「おかあさん」
普段、父親に似て感情をあらわにするのが苦手な息子が、おずおずと台所に顔を出したときは、何があったのか、と思った。
だけど、いたずらをした……にしては、息子の顔は至って真面目で。わたしは、作りかけだった料理の手を止めて、「どうしたの?」と、しゃがみこんだ。
癖の無い髪と黒髪はお父さん譲り。だけど、どっちかというと穏やかそうな……全体的に温和そうな顔立ちは、わたし譲り。
まさに「目に入れても痛くない」という表現がぴったり来る、わたしの息子。
「どうしたの? 何か用?」
「あの……あのね、おかあさん」
にっこり笑うわたしの顔を、まっすぐに見つめ返して。
「おかあさんは、どうしておとうさんとけっこんしたの?」
何とも返答に困る質問を、投げかけた。
子供に聞かれて困る質問と言ったら色々あるけれど。
「赤ちゃんはどこから来るの?」並に難しい質問じゃないだろうか、これは。
「そ、それはねえ、うーん」
「ねえねえ、どうして?」
普段無口なこの子が、これだけ必死になるのも珍しい。
そんな様子を見ていると、いじらしくなって。「ごまかすのはよくないよね!」という変な開き直りも出て。わたしは、できる限り真面目な顔をして
「お父さんのことが、大好きだからだよ」
と、言った。
わ、笑わないでよっ! 自分でも恥ずかしいんだからっ!
言った瞬間、かああっ……と真っ赤になってしまったけれど。幸いなことに、聞かれて困る人は、今はまだ仕事から帰っていない。
今日も遅くなるのかな……と、そんなことをぼんやりと考えていると。
「おかあさん、おとうさんのこと、すき?」
息子に、ぎゅっ、と手を握られた。
今にも泣き出しそうな、それでいて怒りたそうな、何とも複雑な表情。
ぎゅっ、と唇をかみ締めて。そんな目で見つめられると、そらすことなんかできなくなる。
「おとうさんのこと、だいすき?」
「う……うん……そうだね。もちろん、大好きだよ」
「俺よりも?」
「……え?」
「俺よりも、おとうさんのほうが、すき?」
素朴な質問に、がちっ! と身体が固まってしまう。
一体どうしたんだろう。まあ、もう四歳ともなれば、あちこちに友達もできて、早熟な子から色々聞かされていても不思議ではないけれど……
でもねえ。夫と息子、どっちが好きか、と聞かれても……
「選べないよ、そんなの」
「おかあさん、俺のこと、きらい?」
「まさかっ! ないないっ! それは絶対無いっ!」
息子の質問に、これだけは、きっぱりと答えることができた。
当たり前じゃない! 世界中の誰が敵に回ったって、お父さんとお母さんは絶対に子供の味方! これは世界でも数少ない真実なんだからねっ!
「そんなことないよっ! 大好きだよ」
「本当?」
「もちろんっ。お父さんのことも大好きだけど、それと同じくらい、うーんと大好き!」
「じゃあ、じゃあねっ!」
わたしの言葉に。
息子は、目をキラキラ輝かせて言った。
「俺、おおきくなったらおかあさんとけっこんする!!」
息子の言葉を、わたしは軽い冗談だと思っていた。
いやいや、子供の頃はよくあるじゃない? わたしだって、小さいときは「結婚相手はお父さん」とか言っていたような気がするし。
それだけ、小さい子にとって、親は絶対の存在っていうか憧れの対象というか……とにかく大好き! ってことなんだよね?
だから、そのときも。わたしは息子の言葉に単純に喜んで、「ありがとう!」なーんて言ってたんだけど。
自分の考えが甘かった、と思い知らされたのは、その夜のことだった。
「おとうさん」
「……何だ」
夜。
寝室には、緊迫感に満ちた空気が漂っていた。
不機嫌そうな顔でベッドに腰掛けているのは、わたしの夫、ギア・リンゼイ。
その前で仁王立ちになってギアをにらみつけているのは、昼間に爆弾発言をした、わたしの息子。
そして。
二人の間でおろおろしているのが、夫の妻にして息子の母親たるわたし……パステル。
「俺、きめた! ぜったいにきめた!」
「だから何をだ」
「俺、おおきくなったら、おかあさんとけっこんする!」
「…………」
「ぜったいぜったい、おかあさんをおとうさんからうばってやる!」
「誰に教えてもらったんだ、その台詞」
「このあいだうちにきた、あかげのおもしろいにいちゃん」
「…………」
部屋の温度が、一気に氷点下まで下がった。
もっとも、息子にその空気が悟れるはずもなく。また、ギアは、それを表に出すほど大人気ない人でもない。
あああああ! と、トラップったら! もおおお!!
赤毛の兄ちゃん、で思い出されたのは、昔一緒に旅をしていた冒険者仲間の盗賊。
今は、実家を継いで、有名な盗賊団の若頭となって。幼馴染の女の子と結婚して、二児の父親となっている人だけど。乗合馬車を使えば案外家が近い、ってことから、たまに遊びに来るんだよね。
もおお! 息子に変なことばっかり教えて! 今度がつんと言ってやらないとっ!!
「そうかそうか」
わたしが一人憤慨している横で。ギアは、冷めた口調で息子の頭を叩いて、言った。
「それは楽しみだ。奪えるものなら奪ってみろ」
「……ぜったいだからな!」
余裕たっぷりな態度の父親に、息子は、頬を膨らませて抗議した。
……で。
「……あの、ギア。怒ってる?」
「…………」
数十分後。
興奮しすぎたせいで疲れたのか。息子は、今は安らかな寝息を立てていた。
ただし、自分のベッドではなく、わたしの胸元にしがみつくようにして。
「あの……た、多分ね、この子も冗談のつもり……というか」
「いや、それは無いだろう」
わたしの言葉に、ギアは、そっぽを向いたまま言った。
「俺の息子でもあるからな」
「……ええと?」
「本気でもない女性に、気軽に好きだと言えるような奴じゃないよ」
淡々とつむがれた言葉に、ぼんっ! と顔が赤くなる。
わたし達が結婚した経緯は……その、言うなればギアからのプロポーズで。それは、つまり、つまり……?
「も、もお、ギアったら!」
照れ隠しに伸ばした手は、大きな手で掴み取られて。
あ……と思った瞬間、冷えた唇が、舞い降りてきた。
「ギア……だ、駄目」
すいっ、と頬を撫でられて、反射的に、つぶやいた。
いや、その、もちろんわたし達は結婚しているから……その、ダブルベッドで寝ているから。その……夫婦の営み、というものは、それなりにやっていたりするけれど。
で、でもさ! 今は駄目だよ! だって、こ、子供がっ……
ギアの動きに気づいた様子もなく、わたしのパジャマを握り締めたまま、ぐっすりと眠っている息子を見下ろして。
せめてこの子をベビーベッドに移してから……と身を起こした瞬間。
肩をつかれて。身体が、ベッドに沈んだ。
「ぎ、ギア?」
「嫌だ、とは言わないんだな」
「……は?」
「俺以外の男からのプロポーズも。平気で受けるんだな、パステルは」
「っ…………!?」
意外な言葉に、目が点になった。
ええっと……「俺以外の男」って……つまり、この、我が息子のこと?
な、何っ……
「もおっ! ギアったら、何言って……」
「…………」
「ぎ、ギア?」
その口元に浮かぶのは、薄い笑み。
あ……こんな笑み、昔も、見たことがある。
その表情が、何となく懐かしかった。結婚してから、ギアは、いつだって優しい笑みを浮かべていたから。こんな……何と言うか、冷たい笑みを見たのは、久しぶりで……
そう。この笑みは……
昔、わたしがまだ冒険者だった頃に、よく見せてもらった……
「やっ!?」
ぐいっ!!
不意に、パジャマをつかまれた。
と言っても、上半身は息子がしっかりとしがみついている。ギアの手は、決して彼を起こさないように……と、細心の注意を払って。
ズボンを、一気にひきずり落とした。
「や、やあっ!? ギアっ! ギア、何っ……」
「暴れるな。大声を出すな。こいつが起きたらどうする? 今のその姿を、見せるつもりか?」
「っ…………」
言われた瞬間、言葉が、止まった。
いや、その、まさかこの子にその意味がわかるとも思えないけどっ……さすがに、それは教育上まずいというかっ……
「ぎ、ギア、待ってよ。ねえ? せ、せめて、この子ベッドに……」
「もっとも、俺はちっとも構わないがね」
「……へ……?」
あっさりと続けられた言葉に。
息が、止まった。
「ひっ……!!」
ひやり、とした感触が、一番敏感な部分を、なぶっていった。
薄い下着一枚で包まれた場所を、ギアが、ゆっくりとさすっていた。
最初は、本当にゆっくりと、じれったくなるくらいの動きで。
やがて、激しく。
「いっ……ぎ、ギア……」
反射的に脚を閉じようとすると、力で、押しとどめられた。
声が漏れそうになるのを堪えていると、自然と腕に力が入って、息子が、苦しそうな顔をするのが見えた。
お、起きちゃう、起きちゃうっ!? ど、どうすればっ……
「濡れて来てるな……」
力の持って行き場がなくて、じたばたともがいているわたしを見て。ギアがつぶやいたのは、感情なんかほとんどこもっていない、ひどく平板な言葉。
「見せてやりたいよ、パステル」
「え……」
「ぐっしょりだ。下着が透けて見えてるよ……本当に、いやらしい子だな、パステルは」
「っ…………」
羞恥に、頬が真っ赤に染まるのがわかった。
濡れる、というのがどういうことかを理解したのは、本当につい最近のことだった。
それまでは、男の人と「そういう行為をする」ってことが、どんなことなのかもよくわかっていなかった。
けれど、今は。
触れられれば、求めずにはいられなくなる。
「いやっ……ど、どうしたの? ギア……」
「どうした、とは?」
「い、いつもと、違うじゃない……いつもは……やあっ!?」
下着をかきわけるようにして、指が、潜りこんできた。
そのたびに、「ぐちゅぐちゅ」っていういやらしい音が響いて、泣きたくなった。
嫌っ……や、やだよ、こんなのっ……
恥ずかしい……わ、わたし、今……見られてる? ギアに、一番恥ずかしい姿……見られてる……?
もう脚を閉じようとは思えなかった。
だらしなく身体を広げて。早く来て欲しい……と、そんなことばかり、考えていた。
たった一点に集中した愛撫。それは、いつもの時間をかけて全身をほぐす愛撫とは違って……痛みすら伴うくらいに、激しく、執拗なものだった。
「やっ! あ、あっ……」
「……凄いな。シーツに、染みになってる。子供に笑われるぞ? いい年をしてお母さんがおねしょをした、ってな」
「やっ……」
「そんなに、俺が欲しいのか?」
上目遣いに、見上げられた。
視線が絡み取られて、そのままそらせなくなった。
真っ赤になってこくん、と頷くわたしを見て。ギアが浮かべたのは、穏やかな笑み。
満足そうではあるけれど、決して満足しきってはいない。そんな笑みで。
「素直だな。そうやって、何人の男を虜にしてきた?」
「……え……?」
「トラップにも、その笑顔を見せたのか?」
「!!?」
唐突に上がった名前に、それこそ、心臓が止まりそうになった。
と、トラップ? 何でっ……何でそこで、彼の名前がっ……
「ギア……?」
「昔、あいつは君に惚れていた」
「…………」
「まさか、知らなかったとは、言わせない」
鋭い言葉に、返事が、できなくなった。
それは確かに事実だった。結果として、わたしは彼の気持ちを受け入れることはなかったけれど。パーティー解散の折……ギアと結婚することが決まった日。こっそりと呼び出されて、告げられた。
――今だから言っちまうけど。無駄になるってわかってるから言えることだけど。
――俺さ、おめえのことが、ずーっと前から好きだったんだぜ?
そのときは……確か、真っ赤になって、でもその気持ちだけは嬉しかったから、「ありがとう」とだけ言った。
ギアと出会う前だったらわからない。けれど、わたしの心には、既に彼が居たから。
トラップの気持ちを、受け入れることはできなかった。最後まで仲間として……今は、何でも相談できる友達として。付き合いを、続けている。
「ギア……」
「そのいやらしい姿をトラップにも見せたのか? そうやってあいつのことも誘ったのか?」
「…………」
「俺の居ない間、あいつを家にあげて、何をしているんだ?」
身体が、熱かった。
うずきのような感覚は強くなるばかりで、早く楽にして欲しいと……そんなことばかりを考えていた。
その一方で、大きな大きな悲しみが、胸を満たしていくのがわかった。
「……パステル?」
「ひどい……」
「パステル」
「ひどい。何で、そんなこと、言うの?」
ひっく、ひっくと。しゃくりあげるような声が漏れた。
確かに、ギアが居ないとき、トラップが遊びに来たことは何度もあった。
けれど、それはギアが勘ぐったような話じゃない。彼の子供も、奥さんも一緒で。家族ぐるみでわいわいと昔を懐かしむ……そんな、大切な時間の一つだったのに。
それを汚されたみたいで、悲しかった。
「トラップは……ただの仲間、なのに。彼のことを、そんな風に思ったことなんて……一度も、無い」
「…………」
「ぎ、ギアだから、こんな格好が、できるの。ギアの前でしか、できないの。他の誰にもっ……なのに、何でっ……」
ひっくひっくとしゃくりあげるわたしを見て。
ギアは、しばらく黙り込んでいた。
そのまま……
ゆっくりと、わたしの中に、自身を沈めていった。
「ひっ!?」
「……悪かった」
「やっ……ああっ!」
「悪かった。ちょっと、いじめすぎたね。本気で言ったわけじゃない。ただ……君があまりにも無防備に笑うから。柄にもなく、焦っただけだ」
「ぎ、あ……ああっ!」
ずんっ! と、衝撃が、脳天を貫いた。
息子ごと、わたしの身体を抱きしめて。
耳元で。熱い囁きを、繰り返していた……
「ギアは、知ってたの? トラップの気持ち」
「最初から」
乱れた服装を整えた後。
潤んだままの目をこすりながら言うと、さらりと言われた。
「あれほどわかりやすい奴も、他にはいないと思うがね」
「……うー……」
言われるまで全く気づかなかった身としては、返す言葉がない。
黙り込んでいると、ギアは、小さく笑って、頭を撫でてくれた。
子供扱いされているようだけど、その優しさが、何だか嬉しい。
「あいつのおかげだよ」
「……え?」
「ぼーっとしてたら、あいつに取られるんじゃないか、と。それが怖くて、焦った。焦って、君を自分の物にしようと、努力することができた」
「…………」
「今では、あいつに感謝してる」
多分、トラップがその言葉を聞いたら、「人をダシにして」と怒るかもしれないけれど。
でも、わたしは、純粋に嬉しかった。
「ありがとう。ギア……大好きだよ」
「知ってるよ。とっくに。明日の朝、息子に宣戦布告をしてやろう。お前にパステルは絶対に渡さない、とね」
「もお、やめてよっ! 仲良くしてよね、お願いだから!」
珍しくも軽い口調で言うギアに、体当たりをするように抱きついて。
わたしは、おやすみのキスを、夫と息子に、与えていた。
――END