ぱぁん!
威勢のいい音をさせて、ジンジャーがおれをひっぱたいた。
今にも泣きそうな顔をぎゅっ、としかめて、おれを睨みつけて…次の瞬間、きびすを返してあっという
まに去って行ってしまった。
馬車の中から、皆びっくりして一人取り残されたおれをじっと見つめている。
じんじんするほおをおさえて、おれは苦笑を浮かべた。
「あいかわらずね、ジンジャー。婚約解消がほんとうにショックだったのね」
馬車に揺られながらマリーナ。
婚約式当日に滑り込みでドーマに着いたものの、式が中止になったのでとんぼ返りをするというので一
緒に帰ることになったんだ。
「ああ…マリーナにも無駄足踏ませちゃって、ごめん」
「いいのいいの。久しぶりにうちの皆にも会えたしね!たまにはいいわね、帰郷ってやつも」
「はは、そうかもしれないな」
でも今回みたいな面倒なのは、ちょっと嫌だけど。
「あなたたちに会えたのも久しぶりだしねぇ。近くもないけど、たまにはエベリンに顔を出してよ。
…そうだ!これから用事がなかたっら、ほんとうにうちに寄っていかない?うちに泊めてあげるわよ」
このマリーナの提案に最初に賛成したのはキットンだった。
「わたしは寄りたいですねぇ。ちょっと買いたい薬草があるんですよ」
「おれも、ちょっと買いたいものがある…」
それに続いて賛成したのはノル。
ノルが買い物なんて珍しいな。妹さんに何か買うのかな?
「いいんじゃないかなぁ?お金もあるし、時間もあるし…いっぱいじゃないけど。クエストもないし」
このパステルの発言に、全員(ルーミィもみんなの真似をして大きく)うなずいた。
マリーナがにっこりと笑う。
「それで、ちょっと手伝ってもらいたいことがあるんだけど…」
じい…っと見つめた先は、目を白黒させたパステルだった。
「あのね。2日くらいでいいから、わたしの店を手伝ってくれないかなぁ?
お給金はちゃんと出すからさ。人手不足で」
「ええ!?」
「じつはこっちに来る前に手がけてた仕事があって、それそのものは大体終わってるんだけど、細かい
事後処理とか全部アンドラスに任せてきちゃったのよ。
でも、意外と早く帰れるし、アンドラスを手伝いたいんだ。その間、駄目かな?」
「そ…そういうことかぁ。それは全然構わないよ。っていうか、お給金なんていらないよ!お世話にな
るんだし」
「本当?!ありがとう!でも、お給金は出させて。わたしの気が済まないもの」
…パステルが洋服屋さんの店員か…。
おれはぼんやりと想像してみた。
おれが洋服を見ていると、さっ、と後ろから声をかけられる。
――お客様、何かお探しなんですか?
――こちらのニット、今年の流行色使ってるんですよ。お体に合わせてみてください…
にっこりと微笑む店員…パステル・G・キング。
…買っちゃうな〜。
おれが想像してにやにやしていると、まわりでどっ、と笑いが起こる。
あれ、何でみんな笑ってるんだ?
内心何故かあせりつつも、おれも周りに合わせて笑っておいた。
…うーん。まぁ、いいかぁ。
エベリンでマリーナが連れて行ってくれたレストランの料理はとってもおいしくて、みんな楽しげに食
事をしていた。
そのなかでひとり…表情の冴えないやつがいた。
トラップだ。
あいつは何故か、ドーマから帰る直前くらいから、おれと目を合わせようとしなくなったんだ。
…おれ、トラップに避けられるようなこと、したか?
してない。…と、思う。
とすると、あいつの不機嫌の原因は…
から揚げを口に運びつつ、おれはちら、とパステルを見た。
…だろうな。
おれとパステルが両思いになったのはつい最近のことだ。
まだパーティの誰にも言っていない。
でも、トラップのことだから敏感に気付いてしまったんだろう。
おれとあいつは親友だけれど、恋愛に関して話し合うことは少ない。
でも、お互いを見ていれば…気付いてしまうこともある。
あいつも、パステルを好きなんだ。
いつからかはわからないけど、多分、ずっと前から…
「クレイ!呑んでる?なんだか、グラスが空っぽに見えるけど」
「…ああ、うん。頼んでるんだけど、こないんだよ」
「そうなの?なら、お料理ぶんはサービスしてもらっちゃうし、また頼んじゃえば?
「…そうだな。すみませーん!」
帰るころ。
ぐっすりと眠り込んでしまったパステルの前に、お店がサービスで出してくれた度数軽めのカクテルと、
それに味も色も良く似ている、おれが頼んだ度数高めのカクテルのグラスが1つずつ並んでいた。
…間違えて呑んだな。
思わずマリーナと顔をあわせて笑ってしまう。
マリーナに手伝ってもらって、おれはパステルをおぶって、店を出た。
前の方を歩くキットンとトラップのふたりが、こちらに振り向いて手をあげてきた。
こっちも手を上げる。
「トラップー!うちまでの道、わかるわよねー?!」
マリーナが叫ぶと、トラップがこぶしを上に突き上げるような動作をした。
わかってるってことなんだろう。それを見て、マリーナがひとさし指をぴっ、とあげた。
「なら、先頭任せても大丈夫ね。わたしたちは、しんがりをつとめましょうか」
おどけたような言い方。ふたり同時に吹き出すと、おれの背中のパステルが「うう…」と呻いた。
「起きそう?」
「…いや、これは朝まで無理だろうな。大丈夫、いつもルーミィをおんぶしてるから慣れてる」
ちょっと重いけど。今日は、ノルがルーミィの面倒を見ているんだ。シロがその足元を駆け回っている
のが見える。
「頑張って」
マリーナがくすくすと笑う。「ところで」
「何?」
「婚約解消のいきさつ、聞いてもいーい?なにかあったんでしょ、彼女と」
「…勘がいいな、マリーナは」
「ありがと。…長い付き合いだしね、クレイとも」
「でも、そんなに大した理由じゃないぜ?
おれが彼女を、恋人にできなかっただけだよ」
「――」
「家族にはなれたかもしれない。でも、恋人にはどうしてもできなかった」
「…そうなの」
サラ。
静かに泣いていた彼女の姿を思い出して、すこし胸が痛む…
あの朝おれがこっそり家に帰ってからしばらくして、サラの家から遣いがやってきた。
サラが「個人的な事情で婚約を解消したい」と言ったのだそうだ。
それで、両親やらお祖父様やら、サラの両親やらが色々とおれに事情を聞きに来たり、
そんなごたごたの中で式のために頼んであったアレンジメントフラワー(確かそんな名前だったような)
が届いて混乱したり、食材を発注しすぎてその日の夕飯はとても豪勢なものになったり、
宝石店にキャンセルを出してまたもめたり…全部落ち着くのに結局1日かかった。
ただその間、サラは一歩も自室から出ず、おれと顔を合わせようとしなかった。
挨拶に来たおれと両親に、「勝手な娘で、申し訳ない…」とサラの父親は謝ったけど…
何が悪いって、おれが一番悪いんですよ、と、心の中でだけ付け足しておく。
―――これでも一時期、本気で冒険者になりたいって思ったこともあるのよ。
―――毎日、あなたと、いたかった。そうしたら、何か違ったかしら?
おれが、パステルを好きだから…
「おれはずっと、サラも『なんとなく口だけで婚約』していて、本気じゃないんだと思ってたんだ。
でも違った。彼女はおれのことを本気で考えていてくれた…おれはそうじゃなかったんだよ」
「クレイは、恋愛に関してはほんと!駄目だもんね」
「…そんなに、強調するほどでもないと思う…」
いーえ。マリーナが腰に手を当てて、肩をすくめて見せた。
「だって、彼女の気持ちなんてわたしがたまに見てもわかったもの。
それを本気じゃないと思ってたなんて、筋金入りね、あなたは」
ドアを開けると、先に着いていたキットンたちがいっせいにこちらを向いた。
「マリーナ、荷物はここに置いて構いませんか?」
「ええ、いいわよ。ちょっと待って、みんな、食後のお茶でもいかが?
パステルを上に寝かせてから淹れるわ。飲む人ー」
マリーナが手を挙げると、おれ以外全員の手が挙がる。
「おれ、挙げてないけど…飲みたい」
パステルを背負ったおれをみて、マリーナはにっこりと笑った。
「了解!じゃあトラップ、お湯沸かしておいて。クレイはわたしに着いてきて。なんの用意も出来てな
いから、ソファベッドでいいわよね?」
「ああ、頼むよ」
おれの返事を待って、マリーナは階段を上がっていった。
「…もしもの話なんだけど、話してもいい?」
階段の途中で、マリーナが聞いてくる。
「ん?ああ、うん」
「…あのね」
マリーナにしてはめずらしく言葉に詰まった。
階段を上がりきって、ソファに寝かせたパステルに毛布をかけると、、意を決したように口を開いた。
「もしかしたら、わたしずっと昔から、あなたのことが好きだったかもしれない」
と言った。
…え?
「でも、聡明で美人な婚約者もいて、身分も違いすぎて、今までずっと黙ってたかもしれないわ」
事態が全く飲み込めていないおれに、マリーナは試すような視線を向ける。
「…気付かなかったでしょう」
呆然と頷くしか出来ない。マリーナが、おれを?
「…だからね、解消したって聞いて…すごく嬉しかったんだよ、わたし…クレイは気付いていなかった
のかもしれないけど、わたしは…わたしはずっと…」
「マリーナ…」
泣きながら笑うその姿。
ああ、おれはこれと同じものを見た。
サラだ。サラ…彼女の涙と似ている。
おれはたまらなくなって、マリーナの身体を抱きしめた。
マリーナの腕にも一瞬力がこもって、すぐに抜けていく。
「…泣いちゃってごめん。下にお茶があるよ。飲んで行って」
そう言うと、彼女の細い身体はおれのうでの間をするり、と抜けていった…
「やまないなぁ、雨」
「ですねぇ。ま、通り雨みたいだし…こうして待ってればいつか止みますよ!
パステルとトラップに悪いですねぇ、こんなにおいしいランチに誘えなくて」
おれとルーミィは、魔法屋へ寄った帰り。キットンたちは買出しの途中で雨に降られ、
偶然このカフェの前ででくわして、昼食をとろうということになった。
なので留守番組のパステルとトラップがいないんだ。
…パステルとトラップがふたりきりなのか。
おれは初めてその事実に気付いて、ちょっとだけ心配になってしまった。
そんなこと絶対にありえないけど…トラップ、なにかパステルに変なことしてないだろうな?!
もんもんと考えるおれをキットンがちょいちょいとつつく。「粉チーズ、取っていただけますか?」
あ、もうスパゲッティが来たのか…気付かなかった。おれは脇にあったチーズのビンをキットンに渡し
た。
「はい」
「ありがとうございます」
キットンは運ばれてきたばかりのスパゲッティにチーズを山盛りにかけて、食べはじめた。「あ、ノル、
使いますか?」
「おれ、いい」
ノルは大きな手で小さなフォークを使いづらそうにしている。
いや、フォークが小さいわけじゃないんだけど、小さく見えてしまうんだ。
同じフォークを、ルーミィが使うととっても大きそうなのにな。
おれはヒザに乗せていたシロを床におろして、フォークを手に取った。
そのとき。
カフェの前を通りがかった馬車が、急に減速した。
馬の鳴き声がけたたましい。なんだろう?
店員さんや他の客も、なんだなんだ、という顔で外を見る。
馬車の小窓が開いて、中からのぞいた黒髪の女性…
…あ、あれ?マリーナ??
「クレイ!ちょうど良かったわ。手伝って欲しいことがあるの!説明は中でするから、馬車に乗って!」
見間違いかと思ったけど、黒髪にモスグリーンの瞳のその女性は、マリーナだった。
なんだって、変装なんかしてるんだ?
とりあえず、マリーナが急いでいるようだったので、おれは「ルーミィを頼む」とノルに声をかけ、馬
車へ走った。
「ごめんなさい。クレイ、借りるわね!」
マリーナが開けてくれたドアに飛び乗ると、馬車はすぐに走り出した。
マリーナは御者に行き先の指示を出すと、おれに向き直り、「ごめんね、いきなり」と話し始めた。
「急な依頼が入ったの。わたしの知り合いなんだけど…」
マリーナの話はこうだった。
依頼人のリスティス(マリーナはリズ、と呼んでいた)は専門学生で、アルバイトをしながら今は卒業制
作にとりかかっているらしい。
少し前、彼女のアパートに妙な手紙が届き始めた。
それは彼女の私生活を記したもので、内容は時間や食事の内容まで微細に書き連ねてあった。
1日と空けることなくその手紙は届き続けた。
気味悪く思った彼女は、色々調べてみたり、いつもの行動範囲をわざと変えてみたりしたんだけど、手
紙の内容は変わることはなかった。
もともと恋人と将来お店を開くために貯め続けていた貯蓄があった彼女は、そこからいくらかを切り崩
してアパートを引き払い、ホテル暮らしを始めた。
ホテルの宿泊料金はバイト代と相殺できると思ったし、何より手紙の存在が恐怖だったから…
「けど、そのホテルにも手紙が届くようになっちゃったの。それで彼女、ホテルから一歩も出られなく
なっちゃたんだって。
バイトに行けないからお金は減る一方だし、手紙は毎日のようにホテルのポストに投げ込まれている…」
「ひどいな、それは…」
「でしょう。で、彼女、明日どうしても外に出なきゃいけない用事があって、怖くて外に出られないか
ら力を貸して欲しいらしいの」
「ふむふむ」
「明日、彼が午後一番に着く馬車に乗ってエベリンに来るらしいの。
最近の手紙の内容によると、アパート暮らしをしていたときに郵便ものぞかれていたらしくて、手紙の
主もそれを知っているようで…
『彼は前のアパートの位置を知っているのかな?家の前で待っていれば会えるかな?』って書いてあっ
たみたい」
「それは…彼が危ないんじゃないか?」
「そうなの。ほんとうは彼女が彼を迎えにいくはずだったんだけど、彼女がいなければ彼はアパートへ
向かう。
そこで、彼がその手紙の主に危害を加えられるんじゃないか…って、彼女怯えてたわ。
それで、わたし犯人を調べてみたんだけど…ひとり、怪しい人間がいるのよ」
マリーナは、脇に置いてあった鞄をごそごそひっかきまわすと、取り出したものをおれに突き出した。
上等な仕立てのスーツ。
「だから、ちょっと着替えてくれない?」
容疑者のシュウは、リスティスが務めていたバーに今でも週三回出勤しているらしい。
週末の3日間だけなのだが、明日、出勤のはずの土曜に予定休を出しているらしいのだ。
「今日は出勤みたいだから、そのバーに行ってみましょう。
けどわりと小奇麗で高級なバーだから、正装しないと浮いちゃうんだって。ちょっと窮屈かもしれない
けど、我慢して。
それで、クレイにはシュウの顔をしっかり覚えて欲しいの」
おれの髪の毛をジェルでオールバックにしながら、マリーナは言った。
「リズと彼氏には、面倒だけどシルバーリーブに行ってもらうことにしようかしら。
パステルと上手いこと入れ替わってもらって、ノルたちと一緒にパステルのフリをしてシルバーリーブ
に帰ってもらうの。
彼氏には後で事情を説明することにして」
マリーナがそこまで話すと、こんこん、と馬車のドアが叩かれた。
マリーナが小窓の外をチラッと見て、窓の隙間から手を差し出した。
おれが見たこともないような男が外に見え、マリーナに何かを渡して、さっとどこかへ行ってしまった。
マリーナが馬車に引き込んだその手には折りたたまれたメモ用紙らしきもの。
「ふぅん…やっぱり、このシュウって奴が一番怪しいわね。ほかの容疑者は時間がなさ過ぎるわ」
…そんなに何人も容疑者を見つけてたのか。朝から今までの間に?
おれが感心していると、マリーナは重なっていたメモ用紙をめくった。
「ああ、よかった。パステルとリズに入れ替わってもらう方法が見つかったわ。花を届けてもらうこと
になるわね」
マリーナが胸をなでおろすのを見て、おれはあることに思い当たった。
「…あ、それなんだけど」
「ん?なに?」
「パステルが、その…影武者じゃないけど。それを嫌がったら、どうするんだ?」
それを聞いて、マリーナはきょとんとした。
「う〜ん…わたしがやるかな。でも、パステルならやってくれるって勝手に思ってた。駄目かなぁ?」
「いや、多分平気だとは思うんだけどさ」
じつは…パステルをそんな危険な男(?)の視線に晒したくないというのが本音ではあるんだが。
彼女も冒険者だし、そう言われたら怒るんだろうな。
雨はまだ降り続いていたけれど、手はずは着々と進んでいった。
明日、ノルたちとリスティスのカップルが乗る馬車のチケットを取り、パステルとリスティスの変装の
手配。
時間がおしたときのために、マリーナが聞き出してきたリスティスの彼氏の風貌をアンドラスさんに伝
えて、明日の昼に彼氏を足止めしておいてもらうようにした。
そして、偽の彼氏役にトラップ。
「多分犯人は、ホテルと彼女の前のアパートを見張ると思うの。彼氏の顔は知らないけど、
前の家を訪ねた男がイコール、リズの彼ってことになるもの。
多分それは、誰か雇ってして、自分はホテルを見張るだろうから、その裏をかくわ。
彼女のことをすべて知っている、というような文章を書いてきている犯人だから、
予定外の事態が起こると対応できないんじゃないかと思うのよ。
それがホテルの位置を知らないと思ってたリズの彼氏なら余計にね」
3時間…トラップがパステル扮するリスティスの部屋にこもり、出てくる。
犯人はおそらく逆上して、トラップになにか仕掛けてくるだろう…というのだ。
「さて。ある程度計画も固まったし…クレイの靴でも見に行こうかしら?そんなどろどろの靴じゃバー
には入れないもの」
おれの足元を見て、マリーナがため息をついた。
改めてみると、雨の中走ったりしたおれの靴は、結構悲惨な状態になっていた。中に水は沁みていない
けど、乾いた泥が白く染み付いてしまっている。
「そうね、そしたらとりあえず一回お店に戻って、パステルとトラップに計画を話してきましょうか。
たしか、クレイのサイズの靴が2足くらい在庫あったと思うのよね。ちょうど雨も止んできたし…」
御者にまた行き先の指示を出すと、馬車は走り始めた。近かったので、ものの数分でまた馬車が減速す
る。
小降りになった雨の中、店の目と鼻の先の場所に馬車を止めて、マリーナと傘を差して馬車から降りた。
「これだったら、夕方から晴れそうね」
ベージュのベロアのタイトスカートに、レースの黒いキャミソール。毛皮のコートを着込んだスタイル
のマリーナが、空に長い手袋をした手を差し出して言った。
その横で、黒い(レースの付いた婦人用の…)傘を差している、黒いスーツをラフに着崩したスタイルの
おれ。
ただし靴はどろどろ。
こんな姿を見たら、パステルびっくりするだろうな。
パステルの反応を勝手に想像しながら歩いていると、急にマリーナの足が止まった。
おれの服の裾を引っ張る。
「ク、クレイ…いま、もしかしたら、お邪魔かも?」
「へ?」
マリーナが口を押さえながら指差したその先…
店の窓からパステルとトラップが見えた。
抱き合っているふたり。
「…?!!」
その光景を見た瞬間、頭がまっしろになった。
遠目だから自信はないけど、パステルは泣いているようだった。それをそっと抱きしめているトラップ。
「…トラップ、告白でもしたのかしら」
マリーナも驚いているようだった。
「なんにしても、いまはちょっと…入れそうもないから、他のお店で靴、探しましょう。説明はしょう
がないから後でにして」
冷静な彼女の言葉が耳から耳へ抜けていく。
でも、身体は気持ちと無関係に反応して、振り返って馬車へと歩いてしまう。
2人は何を…していたんだ?
どうして抱き合っていたんだ?マリーナの言うように、告白したのか?
でも、何故…?
混乱する頭でマリーナの選んでくれた靴を履き、念のためおれもカラーコンタクトをいれた。
色は紫。
鏡をのぞくと、自分じゃないような自分がそこにいた。
「あら、いいじゃない。時間もちょうどいいし、そろそろバーに向かいましょうか?」
ピアノとハープの生演奏が流れるそのバーは、エベリンの繁華街のなかにあってとても落ち着いた雰囲
気をかもし出していた。
カウンター席が10席。個室風にカーテンで区切ることも出来るテーブル席が5つあって、おれとマリ
ーナはテーブル席に通された。
マリーナが何かカクテルを2つ頼んだが、おれには名前を聞いてもよくわからないものだったので、一
応「それでいい」というようにうなずいておいた。
「防音なのかしらね。上はパブなのに、全然うるさくないわ」
「そうだな。…なんだか、おれ、場違いじゃないか?こんなに大人っぽい場所だとは思わなかった」
「大丈夫大丈夫。クレイは十分大人っぽいわよ。そのための変装でしょう?」
マリーナが片目をぱちっと閉じて、にっこり笑った。
ああ…そうだった。
店内の壁に飾られた鏡をチラッと見てみる。
髪の毛を全部固めて、スーツに身を固めた自分にどうも慣れない…
マリーナが小声で囁いた。
「じつはトラップと迷ったのよね。尾行はあいつのほうが専門分野だし…でも、
こういう場所に連れてくるのに、あいつはちょっと…ね」
苦笑い。
おれはトラップの名前を聞いて、さっきの光景を思い出していた。
抱き合っているふたり…
そんなおれの心境を読み取ったかのように、マリーナはおれの目をじっと見つめてきた。
「やっぱり、リーダーとしてはパーティー内恋愛に動揺するもの?
よく、知り合いからパーティの中でうまくいくカップルは少ないってきくけど…」
「あ…ああ、…そうなのかな。おれは、そういう話、あんまり詳しくないから…」
「うんとねー。まあ毎日一緒にいるから、恋愛って言うか肉体関係はすぐ成立しちゃうんだって。
で、気持ちがなくてパーティごと破綻したとか…
恋愛感情があっても、近くにいすぎて、醒めちゃったとか…
うまくいってる人もいるみたいなんだけどね。あのふたりは、どうなのかしら?」
失礼します、と小振りのグラスをふたつと、スナックをもってボーイがやってきた。
すかさずネームプレートを確認し、マリーナと目配せする。
…こいつだ。
案外普通の男だな。
痩せ気味ではあるけれど、適度に筋肉の付いた体。
暗めの茶色の、つやのあるくせのない髪。
髪型も、清潔感があってセンスがいい。
にこやかに「ごゆっくりどうぞ」と下がる姿にも、別に怪しいところはない。
ほんとうに、こいつなのか?
疑問には思ったが、計画に関することを基本的に話さないという決まりごとを店に入る前に決めたので、
黙っていた。
さて。とりあえず顔は覚えたけれど…何を話していればいいんだろう?
おれがぽりぽりと頭をかくと、マリーナがぽつり、と漏らした。
「…昨日は、ごめんね」
「…え?」
「困ったでしょう。いきなり言われて…
でも、本心だから。
受け止めてくれるだけで、いいわ…」
マリーナのまつげが照明に照らされて、憂いを帯びた表情に影を落とした。
「…ごめん…受け止めることも、できそうにない」
おれがそう言うと、マリーナはうつむいたままきゅっ、と手を握り締めた。
シルクの手袋の擦れる音が聞こえる。
「おれが婚約を解消したのは、じつは…好きな人がいるからなんだ」
「…誰?」
絞り出すような声。
おれも、返事をするのがつらくなってくるような声。
「…パステルだよ」
おれがその名前をゆっりと言って、オレンジ色のカクテルを飲み干すと、マリーナは意外な言葉を口に
した。
「やっぱり…」
「え?」
「なんとなくね、なんとなく…クレイは見ててもわかりづらいほうだけど、いつだったかな?
いつか、なんだか、そう思ったときがあるんだ…パステルのこと、好きなんじゃないかって」
「…」
あきらめたように、マリーナはくいっとカクテルを飲み干した。
ボーイを呼んで、「これ、もう1杯ください」と言う。「クレイは?」
おれも同じものをまた頼んだ。
それから、他愛もない話をして、相槌をうちながら閉店までずっと呑み続けた。
シュウの住む部屋は、バーのあるビルの上のほうの階のようだった。
このビル自体がシュウの両親の持ち物だとか…金持ちは違うなぁ。
階段を昇っていく彼を確認して、おれたちも帰ろうか、という話になった。
マリーナは珍しく顔を真っ赤にして、すこしふらついてしまっている。
おれの腕に腕をからませてくっついている身体が…熱い。
そういえばおれも、昼飯食べ損ねて、空っぽの胃にアルコールを入れたからか…けっこう酔っているか
もしれない。
「あのねぇ、クレイ」
「なんだい?」
「わたしがどうして、エベリンに寄ってって、っていったのか、わかる?」
「…」
「クレイに会えるからよ。クレイと御飯食べて、遊びに行けるからよ」
「…マリーナ」
「昔はいまのパステルみたいに、ふたりの真ん中にいて、
恋愛とか知らなくて、嫌なことなんてほんのかけらばっかりで…
あのころに、戻りたい…」
「…」
店の前に着いて、マリーナは鍵をがちゃがちゃと探し出した。まもなくドアが開く。
このぶんなら、あんまり酔っぱらってなさそうだなぁ。
「ほんとうに、クレイって鈍感よね。
それがクレイなんだ、とは思うけど。思うけどね…
…ほんとに、クレイってば、クレイってば、クレイってば…クレイよね」
――訂正。結構酔ってるかもしれない…。
「マリーナ、呑みすぎだよ」
「なぁに?わたしは呑んだけど、酔っぱらってはいないわよぉ?うふふふ」
おれはため息をついた。
すると、にまにまとおれの顔を見ていた彼女の顔が、一気に歪む。
「クレイ、…クレイ。クレイの馬鹿。鈍感にもほどがあるわ。どうして気付いてくれなかったの?」
「…マリーナ、おれは…んむっ」
静寂。
強引に、マリーナの唇がおれの唇を奪い、舌先で器用にまさぐってくる…
体温が高いときは、粘膜も温かいんだろうか…
一瞬だけ離れて、間近で見つめる、モスグリーンの瞳。
「…こうやって、直接どうにかしないといけなかったのかしらね?」
その瞳から大粒の涙がこぼれて、また唇を触れ合わせてきた。
熱い舌が、おれの舌を引き出して絡ませる。頭のどこかがかぁっ、と熱くなってきてしまって…
背中にマリーナの腕がまわされる感触に、気付くとおれも、マリーナの身体を抱きしめてしまっていた。
理性っていうものを…おれはいま、初めて自覚している。
それが「飛びそうになる」というのは多分…こういう状態のことを言うんだろう。
マリーナがおれの背中で手袋を外して、おれの身体をまさぐり始めた。
その手がおれの、膨張を始めた場所で動きを止めた。
「すごい…クレイ、もうこんなに固くなってるよ…」
おれの首筋にマリーナの舌が走る。
「…う…」
同時にいきりたつ部分を服のうえから擦られて、おれは小さく呻いてしまった。
服の上から、先端の部分を爪で弄りながら、マリーナが囁いた。
「感じてるの?…クレイ、可愛いね…」
それは女が言うセリフじゃないだろう…
と言いたかったが、声を出すような余裕はまるでなかった。
彼女の手は、巧みにおれを導いていく。
全身を貫く快感に、おれの「理性」は後一歩で崩れ去る、というところまで来てしまった。
パステル。
おれにはパステルという…恋人がいる。
そう思いとどまろうとしたけれど、いま、同時にあの光景が浮かんできてしまう。
トラップと抱き合うパステル…
どうして泣いていたんだ?
考えてみれば、おれとパステルの関係はまだ…一度寝ただけで、あとは何もない。
何もない。
まだ、本当に恋人と呼べる関係に、なっていないんじゃないのか?
…まだだ。
おれたちは、まだだ。
まだ、お互いに何も話し合っていない…
気持ちを伝え切れてもいない。
おれは、流されてしまいそうになる自分を押しとどめて、おれをまさぐるマリーナの手を…止めた。
「マリーナ、おれは…」
「クレイ…」
いつの間にか毛皮を脱ぎ捨てていたマリーナが、きっ、とおれを睨んだ。
おれが握り締めた手首をばっ、と振りほどき、「そこに座って」と言う。
目にたっぷりと涙を溜めて…
その表情に、おれは言葉を失い、すぐそばにあったスツールに腰掛けた。
すると、マリーナはおれの足の間にひざまずくと…ベルトをカチャカチャとはずし、手際よくズボンの
ホックを開け、ジッパーを下げ、力の抜けたおれのものを掴みだした。
おれがあっけに取られている間に、それを両手で包み込み…舌先でちろっ、と舐める。
再びそれに熱がこもる。
「マ、マ、マ…マリーナ…んっ?!…うあっ…」
おれの小声の抗議には答えず、彼女の舌が裏側の…自分ではなかなか触らないような部分を舐め上げ、
柔らかい手で同時に根元を締め付ける。擦る。
体中の力が抜けてしまいそうなくせに、びりびりと脳天を刺激する感覚に気が遠くなりそうだ。
おれの股間に顔を埋めているマリーナの頭…その光景はひどく非現実的で、さらに勝手に反応してしま
うのがわかった。
そして追い討ちをかけるように、マリーナがなんの予告もなく、おれのものを口に含んだ。
「!!!!!」
初めて味わう刺激。
以前パステルの中に入ったときともまた違う、暖かでぬるぬるして、たまにまさぐる舌先…
それだけでものぼりつめてしまいそうなのに、マリーナはリズミカルに頭を上下し始めた。
ときに早く。そしてときに息を付きながらゆっくりと舐め上げ、またスピードをあげていった。
根元を締め付ける手に力がこもり、汗でじっとりと湿っていく。
「マ、マリナっ、…だめだ、そんなにしたら…」
出てしまう。
必死でその衝動を押さえつけたが、我慢が…もう我慢がきかなかった。
おれはマリーナの口の中へ、欲望を放出していた。
はあ、はあ、はあ…
しばらくの間、お互い何も言えずに、荒げた呼吸を落ち着けるのに専念する。
マリーナはその間に、口の中のものを飲み込んでしまう。
先に口を開いたのは、おれだった。
「マ…マリーナ…」
「…」
返事がない。
何も言わずに彼女は、膝立ちを崩して床に座り込んだ。
そのほおには、流れ続ける涙。
――泣きながらしてたのか?
「…ごめんね、クレイ…でも、我慢できなかったの。クレイと、したくなっちゃったの。クレイに抱き
しめられるのが、あんなに気持ちいいなんて思わなかった…」
窓から斜めに差し込む月の光。雲の隙間から斜めに差し込むそれに照らされて、床に落ちた涙の染みが
色づいた。
「…マリーナ」
「クレイなら、途中でやめちゃうだろうって、わかってた。わかってたから、だから…したのはあたし
だから、気にしないで。
もう寝よう。明日、シュウの見張り、よろしくね。
今日のことは、忘れて…。わたしも、忘れるから。おやすみ」
マリーナが階段をかけのぼって、やがて部屋の扉が音をたてて開閉するのが聞こえた。
「…なんなんだよ」
どうしようもない脱力感と、罪悪感が交差して、…立ち上がることも出来ない。
とりあえずまだ、眠れそうもなかった。
結局ほとんど眠れないまま朝が来て、おれはスーツを脱ぎ、固まったままになっていた頭を洗った。
しっかりと固められていて、落とすのに手間がかかるんじゃないかと思っていたが、結構簡単に落ちた。
風邪を引かないようにタオルで念入りに拭き、自分の服に着替える。
昨日の堅苦しい服を一晩着たままだったので、一気に軽くなった身体を伸ばす。ぼきぼきぼきっ。
予想以上に派手な音に1人でびっくりして、まだ誰も起きださないうちに家を出た。
売店で新聞を買い、繁華街のはずれにある、シュウの住むビルの斜め前にあるサンドイッチ屋で朝食に
たまごサンドと牛乳を買う。
…そういえば昨日食べた朝飯から、食べた固形物といえばバーで出たつまみのスナック菓子くらいじゃ
ないか?
どうりで胃が痛むと思った。
ビルの入口が見えて、座れそうな場所を探す。…大きめのショッピングセンターの前にちょうどいいベ
ンチを見つけ、深々と座り込んだ。
ふーー…
大きく息を吐く。
おれのほかにも、出勤前のショッピングセンターの従業員らしき人やら、朝方まで働いていたらしいホ
ステスの集団やら、色々な人間がそこで朝の時間を楽しんでいた。
たまごサンドを食べながら、おれはぼんやりとシュウのビルを眺める。
朝から見張りって言っても…
あんなに遅くまで働いている人間が、早く起きたりするのか?
どうせ、少なくとも10時くらいまでは寝ているんじゃないか?
まあ、気長に待てばいいだけの話なんだけどな。
寝不足で少々いらついている自分を落ち着かせることもできず、牛乳のパックを一気に飲み干した…そ
のときだ。
「!?」
ビルから降りてくる人間がいる?
目を凝らしてよく見てみると…
昨日の今日で、見間違うはずもない。そいつは、おれとマリーナにカクテルを運んできてくれた、シュ
ウだった。
…これは…
マリーナの推理は、大当たりだったってことか?
残りの牛乳を飲み干して、箱を潰す。不自然にならないように気を遣いながらサンドイッチの袋へ投げ
込み、ゴミ箱へ捨てる。
もし、シュウがリスティスのホテルへ向かうとしたら…この通りを、おれに背を向けて歩き出すはず。
……行った!!
荷物ひとつ持たずに、シュウは朝の繁華街を歩き出した。
おれは、慎重に彼のあとをつけはじめた。
シュウが、ホテルの前にあるビルの、モーニングセットを置いているケーキショップに入っていき2階
のイートインの窓際の席に座るのを確認したおれは、
はす向かいのオープンカフェで待機しているはずのマリーナのところへ急いだ。
「マリーナ!」
店に入って、コンソメスープをを飲んでいるマリーナに声をかけてしまってから、おれは少しだけ気ま
ずい気分になった。
シュウがほんとうにこのホテルの近くまで来たので興奮していたけど…昨夜の泣き顔がまだ胸にこびり
ついている。
おれが一瞬二の句をつげずにいると、マリーナがにっこりと微笑みかけてきた。
「おはよう、クレイ!ここに来たってことは、シュウがどこかに来てるのね?」
よどみなく、いつものように明るく笑う彼女に、おれは少しとまどってしまう。
昨日、あんなことになったのに、この切り替えの早さ・・・
忘れるってのは、こういうことなのか。
拍子抜けしているおれに椅子をすすめて、「で?シュウはどこにいるの?」と聞いてくる。
「あ、ああ…あそこのケーキ屋の、2階のイートインの、窓際。見えるか?」
おれが指差すと、マリーナはきゅっと目を細めた。
「――ああ、見つけたわ。やっぱり彼だったのね」
「パステルは?」
「うん、そろそろ来るはず…あ、来たわ。顔は向けないで、青い縦ストライプのシャツワンピース。白
いカーディガン」
「…ああ、あれか」
重そうな青いかごを抱えて、歩いていくパステル。ホテルの中へ入っていく。
シュウの方をちらりと見ると、興味なさげに横目でちらりと見ただけで、とくに気にしていない様子だ
った。
しばらくして、かごを空にした、同じ格好の金髪の少女がホテルから出てきた。
「彼女が――…」
「そう、リズよ。…あの距離じゃ、顔を見られたらばれちゃうかも。見ないでよ…」
ホテルの前に出て、通りの右左を確認するリズ。
違う…きみを狙っている男は、君の上からホテルを監視しているんだ。
そのとき、ちょうどシュウはコーヒーを飲んでいて、まだリズが出てきたことに気付いていない。
彼女が扉を閉めたとき、シュウがホテルの入口へ視線を向けた!
リズ扮するパステルをまじまじと見つめる。
…ばれるか?!
彼女は足早に、うつむき加減で一直線に花屋への道を走り出す。
そう、そうだ!そのまま走るんだ…!
シュウはそれを見てもとくに反応せず、胸のポケットから煙草を取り出し、火を点けた…
「…はあああああ。緊張した…」
「これでリズのほうは大丈夫ね…あとは」
トラップ。
マリーナと顔を見合わせる。
「うまくあいつがひっかかってくれるといいんだけど…
ま、いいわ。トラップが来るまで、よろしく」
「え?どっかいくのか?」
「トラップを恋人らしくしてくるわ。あいつって、センスないじゃない?」
1時間ほどオープンテラスに座っていても、シュウはおれの存在に気付いていないようだった。
ケーキを食べながらコーヒーを飲み、煙草を吸い、しかしホテルから出て行く人間に注意を向けて離さ
ない。
反して入っていく人間には大した反応もしないようだった。
…そうか。
今日の昼に来るはずの彼を迎えに、リズが出てこないか見張っているのか…
馬車の到着時間であるはずの11時半を過ぎて、その様子が変わってきた。
明らかにリラックスして、のんびりとリズの部屋を眺めている。
そこに、マリーナが戻ってきた。
「ただいま、クレイ。彼の様子はどう?」
「ああ、マリーナ…リズが彼を迎えに行かないから、リラックスしてるよ」
「ほんとの彼女は、もうそろそろシルバーリーブ行きの馬車に乗るころなんだけどね」
マリーナがにやりとして、「そして」通りの向こうに視線を投げる。
「…彼氏の登場よ」
黒いダッフルコート、適度に色落ちした細身のデニムパンツ。グリーンのストライプのマフラー。手に
は小振りのボストンバッグ。
慣れない格好をしているからか、変装というわけではないのに別人に見えてしまうのは何故だろう…
「ああいうかっこしてれば、あいつももう少し普通の人に見えるんだけどね…」
マリーナがつぶやく。
…そういえば…
昨日、ふたりが抱き合っていたことを思い出して、おれは嫌な気持ちになった。
本当なら今からでも役割をトラップと交代したいくらいだ。
だから、マリーナがこういったとき、飲んでいたカフェオレを吹き出しそうになってしまった。
「いま、トラップと交代したいって思ってるでしょう?」
「…げほっ!ごほっ!き、器官に入った…」
「クレイってば…わかりやすいんだから」
わ…わかりやすいか?
おれが不満を表情に出すと、マリーナは苦笑した。
「……」
「ごめんね、本音を言うと、最初にバーに行くのはクレイとトラップ、どっちでもよかったんだ。
ただね、…あたしがクレイと一緒に行きたかっただけなの」
「!」
マリーナが舌を出した。
「…そういえば、家に戻れば簡単にトラップを捕まえられたのに、もしかしてわざわざおれを探したの
か?」
「うん」
脱力…。
なんとなく釈然としないイライラを抱えながら、机に突っ伏す。
「あ、クレイ、シュウが…!」
マリーナの声で我に返る。
…そうだ。いまおれは、シュウの見張りをしなくちゃいけないんだ。
ケーキ屋の2階のシュウを見やると、…おおおおお。
今まで誰が通っても、薄い反応しかしていなかったシュウが…ものすごい形相でトラップを見ている。
トラップがホテルに入り、しばらくシュウはリズの部屋の窓があるほうをずっと見つめている。
「トラップには、窓際でアピールしろ、っていってあるんだ」とマリーナ。
そして、おそらく窓からトラップの顔がのぞいただろう瞬間…
彼の形相が尋常じゃないものになった。
人間っていうのは、あんなに表情が変わるものなのか…
おれは昨夜、歯切れ良く接客をしてくれた彼の笑顔を思い出していた。
その彼の表情を思い出すと、薄ら寒い気持ちになる。
あの表情の裏には、こんな感情が隠れていたんだ…!!
「あっ!店を出るわよ。わたしたちも行きましょう!」
シュウはその形相もそのままに立ち上がり、階下に降りていった
おれがふたりぶんの会計を済ましている間に、マリーナが店の外に出てシュウの姿を追う。
どこに行くのかと思ったのだが、彼が向かった先は隣接している本屋だった。
「…?なにをしてるんだ?」
「もしかして、店員が仲間なんじゃない?いつも、仲間が彼女の生活を彼に報告していたとか」
マリーナの推理が当たっているのかどうかわからないが、彼は確かに本屋の店員に何事か囁いて、すぐ
に別れた。
お金を払った様子もなく、店頭の雑誌を手にしていた。
そして今度は、さっきまでおれたちがいたカフェにずんずん歩いていき、そこでもケーキとコーヒーを
頼み、通り沿いの席に座る。
おれたちは慌てて本屋に入り、立ち読みのフリをする。
「…どうする?」
「もしかして、あのままあの席でねばるつもりかな」
「多分ね…でなきゃ、雑誌なんか買わないわよね」
「買ってないよ、お金払ってなかった」
「懇意にしてるのかもよ?だから後払いでよくなってるとか」
「…なるほど」
そのまま立ち読みで3時間は待てないので、おれはやばいかもしれないと思ったんだけど、さっきまで
シュウがいたケーキ屋に入ることになった。
「たぶん、トラップが出てくるまでしっかり見てなくても平気だと思うわ。ケーキ食べて、待ちましょ」
マリーナは平然としているが、おれは…パステルが気になって気が気じゃなかった。
ストーカーより何より、いま、トラップと2人きりということのほうがよっぽど…危険だ。危険すぎる。
もんもんと時間が過ぎていくのを待つおれに、マリーナが言った。
「ねぇクレイ、なんか表情がシュウっぽくなってきてるわよ?」
「…うそ」
うなずくマリーナ。
「気になるのはわかるけど、トラップもそんなに節操無しじゃないわよ。
っていうか…もう少し、わたしに気を遣ってくれてもいいんじゃない?」
いたずらっぽい瞳でおれをみつめる…その光に少しだけ、夕べの涙が込められている気がして、おれは
慌てた。
「えっと…その…ごめん」
「冗談よ」
くすくすと笑う。
「ごめんな、マリーナ」
「…冗談だってば」
その眼をじっと見つめていると、彼女は顔を背けた。
そしてぽつりとつぶやく。
「…わたしも、ごめんね、」
彼女は、けして泣きはしなかったけど…
肩を小さく震わせて、いまにも消えてしまいそうだった。
「ごめん、あたし…あっちのカフェテラスの方に戻るわね」
重くなった空気を壊すかのように、明るい声。
「――」
口を開こうとしたおれをさえぎって、言い募る。
「あ、違うわよ。一緒に行動しないほうがいいかな、と思ったの。
2人で一緒にいるとこを見られたら、昨日の客に似てるな、って思われちゃうでしょ?
だから」
「でも、お店の人がいぶかしがるかも…
もし、シュウと店の人が仲間だったら?」
「それなら平気」
マリーナは着ていたダウンジャケットを広げて見せた。「リバーシブルなの」黒地とピンク。
そしてニット帽を取り出し、三つ編みを中にしまってしまう。
ついでに、トイレに行ってデニムパンツの上にミニのスカートを合わせてしまった。「ぱっと見は全然、
別人でしょう?」
「…おみそれしました」
変装だけじゃなく。
そうやって、空気を元にもどしてしまう、君の強さにも。
そろそろ3時になろうか…というころ。
おれは打ち合わせどおり、会計に立った。
3時ぴったりにホテルを出てくる手はずになっているのだ。
会計を済ませ、店の外に出たとき…おれは見てしまった。
トラップが、パステルのほおにキスしているのを…!!!
「?!!」
トラップはそのままくるっ、ときびすをかえして、雑踏の中へ足早に消えていく…
その後を、シュウが追うのがわかった。
ああ…きっとおれも、もしかしたらシュウと同じ表情をしているかもしれない…!!!
トラップの、ばっかやろう!!!!!
おれと合流したマリーナは、そんなおれの表情を見て、何か言おうとした。
「…あー、クレイ…さっきも言ったけど…まぁいいか」
「…わかってるよ」
彼、シュウはひと気のない場所でトラップを呼び止め、刃物を突きつけて、繁華街のうらの潰れたカジ
ノへ連れ込んだ。
トラップに話しかけてる声が聞こえてくる。
「おまえさぁ、何でリスティスと付き合ってるとか勘違いしてんだ?あぁ?あいつはなぁ、おれのコレ
なんだよ、コレ。
なんでも知ってるぜ。おめぇのしょぼい夢とかな、あきらめろよ、店なんてすぐ潰れるぜ?このご時世。
彼女は俺んちで働かせてやってもいいけどさ、おめぇなんか臓器売るくらいしかできねぇよ。今ここで
死ね。な?」
これを聞いて、おれとマリーナは隠れていた物陰から飛び出した。
「待て!」
「待ちなさい!」
ぎらりと光るナイフを、両手をあげたトラップに突きつけて、シュウがこちらを振り向く。
その彼には、あの丁寧さや平凡さは微塵もなく、感じられるのはただ…狂気だけだった。
突然現れたおれたちにシュウが驚いた隙に、トラップが回し蹴りをはなち、シュウはぶざまに倒れこん
だ。
蹴りざま、トラップが反動で間合いを取る。
「ぐっ…な、なんだ、おまえら!」
シュウは立ち上がり、あとずさった。
「リズに頼まれたのよ」
マリーナが言うと、彼は目を見開き、ぎりぎり歯を食いしばった。
「リズ?リズだと?…軽々しくあだ名で呼ぶんじゃねぇ!!このメス豚ァ!!!」
右手に持った刃渡り20センチほどのナイフを振りかざして、シュウが叫ぶ。
「下がってろ!」
おれはマリーナとトラップが背になるように前に出て、襲い掛かってきたシュウに立ちはだかった。
昔習った、剣がないときの体術。一度ならったきりだったが…やるしかない!
上段方向から切りかかってくるシュウの右手を、左の小手でほんの少し外側にずらしてやる。
そのへんのチンピラ程度なら、これで軌道が狂って、身体のバランスも崩してしまう…
そこで身体を一瞬縮めて、伸び上がりざま、渾身の蹴りを叩き込んだ。
「はっ!!!」
…タイミングはばっちりだった。
気持ちいいくらい、シュウが吹っ飛ぶ。
「クレイ!」
「すげえ!クレイ、武道家になれるんじゃねぇか?!」
「ぐぅ…」
みぞおちを押さえて、シュウがよろよろと立ち上がる。
こちらを睨みつけたかと思うと、背後にある階段に向かって走り始めた!
「待て!!」
おれたちもすぐにその後を追って、階段をかけあがった。
「おまえらぁ!止まれ止まれ止まれぇ!こいつを見ろ!」
甲高い声。そして、シュウの足元で縄で縛られている人影を確認して、おれたちの歩みは止まってしま
った。
パ…パステル?!
なんでここに!
彼の足元にいる、栗毛の少女…パステルがリズに変装した姿。
「くくく…万一のことを考えて、リスティスも捕まえておいたんだ…くへへ、くへへ…
おい、赤毛。お仲間さんたちも、動くなよ」
完璧におかしくなってしまっている…
ぎらぎらした目は、大魔術団のクアーティを想像させた。
欲望に支配されてしまっている目。
「これから、こいつはおれのもんだ…知ってるか?こいつはおれが好きなんだ。おれだけがこいつのこ
とを、なんでも知ってるんだぜ…」
唸り声のような笑いをこぼしながら、シュウはパステルの腕を捻り上げ…そして静止した。
すかさず、マリーナが叫んだ。
「おあいにくさま!ほんとの彼女には、逃げてもらったわ。観念しなさい!」
それを聞いた彼の顔が見る間に紅潮していく…
マリーナとパステルを交互に睨んだシュウを見て、おれは一瞬胸の底が焦げ付くような気分になった。
嫌な予感は、その一瞬後に現実となってしまう。
「うう…くそがぁっ!」
いきなり大声で叫ぶと、シュウはパステルの身体を殴り飛ばしていた。
どこかに縄がくくりつけてあったのだろう。
いちどカジノの台に衝突したパステルの身体は、引っ張られるようにして転がり、向かいのルーレット
の台の前の椅子にぶつかり、からまって止まった。
「…パステル!」
叫び声をあげることもなく、パステルは気を失ったようだった。
口から流れる血。腫れ上がってくる顔。
「げははは、あっははは…ふざけんじゃねぇ、たばかりやがって、このアマ!!天罰だ!!!」
それを見て、おれの中で何かが切れた。
「―――――この野郎!!!!」
逃げようとするシュウの足を、後ろから膝関節を蹴って止める。
転がって、ポーカーの台に背中を打ちつけたシュウの襟を持ち上げてそのまま投げ落とした。
「がはっ…」
シュウの肺から空気が漏れる。
構わずにそのまま顔に2発、ボディに1発、全体重をかけたパンチを打ち込んだところで、おれの拳を
トラップが止めた。
「もうやめろ!死んじまう。おめえが犯罪者になっちまうぞ!」
…結局。
パステルは、全身打撲に足首の捻挫、口の中をひどく切っていて、左の頬が紫色に腫れてしまっている
という…ひどい怪我だった。
小さい裂傷、切り傷は数え切れない。
パステルのベッドの横で、おれはじっと彼女が目覚めるのを待った。
あれから、シュウを起こし、警察に証拠の手紙の束(リスティスから預かっていた)と一緒にして連れて
行った。
すると、なんと彼の親が事件のもみ消しにかかり、こちらには慰謝料を払うからなかったことにしてく
れないか、という要求をしてきた。
おれは冷静になれそうもなかったので、そういう交渉事はマリーナとアンドラスさんに任せることにし
た。
…もしまたシュウの顔を見たら、また殴りかかりそうだ。
パステルの寝顔を見つめる。
こんなに誰かのことを憎いと思ったのは、…初めてかもしれない。
ボロボロの身体を見て、おれは心底後悔した。
彼女をホテルの前から連れ去ったのは、あのときの本屋の店員だったのだ。
あのとき…
トラップがパステルのほおにキスしたとき…
おれがもう少し落ち着いて、周りを見ていれば、パステルを守れていたかもしれないのに。
それは…ついさっきまで部屋にいたトラップが教えてくれた情報だった。、シュウの供述からわかった
ことだった。
そして、そのとき、思い切って聞いてみた。…キスの理由と、店で抱き合っていた理由。パステルの涙
の理由。
すると、トラップは不機嫌にこう返しただけだった。
「ふざけんなよ。んなこと、直接パステルに聞いて確かめろよ。この鈍感。朴念仁」
おれたちは、まだだ。
気持ちは確かめ合っても、まだ何も始まっていない。
これからすこしずつ、わかりあっていけばいいだろうか?
少しずつ、毎日、気持ちを伝えることができたら…
パステルのまぶたが、うっすらと開く。
ぱち、ぱちとゆっくりとしたまばたきに、思わず涙ぐんでしまう。
…カッコつかないなぁ。まぁ、しょうがないか。
目覚めたパステルに、おれはそっとくちづけた。