「じゃあ、また明日…」  
彼女の柔らかくて細い髪の毛が、夕日にきらきらと揺れる。  
「ああ。また明日」  
彼女は何度振り返っても笑顔で見送り続けてくれていた。  
「待つことになるのは承知していますわ」  
当然のようにそう言っていた彼女…サラが見えなくなる曲がり角を曲がって、おれは小さくため息をつ 
いた。  
 
前に来たときと少しだけ町並みが変わっているかもしれないな。  
ドーマの町でおれは育ったけれども、ちょっと離れただけで雰囲気が大きく変わる。  
どうしてなんだろう。  
おれが変わっただけなんだろうか?  
ぼんやり考えていると、後ろからポン、と肩を叩かれた。  
「クレイ、どうしたんだ?こんなとこで。今日はサラとデートじゃなかったのか」  
にやり、と悪ガキのような笑顔を浮かべているのは、幼馴染みのトラップだった。  
「…ああ、トラップか。うん、いま送ってきたところだよ」  
「そうかー。はー、お前もとうとうあした婚約だなぁ。でも、今までも口約束はしてたんだし、実感な 
いか?」  
「う〜ん…やっぱりよくわからないな。サラは今まで通りサラで、おれはおれだし」  
「だよなぁ。正式に…って言われても、何が変わるわけでもないもんな」  
 
他愛もない話に興じながら、おれとトラップはブーツ家に向かっていた。  
パーティのほかのメンバーは、みんな揃ってブーツ家に滞在させてもらっている。  
「クレイんちは息が詰まるからな。どうせなら、おまえもうちに泊まればいいんじゃねぇか?」  
そういうわけにはいかなかったれど、(婚約式の準備だのでなにかと呼ばれることが多かったし)  
トラップの家はいつでも明るくて居心地が良くて、とても好きな場所だ。  
 
「あ!くりぇー!」  
おれを見つけたとたん、ルーミィが飛びついてくる。  
「ルーミィ、いい子にしてたか?」  
「うん、今日は、おえかきしてたんだお!」  
ルーミィの邪気のない笑顔って癒されるなぁ…  
なんていうか、こう…安心するっていうか。  
「クレイ、すでにもう目が父親ですねぇ」  
と、道具袋の整理をしながらキットン。  
「あはは、そうかもしれないな。おれはルーミィの保護者みたいなもんなんだし」  
「そんなこと言ってっと、あーっというまにじじぃになっちまうぞ、クレイ」  
「うるさいな。お前もルーミィにかかったらパパ同然なんだから同類だろ?ほら、ルーミィ、トラップ 
が遊んでくれるってさ」  
「ほんとか?とりゃーっ、あそんでくえうのか?」  
「あっ!ずりぃぞ、クレイ!」  
「任せた」  
ルーミィを半ば強引にトラップに抱かせて、おれはキッチンへ向かった。  
さっきから聞こえてきていた、聞きなれた声。  
 
「パステル、今日の夕食はなんだい?」  
エプロン姿でミケドリアを一口サイズに切っていたパステルが顔を上げた。  
「あ、クレイ、来てたんだ。えっと、ミケドリアのから揚げと、マトマサラダと、スープスパゲッティ 
…食べてく?」  
「ううん、きっと家に用意してあるだろうから。でも、いい香りだ」  
「わたしは手伝ってるだけよ。トラップのお母さんって料理上手よね。いま、ハーブが足りないからっ 
て取りに行ってるの」  
「育ててるんだ。知らなかった」  
「そうみたい。ほら、香りがとっても強いのよ」  
おれの鼻先に、パステルは香草を近づけた。  
「ふんふん…ほんとだ」  
「でしょ?…あ、そうだ」  
「どうした?」  
「これ、ちょっと早いけど…お祝い。婚約おめでとう」  
と、ポケットからパステルが取り出して見せたのは小さな封筒だった。  
かすかに膨らんでいる。クレイへ、と小さく書いてあった。  
「…ありがとう。開けてもいい?」  
「あー駄目!後で、帰ってからこっそり見てみて」  
「??ああ、わかったよ」  
 
 
―――サラさんをいつまで待たせる気なんだ?  
―――相手に不服はないだろう。  
 
不満なんてない…  
彼女はたおやかで、繊細で、でも芯の部分がとても強い…おれにはもったいない女性だと思う。  
でも…  
 
もうすっかり暮れてしまった街に、あちらこちらから夕餉の香りと灯りが漏れてくる。  
早く帰らないと、怒られるかもしれないんだけど…  
なんだか、もう少しひとりでいたい。  
 
いつもなら野宿の準備も終って、パステルが干し肉を炙るいい匂いがして、その焚き火の周りに皆がい 
る。  
ルーミィとノルがあやとりで遊んでいて、キットンがキノコ図鑑でキノコを調べていて、トラップがつ 
まみ食いをしようとして、  
そしておれは剣の手入れをしながらその光景を見ている。  
そんな時間…だけれど、おれはひとりでドーマの夜にいる。  
そのことが何故かひどく寂しかった。  
 
ぐるぐる歩いているうちに、もう敷地内の自宅近くまで来てしまっていたらしい。  
本日何度目かのため息をついて、立ち止まった。おれは何をしているんだろう?  
もうすぐそこに屋敷が見える。  
どうも気がまだ晴れない…そうだ。さっきの中身を見てみようか。  
おれはポケットを探って、さっきパステルからもらった封筒を取り出した。  
振ってみる。カサカサ…と、鎖のような音がする。  
なんだろう?  
開けてみると、入っていたのは盾と剣と獅子のモチーフが組み合わさったトップが着いたブレスレット 
と、手紙。  
おれは帰るときにトラップに借りたカンテラをかざして、その手紙を開いた。  
 
クレイへ  
 
この手紙は、シルバーリーブで書いています。  
びっくりしちゃった。正式にクレイが婚約することになるなんて…  
でも考えてみたら、サラさんのためにもちゃんとするのは当然のことなんだよね。  
ってことをトラップに言ったらね、「まぁいつかこうなると思ってたけどな」って。  
サラさんは長女だし、クレイにゾッコンだからな、って。  
わたしもこのあいだ見せてもらった手紙を読む限り、クレイは好かれてると思ってはいたんだけどね。  
 
あのね。  
実はちょっとだけ淋しかったりするんだ。  
なんだか、今のままずっといられないんだなぁ…って。  
いつか修行を終えて、みんなどこかに帰っていくのよね。当たり前なんだけど…実感しちゃった。  
 
でも、おめでとう。  
これからもよろしく!  
 
パステルより。  
 
便箋は一枚で、文章はこれだけだった。  
だけどおれは、この手紙を何度も繰り返し繰り返して読んだ…  
パステルはわかってない。わかってない。なんにも…わかっていない。  
でも、それでいいと思っていた。  
そんなパステルだからおれも好きになった。  
でも、みすず旅館にドーマからの手紙が届いて、サラとの婚約を正式にすることになって…  
ずっとパステルは笑顔で祝福してくれている。それが、パステルの中でのおれの存在の位置づけなんだ 
ろう。  
けれど、それでいいと思っていたことが、段々つらくなっていくのはどうしてなんだ?  
 
この手紙で、おれの欲しかった意味ではなかったけれど、パステルが「淋しい」と書いてくれたことが、 
とても嬉しかった。  
なんども目で追って、反芻して…  
大事に折りたたんで、また封筒に戻そうとしたときに、もう一枚、今度はカードが入っているのに気が 
ついた。  
封筒の中をのぞくと、さっきパステルが嗅がせてくれた、香草の香りが微かにする。  
カードには走り書きでメッセージが書かれていた。  
 
追伸:ブレスレットは実は前にエベリンで買ったものです。  
婚約のプレゼントにする気はなかったんだけどね。  
 
…?  
エベリンに行ったのは、知らせが来るより前のことだったはず。  
だとしたら、これは…  
「!」  
そうだ!  
明日はおれの…誕生日じゃないか。  
 
星明りに、パステルのくれたブレスレットをかざしてみる。  
銀色のきらきらと光る、その鎖にゆっくりとくちづける。  
盾と剣と獅子のモチーフがゆらゆらと揺れていた。パステルは、これを選びながらなにを考えていたん 
だろう?  
頭の中に幸せな…膨らむ気持ちを感じたとき、唐突に声がした。  
「そこにいるのは、シーモア?」  
 
「サラ…!!」  
「やっぱり、シーモア。こんなところで何をしてらしたの?」  
「い…いやその」  
「忘れ物を届けに来たのに。あなたの代わりにおじいさまと夕食を戴いてしまったわ」  
「…ごめん」  
おれはブレスレットをポケットに捻じ込みながら、サラの表情をうかがった。  
いま、おれがしていたことを見られてしまっただろうか…暗かったから、心配することもないか?  
心臓がどくどくと高鳴る。おれの気持ちを、この人にだけは悟られちゃいけない…!  
そんなおれの焦りに気付くはずもなく、彼女はにっこりと笑って言った。  
「お部屋にお邪魔していっても…いい?」  
 
お茶を持ってきたメイドが意味ありげな視線をおれに送ってくる。  
う…  
でもここでヘタなことを言うと、あっというまに屋敷中に広まってしまうだろうから、「ありがとう」 
とだけ言って部屋から出てもらった。  
肝心のサラは静かにティーカップを傾けている。  
…こんな遅い時間に部屋に招くべきじゃなかったのかもしれないなぁ…  
さっきは、慌てて頷いてしまったけど。  
 
「ねぇ、シーモア」  
「な、何?」  
サラがカチャ、とカップをテーブルにおろす。  
緊張していて、どもってしまった。失敗した…  
サラはそんなおれを見てくすくす笑って、静かに話し出した。  
「あなたはとても優しいし、ほんとうはとても剣が上手だって知ってる。  
努力家で、誠実で、不器用で…そんなあなたが、わたしは昔から好きだった。とてもね」  
はあ、とここで彼女は小さく息継ぎをした。  
椅子からゆっくりと立ち上がり、丸い小さなテーブルの反対側―おれの右隣に来てひざまずいて、きら 
きらした瞳で見上げてくる。  
サラの、白い陶製のような指がおれの手を絡めとった。  
「だから、あなたと婚約することに関して何の迷いもなかった。  
でも、聞きたいの…不安なの。あなたが、わたしのことを、好きなのかどうか」  
 
絡めた指はそのままに、サラは空いているほうの手をおれの首に回した。  
どうしたらいいかわからない。サラ。…パステル。  
 
清潔感のある凛とした甘い香りがする。  
サラの唇が触れる瞬間、何故かおれは冷静にそんなことを考えていた。  
首筋を撫でる手は、柔らかくて、すべすべしている。  
この細い身体を…おれは抱きしめるべきなんだろう。  
このひとは将来、おれの伴侶になる人なんだ。  
申し分はない。不満なんてない。おれにはもったいない…  
 
けれど。  
 
「サラ」  
おれは彼女の二の腕をつかんで、自分から引き剥がした。  
どんな言い訳をすればいいというんだろう?  
彼女がおれを見ている。でも、おれは彼女を見ることができない…  
しばらくおれは何も言えなかった。喉がカラカラだった。けれど、サラは二の腕をおれに掴まれたまま、 
何も言わずに待ってくれた。  
風で、窓ガラスが揺れる音がしばらく響いていた。  
しばらくしてやっと、おれは声を出すことが出来た。  
「…ごめん」  
こんな陳腐なことしか言えなくて。  
「ごめん」  
嘘を吐き続けて。  
「ごめん…」  
好きに、なれなくて。  
 
長い長い沈黙の後、サラがぽつりとつぶやいた。  
「知っていました」  
その言葉に、おれは顔を上げた。  
「気付かないはずが…ないでしょう?」  
彼女は泣いていた。声も立てずに、ただ涙だけが後から後から頬を伝っていく。  
 
「…」  
「これでも一時期、本気で冒険者になりたいって思ったこともあるのよ。  
毎日、あなたと、いたかった。そうしたら、何か違ったかしら?」  
涙はそのままに、綺麗な顔をくしゃくしゃにして彼女は…笑った。  
おれは、何も言えずに、ただ彼女の身体をきつく抱きしめることしか出来なかった…  
 
家まで送り届ける途中、「明日正式な断りの連絡をいれます」とサラは言った。  
「…ありがとう」  
「いいのよ」  
 
冷たい風に吹かれながら、おれはまた、夕方と同じようにサラが見えなくなる曲がり角を曲がった。  
そのまま迷わずに、ドーマの町を歩いていく。  
ブーツ家に向かって。  
 
…でも、さすがにもう寝てるかな。  
時間を確認していなかったけれど、もう深夜近いはずだ。  
でも。おれは冷たい空気を肺に満たすように息を吸った。  
今、パステルに会いたい。  
寝ていたら寝ていたで、顔が見たい。触れたい。  
 
信じられない。  
こういう偶然ってあるのかな?  
おれがトラップの家の前に着くと、勝手口の前に寝巻き姿のパステルが座り込んでいた。  
手には暖かそうなココア。  
高鳴る心臓を必死で押さえて、出来るだけゆっくりと歩み寄る。  
「おいしそうだな、パステル」  
「へっ?」  
ものすごく間の抜けた表情!こういう反応がパステルなんだよなぁ。  
慌てたように、でも小声でパステルはおれに聞いた。  
「あれー??クレイ?どうしたの?」  
「散歩。パステルこそ、眠れないの?」  
「う…うん。ううん。…起きてたの」  
「何で?―あ、となり座っていいかい?」  
「あ、どうぞどうぞ。えーと…えーとね、星を見てたのよ」  
「ありがとう。で、なんでいきなり星なんか?」  
こう聞くと、パステルの顔が一気に紅潮していった。  
なんだ?おれ、なんか変なこと聞いたのかなぁ?  
と、パステルがつっかえつっかえ話しだした。  
 
「…誕生日、一番最初に祝いたくて」  
「え?」  
「それで星を見て、時間わかるじゃない?見てたんだけど…まさか本人が来るなんて思わなかったよ…」  
暗がりのなかで、おれが脇に置いたカンテラに照らされて、パステルはうつむいた。  
「…びっくりした〜。でも、おめでとう。クレイ」  
 
…これは。  
いつも鈍感、鈍感、って言われるおれだけど…  
もしかして、と考えてしまっていいのかな?  
「ねぇ、パステル」  
「えっ?」  
ひっくり返したような声。同時にふたりで人差し指を立てて、シーッ!と言い合って、笑った。  
「おれ、婚約しないことになったんだ」  
「ええ!?」  
シーッ。今度はおれだけ。  
パステルは口をぱっと押さえて、おずおずと聞いてきた。  
「な…なんで?」  
じっと見つめるとまたパステルのほおがピンクに染まる。  
…可愛い。  
次の瞬間、隣に座っている背中を抱き寄せて、おれはパステルにキスをしてしまっていた。  
何度も、何度も。唇に、ほおに、鼻に、耳に、くびすじに。  
キスをするたびにパステルの体から力が抜けていくのがわかる。  
「パステルが好きだから…いちばん好きだからさ」  
そう抱きしめて囁くと、パステルは怒ったようにおれを睨んで、―ひとこと。  
「馬鹿…頑張ってあきらめようとしてたのに」  
そうつぶやいて、今度は自分から、おれの胸に飛び込んできた。  
 

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