ある日、わたしがバイトから帰ると、クレイとトラップが何やら言い合っているのが聞こえてきた。  
「…それにしてもこんな…急すぎるよ」  
「まあな。でも、別に冒険者やめて戻って来いってことじゃねぇんだろ?」  
「そうかもしれないけど…もしかしたらそういう意味もあるのかも」  
ええ?!  
なになになに?  
冒険者を…やめる?って、いま言ってたよね?  
クレイが?  
わたしが目をまんまるにしていると、クレイが気付いて、ばつの悪そうな顔をしながら「おかえり、パ 
ステル」と言った。  
 
ちゃんと話を聞いてみて、わたしの目はさらにまんまるくなった。むしろもうテン。  
なんとなんと。クレイと、ドーマのサラさんとの正式な婚約式の日取りが決まっちゃったっていうんだ 
から!  
詳しいことはわからないけど、たぶんサラさんの両親だか親族だかが急いだんじゃないかってクレイは 
言うんだけど。  
それにしても!  
そういうこと、クレイの意思完全無視で、決めちゃっていいの?  
わたしはものすごく疑問だったんだけど、  
「意思は知ってんだよ。前からクレイとサラは、口約束だけど婚約してんだ。いつかこうなるとは思っ 
てたけどな。早かったな」  
と、トラップ。  
ううう。そう…なのかなぁ?  
 
そして。  
わたしたちは特に予定もなかったので、クレイと一緒にドーマに向かうことになった。  
っていうか、婚約式にはぜひパーティの皆さんも呼びなさい…って、クレイのお母さんからメッセージ 
があったので、予定があっても頑張って行くようにしたと思う。  
でも、婚約式って…言われてもなぁ。わたしは自分の荷物を目の前にしてため息をついた。  
荷造りが一向に進まない…もうルーミィは寝ちゃったのに。  
わたしも早く寝なくちゃいけないんだけどね。  
 
着替え、タオル…リュックの一番下に手を伸ばして、―えーと。ああ、これだ。  
くしゃくしゃになった紙の包みを取り出す。  
これはついこの前のクエストの帰りにエベリンに立ち寄ったとき、露店で衝動買いしちゃったものなん 
だ。  
…クレイの誕生日にあげようと思ってた、ブレスレット。  
盾と、剣と、獅子の飾りが付いてて、見た瞬間「これ、クレイにあげたいな」って思っちゃって、買っ 
ちゃった。  
「…あ〜あ」  
何でだろう。すっごい、疲れた。  
あれ?涙まで出てきちゃったし…何で?  
ぽろぽろぽろ、とあとからあとから溢れてきて、木の床に雨のような染みが出来ていく。  
えええ〜??  
も、もしかして…  
わたし、クレイのことが好きなの?  
 
もしかして。  
もしかして。  
あんまり突然すぎて、自分でもよくわからないけど…  
でも。  
このブレスレットを見ていると、涙が出てきてしまうのは確かみたい。  
 
ひとしきり泣いたら、涙はやっと止まってくれた。  
落ち着いて考えてみると、わたしは何てタイミングが悪いんだろう?  
トラップの言葉がよみがえる。  
―――意思は知ってんだよ。前からクレイとサラは、口約束だけど婚約してんだ―――  
…そうだよね。  
戸惑ってはいても、クレイも了承済みの婚約なんだ。  
馬鹿みたい。  
ほんと、馬鹿みたい。  
わたしはいつの間にか握り締めていた手を開いて、その中にあるものを見た。  
ブレスレットがキラキラ光っている。  
こんなのあげたら迷惑…かな?  
お祝いってことならいいよね?  
「…よし」  
わたしは便箋と封筒を出して、手紙を書き始めた。  
 
 
前回のときよりも人数が増えていたけど、ブーツ家は暖かくわたしたちを迎えてくれた。  
懐かしいなぁ。  
ちょっと寂しかったのは、当たり前だけどクレイは実家に帰っていったこと。  
やっぱりトラップの家のほうが居心地がいいだろうっていうことだったんだけど…  
ため息をついてしまっている自分がね、何ていうのかなぁ。自覚しちゃって、泣きそうになってしまっ 
た。  
 
式を5日後に控えて、クレイは毎日サラさんをデートに誘ってた。  
そして日が暮れる前に家に送り届けて、帰りは毎日わたしたちのところへ顔を出してくれる。  
なんていうのかなぁ。毎日、いつくるんだろう、いつくるんだろう…って気になっちゃって、  
でもいざクレイが来ると、とっても悲しくなっちゃったりして…  
わたしはクレイの前で、ちゃんと笑えてるかな?  
なんか、ほんと…疲れちゃったよ。  
 
ここのところ、目が覚めると「あと3日」「あと2日」って自分でカウントダウンしちゃってたんだけ 
ど、今日、「もう…明日」って自分で言って泣いちゃったのには参った。  
明日、明日、明日なんだぁー。  
って思ったら、また、あのぽろぽろってのが来ちゃって。  
勝手に涙が出てきたのにはびっくりした。わたし、涙腺緩んでるのかな。  
ドーマに来てから、自分の気持ちを再確認、したくもないのにしてる感じ。  
はあぁ。  
まあいいや。冷たい水で顔を洗えば、すっきりするでしょ!  
 
朝ごはんはシリアルと新鮮なゆで卵。とれたてミルク!  
床で猫も朝ごはん。ミルク飲んでる。かーわいい。  
そういえば、ノルが来てから動物の機嫌がいい…って、とっても喜ばれてるんだよね。  
キットンもそうだ。珍しい薬草や価値のある薬草の話で、意外にもトラップのおじいさんとウマが合っ 
たみたい。  
あと少しの滞在だけど、みんなブーツ家が大好きになったみたい。良かった、良かった。  
 
さてと。  
明日の婚約式が終ったらドーマをまた離れるわけだし、今日はドーマの町を歩いてみようかなぁ。  
そう何度も来る場所じゃないし。  
それで朝ごはんの食器を片付け終わってから、ルーミィに声をかけてみたんだけど、断られてしまった。  
「だめだおう!きょうはねこさんとあそぶんだおう!まてー!!」  
あはは。さっきの猫ちゃんを昨日から追い掛け回しているみたいで、今日こそ抱っこするんだって張り 
切ってるみたい。  
じゃあ、ひとりで行ってこようかなぁ。  
うちの中にいても、塞いじゃうしね。  
と、コートを着込んでいると、  
「お、どっか出かけるのか?」  
そういう赤い髪の彼はトラップ。  
「うん、ちょっとぶらつこうかと思って。観光じゃないけど」  
「そうか…じゃ、案内するぜ。待ってな」  
これにはびっくり。  
「え?いいの?」  
だってだってトラップって、エベリンで買い物とかもまともに付き合ってくれない人なのよ?  
なのに案内するだなんて。  
「そんなにびっくりすることじゃねぇだろ。ちょっと歩くが、うまいクッキーとホットオレを出す店が 
あんぞ」  
「ほんと?!行きたい行きたい!…でも、トラップ、何か企んでないよね?」  
「んなわけねーだろ。行くぞコラ。早くしろ」  
あれれ?  
変…だなぁ。  
いつもなら思いっきりやり返されそうなところを、ちょっと小突かれただけで終らせちゃったよ、トラ 
ップ。  
悪いもんでも食べたのかしら。  
「置いてくぞ!」  
「あ、はーい!」  
…ま、いっか。  
 
ドーマの街並みをトラップの背中を追いかけて歩いた。  
知らない街って、なんだか新鮮だなぁ。  
ひとつひとつの街で、色々な違うところ、良いところがある。  
クッキーとホットオレを買いに並んでいるトラップを待ちながら、わたしはあたりをぐるりと見渡した。  
いい天気〜。  
公演とかでゆっくり食べたいなぁ。サンドイッチ作ってくればよかった。  
ここ数日の暗い気持ちから、ちょっとだけ復活した気がする。  
トラップに感謝しなくちゃ。  
「おーい、パステル、持つの手伝ってくれよ」  
あ、トラップだ。  
もう買えたんだ。早かったなぁ。  
わたしがトラップのほうをくるっ、と振り向いたとき…  
見てしまった。  
見ちゃいけなかったもの、見たくなかった、人…  
それは、サラさん。  
と、一緒にいる、クレイ…だった。  
 
なんでここにいるの?!  
そのふたりが視界に入った瞬間、周りの雑音が一切聞こえなくなった。  
仲睦まじく、並んで、サラさんは腕をクレイの腕に絡めて、歩いている。  
お似合いのふたり。  
なんだか、ふたりでいることがまるで当たり前のことのように、歩いている。  
遠くなっていく背中から、わたしはずっと目が離せなかった。  
「パステル?」  
怪訝そうに、トラップの声。  
それでやっと、自分がトラップと一緒にいたことを思い出した。  
 
 
帰ってすぐ、カードを書いた。  
鈍感なクレイが文章の意味にぜったい気付くはずもないけど、書き上げたカードにキスをして、封筒の 
中に捻じ込んだ。  
 
 
封筒、渡せてよかった…  
今日、クレイの来るのがちょっと遅かったから、来ないんではないかと心配してしまったのよね。  
食事も終って、キッチンで暖かいミルクを沸かしながら、わたしは久しぶりに穏やかな気持ちだった。  
明日が婚約式。  
そして、明日が…クレイの誕生日。  
今日はずっと起きて、ひとりでお祝いしてよう。  
明日、笑えるかな?改めて心配だった。最近ずっと、涙腺弱かったし…  
あ、そんなことを考えてたら、やばい。また泣きそうになってきてしまった。  
…いいか。泣いちゃえ、泣いちゃえ。  
どうせ最初からわかってた。この感情が幸せになれることなんてない。  
泣けるだけ泣いて、早く忘れてしまおう…  
 
「おい」  
え?!  
キッチンのドアのところに、いきなり立っていたのはトラップだった。  
「ど、どうしたの?」  
「どうしたのじゃねぇよ。おめぇこそ、なーに泣いてんだよ」  
「え?ああ!!」  
そうだそうだ。いま、わたし泣いてたんだった。勝手に出るから自覚がなかった。うえーん。慌てて拭 
って、笑ってみせる。  
「なんでもないよ、気にしないで!」  
「…」  
トラップがまたおかしい。  
黙ったまんまつかつかと歩み寄ってきて、ふわっと…  
…  
きゃあああああ!!?  
トラップが、わたしを抱きしめていた。  
声も出せない。もー、口パクパクさせるしかない感じ。  
それでもやっと、呼ぶことが出来た。  
「と、とと、トラップ」  
「…やめとけよ」  
へ?  
「クレイなんてやめて、おれのこと、見てろよ」  
呆然としたままのわたしに、彼は囁いた。  
「おめぇ、ここんとこいつも泣いてただろ?見て…らんねぇよ」  
トラップ…  
トラップのこんな真剣な声、初めて聞いたかもしれない。  
その声がわたしに注がれている。抱きしめている手が強張っているのがわかった。  
ああ、だから、今日わたしを連れ出してくれたの?元気を出させるために?  
「好きだ」  
最後のひと言はとても消え入りそうな小さな声だったけど、心臓がどくん、と動かされた感じがした。  
トラップ。…でも。  
 
ごめんしか言えない自分が、ほんとうに最低だと思ったけど、トラップはそうか、と言って部屋に戻っ 
てしまった。  
熱いミルクにココアを溶かして、勝手口から外に出た。  
う〜〜、寒いっ!  
でも、これくらい寒いほうが、頭が冷えていいかも…  
「…ごめんね」  
トラップに告白されて、自分の気持ちが余計に自覚できてしまって、また泣きそうになってきちゃった。  
泣き虫だなぁ、つくづく…  
「おいしそうだな、パステル」  
「へっ?」  
頭上からかかる声。  
クレイ!  
思わず大きい声を出しそうになって、あわてて小声にした。  
「あれー??クレイ?どうしたの?」  
「散歩。パステルこそ、眠れないの?」  
「う…うん。ううん。…起きてたの」  
「何で?―あ、となり座っていいかい?」  
「あ、どうぞどうぞ。えーと…えーとね、星を見てたのよ」  
「ありがとう。で、なんでいきなり星なんか?」  
ここまで聞かれて、さっきのトラップのことを思い出してしまった。  
クレイの顔が「ん?」と答えを促してくる。  
わたしは、つっかえつっかえ話し出した。  
「…誕生日、一番最初に祝いたくて」  
「え?」  
「それで星を見て、時間わかるじゃない?見てたんだけど…まさか本人が来るなんて思わなかったよ…」  
トラップのことで、再確認してしまったクレイへの気持ちが、どんどん高まっていくのがわかった。  
どうしよう。どうしよう。そうだ、言わなきゃ…  
「…びっくりした〜。でも、おめでとう。クレイ」  
好きよ。  
すごくすごく、好きなの…  
心の中で、そう付け足した。  
 
「ねぇ、パステル」  
「えっ?」  
ひっくり返したような声を出してしまって、同時にふたりで人差し指を立てた。シーッ!と言い合って、 
笑った。  
「おれ、婚約しないことになったんだ」  
「ええ!?」  
今度はわたしだけがびっくりしてしまった。  
シーッ、って…クレイ?!  
大きい声を出してしまった口を押さえて、「な…なんで?」と聞いても、クレイはいたずらっぽい目を 
して、見つめてくるだけ。  
そんな風に微笑まれたら…照れちゃうじゃないの。  
ちょっと口を尖らせようとしたら、身体を引き寄せられた。  
 
 
クレイの告白を、耳元で囁かれる言葉を一言も漏らさずに聞きたかった。  
「ずっと、ずっとこうしたかったんだ。ずっと前からパステルが好きで、こんな風に触れたいと思って 
た」  
くちづけ。  
脇に置かれた、すっかり冷めたミルクココアを口に含んで、またくちづけ。  
…甘い。  
暗いキッチンはひんやりと冷たかったけど、クレイと触れ合っている部分全てが、熱くて、いとおしか 
った。  
そうしてまた、わたしとクレイはキスを交わした。  
 
 

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