「あんた……誰だ?」  
 とても冷たい目で、彼は言った。  
 いつもはいたずらっこみたいな輝きを浮かべているその茶色の瞳には、不審そうな色しか浮かんでな 
くて。  
 わたしを見て、彼はもう一度言った。  
「あんた、誰だ?」  
 鮮やかな赤い髪も、細く引き締まった身体も、いつもと何も変わらない。  
 それなのに、目だけは、見たこともないほど冷たく光っていた――  
 
   
「ぱーるぅ。何かいいことあったんかぁ?」  
「んー? うん。とってもいいことがね」  
 ルーミィの問いに、わたしはにこにこしながら答えた。  
 自分で言うのも何だけど、最近わたしは機嫌がよかった。  
 あの、「真実の愛を見せたものにだけ解けるクエスト」の後、わたしとトラップは、晴れて両思いに 
なれたんだよね!  
 素直に本音を告白したら、今までトラップを見るたびに感じてたもやもやが、すーっと晴れていくの 
を感じたんだ。これが、悩みを解決した気分、なのかな?  
 もちろん、だからって生活は普段と全然変わらないんだけどね。二人っきりになるチャンスなんてな 
かなかないし。  
 でも、「いつまでも黙っとくわけにはいかねえだろ」っていうトラップの言葉で、クレイ、キットン、 
ノルには、ちゃんと伝えたんだ。ルーミィには……もうちょっと大きくなってから、ね。  
 みんな驚くかなあ、って思ってたんだけど。何故かクレイ初めとして  
「やっとか」「遅すぎたくらいです」「おめでとう」と、ちっとも驚いてくれなかった。  
「気づいてなかったのはおめえくれえだよ」とはトラップの言葉なんだけど。ううっ、そんなにばれば 
れだった?  
 まあ、だからって特別扱いはしないで、っていうことだけは、ちゃんと伝えておいたけどね。だって 
……恥ずかしいじゃない。  
「っつーわけでさ、俺とルーミィ、部屋交代していいか?」  
「バカモノ!!」  
 もー、調子に乗りすぎ!!  
 
 とまあ、こんな感じでしばらくは平和で幸せな時間が流れてたんだけど。  
 いつまでもシルバーリーブにとどまってるわけにはいかないもんね。いつまでもレベルが上がらなか 
ったら冒険者カード剥奪されちゃうかもしれないし。  
 というわけで、新しいクエストにまた出かけることになったんだ。  
 今回のクエストは、どこかのお城に眠ると言われる財宝を捜すっていうクエストなんだ。  
 もちろん、見つけてきたのはお宝には目のないトラップ。  
 ただ、わたし達のレベルでは、ちょっと厳しいクエストみたいなんだよね。  
 敵も1番レベルの高いクレイで何とかなるかな? ぐらいのレベルみたいだし、城の中は罠だらけだっ 
て言うし。  
 だから、最初はわたしもクレイもあまり気が進まなかったんだけど。  
「だーいじょうぶだって。罠なんざなあ、俺がちょいちょいっと見つけてやっから。それにな、たまに 
はこういう冒険しねーと、身体がなまるだろ?  
 いつまでも弱っちい敵ばっか相手にしてたら、成長できるもんもできなくなるぞ」  
 というトラップの言葉に、押し切られることになった。  
 そうだよね……たまには、難しいクエストに挑戦してみないとね! よし、がんばるぞー!  
   
 だけどねー、やっぱり考えが甘かったんだ。  
 モンスターは、確かにクレイとノルの二人がかりで何とか倒せた。  
 しかけられた罠も、トラップがことごとく解除してくれた。  
 でもでもでも!  
 あまりにもぎりぎりすぎて、全然余裕がないの! 回復する暇もなく走り回ったりモンスターと戦っ 
たりで、一階を突破して二階に何とか進んだ頃には、もうみんなへとへと。  
 キットンの薬草だって、限りがあるしねえ……  
 城は、外から見る限りは五階建てくらい。いくら何でも、ちょっとクリアは無理じゃないか、って、 
みんな思ってたと思うんだよね。  
 かく言うわたしが1番思ってたかも。「もう帰りたい」って。  
 ところが、一人だけ元気だったのがこの人。  
「だらしねえなあ。まだまだ先は長えんだぞ? ほれ、さっさと立つ立つ」  
 見ればわかると思うけど、トラップ。もー、何で一人だけそんなに元気なのよ!  
 
「ねえ、トラップ。引き返さない? わたし達じゃ、ちょっと無理だよ」  
 無駄だろうなあ、と思いつつ言ってみたんだけど。  
「ああ!? ここまで来て引き返す? おめえなあ、それでも冒険者か! この先にお宝が待ってんだ 
ぞ!」  
 やっぱり無理でした。もー、宝のことになるとまわりが見えなくなるんだから。  
 クレイの方に目をやると、彼はしばらく考え込んでたみたいだけど、  
「……よし。とりあえず二階の攻略には挑戦してみよう。もしかしたら、簡単に突破できる通路みたい 
なものがあるかもしれないし。無理そうだったら、あるいはキットンの薬草が尽きたら、今回は諦めて 
引き返す。それでいいな?」  
 トラップはちょっと不満そうだったけど、何と言ってもクレイはリーダーだもんね。文句は言わなか 
った。  
 今になって思うんだ。  
 どうして、わたしはこのとき、強引にでもトラップを止めなかったんだろうって。  
 あるいは、どうしてわたしは、もっと慎重になれなかったんだろう、って。  
   
 それは、2階のある通路に出たときだった。  
 その通路は、今までの大理石みたいなものでできた白い通路と違って、赤、青、黄色とすごくカラフ 
ルなタイルがしきつめられた通路だった。  
 今までの通路は、絶対何体かのモンスターがいたんだけど、この通路に限ってはすごく静かだったん 
だよね。  
 だからかえって不気味だった。「みんな、慎重にな」っていうクレイの言葉で、先頭のトラップの後 
をぴったりついていったんだけど。  
「……あー、こういうタイプの罠か」  
 一歩踏み出した途端、トラップが嫌そうな声をあげた。  
「どうしたの?」  
「ここな、特定のタイルを踏んでいかねえと、多分罠が発動する。俺が歩いた場所だけを通れよ。一歩 
でもずれたら多分アウトだ」  
 な、なんですってー!?  
 その言葉に、クレイが慌ててルーミィとシロちゃんを抱き上げた。同時に、ノルがキットンを肩車。  
 二人(と一匹)は、トラップと歩幅が違いすぎるもんね。そうやって、わたし達は細心の注意を払っ 
てトラップの後をついていったんだけど。  
 しまった、と思ったのは、トラップが赤→青→赤、と進んだとき。  
 ちょうど、通路の真ん中くらいだった。それまでは、赤→青→黄色、と順番に進んでいったのよ。  
 トラップは、一歩踏み出すごとに次のタイルを慎重に見極めてとんでたんだけど、わたしにはどのタ 
イルに違いがあるのかさっぱりわからないから、色で覚えてたんだよね。  
 だから、赤→青→と来たら、次は絶対黄色だ! って思いこんじゃって。  
 気がついたら、わたしはトラップとは違うタイルを踏んでいた。  
 
ガコン  
 瞬間響く、すごく不吉な音。  
「あっ……」  
「パステル!」  
「きゃああああああああああああああああああああああああ!!!」  
 ガコンガコンガコン  
 その瞬間、床のタイルがすごい勢いで組み替えられていった。  
 もちろん、上に乗っているわたし達のことなんかお構いなし。  
 このとき、わたし以外のみんなは赤いタイルに乗ってたんだけど。赤は赤、青は青、黄色は黄色でタ 
イルがまとまっていって。  
 そして。  
 ガッコン  
 最後のタイルがはまったとき、通路は赤、青、黄色の見事な三色ゾーンに別れていた。  
 黄色のタイルに乗っていたわたしは、みんなとは随分引き離されていて。  
 ああ、どうしようどうしよう、と、とにかくみんなのところに戻らなきゃ。  
 そう思って一歩踏み出した途端、真っ青になって叫ぶトラップ。  
「バカ!! 動くんじゃねえ!!」  
「え?」  
 その瞬間。  
 わたしの足元のタイルが……消えていた。  
 黄色のゾーンが、まるで最初からなかったかのように、ごそっと消えたのよ!!  
 もちろん、足場をなくしたわたしが立っていられるはずもなく……  
「きゃあああああああああああああああ!!」  
 再び悲鳴をあげていた。そのときには、もうわたしの身体は落下を始めていて。  
 何とか、目の前に何事もなく残っている青いタイルに指をひっかけたんだけど、だ、駄目!! 指に 
力が入らないいい!!  
 ちらっと下を見れば、どこまでも真っ暗な穴。  
 ぞわぞわぞわっ。こ、こんなとこ落ちたら……わたし……  
 
「きゃあああああああ! だ、誰か助けてえ!!」  
「うっせえ! 黙れっ」  
 そのとき上から響いてきたのは、とても頼りになる声。  
「とらっぷぅ……」  
「あーったく、おめえはどこまでドジなんだよ!! いいか、今引き上げてやっから、暴れんなよ!!」  
 そう言うと、トラップは、タイルにひっかけていたわたしの手首をぐいっとつかんだ。  
 後ろから「トラップ、手伝う」というノルの声。  
 ああ、よかったあ……と思ったそのときだった。  
 足首に、何かがしゅるりっ、と巻きついた。  
「……え?」  
 下を見る。相変わらずの完全な闇。だけど、よーく目をこらしてみたら、そこには何かがうごめいて 
いて……  
 ぐいっ!!  
「きゃああああ!?」  
「うわああああああああああああ!!!」  
 わたしの足首にまきついた「何か」は、そのままわたしをひきずりおろした!!  
 それも、わたしの手首をつかんでいたトラップもろとも……  
 このとき、トラップがすぐに手を離していれば。罠にひっかかるのは、わたしだけですんだのに。  
 落ちる瞬間、わたしは見てしまった。  
 トラップが、意地でもわたしの手首を離そうとしなかったのを。  
 それどころか、落ちる最中、わたしを庇うようにして抱きかかえ、体勢を入れ替えてくれたことも。  
 トラップ――!!  
 彼の身体に抱きついたとき。  
 激しい衝撃が襲って、わたしは意識を失ってしまった。  
 
 
――ル――  
 ん……  
 ――ステル、――か?  
 何……何が起きたの……?  
「パステル、大丈夫か!?」  
「きゃあっ」  
 耳元で響いた声に、わたしは飛び起きた。  
 あれ? わたし……  
 きょろきょろと見回すと、そこはあまり広くない穴の底……だった。  
 すごく上の方に光と、心配そうに見おろしているノル、キットン、ルーミィ、シロちゃんの顔と、た 
らされたロープが見える。  
 そして、わたしの目の前には、クレイ。  
 ……あれ?  
「ね、ねえ……」  
「よかった、無事か? 怪我はない?」  
「う、うん」  
 そう、結構な高さを落下したと思うんだけど、幸いなことに、わたしには全然怪我がなかった。  
 ふと思い出して足首を見ると、そこには黒い紐みたいなのが巻き付いていた。  
 よーく見れば、穴の底に、変な植物がいくつか生えていて、そこから紐のようなつるが伸びている。  
 わたしの足をひっぱったのは、あのつるなんだよね。よ、よかった。モンスターじゃなくて。  
 わたしに怪我がないってわかると、クレイはすごくほっとしたみたいだった。  
 ショートソードで足にまきついたつるを切ってくれると、わたしに背を向けた。  
「じゃあ、俺におぶさって。穴を登るから」  
「うん……ね、ねえ、トラップは!?」  
 穴の中にはわたしとクレイだけ。上に見えるのはノル達だけ。トラップの姿が、どこにも見えない。  
「ねえ、トラップは? 大丈夫だった?」  
「……あいつは……」  
 クレイの顔が辛そうにゆがんだ。けど、何も説明してくれない。  
 何が――あったの?  
 
「詳しいことは、上に上ってから話すよ。とにかく、つかまって」  
「う、うん」  
 クレイの背中におぶさりながら、わたしは泣きそうになっていた。  
 ううっ、わたしって、どうしてこんなにドジなんだろう。  
 もっと慎重になっていれば、そんなに厳しい罠じゃなかったのに。  
 わたしのせいで、トラップまで巻き込んで……  
 トラップ、無事でいて――!!  
   
 上に上ると、「ぱーるぅ!」と真っ先に抱きついてきたのはルーミィだった。  
 そのかわいらしい顔がもう涙でべしゃべしゃで。  
 ううっ、ごめんね、心配かけて……  
 ロープを支えてくれていたのがノル。「よかった、無事だったか」って、すごくほっとしたみたい。  
 そして……  
 キットンは、床にひざまづいていた。その前に横たえられているのは……  
「トラップ!!」  
 キットンの前に力なく倒れていたのは、トラップ。  
 その目はかたく閉じられていて、身体はぐったりしたまま。  
 そして……  
 その鮮やかな赤い髪。その髪がまだらに染まっていた。  
 あ、あの色って……血……?  
「きゃああああああああ!! トラップ、トラップ! トラップ!!」  
「あああパステル!! 動かしては駄目です!!」  
 思わずすがりつこうとしたんだけど、キットンに止められてしまった。  
 だって、だってだってトラップが! 大好きなトラップが……わたしの、わたしのせいでっ……  
「大丈夫です、死んではいません! すぐに手当てをすれば……とにかく、一度この城から出ましょう 
!!」  
 キットンの言葉に、みんな1も2もなく頷いた。  
 どうせ、黄色のゾーンの床が消えちゃって、その先には進めなくなってたんだもん。  
 細心の注意を払ってトラップをノルの背中に預けると、わたし達は一目散に城から脱出した。  
 幸いなことに、主なモンスターは行きにほとんど倒していたし。罠は全部トラップが解除してくれた 
後だったからね。脱出は、思いのほか簡単だったんだ。  
 
そのまま、わたし達は城のすぐ近くにある村にかけこんだ。  
 宿屋のベッドにトラップを寝かせて、改めてお医者さんを呼んだんだけど……  
「大丈夫、命の別状はないですよ」  
 と言われるまでの長かったこと!!  
 よかったあ、とみんなで手を取り合ったんだけど、トラップの目は、相変わらず閉じられたままで。  
「だいぶ頭を強く打ったみたいですから、意識はなかなか戻らないかもしれませんが、安静にさえして 
いれば、必ず目を覚ましますから」  
 そういって、怪我の治療だけをすると、お医者さんは帰っていった。  
 頭に白い包帯を巻いて寝ているトラップの顔は青ざめていたけど、確かに息はしっかりしていた。  
 トラップ……早く目を覚ましてね!!  
   
 それからしばらくわたし達はこの村に滞在することになった。  
 トラップは絶対安静で動かせなかったしね。頭の怪我だから、ちょっとした衝撃が致命傷になること 
もあるんだって。  
 ううっ、怖いなあ……  
 だけど、宿屋の代金とか、手持ちのお金ではどうしても厳しいから。クレイ達は村で日雇いバイトみ 
たいなことを始めて、かなり忙しそうだった。  
 わたし? わたしは、ずっとトラップの傍につきっきり。  
 だって、わたしのせいだもん。それに……トラップは、わたしの恋人……だし。  
 バイトのできないルーミィは、多分すごく退屈だったと思うんだけどね。クレイがよーく言い聞かせ 
てくれたのか、トラップが寝ている部屋には入ってこなかった。  
 その分、食事のときに顔を合わせると、「ぱーるぅ!!」って、しがみついて離れようとしなかった 
けどね。  
 そうして、一週間が過ぎた頃のことだった……  
 
その日、クレイは武器屋さん、ノルは材木屋さん、キットンは薬屋さんでバイトをしていた。  
 ルーミィとシロちゃんは、隣の部屋で絵を描いているみたいだった。  
 そして、わたしはトラップの枕元に座って、彼の額にあてた布を冷たい水でしぼっていた。  
 よく冷えた布を、額に置き直そうとして。  
 そのときだった。  
 突然、誰かに手首をつかまれた。  
 ……え?  
 細い指、腕、その割には強い力。  
 辿っていくと、トラップが、うっすらと目を開けるところだった。  
「と、トラップ?」  
「…………」  
 彼は無言だったけど、その目が、まぶしそうに2、3度まばたきした後、しっかりと開いた。  
「トラップ、トラップ、よかった目が覚めたのね!!」  
 よ、よかったあ!! お医者さんは大丈夫って言ったけど、すごく不安だったんだよね。このまま目 
を覚まさなかったらどうしようって。  
 よかった、本当によかった!!  
 わたしがだるそうに身を起こすトラップの身体にすがりつくと、トラップは……  
 どん、とわたしの身体を突きとばした。  
 ……え?  
 何、トラップ……どうしたの?  
 ふりあおぐと、彼の目は、ひどく冷たかった。鮮やかな赤毛も、細くひきしまった身体も、いつもと 
全く変わらない。  
 ただ、目が。いつもはいたずらっこみたいに輝いている目が、ひどく冷たくわたしを見おろしていた。  
「……あんた、誰だ?」  
「え……?」  
 トラップ……何、言ってるの……?  
「あんた、誰だ?」  
 茫然としているわたしに、トラップがもう一度聞いてきた。  
 その口調には、冗談とかが含まれているようには聞こえなくて。  
 いつもの軽い口調とは全然違うきつい声音。  
 
「トラップ……どうしたの? わたしよ、パステル……」  
「……知らねえ」  
「トラップ!?」  
「だあら……誰だよ、そのトラップって」  
 トラップは、いらだたしげに赤毛をかきまわして言った。  
「俺の名前はなあ、ステア・ブーツってんだよ。変な名前で呼んでんじゃねえ」  
 ――トラップ!?  
 その瞬間、わたしは部屋をとびだしていた。  
 お医者さんを呼んでこなくちゃ……ううん、キットンの薬屋さんの方が近い!!  
 とにかく、みんなを呼んでこなくちゃ!!  
 
「よおクレイ……何なんだよ、この連中は」  
 わたしが村中かけまわってバイト中の皆を無理やりかき集めて部屋に戻ると、トラップが放った第一 
声。  
 と、トラップ? 本当に……本当に忘れちゃったの?  
「おい、トラップ……」  
「ああ? おめえまであに言ってんだ? 誰だよトラップって」  
「お、お前なあ……」  
「幼馴染の名前忘れたのかよ? 俺の名前はステア・ブーツってんだよ。さっきからこの女もわめいて 
たけど、誰なんだよトラップって」  
 この女、で指差されたのはもちろんわたし。  
 トラップの言葉に、みんな茫然としてるみたいだった。  
 そりゃそうだよね。「ステア・ブーツ」……確かにトラップの本名だけど。  
 トラップは小さいときからずっと「トラップ」って呼ばれてきたはずなのに、一体?  
「あのー、ちょっといくつか質問させてよろしいですか?」  
 茫然としてるわたし達にかわって前に出てきたのがキットン。  
 トラップは、思いっきりうさんくさそうな目を向けている。  
「誰だあんた?」  
「あー気にしないでください。医者だと思ってください。えーと、ですね。とら……ステアさん。あな 
た年はいくつですか?」  
「ああ? 何でてめえにんなこと教えなきゃいけねえんだ」  
「あのですね、あなた、覚えてないかもしれませんが、頭を打ってずっと寝ていたんですよ。記憶が混 
乱しているといけませんので、いくつか確認させてほしいだけです」  
 トラップは、ちっと舌打ちした後、渋々キットンに向き直った。  
 ……トラップ、何だか態度が……変。こんなに冷たい人だった?  
 
「では、改めてお聞きしますが、年はいくつですか?」  
「17だよ。もうすぐ18になるな」  
「ほうほう。えーお住まいは?」  
「ドーマっつう街……おい、そういやここはどこなんだよ。俺の部屋じゃねえな」  
「あのですね、目を覚ます前……何をしてらしたか、覚えてますか?」  
「…………」  
 この質問に、トラップはちょっと顔をしかめた。  
 しばらく頭を押さえてたけど、やがてボソッとつぶやいた。  
「覚えてねえ……」  
「そうですか。ま、あなた一週間以上も寝てたんですからね。頭の怪我は怖いですから、もうしばらく 
大人しく寝ていた方がいいですよ」  
「…………」  
 トラップは、何だか不審そうな目でわたし達を見回した後、もう一度ベッドに横になった。  
 背中を向けて、振り返ろうともしない。  
 トラップ……本当に、本当に忘れちゃったの? みんなのこと……  
「隣の部屋に、行きましょうか」  
 キットンに促されて、わたし達は部屋を移動した。  
 
「キットン、どういうこと!? トラップはどうなっちゃったの!」  
 隣の部屋に戻るなり、わたしはキットンを締め上げていた。  
 だってだって!! とても冷静でなんかいられない。  
 あんなのトラップじゃない。絶対変……一体どうしたの!?  
「ぐ、ぐるじい……ばすてる、は、はなして……」  
「パステル、落ち着いて」  
 後ろから響くクレイの優しい声。その声に、やっと我に返る。  
 そうだよね……辛いのは、わたしだけじゃないよね……落ち着かなくちゃ。  
「ごほん。えーっとですね、多分、記憶が混乱してるのではないかと」  
 キットンの言葉に、皆が耳を傾ける。  
 記憶が混乱……やっぱり、頭を打ったから?  
「私の推測なんですけどね……トラップがああなったのは、まあ言いにくいんですが、パステルが原因 
ではないかと」  
「わ、わたし!?」  
 え、いやそうだよね。わたしがあんな罠にひっかかったせいだもん。確かにわたしのせいだよね……  
 ううっ、落ち込むなあ。  
 ずーん、と落ち込んでしまったわたしに、キットンが慌てて手を振っていった。  
「いや、勘違いしないでください。わたしはですね、別に頭を打った原因について言ってるわけじゃな 
いんです。  
 あのですね、あまり一つのことについて考えすぎると、強い衝撃を受けたとき、その部分が焼ききれ 
たようにすぽんと脳から消える……トラップに起きているのは、おそらくこんな状態じゃないかと思う 
んですよね」  
「え?」  
 どういうこと?  
 わたし達が顔にクエスチョンマークを浮かべると、キットンはぼさぼさ頭をかきむしりながら、  
「つまりですねえ……あの罠にひっかかった瞬間、トラップの頭には、多分パステルのことしかなかっ 
たんじゃないですかね? 助け出すときだって苦労したじゃないですか」  
「え?」  
 助け出すとき? そういえば、わたしの前にトラップが先に外に出されてたけど。  
 
 わたしが振り向くと、クレイがうんうんと頷きながら、  
「そう。気絶してたパステルは知らないだろうけど……トラップの奴、完全にパステルの下敷きになっ 
てたんだ。だからパステルは怪我一つしなかった。それでね、あいつの腕は、パステルの身体をしっか 
り抱きしめていて、引き離すのに苦労したんだ。  
 頭から血を流してて、どう考えてもあいつの方が重傷だったのに」  
 ……トラップ。そんなに……ごめん。本当に……ごめんね……  
 そんなわたしの様子に全く構わず、キットンの話は続く。  
「だからですね、トラップは頭を打つ直前、パステルのことしか頭になかった。そして衝撃を受けた瞬 
間、パステルのことが脳からふっきれた。とまあ、そんなところじゃないか、と思うんですが」  
「いや、しかしキットン。それなら、あいつはどうしておまえ達のことまで?」  
「記憶の整合ですよ」  
 ……整合??  
 段々複雑になっていく話に、わたしはパニックになりそうになったんだけど。  
 うーっ、ちゃんと聞かなくちゃ!! トラップがああなったのは、わたしのせいなんだから。  
「つまりですねえ、仮にトラップの頭からパステルのことだけが消えたとしますよね。だけど、これま 
での記憶からパステル『だけ』を完全に消してしまうと、色々と不都合なこと、理屈に合わないことが 
起きるんじゃないかと思うんです。  
 例えば、パステルと出会わなかったのにルーミィとだけ出会うということは、ありえなかったわけで 
すからね」  
 うん、それはそうだよ。わたしがルーミィと知り合って、その後トラップ達と知り合ったんだから。  
「だから、寝ている一週間の間、多分トラップの脳はフル回転してたんじゃないですかね。おかしなと 
ころ、都合の悪い記憶はどんどん消して、結果として幼馴染のクレイ以外のことは忘れてしまい、彼の 
中では冒険者になったという事実すら消えてしまった。  
 とまあ、こんなところではないかと」  
「いや、待て。それはおかしい」  
 キットンの言葉を、クレイが遮る。  
「あいつが『トラップ』と呼ばれていたのはずっと昔からだ。物心つく前から。むしろ『ステア・ブー 
ツ』の名前で呼ばれたことの方が、ずっと少なかったはずなんだ。それなのに、あいつは『トラップ』 
という愛称を忘れている。これっておかしくないか?」  
 
「ぐふふふふ。そこが多分、この話の中心じゃないか、と思うんですよ」  
 何がおかしいのか、キットンは笑いながら言った。  
「思うにですねえ……記憶を組み替えることによって、トラップ……いや、ステアと呼ぶべきなんでし 
ょうか? 彼は、人格にすら影響が出たのではないかと思うんです。私の個人的な考えですが、パステ 
ルと出会って、トラップは随分性格が変わったと思うんですけどねえ」  
 え? ……そうなの?  
 初めて出会ったときから、トラップはトラップだったと思うけど。  
 でも、首をかしげているのはわたしだけで、他のみんなは「確かに」とか頷いていた。小さいときか 
ら知ってるクレイなんか、「全くだ」なんて感慨深そうにつぶやいてるもんね。  
 ううっ、気づいてないのわたしだけなの?  
「だから、パステルのことを忘れて記憶を作り変えることによって、彼の性格は『もしパステルと出会 
わなかったときのトラップ』になってしまったのではないかと。  
 皮肉屋で、疑い深くて、滅多なことでは他人に感謝もしないし謝りもしない。自分の欲望に忠実で、 
仲良くなるまでは決して気を許さない、そんなトラップにね。  
 まあ、今は怪我のショックで混乱しているのもあって、余計にとげとげしいんでしょうけど」  
 き、キットン……そこまで言わなくても……  
「だから、今のトラップは姿形こそトラップかもしれませんが、中身はまったくの……いえ、半分ほど 
別人になったと思った方がいいのではないかと。ですから、彼の頭の中では、『自分はトラップではな 
い』という思いがどこかに残ってるんですよ。  
 その結果、新しい人格に名づけられたのが『ステア・ブーツ』。決して呼ばれることのなかった本名 
ではないか、と思うんですが。いかがでしょう」  
 いかがでしょう、って言われてもねえ……  
 キットンの言葉を聞いて、みんなシーンと静まりかえってしまった。  
 だってだって……それって、すごく大事じゃない?  
 性格が変わるくらい記憶が組み替えられたなんて……そんなの、本当に治るの?  
 
「で、キットン……あいつは、治るのか?」  
「うーん、そうですねえ」  
 クレイの言葉に、キットンはしばらく考えこんでいたけど、  
「ありがちなパターンとしては、もう一度同じ状況下に置くというのはどうでしょう」  
「だ、駄目駄目駄目! 絶対駄目っ!!」  
 もー何考えてるのよ!! そんなことして、今度こそ本当にトラップが死んじゃったらどうするつも 
りよ!!  
 わたしの言葉に、キットンは「ま、そうでしょうねえ」なんてげらげら笑ってたけど、みんなににら 
まれてぴたっと黙った。  
 笑ってる場合じゃないんだからね、もう!!  
「えーと、ですね。とりあえず、色々調べてみたいと思います。トラップの怪我もまだ治らないですし、 
もうしばらくはここに滞在したほうがいいかと」  
「そうだな。こんな状態でシルバーリーブに連れ帰っても、あいつが混乱するだけだろうし」  
 キットンの言葉に、クレイもうんうんと頷く。  
 そうして、わたし達はまだしばらくこの村に滞在を続けることになったんだけど……  
「ああ、パステル」  
「え、何?」  
「トラップの世話は、あなたにまかせます。トラップの記憶喪失の原因があなたなら、取り戻すきっか 
けもきっとパステル、あなただと思いますので」  
「そうだな。パステル、ああなったトラップの世話は大変かもしれないけど……頼むよ」  
 キットンとクレイの言葉に、わたしは大きく頷いた。  
 うん、まかせて! 絶対トラップを元に戻してみせるんだから!!  
 
 とは言ってみたもののねえ……実際以上に、トラップ……ううん、ややこしいからステアって言うね。 
ステアの世話は大変だった。  
 大体、普段は人一倍うるさいあの人がだよ? 一日中ベッドの中でぼーっとしているのが、そもそも 
普通じゃないし。  
 ステアにしてみれば、今まで自分はドーマの家で盗賊の技術を学んでいる最中だった、ってことにな 
ってるらしいのよね。  
 それが、実は自分はもうとっくに冒険者になっていて、名前はトラップで、そしてわたし達とパーテ 
ィーを組んでいたんだ、と言われても。何が何だか、理解が追いついてないみたい。  
 彼にしてみれば、見知らぬ女(わたしのことね)が、かいがいしく自分の世話を焼いてるんだもん。 
そりゃあ、不気味に思うよねえ……  
 わたしは暇さえあれば、「トラップ」の話をしようとしてみたんだけど。ほら、よくあるじゃない。 
記憶を取り戻すきっかけ……っていうのかな? そういうのになってくれないかな、と。  
 ところが、話しかけようとすると、ステアは「うっせえ」の一言で布団をかぶって背中を向けてしま 
う。  
 うーっ、もう、どうすればいいのよう。  
 わたしはしばらく途方にくれてたんだけど、キットンに相談したところ、「余計に混乱させるだけな 
ので、『トラップ』の話はしない方がいいと思います」と言われてしまった。  
 ふむ、言われてみれば、そうかも。第一、「記憶の整合」とやらも完全ではないらしく(当たり前だ 
よね。事実じゃないんだから)、ステアとしての記憶すらも少し曖昧なところがあるみたいだし。  
 よし、こうなったら、とにかく早く怪我を治してもらおう。シルバーリーブに戻れば、もしかしたら 
記憶が戻るかもしれないし。  
 それに……いくら人格が変わるくらい記憶が混乱してるって言っても、トラップはトラップだもん。 
わたしの大好きな人に、かわりはないし。冷たくされるのは、やっぱり悲しい。  
 少しでも気を許してもらえるように、がんばるぞ!  
   
「おはよう、ステア! 朝ごはん、持って来たよ」  
 トラップ……ステアが目を覚ましてから一週間。  
 怪我は大分よくなったみたいだけど、相変わらず彼は部屋でベッドに入ったっきりだった。  
 うーっ、普段のトラップだったら、「大人しくしてろ」って言っても無理やり外出するような人なの 
に……人格が変わると行動パターンまで変わるものなのかな?  
 この一週間、わたしは同じ部屋で寝泊りしながら(ちなみに、わたしは床で毛布にくるまってるんだ 
けどね)彼の世話を続けていた。  
 ステアも、最初に比べれば、パーティーの皆に悪意がなく、純粋に心配してくれてるってことがわか 
ったのか、ちょっとは気を許してくれてるみたいなんだけど。  
 やっぱり、どこかよそよそしい感じがする……完全に気を許してもらえることは、ないのかなあ。  
「……ああ。今日の飯、何?」  
「えっとね、卵サンドイッチとスープ」  
 ステアの食事は、わたしが全部作ってるんだ。宿に頼めば朝食を出してもらえるけど、実はその…… 
お金がそろそろ厳しくって。  
 今のところ、わたしがステアの世話にかかりっきりでキットンが彼の記憶を戻すために部屋にこもっ 
て調べ物、バイトに出ているのがクレイとノルだけなので、収入と宿代その他の出資を合わせたら、ち 
ょっと赤字なんだよねえ……  
 そんなわけで、節約できるところは節約することにしたんだ。  
 最初、わたしの手作りって聞いて、ステアはすごく嫌そうな顔したんだけど。  
 一口食べたら、「うまい……あんた、料理うまいな」って感心してくれたんだ。それ以来、少しずつ 
わたしとしゃべってくれるようになった。  
 ……食べ物に弱いところとか、元のトラップと同じかも。やっぱり同一人物なんだよねえ。  
「はいっ、たくさん食べてね。あ、何か食べたいものがあったら言ってね。昼食に持ってきてあげるか 
ら。寒くない? 大丈夫だったら、空気を入れ替えたいからちょっと窓を開けさせてね」  
 わたしがしゃべりながら部屋を片付けたり窓を開けたりしてる間、ステアは黙って朝食を食べてたん 
だけど。  
 いつもなら、わたしが気がついたときにはもう食べ終わってて、彼はベッドに横になっていることが 
ほとんどなのに、今朝は何だかいつもと違った。  
 
「……ごちそうさま」  
「え?」  
 ご、ごちそうさま!?  
 トラップにしろステアにしろ、今まで一度も聞いたことのない言葉を聞かされて、わたしは思わず振 
り返ってしまった。  
「……んだよ。そんなに驚くこたねえだろう」  
「だ、だって……」  
「……悪かったと思ってんだよ、あんた……パステルには」  
「え?」  
 あれ、ステア、もしかして……初めて、わたしの名前を呼んでくれたかも?  
「俺が目え覚めたとき……心配してくれたあんたをつきとばして、悪かったと思ってんだよ。ここんと 
こ、ずーっと俺の世話にかかりっきりだしな」  
「あ、何だ。そんなこと、気にしなくてもいいのに」  
 ステア……気にしてくれてたんだ?  
 ふーん。ちょっと意外かも……  
「あのときは目が覚めたばっかりで混乱してたんだし。あなたの世話は、わたしが好きでしてるんだか 
ら。だから全然気にすることないよ」  
「…………」  
 わたしが笑って言うと、ステアは、何故だか顔をそむけた。  
 ……? 何か、耳が赤くなってる。どうしたんだろ?  
「……あのさ、ちょっと聞いていいか?」  
「え? 何?」  
 顔をそむけたまま、ステアはぼそっとつぶやいた。  
「こうなっちまう前の俺……『トラップ』は……」  
「うん?」  
 あれ、ステアの方から「トラップ」の名前を出すなんて珍しいなあ……どうしたんだろ?  
「……やっぱいいや。昼飯、できれば肉が食いてえ」  
 何を聞かれるか、とちょっとドキドキしてたんだけど。  
 結局、ステアはそれ以上何も言わず、またベッドに横になってしまった。  
 ……何を言いかけただろう? 気になるけど、無理に聞いても、教えてくれないだろうなあ。  
 ま、いいや。そのうちわかるでしょう。  
 わたしは朝食のお皿を洗うべく、台所へと下りていった。  
 
 わたし達が待ち望んでいた情報が出たのは、それからさらに3日後だった。  
 わたしは相変わらずステアの世話を続けてたんだけど、最近のステアは、わたしとのおしゃべりにも 
付き合ってくれるようになったし。  
 パーティーのみんなのことも、名前で呼んでくれるようになったし。大分気を許してくれたかな?  
とちょっと安心していたときだった。怪我も順調に治ってるしね。  
 その日の夜、キットンが「ちょっと部屋に来てください」って言うので、ステアに断って隣の部屋に 
行ってみたところ。  
「ああ、パステル、喜んでください。トラップの記憶を取り戻すてがかりになりそうなものが、見つか 
りました」  
「ええっ!?」  
 ほ、本当に!? よかったあ……このままだったらどうしようかと思ってたんだよね。  
「ねえねえ、何なの!?」  
「はい。私が調べてみたところですね、この村の裏にある山……そこの奥深くに、『ワスレナグサ』と 
いう花が自生している場所があるらしいんですよ」  
 ワスレナグサ??  
 そんな花があるんだ。  
「ワスレナグサはですね、満月の夜にある条件がそろったときにだけ花を咲かせるという特殊な花なん 
ですが、花が開いた直後、その花びらの中には、蜜がたまっていると言います。  
 この蜜には、忘れていたことを思い出させる効能がある、という話です」  
「じゃあ、その蜜をトラップに飲ませれば……」  
「はい。おそらく、『トラップ』としての記憶が戻るのではないかと」  
 トラップが、戻ってくる……  
 わたしは、ほっとして膝から崩れ落ちてしまった。  
 だってだって、すっごく不安だったんだもん! このままトラップが戻ってこなかったらどうしよう、 
わたしのせいでどうしようって。  
「満月……って、明日の夜じゃないか!? じゃあ、すぐにその花を持ってくれば……」  
 ほっとしたのはわたしだけじゃないみたいで、今すぐにでも出かけたそうなクレイが続けた。  
 そうだよねえ……クレイも、わたしに負けず劣らず心配してたもんね。わたしなんかより、ずっと長 
い付き合いなんだもん。  
 ところが。わたし達の喜びに水を差すように、キットンは続けた。  
「ところがですねえ……話は、そう簡単でもないんですよね」  
「え?」  
 な、何? 何か問題でもあるの?  
 
「ワスレナグサはですね、満月の夜にしか咲かないんですが。他にも条件があるんですよ。ワスレナグ 
サには妖精が宿っていて、花を咲かせるのは妖精の役目なのです。ところが、この妖精がとても恥ずか 
しがりやで、大勢の人がいると姿を現しません」  
「えーと?」  
「つまり、大人数で行っても、花は開かないということです」  
 な、何ですって!? それって、つまりみんなで取りにいっちゃいけない……ってことだよね?  
「では何人ならいいのか、ということなのですが……この妖精は、恥ずかしがりやなのに好奇心が強い 
という変わった性質を持っていましてね。強い絆で結ばれた二人が現れた場合、その絆を見ようとして 
姿を現すと言われています」  
 絆を見る? どういうことだろ?  
 そう思ったのはわたしだけではないらしく、クレイが話しに割り込んだ。  
「絆を見るってどういうことだ?」  
「はい。妖精には、我々には見えない色々なものを見ることができるらしいのですが、ワスレナグサに 
宿る妖精の場合、それが、まあいわゆる『運命の赤い糸』とかいう奴らしいですね。つまり、運命の人 
とは小指が赤い糸でつながっているというあれですよ。  
 しかし、そう都合よく運命の相手が見つかるなら誰も苦労はしないわけで、妖精にとってもそれを見 
るチャンスはなかなか無いようですね。だから、絆で結ばれた二人だけで行った場合なら、妖精は姿を 
現してくれると思います」  
 ……えーっと、それって……  
「しばらく姿を隠しておいて、花が開いた後でこっそり取りにいく、というんじゃ駄目なのか?」  
「いや、それがですね。この蜜は、開いた直後しかたまっていないそうなんです。少しでも時間が経つ 
と、あっという間に蒸発してしまうとか。ここはやはり、絆で結ばれた二人、が花を取りにいくのが1番 
ではないかと」  
 みんなの視線が集中するのを感じた。  
 ……強い絆で結ばれた二人……運命の赤い糸って……  
「すぐ蒸発してしまうということは、花をつんだらすぐ飲まないと効果が無いってことだよな。ってこ 
とは、取りにいく一人はどうしてもトラップ本人になるわけだ」  
「はい。そしてですねえ……我々の中で、トラップと強い絆で結ばれている、となると……」  
「わ、わたし!?」  
 思わず自分を指差すと、みんながいっせいに頷いた。  
 
 わ、わたしがトラップ……ステアと二人で?  
 ううっ、大丈夫なのかなあ……  
 それに、みんな大事なこと忘れてるよ。もし、わたしの運命の人が……トラップじゃなかったら?  
トラップの運命の人がわたしじゃなかったら?  
「いやあ、大丈夫でしょう」  
 キットンが、例によってぐふぐふ笑いながら言った。  
「何しろ、パステルのことだけを考えて人格すら作り変えた人ですよ? 絶対パステルに決まってます 
って」  
 そ、そりゃわたしもそうだったら嬉しいけど。不安だなあ……  
「パステル……今は、これしか方法が見つからないんだから」  
 わたしが迷っていると、クレイが優しく言った。  
「別に、今回は失敗したところで今より状況が悪くなることはないんだし。トラップの怪我だって随分 
よくなってるから、歩いても問題ないだろうし。気楽に行ってみればいいんだよ」  
「そ、そうだよね」  
 うん、よく考えたらそうだよね。万が一ワスレナグサが咲いてなかったとしても、それでさらに記憶 
の混乱が進むわけでもないし。  
「ああ、ただですねえ」  
 そこに、追い討ちをかけるようにキットンが言った。  
「その山、モンスターはいないみたいですが、獣の類はいるみたいですからね。。トラップは本調子じ 
ゃないでしょうし、十分気をつけてくださいね」  
 ……だ、大丈夫かなあ……  
 
 危険な獣がいるかも、という話に、やっぱりみんなもついていこうか? って言ってくれたんだけど。  
 どのへんまでならついてきても大丈夫か、がよくわからないし、そもそもワスレナグサが咲いている 
場所も正確にわからないし、で、結局わたしとステアの二人で行くことになった。  
 ううっ、不安……記憶は混乱してても、身についた技術にかわりはないはずだから、ステアの盗賊と 
しての実力は心配することはない、っていうのがキットンの意見だけど。  
 でも、ステアはしばらくずっと寝てたんだし。やっぱりいざとなったらわたしが守らないとね。  
 緊張するなあ……  
 キットンの話が終わった後、わたしはステアの部屋に戻った。  
 何しろ、満月の夜って明日の夜だもんね。これを逃すと、またしばらく待たなくちゃいけないし。  
 だから、明日の昼には早速出発。ステアにそのこと伝えないと。  
「ごめん、遅くなって。ステア、聞いて聞いて!」  
 ドアを開けながらわたしが言うと、ステアはベッドに身を起こして盗賊七つ道具を手入れしていると 
ころだった。  
 やっぱり、手つきは慣れてるなあ……記憶は混乱しても技術は失われないって、本当なんだ。  
「あのね、聞いて、ステア! 記憶を取り戻す手がかりが見つかったの!!」  
 わたしがベッドに歩み寄りながら言うと、ステアの手がぴたりと止まった。  
 だけど、ちらっとわたしの方を見ただけで、また手元に視線を落とす。  
 もーっ! 自分のことなのに、もうちょっと喜んでよ。  
「あのね、キットンが見つけてくれたんだけど……」  
 わたしは夢中でキットンの話を繰り返した。ちなみに、例の「絆で結ばれた二人が〜」のあたりはま 
だ秘密。それを話すと、どうしても「トラップ」の話をすることになるしね。  
 だけど、全部話し終わっても、やっぱりステアは無言。  
 ううっ、何か変だなあ。もしかして、気分でも悪いのかな?  
 
「ねえ、ステア。大丈夫?」  
「……何がだよ」  
「何も言ってくれないから……あのね、さっきも言ったけど、そのワスレナグサは満月の夜にしか咲か 
ないから、明日わたしと二人で取りに行くことになるんだ。怪我、大丈夫? 気分が悪いとかない?」  
「別に、何ともねえよ」  
「よかった! 明日を逃すと、また次の満月まで待たなくちゃいけないもんね。あのね、キットンが大 
体の場所教えてくれたんだけど、そんなに山奥ってわけでもないから、昼過ぎに行けば十分だと思う。 
だから……」  
「……嬉しそうだな、おめえ」  
「え?」  
 ステアの凄く冷たい声に、わたしは顔をあげた。  
 嬉しそうって……そりゃ、嬉しいわよ。やっとトラップが帰ってくるんだもん。  
 ステアだって、今の中途半端な記憶が辛そうだったじゃない……嬉しくないの?  
「そりゃ……嬉しいよ。だって、やっと」  
「前から聞きたかったんだけどよ」  
 わたしの言葉を遮るようにして、ステアは言った。  
「ずっと思ってたんだ。何で、俺の世話してるのはおめえなんだ?」  
「え?」  
 それは……トラップがこうなったのは、わたしのせいだから。  
 何より、心配だったから……  
「もしかしてさ、『トラップ』とおめえって、恋人同士なわけ?」  
「えっ……」  
 うっ、改めて言われると、照れるなあ……  
 そうなんだよね。ステアが聞こうとしなかったことと、キットンに止められたこともあって、わたし 
とトラップの関係とか、彼には何にも言ってないんだよね。  
 でも、今更否定してもしょうがないか。  
 
「う、うん……実は……」  
「へえ……『トラップ』は、おめえのどこがよかったんだろうな。美人ってわけでもねえし色気もねえ 
し、ドジだし」  
 な、何よー! そ、そんな言い方ないでしょ!?  
「わ、悪かったわねっ。わたしだってわからないわよ。でも、トラップはそんなわたしを好きだって言 
ってくれたんだから」  
「へえ。で、おめえも『トラップ』が好きだった、ってわけか」  
 そ、その通りだけど。  
 お願いだから、改めて言わないでよ。それも、トラップの外見で……  
「……そりゃ、嬉しいよな」  
「え?」  
「何でもねえよっ」  
 そう言うと、ステアは布団の中にもぐってしまった。  
 ……ステア、やっぱり変。何か言いたいことでもあるのかな?  
「ねえ、やっぱり変だよ? どうしたの?」  
「っせえな……何でもねえって」  
 わたしはベッドの傍まで寄ってみたけど、ステアはわたしから顔をそむけたまま。  
 うーん……気になる。  
 明日には、二人で出かけなくちゃいけないんだもん。なるべく、わだかまりとかは残さない方がいい 
よね。  
「ねえ、言いたいことがあるならはっきり言って」  
「…………」  
「ねえってば」  
 がばっと布団をめくって、ステアの顔を覗き込む、その瞬間。  
 ぐいっ  
「……え?」  
 ステアの手が、わたしの頭を抱えた。そのまま、わたしは寝転がったステアの胸の上に倒れこむ。  
 ……え? え? 何、この状況。  
「す、ステア?」  
「……『トラップ』とおめえが恋人同士だったんなら」  
「え?」  
「当然、やってたわけ? こーいうこと」  
 そう言うと、ステアはわたしを抱えたまま身を起こし……  
 そのまま、わたしは唇を塞がれていた。  
 
「――ん――!?」  
 な、なななななな何なの一体――!?  
 わ、わたし、き、き、キス……されて……?  
「なっ、何するのよっ」  
 思わずどん、とステアの胸をつきとばす。  
 だけど、つきとばしたその腕が、そのままステアにつかまれて。  
 ぐいっとひぱられたと思うと、そのときには、わたしはもう、ステアに抱きしめられていた。  
 見た目以上にたくましい身体に、思わず赤面してしまう。  
 そ、そりゃ、わたしとトラップは恋人同士で……  
 そ、その、前のクエストのとき、いわゆる「最後まで」経験しちゃったけど……  
 目の前にいるのは確かにトラップだけど。でも、中身はステアで……  
 ええと、えーっと……  
「おめえ、まさか初めて?」  
「なっ――そ、それはっ……」  
「まさか、違うよなあ。恋人同士なんだろ? 俺とおめえは」  
 ……えっ?  
 「俺」とおめえ……?  
 ステアは、今までずっと、自分は「トラップ」じゃないって言ってた。わたし達が「トラップ」って 
呼びかけても、絶対返事をしなかったくらい。  
 何で、急に……  
「す、ステア? どうしたの、急に……」  
「…………」  
 ステアは答えない。ただ、わたしを抱きしめて、しばらく背中をなでていたんだけど……  
 
 どんっ  
「きゃあっ!!」  
 そのまま、わたしはベッドに押し倒された。見上げると、目の前にすっごく真剣な顔をしたステアの 
顔。  
 中身はステアだけど、外見は全く同じ……わたしの好きな、トラップのまま。  
 ど、どうしよう……どきどきしてきちゃった。こ、この体勢って……  
 ステアは、しばらくじっとわたしを見つめていたけど。やがて……その唇が、わたしの唇を塞いだ。  
 舌先で強引に唇をこじあけられる。そのままからみつくように、吸い上げるような、深いくちづけ。  
「んっ……」  
「…………」  
 キスは長かった。そのまま、ステアの唇は、ゆっくりとわたしの首筋をたどって行って……  
 手が、ブラウスのボタンにかかった。  
「やっ……」  
「……やっぱ、初めてじゃ、ねえみてえだな……」  
 囁かれるステアのつぶやき。  
 なっ、何で、わかるの……?  
 ブラウスのボタンが、一つ、また一つと外される。  
 月光がさしこんで明るい部屋の中、ステアは、じっとわたしを見下ろしていて……  
 だっ、駄目……駄目、止めないと。だって、今のトラップは、ステアなんだから。  
 わたしが好きだったトラップじゃない、別人……なんだから。  
 わたしの理性はそう告げていたんだけど。  
 だけど、現実に、目の前でわたしの服を脱がせているのは、やっぱりトラップにしか見えなくて。  
 彼の手がわたしの身体を撫でるたび、段々身体が熱くなっていって……  
「やっ……あんっ……」  
「感じやすいみてえだな、おめえ……」  
 言いながら、ステアは、ぐいっと下着と素肌の間に手をこじいれた。  
 胸を直に触られて、思わずびくっとのけぞってしまう。  
 彼の手に、ゆっくりと力がこもって……  
「ああっ……あ、やあんっ……」  
「…………」  
 ステアは無言だった。手の動きは、段々激しくなっていく。  
 ううっ……やだっ……や、やめて……  
 違うっ、こんなの違う……わたし、わたしが好きなのは……  
 
 びくりっ!!  
 太ももに湿った感触を感じて、わたしは思わず脚を閉じようとした。  
 だけど、その瞬間、力強い手が、強引にわたしの脚を押し開く。  
 ゆっ、指っ。ステアの指が、わたしの太ももを伝い上っていって……  
 ズプリ  
「――――っ!!」  
 そのまま、彼の指が下着を押しのけるようにしてわたしの中にもぐりこむ。強く、かきまわすように 
して踊る指先。  
 ぐじゅっ、という音が響いて、何かが太ももを伝い落ちていった。  
「すげえ……濡れてんな……」  
「やだっ……やめて……」  
「…………」  
 ステアの手が、私の下着を無理やりはぎとった。  
 っ――駄目っ……  
「やめて――トラップ!!」  
「っ――……!!」  
 わたしが、そう叫んだ瞬間。  
 ステアの手が、ぴたりと止まった。  
 ……え?  
 いつのまにかぎゅっと閉じていた目を、おそるおそる開いてみる。  
 思ったよりすぐ近くに、ステアの顔。  
 その顔は……何だか、すごく悲しそうで……  
「……そんなに、トラップがいいのかよ」  
「え……?」  
「俺じゃ……俺じゃ、駄目なのか!?」  
「え、何言って……」  
 わたしの問いに、ステアは答えなかった。  
 そのまま、乱れた服を直すと、部屋を出て行ってしまう。  
 乱暴に閉められるドア。部屋には、わたし一人が残されて……  
 ステア……今の、言葉……どういう意味……?  
 
 翌朝。  
 わたしはベッドでステアが帰ってくるのをずっと待ってたんだけど、彼は帰ってこなかった。  
 うーっ、どこに行ったんだろう?  
 隣の部屋を覗いてみたけど、クレイ達も見てないらしい。  
 ……外に出ちゃったのかな? 戻ってくるかな……  
 ステアがいなくなった、と聞いて、みんなでしばらくどこに行ったか考えてたんだけど。  
 よく考えたら、この村に来てから彼はほとんど外出してないんだよね。  
 行くところなんかないはずなのに……  
 と、そこでキットンが顔をあげた。  
「パステル、あなた、今日出発することちゃんと伝えたんですか?」  
「え、うん。ちゃんと言ったよ」  
「ちなみに、何て説明したんですか?」  
「え、だから、キットンに言われたとおりに……」  
 わたしがステアにした説明を繰り返すと、キットンはうーんと考え込んだ。  
「それは、ちょっとまずかったかもしれませんね、パステル」  
「えーっ、何で? だって、わたしは言われたとおりに……」  
「いえ、だからですね」  
 キットンは、ぼさぼさ頭をかきむしりながら言った。  
「我々はですねえ、ワスレナグサの蜜を飲めば、トラップの記憶が戻る、と単純に喜んでましたけど。 
彼の立場から考えてみてくださいよ。トラップじゃないですよ? トラップの身体に今宿っている、ス 
テアの立場から。  
 彼の立場からしてみれば、蜜を飲んでトラップが戻ってくるということは、同時に自分が消える、と 
いうことになると思いませんか?」  
 ――あ!?  
 そ、それは……そう、だよね。  
 わ、わたし、そんなこと、ちっとも考えなかった……  
 
「……俺達、ちょっと軽率だったかもしれないな」  
 クレイが、心なしか青ざめて言った。  
「俺達は、もっと『ステア』のことを思いやるべきだったかもしれない……あいつがなかなか心を許そ 
うとしなかったのも当たり前だ。俺達が見ていたのは『トラップ』で、『ステア』じゃなかったんだか 
ら」  
 ステア……  
「探しに行こう!」  
 真っ先に立ち上がったのはクレイだった。もちろん、誰も反対はしない。  
「ちゃんと、彼に謝るんだ。ただ……」  
「わかってますよ、クレイ」  
 クレイが言いにくそうに口をつぐんだのを、キットンがひきついだ。  
「もともと、『ステア』の人格はつぎはぎだらけの不完全なものでした。このままにしておいても、恐 
らく遠からずどこかで破綻します。『トラップ』の記憶を取り戻すことは、彼のためでもあるんです。 
そこらへんを……」  
「……わかってるぜ、んなこと」  
 え??  
 突然入り口から響いた声に、わたし達はいっせいに振り返った。  
 ドアにもたれかかるようにして立っていたのは……  
「とらっ……ステア?」  
 わたしが聞き返すと、ステアは皮肉っぽい笑みを浮かべた。  
 今までの彼は、ほとんどベッドから出なかったから、いつもだぶっとしたパジャマかわりのシャツと 
ズボンだったんだけど。  
 今の彼は、クエストのとき、いつもトラップが着ていた服を着ていて……  
 そんな格好をしていると、やっぱり、彼はトラップにしか見えなかった。  
 
 ステアは、ひょいっとドアから身を離して、  
「おめえら……本っ当におひとよしだな。どうせ俺は頭打った拍子に作られた偽りの人格なんだぜ?  
んな奴に同情してどうすんだよ」  
「ステア……」  
 彼の口調は、トラップそのまま。いつもの、軽い、人をちょっとバカにしたみたいな口調。  
 その中には、自分が消える辛さとかは、全然含まれてなかったんだけど……  
「おめえらにとって、必要なのは、ほんの半月かそこら一緒にいただけの、いつ消えるかもわかんねえ 
『ステア』じゃなくてずっと旅してた『トラップ』なんだろ? だったら、何も遠慮することはねえよ」  
「ステア。だけど……」  
「……行くぜ、パステル」  
 何か言いかけたクレイを遮るようにして、ステアは言った。  
「えっ……」  
「行くぜ。『ワスレナグサ』取りに。おめえの大切な『トラップ』を取り戻しに」  
「ステアっ……」  
 言いながら、ステアはわたしの腕をつかむと、強引にひきずっていった。  
 ま、待って待って待って! まだ、準備が……  
 ひきずられながらわたしが必死に言うと、ステアは「ちっ、さっさとしろよな」と言いながら先に玄 
関に向かった。  
 ステア……いいの? それで……本当に。  
 それしか方法が無いのはわかるんだけど。でも……  
 わたしが荷物を取りに部屋に戻ると、クレイを始めとして皆は神妙な顔で黙り込んでいた。  
 ……みんな、納得できないんだろうな。  
 わたし達、言ってみれば「ステア」を犠牲にして「トラップ」を取り戻そうとしてるようなものだも 
んね。  
「……もしあいつだったら」  
「え?」  
 そのとき、ぼそっとクレイがつぶやいた。  
「もし、トラップだったら、きっとステアと同じことを言うだろうな。『それしか方法がねえんだから 
しょうがねえだろ』って」  
「クレイ……」  
「……彼をよろしく頼むよ、パステル……最後まで、一緒にいてやってくれ」  
「……うん」  
 そうだよね。それが、わたしにできるせいいっぱいのことだもん。  
 ごめんね……ステア。  
 
 それから、わたしとステアは「ワスレナグサ」が生えていると言われる山に入っていった。  
 幸いなことに、山道は一本道だったからね。迷うことだけはなさそうだったんだけど。  
 ステアは、ここ二週間ほどずっとベッドで寝てたというのに、その軽い足取りは全然前と変わってい 
ない。むしろ、わたしの方がひいひい言ってたくらいだもん。  
 ううっ、情けない……  
「おら、さっさと来いよ」  
「ま、待って、待ってよ」  
 そうなんだよねー。この山道、一本道なんだけど、ほとんど人通りがないみたいで、もう草ぼうぼう 
でまわりの木から伸びてきた枝とかでふさがれてたりして、すっごく歩きにくいんだ。  
 うーっ、夜までにワスレナグサ見つけなくちゃいけないのに……  
 ってきゃああ!? かっ、髪に枝がっ!!  
 わたしがあたふたしていると、ちょっと先を行ってたステアが、舌打ちしながら戻ってきて、ナイフ 
であっという間に枝を払ってくれた。  
 ううっ、すみません……  
「んっとに……おめえはどこまでもドジな奴だなっ」  
「ごっ、ごめん……」  
「おら」  
「え?」  
 ぐいっと突き出されたのは、ステアの手。  
 わたしがぽかんとしていると、ステアはイライラしたようにわたしの手をつかんで、そのままずんず 
ん歩き出した。  
 ステア……  
 こういう、さりげなく優しいところは……トラップと一緒なんだね……  
 
 ワスレナグサの自生地を見つけ出したのは、日が傾きかけた頃だった。  
 夕陽に照らされるその独特の葉を見つけ出したのは、ステア。  
 わたしは、恥ずかしながらステアにひきずられて、置いてかれないようにするのがせいいっぱいで… 
…  
 ううっ、何が「わたしが守ってあげなくちゃ」よ。情けないっ……  
 そこに生えていたのは、確かにキットンがスケッチしてくれた葉だった。  
 話しによると、花が咲くのは、月が昇って満月の光で照らされたとき。  
 とすると、まだしばらく間があるよね。よーし、それまでに……  
「ねえ、ステア」  
「ん? あんだよ」  
「あのね、まだちょっと時間があるみたいだから、ご飯食べない? お弁当作ってきたんだけど」  
「ああ? 弁当?」  
 もっとも、時間がなかったから、簡単なものばっかりだったんだけど。  
 わたしがリュックの中からバスケットを取り出すと、ステアは呆れたみたいにため息をついた。  
「おめえなあ。ピクニックに来たわけじゃねえんだぞ、俺達」  
「わ、わかってるわよ。でも……」  
 でも、食べさせてあげたかったんだもん。  
「ステアが、わたしの作ったご飯はおいしいって言ってくれたから……」  
「…………」  
 夕陽に照らされて真っ赤になった顔で頭をかきながら、ステアは腰をおろした。  
「そだな。別に他にやることもねえし……もらう」  
「うん、どうぞ」  
 中につめてきたのは、サンドイッチ。  
 本当は、もっと色々作ってあげたかったんだけどねえ……ステアが姿消したりとか色々騒いでるうち 
に、作ってる時間がなくなっちゃったんだよね。  
 でも、そんな急ごしらえのサンドイッチを、ステアはすごく美味しそうに食べてくれた。  
 ……喜んでもらえたかな。わたしがあなたにしてあげられることって、これくらいしかないから。  
「うめえ。おめえってさ、本当にドジで間抜けだけど、料理だけはうめえな」  
 ……こういう一言二言余計な言葉が多いとことか、トラップそっくりだよね。さすが……  
「そう、喜んでもらえてよかった。お茶飲む?」  
「ああ、くれ」  
 段々と陽が沈む。もうすぐ月が昇ってくる。  
 そうしたら……ステアとはお別れなんだ。  
 ……何だか寂しいな。そりゃ、トラップが戻ってくるのは嬉しいけど。でも……  
 
「おめえ……」  
「え?」  
「あに、泣いてんだ……?」  
 ……え?  
 言われて、頬に手をやって気づく。  
 本当だ……わたし、何で……いつのまに泣いて……  
「だって……寂しいもん」  
「あん?」  
「ステアと、もうすぐお別れしなくちゃいけないから」  
「……何言ってやがる」  
 ステアは、ふっと視線をそらして言った。  
「俺は、頭打ったショックで適当に作り出されたもんで……第一、俺が消えたら、トラップが戻ってく 
るんだぞ。嬉しくねえのかよ」  
「嬉しいよ。それはすごく嬉しい。わたし、やっぱりトラップのこと大好きだから」  
 大好きだから。そう言ったとき、ステアがすごく悲しそうな顔になったのは、わたしの気のせいなの 
かな?  
 でも……  
「でも、それとこれとは別だよ」  
「あ……?」  
「トラップが戻ってくるのは嬉しいけど、でも、ステアと別れるのは、悲しいよ」  
「…………」  
「最初……ステア、すごく冷たかったよね、わたし達に。目が覚めたら突然知らない人に囲まれてたん 
だから、それが当然なんだけど。でも、段々打ち解けてくれて、少しずつ会話してくれるようになって、 
わたし、嬉しかったよ」  
「…………」  
「ステアも、わたし達にとっては、もう仲間なんだから……」  
 そう言った途端。  
 わたしは、ステアの胸の中にいた。  
 ……え?  
 乱暴に捕まれた腕が熱い。そのまま、わたしは抱きしめられていて……  
「……きだ」  
「え?」  
「……『トラップ』がおめえに惚れた理由……今なら、よくわかるぜ」  
「ステア……?」  
 顔をあげると、目の前には、物凄く真剣なステアの顔。そして……わたし達は、自然に唇を重ねてい 
た。そのとき。  
 白い満月の光が、わたし達のまわりに降り注いだ。  
 
「あっ……」  
「っ……」  
 それは、月の光とは思えないくらいまぶしかった。  
 あたりを真っ白に染めるくらい、強い光。  
 わたし達は、しばらく茫然とその中に立ちすくんでいたんだけど。  
「おい、あれ……」  
「え?」  
 ステアが指差した方向。  
 ワスレナグサの自生地。そこから、蛍のような光が、ふわふわと舞い上がっていって……  
 これが、妖精……?  
 その光の一つが、わたし達の方へと寄ってきた。  
(……こんばんわ)  
 頭の中に響くような、不思議な声。光が震えるように動くたび、わたしの中へ、彼らの言いたいこと 
が伝わってくる。  
(ひさしぶり、こんなに強い絆を見たのは)  
(ありがとう。いいものを見せてくれて)  
(お礼に、ワスレナグサを咲かせてあげる)  
(もっとよくみせて……)  
 光が、わたしとステアの手のあたりにふわふわと飛んできた。  
 強い……絆。  
 やっぱり、わたしとトラップは……  
「おい……絆って、何のことだ?」  
 ステアの不思議そうな声。ああ、そうか。彼には、まだそのへんの事情を説明してなかったんだっけ。  
 わたしが妖精の言っている「絆」の説明をすると……ステアは、ふっと寂しそうな笑みを浮かべた。  
「その、絆って。もちろん、『トラップ』とパステルの、だよな」  
「え……」  
「そうだよな。半月くらい前にぽっと現れた俺に、絆なんかあるわけねえもんな」  
「ステア……」  
「よっし」  
 ぽん、と膝を叩くと、ステアは無造作にワスレナグサの群れの中へと入っていった。  
 
 ふわふわと舞い上がる光。その中で、少しずつ開き始めるワスレナグサ。  
 ステアは、それをじいっと見つめた後……ぱっとわたしの方を振り向いた。  
「パステル!」  
「な、何……?」  
「さんきゅ。目え覚ましてから今まで、随分世話になったな。飯、すっげえうまかったぜ」  
「ステア……?」  
 ステア。これが……最後、なんだね?  
「俺さ、おめえに今まで随分辛い思いさせたと思う。だから、これが、俺にできる、おめえに対するせ 
いいっぱいの償いとお礼」  
「ステア、あなた……」  
「『トラップ』を、おめえに返してやるよ。仲良くしろよ。運命の相手なんだからさ」  
「あ……」  
 何か、何か言わなくちゃ。でも、何を言えばいいの?  
 ステアの手が、開いたばかりのワスレナグサをつみあげる。あれを飲んでしまったら、もう……  
「ステア!」  
「……?」  
 花を口元に運ぶ寸前。わたしは叫んでいた。  
 何故、そんなことを言うつもりになったのかは、わからないけど。こう言ってあげることが、1番、 
彼が喜んでくれる気がしたから。  
「あなたはトラップじゃない。トラップのかわりなんかじゃないわ、ステア・ブーツ。二週間……楽し 
かった。わたし、忘れないから。あなたのこと、絶対に忘れないから!」  
 わたしの言葉に、彼は……笑った。  
 次の瞬間、ステア・ブーツと名乗っていた彼は、ワスレナグサの蜜を、飲み干していた。  
 
 飲み干した瞬間、「彼」は、頭を押さえてうずくまった。  
 振り乱される赤毛。くず折れる細く引き締まった体。  
 わたしは思わずかけよっていた。  
「だ、大丈夫!?」  
「……っ……ま、まじい……何だ、こりゃ?」  
「え?」  
 言いながら、彼は顔をしかめて身を起こした。  
 変わっていない。鮮やかな赤毛も、細くひきしまった身体も、そして。  
 茶色の瞳にいたずらっこのような輝きを浮かべているのも、何も、変わっていない。  
「トラップ……トラップなのね!!」  
「あん? あたりめえだろうが。他の誰に見え……ぱ、パステル!?」  
 気がついたら、わたしはトラップに思いっきり抱きついていた。  
 彼は戻ってきた、わたしのところに。  
 わたしの大好きなトラップは。  
 ステア・ブーツと名乗っていた彼は消えてしまったけれど。  
 でも、わたしは覚えている。彼という存在が、二週間、確かにわたしの前にいたことを。  
 降り注ぐ月光の下、わたし達は、いつまでも、抱き合っていた――  
 

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