目が覚めたとき、目の前にいたのは、知らねえ女。  
 蜂蜜みてえな色の長い髪と、今にも泣きそうなはしばみ色の目。色気に乏しい身体。  
 その女は、体を起こした俺に、突然すがりついてきた。  
 ……誰だ? おめえ。  
 会ったこともない奴に、こんなになれなれしくされる覚えはねえ。  
 女を突き飛ばすと、この世の終わりみてえな顔で俺を見やがった。  
 ……誰なんだよ、てめえは。  
「あんた、誰だ?」  
 聞いた途端、女の顔が泣き出しそうに歪んだ。  
 その顔を見た途端、俺の胸の隅に走った痛みは……何なんだろう?  
   
 最近パステルの機嫌がいい。ま、俺もだけどな。  
 ギャンブルで作った借金のせいでみんなを巻き込んだクエスト。あのクエストから、俺とパステルは 
晴れて両思いになれた。  
 そう考えると、ギャンブルも悪いもんじゃねえよなあ。もっとも、誰も賛成しちゃくれねえだろうが。  
 俺の名前はトラップ。職業盗賊。ただいま、最高のお宝である惚れた女を手に入れて上機嫌。  
 何しろなあ……あの方向音痴マッパーは、俺の親友とタメを張れるくらい鈍感な女だからな。俺はず 
ーっとあいつを見てたっつーのに、その気配にすら気づかねえときたもんだ。両思いになれるまでの道 
のりの長かったこと。  
 そんな思いをもんもんと抱えながらのクエストは結構辛かったが、それももう終わりだ。クレイやキ 
ットン、ノルにもちゃんと話した。もう遠慮するものなんか何もねえ。  
 もっとも、二人きりになれるチャンスが、そうあるわけでもねえんだけどな……  
 
 俺がそのクエストの情報を手に入れたのは、たまたまカジノでヒュー・オーシとばったり出くわした 
ときだった。  
 珍しいところであうもんだ。まあ一杯、と酒を酌み交わしたところ、買い手がつかねえクエスト情報 
をタダでせしめることに成功した、ってわけだ。  
 断じて、酔っ払わせて口車にのせたわけじゃねえぞ。  
 そのクエストは、どっかの城に眠る財宝を見つける、という、まあありがちといえばありがちなクエ 
ストだった。  
 が、買い手がつかなかっただけあって、なかなか厄介そうな代物だった。  
 その城の元城主は大した財産は持ってなかったらしい。近隣でも有名な放蕩城主で、財産を湯水のご 
とく使い尽くして城しか残らなかったところでようやくその地位を追われたとかいう話だった。  
 当然城の中にめぼしいものなんざ何もねえ、はずなのに、中は罠だらけのモンスターだらけで、難易 
度だけはやけに高いとか。  
 そのとき、俺の盗賊としての勘がびびっと来た。  
 この城には、ぜってえ何か秘密が隠されてるに違いねえ。  
 もしかしたら、すげえチャンスかもしれねえな、こりゃ。  
 っつーわけで早速クレイ達に相談してみた。最初はいまいち乗り気じゃなかったみてえだが、俺の説 
得に心動かされたのか、結局は「行ってみようか」ってことになった。  
 まあな。どんな罠だろうが、この俺がいれば問題ねえって。モンスターだって、クレイとノルがいり 
ゃあ何とかなるだろう。あいつら、レベルが低い割に腕は立つからな。  
 そう言っても、パステルの奴は不安そうな顔をしてやがったが……安心しろよ。  
 おめえは俺が守ってやるから。例えこの身体と引き換えにしてもな。  
   
D 
 ところが! ちっと考えが甘かったかもしれねえ、と思ったのは、城の一階をどうにか突破したとき 
だった。  
 この城の罠、誰がしかけたのか知らねえが、相当高レベルだぞ……  
 どれもこれも一筋縄ではいかねえ罠ばっかりで、一度なんか、危うく頭ごと串刺しになるところだっ 
た。  
 こんなのが五階まで続くなんて、いくら俺でも持たねえぞ。くっそ、どーすればいいんだか。  
 クレイ達も相当疲れてるみてえだし、引き返すかあ……?  
 一瞬そう思ったが、すがりつくようなパステルの視線を受けると、「きついから帰ろう」とは言えな 
かった。  
 よーするに、男の見栄って奴だよ。惚れた女にいいとこ見せてえっていう、つまんねーもん。俺にそ 
んなもんがあるとは思わなかった。  
 気がついたら、俺は思ってることと正反対のことを言っていた。  
「だらしねえなあ。まだまだ先は長えんだぞ? ほれ、さっさと立つ立つ」  
 俺の言葉に、パステルの奴は異世界の生物でも見たかのような目を向けてきた。  
 こいつ、まさか俺がちっともへこたれてねえ、なんて思ってるんじゃねえだろうな?  
 ……鈍い女だからな、ありえそうだ。  
「ねえ、トラップ。引き返さない? わたし達じゃ、ちょっと無理だよ」  
 そのパステルの言葉に、どれだけ頷いてしまいたかったか。  
 というより、俺の台詞より前に言われていたら、俺は多分「ちっ、仕方ねえなあ」とか言いながら、 
内心ほっとしてその案を受けただろう。  
 しかし、だ。あんだけ啖呵を切っておいて、今更「実は疲れてます」なんて言えるか!  
「ああ!? ここまで来て引き返す? おめえなあ、それでも冒険者か! この先にお宝が待ってんだ 
ぞ!」  
 俺の台詞に、パステルは救いを求めるような視線をクレイに向けた。  
 ……ちょっとむかつくぞ。クレイを頼るんじゃねえよ。  
 身勝手な思いだ、と自覚しつつつぶやいていると、クレイはしばらく考えた後、  
「……よし。とりあえず二階の攻略には挑戦してみよう。もしかしたら、簡単に突破できる通路みたい 
なものがあるかもしれないし。無理そうだったら、あるいはキットンの薬草が尽きたら、今回は諦めて 
引き返す。それでいいな?」  
 と言った。実は、「危険だ。今すぐ引き返そう」って言ってくれんの期待してたんだけどな。  
 
 まあ、こうなったらしょうがねえ。もうひとふんばりすっか。そんな都合のいい通路が見つかるとも 
思えねえし、クレイやノルの様子見てる限り、三階以上には行けそうもねえしな。  
 軽く考えると、俺は二階へと足を向けた。  
   
 相変わらずのきつい罠とモンスター。二階も一階と大差はなかった。  
 が、その通路だけは別だった。  
 割と広い通路で、ここを進まねえと三階には行けねえ。ところが、モンスターはただの一匹もいない。  
 おまけに、それまで白一色の単調な色使いとはかけ離れた、赤、青、黄色のカラフルなタイルが敷き 
詰められている。  
 盗賊としての勘を使うまでもねえ。罠だな。  
 念入りにタイルを見てみる――やっぱりか。  
 敷き詰められてるように見せかけて、タイルとタイルの間にわずかに隙間が空いていた。こりゃあ… 
…  
「……あー、こういうタイプの罠か」  
「どうしたの?」  
「ここな、特定のタイルを踏んでいかねえと、多分罠が発動する。俺が歩いた場所だけを通れよ。一歩 
でもずれたら多分アウトだ」  
 俺の言葉に、クレイが慌ててルーミィとシロを、ノルがキットンを抱えあげた。  
 まあ、奴らは俺と違って足が短けえからな。賢明な判断だろう。  
 しかし……厄介だな。こりゃ。  
 ほとんど罠の見分けがつかねえタイルを、慎重にチェックしながら進む。  
 大体、こーいうのは一定の法則がある。例えば、ある順番通りの色のタイルを踏んでいく、とかだ。  
 が、この城の罠を考えると、どうやらそう見せかけて途中で法則を外しているとみた。  
 面倒くせえが、一歩一歩チェックしながら進んでいくしかねえんだろうなあ……  
 
 と、俺がこれだけ細心の注意を払っていたのに、だ。  
 ガコン  
 背後から聞こえたのは、すげえ不吉な音だった。  
 嫌な予感がしたんだよ。ちょうど、俺が予想した通り「色の順番パターンの法則を外したところ」で 
聞こえた音だったから。  
「あ……」  
 聞こえた小さな声は、まぎれもなく……俺が自分を犠牲にしてでも守ってやると誓った女の声だった。  
「パステル!」  
「きゃああああああああああああああああああああああああ!!!」  
 呼びかけに返ってきたのは悲鳴。  
 その瞬間、罠は発動していた。  
 上に乗ってる俺達のことなんかお構いなしに、タイルがどんどん組み替えられていく。  
 はっきり言ってバランスを取るのがせいいっぱいで、とてもじゃないがあいつを助ける余裕はなかっ 
た。  
 ガコン、という音が止まったとき。  
 それまで赤、青、黄色のタイルが雑多に入り混じっていた通路は、赤は赤、青は青、黄色は黄色のタ 
イルでまとめられた、見事な三色のゾーンに別れていた。  
 そして。  
 俺とクレイ、ルーミィ、シロ、ノル、キットンは、幸いなことに同じ色……赤のタイルに乗っていた 
から、運ばれた場所もそう離れていなかった。  
 パステルの奴だけが、青のゾーンを挟んだ黄色のゾーンに取り残されてやがる。  
 あんのバカ……  
 すぐに助けてやりたかったが、うかつに動くわけにはいかねえ。罠はまだ完全に終わってねえかもし 
れねえからな。  
 こういう罠の場合、大抵は……  
 瞬間、俺は後悔した。すぐに「大人しくしてろ。すぐ助けてやるから」と言わなかったことに。  
 パステルの奴は、何も考えてねえのか……ためらいもなく、俺達の方へと一歩踏み出しやがった。  
 あんの……  
 
「バカ!! 動くんじゃねえ!!」  
「え?」  
 俺の警告は遅すぎた。  
 俺の耳に届いたのは、カチリ、という本当に微かな音。  
 その瞬間、目の前から……パステルの身体が消えた。  
「きゃあああああああああああああああ!!」  
 くっそ、こういう落ちかよ!!  
 罠の最終形態。どこかのゾーンで人が動くと、そのゾーンのタイルがごそっと消える……  
 落ちたか!?  
 考えてるときには、俺はもう走り出していた。  
 幸いなことに、パステルは、何とか青のゾーンに指をひっかけて耐えていた。  
 間に合ったか……  
「きゃあああああああ! だ、誰か助けてえ!!」  
「うっせえ! 黙れっ」  
 ぎゃあぎゃあわめいてるところを怒鳴りつけると、パステルは、今にも泣きそうな、それでいてすご 
くほっとしたような表情を浮かべて、情けねえ声でつぶやいた。  
「とらっぷぅ……」  
「あーったく、おめえはどこまでドジなんだよ!! いいか、今引き上げてやっから、暴れんなよ!!」  
 即座にその手首をつかむ。「トラップ、手伝う」というノルの声に、場所を空けようとして……  
 そのときだった。  
「……え?」  
 パステルの小さな声。俺の背中を走るとてつもなく嫌な予感。  
 その瞬間……パステルの身体が、穴にひきずりこまれた!!  
 
「きゃああああ!?」  
「うわああああああああああああ!!!」  
 すげえ力だった。モンスターなのか、何なのかはわからねえが……  
 体重の軽い俺では、とても支えられなかったくらいすげえ力。  
 手を離す、という考えは浮かばなかった。落ちると同時に、俺はパステルを抱え込んでいた。  
 ――おめえは、俺が守る。  
 例え俺自身を犠牲にしても、おめえだけは、絶対に――!!  
 落ちる最中、壁を蹴って体勢を入れ替えた。パステルが俺の上になるように。  
 かなり深い穴だな、こりゃ。  
 ああ……まずいかもしんねえ。  
 でも。  
 パステル。おめえさえ無事なら。おめえさえ生きていてくれれば、俺は……  
 しがみついてきた身体を強く抱きしめた途端。  
 俺は、頭に激しい衝撃を受けた。  
 ぐしゃっ、という妙に生々しい音。首筋に感じる、生暖かい気配。  
 それが最後だった。そのまま、俺の意識は、闇の中へ沈んでいった。  
   
 ……俺は、何をしてたんだ……  
 何のために、こんなことになった?  
 誰かを守りたかった。誰かを大切にしていた。  
 誰かを愛していた。  
 誰かって、誰だ? そんな奴が、本当にいたのか?  
 思い出せねえ。そんな奴、本当はいなかったんじゃねえか……?  
 いなかったとしたら……この違和感は何だ?  
 ……俺は、一体……  
 脳裏に響く一つの名前。誰かが必死に呼びかけている名前。  
 だけど……違う。俺はそいつじゃねえんだ。  
 今の俺は……今の俺の名前、は……  
 
 目が覚めたきっかけは、誰かの手が、俺の額から冷たい布を取り上げたことだった。  
 ……頭、いてえ……何が、起きたんだ?  
 反射的に、額に手を伸ばしてきた奴の手首をつかんでいた。  
 びくり、という反応が返ってくる。  
 ……誰だ……?  
 目を開けてみると、目の前に、知らねえ女がいた。  
 蜂蜜みてえな色の長い髪と、今にも泣きそうなはしばみ色の目。色気に乏しい身体。  
 ……こんな女、知らねえ。誰だ?  
「と、トラップ?」  
 女は、俺を見て、幽霊でも見たかのような顔でつぶやいた。  
 ……とらっぷ? 罠?  
 何だ、そりゃあ……  
 だが、俺の困惑なんざお構いなしに、女は、  
「トラップ、トラップ、よかった目が覚めたのね!!」  
 と言いながら、俺にしがみついてきた。  
 ……誰だよてめえ。知らねえ女に、ここまで馴れ馴れしくされる覚えはねえぞ。  
 反射的につきとばすと、女は、この世の終わりみてえな顔で俺を見た。  
 ……何でそんな顔するんだよ。  
「……あんた、誰だ?」  
「え……?」  
 俺が聞くと、女は目を見開いた。  
 ……質問に答えろよ。とろい女だな。  
 
「あんた、誰だ?」  
 もう一度聞いてやると、女は目にいっぱい涙をためて聞き返してきた。  
「トラップ……どうしたの? わたしよ、パステル……」  
 パステル……それがこいつの名前? ……知らねえな……  
「……知らねえ」  
「トラップ!?」  
「だあら……誰だよ、そのトラップって」  
 パステル、とか言ったか? こいつ、何言ってやがるんだ? 誰と勘違いしてるんだ……?  
 俺は、俺の名前は……  
「俺の名前はなあ、ステア・ブーツってんだよ。変な名前で呼んでんじゃねえ」  
 俺がそう答えた瞬間。  
 パステルと名乗った女の顔が、ひきつった。  
 そのまま、何も言わずに部屋をとび出していく。  
 ……一体何だったんだ、今のは。あの女、何者だ?  
 それより……  
 ここ、どこだ?  
   
 俺が部屋を見回していると、けたたましい音と共にドアが開いた。  
 そこに立っていたのは、さっきの女――パステル。  
 その後ろには、俺の幼馴染、クレイと、会ったこともねえガキが一人、巨人が一人、ボサボサ頭の変 
な男が一人、ついでに犬が一匹。  
 ……何なんだこいつらは。クレイは何でこんな奴らと一緒にいるんだ?  
 俺とクレイは、家が近所で、ガキの頃からの付き合いだ。クレイの知り合いで俺の知らねえ奴はほと 
んどいねえと思ってたが……  
「よおクレイ……何なんだよ、この連中は」  
「おい、トラップ……」  
 おいおい。クレイ、おめえもかよ。  
 トラップ? 人の名前……だよな。誰なんだ、そりゃあ。  
「ああ? おめえまであに言ってんだ? 誰だよトラップって」  
「お、お前なあ……」  
 俺の言葉に、クレイは呆れたような視線を向けてきた。  
 ……呆れたのはこっちだぜ。鈍い奴だとは思ってたが、十年以上付き合いのある人間の名前を忘れる 
間抜けだとは思わなかった。  
 
「幼馴染の名前忘れたのかよ? 俺の名前はステア・ブーツってんだよ。さっきからこの女もわめいて 
たけど、誰なんだよトラップって」  
 パステル、とかいう女を指差すと、女は今にも泣きそうな顔でこっちを見てきた。  
 ……なんでそんな顔すんだよ……  
 大した美人でもねえし色気もねえ。はっきり言っちまえば、俺の好みからは外れたガキくせえ女だ。  
 なのに、こいつが悲しそうな顔をすると……何でだか、胸が痛くなる。  
 ……何でだ?  
「あのー、ちょっといくつか質問させてよろしいですか?」  
 そのとき前に出てきたのは、クレイでもパステルでもなく、いまだに名前も知らねえボサボサ頭だっ 
た。  
 妙に背が低くて、つかみどころがねえ雰囲気……誰なんだ、こいつ。  
「誰だあんた?」  
「あー気にしないでください。医者だと思ってください。えーと、ですね。とら……ステアさん。あな 
た年はいくつですか?」  
「ああ? 何でてめえにんなこと教えなきゃいけねえんだ」  
「あのですね、あなた、覚えてないかもしれませんが、頭を打ってずっと寝ていたんですよ。記憶が混 
乱しているといけませんので、いくつか確認させてほしいだけです」  
 警戒心をこめて聞いてみたが、ボサボサ頭は何も気にしてねえみたいだった。  
 マイペースな野郎だな。一体何者なんだよ。  
 クレイの奴が一緒にいるんだから、悪党の類ではねえんだろうが……  
 俺が仕方なくボサボサ頭に向き直ると、ボサボサ頭は頭をかきむしりながら聞いてきた。  
「では、改めてお聞きしますが、年はいくつですか?」  
「17だよ。もうすぐ18になるな」  
「ほうほう。えーお住まいは?」  
「ドーマっつう街……おい、そういやここはどこなんだよ。俺の部屋じゃねえな」  
 そういやあ、結局ここはどこなんだ……? 俺は、ドーマの家にいたんじゃねえのか?  
 ドーマで……俺は、盗賊団の跡取りとして、修行の最中で……  
 ……何でこんなとこにいるんだ? ドーマじゃねえよな、ここは……  
 だが、俺の質問に答えず、ボサボサ頭は続けた。  
「あのですね、目を覚ます前……何をしてらしたか、覚えてますか?」  
 
「…………」  
 そういや、俺、何で寝てたんだ。  
 寝てた……違うな。何か頭がいてえ……  
 ちっと頭に手をやってみたら、包帯が巻かれていた。……俺、怪我してるのか?  
 何で、怪我なんかしたんだ? 俺、何してたんだ……?  
 修行中に、何かミスったのか? それとも……  
「覚えてねえ……」  
 思わずうめくと、ボサボサ頭はうんうんと頷きながら言った。  
「そうですか。ま、あなた一週間以上も寝てたんですからね。頭の怪我は怖いですから、もうしばらく 
大人しく寝ていた方がいいですよ」  
「…………」  
 一週間。一週間以上、こいつらは俺と一緒にいたってのか?  
 ……クレイが一緒にいるってことは、俺は……クレイと一緒に出かけて? それであいつらと知り合 
った?  
 で、何をしたんだ……?  
 ……思い出せねえ……  
 仕方なく、俺はベッドに横になった。というより、それしかやることがなかった。  
「隣の部屋に、行きましょうか」  
 というボサボサ頭の声と、ドアが閉まる音。どうやらみんな出て行ったらしい。  
 ……一体、何がどうなってやがるんだ……?  
 
 それから、あいつらがどんな話をしたのかは知らねえ。  
 一応、簡単な事情は告げられた。  
 俺は冒険者になっていて、こいつらと知り合った。こいつらは俺のことをトラップと呼んでいた。  
 そして、「トラップ」は、どっかのクエストで罠にひっかかって大怪我をした……ということ。  
 聞かされても何の感慨もわかねえ。それが俺のこと? 何かの間違いじゃねえか?  
 ただ、罠にひっかかるなんて間抜けな盗賊だな、という思いがしただけだ。  
 そう言うと、皆は意味ありげに顔を見合わせていたが……  
 とりあえず告げられたのは、俺の怪我は結構な重傷だから、絶対安静にしてろ、ということ。  
 そして、その間の世話は、あのパステルとかいう女が全部見る、ということだった。  
 ……俺の意思は無視かよ。  
 そうつぶやいたが、誰も聞いちゃいねえ。  
 最初のうちこそ、クレイを初めとして、ガキやらボサボサ頭やら巨人やらが入れ替わり立ちかわり様 
子を見に来たが……ちなみに、ルーミィ、キットン、ノル、というらしい。ついでに犬の名前はシロ。 
まあ、聞き覚えがねえことにかわりはねえが。  
 そのうち、「あんまり大勢で押しかけても疲れるだろう」とキットンとやらが言い出して、出入りす 
るのはパステルだけになった。  
 ……何で俺の世話すんのがてめえなんだよ。クレイにやらせろよ、せめて。  
 俺の抗議なんかどこ吹く風で、パステルは、実に嬉しそうに俺の世話を焼いていた。  
   
 それは俺が目を覚ました翌日のことだった。  
「というわけで、トラップ。わたしが世話をするから、よろしくね」  
 朝起きたら、枕元に爽やかな顔をしたパステルが立っていた。  
 これが、あの情けねえ、今にも泣きそうな顔で俺にすがりついてた女か?  
 一体昨日何があったんだか。  
 それに、だ。  
 俺はトラップじゃねえ。断じて認めねえ。俺の名前はステア・ブーツ。盗賊団ブーツ一家の跡取り息 
子だ。  
「ねえ、聞いてるの、トラップ?」  
「……うっせえな。トラップなんて知らねえって言ってんだろ」  
 俺が吐き捨てると、パステルはまじまじと俺を見つめた後……にこっと、笑った。  
「ごめんごめん、忘れてた。えーと、ステア。って呼んでいいかな?」  
 ステア。  
 俺の名前……のはずだ。なのに、そう呼ばれた瞬間感じたのは、どうしようもない違和感。  
 ……何だ?  
「……ステア?」  
 パステルの声に、我に返る。  
「ああ、好きにしろ」  
「うん。ステア、あのね、朝ごはん作ってきたから、食べて」  
 そう言ってパステルが差し出したのは、皿がのったお盆。スープとパンに、簡単な炒め物。大して豪 
華なもんでもねえが……  
「作った? あんたが……?」  
「そうよ。嫌いな食べ物は、特になかったよね?」  
 ……何で知ってんだ? 確かに、俺にはあまり好き嫌いはねえが。  
 それより、このどんくさそうな女の手作り? ここは宿じゃねえのか。食事とか出ねえのかよ?  
「食べて」  
 よっぽど、いらねえ、とつきかえしてしまおうかと思ったが。パステルの奴は、期待に満ちた目で俺 
を見つめていた。  
 ……何でだろうな。こいつのこんな目を見ると……何だか、胸がいてえ。  
 仕方なく、俺は皿を受け取った。まさか死ぬこたねえだろう、という気持ちで一口食ってみたが……  
「……うめえ」  
 予想外にうまい。俺の好みにぴったりあった味付け。……意外だ。  
「あんた、料理うまいな」  
 褒めてやると、パステルは、それは嬉しそうに笑った。  
 
 悪い奴らじゃねえ。  
 付き合って数日もすれば、大体の人柄はつかめる。  
 クレイもそうだが、一緒にいる(皆の言葉を借りればパーティーを組んでいる)奴ら、そろいもそろ 
ってお人よしの集団らしい。  
 パステルを筆頭として、俺の怪我を自分のことのように心配しては、やれ大丈夫か気分は悪くないか 
何か欲しいものはないか、と、うるさいくらいに心配してくる。  
 悪い奴らじゃねえ。むしろいい奴らだ。それはわかるが……  
「あのね、トラップは……」  
「そうだな、トラップだったら……」  
「ぎゃはは。そういうところはトラップと同じですねえ」  
 どいつもこいつも、口を開けばトラップトラップと。俺はトラップじゃねえって言ってんだろう。  
 パステルもそうだ。飯を作ったり部屋を掃除したりと忙しそうだが、暇を見つけては、「あのね、ト 
ラップはね……」と俺に話しかけてくる。  
 俺はそんな奴は知らねえ。知らない人間の噂話になんか興味ねえ。  
 だが、「うるせえ」と言って無視すると、パステルは、親に捨てられた子供みてえな寂しそうな表情 
で俺を見やがる。  
 ……そんな顔されても困るんだよ。  
 しょうがねえだろう? 知らねえものは知らねえんだから。  
 だから、言うな。言わねえでくれ。「トラップ」のことは。  
 俺の願いが通じたのか、やがて、パステルはトラップの名前を口にしなくなった。  
 相変わらず飯だ掃除だ洗濯だとかいがいしく世話を焼いてくれるが、その合間に話すのは、「今日は 
いい天気だよ」とか、くだらねえ雑談ばかり。  
 まあ、トラップの話ばっかされるよりはずっといいけどな。  
 それに……  
 そうやって雑談につきあってやると、パステルは、実に嬉しそうに笑った。  
 悲しそうな顔をされるくれえなら、笑った顔の方がいい。  
 
 そうして一週間が過ぎた。  
 相変わらずパステルは俺の世話を焼いていて、俺は大人しくベッドで寝ていた。  
 正直言って寝てるしかやることがねえんだよ。ここがどこなのかもよくわかんねえし、「頭の怪我は 
怖いですよ」とか、キットンが散々脅かしていったしな。  
 それに……  
 部屋で大人しくしていれば、ずっとパステルの奴と一緒にいれる。  
 何でなんだろうな? 目を覚まして以来、ずっと頭に残る違和感。たまに曖昧になる記憶。時々、自 
分が結局誰なのかわからなくて、すげえ不安になるんだが……  
 そんなとき、パステルの笑顔を見てたら、俺はここにいていいんだ、と思えてくるから不思議だ。  
 だけど、何でパステルはこんなに一生懸命なんだ? 文字通り朝も夜も俺の世話に追われて。夜だっ 
て俺の部屋に泊まりこみで床で寝てるくれえだ。  
 ……一応、俺だって男なんだぞ。  
「おはよう、ステア! 朝ごはん、持って来たよ」  
 俺の考えなんかお構いなしに、パステルの奴は今日も元気だ。  
 にこにこしながら湯気の立つ食事を運んで来る。  
「……ああ。今日の飯、何?」  
「えっとね、卵サンドイッチとスープ。はいっ、たくさん食べてね。あ、何か食べたいものがあったら 
言ってね。昼食に持ってきてあげるから。寒くない?  
 大丈夫だったら、空気を入れ替えたいからちょっと窓を開けさせてね」  
 俺に盆ごと朝食を渡すと、パステルはまめに動き始めた。  
 窓を開けようとしてベッドの上に身を乗り出してきたとき……ちょっと胸がざわついたのは、何なん 
だ?  
 わかんねえ……  
 朝食はうまかった。世話されてわかったが、思ったとおり、こいつは鈍くさくてドジな女だ。  
 なのに、料理だけは、何でこんなにうまいんだ?  
 黙って食べてると食事はあっという間に終わる。いつもなら、そこでまたベッドに横になるところだ 
が……  
 唐突に胸の奥にこみあげてきた思い。気がついたら、俺はぼそっとつぶやいていた。  
 
「……ごちそうさま」  
「え?」  
 俺の言葉に、パステルはそれこそ鳩が豆鉄砲くらったような顔で振り向いた。  
 ……何なんだよ、その反応は。  
「……んだよ。そんなに驚くこたねえだろう」  
「だ、だって……」  
 失礼な奴だな。俺だって……この一週間、何も考えてなかったわけじゃねえんだ。  
「……悪かったと思ってんだよ、あんた……パステルには」  
「え?」  
 謝罪の言葉は、思ったよりすんなり出た。  
「俺が目え覚めたとき……心配してくれたあんたをつきとばして、悪かったと思ってんだよ。ここんと 
こ、ずーっと俺の世話にかかりっきりだしな」  
「あ、何だ。そんなこと、気にしなくてもいいのに」  
 俺がそう言うと、パステルは無邪気に笑って答えた。  
「あのときは目が覚めたばっかりで混乱してたんだし。あなたの世話は、わたしが好きでしてるんだか 
ら。だから全然気にすることないよ」  
「…………」  
 ……そんな顔で、そんなこと言うなよ。  
 かあっ、と血が上るのを感じて、俺はパステルから目をそらした。  
 何で、そんな……当たり前のことみてえに言えるんだよ。俺、おめえに相当冷たい態度取ってたはず 
だぜ?おめえにとって、俺は……  
 言いかけて、気づいた。何考えてんだ、俺は。  
 パステルが俺の世話を焼いてるのは……別に俺のためじゃねえ。 俺の体に宿っていたらしい前の俺、「トラップ」のためじゃねえか。何、勘違い、してんだか……  
「……あのさ、ちょっと聞いていいか?」  
「え? 何?」  
「こうなっちまう前の俺……『トラップ』は……」  
「うん?」  
 トラップって奴は、おめえの何だったんだ?  
 パステル、おめえは……トラップのことが好きだったのか?  
 そう聞きたかった。が、結局言葉にならなかった。  
 聞いてどうする。そんなこと、俺には何の関係もねえじゃねえか。  
 それに……答えを聞くのが、怖かったから。  
「……やっぱいいや。昼飯、できれば肉が食いてえ」  
 俺がそう言うと、パステルはきょとんとしていたが、気にしないことにしたらしく朝食の皿を片付け 
始めた。  
 ……本当に……鈍い女だな。  
 
 その日が来たのは、それから3日後のことだった。  
 相変わらず俺とパステルは他愛もねえ話をしていたんだが、そこに「ちょっと部屋に来てください」 
とキットンがやってきた。  
「ごめん、ステア。ちょっと行ってくるね」  
 俺に小さく手を振って、パステルは部屋を出て行った。  
 ……気になる。  
 俺だけ呼ばれねえ、ってこたあ、どうせ俺のこと、なんだろうな。  
 パーティーを組んでたらしい奴らは、みんなそろって親切すぎるくれえ親切だったが……そいつらの 
目は、だんじて俺を心配している目じゃなかった。  
 あいつらの目は、俺を通して、「トラップ」の心配をしてるだけだ。  
 ……誰も俺のことなんか見てねえ。パステルも。  
 キットンは、何とか記憶を取り戻す手がかりを見つけようと毎日毎日調べ物をしてるらしい。その成 
果が出たってことか?  
 ってことは、俺は……  
 ……考えても仕方ねえか。いつも頭につきまとってた違和感は、日を追うごとに大きくなっていく。 
ここまでくりゃあ、さすがに俺も認めざるをえねえ。  
 俺は結局、「仮の存在」でしかなかったんだと。  
 ……これ以上考えたって、気分悪いだけだな。  
 手持ち無沙汰になって、仕方なく荷物を引き寄せた。「トラップ」の荷物。中は乱雑にものが詰め込 
まれて、持ち主の性格がうかがえた。  
 だけど、その中でやけに整理整頓されているものもあった。これは……盗賊の七つ道具だな。  
 普段の生活はいいかげんでだらしなくても、仕事だけはきっちりやる。「トラップ」はそういう性格 
だったらしい。  
 ……俺と同じか。  
 七つ道具を取り上げて手入れをしていると、バタン、とドアが開いた。  
 立っていたのは、満面の笑みを浮かべたパステル。  
「ごめん、遅くなって。ステア、聞いて聞いて!」  
 何だよ、うるせえな。  
 ふっと視線を向けると、パステルはばたばたと俺の枕元まで走ってきて言った。  
「あのね、聞いて、ステア! 記憶を取り戻す手がかりが見つかったの!!」  
 
 …………  
 やっぱり、か……  
 覚悟はしていたが、実際に言われると、やっぱりちっと……ショックだな。  
 俺の存在が、全否定されたみてえで。  
 俺の態度にパステルは不満そうな顔を見せたが、すぐに笑顔に戻ってまくしたてた。  
「あのね、キットンが見つけてくれたんだけど。この近くに、『ワスレナグサ』っていう花が咲く場所 
があるんだって。その花は、満月の夜にしか咲かないんだけど、とってもすごい花らしいの。  
 開いた花の中には蜜がたまっててね、その蜜を飲むと、失った記憶を取り戻すことができるんだって 
!! それでね、満月って明日の夜なのよ。だから、ステア。明日、わたしと一緒に、『ワスレナグサ』 
を探しに行こう」  
 パステルの言葉に、俺は余程聞き返してやろうかと思った。  
 失った記憶を取り戻す? そりゃあ、「トラップ」が戻ってくるってことだよな。  
 ……で、俺はどうなるんだ? 「ステア・ブーツ」はどうなるんだ?  
 そう聞いてしまいたかったが……聞けなかった。  
 んなこと、聞くまでもねえじゃねえか。どうせ、今の俺は……クエストで罠にひっかかった間抜けな 
盗賊が作り出した、一時的なもの。  
 消えるべきなのは……俺なんだから。  
「ねえ、ステア。大丈夫?」  
 俺が黙っていると、パステルは俺の顔をのぞきこんで聞いてきた。  
 ……頼むから、今の俺に近づかねえでくれ。  
 俺、おめえに何言うか、何するかわかんねえぞ。  
「……何がだよ」  
「何も言ってくれないから……あのね、さっきも言ったけど、そのワスレナグサは満月の夜にしか咲か 
ないから、明日わたしと二人で取りに行くことになるんだ。怪我、大丈夫? 気分が悪いとかない?」  
「別に、何ともねえよ」  
「よかった! 明日を逃すと、また次の満月まで待たなくちゃいけないもんね。あのね、キットンが大 
体の場所教えてくれたんだけど、そんなに山奥ってわけでもないから、昼過ぎに行けば十分だと思う。 
だから……」  
 「よかった」か。  
 よかったのは……おめえにとって? 「トラップ」にとって?  
 どっちにしろ……俺にとって、じゃねえよな。  
 何で、おめえはそんなににこにこ笑ってるんだよ。おめえにとって、俺は……  
 
「……嬉しそうだな、おめえ」  
「え?」  
 俺のつぶやきに、パステルはしばらくの間ぽかんとしていた。  
 ……何言ってるんだか。んなこと、聞くまでもねえじゃねえか。  
「そりゃ……嬉しいよ。だって、やっと」  
「前から聞きたかったんだけどよ」  
 パステルの言葉を、俺は慌てて遮った。  
 聞きたくねえ、「トラップ」の話なんか。おめえが「トラップ」のことをどう思ってるか……わから 
ねえほど、俺は鈍くねえ。  
 だけど、聞かずにはいられなかった。  
「ずっと思ってたんだ。何で、俺の世話してるのはおめえなんだ?」  
「え?」  
「もしかしてさ、『トラップ』とおめえって、恋人同士なわけ?」  
「えっ……」  
 今まで、聞こう、聞こうとして聞けなかった言葉。  
 それを、俺は真正面から聞いていた。  
 ……今、聞かなかったら。俺は、明日には消えるかもしれねえ。  
 だったら、悔いの残らないようにしておきてえ。例え、答えがわかりきっていたとしても。  
 パステルは、しばらく赤くなっていたが……照れてるんだろうな……やがて、顔をあげた。  
「う、うん……実は……」  
 瞬間、心に走る痛み。  
 ……こんな思いするために、最後の最後までこんな思いするために、俺は生まれてきたのかよ……  
「へえ……『トラップ』は、おめえのどこがよかったんだろうな。美人ってわけでもねえし色気もね 
えし、ドジだし」  
「わ、悪かったわねっ。わたしだってわからないわよ。でも、トラップはそんなわたしを好きだって言 
ってくれたんだから」  
 わざと軽口を叩くと、パステルはむきになって言ってきた。  
 ……気づけよ、鈍い女だな。  
 
「へえ。で、おめえも『トラップ』が好きだった、ってわけか」  
 その言葉に返事はなかったが、パステルの顔を見てりゃあ、答えはわかりすぎるくらいはっきりして 
いる。  
 胸が痛い。「トラップ」、おめえ、どうやったんだ? どうやって、この鈍い女を口説き落としたん 
だ?  
 ……俺にも教えてくれよ。  
 パステルの奴、「トラップ」のことが、好きで好きでたまらねえみてえだぜ? そりゃ……  
「……そりゃ、嬉しいよな」  
「え?」  
「何でもねえよっ」  
 思わず本音が漏れた。  
 そりゃ、嬉しいよな。好きな男が戻ってくるんだから。今まで、好きな男の体に宿ってた寄生虫みて 
えな存在が、やっと消えるんだから。  
 そりゃ、嬉しいよな……  
 ……駄目だ。これ以上、パステルの顔、見てらんねえ。  
 俺はそのまま布団にもぐりこもうとしたが、パステルは、そのまま引き下がろうとはしなかった。  
「ねえ、やっぱり変だよ? どうしたの?」  
「っせえな……何でもねえって」  
「ねえ、言いたいことがあるならはっきり言って」  
「…………」  
 パステル。おめえは……  
 無邪気で、残酷な奴だな。  
 俺に言えってのか? 今の気持ちを。  
「ねえってば」  
 がばっと布団がめくられる。すぐ目の前に、パステルの顔。  
 ……おめえはっ……  
 つきあげてきた衝動は、激しい嫉妬と欲望。  
 どうせ消えちまうんだ。  
 今更、嫌われたって憎まれたって知ったことか。  
 第一、俺のこの身体は……パステルにとっては恋人の身体なんだろう。  
 ってことは、この身体に……抱かれたことがあるんだろう?  
 なら、いいじゃねえか。中身が例え、俺でも。  
 
 ぐいっ  
「……え?」  
 パステルの身体を抱き寄せると、間抜けな声が聞こえてきた。  
 自分が何されようとしてるのか……わかってんだろうな?  
「す、ステア?」  
「……『トラップ』とおめえが恋人同士だったんなら」  
「え?」  
「当然、やってたわけ? こーいうこと」  
 そのまま、俺はパステルの唇を奪っていた。  
   
「――ん――!?」  
 パステルは、しばらく何されてるのかよくわかってねえみてえだったが、そのうち、  
「なっ、何するのよっ」  
 と言いながら、顔を真っ赤にして俺の胸をつきとばした。  
 何する? んなこと……決まってるじゃねえか。  
 胸にぶつかってきた手首を、そのままつかみあげて――俺は、パステルを抱きしめていた。  
 細くて、柔らかい身体。  
 力をこめたら、折れそうな身体。  
 この身体を……「トラップ」も抱いたのか?  
「おめえ、まさか初めて?」  
「なっ――そ、それはっ……」  
「まさか、違うよなあ。恋人同士なんだろ? 俺とおめえは」  
 つぶやいていたのは自虐的な言葉だった。  
 わかってる。パステルと恋人だったのは「ステア・ブーツ」じゃねえ。「トラップ」だ。  
 俺じゃねえ。だけど……  
「す、ステア? どうしたの、急に……」  
「…………」  
 だけど、今だけ。今だけでいい。  
 明日になれば消えちまう俺だ。だから……  
 今だけ、俺をおめえの恋人にしてくれ。  
 
「きゃあっ!!」  
 そのままベッドに押し倒すと、パステルは悲鳴をあげたが……抵抗は少なかった。  
 真っ赤な顔で、俺を見上げている。  
 ……そうだよな。顔は、「トラップ」だもんな。  
 だけど……  
 ……俺を見ろよ、パステル。俺は「トラップ」じゃねえ。俺を見てくれよ。  
 そのまま強引に唇を重ねた。こじいれるようにして舌をさしいれ、からめとる。  
「んっ……」  
「…………」  
 唾液がまじりあい、あふれそうになる。  
 パステルのうめき声。……抵抗は、まだない。  
 唇を首筋に移動させた。ぴくり、という微かな反応。  
 そのままブラウスのボタンを外しにかかると、小さく身じろぎしながらうめいた。  
「やっ……」  
 ……初めて、じゃねえんだろうな、この反応。  
 あの鈍感で恋愛経験なんかゼロに等しそうなパステルだ。  
 初めてだったら、もっと抵抗するだろう。  
「……やっぱ、初めてじゃ、ねえみてえだな……」  
 「トラップ」、おめえ、一体どうやってパステルを抱いた?  
 俺のやり方と……同じだったのか?  
 ブラウスのボタンが全開になった。  
 目の前に飛び込んできたのは、下着だけになったパステルの上半身。  
 部屋に明かりはなかったが、月光が差し込んできて、十分に明るかった。  
 ……綺麗だな。  
 色白な肌。大して大きくはねえが、まだ男の手がそんなに触れてはいねえだろうと思える胸。  
 じっと見下ろすと、パステルは真っ赤になって身を強張らせた。  
 そっと触れる。首筋、うなじ、肩、脇腹。  
 俺の手がふれるたび、パステルの身体は少しずつ上気していった。  
 小さな身じろぎがやがて大きくなり、少しずつ息が荒くなってくる。  
 
「やっ……あんっ……」  
「感じやすいみてえだな、おめえ……」  
 敏感なのか、それとも「トラップ」がよっぽど上手に目覚めさせたのか……  
 ぐいっと下着の間に手をこじいれる。  
 柔らかい感触。だが、触れると同時に段々かたくなってくる。  
「ああっ……あ、やあんっ……」  
「…………」  
 力を入れたり、指先でつまんだり。  
 手を動かすたび、パステルの声は大きくなっていく。  
 ……そろそろ、いいか? 俺のも、限界に近い。  
 手を、胸から膝に移動させる。  
 ぐいっと膝を割ると、目にとびこんできたのは……白い太もも。  
 ゆっくりとそこに口付けると、パステルは反射的に膝を閉じようとしたみたいだった。  
 ……させるかよ。  
 腕に力をこめて押し開く。あらわになったのは、下着に包まれた……パステルの、中心部。  
 太ももをはわせた手で、下着をかきわけるようにして……触れる。  
 あふれそうな蜜が、俺の指にからみついた。  
 ほとんど抵抗なくもぐりこむ指先。かきまわすと、ぐじゅっ、という音が、やたら大きく響いた。  
「すげえ……濡れてんな……」  
「やだっ……やめて……」  
「…………」  
 もう、我慢できねえ。  
 パステルの下着をはぎとると、俺は自分のモノに手をかけようとして……  
「やめて――トラップ!!」  
「っ――……!!」  
 叫ばれた言葉は、残酷な言葉。  
 俺の存在を全否定する、とても残酷な……言葉。  
 驚き、怒り、嫉妬、絶望。  
 色んな感情が交じり合い、衝動が急激に萎える。  
 
 ――そんなに……  
「……そんなに、トラップがいいのかよ」  
 おめえにとって、俺は何なんだ? おめえは、「トラップ」のことしか見てねえ。  
 俺は……  
「え……?」  
「俺じゃ……俺じゃ、駄目なのか!?」  
「え、何言って……」  
 俺は、おめえのことがっ……  
 その先は言えなかった。  
 気がついたら、俺は部屋をとび出していた。  
 どこに行くなんてあてはねえが……  
 パステルの顔を見ずにすむなら、どこだって構うもんか。  
   
 俺が夜明かしすることになったのか、どっかの民家の裏にある納屋だった。  
 どこの家かは知らねえが……借りるぜ。  
 壁にもたれて、ぼんやりと月を見上げる。  
 満月の夜に咲く、「ワスレナグサ」……それがあれば、トラップが戻ってくる。  
 浮かんだのは、そう嬉しそうに言ったパステルの顔だった。  
 パステル。  
 おめえは、俺の世話をするときも、話すときも、いつもにこにこ笑っていたけど。  
 俺の前で、心から笑ったのは……多分、あれが初めてだよな。  
 俺がいる限り、おめえは……ずっと、苦しまなきゃ、なんねえのか?  
 それは、嫌だ。  
 
 月を見ながら落ち着いて考えてみる。  
 俺は、結局どうしたい?  
 頭に残る違和感は、消えそうもねえ。俺自身が1番よくわかってる。  
 「ワスレナグサ」がなくたって、どうせ遠からず俺は消えるだろうってことは。  
 ドーマにいたという記憶。クレイと幼馴染だという記憶。親父やお袋やじいちゃんの記憶。  
 そのどれもが曖昧で……ともすれば消えそうになる。  
 わかってる。どうしようもねえんだ。だったら……  
 だったら、迷うことなんか、ねえじゃねえか。  
 俺が消えれば。トラップさえ戻ってくれば。  
 パステルは、心から笑ってくれるんだから……  
 だから、悲しくなんかねえ。  
 涙がこぼれそうになって、慌てて頭を振った。  
 悲しくなんかねえ。それで、パステルが幸せになれるんなら……  
 俺自身を引き換えにすることでパステルが笑ってくれるなら。  
 大人しく消えてやるさ。  
   
 朝になって宿に戻ってみると、俺の部屋には誰もいなかった。  
 気配を探る。……全員、隣の部屋にいるみてえだな。好都合だ。  
 自分の部屋に戻ってカバンを漁る。綺麗に洗濯されてたたまれた、オレンジのジャケット、黒いシャ 
ツ。緑のズボン……  
 これが、「トラップ」が着ていた服か。  
 今まで着ていただぶだぶのシャツとズボンを脱ぎ捨てて着替える。悔しいくらい、身体にぴったりく 
る服。  
 ……「トラップ」。  
 パステルを、幸せにしろよ。ぜってー、泣かすんじゃねえぞ。  
 頭の中で囁いて、部屋を出た。  
 隣の部屋をノックしようとして……聞こえてきた声に、思わず手が止まる。  
 
「我々はですねえ、ワスレナグサの蜜を飲めば、トラップの記憶が戻る、と単純に喜んでましたけど。 
彼の立場から考えてみてくださいよ。トラップじゃないですよ? トラップの身体に今宿っている、ス 
テアの立場から。  
 彼の立場からしてみれば、蜜を飲んでトラップが戻ってくるということは、同時に自分が消える、と 
いうことになると思いませんか?」  
 この声は……キットンだな。  
 何だよ、おめえら……わかってたんじゃねえか。  
 誰も俺のことなんか気にかけてねえと思ってたが……ちゃんと、気にしてくれてたんじゃねえか。  
「……俺達、ちょっと軽率だったかもしれないな」  
 続いて聞こえてきたのは、クレイの声。  
 おもしれえくらい声が動揺してる。  
 あいつは、昔からお人よしだからな。きっと、自分を責めまくってるんだろう。  
「俺達は、もっと『ステア』のことを思いやるべきだったかもしれない……あいつがなかなか心を許そ 
うとしなかったのも当たり前だ。俺達が見ていたのは『トラップ』で、『ステア』じゃなかったんだか 
ら」  
 クレイの声に、しばし沈黙が流れる。  
 その後、ばたばたと立ち上がるような音が聞こえた。  
「探しに行こう! ちゃんと、彼に謝るんだ。ただ……」  
「わかってますよ、クレイ」  
 クレイの声を遮ったのは、キットン。  
「もともと、『ステア』の人格はつぎはぎだらけの不完全なものでした。このままにしておいても、恐 
らく遠からずどこかで破綻します。『トラップ』の記憶を取り戻すことは、彼のためでもあるんです。 
そこらへんを……」  
 ……それ以上、聞いてられなかった。  
 もう十分だよ。おめえらが、底抜けのお人よしで、悪意なんか全然なくて、「トラップ」のことをす 
げえ心配して……そして、俺のこともちゃんと気にかけてくれたんだと、わかったから。  
 俺は、それで十分だ。  
「……わかってるぜ、んなこと」  
 ドアを開けてつぶやく。  
 全員が一斉に振り向いた。その中の一人の顔が、どうしようもなく目につく。  
 今にも泣き出しそうな、そんな顔すんなよ、パステル。  
 今のおめえは、しっかりと俺を見ている。「トラップ」じゃなくて「ステア・ブーツ」を見ている。  
 それだけで、俺は……十分、満足してんだからな。  
 
「とらっ……ステア?」  
「おめえら……本っ当におひとよしだな。どうせ俺は頭打った拍子に作られた偽りの人格なんだぜ?  
んな奴に同情してどうすんだよ」  
「ステア……」  
 なるべく平静を装う。  
 俺は、気にしてねえ。俺が消えることに、辛いとか寂しいとか感じてねえ。  
 それが当たり前のことなんだからと、心から納得している。  
 そう思わせてやるのが、この二週間、世話をしてくれたおめえらにできる、せいいっぱいの礼だ。  
「おめえらにとって、必要なのは、ほんの半月かそこら一緒にいただけの、いつ消えるかもわかんねえ 
『ステア』じゃなくてずっと旅してた『トラップ』なんだろ? だったら、何も遠慮することはねえよ」  
「ステア。だけど……」  
「……行くぜ、パステル」  
「えっ……」  
 それが限界だった。  
 これ以上話してたら……きっと、ボロが出る。  
 駄目だ。俺が辛そうな様子を見せちゃいけねえ。そうしたら、この呆れるくらいお人よしな連中は、 
「トラップ」が戻ってきても苦しみ続けるだろう。  
 いいか、俺は納得して消えるんだ。だから、おめえらが気にすることなんか何もねえ。  
 何も、ねえんだからな。  
 俺はパステルの手をひっぱった。  
「行くぜ。『ワスレナグサ』取りに。おめえの大切な『トラップ』を取り戻しに」  
「ステアっ……」  
 強引にパステルをひきずって玄関に向かう。  
 ……決心が鈍らないうちに、やっちまいてえんだよ。  
 これ以上おめえと一緒にいたら、みっともなくわめきそうになるから。  
 おめえと、離れたくねえと。  
「ま、待って待って! わたしこんな格好で、荷物だって……準備してくるからちょっと待ってよ!!」  
 が、俺の気持ちなんざいざ知らず。パステルはそうわめくと俺の手を振り払った。  
 ったく。最後だっつーのに、しまらねえな。  
「ちっ、さっさとしろよな」  
「わ、わかってるわよ。ちょっと待ってて」  
 パステルの姿が階段上に消える。仕方なく、俺は玄関先に座り込んだ。  
 
 意外となあ、楽しかったぜ。  
 最初は、「何だ、なれなれしい奴だな」なんて思ったけど。  
 うまい飯を作ってくれたり、他愛もねえ雑談をふっかけてきたり、そんなおめえを見てるのは……結 
構楽しかったぜ。  
 なあ、おめえ、気づいてたか? 俺が、「トラップ」のことを、すげえ羨ましがってたことに。  
 気づいてねえんだろうな……おめえは、鈍い奴だから。  
   
 パステルが戻ってきたのは、それから半時間くらい経ってからだった。  
「おせえよ」  
「ごめん、ごめんっ! 準備に手間取っちゃって」  
 パステルの目が少し赤くなってるように見えたのは、気のせいだろうか?  
 そうして、俺達は、「ワスレナグサ」が生えている、と言われている山の中に踏み込んでいった。  
   
 山は結構険しい道のりだったが、まあ何てことはねえ。  
 盗賊の修行の一環とやらで、もっときつい道のりを何往復もさせられたりしてたしな。  
 が、俺は平気でもパステルの奴は違ったみてえで、その足取りは呆れるくらいもたついていた。  
 おめえなあ……それでも冒険者かよ。  
「おら、さっさと来いよ」  
「ま、待って、待ってよ」  
 きゃあ、という小さな声。  
 振り向くと、長い髪に枝をからませて、パステルはあたふたと手をばたつかせていた。  
 ……ったく。  
 ナイフで枝を払ってやると、パステルはいつか見たみてえな情けねえ顔でうつむいた。  
 ……そんな顔、すんなよ。おめえのそんな顔、俺は見たくねえんだからな。  
「んっとに……おめえはどこまでもドジな奴だなっ」  
「ごっ、ごめん……」  
「おら」  
「え?」  
 俺が手をつきだすと、パステルはきょとんと俺の顔を見た。  
 ……鈍い奴だな、本当にっ!  
 ぐいっ、と手をひいてやると、パステルは嬉しそうな、それでいて悲しそうな複雑な顔をしていた。  
 ……ああ、もしかしたら。  
 「トラップ」もしてたのかもしれねえな、こういうこと。  
 
 ワスレナグサが生えているという場所は、割とあっさり見つかった。  
 道のりは結構遠かったが、早めに出発したこともあってか、まだ日が沈みきってねえ時間。  
 ……ワスレナグサは、満月の光を浴びて咲くんだったな。ってことは、もう少し待たなきゃなんねえ 
のか。  
「ねえ、ステア」  
 俺が手持ち無沙汰に葉を眺めていると、パステルがにこにこしながら言ってきた。  
「ん? あんだよ」  
「あのね、まだちょっと時間があるみたいだから、ご飯食べない? お弁当作ってきたんだけど」  
「ああ? 弁当?」  
 ……のん気な奴だな。こんなところで?  
 それで、今朝やけに時間がかかってたのか。全く。  
 んなことしてねえでさっさと来りゃあよかったのに。少しでも早く、「トラップ」に会いてえんじゃ 
ねえのか?  
「おめえなあ。ピクニックに来たわけじゃねえんだぞ、俺達」  
「わ、わかってるわよ。でも……ステアが、わたしの作ったご飯はおいしいって言ってくれたから……」  
「…………」  
 ……え。  
 それは……つまり、あれか? 俺に食べさせてやりたかった、と、そう考えて、いいのか?  
 俺のことを考えてくれた……んだよな?  
 全く、おめえって奴は。  
 最後の最後だってのに……何で、そんな……別れたくなくなるようなこと、するんだよ。  
 照れ隠しに目を伏せて、地面に腰を下ろした。  
 多分、これが最後の飯だ。パステルの手作りの飯を、二人きりで食えるんだから……ありがたく、い 
ただくか。  
「そだな。別に他にやることもねえし……もらう」  
「うん、どうぞ」  
 中に入っていたのは、簡単なサンドイッチ。  
 慌てて作ったのか、ちっと形が不ぞろいだったが……味は絶品だった。  
 俺の母ちゃんも料理はうまい方だったが……多分、俺にとって最高の飯は、このサンドイッチだと思 
う。  
 何でこんなにうめえのかは、わかんねえけど。  
 
「うめえ。おめえってさ、本当にドジで間抜けだけど、料理だけはうめえな」  
 ほめてやると、パステルは何だか不服そうに頬を膨らませた。  
 何が気にいらねえんだよ。俺が珍しく素直にほめてやったってのに。  
「そう、喜んでもらえてよかった。お茶飲む?」  
「ああ、くれ」  
 湯気が立った茶を飲みながら、ぼんやりと沈んでいく夕陽を眺めた。  
 もう少し、か。長いようで、短かったな。もうすぐ、終わる。パステルとの日々も……  
 そこでパステルの顔を見やって……ぎょっとした。こ、こいつ……何で泣いてるんだよ!?  
「おめえ……」  
「え?」  
「あに、泣いてんだ……?」  
 俺が言うと、パステルは首をかしげながら自分の頬に手をやっていた。  
 まさか、気づいてなかったんか? 自分が泣いてることに。  
 その間にも、涙は止まることなくぼろぼろ落ちていたが……それをぬぐおうともせず、パステルはつ 
ぶやいた。  
「だって……寂しいもん」  
「あん?」  
「ステアと、もうすぐお別れしなくちゃいけないから」  
 ……おめえって奴は。本当に、どこまで……お人よしなんだよ。  
「……何言ってやがる。俺は、頭打ったショックで適当に作り出されたもんで……第一、俺が消えたら、 
トラップが戻ってくるんだぞ。嬉しくねえのかよ」  
「嬉しいよ。それはすごく嬉しい。わたし、やっぱりトラップのこと大好きだから」  
 ……そうかよ。  
 そんなに、「トラップ」が好きか。  
 その言葉がどれだけ俺を傷つけてるか、おめえはどうせわかっちゃいねえんだろうが……  
「でも、それとこれとは別だよ」  
 だが、その後続いたパステルの言葉に、俺は顔をあげた。  
「あ……?」  
「トラップが戻ってくるのは嬉しいけど、でも、ステアと別れるのは、悲しいよ」  
「…………」  
 それは、つまり。  
 俺がずっと抱いていた疑問。「俺が消えて、嬉しいのか?」っていう疑問を、否定してくれてると思 
って……いいんだよな?  
「最初……ステア、すごく冷たかったよね、わたし達に。目が覚めたら突然知らない人に囲まれてたん 
だから、それが当然なんだけど。でも、段々打ち解けてくれて、少しずつ会話してくれるようになって、 
わたし、嬉しかったよ」  
「…………」  
 
「ステアも、わたし達にとっては、もう仲間なんだから……」  
 仲間。  
 ああ、そうか。おめえにとっての俺は、仲間、か。  
 嬉しいけど寂しい。だけど……  
 仮に生まれただけの偽りの人格に対する評価としては……最高の評価だと思って、いいよな?  
 気がついたら、俺はパステルを抱きしめていた。  
 もう日が沈む。  
 後数分もすりゃあ、月が昇って……俺はおめえのことを、見ることすらもできなくなるんだろう。  
 だから、最後に……許してくれ。  
 おめえに、本当の思いを伝えてしまうことを。  
「……きだ」  
「え?」  
「……『トラップ』がおめえに惚れた理由……今なら、よくわかるぜ」  
「ステア……?」  
 ああ、よくわかる。「トラップ」……さすがは「俺」だな。  
 きっと、どこでどんな風に出会ったって……俺もおめえも、パステルに惚れずにはいられなかった。  
 こいつは、俺達にとって……  
 じっとパステルの顔を見つめると、パステルも俺の視線を受け止めていた。  
 唇を重ねることに、抵抗はなかった。  
 最後のキス。  
 満月の光が降り注いだのは、ちょうどそのときだった。  
 
「あっ……」  
「っ……」  
 月光って、こんなにまぶしかったか?  
 まるで真夏の太陽みてえな光に、俺は思わず眉をしかめた。  
 光をまともに見るのが辛い。そのまま目をそらしたとき、とびこんできたのは……  
「おい、あれ……」  
「え?」  
 俺が目をそらした方向。そこは、ワスレナグサの葉が茂っていた場所。  
 そこから、丸い小さな光が、いくつもいくつも上ってきていた。  
 何だ、こりゃあ……一体、「ワスレナグサ」って、何なんだ?  
 そのとき、光の一つが、俺達の方にふわふわととんできた。  
 そして。  
(……こんばんわ)  
 なっ、何だ!? 頭の中で声が響いたぞ、何なんだこの光は!?  
(ひさしぶり、こんなに強い絆を見たのは)  
(ありがとう。いいものを見せてくれて)  
(お礼に、ワスレナグサを咲かせてあげる)  
(もっとよくみせて……)  
 ……絆?  
 何だよ、そりゃあ。  
 光は、俺とパステルの手のあたりをうろうろと飛び回っている。  
 ……どういうこった。  
「おい……絆って、何のことだ?」  
 俺が聞くと、パステルは、「ああ」とつぶやいて言った。  
「あのね、『ワスレナグサ』の花を咲かせるのは、妖精の役目なんだけど。その妖精は、とっても恥ず 
かしがりやで、人がいたら普通は姿を見せてくれないんだって。  
 でも、一つだけ方法があってね。この妖精は、『運命の赤い糸』を見ることができるんだけど、結ば 
れた二人を見ることは滅多に無いから、もし『運命の赤い糸』でつながった二人だけで傍に行けば、姿 
を見せてくれるんだって」  
 
 運命の、赤い糸……  
 強い、絆。そうか、そうだろうな。パステル。おめえとトラップは、確かに運命で結ばれてるんだろ 
うよ。  
 でも、俺は……  
「その、絆って。もちろん、『トラップ』とパステルの、だよな」  
「え……」  
「そうだよな。半月くらい前にぽっと現れた俺に、絆なんかあるわけねえもんな」  
「ステア……」  
 わかりきっていたじゃねえか、そんなこと。  
 しょうがねえ。神様にだって、ある日俺が生まれることなんか想像もしてなかっただろうから。  
 俺に「運命の糸」なんてものがねえのは、しょうがねえことなんだ。  
 俺は神なんて信じちゃいなかった。だけど、こうなっちまったら……信じるしかねえんだろうな。  
「よっし」  
 俺は膝を叩いて、ワスレナグサの群れへと入っていった。  
 これで、完全にふっきれた。やっぱり、この場にいるべきなのは……  
 パステルの傍にいるべきなのは、「トラップ」なんだと。  
 光をかきわけるようにして進むと、ワスレナグサの花がちょうど開こうとしているところだった。  
 中に透明な蜜をたたえた、小さな花。  
 これで……本当に、最後だ。パステル。  
 振り返った。パステルの姿を、目に焼き付けておくために。  
「パステル!」  
「な、何……?」  
 別れの挨拶。今まで言えなかったことも、言いたかったことも、全部言ってやるさ。  
 俺が素直に自分の気持ちを語るなんざ、一生に一度、あるかないかだぜ? よーく聞けよ。  
 
「さんきゅ。目え覚ましてから今まで、随分世話になったな。飯、すっげえうまかったぜ」  
「ステア……?」  
「俺さ、おめえに今まで随分辛い思いさせたと思う。だから、これが、俺にできる、おめえに対するせ 
いいっぱいの償いとお礼」  
「ステア、あなた……」  
「『トラップ』を、おめえに返してやるよ。仲良くしろよ。運命の相手なんだからさ」  
「あ……」  
 そうだ。これが、俺にできるおめえへの最高のプレゼント。  
 「トラップ」を返してやること。パステルが1番喜んでくれるプレゼント。  
 ありがとう。……二週間、辛かったことも、寂しかったことも、何もかも投げ出してしまいたかった 
ことも。  
 おめえの顔を見るだけで、忘れられた。生きているんだと実感できたのは、おめえのおかげだ、パス 
テル。  
 足元に生えるワスレナグサを、一輪摘み取った。  
 この蜜を飲めば、全てが……  
「ステア!」  
「……?」  
 口元に花を運んだ途端、響いたパステルの声。  
 視線を向けると、パステルは……じっと俺を見つめていた。  
 俺を。「ステア・ブーツ」を見つめて叫んだ。  
「あなたはトラップじゃない。トラップのかわりなんかじゃないわ、ステア・ブーツ。二週間……楽し 
かった。わたし、忘れないから。あなたのこと、絶対に忘れないから!」  
 ……ああ。  
 だから、俺はおめえのことが好きなんだ。  
 俺はおめえに最高のプレゼントを渡して消えるつもりだったのに。  
 おめえは、俺にとって、最高のプレゼントを返してくれた。  
 忘れないでいてくれること。俺の存在を、なかったことにしないこと。  
 パステル。俺も忘れねえよ。  
 例え消えても、「トラップ」になっても。例え他の誰を忘れても。  
 おめえのことだけは、絶対に忘れねえ。  
 蜜を飲み干した瞬間、俺の頭の中は、真っ白に弾けとんだ。  
 
 「だ、大丈夫!?」  
 目が覚めた途端、聞こえてきたのは、すげえ懐かしい声。  
 ――――っつう、何だ、こりゃあ。  
 頭ががんがんする。俺、今まで何してたんだ?  
 何か、すげえ長い夢を見ていたような……  
 って何だよこの口の中に残るとんでもねえ味は!!  
「……っ……ま、まじい……何だ、こりゃ?」  
「え?」  
 うめきながら体を起こす。  
 目の前にとびこんできたのは……パステル。  
 ここはどこだ?  
 気がついたら、俺は知らねえ場所にいた。辺り一面に白い小さな花が生えている、覚えのねえ場所。  
 そして、俺の手の中に残る一輪の花。  
 ……一体何が起きたんだ??  
 だが、俺の様子に構うことなく、パステルは叫んできた。  
「トラップ……トラップなのね!!」  
 お、おめえ、今更何言ってやがる?  
「あん? あたりめえだろうが。他の誰に見え……ぱ、パステル!?」  
 俺が答えた瞬間、パステルは、目に涙をいっぱいに浮かべて俺にしがみついてきた。  
 ……一体何が起きたんだ??  
 えーと、考えよう。確か、俺は財宝を捜すクエストで、罠にひっかかって……パステルをかばって、 
大怪我をして……  
 ……まあ、いいか。ちゃんと生きてるみてえだし、パステルにも怪我はねえみてえだし。  
 何より、こうしてパステルを抱きしめるのが、何だかすげえ久しぶりなことに思えたから。  
 長いこと、おめえに会えなかったような気がするな。  
 何が起こったのかは、後で説明してもらうとして。とりあえず、今は……  
 ただいま、パステル。  
 眩しい月光が降り注ぐ中、俺とパステルは、いつまでも抱き合っていた――  
 

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