カシャーン!  
3月20日の夕方を過ぎた喫茶店「プラーヴィ」に食器の割れる音が鳴り響いた。実は夕方からこれで  
三度目である。  
「ふう・・・失礼しました」  
 食器を割った水原涼が驚いた客に向かって頭を下げた。  
 
笑穂が涼の元からいなくなってもう10日ほどが過ぎた。涼はすっかり元気をなくしてしまい、  
このところこのようなミスを繰り返している。学校でも主のいなくなった笑穂の席を眺めながら  
溜息をつくことが多い。彼の周りも何とか励まそうとしているが、理由が理由なだけに状況に  
手をこまねいているしかなかったのである。  
 
「兄さん・・・・大丈夫?お客様はわたしに任せて兄さんは壊れた食器を片付けてね」  
明鐘は気落ちしている兄を何とかフォローしようと箒とちりとりを涼に渡し、代わりに涼が運ぶ  
はずだったコーヒーを入れ直し客のテーブルまで持っていく。  
「ごめん。明鐘」  
そう言って涼は顔を伏せたまま壊れた食器を片づけ始めた。そんな状況を見るに  
見かねたハルは少し考えて誰かに電話をし、その後で涼を店のバックルームに呼びだした。  
 
「涼、お前は今日もう帰っていい」  
「え、そんな、大丈夫だって。それにこれからお客だって増えるのに・・」  
「今日だけで食器を三回も割ったバイトの言えたセリフか?」  
少し厳しめの口調でハルは涼にそう告げた。実際、経営者として今の涼を見た場合、店にとって  
良いことはなにもない。従兄弟としては彼の今置かれた状況に心を痛めてはいるが、お客様を  
相手にしている以上、このような状態の涼を働かせるわけにはいかないのだ。  
「だけど、明鐘以外今日のシフトは俺しかいないのに」  
「俺がお前の代わりをする。それに百合佳にさっき電話をして急だが来てもらうよう手配した」  
「え、だけど百合佳さんは引っ越しの準備中で・・」  
「俺の引っ越しが多少遅れても今のお前をお客様の前に出しておくよりはマシだ」  
そう言われて涼はなにも言うことができなかった。確かに今の自分は店と、店のみんなに迷惑を  
掛けている。自分でもこんなことではいけないと思うのだが、笑穂のことを思い出すたびに  
なにもできなかった自分が不甲斐なく、苦しくなり、仕事が手に付かないのだった。  
「まあ、バイトを辞めろと言っているわけではない。今日はあのお嬢さんの手料理でも食べて  
ゆっくり休め。涼、お前鏡で自分の顔色を見てみろ」  
そう言われて涼は自分の顔をバックルームに備え付けられた鏡で見た。確かにこれはひどい。瞼には  
隈が浮かび、どこか青ざめたような顔色をしている。  
「わかった。でもせめて百合佳さんが着くまでは働くよ」  
そう言って涼は仕事に戻った。エプロンを付けながらハルは涼のことを考える。何とかしてやりたいが  
失恋において男の自分ができることなど限られている。保護者でもある自分が未成年である涼に酒を  
飲ませるわけにもいかない。  
「結局は時間が解決するしかないか」  
そうつぶやくとハルは店に出ていった。  
 
「お待たせ―」  
急いできたらしく、百合佳は息を切らせていた。  
「涼君。具合悪いんだって? ここは私に任せて今日はゆっくり休んでね」  
そう言われて涼は謝るしかない。  
「すみません百合佳さん」  
「いいのよ。気にしなくても。具合の悪いときくらいお姉ちゃんを頼りなさい」  
百合佳はそう優しく告げると部屋からわざわざ持ってきた、制服が入っていると思われる大きめのバッグを  
持って更衣室に消えていった。  
「兄さん。百合佳さん来たからもういいよ」  
「ああ、ごめんな明鐘。最近こんなのばっかりで・・いい加減ちゃんとしなくちゃいけないのにな」  
「ううん。兄さんは悪くないよ。そんな風に言わないで、ね」  
明鐘は優しく語りかける。  
「それと、今日このあと一緒にやるつもりだったハルの引っ越しの手伝いだけど・・・」  
「それも私に任せて。今日は予定どおりお泊まりになっちゃうと思うけど、ちゃんと進めておくからね」  
「・・・そうか、ごめんな」  
「ふふ。兄さんさっきから謝ってばっかり」  
「あ、ごめ・・」  
そう言いかけて涼はあわてて言葉を止めた。そうこうしているうちに着替えが終わった百合佳が  
更衣室から出てきた。  
「それじゃ俺、お先に失礼します。百合佳さん、後をお願いします」  
「涼君、引っ越しのことは気にしなくていいからね、明鐘ちゃんに頑張ってもらうから」  
「うん、まかせて。気を付けて帰ってね、兄さん」  
「はい、ほんと迷惑掛けて・・・」  
「気にするな。その代わり重いものはしっかり残して置いてやるからな」  
「わかったよ、ハル。それじゃ失礼します」  
店の仲間に見送られて涼はプラーヴィを後にした。  
 
「涼君、つらそうだね・・・」  
百合佳は仕事の合間に明鐘に話しかけた。  
「うん・・・でも何て言ってあげればいいのかな・・・あんな兄さん初めてだから・・」  
「そうね・・失恋の痛みって、時間が経つか別の人を好きになるしか治らないっていうから」  
恋愛経験の少ない百合佳は友達から聞きかじったことを、さも知っている風に明鐘に話す。  
「だけど別の人を好きになるなんて、今の涼君には無理だろうから・・・元気になるまで  
みんなで支えてあげるしかないよ」  
「うん・・・そうだね。・・・あ、西守歌ちゃんに兄さんが戻るって電話しなきゃ」  
「今なら大丈夫だからいいわよ」  
百合佳がそう言うと、明鐘は一人で留守番している西守歌に電話を掛ける。  
 
 
「うん。でね、兄さんが今から帰ると思うから・・・うん。兄さんのことお願いね」  
「わかりましたわ。ちゃんと美味しいものを食べさせてあげますから」  
「おねがいね、西守歌ちゃん。それとね、私は予定どおりハル兄さんと百合佳さんの引っ越しの  
手伝いに行くから・・・うん。多分予定どおりお泊まりすることになると思う」  
「そうですか。わたくしが涼様の代わりにお手伝いに伺いましょか?」  
「ううん、大丈夫。それより兄さんと一緒にいてあげて。一人でいると嫌なことばっかり  
考えちゃうと思う」  
「わかりましたわ。お任せください、明鐘さん。このわたくしが涼様をしっかりと元気づけて  
さしあげますわ」  
「ふふ。ありがと。でも元気づけるとかいって、兄さんに変なことしちゃダメだよ」  
「あら、なんのことやら。わたくしそんなこといたしませんわ」  
二人でこんな会話をするのも笑穂がいなくなって以来である。  
 
「ふふ。あ、お客さんが来たみたいだから私行かなくちゃ。西守歌ちゃん、兄さんのことお願いね」  
「はい、明鐘さんもお仕事頑張ってくださいね」  
そういって西守歌は受話器を置いた。笑穂と恋人になった涼を見て、自分はいずれ身を引くつもりでいたのだが、  
笑穂が涼の元を去って、いや無理矢理別れさせられてと言った方が正しい。ともかく今の涼を置いたまま  
水原家を去ることなどできず、実家に無理を言って今も彼女はここにいる。  
 笑穂を失って落ち込む涼を見るのは彼女にとってつらいことだが、だからといって涼の元を離れる  
つもりは全くなかった。  
「さ、涼様のために夕食の準備をしないと・・」  
幸い、明日みんなで食べようと西守歌はカレーを作っていたので、後は涼の分のサラダの準備でもすれば  
すぐに食事を取ることはできる。カレーは西守歌が水原家に来てから初めて作った料理だった。  
「・・・・悔しいけど、うまい」ふっきらぼうだけどそう言ってくれた涼のことを思い出す。ほんの一ヶ月  
ちょっと前のことなのに懐かしく感じてしまうのは、彼女にとって水原家で過ごした時間がとても充実した  
ものだったからだろう。だから、前より手間を掛けたさらに美味しいカレーを作って少しでも元気を出して  
もらえれば、そう思いながら料理をしていたのだった。  
「涼様ったら、・・・少し帰ってくるのが早すぎますわよ」  
西守歌は涼の分のサラダを作りながらつぶやいた。  
「本当は一日寝かせてから召し上がっていただく予定だったんですけれど・・・しょうがないですわね」  
そう言いながら、彼女の顔から自然と笑みがこぼれる。不謹慎だとも思ったが、涼と二人きりなんて最近では  
なかったからだ。  
「さて・・・と。そろそろ帰って来ますわね」  
西守歌はエプロンを外すと、手早く食器を並べ涼の帰りを待った。  
 
「だたいま」  
そういって涼がドアを開け、部屋に戻ってきた。  
「お帰りなさい、ご飯、できてますよ、それともお風呂が先ですか?」  
そう言って西守歌は涼を迎えた。最近はこのような新妻気取りの冗談を彼女自身控えていたのだが、一ヶ月ぶりに  
カレーを作ったということもあり、つい調子に乗って彼女が初めて涼と明鐘のために料理をした日のことを  
再現していた。「しまった」とも思ったが、涼は特に気にする様子もなく  
「お前、カレー作ってたのか?」  
などと言う。  
「ええ。明日涼様と明鐘さんと三人で食べようと思って、本当は一日寝かせた方が美味しくなるのですけれど」  
「悪かったな、帰ってきちまって」  
「ふふ。なにを言っているんです? 涼様。わたくしが真心込めて涼様のために作ったのですから一日程度では  
味など変わりませんわ」  
「お前、言ってることが矛盾してるぞ」  
苦笑いしながら涼は着替えるために自分の部屋に入っていった。しかし、目元には隈が浮かび顔色も朝よりも悪い。  
明鐘から電話で聞いていたとおり今日は特に元気がない。責任感の強い涼のことだ。ミスをしたのにお店のみんなに  
気を遣われていることがつらいのだろう。西守歌は二人分のカレーをよそいながら考える。やがて涼がテーブルに  
着いたのを見てカレーを運ぶ。  
「あまり食欲がないかもしれませんけど、しっかり召し上がってくださいね」  
西守歌はそう言うと気持ち多めによそったカレーを涼の前に運んだ。カレーからは食欲をそそる香りが  
漂っており、西守歌は我ながら上出来だと思った。  
「ああ、いただきます」  
涼はゆっくりとした動作でカレーを口に運んでいる。  
「いかがですか涼様。お口に合いますでしょうか?」  
「ああ」  
気のない返事が西守歌を少し落胆させる。しかしゆっくりではあるが自分の作ったカレーを口にはこんでいる  
涼を見ると少しほっとした。  
(良かった・・・食欲は少しずつ戻っているみたいですわね)  
笑穂がいなくなってから2、3日の涼はろくに食事を取らず明鐘と二人で困り果てていたところ、見るに見かねた  
ハルが涼を一喝し、百合佳が食事を作りに来てやっと涼は少し食事を取るようになったのである。  
「どうした、食べないのか?」  
「あ、いただきます」  
じっと涼のことを見ていたせいで、自分の食事を忘れていたことに気付き、慌ててスプーンに手を伸ばした。  
 
 カレーを二人で食べながら、西守歌は悩んでいた。実は昨日、笑穂から涼宛に手紙が届いていたのだ。本当は  
すぐに渡すつもりでいたのだが、昨日の涼はバイトが終わって帰ってくるとすぐに少なめの夕食を取り、そのまま  
さっさと部屋にこもって眠ってしまったのである。こうして笑穂の手紙は今も西守歌の手元にあるのだが、一日の間  
「笑穂の手紙」というある意味今の状況を大きく動かしかねないものを手元に置いている間に、様々なことを考えて  
しまったのである。  
(もし完全な別れを告げるものだったら涼様は・・・)  
その可能性は十分にある。  
(でも、笑穂様からの何らかの良い知らせだったら・・・)  
もしそれなら涼にとっては朗報である。しかしそれは西守歌が涼の元を離れるということにつながる。彼女は実家に  
無理を言って未だ水原家にとどまっているのだから。無理をする必要がないのなら連れ戻されてしまうだろう。  
(いっそ、手紙など来なかったことにしてしまえば・・・外国からの手紙ですから・・・配達ミスがあったことにして・・・・)  
そう考えている自分に気付き西守歌はぞっとした。  
(わたくし・・・なんてことを・・・)  
やはり、あの手紙は今すぐにでも涼に渡すべきなのだ。食事が終わったら手紙のことを涼に話そう。そう思い西守歌は  
食事を続けることにした。  
 
「いかがでしたか、涼様。美味しかったですか?」  
西守歌は涼に尋ねたが、相変わらず涼は  
「ああ」  
と気のない返事をするだけである。その返事にまた少し落胆したが、  
「おぼえてらっしゃいます? わたくしが涼様に初めて作って差し上げた料理もカレーでしたのよ」  
果たして涼はおぼえているだろうか。  
「そう言えばそうだったな」  
どうやらおぼえていたらしい。相変わらず気のない返事だが、おぼえてくれていたという事実と、空になった  
カレーの皿に西守歌は満足し、食器を下げた。  
「お茶、お入れしますね」  
そう言って、西守歌は食器を洗い桶に浸しながらポットに水を入れ火を掛けた。  
(さて、手紙をいつ渡しましょうか・・・)  
西守歌はいつ話を切り出そうか悩んでいた。そこでとりあえずリラックスしてもらおうとお茶の準備を始めたのだ。  
(あまりくよくよと悩んでも仕方ありませんわね)  
そう思うと西守歌は二人分のお茶を用意し、涼のいるテーブルへと運んだ。  
「はい、どうぞ涼様。熱いですから気を付けてくださいね」  
「・・ありがとう」  
涼はそう言うと無造作に湯飲みに手を伸ばすと冷ますこともぜすに飲もうとする。  
「あ、涼様待って!」  
「あちっ!」  
「あああ、だから気を付けてと言いましたのに・・・」  
そう言って西守歌はティッシュを手に取り、涼の服にかかったお茶を丁寧にふき取る。  
「すまん・・・・」  
涼は家に帰って来たら来たで、今度は西守歌に迷惑を掛けていることに更に気が重くなる。  
「ほんと、悪い・・・」  
「気にしないでください涼様。ほら、こうしているとまるでわたくしたち・・・」  
夫婦のようですわ、そう続けるつもりだったが途中で言葉を飲み込んだ。  
「・・・涼様、代わりにこちらのお茶をお飲みくださいね」  
「え、でもそれお前の・・」  
「お茶など入れ直せばすむことですわ」  
そう言って西守歌は自分のお茶に息を吹きかけ涼が飲みやすいように冷ましてから涼の目の前に差し出した。  
「ああ・・・ありがとう」  
普段の涼なら「お前の息のかかった茶なんて危なくて飲めるか」と赤くなりながら言うのだろうが、そのような  
涼はもう十日ほど見ていない。こんな状態の涼に笑穂からの手紙を見せても良いのだろうか?また彼女の思考は  
ループし始めるが、これ以上あの手紙を手元に置いておくことは彼女自身できそうになかった。だから思い切って  
西守歌は、  
「涼様、わたくし涼様にお渡しするものがありますのよ」  
笑穂の手紙であることは伏せてこういった。  
「渡すもの?」  
涼は聞き返したが西守歌は  
「部屋に置いてありますからちょっと取ってきますわね」  
と言って部屋から出ていった。  
 
 手紙は彼女の学園用の鞄の中に隠してある。西守歌は明鐘の部屋に置いてある自分の鞄を開けると笑穂からの  
手紙を取り出した。一度手紙の端ををギュッと握りしめる。  
(どうか涼様にとって良い知らせでありますように・・・)  
そう願いを込めて彼女は涼の元へと戻った。  
 
「涼様・・・」  
「ん?戻ってきたのか」  
西守歌は涼の目の前に座った。そして告げる。  
「涼様、・・・落ち着いて聞いてくださいね。実は笑穂様から昨日涼様宛に手紙が届いていたんです」  
「・・・・・なんだって!」  
力のなかった涼の目に少し光が戻る。と同時に興奮しているのか西守歌に向かって  
「お前・・・何ですぐに渡さなかったんだ!」  
と言い、席を立ち西守歌の肩に掴みかかる。西守歌は驚いて  
「りょ、涼様、やめて、痛い」  
「何ですぐに渡さなかったんだって聞いてるんだ!」  
涼は笑穂というキーワードに過剰に反応し、自分を見失っている。  
「お願い・・・涼様落ち着いて・・・本当に・・・痛いんです・・・」  
苦しそうに西守歌が声を上げると涼ははっとして手を離した。  
「す、すまん。俺なんてことを・・・」  
「いえ・・・涼様が取り乱すのも無理はありませんわ・・・」  
西守歌は涼に掴まれた肩をさすりながら言った。  
「本当はすぐにお渡ししたかったんですけど・・・」  
「あ、俺昨日すぐに寝ちまったから・・・」  
涼は昨日の自分の行動を思い出した。  
「本当にごめん・・・」  
「涼様、わたくし気にしていませんわ」  
そう言うと西守歌は彼女の手にある笑穂からの手紙を涼の目の前に差し出した。  
「これですわ」  
手紙には見慣れぬ外国の切手が何枚も貼付してあり、英語で受取人の所に「Ryo Mizuhara」、差出人の所に  
「Emiho Mutu」と書いてあった。涼は手紙を受け取ると、もたつく手で封筒を開封した。  
 
 
 
西守歌は涼のことを見守っていた。涼はテーブルについて手紙に目を通していたがその表情は手紙に隠れて  
見ることはできない。  
「わたくし、もう一度お茶を入れてきますわね」  
そう言って席を立った。今度は涼がやけどしないようにぬるめに入れようと思いながら。本当はお茶など  
入れずにそばにいたい気持ちもあったが、彼女も16歳になったばかりの少女である。自分の想い人が  
他の女性からの手紙に真剣に見入るのは内心穏やかではない。たとえそれが涼の恋人からの手紙であったと  
してもだ。  
 西守歌は2度目のお茶を入れ、ダイニングへ戻った。どうやら涼は手紙を読み終わったようである。しかし  
なにやら様子がおかしい。怒るでもなく喜ぶでもない。ただテーブルに置かれた笑穂からの手紙を焦点の  
合わない目で眺めている。  
「涼様?」  
その様子に嫌な予感を感じた西守歌はお茶をこぼさないようにその辺に放置し、涼のそばに駆け寄った。  
「涼様、あの・・・笑穂様は・・・・」  
「・・・ああ」  
涼は生気の感じられない声でぼんやりと返事をする。それを聞いて西守歌は察してしまった。  
「悲しい・・・内容だったのですね・・・」  
「・・・私のことは・・・・・忘れてくれってさ、お嬢のやつ・・・」  
「えっ!?」  
そう聞かされて、西守歌はテーブルの上に投げ出された笑穂の手紙に目を向ける。やはり・・・  
渡すべきではなかったか。いや、それはさすがにできないが、せめてもう少し時間の置くべきだったと  
西守歌は自分の行動が軽率であったことを恥じた。今日の涼は特に落ち込んでいた。そのことを知っていて  
明鐘との電話で自分が元気付けてあげると言ったのに、西守歌は手紙を自分の手元に置いておくことに  
耐えられず、傷心の涼に押しつけてしまった、そう考えていた。  
 
「涼・・・さま・・・ごめん・・なさい」   
西守歌は目に涙を浮かべながらそう言った。  
「・・・何でお前が謝る、この手紙お前が書いた訳じゃないだろ」  
涼は自嘲気味に言う。  
「でも、わたくし・・・そんな内容なんて知らなくて・・・」  
「あたりまえだ」  
西守歌は涙をハンカチで拭きながら  
「他には・・・なんて」  
と聞く。涼は内容については答えず手紙を手に取り西守歌に差し出した。  
「え、・・・よろしいのですか?」  
「ああ・・・・・さすがに二回は読めない」  
よく見ると涼の目元にうっすらと涙が浮かんでいるようにも見える。西守歌は両手でその手紙を受け取り、  
「すみません・・・・失礼します」  
と言って手紙に目を通し始めた。  
 
 内容はただひたすらに涼への謝罪の言葉だけで埋め尽くされ、そして最後にひと言  
「私のことは忘れてくれ」  
と結ばれていた。西守歌は丁寧に手紙を畳み、封筒に納めた。  
「こんなことって・・・・」  
西守歌は掛けるべき言葉が見つからずにそう言う。目元に溜まった涙が留まりきれずに流れ落ちた。  
「結局俺は・・・・何だったんだろうな」  
涼がつぶやく。  
「涼様は・・・笑穂様の恋人ですわ」  
「だけど・・・結局お嬢のこと・・・・なにも」  
「涼様・・・・・・」  
「なにも・・・・してやれなかった。絶対守ってやるつもりだったのに・・・結局俺は」  
「涼様・・・ご自分を責めないでください、涼様は・・」  
「どうして責めないでいられる!」  
突然涼が感情を爆発させたかのような大きな声を出した。西守歌はたじろいだがなんとか  
涼のことを落ち着かせようとする。  
「涼様・・・どうか落ち着いて・・・ね、涼様」  
「あのときだってそうだ、お嬢はいつだって家族から連れて行かれるかもしれなかったのに俺は・・・」  
「涼様・・・」  
西守歌はただ涙を流しながら涼の名前を呼び腕を掴む。  
「俺は・・・・・駅でお嬢のこと待つだけで・・・・遅刻だから昼飯奢らせようとか・・考えて・・・  
お嬢はいつも待ち合わせの時間より早く来るのに・・・・今考えればあれが・・・警告だったんだ。  
それなのに・・・俺は」  
あのとき涼はちらりと心をかすめた不安を無視して笑穂が来るのを待ち続けるだけだった。  
「お嬢は、なんの理由もなく、なんの連絡もなしに約束を破ったりするやつじゃないのに・・・」  
そういってあのときの苦しみを思い出したかのように涼はただ自分を責める。  
「あのとき、お嬢の家に行っていれば・・・いや、せめてすぐに電話でもしていれば・・・」  
異変に気付き、何とかできたかもしれない。しかし今そんなことを言っても意味のないことである。  
戻れない現実として笑穂は海外へ連れて行かれ、涼は無気力な日々を過ごしている。  
「結局俺は・・・何なんだよ・・・」  
もう怒る気力すらなく、涼はただ涙を流しながら椅子の上に崩れ落ちるように座った。  
「涼・・・さま・・・・」  
もう見ていられなかった。  
 
「え?」  
そのとき涼の背中を暖かい何かが包んだ。西守歌が涼を背中から包むように抱きしめていた。  
「し・・・・ず・・か?」  
涼は訳がわからず西守歌の名を呼ぶ。西守歌はそれに答えずただ涼を強く抱きしめた。  
「涼様・・・どうか・・ご自分を責めないで・・」  
そう言って涼の髪に頬をすり寄せた。西守歌の長い髪と体から甘い匂いが漂った。  
「おまえ・・・」  
「涼様・・・・わたくしでは・・・・いけませんか?」  
気がつくと西守歌はそんなことを口走っていた。  
(明鐘さん・・・ごめんなさい・・・わたくし・・変なこと・・するかもしれません)  
電話で明鐘と話したときの会話が思い出された。いつも冗談めかして言っていたが、西守歌は明鐘と一緒に  
暮らすうちに彼女の涼に対する思いが実の兄に対するそれを越えていることに気付いていた。  
一瞬、明鐘の顔が彼女の脳裏を掠めたが、想いを言葉にしてしまった以上、もう止める術を知らなかった。  
「西守歌・・お前、なに言って」  
「わたくしが・・・・生涯・・・そばにおりますから・・・・どうか・・・・」  
「っ!」  
ドクンッ  
涼の胸が大きく高鳴った。思いも寄らぬ形の西守歌からの告白だった。いつのもふざけた様子はみじんもない。  
ただ純粋に想いだけを乗せた彼女の本心の言葉だった。  
「わたくし・・・涼様のためなら・・何だっていたしますわ。益田の家だって捨ててもいい・・」  
「西守歌、落ち着け。お前なに言ってるのかわかって・・・」  
さっきと立場が逆になり、今度は涼が西守歌を宥める。  
「証を・・・お見せします」  
西守歌はそう言うと涼の顔に自分の顔を寄せ、そして優しく唇を重ねた。  
 
 
「んッ!?」  
突然の出来事に涼は拒むこともできずにただ西守歌のキスを受け入れる。  
「ん・・・・」  
「ンン・・・チュッ」  
西守歌はいったん唇を離したが、今度は涼の顔に引かれた涙の跡をキスで拭い始めた。  
「ん・・・・ん・・・」  
時に舌を使いながら西守歌は涼の涙を優しく拭う。そしてすべての涙を拭い終わった後、潤んだ瞳で  
涼を見つめ再び唇を重ねる。  
「んん・・・・涼・・様ぁ」  
涼は目の前に起こった出来事に混乱しながらも西守歌のキスを受け入れていた。やがて触れるだけだった  
西守歌のキスが変化し、涼の口の中に暖かく柔らかいものがねじ込まれてきた。西守歌は涼の舌に自分の  
舌を絡めながら涼の唾液を吸い取っていく。くちゃくちゃと舌と唾液の絡み合う音を聞きながら涼は、  
非現実的な出来事にただ戸惑う。  
それでも涼は、西守歌のキスにより吹き飛びそうになっているなけなしの理性を総動員して、何とか  
西守歌の肩を掴み自分から引き剥がした。  
「おまえ・・・一体なにしてるのか・・・」  
混乱した頭で、何とか西守歌の真意をただそうとするが、次の瞬間、涼の頭は西守歌の胸の中に収まっていた。  
柔らかく暖かい感触が涼の顔全体に広がる。西守歌はそのまま涼の頭を抱きしめ、頬を寄せながら髪を撫でる。  
女の胸は男を安心させる効果がある・・と誰かが言っていたが、涼はまさか自分が体験するなどとは思って  
いなかった。しかし、西守歌の胸に抱かれ涼は少しずつ自分の心が安らいでいくのを感じた。  
(西守歌の胸に抱かれるのは二度目か・・・)  
そんなこと考える。そして、いつの間にか自分の両手を西守歌の背中に回していた。  
 
涼を抱く西守歌の頭の中に、今度は笑穂が現れていた。強引に転入してきた自分を気にすることもなく  
当たり前のように受け入れてくれた笑穂。笑穂はきっとまだ外国の地で涼のことを想っているだろう。  
それはあの手紙を読めばわかる。それに涼も未だ笑穂のことを忘れていない。もしこの場に笑穂が現れたら  
きっと涼は自分のことなど気にもせずに笑穂の元へ戻るのだろう。恋人だったのだからそれは当たり前だ。  
だったら今自分のしようとしていることは何だろう。涼の寂しさに付け込み、笑穂から恋人を「寝取る」  
と言うことではないのか?  
(本当に・・・私という女は・・・・)  
そこまで考えて西守歌は迷うのをやめた。既にここまでしてしまったのだ。今さら止めるつもりもない。  
たとえ後で「腹黒い」と誰かにののしられようとかまわない。西守歌はそう考えることにした。  
 
「涼様・・・忘れましょう・・・笑穂様のこと」  
西守歌は穏やかに、静かにそう告げる。  
「・・・・そんなこと」  
「できますわ」  
西守歌はそう言った。  
「一体どうやって・・・」  
「わたくしが・・・・忘れさせてあげます」  
西守歌の胸の鼓動が早鐘のように鳴り響く。彼女の胸に抱かれた涼は、  
「なに・・・するつもりだ」  
西守歌の顔を見上げて力無く問う。西守歌は頬を染めながら目を逸らし、  
「・・・仰らないでください・・」  
こんな態度でここまで言われればさすがの涼も察する。西守歌はおそらく・・  
「おまえ・・・そんなことして」  
「いいんです!」  
西守歌は少し強めにそう言った。  
「涼様は・・・・ただ流されてしまえばよいのですわ」  
「でもお前は・・・それに俺はまだお嬢のこと・・・」  
こんな気持ちで西守歌を抱くことなどできない・・たとえ西守歌がそれでも良いと思っていたとしてもだ。  
「ね、涼様・・・これはわたくしが望んだことですから・・」  
そう言って西守歌は涼の顔を自分の胸に押しつけた。西守歌の甘い匂いが涼の脳神経を刺激する。  
「責任を取れ、などどは言いませんし」  
これは本当だった。西守歌にもプライドがある。  
「おまえ・・・どうしてそこまで・・・」  
そう問う涼に対し  
「どうしてだと思います?」  
と逆に問いかける。  
「許婚・・・だからか?」  
「違いますわ」  
西守歌はきっぱりと否定する。  
「あなたを愛していますから・・・」  
涼の中で踏みとどまっていた何かが壊れる。次の瞬間、涼は西守歌をダイニングの床に押し倒していた。  
 
 

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