前っちゃ当たり前だが、家は何も変わっちゃいなかった。  
 相変わらず母ちゃんは口うるさくて、父ちゃんとじいちゃんは厳しくて、一緒に暮らしてる奴らは騒 
がしかった。  
 俺が戻ったっつーのに、歓迎の宴の一つも開きゃしねえ。当たり前のように「おかえり」と言われた 
だけだ。  
 ……ま、それがありがてえんだけどな。  
 自分の部屋にこもって、ぼんやりと窓の外を見る。  
 ドーマに戻ってきてもう三日目。そろそろ、特訓と称して遺跡巡りに連れまわされるかもしんねえな。  
 父ちゃんもじいちゃんも嬉しそうだった。俺が戻ってきて、やっと一緒に遺跡巡りができるって喜ん 
でた。  
 これで、いいんだよな……  
「トラップ! 何をぼけーっとしてるんだい!!」  
 その途端、後ろから響いてきたのは、聞きなれた母ちゃんの声。  
 ……息子が物思いにひたってるってーのに。少しは気い使ってくれたっていいだろうが。  
「あんだよ。何か用か?」  
「『用か?』じゃないよ! 戻ってきたと思ったら日がな一日部屋でごろごろと!! 掃除の一つでも 
手伝ったらどうだい!!」  
「あのなっ。俺は長旅で疲れてんだよ!! ちっとは労わってくれたっていいだろうが!!」  
「バカ言うんじゃないよ。それくらいでへばるようなら修行をやり直しといで!!」  
 母ちゃんの言葉は、いつも聞いていた言葉と大差なかった。  
 なのに、聞いた瞬間、胸にずしんと来た。  
 ……何だよ、これは。この気持ちは……  
「……トラップ」  
 そのとき、突然母ちゃんの声のトーンが下がった。  
 ……何だ?  
「あんた、本当によかったのかい?」  
「……あにが」  
「本当に、今戻ってきちまって、よかったのかい? 急ぐことはなかったんだよ。どうせあの人もお義 
父さんも、当分くたばりそうにはないんだし」  
 おいおい。自分の夫と義理の父親つかまえて何つー言い草だ。  
「あに言ってんだよ。戻ってこいっつったのはそっちだろ?」  
「あたしは反対したんだよ、まだ早いって。お義父さんだって、本当に戻ってくるなんて思っちゃいな 
かったよ」  
 おいおいおい!! 何だよそりゃあ!!  
 
 俺が茫然としていると、母ちゃんは、何だか見たこともねえくれえ優しい視線で言った。  
「あんた、ちゃんと言ってきたのかい?」  
「……はあ? 何をだよ」  
「あの、パステルっていうお嬢さんと……ちゃんと、話をしてきたのかい?」  
「…………」  
 何だよ、それ。  
 何で、そこでパステルが……出てくんだよ。  
 母ちゃんがパステルに会ったのは、昔あいつがドーマに来た……一回だけ、だろ?  
 何で……  
「あたしの目をごまかせるとでも思ってるのかい? わかってたさ、あんたの気持ちくらい。何年母親 
やってると思ってるんだい?」  
「っ……か、関係ねーだろ。それに、あいつはクレイのことが……」  
「バカお言いでないよ!!」  
 普段20人以上の奴らに指示をとばしている大音声。それが、耳元で炸裂した。  
「トラップ、あんた、それでもこのブーツ一家の跡取りかい!? たった一人の女の子の気持ちも盗め 
ないで、何が盗賊だよ!! そんな腰抜けはいらないよ。  
 あたしだってその気になれば、まだまだいくらでも跡取りくらい産めるんだからね!!」  
「いや、母ちゃん……それは、ちょっと……」  
 自分の年を考えろ、と言おうとしたがやめておいた。  
 母ちゃんの言葉は、重たかった。本当に俺のことをわかってるからこそ言える言葉だと、わかったか 
ら。  
「わかったら、外に出て頭を冷やしといで。自分の気持ちをよーく確かめて、それでも戻ってくるって 
言うんだったら戻ってくればいいさ。ここはあんたの家なんだからね。でも……」  
 そこで、母ちゃんはまた優しい声に戻って言った。  
「でも、もし元のパーティーに帰りたくなったんなら……それは、それでいいんだよ。  
 あの人もお義父さんもわかってくれるさ。駄目だって言ってもあたしが説得してやるよ。息子の幸せ 
を願うのが、母親のつとめってもんだ。そうだろう?」  
「……母ちゃん」  
「わかったら、さっさと外に出な! 掃除の邪魔だよっ!!」  
 その声に追われるようにして。  
 俺は、外に出た。  
 
 ううーっ、ここは一体どこなのっ!!?  
 どう見ても森の奥深くっていう光景に、わたしは途方に暮れていた。  
 ここは、ドーマ……のはず。  
 駄目だったんだ。わたしは、多分このままシルバーリーブで悩んでいるだけじゃ、駄目だって思った 
から。  
 だから、思い切ってクレイに相談したんだ。  
 クレイは、笑って言ってくれた。「パステルから言い出さなかったら、俺が勧めるつもりだった」っ 
て。  
 そして、みんな笑って送り出してくれた。  
 盗賊団一家に盗みに入ろうとするなんて、大胆な考えかもしれないけど。  
 だけど、どうしても必要なんだもん。わたし達には、トラップが。  
 だから、トラップを盗み出してくる!  
 そう言うと、みんな、「実は自分もそう思っていた」って言ってもらえたんだ。  
 本当は全員で来たかったんだけどね。乗合馬車のチケットの都合で、わたし一人だけ。  
 本当はクレイとかの方がいいかもしれないけど、でも、わたし、どうしても自分で行きたかったんだ。  
 トラップに、気持ちを伝えたいから。  
 もしかしたら、トラップはわたし達のところに戻りたくないって言うかもしれない。  
 それなら、それは……仕方の無いことなんだけど。  
 例えそうだとしても、何も言わないままお別れなんて絶対に嫌だったから。  
 だから、絶対わたしが行く! って言って。乗合馬車でここまで来たのはいいんだけれど。  
 ドーマの街は、広かった……  
 大体ね、ブーツ一家はドーマで知らない人はいないんだから。  
 人に道を聞けば、簡単にたどり着けるって、そう思ってた。  
 実際普通の人だったらそうだと思う。  
 でも、わたしの方向音痴は、普通じゃなかったんだよね……  
 気がついたら、人に聞こうにも人がいない山奥に入りこんじゃってて。  
 
 うーっ、一体ここはどこなのよー!!  
 うろうろ歩き回っているうちに、すっかり日が暮れてしまった。  
 真っ暗な山の中は、かなり怖い。  
 だ、大丈夫、大丈夫。街の外には出ていないはず。モンスターなんて出るわけない。……と、思う。  
 そう頭ではわかっているんだけど……  
 でもっ……  
「トラップ……」  
 口をついて出たのは、1番会いたい人の名前。  
「トラップ!! トラップー!!」  
 何度も何度も呼んだ。声が枯れるまで呼び続けた。そのとき。  
 がさがさがさっ  
 わたしの声に、近くにあった茂みが揺れた。  
 きゃああああ!!? ま、まさか、モンスター!!?  
 一瞬、そう思ったんだけど。  
 目の前に起こったのは……一つの奇跡。  
「おめえ……何、してんだ……?」  
 目の前に立っていたのは、わたしが……どんなことをしてでも会いたいと思っていた人。  
 トラップその人だった。  
   
 
 おい……これは、一体何の冗談なんだよ?  
 母ちゃんに追い出されるようにして、俺はドーマの外れまでやってきた。  
 ここには小さい山っつーか大きい丘っつーか、とにかくそういった場所で、ガキの頃はクレイやマリ 
ーナとよく探検したもんだ。  
 ここまで来る奴なんか滅多にいねえから、一人で考え事するにはちょうどいい。  
 そう思って、上ってきたとき。  
 俺の耳に届いたのは……すげえ聞き覚えのある、懐かしい声。  
 このときほど、自分の耳がよかったことに感謝したことはねえ。  
 最初は空耳かと思った。あいつのことばっか考えて、ついにおかしくなっちまったのか、と。  
 でも違った。声は確実に聞こえた。  
 近くによれば、声は段々と大きく、そしてはっきりと聞こえた。  
「トラップ!!」  
 茂みを割って出てみれば、そこに立ち尽くしていたのは。  
 間違いねえ。俺がこいつを見間違えるわけはねえんだ。  
 蜂蜜色の長い髪を一つにまとめて、はしばみ色の目に涙をいっぱいためた……方向音痴のマッパー。  
 俺が、ずっと思っていた女。  
「おめえ……何、してんだ……?」  
 何、してんだよ。こんなところで。  
 ここはドーマだぞ? いくらこいつが方向音痴だからって……シルバーリーブから迷ってたどり着く 
ような距離じゃねえ。  
 おめえ、まさか……  
「トラップに……トラップに会いに来たのよ!!」  
 目に涙をいっぱい浮かべて、パステルは俺に抱きついてきた。  
 身体に感じる柔らかい感触。いつか、抱きしめたときにも感じた、はねるような思い。  
「パステル……」  
 自然に、パステルを抱きしめていた。止められなかったし、止めてえとも思わなかった。  
 パステルも、抵抗はしなかった。俺の胸に顔をうずめて、泣きじゃくりながら、  
「会いたかったの。わたし達……わたしには、トラップがいないと駄目だから。  
 だから、ブーツ盗賊団に盗みに入るつもりだった。トラップを盗み出すために、わたしはここまで来 
たの!」  
 
「おいおい……」  
 おめえは、全く……  
 何つー、無茶なことを、考えてんだ……  
 そんな、嬉しいことを言ってくれるなんて。  
「バカ……おめえ、どこまで来てんだよ……俺の家なんか、人に聞きゃあすぐわかっただろ?」  
「だ、だってわからなかったんだもん。ドーマって広いから……」  
「ドーマが広いんじゃなくておめえが方向音痴なんだよ!!」  
 ああ、久しぶりだな、このやりとり。  
 なあ、おめえ知ってるか?  
 おめえと別れてからたった数日しか経ってねえのに。頭の中は、おめえのことでいっぱいだったんだ 
ぜ?  
 後悔で、いっぱいだったんだぜ……?  
 何で、あのときちゃんと言わなかったんだって。  
 それを、今、言ってもいいか。期待しちまって、いいか……?  
 「わたし達」をわざわざ「わたし」に言いかえてまで、俺のことを必要だと言ってくれたおめえに。  
 この気持ちを伝えて……いいのか?  
「俺も、会いたかった。おめえに、ずっと会いたかった」  
 ぎゅっと、パステルを抱く腕に力をこめた。  
 涙で濡れた顔を、じっと見つめて、言った。  
 今まで言えなかった、思いを。  
「俺は、パステルのことが……好きだ」  
 そっと顔を近付ける。  
 唇をふさいでも……抵抗は、無かった。  
 
 ねえ、こんなこと、あってもいいのかな?  
 わたしの唇を優しくふさいでいるのは、トラップの唇。  
 「好きだ」って言葉、夢じゃないよね。  
 わたしの勘違いじゃ……なかったんだね。  
 もしかしたらって思った。もしかしたら、トラップはわたしのことを思ってくれているんじゃないか 
って。  
 とても信じたかったけど、勘違いだったらと思うと、怖かった。  
 でも、確かめなきゃいけなかった。だからわたしはここまで来た。  
 だって、わたしも……  
「わたしも、好きだよ」  
 唇を離して、つぶやく。  
「わたしも好きだよ。わたしが好きなのは、優しくて守ってくれる王子様じゃなくて……  
 意地悪ばっかり言って、冷たく突き放しているように見せて、心の中で1番わたしのことを考えて、 
見守ってくれている……トラップ。あなたのことが、好き」  
 わたしがそう言った瞬間。  
 トラップの手に、力がこもった。  
 ちょっと、苦しいかな……でも。  
 嬉しい。ずっと、こうしたかったんだって、わかったから。  
「トラップ……」  
「パステル」  
 今度のキスは、深かった。  
 唇をこじあけるようにして深くからみあう。お互いを求めて、深く、長いキス。  
 トラップの手が……わたしの背中を優しくなでた。  
 背筋を、ぞくりとした感触が走る。それは、決して不快な感触ではなくて……  
「……わり、俺、我慢できねえかも……ずっと、思ってたから。ずっと、おめえとこうしたいって、思 
ってたから」  
「……いいよ」  
 いいよ。いくらわたしでも、その意味くらい、わかる。  
 わたしは背中を木に預けて、トラップの顔をじっと見上げた。  
 月明かりに照らされた彼の顔は……真面目で、とてもかっこよかった。  
 
 思ったより大きな手が、ゆっくりとわたしのシャツのボタンを外していく。  
 あらわになった胸に口付けられて、わたしはびくりと震えた。  
 ……今が、寒い季節じゃなくてよかった。  
 もちろん、もう夜も更けて、決して暖かくはなかったんだけど。  
 トラップの手が触れるたび、わたしの身体は、段々ほてってきて。  
 こんなところで、誰かが来たら、どうしよう……  
 そう思わないでもなかったんだけど。  
 でも、止めて、とは言いたくなかった。  
 それは、とてもとても幸せな感覚だったから。  
 トラップの唇が触れるたび、白い肌に赤い痕が残る。  
 胸に、肩に、頬に、唇に、降るようなキスの雨。  
 手が、太ももにまわったとき……わたしは、ついに耐え切れず呻いた。  
 とても、気持ちよかったから。  
 くすぐったいような、ぞくりとする不思議な感覚は、とても素敵だったから。  
「ああっ、うんっ……」  
「…………」  
 トラップは何も言わないけれど……段々、息が荒くなってる。  
 じんじんと頭がしびれる。熱くなった身体の奥から、何かがあふれる。  
 トラップの指がそこに触れたとき……太ももを、何かが伝い落ちるのを感じた。  
「ひゃんっ……」  
 下着をかきわけるようにして指がもぐりこむ。  
 細くて長い指。それが、わたしの中で……踊る。  
「やあっ……トラップっ……」  
「……ちっと、痛いかもしんねえ」  
 額に汗を浮かべて、トラップはつぶやいた。  
 いつもの人をバカにしたような笑みとは全然違う、とても優しい笑みを浮かべて。  
「痛いかもしんねえけど……なあ、俺と一つに……なってくれっか?」  
「…………」  
 迷うことなんか何もなかった。  
 ためらいなくわたしが頷いた瞬間、トラップは、わたしの太ももを抱えあげるようにして……  
 その瞬間、わたし達は、一つになっていた。  
 
 貫いた瞬間、口から漏れたのはうめき声。  
 パステルは、目に涙をためて、俺の首にしがみついてきた。……痛えんだろうな。  
 だけど、一言も、それを口にしなかった。ただ、震える身体で俺に抱きついて……耐えていた。  
 抱えあげたパステルの身体を、軽く揺する。太ももを伝って落ちた血が、ズボンを汚したが……気に 
ならなかった。  
 俺も、実は初めてだったんだが。  
 初めて経験するそれは……何というか。とんでもなく……良かった。  
 狭くてきつい。パステル自身もそうだろうが、俺もちっと痛い。だけど……暖かい。  
 全身を貫く快感。上りつめるっていうのは、こういうのを言うんだろうか?  
「と、とらっぷぅ……」  
 涙声で、パステルは腕に力をこめた。  
 ……わりいな。やっぱ、痛かったか?  
 なるべく優しくしてやろうと思った。大事にしてやりたいと思った。  
 だけど……初めてで、どうやればいいのかよくわかんなくて。  
 おめえに痛い思いさせちまって……ごめんな。  
 でも、俺は……こんなに嬉しかったことは、今まで生きてきた中でもそうはないぜ?  
 痛いってのはわかってただろうに、おめえがためらいなく頷いてくれて。  
 俺と一つになりたいと言ってくれて。  
 ひときわ奥深くまで貫く。パステルの身体を軽く揺さぶるようにして。  
 その瞬間……俺は、果てた。  
 ずるっ、と膝から力が抜ける。  
 パステルを抱きしめたまま、一つになったまま。  
 俺は、そのまま地面にへたりこんでいた……情けねえことだけど。  
 
 こんな時間じゃ、乗り合い馬車はないから。  
 だから、わたしは、今夜一晩、トラップの家に泊めてもらうことにした。  
 というより、正確には、トラップの部屋に忍び込んだ。  
 ううっ、ごめんなさいトラップのお父さんお母さんおじいさん。  
「おめえなあ、こんな夜中に『泊めてください』っつって挨拶する方が迷惑だろ? もうみんな寝てん 
だから」  
 っていうトラップの言葉に、言われた通り窓からこっそり侵入したんだけど。  
 やっぱり、これってまずいんじゃないかなあ……  
 でも。  
 トラップの、そんなに大きくないベッドで一緒に眠るのは……とても、暖かくていい気持ちだった。  
 何日も馬車に揺られて、疲れていたこともあって。  
 わたしは、ベッドにもぐりこむと、すぐに眠ってしまった。  
 そして……  
「トラップ!! いいかげんに起きて朝ご飯を食べな!!」  
 バンッ  
 目が覚めたのは、とてもよく通る声。  
 トラップの、お母さんの……はっ!!  
 がばっ!!  
 わたしが身を起こすと、あの滅多なことでは動揺しなさそうなお母さんが、さすがに目を点にしてい 
た。  
 きゃああああああああ!!? ど、どうしよう、何て言おう!!  
「あ、あのっ、あのあのあのっ……」  
「あんだよ……うっせえなあ。もうちっと寝かせてくれよ」  
 わたしがあたふたと腕を振っていると、トラップがもそもそと起き出して来て……そして、お母さん 
と目を合わせて、やっぱり硬直した。  
 ああ、こうして見ると、やっぱり二人って親子だよね。よく似てる……ってそんなこと考えてる場合 
じゃなくて!!  
 
 
「あっ……や、母ちゃん。これは、その……」  
「トラップ……」  
 トラップの言葉を遮って、お母さんはゆっくりと近寄ってきた。  
 ううっ、怖いようっ。ど、どうしよう……?  
 ベッドの脇に立つ。トラップをじっと見下ろして。そして……  
 トラップのことを、ぎゅっと抱きしめた。  
 ……え?  
「か、母ちゃん!?」  
「よくやった!! それでこそ、ブーツ一家の跡取りだよ!!」  
 お母さんの笑顔。わたしは、多分一生忘れない。  
 それは、暖かくて、全てを包み込むような、本当に素敵な笑顔だったから。  
「あのっ……」  
「パステル……だったね?」  
「は、はいっ」  
 お母さんの言葉に、わたしは慌ててベッドの上で正座した。  
 えっと、こういう場合……どうすればいいのかな?  
 だけど、お母さんはそんなことは全然気にしなくて。ただ、とても優しい笑顔で、わたしの手を取っ 
ていった。  
「ようこそ、ブーツ一家へ。ろくでなしの息子だけど……これからも、よろしくね」  
「……はいっ!!」  
 ああ、それって。  
 わたしは、ブーツ一家の一員になってもいいって……認められたって思って、いいのかな?  
 ねえ、トラップ。  
 トラップの方に目をやると、彼は真っ赤になってうつむいていた。  
 
 
 全く。だったら手紙なんて出すなっつーんだよ。  
 乗り合い馬車の中。パステルと並んで座りながら、俺は言わずにはいられなかった。  
 結局、あの後、パステルを家族全員……何故だか珍しく家にいた父ちゃんにじいちゃんにまで紹介す 
ることになったんだが。  
 みんなして、「よくやった!!」「こんな可愛いお嬢さんを捕まえるとは、さすがわしの孫だ!!」 
 って、おめえら、俺を家に呼び戻したかったんじゃねえのかよ?  
 パステルはな、俺をここから盗み出しに来たんだぜ?  
 ところがだ。俺がそう言うと、「うむ。お前はまだまだわしらについてくるには早いな」なんつって、 
俺はあっさりパーティーに戻ることを許された。  
 「まさか本当に戻ってくるとは思わなかった」って、おめえらなあ……  
 修行はやり直し。元のパーティーで、今しばらく頑張って来い。  
 ただし!  
 戻ってくるときは、絶対パステルも一緒に連れてこい!  
 家を出るときに言われた言葉。どうやら、家族全員、パステルのことを気にいってくれたらしい。ま、 
当然だけどな。俺の選んだ女なんだから。  
 しかしつくづく、勝手な家族だぜ。  
 まあ、でも。  
 ちらりと横のパステルを見る。  
 パステルは、何だか嬉しそうに窓の外を見ながら鼻歌を歌っていたが。  
 呼び戻されたおかげで、俺は……パステルと両思いになれたわけだから。  
 その点は、感謝してもいいな。  
「ん? 何? トラップ」  
「いや……」  
 俺の視線に気づいたのか、パステルが振り向く。  
 乗合馬車には、俺達しか乗っていなかった。行くときは、話し相手がいねえとえらく退屈な思いをし 
たが……  
 今は、この方が都合がいい。  
 俺は、パステルの肩を抱くと、ゆっくりとくちづけた。  

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