暑い。ていうか、体中が火照って喉がカラカラ。
「喉渇いたぁ……お水ぅ……」
誰にともなくつぶやくと、目の前にすっとグラスが差し出された。
氷とレモンの浮かべてある、冷たそうな澄んだ水。
暗い部屋の中、透明な氷が薄っすらと光っている。
「あぃがとー……」
そのグラスを握る手の主もわからないまま、わたしはまわらない舌でお礼を言った。
誰だろう? ノルかな。キットンかな。トラップ? まさか。クレイ……だけは違うよね。
そう思い当たると同時に、わたしは突っ伏していた枕に、深く深くため息を吐いた。
「リタ! こっちにビールあと6つな!」
珍しく、彼は酔っていた。
口では「当たり前のことをしたまで」なんて言ってても、やっぱり大勢の人にやんやとほめられると悪い気はしないらしい。
猪鹿亭の大きなテーブルには、わたしたちいつものメンバーと、なぜか女の子が4人も座っている。
彼女たちは、さっきどやどやとお店に入ってきたかと思うと、まっすぐにわたしたちのテーブルに近付いてきた。
事情を聞くともなしに聞けば、なんのことはない。
町外れに偶然出た、小さなスライムに遭遇した彼女たち。
そりゃ冒険者じゃないから、スライム一匹でも大騒ぎだよね。そこに偶然通りかかったクレイが一刀両断したんだそうで……要は、そのお礼を言いに押しかけてきたと。
着たきりすずめの服装のわたしと違い、ひらひらした可愛い服に華やかなお化粧の女の子たちは、クレイとトラップの親衛隊らしくて。
きゃーきゃー言いながら肘つっつきあって、クレイとトラップに話しかけている姿から、そっと目をそらす。
いいよね、そうやって何の躊躇もなく憧れの相手に近づけるなんて。
わたしなんて同じパーティにいるのに、ううん、同じパーティだからこそ、永遠に埋められない距離を感じてるというのに……
内心果てしなく落ち込むわたしの気なんて知らず、彼等はその話で大盛り上がりだった。
お礼にビールをおごるという彼女らに、最初は遠慮していたクレイだけど、左右から勧められるうちどんどんいい気分になってきたみたい。
嬉しそうにビールを飲むクレイ。その傍らで、女の子と楽しそうに話すトラップ。
彼らのそんな姿を眺めていると、やり場のない怒りがフツフツと湧いて来て、わたしは目の前にあったビールジョッキを取った。頼みすぎたみたいで、誰も手をつけていないジョッキ。
おそるおそる口に運んでみると……にがっ。なんでこんなもの皆美味しそうに飲むんだろう?
疑問に思いつつも、飲めない自分だけ置いてけぼりにされてるみたいで、わたしは苦さを我慢してちびちびとビールを舐めた。
「あの、パステル。あなたビールなんて飲んで大丈夫ですか?」
キットンが怪訝そうに声をかけてきた。
「……大丈夫よ。ちょっと飲んでみたくなっただけ」
「そうですか……あまり無茶飲みしないでくださいね」
「はいはーい」
と、視界の端に心配そうなノルが映る。
なんだか、彼にかかると何もかもお見通しみたいで、そのやさしい小さな目を見てると泣きたくなってしまう。……だめだめ、こんな時に泣いたりしちゃ変すぎる。
へへっと笑ってジョッキを軽く持ち上げてみせると、ノルは困ったように笑った。
気がつくと頬に感じるのは、ひんやりした木の感触。
猪鹿亭の年季の入ったテーブルは、直接触れると少しだけチクチクする。
頭には、ぼやーっとした薄皮が被さってるみたい。
「ねぇクレイ、次行きましょうよぉ」
「まだまだ飲んでないもんねぇ」
「大丈夫なのか? パステル」
あ……クレイの声。心配そうではあるけど、少しだけ上の空なのは気のせいだろうか。
「あん、そんなのほっとけば」
「そうよ、今日の主役がいなくちゃあ」
あんたたち、人が何も言わないと思って好き放題言ってくれるよね……
「大丈夫ですよ、連れて帰りますから」
「そうか? トラップお前も行くんだろ?」
「おぉ、すぐ追いつくからよ。先行っててくれや」
トラップが、すぐ2軒目行かないなんて珍しい……
わたしは朦朧とした思考でそんなことを考えていた。
わたしが一応覚えてるのは……そこまで。
誰かに担ぎ上げられて、広い背中に乗っけられて。ふわふわした振動の後で薄っすら目を開けると、暗い部屋の中に寝かされていた。
わたしが独り言みたいにつぶやくと、何も言わずお水を差し出してくれたのは、ベッドの傍らに腰掛けていた人影。
目の前にある水にいっそう喉の渇きを覚えたわたしは、フラフラと上体を起こした。あぁ、天井が回る……
グラスを受け取ってごくごくと飲み干すと、やっと人心地つく。
なんでこんなに酔っ払うまで飲んじゃったんだろう……そう思った途端、その原因が一気に思い起こされて、頬っぺたをひとしずく涙が伝った。
後はもうとめどがなかった。
次から次へと溢れてくる涙は頬から顎を伝い、ぽたぽたと膝に落ちる。
胸の奥が押し潰されたみたいで、嗚咽しか出てこない。
その時、静かな部屋に響いたやさしい声。
「辛いか?」
そだね。辛い。人を好きでいるのって、辛いんだね。
しゃくりあげながら頷くと、遠慮がちに近付いてきた大きな手が、静かに頭を撫でた。
「俺なら……おめえを泣かせたりしねえよ」
やさしい声の主は、そう言った。
肩をそっと抱き寄せられ、広い胸におでこがこつんとぶつかる。
「……おめえが泣いてるのなんて、見てらんねえ。俺なら……おめえをいつも笑顔にさせといてやる」
静かな声だった。
でもその言葉からは、初めて聞く、真剣で真摯な思いが伝わってきて。
何て答えていいのかわからないまま、胸に顔を押し付けていると、いつの間にか涙は止まっていた。
薄いシャツに染み込んだわたしの涙。そこからあたたかく滲む体温が頬に感じられる。
「汚ねえって思うだろうな。傷ついてるおめえにやさしいこと言って、つけこんでるみてえに見えるだろうな」
「そ、んな……」
弱々しく否定するわたしの言葉を遮り、冷たい唇がおでこに押し当てられた。
ひんやりした唇から漏れる、熱い息。
「でもよ、俺には他にどうしようもねえ。泣いてるおめえを抱きしめてえんだ。ここに、おめえを好きな俺がいるって……伝えてえんだ。それだけだよ」
囁くように小さな声なのに、抑えきれない情熱がそこから溢れ出てる気がする。
そっと背中を撫でていた手が、強く強くわたしを抱きしめた。
「俺に……おめえを守らせてくれ」
「トラッ……プ」
暗闇の中、初めて彼の名を呼んだ。
トラップはわたしの声にぴくりと反応すると、腕を少しだけ緩めた。
身を屈めるようにして、わたしの顔を覗き込む。
「パステル」
呼ばれると同時に、キスが降りてきた。
壊れ物にさわるみたいな、そおっと近付く、おそるおそる触れるようなキス。
かたく結ばれたトラップの唇からも、その緊張が伺える。
しばらく身じろぎもせず唇を合わせていた彼は、わたしの唇を割るようにして、そっと舌を滑り込ませてきた。
「ぁむっ……」
探るように口の中を蠢くトラップの舌。
トラップはわたしの舌を探し当てると、自分の舌と絡ませ、何度も吸い上げた。
ぬめっとしてて熱くて、知らず知らずのうちに半開きの口から吐息がこぼれてしまう。
「……は……ぁん……」
わたしの声を聞いたトラップは、そっと唇を離した。
蜘蛛が紡ぐような透明な糸が、わたしたちの唇を繋ぐ。
その糸が切れたか切れないかのうちに、トラップは吐き出すように囁いた。
「ダメだ……止まんねえ……許せ。マジ許せ、パステル」
その時、細く開けられていたらしい窓から、一陣の風が吹き込んだ。
風はカーテンを揺らし、暗闇に包まれていた部屋の中に月の光が斜めに差し込んでくる。
月明かりに浮かび上がったのは、辛そうで、苦しそうで、目元に切なそうに思いを滲ませた、トラップの顔。
わたしは何も言わなかった。ううん、言えなかったんだ。
大好きだったはずのクレイへの気持ちも、今はここにはないような気がした。
消えてなくなったんじゃなくて、もっと大きな何かに、心のほとんどを覆われてしまったような。
いつもの自信ありげで尊大な態度からは想像もつかないトラップ。
彼のそんな表情を見ていると、言葉にならない言葉が胸の奥からこみ上げてきて、わたしは何も言わずに彼の胸元をきゅっと握った。
わたしの涙で湿っていたそこは、トラップの体温でもう乾きかけていた。
その部分を掴んだまま、ううん、と首を横に振る。
許せなんて言わないで。
わたしのために、そんなつらそうな顔をしないで。
――それだけを心に念じて。
「パステル……俺……ほんとに、おめえが……」
苦労して言葉を探していたトラップは、あきらめたように目を閉じてそっと頭を振ると、わたしを抱きしめたままベッドに倒れこんだ。
鼻の先数センチのところにある、整った顔立ち。
いつも皮肉げに笑うその唇は、さっきみたいに緊張した形のまま、もう一度わたしにくちづけた。
それは唇から、おでこ、ほほを撫ぜ、耳元を掠めて首筋を伝った。
「んっ」
思わず首をすくめるわたしに構わず、トラップは首筋から胸元に唇を這わせる。
ブラウスの胸のボタンを、細くて器用な指が外してゆく。
恥ずかしくて顔を背けていると、胸がすうすうする感じがして、肌が外気に触れているのがわかった。
と、そこに熱くて湿ったものが吸い付く感触。
「や……ん……っ」
思わず隠そうとする手を、トラップの腕が押さえた。
日頃は細身に見えているけれど、それはやっぱり男の子の腕。
「おめえ……すげえキレイだ。隠すな」
「そんなぁ……あ、やっ」
囁きながらの愛撫。
舐められ、軽く歯をたてられ、熱い息がかかるたびに喘ぎがこぼれる。
初めて感じる快感に、気持ちいいのとくすぐったいのとで、わたしは息を飲み込むようにして身をよじった。
抵抗する気がなくなったのを察したのか、トラップはわたしの腕をそっと離すと、狭いベッドの中で器用に体を移動させた。
膝を掴んでそっと持ち上げられる。
立てさせられた膝の間から這いこんできた指が、下着の上からその部分に触れた。
「きゃ……や、やん……っ」
思わず膝を思い切り閉じるも、その間にはあるのはトラップの体。
わたしは恥ずかしい格好のまま、彼の手に下着をつるりと脱がされてしまった。
むき出しになった下半身をトラップがどう見ているのか、そんなことを考えると一気に顔に血が上ってくる。
「ひっ……あ、ぁあ……ん」
くちゅっという音と共に、わたしの秘部を細い指が動き回る気配。
その音は静かな部屋の中に思ったより大きな音で響いて、恥ずかしいことこの上ない。
両手で顔を隠してはみるけど、喉からもれる喘ぎは隠しようがなくて……
「あ、あぁ、ん……ぁん、んくっ」
「パス、テル……」
やさしく熱く、わたしを呼ぶ声。
でもその手は裏腹に、わたしの敏感な部分を翻弄する。
はじめは遠慮がちだったのに、わたしの喘ぎに答えるかのように激しく、めまいのしそうな快感を呼び起こしてしまう、トラップの指。
不意にトラップはわたしから離れて身を起こすと、手荒く引き剥がすように自分の服を脱いだ。
あらわになる逞しい体に、トクンと心臓が跳ねる。
クエスト中は水浴びしたりしてるから、いつも見ていたはずなのに。
そこにいるのは、知らない間に男の人になっていた、トラップだった。
華奢に見えてしっかりと鍛えられている、意外に広い肩幅。広い胸。
サラサラと肩に落ちてくる赤毛を無造作に払うと、トラップはわたしの上に跨るようにして身を屈めた。
差し込む月明かりが照らし出す、熱を帯びたような瞳。何か言いたげな表情。
その顔をじっと見つめていると、トラップは目を伏せて顔を背けた。
くぐもって聞こえてくる小さな声。
「俺の気持ちは本物だ。嘘じゃねえ。おめえがつれえ時につけ込むような真似、するつもりなかったんだぜ。でも、その……うまく言えねえけど」
トラップはそこで言葉を切った。
短く逡巡した後、今度はわたしの目をじっと見つめて、ささやくように言った。
「おめえが、好きだ。それだけだ。だから、本当にいいのかなんて聞かねえぞ」
その唇の端が微かに震えるのを見て、わたしはなんだか胸が一杯になってしまった。
語らずも伝わるのは、この人らしくない、みえみえで精一杯の虚勢。
そして、その真っ直ぐな想い。
わたしは返事の代わりに、両手を伸ばしてトラップの首に巻きつけて引っ張り、すんなりした頬に唇をつけた。
目を見開いて、思い切りびっくりした顔をしたトラップは、ふーっと息をつくと照れたように笑った。
ゆっくりと腰を進めてくる感触。
あまりの痛さに思わず悲鳴のような声をあげながら、わたしはさらに力を込めてしがみついた。
月が随分傾いて、差し込む月光の角度も変わった夜半。
わたしは窓辺のカーテンを全部開けて、時折雲に隠れる月を見上げていた。
この部屋に今は、わたしひとり。
トラップは、やさしかった。
……そんな簡単な言葉で済ませちゃいけないほど、普段の彼らしくなく気遣ってくれた。
何度も何度もわたしを抱きしめて、見たことがないほど真面目な顔をして。
「このまま恋人ヅラして、隣で寝るような真似はしねえ。後は……パステル、おめえがどうしてえのか決めてくれ。今夜は寝ずに待ってる」
トラップはそれだけ言うと、足音もなく部屋を出て行った。
わたしはさっきまでの出来事を反芻し、自分の胸の奥に問いかけていた。
わたしはどうしたいの?
今までどうだったかじゃなく、今、わたしはどうしたいんだろう?
長い時間だったような気も、数分だったような気もする。
ようやくその答えが見つかったとき、わたしは思い切りよく立ち上がり、部屋の扉を開けた。
わたしを待っている……ううん、ずっと前から、わたしを待ってくれていた人の所へ行くために。