子供ができたら、自分の時間が持てなくなるよ……っていうのが、先にお母さんになった友達の言葉だったけど。
でも、わたしはそれを「幸せなことだ」って思っていた。
だってさ、他の誰でもない、自分がお腹を痛めて生んだ子供の世話だよ?
そりゃあ、夜中に泣かれて……なんて話を聞くと、「大変だなあ」と思わなくもないけど。
それでも、子供の笑顔を見れば、どんな疲れも癒される。それが「母親」ってものだって、ずっと、そう信じ込んでいた。
自分が母親になるまでは。
「うー……もお。早く寝てよう……」
だあだあと可愛い声を上げる娘を見下ろして。わたしは、情けない声をあげていた。
時刻、夜中の一時過ぎ。結婚前のわたしなら、とっくにベッドに入っていた時間。
「もおお……お昼寝させてあげないよ? ほら、寝ようよお……」
わたしの懇願に、娘は、つぶらな瞳を向けてくるだけ。
うっ……この目を見てしまったら、もう何も言えなくなってしまう。
とほほ。母親って……弱い存在だよねえ……
「パステル……まだ、寝ないのか?」
「あ、ギアぁ……」
そのとき。
背後からとんできたのは、わたしの、最愛の旦那様の声。
ギア・リンゼイ。昔、わたしが冒険者をやっていた頃、偶然知り合った凄腕の魔法剣士……
そして、今は、わたしの最愛の旦那様でもある人。
「ごめんね。寝てくれなくってさあ……」
「……ここのところ、毎日だな。昼寝は?」
「お昼寝も、ちゃんとさせてるつもりなんだけど……」
言いながら、もごもごと口ごもる。
実際のところ、昼間は、夜の疲れが出て。娘が寝るのを確認した後、わたし自身もお昼寝しちゃったりしてるんだよね。
だから、本当に娘がちゃんと寝てるのかどうかは……実は、わからない。わたしが寝た後で起きて遊んでるって可能性も、なくはない。
いや、まさかとは思うけどさあ。夜にこれだけ元気なことを考えると……
「どれ……俺が見てやろう」
そうして。
ぐったり疲れたわたしを見かねたのか、ギアが、ゆっくりと部屋に入ってきた。
「散歩でもしてくるよ。外を歩いていれば、そのうち寝てくれるだろう」
「あ……駄目、駄目だよっ!」
手を伸ばそうとするギアの前に立ちはだかるようにして、ぶんぶんと首を振る。
ギアは優しい。出会ったときからずっと優しかったけど、結婚して、さらに優しくなった。
その優しさに甘えて、ここまで来た。だけど……いくらわたしでも、甘えていいことと悪いことの区別くらいは、つけているつもり。
「ギアは、仕事があるんだもん。先に寝てていいよ? 明日の朝だって早いでしょ? わたしは大丈夫。どうせ、明日のお弁当の準備もするつもりだったし」
「…………」
「おやすみ。うるさくして、ごめんね?」
「……ああ」
わたしの言葉に、ギアは軽く肩をすくめた。
その表情に浮かぶのは……何だろう。あれは、苦笑?
「パステルらしいよ」
そんな謎の言葉を残して。ギアの姿は、寝室に消えた。
結婚してから、ギアは冒険者を引退して、村の用心棒みたいなことをやったり、子供達に剣を教えたりしている。
最初は、わたしもどこかで働くつもりだったんだけど。「パステルは気にしなくてもいい」という旦那様の言葉に甘えて、専業主婦をやらせてもらっている。
だからせめて、家事育児くらいは、ギアの手を借りずに頑張ろう! って、そう決めた。
わたしは、ギアが出かけた後で、いくらでも寝直すことができるんだもん。娘を寝かしつけるくらい、一人でできなくてどうするの!
「ねえ、早く寝よう? ほらあ! お母さん、怒るよ!?」
精一杯怖い顔をして見せても、娘は、きゃいきゃいと無邪気な笑みを浮かべるだけだった……
ギアと結婚することになったきっかけは、彼からのプロポーズ。
受け入れるには色々な理由があったけれど。一番の理由は、何と言っても、彼のことを好きになったから、だろう。
ひよっ子パーティーとして、和気藹々とした関係に慣れきっていたわたしにとって、彼の存在はとても新鮮なものだった。
誰よりも大人で、誰よりもわたしのことを大切にしてくれた。一緒になったら、きっと一生をかけて守り通してくれるだろう。一生、わたしを愛し続けてくれるだろう……
それがわかったから。彼と結婚する道を、選んだ。
そのことを、わたしは一度だって後悔していない。ギアと結婚できて本当に幸せだった。
娘が生まれた今だって、それは、変わっていない。
「うー……」
ようやく娘が寝てくれたのは、夜中の三時すぎ。
ふらふらになって寝室に戻ると、ギアが、寝息を立てていた。
……そう言えば……ここのところ、ギアとも、あんまり話してないなあ……
朝から晩まで娘のことで振り回される生活。そりゃあ、娘のことは可愛いし、愛してもいるし。世話をするのはちっとも苦じゃないんだけど……
それでも。たまには……昔みたいに、夫婦二人きりで、ゆっくり語り合いたいなあ、と思う。
まあ、言っても仕方がないんだけどね。何よりも、仕事で疲れているギアに、そんな愚痴めいたこと、聞かせたくないし。
ため息をつきながら、ベッドに潜り込んだ。
潜り込んだ瞬間、肩に何かが触れたような気がしたけれど。疲れ果てていたわたしは、それに気づく間もなく、すとんと眠りに落ちてしまった……
わたしが幸せなんだから、ギアだって幸せに決まってる。
それが勘違いだと教えられたのは、それから一週間が過ぎたある日のこと。
「もおお……お昼寝したでしょ? ちゃんと。寝なさいってばあ……」
相変わらずきゃいきゃいと幸せそうな声をあげる娘。
夜鳴きされることに比べたら、機嫌がいいだけマシだ、と言えなくもないけど。それにしたって、もう一時半だよ? もちろん夜中の。
「ほら、寝て寝て。子守唄、歌ってあげるから。ね?」
わたしの必死の呼びかけも空しく。伸ばした手は、小さな手につかまれて。返されたのは、実に無邪気な、笑顔。
ううう……
これは、今日も長丁場になりそうだなあ……と。
そんな覚悟を決めて、ため息をついたときだった。
バタン! と、背後で、部屋のドアが開く音がした。
「あ……ごめんね。うるさかった?」
この家に暮らしているのは、わたしと娘と、そしてギアの三人だけ。
他に入ってくる人なんて、いるわけがない。
それがわかっていたから。わたしは、振り向きもせずに、声をかけた。
というよりも、振り向くだけの余裕がなかった。疲れていて。
「ごめんねえ……ちっとも寝てくれなくてさあ。ギアは、先に寝てくれていいから。本当に……」
ごめん、という言葉を押し潰したのは、大きな掌。
「…………?」
「パステル……悪い。もう、我慢の限界だ」
「…………?」
え、え、何? という疑問は、掌で潰されたまま。
え……何、何なの? わたしの口を塞いでいる、これは……
ギアの手?
「っ……むーっ!?」
その瞬間、首筋に、刺激を感じた。
背後から回り込んできた手が、柔らかく胸を包んで……そのまま、ブラウスのボタンを、外し始めた。
胸元から忍び寄る、冷えた指先。久々に感じた感触に身をよじると、熱い吐息が、耳に触れた。
「んっ……」
「限界、なんだよ。俺も修行が足りないな」
耳に届いたのは、苦笑混じりの言葉。申し訳なさそうな響きとはうらはらに、その手つきには、遠慮が全くなかった。
身をよじる。逃れようとしたのか、それとも刺激を求めたのか。それは、自分でもよくわからなかった。
ただ、視線を辿れば、娘の無邪気な目が、わたしをまっすぐに見つめていること……それだけは、わかった。
「やっ……」
見られてる。こんなところを。
駄目、と言おうとした瞬間、前のめりに身体が崩れて、ベビーベッドで身体を支える羽目になった。
ついで、びりっ! という音と共に、ブラウスが乱暴にはぎとられて。肘の辺りが、締め付けられた。
う、動けないっ……!?
「やんっ! ギア、ギア! 駄目、だよ! こんなところでっ……」
「こんなところでなきゃ、相手をしてくれなかったのはパステルだろう?」
「やんっ……!!」
絡み付いたブラウスで、動きを封じられたまま。わたしの身体は、ギアに組み敷かれていた。
下着越しに弄ばれた乳首が硬くなっていくのがわかって。頬が、熱くなった。
だ、駄目。感じちゃ駄目! こんなところっ……娘に、見せるわけにはっ……
「やっ……いやあっ……」
ベビーベッドにすがりついたまま、悲鳴を上げた。そんな母親の様子を、娘は、泣きもせず、不思議そうな顔で見つめていた。
その視線が、余計に、身体を火照らせた。
嫌だ、と言えたのは、最初のうちだけ。
「ギアぁ……」
「濡れてる……可愛いな、パステル」
つつっ、と、片方の手で胸をまさぐったまま、もう片方の手を、太ももの間に滑り込ませて。
薄い唇から漏れたのは、実に満足そうな、笑み。
「可愛いよ。俺が欲しくてたまらない、と。君の身体は、そう訴えている」
「…………」
器用に下着をかきわけていく指先を、止める気には、なれなかった。
淫靡な音が部屋中に響き渡るのを聞きながら。段々と息が荒くなっていくのが、わかった。
「待っていたんだろう? 俺を」
「いやっ……」
くちゅくちゅと、わざと音を立てるようにして、敏感な部分をいじくられた。
その微妙な動きに、腰が揺れた。自らギアを誘っている……ということに、しばらく、気づけなかった。
結婚してから、娘が生まれるまでは。毎日、こんな風にして、ベッドの中で可愛がってもらった。
大人なギアは、絶対に無理強いしたりはしなかったけれど。その巧みな動きは、痛くも辛くもなく……未発達なわたしの身体を、実に巧みにほぐしてくれたから。
いつだって、わたしは、その行為に夢中になっていた。
娘が生まれてからは、そんな夜を過ごす日々が、ぐっと減っていた。そのことに、自分がどれだけ不満を感じていたのかを……今、悟っていた。
「ギア……早く……」
不自然な体勢で、無理やり首をねじまげると。待っていた、というように、唇を被せられた。
軽く開いた唇の間から舌が滑り込んできて、キスが、あっという間に深められた。
「んっ……」
くるりと、体勢をひっくり返した。
娘から視線をひきはがした瞬間、わずかに残っていた理性や羞恥心が、綺麗に吹き飛んでいくのが、わかった。
「ギア……」
「パステル」
たくましい首にすがりつくと同時、腰に、手があてがわれた。
軽く身体が浮いた。お尻に当たっているのは……これは、ベビーベッドの柵?
「ああっ……!」
熱い塊が押し入ってきて、悲鳴が、唇から漏れた。
そのときだけは、わたしの身体は、「母親」じゃなくて、ただの「女」に、変わっていた。
ベビーベッドと寝室を別にしたのは、娘に、その……「夜の行為」なんか、見せたくなかったから、だった。
別の部屋、とは言っても、隣の部屋だし。それに、壁で死角を作っているとは言え、寝ているときもドアは開けっ放しにしてあるから、娘が泣き出せばすぐにとんでいける。だから大丈夫だろうって、そう思っていた。
まさか、そのときは、娘がこんなにも寝つきが悪くなるなんて、思ってもいなかったから。
けれど、それがいけなかったらしい。
「わかっただろう? どうせ同じだ……それに、この方が安心だろう」
「そうだね」
翌朝、ベビーベッドは早速寝室に移されて。娘は、わたしとギアと、同じ部屋で眠ることになった。
そして、その結果。
「……あれ?」
夜。
ギアと一緒にあやしていると、娘は、すっ……と目を閉じて。そのまま、すやすやと寝息を立て始めた。
時計を振り仰げば、時刻は、まだ十二時にもなっていない。もちろん、夜の。
「何で?」
「多分……」
娘の寝顔を見つめて。ギアが、淡々と言った。
「離れて欲しくなかったんだろう」
「…………?」
「夜になれば、君も俺も別の部屋へ行く。それがわかっていたんだろう。寝ないでいれば、いつまでもパステルが傍に居てくれる。それがわかっていたから、甘えていたんだろう」
「……えと、それって」
つまりは、ベビーベッドを最初から同じ寝室に入れておけばよかった、ってこと?
な、なーんだ!!
「悩んでたのが馬鹿みたい」
「子育てなんてそんなものだろう。そうやって、悩みながら、二人で育てていけばいい」
娘の寝顔を見下ろしていると、肩を抱かれた。
振り向くと、ギアが、優しい笑顔を浮かべて、わたしを見つめていた。
「寝るか、パステル」
「……うん」
薄いパジャマ越しに、ギアの体温が伝わってきて。自然と、身体が熱くなった。
これからは、わたしだけじゃなく、ギアにまで夜更かしさせることになるだろうな……
ベッドにもぐりこむとき、自然とそんなことを考えている自分に気づいて。全身が、真っ赤に染まった。