音もなく開く、最新式の自動ドア。  
ふかふかのマットを飛び越えて外に出ると、まぶしい西日が眼を射る。  
 
「ひゃー、つかれたぁ」  
「お疲れ様、パステル」  
 
大仕事を終えた気分でビルの外に出たわたしを、待っていてくれたのはクレイ。  
すっかり伸びた黒髪が夏の夕日に輝いて、うーん、やっぱり男前。  
 
ここは大都市エベリンのど真ん中。  
わたしは、シルバーリーブの印刷屋さんに紹介されて、大手出版社を訪れていた。  
実はね、わたしの小説を読んでくださったここの編集者さんが、原稿を依頼してくれてたんだ。  
原稿自体は郵便で送るつもりだったんだけど。  
挨拶と今後の構想を話したいってことだったんで、直接来ることにしたんだよね。  
で、今、原稿を渡してお話も済んで、出てきたところ。  
綺麗な女性の編集長さんからは、お褒めの言葉に加え、今後も書いてほしいって嬉しいご依頼も頂いた。  
 
「どうだった?」  
「うん、すごく褒めてもらっちゃった。次のお仕事ももらえたんだよ」  
「へえ、さすが。すごいじゃないか」  
 
にっこり笑ったクレイはわたしの手をとると、人ごみを縫うように歩いていく。  
やがて辿り着いたのは、冒険者支援グループ、通称冒グルの建物。  
今回はクエストじゃないし全員で来ることもないだろってんで、クレイがついて来てくれることになった。  
そこへ、唐突に参加表明をしたのがトラップ。  
まぁ、彼は久々に大きいカジノにでも行きたかったんじゃない?  
マリーナの顔も見たかったんだろうしね。  
そんなトラップは、エベリンに着くなり別行動だったので、日没にここで待ち合わせすることにしていた。  
 
入り口横で立ち話をしている、ごついファイターの傍をすり抜けて中に入る。  
入ってすぐの部屋にはテーブルや椅子があり、冒険者用の待ち合わせ場所になってるんだけど、あの無意味に目立つ芥子色の帽子は見当たらない。  
 
「トラップ、まだ来てないのかな?」  
「みたいだな。まぁ、日没まではまだ時間があるから、待ってようか」  
 
クレイは木でできた椅子にわたしを座らせると、カウンターに歩み寄り、ジュースを買ってきてくれた。  
 
「ありがと、クレイ。喉がからからだわー」  
 
お礼を言ってジュースに手を伸ばすと同時に、目の前を横切った人。  
そぎ落としたような頬、黒髪に黒いアーマー、長身で細身の男性。  
どこかで見たような・・・ギア?  
 
「ギア?ギアじゃない!」  
「え?パステルじゃないか。クレイも」  
 
びっくりしたような表情のギア。  
いや、びっくりしたのはこっちですって。  
キスキンから帰ってあんな別れ方をして以来だったから、余計に驚いた。  
初めてわたしのことを好きだと言ってくれて、プロポーズまでしてくれた人だし。  
 (本当はカウントしたいとこだけど、半魚人はこの際除外)  
正直なとこ、色々考えないわけじゃない。  
でも、いっぱいお世話になったし、たくさんの時間を共有したギアに、久しぶりに会えたことで純粋に嬉しくなってくる。  
そうそう、もう終わったことでしょ。気にしてちゃきりがないよね。  
 
「久しぶりね!どうしてここへ?」  
「あぁ、クエストが終わったんで立ち寄って、しばらく滞在してる」  
「ダンシングシミターはいないんですか?」  
 
少し緊張した表情のクレイが、笑顔を作りながら話に入ってくる。  
ま、そうだよね。  
わたしだって、一瞬どんな顔をすればいいのかわからなかったもん。  
 
「次のクエストまでは別行動だよ。  
 ここへは、冒険者カードが痛んだので交換してもらいに寄ったんだ」  
 
そう言って見せてくれたのは、ま新しいカード。  
確かにクエストに出てると、雨やら風やらモンスターの襲来やらで、胸につけてるカードはけっこうボロボロになりやすい。  
わたしやクレイのも、もう随分痛んじゃってるんだけどね。  
 
「ふーん、じゃあもう用は済んだんだろ?  
 いつまでもここにいなくたって、いいんじゃね?」  
 
突然背後から聞こえたのは、失礼な物言い。  
 
「トラップ!いきなり現れてなんなのよ、その言い草!」  
「そうだ、失礼だぞ」  
 
揃って文句を言うわたしとクレイ。  
知らん顔をしているトラップに、ギアは苦笑しながら言った。  
 
「いや、かまわない。相変わらずだな、お前は」  
 
ほんとにそう。  
トラップって、どうしてこうギアには突っかかるのかなあ?  
そんなに嫌いなんだろか。確かに相性悪そうだもんね。  
でも、冷静沈着で大人なギアと、ガキっぽいっていうか時々やたら熱いトラップとは、いい対比だったりして。  
ふたりを見比べながらそんなことを考えていると、不機嫌そうに頭をはたかれた。  
 
「あにボーっとしてんだよ。今日の宿、マリーナんとこ駄目んなったぜ」  
「痛ったぁ・・・って、なんで?」  
 
今回、出版社の都合でアポイントが夕方だったから、一泊マリーナに泊めてもらう予定にしてたんだけどね。  
 
トラップはわたしの前からジュースを奪い取ると、遠慮なく飲みながら言った。  
 
「置手紙があった。  
 急な用事で、どうしてもでかけなきゃならねぇんだって。  
 でも、知ってる宿を紹介してくれてたぜ。  
 えーと、オアシス亭っつったか、マリーナの名前を出せば安くしてくれるってよ」  
 
それなら、助かる。  
今からじゃ、帰りの乗合馬車はないし。  
この物価高のエベリンで、安い宿なんてなかなかないもんね。  
ただでさえ恒久的に金欠の我がパーティ、無駄な出費はできるだけしたくないですからっ。  
 
「奇遇だな。俺が滞在してるのは、その宿の隣のホテルだ」  
 
ぴくりと眉を上げたのはトラップ。  
なんともいえない微妙な表情をしたのはクレイ。  
あんたたち、そんなにギアを嫌わなくったっていいと思うんだけどなあ。まったく。  
しかし、ホテルとはうらやましい。  
そうよね、ギアはお金持ってるもん。  
わたしたちみたいに、どれだけ安い宿が探せるか、後何日宿泊可能か、なんて悩まないんだろう。  
しみじみとむなしく貧乏を味わっていると、トラップは勢いよくグラスを置くと立ち上がった。  
 
「とりあえず、とっとと行こうぜ」  
「ちょ、ちょっとお!こぼさないでよっ」  
 
飲み残しのジュースがグラスから飛び散る。  
んもぉ!乱暴なんだからっ。  
そこへ、膝の上にぽんと投げられたのはシンプルなハンカチ。  
 
「あ、ありがとう、ギア」  
 
いや、と首を振りながら立ち去ろうとしたギアは、思い出したように振り返り、  
 
「じゃ、俺はこれで。パステル、また会えるといいな」  
 
彼の姿はドアの向こうへ消えた。  
 
そしてわたしとクレイは、やたら不機嫌なトラップに引きずられ、前述のオアシス亭へ移動した。  
こじんまりしてるけど、こ綺麗でアットホームな雰囲気の宿屋。  
トラップの言ったとおり、マリーナの紹介だというととっても安くしてもらえたし、そのお値段のおかげで2部屋確保できたんだ。  
そりゃいつもは雑魚寝なんだから、別に1部屋でもいいんだけど。  
今日はルーミィもいないし、たまには1人でゆっくり寝たい!とごねてみたのよね。  
そしたら、あのうるさいトラップが異論を唱えなかった。まー珍しい!  
 
というわけで、宿屋の1階で食事を済ませ、わたしは早々に部屋に落ち着いていた。  
クレイもトラップもまだテーブルに残って飲んでたし、なんかふたりで話したそうだったからね。  
まぁ、いつもは大所帯なんだから、たまには男同士で話したいのかも。  
さてわたしはどうしよう。  
たまのひとりの時間だし、とりあえずお風呂でも入ってこようかな?  
・・・  
あ。忘れてた。  
スカートのポケットをあわてて探る。  
出てきたのは、1枚のハンカチ。  
グレーの無地にワインレッドのラインの入った、大人っぽいデザイン。  
そう、さっきギアが貸してくれてそのままだったんだよね。  
結局使わなかったから綺麗なもんだけど、これ、返さないとなあ。  
 
しばらく逡巡した後、ハンカチを握り締めると、わたしは部屋を出た。  
きょろきょろと辺りを見回すと、あった、裏階段。  
別に悪いことしてるわけじゃないんだけどね。  
表階段から降りると1階の食堂を通ることになるから、また不機嫌なトラップに文句言われそうだし。  
隣のホテルだったら、さすがのわたしも迷わず行けるでしょ。  
階段を降りきり、表通りに出てみると、オアシス亭の隣に、確かに立派なホテルがあった。うーん、高そう。  
一応、反対側も確認してみる。  
両脇にホテルがあった日にゃ、またわたし迷子ですってば!  
 
フロントで聞いたギアの部屋をノックする。  
フロントからこの部屋に辿り着くまでに、結構な時間がかかったのは、もはや言うまい。  
しばしの空白があって、返事とともにドアが開いた。  
 
「パステル!?どうしたんだ、いったい」  
 
昼間に輪をかけて驚いてるギア。  
あはは、今日はびっくりしてばっかりだね。ポーカーフェースが台無し。  
 
「あのね、ハンカチ借りてたでしょ?返しに来たんだよ」  
「そ、そうか・・・とりあえずお入り」  
 
促されるまま部屋に入る。  
シンプルな、でもかなり豪華なシングルルーム。  
いかにも高級ホテル、って感じの、上品な調度品。  
 
「うわー素敵なお部屋!すごく高そう」  
「そうでもないよ」  
 
備え付けの冷蔵庫に屈みこんで、なにか探しているギア。  
彼を横目に、大きくとられた窓に近寄ってみる。  
おぉ!すごく夜景が綺麗だ。  
そうよね、この部屋、けっこう高い階にあったし。  
エベリンは都会だから、夜中でも街の光が絶えることはない。  
これがシルバーリーブだったら、見事に真っ暗なんでしょうけど。  
 
つと顔の傍に差し出されたのはワイングラス。  
あわいラベンダー色の液体が入っている。  
 
「こんな汚いハンカチ1枚のために、ご足労頂いたお礼だよ。  
 アルコール度数の低いフルーツワインだから、飲みやすいと思う」  
「あ、ありがとう」  
 
一口含むと、ほんのり甘くてやさしい口当たり。  
 
「美味しいね、これ」  
「だろ?」  
 
ギアは自分のグラスをくいっとあけてしまうと、ベッドサイドのソファに腰を下ろした。  
テーブルにグラスを置き、手酌でワインを注ぐ。  
 
「ところで、昼間聞きそびれたが、君たちはどうしてエベリンへ?」  
「そっか、話してなかったね。あのバカのせいで」  
 
そうそ、トラップが割って入ったせいで、まともに話もできなかったんだっけ。  
グラスを持ったまま、ギアの向かい側のソファに座り込む。  
出版社を尋ねることになった経緯や、今後も仕事がもらえたことを説明すると、グラスを大きな手でまわしていたギアは、  
 
「そういうことだったのか。あんなところで会ったのは」  
 
つぶやきながらまた新たなワインの栓を、慣れた手つきで開けている。  
もう1本飲んじゃったの?わたし、まだなみなみと残ってますけど。  
また、ひとくち口に含む。  
ほとんど飲んでないのに、顔が熱いぞ。赤くなってるかも。  
 
「そういえば。彼らは?ここへ来ると言ってきたのか?」  
「彼ら?あぁ、クレイとトラップね。  
 面倒だから、こっそり出てきちゃった。  
 特にトラップってば、なにかと喧嘩腰なんだもん。迷惑な話だよねえ」  
 
へへっと笑うと、ギアは笑わなかった。  
黒い瞳。真剣な眼のいろ。  
 
「トラップの不機嫌のわけがわからないのか?」  
「は?」  
「クレイが心配そうな顔をしてる理由を知らないのか?」  
 
何を聞かれてるのか、いまいちぴんとこないんですけど?  
 
「え?えーとえーと・・・  
 前にわたしがパーティ抜けるのなんのってやったから?かなあ?  
 トラップはもともとギアと合わなさそうだしねえ」  
「それだけ?本当にそれだけだと思ってるのかい?」  
 
ほんのり酔ったような頭じゃ考えがまわらない。  
小首をかしげるわたしに、ため息をついたギア。  
手に持っていたグラスを、カツン、と音をたてて置いた。  
まっすぐわたしに向き直る。  
 
「本当に、何もわかってないんだな、君は。  
 今、自分がしていることすらわかってない。・・・なぜ来た?」  
「だ、だからさ、さっきも言ったけどハンカチ返さな」  
「夜だぞ?」  
 
わたしの言葉に押しかぶせるようなギアの言葉。  
 
「こんな時間に、ひとりで男の部屋に来るなんて。  
 それも、この、俺の部屋にだ。  
 自分のしてることが、本当にわかっているのか?」  
 
押し殺したような問いかけ。  
静かな声色だからこそ、感情が底でくすぶっているのがわかる。  
ゆっくりと立ち上がったギア。  
怖い。  
本能的に後ずさるけれど、背中に当たるのは柔らかなソファーの背もたれだけ。  
怯えるわたしの気持ちを知ってか知らずか、そのままギアは机をよけるようにしてわたしの前にたった。  
長い腕を伸ばして、そっと頬に触れる。  
思わず身を縮こまらせるわたしを見て、ふっと微笑んだギア。  
わたしの持っていたグラスを取りあげて残りのワインを干すと、身をかがめ、その無表情な唇をわたしの唇に押し当てた。  
そのまま彼の舌が唇を割り、一気にワインを流し込まれる。  
 
「・・・ん・・・くっ」  
 
口におさまりきらず、喉もとへと伝う液体。  
吐き出すこともできず、むせながらも飲み込んでしまうと、一気に頭がぼおっとしてきた。  
冷たい唇に、生ぬるいワイン、熱いギアの吐息。  
伸びてきたギアの手に、あっさりとからめとられ、骨がギシギシいうほど抱きしめられ、わたしは身をよじる。  
 
「離して・・・」  
「どうして?誰か、好きな奴でもいるのか?」  
「・・・そんな人・・・いな・・いけど」  
 
暗い瞳のまま、彼はさらに腕に力をこめた。  
 
「彼らのひとり相撲ということか」  
 
何?相撲って何のこと?  
疑問を口にする間もなく降りてきた唇が、喉もとから、ボタンを外された胸元を這い回る。  
 
「あ・・・やっ・・」  
 
酔ってはいても感じる、ちくりと刺すような痛み。  
次々に胸の上に咲く、紅い花。  
 
「あの時、どんなにさらっていきたかったか。  
 俺は、必死に君をあきらめたのに。  
 あきらめられたと思っていたのに・・・駄目だ」  
 
ギアはわたしを抱きしめたまま、すぐ傍のベッドに倒れこんだ。  
ひんやりした指があっという間に服をはぎとる。  
逃げようにも、抵抗しようにも、何もできない。  
ぼおっとした頭とまわらない舌。力の入らないからだ、そして押さえ込むギアの強い腕。  
その腕とは裏腹に繊細な指。  
胸をかすめウエストをなぞり、強弱をつけた愛撫に溶けてしまいそうになる。  
 
「・・・はぁ・・やぁ・・ん・・」  
 
ギアの節くれだった指が、立てさせられた脚の間にもぐりこむ。  
ぬるっとした感触とぐちゃりという音に、ただでさえ赤い顔がさらに赤くなったんじゃないだろうか。  
 
「感じてくれてるのか?・・・パステル」  
 
ゆっくりとその部分を解きほぐし、滴が伝うほどになった時、ギアはゆっくりと身を押し進めた。  
わたしがぐっと眼を閉じると、それはわたしの中に入ってきた。  
 
「・・・った・・・あぁ・・っ・・や・・」  
「パステル、力を・・・抜いて」  
 
半分泣き声になるわたし。  
痛いのに、裂けてしまいそうなのに、奥底からじわじわと湧いてくる、甘美な快感。  
ギアは、ほんのかすかな動きで腰を動かしながら、荒い息で途切れ途切れに言葉をつむぐ。  
 
「君は・・・俺のものには、ならないんだろう・・な。  
 今、俺は・・君を抱いている・・・けど」  
 
苦さと甘さの中で、思わず眼を開ける。  
顔のすぐ上、数センチのところにある、端正な顔。  
うっすらと額に汗をかき、苦しそうに眉根をよせて。  
 
「でも、心は・・君自身は・・・君の、ものだ」  
 
・・・泣いてる。  
涙もなく、泣き声もなく、でも、この人は今泣いている。  
涙のない嗚咽を漏らしながら。  
 
何も言えなかった。  
その思いの深さに、気持ちを受け止めることの苦しさに。  
からだの奥底を突き上げる鼓動に身を任せながら、わたしは必死でギアの顔を見上げ続けた。  
そして降ってきたのは、噛み付くようなくちづけ。  
 
「今・・・ひとときでいい、俺に・・・  
 俺のもので、いてくれ。頼む・・・っ」  
 
ふりしぼるような、悲鳴のような、ギアの声。  
いつもクールな彼のどこに、こんな情熱が潜んでいたんだろう。  
 
からだの奥に、熱いものがほとばしった。  
内側からなにかがはじけるような感触に身をゆだね、瞳を閉じる。  
 
 
オアシス亭の裏階段。  
こんなぼおっとした頭なのに、一応表玄関を避けた自分に驚く。  
こんなとこで転げ落ちるわけにいかないので、よろける足をかばうように手すりをしっかりと握り、一段一段あがる。  
ようやく部屋のある階まで上がりきった。  
やれやれ。後は部屋に戻るだけ・・・なんだけど。  
足音をしのばせて廊下を歩き出したわたしの耳に、おさえた怒声が聞こえた。  
足を止めたその場所は、折りしもクレイとトラップの部屋の前。  
薄い木のドアの向こうから漏れているのは、トラップの声。  
 
「だからよ、なんで・・・」  
「大声出すな、パステルが起きる」  
 
残念、起きてます。  
抜け出したのはバレてないらしい。  
一応なだめているクレイ。  
声を抑えたつもりなんだろうけど、廊下まで筒抜け状態だし。  
ふたりとも相当飲んでるんだろうな。  
 
「クレイ、てめぇ、みすみすパステルをあいつにやる気か!?」  
「そんなつもりじゃ・・」  
「じゃあ、俺が取っちまってもいいのかよ?」  
「そ、それは・・・」  
 
自棄気味に怒鳴るトラップに、口ごもるクレイ。  
さっきまでのわたしだったら、きっとこの会話の意味はわかんなかったろう。  
でも。  
 
「・・・選ぶのは、パステル自身だ」  
 
長い沈黙を破って、クレイが言った。  
ドア越しにでもわかる、奥歯を食いしばって発した声だった。  
 
それ以上聞いていられなくて、そっとその場を離れ、自分の部屋のドアを開ける。  
鍵をかけ、ベッドにばったりと倒れこむ。  
途端に、さっきまでの情景が頭を駆け巡る。  
 
あの後、彼は何も言わなかった。  
どうしていいかわからないまま、わたしも何も言わず、帰ってきた。  
きつくきつくきつく、わたしを抱きしめたギア。  
言葉にできないもどかしさを持て余し、彼の背中に痕が残る程に爪を立てた。  
 
からだの奥が重い。  
こころの奥は痛い。  
 
ギアに、消えない、消せない烙印を押されたわたし。  
それなのに。  
抱きすくめられたあの胸を思い出すたび、あの言葉を思い出すたび、胸が熱くなりキリキリと痛む。終わったはず、離れたはず、思い切りをつけたはずだったのに。  
どうして?この気持ちはどうしてなんだろう?  
狂おしいほどの葛藤。  
 
そして、今頃知った、ふたりの気持ち。  
トラップの不機嫌の裏に、クレイの心配そうな瞳の奥に浮かんでいたのは、恋と呼ぶものだったんだ。  
知りたくなかった。  
知らないほうがよかった。  
知ったがゆえに、もうわたしたちは同じ関係ではいられないだろう。  
 
どうして、ずっと同じところにいられないのかな?  
わたし、ずっとあのままでいたかったのに。  
人の気持ちを理解できるようになるのが大人なら、わたしは大人になんかなりたくなかった。  
もう、自分で行き場を決めなくてはいけない。  
知らずに歩いていくことも、迷った手を誰かに引いてもらうことも、もうできないんだ。  
 
首をひねると、出窓から夜空が見えた。  
都会の人工の光ににごったあずき色の闇。  
かすんでぼやけた空には、ほんのひとかけらの星も見つからない。  
 
わたしは、自分の頬を伝う涙に、長い間気づかずにいた。  
 
 

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