ヴァンパイヤ。異世界に住まう住人。
強大な魔力と不死に近い身体を持ち、純銀製の武器でなくては倒せないと言われる最強最悪の魔物。
その詳しい生態はいまだ不明であるが、しかるべき儀式を用いれば、現世に呼び寄せることは可能であるといわれている……
昔から、自分が嫌いだった。
優秀な兄達に対するコンプレックスの塊。何もかもが中途半端で、自分でもそれをわかっているくせにどうしようもできないところ。
人は俺のことを優しいと言うが、違う。俺の優しさは本当の優しさなんかじゃない。
ただ甘いだけだ。同情して優しくしてやる理由は、自分自身が罪悪感を感じたくないから。
こんな卑怯な自分が大嫌いだった。
騎士の家系に生まれたことを疎んだことはない。けれど、生まれたときから自分の人生にレールが引かれていたことに、疑問を感じ不満を感じ……そのくせ、家族に見捨てられることを恐れてそれを表に出すこともできなかった、そんな臆病な自分を軽蔑すらしていた。
だから、悪魔が俺に囁いたとき……その誘惑に負けてしまった。
取り返しのつかない失敗をしたと悟ったところで、今更後戻りは……できない。
家の本棚に眠っていたその本は、ほこりを被って、長いこと誰も手を触れていないようだった。
俺がそれを偶然から見つけたのは、運命なのか。
開いたページに書かれていた言葉は、文字通り悪魔の囁き。
何の努力もすることなく、力を手に入れる、自分を変えることができるというその内容に、俺は……どうしようもなく心が揺れた。
――全く、クレイにも困ったものだ。
――あいつだって、才能はあるはずなんだけどな。
――才能があったってそれを使いこなせなきゃしょうがないだろ。まあ、人には向き不向きがあるからしょうがないって。
偶然立ち聞きした、おじいさまと兄さん達の会話。
ああそうだ。その通りだよ。
俺に才能があるのかなんてわからないけど……俺は騎士になんか向いてない。
人に剣を向けることをためらう騎士がどこにいる? 優しさなんかじゃない。ただ自分の手が血にまみれるのが怖い、そんな卑怯な騎士がどこにいるんだ。
どん、と壁を拳で殴る。
それを自分でわかっていながら、家を出る覚悟も持てない自分がどうしようもなく嫌だった。
だから……俺は、悪魔の囁きに耳を傾けた。
目の前に広がる森。
ドーマという村の近くにある森は、本当に何の変哲もない森だった。
だが、儀式を行うのに都合のいい森だった。
月明かりが遮られることなく森全体に降り注ぎ、街から近すぎず遠すぎず、滅多に人は通らない。
ここに来るまでの道のりで手に入れておいた道具を、森の要所要所に置いていく。
本に書かれた通りならば……俺でも使えるはずなんだ。
俺に魔力は備わっていないけれど、道具さえ確かなら使える儀式だと、そう書かれている。
全ての道具を設置し終わったところで、森の中心部らしき場所に立つ。
大きな木の裏側。程よくスペースの開いたそこに本を開き、書かれた通りの呪文を唱える。
その瞬間……本からまばゆい光が立ち上り、森全体を怪しく包み込んだ。
時間の流れを遮断する儀式。そんな大層な儀式が、まさか本当に成功するとは思わなかった。
光に包まれた瞬間、風のそよぎも、鳥達の鳴き声も完全に止まってしまった森の中で。俺は次の準備に取り掛かった。
複雑な模様が書かれた紙の四隅にろうそくを立て……後は、呪文を唱えるだけだ。
その瞬間、俺の脳裏を、微かな声が囁いた。
……本当にいいのか?
後悔しないのか?
そんな方法で自分を変えて……それで、満足なのか?
それは、良心という名の声。
ああ、わかっているさ。自分がどこまでも卑怯な人間だということは。
こんな方法が間違っているってことなんか、自分が一番よくわかってるんだ。
でも、俺には……もうこれしか、すがるものが無いんだ。
自然に口をついて出たのは、全てを終わらせる……呪文。
「出でよヴァンパイヤ。我に能力を与えよ。我が名は……クレイ」
その瞬間。
魔法陣から、すさまじいまでの「気」のようなものが溢れ出てきた。
それは、恐らく魔力、と呼ばれるものなんだろう。魔力の無い俺にはよくわからないが、そんな俺でも実感できるまでのすさまじい力。
呼吸することすら辛い。俺がぎゅっと目を閉じたそのとき。
『我を呼び出したのはお前か……』
響いてきたのは、不気味な声。
何だ、この声は……
これが……ヴァンパイヤの声なのか!?
『答えろ。我を呼び出したのは、お前か』
「……そう、です」
情けないことだけれど、声が震える。
自分で呼び出しておきながら……俺は、何をやっているんだ。
自分を変えたくてやったことじゃないか。堂々としていなくて……どうする。
顔をあげる。しっかりと前を見据える。そこには何の実体もなかったけれど……
『何故、我の力を求める』
聞こえてきたのは、質問だった。
それはある意味聞かれて当然の質問。例え魔物だろうが、理由も無く力を貸してくれるなんて、そんな甘いものじゃないだろう。
だけど、答えは一つしかない。迷うことなんか何も無い。
だから、俺は言った。全てを破滅させる、その一言を。
「自分を変えたいからです。俺は……自分自身が嫌いだから。あなたの力を借りてでも、自分を変えたかった。それが答えです」
そう答えた瞬間。
まわりに立ち込めた怪しげな「気」が、いっせいに俺に向かって押し寄せてきた。
それからどうなったのかはわからない。
どれくらい倒れていたのかもわからない。
身体の中で恐ろしいほどの魔力が満ち、頭の中で何かがわんわんと叫んでいる。
立っていることすらできなくて地面に倒れこんだ……それが、最後の記憶だった。
そして。
再び目が覚めたきっかけは、酷く場違いな、明るい声。
「おーい、大丈夫か?」
思ったよりも近くで響いた声に、俺は再び意識を取り戻した。
……一体、何がどうなったんだろう?
考えたけれど、よくわからなかった。一体、俺は……
感じたのは、強烈な喉の渇き。ただ、それだけだった。
「大丈夫かよあんた。具合でもわりいのか?」
再び耳元で聞こえた声に、俺は顔を上げた。
そこに立っていたのは、俺と同い年か、いくらか年下に見える赤毛の男。
ひょろりとした体格だが、弱々しさは一切感じない。暗い森には不釣合いな明るさと強さを持っているのが、一目でわかった。
「……ああ、大丈夫だ。ありがとう、心配してくれて」
そう答えて立ち上がる。
男は、俺をまじまじと見つめていたが、その目には特に不審そうな色は浮かんでいない。
……そうか、見た目が特に変わった、ということはないのかな?
いや、もしかしたら、あれは全て夢だったのかもしれない。
俺がそんなことを考えていると、男は、不思議そうに声をかけてきた。
「あんた、見かけねえ顔だな。旅人か?」
旅人。……まあ、そんなところだろう。
旅と言うほど遠くから来たわけじゃないけれど。
「ああ、そんなところだ。そういう君は、その先の村の人かい?」
「そうだよ。ドーマっつう街だ。村じゃねーぞ」
「ああ、これは失礼」
……街?
俺の知っているドーマは、「街」と言えるほど大きなところじゃなかったはずなのに。
……まさか。
慌てて立ち上がる。頭の中を、不吉な考えがうずまいていた。
「んで、あんたこんなとこで何してんだ?」
「ああ、道に迷ってしまってね。喉が渇いて、動けなくなったんだ。近くの街で一泊しようと思ってたんだけど、よかったら、案内してもらえないか?」
とっさについた嘘にしては上出来だ。
とにかく、確かめたい。まさか、だけど。俺の考えが合っていれば……
「ああ、別に構わねえよ。すぐそこだぜ」
男は、すぐに頷いてくれた。
いい奴だ。明るくて強くて、そして内に秘めた優しさを持っている、そんな奴に違いない。
こんな奴が友達にいたら……俺は、あんな儀式に頼らずとも、変われていたかもしれないのに。
「ありがとう。俺はクレイ。君は?」
「トラップと呼んでくれ。動けるか?」
トラップ、と名乗った男の声に、俺は歩こうとしたが……すさまじい頭痛がして、結局木にもたれかかった。
酷く喉が渇く。何なんだろう? 力が入らない。
俺は……
「いや、悪いが、ちょっと無理らしい」
「しゃーねえな。水持ってきてやるからここで待ってろよ。どうせすぐ近くだ」
俺の答えに、トラップは背を向けた。
目にとびこんできたのは、赤毛の間に見える、白い首筋……
瞬間こみあげてきた衝動を、俺は、説明できなかった。
何なんだろう、この感覚は。俺は、一体……
頭の中で、歓喜の声が響いた。
「……いや、それには及ばない」
気がついたとき、俺は……
トラップの肩をつかんで、その首筋に歯をつきたてていた。
我に返ったとき、俺の前には……真っ青な顔をしたトラップが倒れていた。
ひどく冷たい身体。脈も全く無い。首筋には、禍々しい赤い傷口。
俺は、一体……
(それが、我らの力を手に入れるということよ)
!?
頭の中に響いたのは、召還の瞬間に響いたのと同じ声。
(我が力を手に入れたお前は、これからヴァンパイヤとして生きるのだ)
「ヴァン……パイヤ?」
(そうとも。身体を作り変えるのに何十年もかかってしまった。お前はこれから、人間の血をすすることによって魔力を保持しながら、永遠に生き続けるのだ)
「何……だと?」
(血をすすり、眷属を増やし、そうして永遠に生き続けろ。望んでいた力を手に入れることができたのだ。もう誰もお前を笑うものはいない。お前はこの世で最強の生物となれたのだから)
何、だと。
俺は……そんな風に変わりたかったわけじゃない。
他人を犠牲にしてまで生き延びたかったわけじゃないんだ!!
「ふざけるな! そんなことが……」
(甘い人間だ。だが能力は申し分無い。惜しい……まあ、いずれわかるだろう。自分がそうして生き続けるより他に道が無いということは)
それだけ言うと、声は完全に沈黙した。
そうして生き続けるより、道が……
「はっ、ははっ……」
俺は笑うしかなかった。自分がどれだけ愚かだったかを悟って。
「ははっ……ははははっ……」
空を仰ぐ。夜は、まだ当分明けそうになかった。
それから後のことは、よく覚えていない。
ただ、自分の欲望の赴くままにさまよい歩く日々。
喉の渇きを感じては手近な人間の血をすすり、日の光にさらされれば動けなくなり……そうしてさまよい続けてたどり着いたのは、シルバーリーブという小さな村の近くにある、誰も住んでいない古城だった。
感覚は完全に麻痺してしまっている。俺は、身も心もヴァンパイヤに成り下がってしまったんだろうか?
最初は罪悪感にさいなまされた血をすするという行為も、そのうち気にならなくなった。
……俺は、こんな風に変わりたかったわけじゃない。
最初のうちこそそう思っていた。だが、血をすすり続けるうち、いつの間にか……俺は、手にした力に満足感すら得るようになっていた。
他人を傷つけることが怖い、臆病な自分が嫌いだった。
だけど、今は違う。望んだように変われたわけではないが、手に入れた力は……素晴らしい力だ。
そうだ。素晴らしい力に違いないんだ。
そうして屍のように城に住み着いてから数日後のことだった。
あのときの男が、再び俺の前に現れたのは。
鮮やかな赤毛と、羨ましいほどの明るさと強さを兼ね備えた男。
トラップ。俺が殺した……男。
俺の身体に住み着いたヴァンパイヤは、色んなことを教えてくれた。
俺が血を吸った相手は、眷属になり、俺と似たような性質を持つことになる、と。
一目でわかった。きっと、トラップも。
誰かの血をすすることで、こうして生き延びているんだと……
「待っていたよ、トラップ」
言葉は自然に出てきた。
そうだ、俺は会いたかった。
自分には無い強さを持つこの男に、会いたかったんだ。
友達になりたいと思ったから。彼が友達だったなら、俺はきっと変われていたに違いないと思ったから。
そして、今は……同じ力を持つ、同士として。
「てめえ……俺に何したんだ……そもそもてめえは何者だ?」
トラップの瞳は、怒りに燃えていた。
ああ……そうか。
お前は、何も知らないんだな。そうだな。俺が初めて血を吸った相手だからな。
ならば、教えてやらなければ。素晴らしい力を与えてやったことを。
「言っただろう? 俺はクレイ」
「名前なんざ聞いてねえ! おめえは……あのとき何を……」
「トラップ、もうわかってるんだろう?」
言いながら立ち上がる。何も知らない無知な眷族に、教えてやらなければならない。
俺達の身体に宿る、素晴らしい力のことを。
「俺は君の血を吸った。君は一度死んで、そして吸血鬼として復活した」
「……吸血鬼、だと?」
「そうだ。俺はヴァンパイヤ。光栄に思えよ、トラップ。おまえが最初の吸血鬼だ。ヴァンパイヤに最初に血を吸われた人間なんだよ」
トラップの顔には不審そうな表情しか浮かんでいない。
ああ、そうか。吸血鬼、という概念すら知らないのか。
「吸血鬼。ヴァンパイヤの眷属だ。他人の血をすすることで魔力を補充する必要があるが、そのかわり、魔力がある限り永遠に生きることすら可能になる。それは素晴らしい力なんだよ」
だが、俺の答えに、トラップは満足しなかったようだ。
無理も無い。目覚めて間もないうちは、力を実感することはできないだろう。
そのうちわかるだろうさ。自分が素晴らしい存在になれたということは。
「てめえ……よくも……」
「力を与えてやったのに、不満そうだな? トラップ、これでお前も、不老となり、すさまじい魔力を手に入れたんだぞ? 今はまだ、使い方もわからないからそれが実感できないだけだ」
「誰が……誰がんなこと頼んだ! 俺は、俺はっ……いらねえ……そんな力なんざいらねえ! 他人を犠牲にしなきゃ保てねえ力なんざ何になる!? 俺を戻せ、人間に戻しやがれ!」
「悪いな、トラップ。それはできない」
トラップの問いに、俺はそう答えてやるしかなかった。
そう、無理なんだ。俺も、お前も、もう人間には戻れない。
俺達は、もう死んでいるんだから。
「一度吸血鬼になってしまったら、もう二度と戻せない。おまえは吸血鬼として生きるしかないんだよ……身体を焼き尽くされるか心臓に杭を打ち込まれるかでもしない限り、死ぬことすらできない」
「あんだと……?」
「それに、犠牲にするというのも間違いだよ。君に血を吸われても、相手は死ぬわけじゃない。厳密に言えば、血を吸われた直後の状態は、仮死状態って奴だ。その間に感染した血液が身体を作りかえ、吸血鬼となって復活するんだ」
「……な、に……?」
俺の答えに、トラップは酷くショックを受けたようだった。
そのまま、城を飛び出していく。
……トラップ。お前もいずれわかるさ。
素晴らしい力なんだよ。そう、本当に素晴らしい。
そうでも思わなければ……正気を保っていられないぞ?
死ぬことすらできない永遠に近い時間を、生き続けるんだからな。
それから、俺は城を拠点にして、喉の渇きを癒すため血をすすりに行く以外はひたすら城で空を眺めていた。
おじいさまも兄さん達も、もしかしたらもう死んだかもしれない。
召還をしたあの日から、もう何十年という月日が流れてしまったようだから。
変わった自分を見せてやりたかった相手は、もういない。
ただ無為に時間だけが流れていたが、そんな俺にも、一つだけ楽しみができた。
俺が友達になりたいと願った男、トラップが、「クレイを倒す」と息巻いて、たまに城を訪ねてきてくれるようになったことだ。
俺が相手をしてやるたび、トラップは確実に強くなっていった。
そうだ、どんどん強くなれ、トラップ。
お前が認めなくても、俺はお前を親友だと思いたい。親友になりたいんだ。
唯一俺と対等に渡り合える力を身につけてくれ、決して諦めないその強さを俺にわけてくれ、トラップ。
やがて俺は城に結界を張った。トラップを鍛えるために。
彼は、最初のうちこそ結界に弾かれていたが、やがて何なく結界を解いて城に入ってこれるようになった。
確実に強くなっている。だが……
魔力は、少なくなっている。
何があったのかはわからないけれど、トラップは人間の血を吸ってはいないようだった。
それだけが心配だ。このままでは、いずれトラップは魔力が尽きて死ぬだろう。
なあ、トラップ。
もう、俺にはお前しかいないんだ。お前の相手をしていることでしか、生きていると実感できることがないんだよ。
だから、頼む。
死なないでくれ。
長い月日が流れた。
やがて、人は「吸血鬼を倒す方法」を編み出したようだった。
俺の城にも、たまに人がやってくる。もっとも、結界に弾かれて中に入ることはかなわないようだったが。
トラップは、大丈夫だろうか?
俺はそれだけが心配だった。俺自身のことよりも、彼のことが心配だった。
トラップには死んで欲しくない。心から、そう思っていた。
そうして、たまに訪れるトラップを見ては、「まだ生きていてくれたか」と安心する日々が続いた。
そんなとき……俺は、彼女に出会った。
ああ……失敗したな。
どくどくと流れる血を感じて、俺はつぶやいた。
普段なら、こんな傷口はすぐに塞がるのに。
身体にめりこんだのは、純銀の……弾丸。
純銀製の武器は、ヴァンパイヤの身体を唯一傷つけられる武器。
もちろん、小さな傷なら問題は無いのだけど。
この傷口は、まずかった。下手したら致命傷だ。
血をすするために外に出て、そして背後から襲われた。
情けない。これがヴァンパイヤの死に方か?
トラップのことが気になって、注意力が散漫になっていた……なんて言い訳にもならないだろうけど。
トラップ、お前も気をつけろよ。
人間は……この何十年か、何百年かの間に、確実に強くなっているから。
俺は、お前に死んでほしくはないんだ。……生きていてくれよ。
例え俺が死んでも。
急速に襲ってきた睡魔に、俺は身を委ねた。
「ちょっと……大丈夫?」
再び目を開けることができたのは、耳にとびこんできた心地よい声のおかげだった。
ふっと意識が浮上する。……どうやら、俺はまだ死ねなかったらしい。
そこに立っていたのは、前髪だけをピンクに染めた、美しい少女だった。
「……君、は?」
「わたし? わたしはマリーナ。この近くの森に住んでいるのよ。……ねえ、あなた大丈夫なの?」
「ああ……」
ふと気がつけば、身体から弾丸は取り除かれていた。
彼女が……マリーナがやってくれたんだろうか?
……ああ。ちょうどいい。
彼女の血をすすれば……こんな怪我は、すぐに塞がるだろう。
ふっと身を起こす。そのまま、マリーナの肩に手を伸ばそうとして……
そのまま突き飛ばされた。
ガン、という衝撃が後頭部に響く。
な、何……
「駄目よ、まだ起きちゃ! 酷い怪我だったもの。待っててね、すぐに消毒するから」
そう言うと、マリーナは手早く俺の傷口に包帯を巻きつけていった。
……そんな必要は無い。
君の血さえすすってしまえば、すぐに塞がる怪我だ。
そう言って、そしていつものように血をすすって、それで終わってしまうはずだったのに。
何故か、俺は彼女から目を離すことができなくなっていた。
ずっと自分の居場所を捜していた。
孤児のわたし。捨てられていたわたし。
そんな自分が、ひどくちっぽけな存在に思えて、わたしはわたしが嫌いだった。
「マリーナ、ちょっと、用事頼んでいい?」
「いいわよ。何?」
わたしを拾って育ててくれたのは、森の中の大きな小屋に住んでいる、木こりのノルとメルの兄妹。
彼らはいい人だ。血の繋がりも無いわたしを、本当の妹、あるいは娘のように可愛がってくれる。
だけど、それでも、わたしの心は満たされない。
わたしは愛情をもらえずに捨てられた。拾われたのは同情から。そこに捨てられていたのがわたしじゃなくても、人のいい彼らは同じように可愛がって慈しんで育てただろう。
わたしが欲しいのは、わたしだけに向けられる愛情。
口には出せないけれど。わたしは随分小さい頃からずっとそう思っていた。
だから、あの日。
森の中であの人を見かけたとき、わたしは、心臓が止まるような衝撃を味わったのだった。
ノルに言われて、薬草を摘みに森の中へ入った。
最近、この辺も随分物騒になっている。化け物に現れる、襲われて何人も死んだ、死んだと思ったら生き返って……そいつ自身が化け物になった。
たまに街に出ると、どこもかしこもそんな噂で持ちきりだった。
怖くないと言えば嘘になる。だけど、わたしにはもっと怖いものがある。
聞き分けのいい娘を演じていなければ、「居させてもらっている」居場所を追い出されるのではないかという、そんな思い。
ノルもメルも、わたしが反抗したところで追い出すような人たちでないのはわかっている。
けれど、それでもわたしは怖かった。だから、頼まれたことは何でも「はい」と答えるようにしていた。
薬草がなかなか見つからなくて、辺りがすっかり暗くなってしまって。それでも、「見つからなかった」と帰ることが怖かった。
だから、必死に探した。
そのときだった。わたしの目に、倒れている人影が飛び込んできたのは。
「え……嘘、大丈夫!?」
慌ててかけよる。随分と長身な男性。
その腹部から溢れる血を見て、わたしは一瞬青ざめた。
酷い怪我。すぐに手当てしないと。
男性はぴくりとも動かなかった。その身体はとても冷たかったけれど、それでも、微かに息はしていた。
わたしは、持っていたナイフで彼の服を切り裂いて、傷口から弾丸を取り出した。
鈍く光るそれは、純銀の弾丸。
……こんな弾丸が、何故? 誤射……?
「う……」
男性が小さくうめくのを聞いて、わたしは慌てて、彼を地面に横たえた。
そして、初めてその顔をじっくり見る……その瞬間、心臓がとびはねるかと思った。
何て、綺麗な人……
さらさらの黒髪と長身に均整の取れた身体、その顔立ちは、これまでに見たこともないほど綺麗な……そう。美形、という言葉がぴったり当てはまる、そんな人。
ゆっくりと目を開ける。その目を覗き込んで、わたしは言った。
「ちょっと……大丈夫?」
マリーナ、と名乗った娘は、俺がヴァンパイヤだということに気づいてないようだった。
どうやら、薬草を取りにこの森に来たらしいけど……
「大丈夫? 医者に行った方がいいわよ。本当にひどい怪我だったから。ねえ、何があったの?」
「……ちょっと、森をふらついていたら……獣か何かに間違われたみたいだね。……助かったよ。ああ、医者はいい」
肩を貸そうとするマリーナの手を遮って、俺は立ち上がった。
幸い、弾丸は取り除かれている。多分、放っておけばそのうちふさがるだろう。
そのまま、マリーナに背を向ける。何故かわからないけれど、彼女の血は吸いたくないと思った。
このまま見ていたら、衝動を抑えられなくなるのではないかと……それが怖かった。
だけど、マリーナは、俺のマントをつかんで離そうとしなかった。
「マリーナ?」
「放っておけないわよ! そんな怪我で、医者に行かないなんて……」
「大丈夫だよ。見た目ほどひどい怪我じゃない」
我ながら下手な嘘だと思った。傷の手当てをしてくれたのは彼女なのに。
だけど、マリーナは俺が自分の足で歩いているのを見て、それは疑わないことにしたらしい。
「じゃあ、せめて家まで送っていくわ。あなたの家は、どこなの?」
「……ありがとう」
家、と呼べるかどうかはわからない。ひょっとしたら、彼女はあの城に住んでいるのがヴァンパイヤだと知っているのかもしれない。
だけど、何故か……俺は、マリーナと離れたくないと思った。
一緒にいたら血を吸ってしまうかもしれない。だから一緒にいたくないという思いと、離れたくないという矛盾する思い。
一体、どうしてしまったんだろう? 何故、彼女のことがこんなに気にかかるんだろう?
答えが出ないまま、俺はマリーナの肩を借りて、城へと戻った。
この人は、どういう人なんだろう……
クレイ、と名乗った彼が案内したのは、ズールの森の奥深くにある古城。
けれど、そこに住んでいるのは彼一人ということだった。
王族という雰囲気は無い。王族なら、わたしみたいな小娘になれなれしい口をきかせるはずがないもの。
……貴族? それとも、領主?
わからないけれど、彼が誰でもいいと思った。
今、わたしに向かって微笑んでくれて、「助けてくれてありがとう」と言っている。それだけで十分だと思ったから。
「本当に、助かったよ。マリーナ」
城に辿りついて、ほんの少しお話しをして。
それだけで、クレイは「もう遅いから帰った方がいい」と言った。
確かに、もうかなり遅い時間で、ノル達が心配しているだろう。
帰りたくないけれど、そう言ってクレイを煩わせて、追い出されるのが嫌だったから、わたしは素直に立ち上がった。
でも……どうしても、この一言だけは言いたかった
「ねえ、またこの城に遊びに来てもいい?」
わたしの言葉に、クレイはただ優しく微笑んで、そして頷いた。
結局薬草を手に入れられないまま小屋に戻ってしまった。
ノルはそれはそれは心配して、捜しにまで出かけてくれたらしいけれど。
わたしが無事に戻ってきたのを見て、薬草のことなんか一言も触れずに「無事でよかった」とだけ言ってくれた。
とても無口で、でもとても心の優しい人。
わたしは、もっとわたしに素直になってもいいのかもしれない。
例え……例え、それでノル達に嫌われるようなことがあっても。
クレイがいるから。
会ったばかりの人が、どうしてこんなに気になるのかわからないけれど。
そう思ってしまう自分がいた。
それから、わたしは三日とあけず、城に顔を出すようになった。
わたしの、わたしだけの居場所。
それがこんなに素敵なものだったなんて。
トラップに続いて、マリーナが顔を出してくれるようになった。
それだけで、こんなにも心が穏やかになるのは……何故だろう?
以前なら、どうしようもない孤独感にさいなまされたとき、自分の力を確信するために、ただそれだけのために血を吸いに出かけたりもしたのに。
最近は、そんな気にもなれない。魔力は弱っていくのかもしれないが……
マリーナの血を吸うことに比べたら、彼女のどこかはかなげな笑顔を奪うことに比べたら、そんなことは何でもないことだ。
トラップが来る日はマリーナに用事があるからと断り、マリーナが来る日はトラップが入れないようにより強力な結界を張った。
何故だか、彼女にトラップを会わせたくなかった。
俺から見ても、トラップは魅力的な男だ。俺には無い強い意志、生きようとする力に溢れている。
彼女がそれに触れるのが怖かった。そして、何より。
トラップがもし、マリーナの血を吸うようなことがあったら。
そうしたら、俺はトラップを殺してしまうかもしれない。二人を同時に失うことになるかもしれない。
それが怖くて、魔力のアンテナを常に張り巡らせて、二人の出会いを阻止していた。
幸いなことに、それはとてもうまくいっていた。
トラップとの小競り合いは楽しかったし、マリーナと交わす何ということの無い会話は心が穏やかになった。
「おめえ、最近何か変わったな」
もう何百回繰り返したかわからない争いの後、トラップはぼそりと言った。
「そうかい?」
「ああ。何つーか、雰囲気が優しくなった」
言ったそのすぐ後で、「あに言ってんだ俺は。ヴァンパイヤ相手に」などとぶつくさ言っているのが聞こえたけど。
鋭いな、トラップ。
俺には、お前以外にもう一人、生きていると実感できる相手と出会えたんだ。
騎士としてでなく、ただのクレイとして慕ってくれる相手。
そんな相手は、初めてだったから。
「マリーナ、最近明るくなったね」
クレイと出会って、彼のところに何度となく顔を出すようになって。
そんなある日、ノルに言われた言葉。
「わたしは、いつだって明るいわよ?」
そう言っておどけてみせると、ノルはとても優しい目でわたしを見て首を振った。
「以前のマリーナは、心から笑ってなかったように見える。でも、今は、とても楽しそうだ。よかった」
……気づかれて、いた?
何も言わなかったけれど、ノルはいつでも……わたしのことを、ちゃんと見てくれていた。
それがわかっただけで、とても幸せな気分になれる。
クレイに出会ってから、わたしの生活は変わった。
嫌われるんじゃないかと怯えることもなく、無性に寂しくなることもなく。
わたしの素性は何も言っていない。ただの「マリーナ」として優しくしてくれた相手は、初めてだったから。
同情じゃない愛情を向けられたのは、初めてだったから。
会えば会うほど好きになっていく。それでも、止められない。
クレイほどかっこいい人なら、わたし以外に相手はいくらでもいるだろうから。きっと叶う思いじゃないだろうけど。
でも、心の中で思うくらいは、許してもらっても……いいよね?
ただ、傍にいてくれるだけでよかったのに。
ただ、思い続けているだけで満足だったのに。
「……マリーナ」
クレイに出会ってから数ヶ月が過ぎたある日。
ノルは、思いつめたような顔でつぶやいた。
「最近、マリーナがしょっちゅう出かけているのは……あの古城?」
ノルの言葉に、一瞬息が止まるかと思った。
わたしは、クレイと会っていることを誰にも教えていなかった。
わたしの、わたしとクレイだけの秘密にしたかった。
まさか、知られていた――?
「どうして?」
否定もせず、肯定もせず、わたしはただ聞き返した。
隠すようなことじゃない。責められるようなことでもない。そう……想うだけなら、自由のはず。
だけど、次の瞬間。わたしは、一瞬目の前が暗くなった。
「だとしたら、もう行っちゃいけない。あの城に住んでいるのは……」
普段無口なノルが、珍しく必死に何かを言っている。
偶然わたしが城に向かうのを見かけたと。街の人から城に住む悪魔の噂を聞いたと。
出会う人間を片っ端から殺していった、「黒髪の悪魔」と呼ばれる恐ろしい化け物。
幾人もの人間が彼を殺そうとして、逆に返り討ちにあっていること。
そんな言葉が耳に届いているけれど……
認めたくない。まさか、まさか……
だって、彼はいつも優しかった。わたしが来ると、嬉しそうに微笑んでくれた。
まさか……
「マリーナ!」
ノルの声が背後から響いたけど、わたしはじっとしてはいられなかった。
城へ。クレイの元へ。
話しを……聞かなくちゃ。
「……なっ!?」
「うおっ!?」
突然足を止めた俺の前で、トラップがよろめいた。
「急に止まんなよ! それともおめえ、それは新しい嫌がらせか?」
彼の文句を聞いている暇も無い。
張り巡らせたアンテナに、一つの反応がある。
間違いない……マリーナだ。彼女が、ここに向かっている。
それも、ひどく焦って。
「トラップ、帰れ」
「……はあ? おめえなあ、まだ決着は……」
「いいから帰れ!」
言い争いをしている時間も惜しい。
次の瞬間、俺は魔力を使ってトラップを城の外に弾き飛ばしていた。
トラップのことだ。死ぬことはないだろう。
耳に残る罵声は、脳に届く前に消滅する。
即座に入り口の結界を解いた。マリーナがこれほど焦ってここに来るなんて……何か、あったのだろうか?
入り口に向かう。ほどなく、ひどく青ざめた顔のマリーナが、姿を現した。
「やあ、マリーナ。どうしたんだい? 今日は……」
「クレイ!」
走りよってくるマリーナ。そのまま、彼女は……
勢いを殺すことなく俺にしがみつき、強引に唇を押し当ててきた。
――なっ……!?
何をされたのかわからなくて、一瞬唖然とする。
その間に、彼女の小さな唇が俺の唇を割り開くようにして……
瞬時に悟った。彼女が何をしようとしているのか。
突き放そうとしたけれど、もう遅い。温かい舌が、牙をなぞる感覚。
「やっぱり……そうなの?」
俺の表情から悟ったのか、マリーナは、今にも泣きそうな顔でつぶやいた。
「やっぱり、あなたは化け物なの? ヴァンパイヤ、『黒髪の悪魔』……それはあなたのことなの? クレイ」
……これほど後悔したことはない。
この力を手に入れたことを、これほどまでに呪ったことはない。
彼女の泣き顔を見るくらいなら……どうしてもっと早く命を絶っておかなかったのかと。
それほどまでに後悔したけれど、もう遅い。
「……マリーナ」
「答えて」
マリーナの目は、まっすぐに俺を見つめていた。
……ごまかせない。ならば……
「そうだ。俺はヴァンパイヤ。大勢の人を殺したのも、事実だ」
マリーナの顔が蒼白になる。
全てを話そう。君に、これ以上嘘を言いたくはないから。
それで俺を受け入れてくれないというのなら……それは仕方の無いことだから。
「聞いてくれ、マリーナ。俺は騎士の家に生まれた。けれど、俺は自分が嫌いだったんだ……」
俺の言葉を最後まで聞いても、マリーナは逃げなかった。
目の前にヴァンパイヤがいるというのに、その顔に、もう怯えは無かった。
「逃げないのか?」
「逃げる? 何故?」
その頬を伝っているのは、涙。
「あなたはわたしにとても優しかった。わたしはあなたにとても心惹かれていた。……それじゃあ、いけない? わたしのこの思いは、迷惑?」
マリーナの言葉に、大きく首を振る。
そんなわけがない。
マリーナの思いは……むしろ、待ち望んでいたものだった。
俺もわかっていたから。彼女のことが好きなんだと、わかっていたから。
「君のことが、好きなんだ」
「わたしもよ」
「俺が、ヴァンパイヤでも?」
「わたしが、捨て子で、何の取り得もなくて育ての親の愛情を疑うような、そんな子でも?」
目をそらすことなく、俺達は頷きあった。
「クレイと、ずっと一緒にいたい」
「……俺はヴァンパイヤだ。君とは、一緒に年を重ねることもできない」
「じゃあ、わたしをあなたの仲間にしてくれる……?」
「……元には戻れない、引き返せない道だよ。君をそんな風にはしたくない」
「わたしの幸せは、あなたと一緒に過ごすことだから。それでも……駄目?」
どちらからともなく、俺達は、抱き合っていた。
目の前にとびこんでくる、マリーナの白い首筋。
そこに、ゆっくりと牙を押し当てる。
「ねえ、クレイ。お願いがあるの……」
「…………」
顎に力をこめる。柔らかい皮膚をあっけなく突き破り、口の中に甘い味が広がる。
「わたしで、血を吸うのを最後にして……? あなたがこれ以上苦しむのを、見たくない。あなたの心は、わたしが満たしてあげたいから……」
軽く頷くと、マリーナは満足そうに微笑んだ。
誰の血をすすっても、心からの満足は得られなかった。
マリーナの血が、こんなにも甘いのは……何故だろう?
クレイと二人の生活は幸せだった。
わたしはもう人間じゃなくなってしまった。怪我をしてもすぐにふさがり、時々満たされない渇きに苦しむことになった。
けれど、苦しいとき、いつもクレイが傍にいてくれた。
それだけで、十分に満足だった。
だけど、わたしはやっぱり、とても浅はかだった。
彼と一緒にいたくて、彼の寂しさを埋めてあげたくて、そして自分の寂しさを埋めたくて。
そうして、何も考えずにここに来てしまった。
それが、彼を命の危険にさらすことになるなんて……思いもしないで。
「城の外が、騒がしいな」
クレイの言葉に、わたしはふっと窓の外を見た。
そして、息をのんだ。
……いつのまに!?
城の外を、灯りがとりまいている。
吸血鬼になって、暗闇でもある程度目が見えるようになった。その中の一つに、視線が吸い寄せられる。
……ノル!?
とても心配そうな顔で、何かを言っている。城を指差している。
まさか……わたしを捜して?
「また、いつもの連中か。心配いらないよ、マリーナ……君は、どこかに」
「やめて!」
思わず叫んでいた。クレイの顔が、驚きに強張る。
「やめて、わたしの……わたしを育ててくれた人がいるの。お願い、力は使わないで、傷つけないで!」
わたしがそう叫ぶと、クレイはしばらく黙って外を見て……そして、いつもの優しい顔で、頷いた。
「俺と一緒にいることを、選ぶんだね?」
「ええ」
「わかった」
迷わず頷くと、クレイはわたしの手を取って……
そのまま、力を使った。
ふっ、と身体がかすむような感覚。
気がついたとき、わたし達はズールの森の外れに飛んでいた。
「城にいたら追いつめられる。とりあえず、逃げよう」
微笑むクレイに一つ頷く。
だけど……どこに逃げればいいの?
以前よりも断然鋭くなった耳に、切れ切れに会話が聞こえてくる。
――城はもぬけの空だ。
――逃げたか?
――捜せ、遠くには行ってないはずだ。
――マリーナが……娘が捕まってるんです。お願いします。
最後の声は、ノルの声だった。
娘……
ノル。ごめんなさい。
ぎゅっ、と自分の身体を抱きしめる。
クレイと一緒にいたいと思った、その気持ちは嘘じゃない。
そのために吸血鬼になるしかなくて、それを嫌だと想ったこともない。
だけど……ノルの声を聞いて、わたしは、一瞬とはいえ後悔してしまった。
もう人間には戻れないのに。もうノルの元へは戻れないのに。
わたしは……
「マリーナ」
声をかけられて振り向く。クレイの目は、どこまでも穏やかだった。
「俺のことなら、気にしなくてもいいんだよ?」
……クレイ。
一瞬の見詰め合い。だけど、それはすぐに邪魔をされた。
――犬に追わせろ!
――シロ、マリーナの匂いを追ってくれるか?
届いた声に、顔が強張るのがわかった。
シロ、とは、ノルと仲が良かった野良犬の名前。
だけどとても賢い犬で、わたしにも懐いてくれていた。
――わんデシ! わんデシ!
――そっちか!?
確実に近づく足音。
「……まずいな」
早く逃げなくちゃ。そう心ではわかっているのに。
ノル、メル、シロ。
自分から捨てたはずなのに、声を聞くと、平静ではいられなかった。
一瞬の迷い。クレイは、一人で逃げ出すことも、早くしようとせかすこともしなかった。
そこに……一発の銃声が、響いた。
どうにか追っ手を巻いたときには、もう夜が明けかけていた。
傷口から溢れる血は止まらない。クレイの顔が、苦しそうに歪んでいた。
わたしを庇って、彼は自分から傷ついた。
ぐずぐずと迷っていたのはわたし。わたしのせいで、彼が傷つけられた。
わたしがここに来たせいで、追っ手が差し向けられた。
……心が痛い。
「クレイ……」
「大丈夫……弾は貫通してる。いずれ、塞がるから」
わたしが声をかけると、クレイは酷く青ざめながら、それでもわたしを元気付けてくれた。
……駄目。
やっぱり、わたしは彼の傍にいちゃいけない。
きっと、こんなことはこれからも続く。いずれ、わたしが彼の命を奪うことになる。
だって、わたしには人間を傷つけることができないから。自分から望んで吸血鬼になったのに、まだ、人間を愛しているから。
……中途半端なわたし。わがままなわたし。
クレイ……ごめんね。
ごめんね……
「どうして、泣くんだ?」
クレイの言葉に答えることができず、わたしは、ただ涙をあふれさせていた。
マリーナはひどく落ち込んでいるみたいだった。
……大丈夫だろうか?
俺が傷ついたのは自分のせいだと、責めてはいないだろうか?
それは違う。俺が勝手にやったことだ。避ける気になれば、逃げる気になれば簡単に逃げられた。
……マリーナ……
俺達は、城に戻ってきていた。
追っては、どうやら一度ひきあげることにしたらしい。……また来るだろうけど。
さすがに、疲れた。
どうにかふさがってくれた傷口を見て、大きく息をつく。
ベッドに横たわると、すぐに睡魔が襲ってきた。
このまま眠れば、何とか体力も戻るだろう。
そのまま目を閉じようとしたときだった。
トントン
小さく響くノックの音に、身を起こす。
この城には、俺以外には彼女しかいない。
「どうした?」
「クレイ……」
すっ、と部屋に入ってきたマリーナの目は、真っ赤だった。
「マリーナ?」
「クレイ。お願いがあるの」
俺の言葉を無視して、マリーナはベッドの脇に歩み寄ってきた。
そのまま、じっと目を覗き込んでくる。
「抱いてくれる?」
その意味がわからないほど……俺も鈍くは無い。
一瞬、身体が強張るのがわかった。
一緒に暮らすようになっても、俺とマリーナは別々に寝ていた。
彼女を大事にしたかった。欲望を感じなかったと言えば嘘になるけれど。今の関係がとても気にいっていたから。
身体を重ねることで、その関係にひびが入るのが嫌だったから。
だけど……
「マリーナ……」
「抱いて欲しいの、クレイ」
そうつぶやいて、マリーナは自ら、唇を重ねてきた。
彼女の背中に手を回す。
服のファスナーをひき下ろすと、滑らかな肌が、手に触れた。
ふぁさり、とワンピースが下に落ちる。
月の明かりしかない部屋の中、マリーナの白い裸身が浮かび上がった。
……そうか。こうして見ると、彼女は随分スタイルがいいんだな。
そんなことをぼんやりと考える。
大きな胸と、しっかりくびれたウエストは、多分女性なら誰もが憧れる体型じゃないだろうか。
文句の無い美人だ。……きっと、人間のままでいたら、彼女は必ず幸せになれたと想う。
俺のせい……? 浅はかに力を求めて、浅はかに彼女を求めて、そして俺が彼女から幸せを奪った?
そんな考えを振り払うように、俺は彼女の身体を横たえた。
震える唇にくちづけると、自ら俺を求めてくる。……もちろん、それを拒否するつもりは無いんだけど。
しばらくくちづけを深め合うことだけを考えていた。熱い吐息と唾液が交じり合う。
やっぱり、俺も男なんだよなあ……
ヴァンパイヤになって、人間じゃなくなっても、やっぱり……本能には、逆らえないんだよなあ。
きっちり反応しきってる自分自身に苦笑しつつ、マリーナの身体に手を触れた。
胸は確かな弾力で俺の手を押し返し、肌はどこまでも滑らかで……明らかに俺達男とは違う体。
柔らかい。
ふっと衝動がこみあげてくる。胸に唇を当てると、マリーナは、くすぐったそうに身をよじらせた。
……可愛い。
素直にそう想ったので耳元で囁くと、マリーナは、嬉しそうに笑った。
俺ばかりに触れさせるのも癪だったのか、マリーナも、自ら俺に抱きついてきた。胸に吸い付く唇が、何だか、とても心地よかった。
物も言わずにお互いの身体を求め合う。
もっと早くにこうしたかったのかもしれない。
そして、彼女もそれを望んでいたのかもしれない?
何の根拠もないけれど、そう思った。
恥じらいを捨ててはいないけれど、あえぎ声にあまり遠慮の色は聞こえなかった。
受け入れてくれる場所に触れると、ぬるり、とした感触がまとわりついてくる。
……いいのか。もう、いいんだろうか?
「……入れてくれる?」
俺の迷いを見透かしたかのように、マリーナの艶っぽい声が耳に届いた。
「クレイが、欲しいの」
……俺も欲しい。マリーナが。
押し入るときの抵抗は、思ったより少なかった。
経験があったのか、なかったのか、それがわかるほど俺は熟練しているわけじゃないけれど。
マリーナは、笑顔なのに……目に涙が浮かんでいた。
多分、痛いんだろうな。……慣れてないんだろうな。
本当は、もっと刺激を求めていたけれど。激しく動くと彼女が苦しむかもしれない。
そう思って、限界寸前までゆっくりと動いた。
ほんのわずかな刺激。だけど、それは確実に、俺に快感を与えていた。
お互い何も言わない。響くのは、荒い吐息とあえぎ声だけ。
色々と言いたいことはあった。優しい言葉をかけてあげたかったし、嬉しいと伝えたかった。
だけど、マリーナの顔を見ていたら、何故か、何も言えなかった。
何かを決意した、そんな表情。
何となく、悟った。彼女が、何故急にこんなことを言い出したのか。
だけど……俺に、それを止める権利は、無い。
静かに彼女の中で果てた。
ぎゅっとその身体を抱きしめると、向こうも同じようにしがみついてきた。
そうやって、俺達はいつまでも抱き合っていた。
永遠にこのときが続けばいい、そんな叶わぬ願いを胸に秘めながら……
クレイが眠ってしまった後、わたしはそっと部屋を出た。
服を身につける。大してなかった荷物をまとめる。
わたしには、この思い出だけで十分だから。
火照りの残る身体を抱きしめて、わたしはしばらく、泣いた。
十分だから。クレイが死ぬところなんて見たくない。ましてや、わたしのせいで死ぬなんて……
わたしはあなたの傍にいちゃいけない。あなたが好きだから……離れなくちゃいけない。
ごめんなさい、クレイ。
未練がましい女にはなりたくなかったけれど……でも、多分あなたのことは忘れられない。
さよなら……
静かに城を出た。
もうすぐ夜が明ける。その前に……戻らなくては。
わたしは歩き出した。わたしが育った場所へと。
目が覚めたとき、マリーナの姿は無かった。
手紙も何も置いてなかったけれど、荷物がなくなっていた。
何となくわかった。もう彼女に会えないだろうってことは。
わかっていた。あのとき、彼女が吸血鬼になったことを後悔したんだろうってことは。
結局、彼女は俺とは違ったんだから。育ての親を捨てることも、人間を傷つけることもできなかった。
人間の元へ戻った。それは、仕方の無いことだ。
俺には彼女を引き止める権利なんてない……だけど、せめて最後に。
……謝らせて欲しかった。君から、人間として生きる権利を、俺のエゴで奪ってしまったことを。
魔力を使えば、多分簡単に彼女を見つけられるだろうけれど。
強引に自分の元に連れ戻したくなるだろうから、やめておいた。
しばらく、トラップが来るたびに外に弾き返していた。
次に来るときは、まともに相手をしてやろう。
また元に戻った。俺のところに訪ねてきてくれるのは、お前だけになった。
すまないな、トラップ……俺のわがままに、つきあわせて……
「おい、クレイ! おめえ最近何なんだよ!? 今日こそはきっちり相手してもらうからな!!」
響いたのは、懐かしい声だった。
……本当に、お前は俺にとって最高の友人だ。
来て欲しいときに、ちゃんと来てくれるんだから。
見慣れた赤毛が顔を覗かせる。俺はゆっくりと立ち上がった。
「やあ、すまないね、トラップ……それで? 今日はどうするんだ?」
「へっ、今日の俺はいつもの俺じゃねえぞ? おめえを倒すためになあ……」
いつも繰り返された会話。
それを今日も繰り返す。また、いつもの日常が、戻ってくる。
ノルに別れを告げたとき、彼は泣いていた。
わたしが人間じゃなくなったことはわかったんだろう。だけど、それを責めることはしなかった。
「もう、クレイは誰も襲わない。だから、彼を傷つけないで」
そう頼むと、彼は黙って頷いてくれた。
それから、わたしは旅に出た。ひとところにはいられない。わたしはもう、年を取ることもできない、吸血鬼だから。
どれくらい旅を重ねたのかわからないけれど。でも、わたしは今、幸せだ。
「おかあさーん」
「パステル。走っちゃ駄目よ」
駆け寄ってくる娘を抱き上げて、わたしはふっと空を見た。
わたしにはパステルがいる。大事な大事な娘がいる。
だけど、クレイは……大丈夫だろうか。
また、あの孤独に濁った目をしていなければいいのだけれど……
「帰ろうか? パステル」
「うん。お母さん、今日のご飯は?」
見上げる娘の頭を撫でて……ふと、わたしは身体を強張らせた。
クレイと別れてから、長い月日が流れた。
その間にも、吸血鬼は吸血鬼を生み出し、世間はその対応に追われていた。
そうして現れたのが、ヴァンパイヤハンター。
ヴァンパイヤと吸血鬼を、無差別に殺す存在……
狙われている。
わたしは、パステルの身体を抱えて走り出した。同時に、背後から鋭い足音が響く。
「お母さん? ……また、ハンター?」
「パステル、目をつぶっていてくれる?」
パステルには全て話してある。わたしのことも、父親のことも。
いずれ、彼女は自分の運命を呪うことになるかもしれない。年を取ることもできない、半ヴァンパイヤである自分を。
だから全て話した。運命を自分で切り開いてもらうために。
「お母さん……?」
パステルの声が耳に届く。
同時に、一発の銃声が、響いた。
もうどれだけ生きてきただろう。
どれだけ、人の血を吸ってないだろう?
長い長い月日が流れて、やがて俺の顔は忘れられてしまった、そんな長い時間。
最近は、俺の恐ろしい噂も大分廃れていったのか、狙ってくる人間もめっきり少なくなった。
トラップは相変わらずだったけれど。確実に力をつけているのに、血を吸わないものだから、お互い魔力の量がどんどん減っているのがわかった。
後、どれくらい持つんだろうか。そう思うと、怖い、という思いと、やっと解放される、という二つの思いが交じり合う。
だけど、最近は、トラップ以外にも城に来てくれる人がいる。
キットン、と名乗る、ヴァンパイヤの研究家。俺を見てもちっとも恐れない、とてもマイペースでとても変わった人間だが……とても面白い。
彼のおかげで、シルバーリーブにも時々足を運ぶことができるようになった。
人間と関わるのはやめようと思ったのに。血を吸わないでいれば、俺の外見は人間と何も変わらない、ばれないということを教えてくれたキットンに、感謝してしまう。
やっぱり、人と関わるのは、楽しいから。
いつのまにか行き着けの店というのもできた。猪鹿亭という名前のその店は、ウェイトレスのリタがとても気さくで、村に住んでいるわけでもない俺のことを、うさんくさがらずに受け入れてくれた。
そして、今日も夕食を食べるために、その店へ行く。
「いらっしゃい、クレイ。相変わらずいい男ね?」
「ははっ、ありがとうリタ。今日のお勧めは?」
いつもの席でのいつもの会話。
俺が来るのは夜遅くだから、他の客はあまりいない。
ゆっくり話せるから、それはありがたいことなんだけど。
水を飲むと、リタは、今日あったことを話してくれた。
珍しいことに、女の子の冒険者がこの村に来たらしい。
最近、冒険者、と呼ばれる人は増えているけれど、大抵は男だ。女の子、それも見た目は十代にしか見えないとなれば、それは確かに珍しい存在だろう。
「へえ、会ってみたいな」
「また来るって行ってたわよ。会えると思うわ」
そう言った傍から、入り口が開く音がした。
振り向く。その瞬間、走った衝撃は……一体何なんだろう?
多分、トラップより少し年下、と言うところか。
特別目を引く外見じゃないけれど、ハッとするほど笑顔が魅力的な、そんな女の子。
「やあ、君がパステル?」
俺が声をかけると、パステルは、まじまじと俺を見つめ返してきた。
どうしてだろう。君とは初めて会ったはずなのに。
何故だか、他人という気がしないのは……
「ヴァンパイヤを捜しに来たの」
そう言われたとき、驚くほど素直に、自分の居場所を教えることができた。
彼女は俺の正体を知ったら、怒るかもしれない。怯えるかもしれない。
それでも……また、彼女に会いたいと思ったから。
「初対面だけど、俺はパステルは信じてもいい子だと思った、ってだけ伝えておく」
俺の言葉に、パステルは、それは嬉しそうに笑って、店を飛び出していった。
……君は、俺の四人目の友達になってくれるかい?
トラップ、マリーナ、キットン……そして、パステル。
君は、彼らと同じように、俺を俺として見てくれるかい?
その答えが出るのは、もう少し先のことだった――