ああ…ほんの半月滞在していただけなのに、なんだかすごくいろいろな事があった気がする。  
クレイの婚約騒動でドーマに滞在していたわたしたちは、婚約解消の翌日、ドーマを発った。  
 
あれから…  
朝いちばんに、サラさんからの婚約解消の知らせが来て、クレイのうちは大騒ぎだったみたい。  
色々な段取りを踏んで、丸一日かかって、何とか落ち着いたみたいだったけど、詳しい話はクレイはし 
てくれなかった。  
というより、クレイもよくわかってなかったみたい。本人たちのことより家同士のことのほうがめんど 
くさかったんだって。  
そうそう。  
全部が落ち着いて、ドーマを発つ直前に、クレイを訪ねてあのジンジャーが来たんだけど…  
クレイ、思いっきりひっぱたかれてた。  
まっかになったほっぺたをしばらく睨んで、自分の目も真っ赤にして、何も言わずにジンジャーは行っ 
てしまったんだけど・・・  
クレイも何も言わずに、でも困ったように笑ってたっけ。  
 
帰りの馬車の中…実はものすごーく、つらかった!  
うちのパーティが大所帯で、狭いのはなれっこなんだけど…  
あの…その、多分、した…から、だとは思うんだけど。あの場所に、まだ時々鈍い痛みが走っちゃうん 
だよ〜。  
ほんと、痛むたびに、赤面してたんじゃないかな。恥ずかしかった。はあぁ。  
そうそう、その馬車に乗っていたのは、じつはわたしたちだけじゃない。  
婚約式の予定日当日、大慌てでドーマに帰ってきたマリーナも、お店のことがあるから…ってわたした 
ちと一緒に帰ることになったの。  
「ちょっと店をしばらく空けててね。帰ってきたら、クレイの式があるっていうから、これでも飛んで 
来たのよ?」  
これ以上店を閉めたままにするのは…ってことだったんだけど。  
はああ。長旅で疲れていただろうに、とってもパワフルで、いつもながら美人だなぁ。  
「なんだか、女の子がいるだけで、パーティが華やぐ気がしますねぇ。ぎゃっはっはっは」  
…なんてことを言ったのはキットン。  
い…一応わたしも女の子なんだけどな…  
 
それでね。  
マリーナが、特に用事もないなら、うちに寄って行かない?というので、わたしたちはマリーナの店に 
急遽立ち寄ることにした。  
ありがたいことに、交通費とプラスアルファをクレイのお母様からいただいていたのでお金の心配もな 
いしね!  
馬車の中で、じゃあそうしようとなったところで、  
「それで、ちょっと手伝ってもらいたいことがあるんだけど…」  
と、彼女はそのおおーきな目で、わたしをじっと見つめた…  
な、な、何???  
 
 
前の事件(ミモザ姫のときね!)のこともあってびくびくしちゃったんだけど、なんのことはない、わた 
しに頼みたいというのは古着屋さんの店番だった。  
なんでも、ドーマに来る直前にしていた用事の後処理を全部アンドラスさんに任せて来ちゃったんだっ 
て。  
だから1日2日くらい店を見ていて欲しいのだそう。  
「よかった〜。前みたいに、王女様に化けろとか、そう言われたらどうしようかと思った」  
わたしが本気で胸をなでおろすと、マリーナがにっこり笑って言った。  
「うふふ、またそういう用事があったら、改めて頼むわね!」  
「えぇっ?!そ、それは勘弁して…」  
周りで皆が笑ってるけど…わたしはあんな思いするのは、もう、ぜーったいやだもんね!  
 
エベリンに着くと、ドーマであんなに晴れていたのに、空がどんよりと曇ってしまっていた。  
もう日も暮れてしまって、馬車にずっと揺られていたからくたくた、おなかもぺこぺこなわたしたちに、  
「みんな、おなか減ってない?近くに、知り合いの料理屋があるんだけど、行かない?」  
と、マリーナ。  
行く!と皆が同意する前に、食いしん坊ルーミィからお得意の「おなかぺっこぺこだおう!」が出て、 
マリーナは大笑いしてた。  
 
マリーナがわたしたちを連れて行ったのは、わりと新しい感じの洒落た小さいお店だった。  
大人数用のテーブルに運ばれてきた料理は全て店長の創作料理だそうで、飾り付けにも様々な趣向が凝 
らされた手の込んだもの。  
そういう本格的な料理とお酒を、お安い値段で楽しむ…それがコンセプトなんだって。  
このお店のオープンにもマリーナは一役買っているらしくて、店長さんにしきりにお礼をいわれていた。  
マリーナって…すごいなぁ。  
そのマリーナの計らいで、なんと!ひとり猪鹿亭のランチくらいのお値段で、ディナーをご馳走になる 
ことができたの!  
店長さん、ニコニコして「いいんですよ」って…  
パーティの財政はそんなに逼迫していないけど、節約するのに悪いことはないし、ありがたーく御飯を 
いただくことになった。  
 
「おいしーい!このから揚げに振ってあるのって、ただの塩じゃないよね?」  
「はふはふ…いいじゃないですかぁ、おいしいんですし…あ、パステル、この串焼きいけますよ」  
「ほんと?ルーミィ、食べたい?とってあげようか」  
「食べたいお!るーみぃ、おなかぺっこぺこだおう!」  
「こら、ルーミィ、口にものを入れたまま喋るんじゃない。行儀が悪いだろう」  
「くすくす…クレイってば、まるでルーミィちゃんのパパみたいね?」  
いつもどおり、騒がしいわたしたちの食卓。  
ルーミィと自分のぶんの串焼きを皿に取りながら、わたしは内心ある人のことが気になってしょうがな 
かった。  
わたしの隣で、キットンにちょっかいを出している赤毛の盗賊…トラップ。  
彼もいつもと変わらず明るかったけど、わたしとクレイには一切話しかけて来ようとしなかった。  
これは馬車に乗る前からだったんだけどね。  
何か話しかけても、「ああ」とか「そうだな」とかしか言わなくて…  
原因は、わかりすぎるほどわかっていたから、わたしも次第にトラップに話しかけるのをやめていたん 
だ。  
それに、馬車の中ではマリーナがいたから、そんなきまずさも忘れていられたんだけど。  
 
ううう。何だか…嫌な気持ち。  
こんな…こんな風になりたかったわけじゃないのに。  
お店の人がサービスで出してくれたカクテルをかき回してみる。  
目の覚めるような青の中に浮かぶ白いゼリーが雪みたい。  
ストローでちょっと飲んでみると、…あれ、意外とおいしいかも。  
「ぱぁーるぅ、くしやし、もっとほしいおう」  
「あ、はいはい、ちょっと待ってね」  
ルーミィのための串焼きを取っているその延長線上には、仲良さげに談笑しているクレイとマリーナ。  
…どうしてだろう?胸の奥のほうが、ねばっこいもので身動きが取れなくなってる。  
これはきっと嫉妬…嫉妬よね。こんな仲のいいふたり、見ていたくない…  
どうしても自分とマリーナを比べてしまうから。  
脚が長くって、ウエストがきゅっとしまっていて、胸もしっかりあって、とってもキュートなマリーナ。  
こんな苦々しい気持ちでぐるぐるしてる、なんのとりえもないわたし。  
…  
ああ、やだやだ!  
考え出すと、どんどんマイナスの方に行っちゃう。  
わたしはドロドロした気持ちを飲み干すように、青い飲み物をごくごくと飲んだ。  
こんな風になりたかったわけじゃ、ないのにな…  
 
 
ゆらゆらと揺れるような感覚。  
優しく、柔らかい場所に下ろされて、ふわっと暖かくなった…毛布?  
うっすら目を開けると、まぶしい部屋の中央にクレイがいた。  
また目を閉じる。クレイが運んできてくれたんだな。  
とろとろとまた、意識がゆらゆら揺れてきたわたしの耳に、マリーナの声が聞こえてきた。  
「…だからね、解消したって聞いて…すごく嬉しかったんだよ、わたし」  
…え?  
「クレイは気付いていなかったのかもしれないけど、わたしは…わたしはずっと…」  
「マリーナ…」  
「…泣いちゃってごめん。下にお茶があるよ。飲んで行って」  
布と布が擦れあう音…部屋が暗くなる気配。  
しばらくして、ドアが静かに閉められて、ぎしぎしと軋む階段を降りる音がそれに続いた。  
 
わたしは目をぱっちりと開けた。それまでのまどろみが一気にどこかに飛んで行ってしまった。  
さっきの、ふたりの会話…そして…  
さいごに、クレイ、マリーナを抱きしめてた?  
気配だけだったけど、なんとなく伝わってきたんだ。  
目を閉じていたのに。  
 
 
翌日、わたしに仕事の簡単なやり方をメモで残して、マリーナは朝早くから出かけてしまった。  
クレイはルーミィとシロちゃんを連れて、挨拶がてら魔法屋へ。  
ノルとキットンは必要な物の買出しに。  
トラップは、マリーナのお店を開ける時間になっても、まだ寝ているようだった。  
それでわたしはひとり、マリーナの店で服をたたんだり、掃除をしたりしていたんだけど…  
お昼近くなってちらっと窓の外を見ると、雨が降り出してしまっていた。  
あらら。みんな、傘持ってないのに、大丈夫なのかな?  
でもそういえば、昨日から天気はあやしかったなぁ。  
そんなことを考えているうちに、雨はざあざあ降りになってきてしまっていた。  
 
することもなくなって、わたしはレジカウンタの椅子に座ってぼんやりとしていた。  
この雨じゃ、お客さんも来ない。しんとした店内に、雨の音だけが響いている。  
わたしの頭の中には、夕べの光景がエンドレスで思い出されていた。  
 
あれから、頭の中が混乱して眠れなかった。  
マリーナがクレイを好きかも…ってことは、気付いて、いたけど。  
 
――クレイは気付いていなかったのかもしれないけど  
――わたしは…わたしはずっと…  
 
マリーナのセリフが、まるで今も耳元で囁かれているみたいな気がする。  
少し鼻にかかった、涙声。  
そして…  
クレイが、マリーナをそっと抱きしめる気配。  
 
…そこで、わたしの想像は最初に戻ってしまう。  
幸せな気持ち。ふわふわと浮かんでいるような心地よい感覚。  
「…クレイ」  
小さい声で囁いてみる。  
大好きだって言ってくれた。  
それだけは信じてもいいことなんだよね?  
 
 
「おい」  
?!  
いきなり後ろからかけられた声にびっくりして振り向くと、そこにはいつ起きたのか、トラップがいた。  
起きたばっかりなのか、目が腫れぼったい感じ…  
って!  
いけないいけない。また、泣きそうになってたよ。  
トラップの目がじっとわたしを見ている。もしかして、…泣きそうになってたのばれちゃった…?  
こわごわと「お…おはよう」と声をかけると、だるそうにスツールに腰掛けて、  
「だりぃ…二日酔いだ。茶かなんかねぇ?」  
「あ、…うん、あるよ」  
朝淹れた紅茶をポットに入れておいたのをカップに注いで渡す。「熱いかも」  
「そっか」  
冷ますつもりなのか、カップを持ったままトラップは窓の外を眺めた。  
気付いて…ないみたい。良かった…  
「雨、すごいね」  
「そうだな…それで目が覚めたんだよ」  
「へぇ。寝起き悪いのに、珍しいね」  
「…うるせぇ」  
いつものわたしたちではないような、ゆっくりとしたテンポの会話。  
でも、嬉しい…久しぶりにトラップと話せてる。  
さっきまで強張っていた気持ちが徐々にほぐれていくのが自分でもわかった。  
どんな理由でも…トラップと話せなくなるのは、つらかったから。  
わたしがほっとしていると、雨を眺めながら紅茶を一口飲んで、トラップがつぶやいた。  
 
「…ごめんな」  
「え?」  
「困らせちまって」  
「…」  
首を振ってみせる。  
あのものすごーく乱暴なトラップが、いま、ものすごーくわたしに気を遣ってくれているのがわかるよ。  
ありがとう。  
「わたしこそ、ごめん」  
じーんと、目頭が熱くなる。  
昨日からずっと、張り詰め通しだった部分が緩んじゃったような気がする。  
ほんとうに頑張ったんだけど…涙を一粒だけ、落としてしまった。  
「ごめんね、…ごめん」  
その涙は、一度こぼれちゃったら後から後から溢れてきてしまって。  
自分でも分からなかったんだけど、クレイへの気持ち、マリーナへの気持ち、そしてトラップの気持ち 
がないまぜになってるような感じで。  
ぐちゃぐちゃになって支離滅裂になっていたわたしを、トラップはそっと…そっと抱きしめてくれた。  
わたしの気が収まるまで。  
 
雨がだんだんと上がっていくのがわかる。  
音が静かになってく。  
「ありがとう、トラップ。もう大丈夫だよ」  
トラップのからだを押し離して、わたしは微笑んだ。  
 
 
それから、ふたりでお店番をしたんだけど。  
雨は止んだのに、お客様は一人も来なかったんだ。  
だからトラップとふたりで、たくさんおしゃべりしちゃった。  
他愛もないおしゃべりだったけど、すごく…救われた気がしたんだ。  
 
 
夕方になって、キットンたちが帰ってきた。  
ルーミィとシロちゃんを連れて。  
「あれれ?ルーミィを連れて行ったの、クレイだよね?クレイはどうしたの?」  
「あ、クレイなんですけどね、雨に降りだしてすぐに偶然会うことが出来まして、ランチがてら雨宿り 
をしようってことになったんですよ〜。  
そうしたらそこにマリーナがやってきて、ちょっとクレイを借りたいというので、ルーミィはわれわれ 
が引き受けたというわけです、はい」  
…そうなんだ。  
うぅ…昨日の今日だからなんだろうけど、クレイとマリーナが一緒だってだけでなんかやだ。  
嫌な子だなぁ。わたし…  
ただ仕事を手伝っているだけだっていうのに。  
 
わたしの気持ちを知ってか知らずか…  
お店を閉めて、夕飯の時間になってもふたりは帰って来なかった。  
近所の食堂で定食を食べて帰って来ても、  
ルーミィが待ちくたびれて寝てしまっても。  
 
 
「なんかあったにしても、あいつらなら心配はいらねぇよ」  
というトラップの言葉にわたしも異論はなかったんだけど…  
何だか眠れなくて、ルーミィの眠るベッドを揺らさないようにして、部屋を出た。  
…っていっても、外に出たわけじゃなくて、階段に座っていただけなんだけどね。  
もう深夜をまわってるっていうのに、ふたりは何をしてるんだろう?  
実は、頭の中、そればっかだった。  
わたしとクレイは、想いが通じ合ったんだと思ってたのに、どうしてこんなに苦しいんだろう?  
…と。  
扉が開く音とともに、階下から聞こえてきたのは、クレイとマリーナの話し声だった。  
 
「…ほんとに、クレイってば、クレイってば、クレイってば…クレイよね」  
「マリーナ、呑みすぎだよ」  
「なぁに?わたしは呑んだけど、酔っぱらってはいないわよぉ?うふふふ」  
あっちゃー…マリーナができあがっちゃってるよ…  
わたしは立ち上がって、クレイを手伝おうと階段を降りようとして…  
「クレイ、…クレイ。クレイの馬鹿。鈍感にもほどがあるわ。どうして気付いてくれなかったの?」  
…足を止めた。ついでに、息も潜めてしまう。  
「…マリーナ、おれは…んむっ」  
静寂。  
「…こうやって、直接どうにかしないといけなかったのかしらね?」  
おそるおそる、わたしは階段を降りて…そして見てしまった。  
暗闇の中で抱き合って、キスしているふたりを…  
 
 
どうやって部屋に戻ったかは…全然覚えていない。  
気付いたときはルーミィの隣に潜り込んで、目をぎゅっと閉じていた。  
けれど、眠ろうとすればするほど、さっきの光景が戻ってきて、心臓が潰されてしまいそうだった…  
 
 
いつ寝たのか全然覚えていないけれど、目が覚めたのは早朝だった。  
なんか…あんまり寝た気がしないなぁ。からだがだるくて、ぼーっとする。  
カーテンを開けると、すがすがしいほどの青空に朝日がきらめいていた。  
 
昨日のことが、夢だったんじゃないかと思ってしまうけど…  
あれは確かに現実だった。  
どうして?  
どうして?  
クレイ。  
 
 
「あのね、パステル!頼みたいことが出来たの!」  
ななな…いきなり何?  
わたしが朝食の準備をしていると、マリーナがやってきて開口一番に言った。  
マリーナの前でどんな顔をすればいいんだろう?なーんて考えていたんだけどな。  
「なにかあったのか?マリーナ」  
「ああ、トラップにも協力してもらわなきゃいけないかもしれないわ。あのね…」  
真剣な顔で、マリーナは急遽受けることになった依頼の内容を話し始めた。  
 
 
依頼者の名前はリスティス。マリーナはリズ、と呼んでいたらしい。  
なんでも、エベリンのある服飾の専門学校に通っている女の子で、長期休みの時期なんかにときどきマ 
リーナのお店でバイトしてもらっていたんだって。  
彼女はとても優秀で、卒業制作さえ提出すれば卒業できるくらい単位も取ってしまっているそう。  
卒業後は、染物の修行をしている彼とふたりでお店を持つのが夢で、バイトもその貯金のために何個か 
掛け持ちしていたんだけど…  
 
ある日、彼女が住んでいる部屋に1通の手紙が来た。  
内容は、前日の彼女がした行動について、事細かに記したもの。  
そして、その手紙はその日から毎日届くようになったんだって。  
――今日はあの店でバイトだったんだね。  
――お昼御飯に食べたミケドリアサンドは美味しかったかい?  
そんな内容がタイプされた便箋が決まって2枚入った、茶色い何の変哲もない、消印のない封筒…  
自分の生活が覗かれている?!  
その手紙は、自分が帰宅した時間や様子も丁寧に観察して書いてあったみたい。  
大家さんに不審者や、毎日見る人間はいないか聞いてもわからない。  
通る道や帰宅時間なんかをわざと変えても効果なし。  
彼女はとても怖くなって、住んでいた家を引き払い、今までの貯蓄を切り崩して、ホテル暮らしを始め 
たの。  
結構な出費ではあるけど、バイトさえしていれば相殺できる金額だから仕方ないと思ったんだけどね。  
なんとそのホテルにも手紙が届くようになってしまったんだって!  
朝、掃除に来るおかみさんが、それまでもらっていたのと全く同じ封筒を運んできたとき、彼女は心底 
恐怖したそうだ。  
 
「…偶然、わたしが昨日そのホテルに用事があって、偶然会えたの。  
そうしたら、もう怖くって外出できなくなっちゃってるらしくて…わたしの顔を見て、彼女泣いちゃっ 
て。  
彼との将来のために貯めているお金なのに、悔しくってしょうがない…って。  
でも、ずっと部屋にこもっていても、その手紙は毎日届くんだっていうの。  
『毎日ひきこもっていないで出ておいでよ』とか『愛してるよ』とか…」  
うわあぁ…  
自分に置き換えてみなくとも、背筋がぞわぞわする。  
こ、これって噂の…ストーカー、ってやつ?  
「…わたし、ほんっとうに頭にきちゃったわ。彼女ほど頑張ってる女の子ってそういないと思うの。  
そんな彼女の努力を踏みにじってる。  
『愛してる』だなんて…そんな言葉で許される行為じゃないわ」  
うんうんうんうん!!  
わたしはマリーナの目を見て大きくうなずいた。  
話だけしか聞いていないけど、自分と彼の夢のために頑張ってる彼女はすごいと思う。  
同じ女の子として見習いたいくらいだもん。  
そんなリズさんの邪魔をして、愛してるだなんて、間違ってる!  
「ありがとう、パステル。そこで、あなたの出番なわけよ!」  
…へ?  
ぽかんとしているわたしに、マリーナは、あるひとつの作戦を提案してきた…  
 
 
ううう…重いよぉ…  
わたしは大きめの籠を両手に下げて、通りを歩いていた。  
着ているのは、マリーナの知り合いのお花屋さんの制服。  
マリーナの作戦だからしょうがないけど…もうちょっと軽く出来なかったのかしら?これ。  
 
「実はね、パステル。彼女、リズはどうしても今日、犯人に気付かれずにエベリンを出たいのよ」  
「そ、…そうなの?なんで?」  
「卒業制作に使う布を持って、彼がエベリンに来ることになっているからよ」  
マリーナによると、どうもこういう話らしい。  
彼女は卒業制作にゆとりをもって取り組めるのだし、折角だから彼の染めた布を使ってドレスを作りた 
いと思ったそうだ。  
彼も修行中の身であるからして、すぐには予定が組めなかったんだけど、やっと彼が連休を取ってエベ 
リンに来てくれることになったんだけど…  
彼からの返信の封筒が一度開封されていたんじゃないかと気付いたのは、アパートを引き払う直前のこ 
とだったんだって。  
「それが確信に変わったのは、つい一昨日で、手紙で『彼はどんな人なのかな?まだホテルで暮らして 
いることを教えていないのかい?前のアパートにいれば、会うことが出来るかもしれないなぁ』ってい 
う文章があったからなの。  
幸い、彼の外見を相手は知らないわけだから、教えてもらって馬車の発着所でわたしの仲間に引き止め 
てもらうことが出来る。  
だけど…」  
「彼女がホテルを出るには、それなりに工夫しねぇといけねぇってわけか」  
トラップの言葉に、マリーナはばちっとウインクした。  
「そういうこと!」  
 
 
それで、わたしはお花屋さんに連れて行かれて、制服を着せられ、お花がたくさんと、それに隠れて金 
髪のウィッグと栗毛のウィッグが入ったかごを持たされたのだ。  
ここまで来たらもうわかるだろうけど…  
そう。入れ替わって、わたしが「リスティス」になることになったのだ!  
ホテルの支配人とマリーナも旧知の仲らしく、わたしが花を届けに来たというと、従業員のおばさんが 
にっこり笑ってわたしを2階の奥の部屋に案内してくれた。  
「頑張っとくれ」  
「はい!ありがとうございます!」  
小声で歩み去るおばさんにお礼を言い、わたしは部屋のノッカーを鳴らした。  
 
リスティスは明るい栗毛のストレートの、とっても綺麗な顔立ちをした女の子だった。  
いまは心なしか表情が暗いけど、(当たり前か!)きっと笑顔はキュートなんだろうな、と想像できる。  
わたしは急いで着替えながら、彼女に状況を説明した。  
彼女には金髪のウィッグを付けてもらい、花屋の制服に着替えて、「わたし」になってもらう。  
花屋に戻って、ウィッグは取らずに、わたしの服を着ていったんマリーナの店へ。  
そこで今度はわたしの服を脱ぎ、ウィッグはそのままで旅支度をする。  
馬車の発着所へノルやルーミィ、シロちゃん、キットンと何食わぬ顔をして向かい、彼と、なんとノル 
たちも一緒にシルバーリーブへの馬車へ乗ってしまう。  
ここまでは彼とは知らない人のフリをしなくちゃならない。  
シルバーリーブのみすず旅館に着いて初めて、ウィッグを取って、リスティスに戻れる…  
念には念を、というとてもマリーナらしい作戦だわ。  
わたしも聞いたとき目をまんまるくしてしまったけど、「相手の正体がわからないから、慎重になれる 
だけなったほうがいいの」というマリーナの言葉に納得するしかなかった。  
マリーナって、本当に頭がいいなぁ。  
作戦を説明し終わると、わたしの変装をしたリスティスが深々と頭を下げた。  
「ありがとうございます…ほんとうに、なんてお礼を言っていいのか」  
「そ、そんな…全部マリーナが考えたのよ。お礼なんかいいから、早く行ったほうがいいよ」  
ほんとうに必要なものだけわたしの下げてきたかごに入れて、部屋を出る直前、彼女は涙目でまた頭を 
下げた。  
 
そして。  
わたしは彼女の髪型に良く似たストレートの栗毛のウィッグをかぶり、彼女の服を着て、次の作戦が始 
まるのをじっと待った。  
そうなのだ。マリーナは、リスティスを脱出させるだけではなく、犯人を捕まえるための作戦も、しっ 
かり練っていたのだ。  
 
リスティスの話を聞いてすぐ、彼女は犯人のアタリをつけたんだそうだ。  
まず、彼女の周りの人間関係から…  
手紙を届ける人間を雇えること。  
毎日同じ人が届けてたら、嫌でも目に留まるはず、とマリーナは言う。  
「きっと、何か届けたり、営業周りをしている人を雇ったんだと思うわ」  
それから、ある程度自由になる時間を持っている人。  
そうでなきゃ、彼女を見張るなんて無理だもんね。  
それで目星をつけたのが、リスティスが週に3回働いていたバーの、同僚のアルバイトの学生。名前は 
シュウ。  
彼女とは違う学校に通ってはいるけど、あんまり勉強に専念している風ではなく、1年留年中。  
親が大きな遊戯施設の経営者らしく、お金遣いが結構荒いらしい。  
 
驚いたことにマリーナは、昨日のお昼にクレイを捕まえてから夕方までの間にこれだけのことを調べて 
しまって、夜はクレイとデートを装って、そのバーに偵察に行っていたらしいの。  
クレイに、彼の顔をしーっかり覚えてもらうために。  
 
…それで、その帰りに、ふたりは…  
考え出そうとしてしまって、わたしはぱっぱっ、と頭の上を手で払った。  
今は考えるの…やめよう。  
カーテンの閉じられた薄暗い部屋で、わたしはため息をついた。  
ただふたりがキスをしていた。それだけ。ただそれだけ。  
朝、あまりにもマリーナが普通過ぎて、正直…ちょっとだけ嫌な気持ちになってしまったんだ。  
クレイはマリーナにわたしのことを言ったのかな…とか、  
言ってないとしたらどうして、内緒にするんだろう…とか、  
言っていたとして、何で、キスしていたんだろう…とか…  
考え出すとキリがないから、今はやめておこう。  
きっと泣いてしまうから。  
 
時計の針が正午をさしてすぐ。  
部屋のノッカーが鳴らされる音がした。  
1、2、3、4回。普通よりゆっくりと。これが決められた合図なのだ。  
わたしが細く扉を開けると、口元をへの字に曲げたトラップが憮然として立っていた。  
「…入るぞ」  
「どうぞ」  
わたしは部屋にトラップを入れると、後ろ手にドアの鍵を閉めた。  
そんな必要はないのに、トラップを見てわたしも赤面してしまう。  
なんと今回、わたしがリスティスを演じるにあたって、恋人役にトラップが採用されたの。  
彼は窓に近寄って、ざっ、とカーテンを開けた。  
 
リスティスが泊まるホテルに、見知らぬ男がひとり訪ねてくる。観察していると、彼の姿が彼女の部屋 
の窓から見える。  
「そしたらね、きっと犯人は激昂して、しっぽを出すと思うのよ」  
容疑者のシュウを、今朝からクレイが尾行しているんだそうだ。  
マリーナは、トラップがホテルを出る予定の時間に、ホテルの入口が見えるカフェで待機することにな 
っているらしい。  
…とっても、しっかりした作戦だと思うわ。  
万一シュウってひとが犯人じゃなくても、もし真犯人がトラップを狙ってもいいように、マリーナが尾 
行できるようにする。  
そもそもトラップなら、いきなり襲われたとしてもすぐに避けられそうだしね。だけど。  
ト…トラップと、恋人同士だなんて!  
昨日泣いてしまった自分がフィードバックしてきちゃう。  
わたしはどすっ、と音をたててソファに腰掛けた。  
あああ、恥ずかしい!  
あと3時間…トラップとこの部屋で過ごさなくちゃいけないんだわ。平常心。平常心よ、パステル!  
ドキドキのしすぎで胸が苦しくて、深呼吸をしていると後ろから頭を小突かれてしまった。  
「いった〜い。なにすんのよ!」  
「ばーか。そんなに緊張しなくてもへーきだよ。マリーナとクレイが、うまくやってくれるって」  
…マリーナとクレイ。  
いけないいけない。その組み合わせを考えただけども、ぐるぐるした気持ちが甦ってきてしまう…  
あわててわたしは返事をした。  
「う、うん」  
 
 
「…あのさぁ」  
「…なに?」  
わたしの不安を見透かすかのように、彼は言った。  
「マリーナがクレイを好きなのは、昔からだぜ?それで、クレイはずっと気付いてねぇ。心配しなくて 
もな」  
「!なっ…」  
「おめぇ見てれば、わかるって。エベリンにきてからこっち、マリーナにギクシャクしてんじゃねぇか」  
「ええ?!」  
これにはびっくり。  
色々気にはなってたけど、わたし、一応普段どおりにしてたはずなのに…  
 
トラップの言葉に、涙がぽろぽろと落ちてしまう。  
考えないって決めていたのに。  
トラップはフォローしてくれたんだよね?  
気にしない方がいい、って。  
優しいね、トラップ。  
だけど…  
「ちがうの…トラップ」  
驚いたように見ている彼に、とうとうわたしは言ってしまった。  
「マリーナと…クレイが、キス、してたの…」  
…それが限界だった。  
それだけ口にすると、あとは嗚咽しか出せなくなってしまった。  
苦しい。  
涙のひとすじひとすじ、吐息の一つ一つが苦しい。  
痛い…  
 
耳にキス。  
されたと気付いて、わたしはゆっくりと顔を上げた。  
びっくりして、涙も一瞬止まってしまった。  
「…ほんとは…」  
トラップの前髪が、おでこに触れそうな位置にある。  
「身を引くつもりだった。おめぇが幸せなら。でも…」  
わたしの肩を掴んだ手が熱い。それとも、熱いのはわたし?  
「…泣くなよ」  
おでこに彼の髪がさぁっ、と触れて、わたしにキスをする。  
そして、そのまま、彼は柔らかいソファに、わたしを押し倒した。  
「泣かせるために、あきらめようとしてるわけじゃ、ねぇんだよ…」  
 
彼の手が、わたしのほおを撫でた。  
 
 
 
「ト…ト…トラッ…」  
口がうまく回らない。  
何が起こっているのかいまいち理解できなかった。  
ぱちぱちとまばたきをしている間に、彼はわたしの唇の間に舌を捻じ込ませて、下唇を軽く噛んだ。  
「んむっ…」  
唇を吸いながら器用に、着ていたリスティスの服をたくしあげ、ブラの上から優しく胸を撫で上げる。  
そのまま背中に手を回し、ブラのホックを外す。胸がすかすかしたような感覚に、わたしはやっと事態 
を把握した。  
長いこと続いていたキスが終わったスキをついて、わたしは抗議の声を…あげようとした。  
「!!!」  
トラップがわたしの胸を吸ったのだ。  
驚いて、腕を動かそうとしたんだけど全然動かない。  
本気になった男の子には、女の子はかなわないのよ…  
ずいぶん昔、ガイナの女友達にふざけて言われた言葉が甦る。  
「ちょ…ちょっと…!」  
「…うるせえ」  
舌先でもてあそぶのを止めて、トラップが上目遣いにわたしを睨んだ。  
「好きな女が泣くのを黙って見てるなんて、我慢できるわけねぇだろ…」  
そのとき…  
掴まれている手首に、ぎゅうっ…ちからが込められて…苦しかった。  
 
クレイに抱かれたときのことだ。  
ぎこちないキス。愛撫。  
クレイの、よく聞くととっても低い声が、耳元で囁く。  
 
――ずっと、ずっとこうしたかったんだ。ずっと前からパステルが好きで、こんな風に触れたいと思っ 
てた…  
 
あの朝。  
朝日もまだ昇りきらない、ひどく寒い朝。  
まどろんで、下腹部の鈍い痛みに目が覚めたんだ。  
初めてでも血は出なかったけど、やっぱり、それなりに痛くはあった。  
けど、それよりも繋がりあえた喜びのほうが大きくて、幸せな気持ちで目覚めることが出来た。  
眠りながらもわたしを抱きしめて離さない、クレイの胸の中で…  
 
 
両方の胸にじゅうぶん触れて、トラップはわたしの唇をまた塞いだ。  
すると、彼はびっくりしたようにわたしを見つめてきた。  
わたしが…自分から舌を絡ませあったから。  
 
 
「おめぇ…」  
トラップが困惑した表情でわたしを見る。  
その表情を見返しながら、わたしの目からぼろぼろ涙があふれてしまう。  
「できない…できないよ、トラップ」  
わたしは部屋の壁をぼんやり眺めながら、流れる涙を遠く感じていた。  
本当に泣いてるの?  
「好きじゃなくても、キスできるんじゃないかって思ったけど、…わたしには出来ないよ。どうして、 
クレイは、キスできたんだろう…」  
こんなにわたしを想ってくれるトラップなら…  
ほんの一瞬だけそう思っちゃったけど。  
舌を絡ませてみただけで、全然違った。  
あの、頭の奥のほうがしびれるような気持ちや、甘い感覚も、なにもかもがなかった。悲しくてしょう 
がなかった。  
 
 
泣きじゃくるわたしを、手首を掴んでいた腕が抱きしめて、背中を撫でてくれた。  
だんだん気持ちが落ち着いていく…  
まだ涙の流れ続ける顔を軽く持ち上げられて、トラップの唇が今度は優しく、かすかに触れた。  
「…キスってのはな」  
トラップの瞳が、わたしを見ている。  
「気持ちを、伝えることが出来るんだ…おれの気持ちは、伝わらなかったか?…ひでぇことして、ごめ 
んな…」  
…どうしてだろう。  
激しく奪われたのよりも、いまのかすかなくちづけがいちばん、気持ちを揺らしてしまう。  
わたしは首を振りながら、また、たくさん泣いてしまった。  
 
 
泣き腫らした目を洗って落ち着いたころ、とうとうトラップがホテルを出る時刻になった。  
わたしは駄目押しでトラップをリスティスの恋人だと思わせるために、ホテルの外まで彼を送っていっ 
た。  
もちろん帽子で顔をうまくかくしながら…ね。  
見ないようにしたけど、斜め前のオープンテラスでお茶を飲んでいたマリーナがこちらに目配せをして 
くる。  
トラップを見上げると、任せとけ!というような表情で、にやっと笑い…ほっぺたにキスをして、くる 
っと後ろを向いて去って行った。  
…!!!!  
こ…公衆の面前で、なんってことを!  
さっきもっとすごいことをされてた…っていうのは、この際置いておいて。  
そりゃ、恋人同士の役ではあるけど…  
馬鹿馬鹿、トラップの、ばかぁー!  
 
わたしが頭の中で大混乱しながらホテルへ戻ろうと身体の向きを変えたそのとき。  
「…動くな」  
すぐそばにいたごく普通のおじさんが、わたしの腕を掴んで、コートの中からナイフをちらつかせた。  
「騒ぐな。――リスティスだな?悪いが、一緒に来てもらおうか」  
 
 
連れて行かれたのは、潰れて立ち入り禁止になっているカジノの2階だった。  
盲点だったかもしれない…  
犯人が、リスティスさんをも狙う可能性もあったんだ。  
結果的にわたしが身代わりになれて良かったけど。  
そしてわたしをさらった男は、わたしの手とカジノの筐体を縛り、繋げると「わりぃな」と言って1階 
に降りて行ってしまった。  
やっぱり、あの人も雇われた人なんだ…  
わたしの変装を見ただけでリスティスと信じて疑わない。  
これから、どうしよう?!  
逃げるべきなんだろうけど、縄が固くて結び目がほどけそうにもない。  
…とりあえず、様子を見るしかないかな…  
もしかしたら、クレイやトラップが助けに来てくれるかも知れないし。  
 
そう考えた瞬間、階下が急に騒がしくなるのがわかった。  
わたしの後ろの階段から、誰かがどたどたと駆け上がってくる音が聞こえる。  
だ…誰?  
その誰かに続いて、何人かの足音が階段を昇って来た。  
「おまえらぁ!止まれ止まれ止まれぇ!こいつを見ろ!」  
ヒステリックな声が後ろから聞こえる。  
「くくく…万一のことを考えて、リスティスも捕まえておいたんだ…くへへ、くへへ…  
おい、赤毛。お仲間さんたちも、動くなよ」  
こ…これが、シュウってひと?  
べたべたした言い方に思わず悪寒が走る。  
「これから、こいつはおれのもんだ…知ってるか?こいつはおれが好きなんだ。おれだけがこいつのこ 
とを、なんでも知ってるんだぜ…」  
き、き、き、気持ち悪ーい!!!!  
どうしたら、そんな考えがでてくるのっ??  
変な笑い声をあげながら、彼――シュウは、わたしの両手を捻りあげて…そしてわたしの顔を見た。  
「?!」  
おそらく彼の人生の中で五本指に入るんじゃないかというまぬけな顔を、わたしは睨みつけた。  
「おあいにくさま!ほんとの彼女には、逃げてもらったわ。観念しなさい!」  
マリーナが勝ち誇ったように言う。  
シュウはわたしの顔とマリーナの顔を交互に見比べて、  
「うう…くそがぁっ!」  
にきびだらけの顔をまっかにして、いきなりわたしの顔面を殴り飛ばした!  
 
がきっ、という生々しい音。  
その一瞬後に、わたしは飛ばされた先にあったスロット台に打ち付けられていた。  
気付くと台の前にあった椅子に足がからまっている。  
「パステル!!!!」  
視界がぐらり、と揺れて落ちる寸前…  
叫んだ声がクレイのものだったのか、トラップのものだったのか、わたしにはわからなかった…  
 
 
次にわたしが目覚めたのは、マリーナの家だった。  
見覚えのある天井…ベッドのそばには、クレイ。  
わたしと目を合わせて、彼はぽろっ…とひとすじ涙をこぼした。  
どうしたの?  
聞こうとして、激痛が走る。  
ううう…口の中切れてるみたい。しかも、腫れちゃってる。  
すッごく痛い。  
ていうか、全身が連鎖反応を起こしたように痛い。  
クレイは顔をしかめているわたしにキスをして、その後どうなったか話しはじめた。  
 
 
シュウは、思ったとおりトラップのあとをつけ、ナイフをちらつかせながらカジノに誘い込んできたそ 
うだ。  
そこで、クレイとマリーナが合流、追い詰めたんだけど…相手のほうが一枚上手で、わたしが捕まって 
しまっていた。  
けれど人質であるわたしを手放してしまった彼を、クレイが「ボコボコ」(あとでトラップから聞いた 
話だと、あのクレイが鬼人のごとく怒り狂っていたらしい)にするのは、結構簡単だったみたい。  
そのあと警察に証拠の手紙の束(リスティスから預かっていた)と一緒にして連れて行ったんだけど…  
どうも親が事件のもみ消しにかかり、こちらには慰謝料を払うからなかったことにしてくれないか、と 
いう要求をしてきたんだそうだ。  
マリーナは少なくともリスティスが安全に暮らせるように、シュウを他の町に追い出すことなんかをい 
まアンドラスさんと交渉しに行っているそう。  
うーん。  
完全に解決って事には、まだならなそう。  
面倒だけど、ここからはマリーナに任せよう。  
 
身体が痛い…  
わたしは、全身打撲に足首の捻挫、口の中をひどく切っていて、左の頬が紫色に腫れてしまっていると 
いう…大怪我だった。  
怪我させて、ほんとうにごめん、守れなくごめん、とクレイがまたわたしにくちづける。  
 
暖かい、柔らかいクレイのキス。  
このキスで、気持ちがとても幸せになるのがわかった。  
身体の痛みさえ和らぐ。  
(キスは、気持ちを、伝えることが出来るんだ…)  
トラップの言葉を思い出す。  
 
 
ねぇ、クレイ。  
もしかして、クレイも幸せなの?  
そう考えると、胸の内側が、ほんのりと和らいでいくのがわかる。  
顔の腫れがひいて話せるようになったら、思い切って聞いてみよう。  
聞きたかったこと全部。  
きっと、わかりあえるよね?  
だって、あなたがくれるキスは、こんなにも甘いんだもん。  
クレイの優しい瞳を見つめながら、わたしは微笑んだ。  
 
 
 

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