「優……キスしても、いいかな」  
「……うん」  
 
 額を寄せて囁くぼくに、晴れて恋人となった彼女は小さく微笑ってこくりと頷く。  
 手を添えた頬が熱い。僅かに潤んだ瞳が、そっと閉じられた。……青く揺らめくレムリアの夜、いつかどこかで見た記憶を、とりとめもなく幻視する。  
 吸い寄せられるようにして、ぼくは柔らかな唇に自らのそれを重ねた────  
 
 
 
…………と、いうようなことがあったのが一週間ほど前のこと。  
 
 
 
「お兄ちゃん、顔緩みすぎ」  
「痛っ」  
 
 ぺちんっ、と、沙羅が弾いた消しゴムの欠片が、ぼくの額を直撃する。  
 お世辞にも広いとは言えないアパートの間違っても小奇麗とは言えない一室、ぼくたち兄妹は丸いテーブルを囲んで教科書やらノートやらを広げていた。  
 名目上は勉強会だけど、教えてもらっているのはもっぱらぼくの方だったりする。  
「もー……お兄ちゃん、ここ一週間ずーっとニヤニヤしてるんだもん。気持ち悪いなぁ」  
「そ、そんなにニヤニヤしてるかな……」  
 呆れたような、と言うか事実呆れている沙羅の言葉に、ぼくは頬のあたりに手を持っていく。……確かにちょっと緩んでる気もするけど。でも、気持ち悪いとまで言わなくてもいいんじゃないか。  
「は〜あぁ……キスしたくらいでこれだもんねぇ。なっきゅ先輩も大変だー」  
「な……、なんで沙羅がそんなこと知ってるんだよ!?」  
「あ、ひっかかった。カマかけてみただけだったのに、本当にお兄ちゃんって純情だよねぇ」  
 にんまりと笑う我が妹。……やられた。どうしてぼくはこう単純なんだろう。  
「い、いいじゃないか……別に」  
「いいですけどねー、別に。でも、とても勉強に身が入ってるようには見えないよ?」  
 う。  
 ほとんど白いのままのレポート用紙をシャーペンの先で指し示され、思わずうめくぼく。  
 教えている相手がこれでは、確かに沙羅も文句の一つも言いたくなるってものだろう。  
「……はぁ……いいなぁ、幸せそうで。私も素敵な恋人が欲しいよ……」  
 肘を立てて頬杖をつき、指先でくるくるとシャーペンを玩びながら沙羅は呟く。なかなかに意味深長な内容だった。  
 ……沙羅の恋人、かぁ。兄としては、想像するだに複雑かもしれない。いや、本当はちっとも想像なんてつかないんだけど。  
「沙羅、好きな人とかいるの?」  
 なんとなく訊いてみると、彼女はうーん、と小さく唸って考え込み、  
「……いない、かなぁ。あえて言うなら、パパ?」  
「いや、それは……」  
「じゃあなっきゅ先輩!」  
「絶対ダメ! ……って、えぇ!?」  
「冗談だってば」  
 けらけらと可笑しそうに笑う妹に、がっくりと脱力する。……びっくりした。ちょっとだけ「まさか」と思ってしまった。もちろんこれと似たようなやり取りを、以前に沙羅が優とも交わしていたことなどぼくには知るよしもない。  
 
「ニンニン。拙者、幸せな恋人どーしの仲を引き裂くような無粋な真似はしないでござるよ。お兄ちゃんとなっきゅ先輩が上手くいく  
ように、陰ながら応援しているでござる」  
「お、応援?」  
 思わず訊き返すと、うんうん、と沙羅は満足そうに頷く。  
「だって、考えてみれば理想的だもん。お兄ちゃんならなっきゅ先輩を泣かしたりしないだろうし、なっきゅ先輩にだったらお兄ちゃ  
 
んを安心して任せられるし。  
このまま上手くいけば、なっきゅ先輩が私のお姉ちゃんになるわけだ」  
「気が早いよ、沙羅……」  
 そう言いながらも、実は満更でもなかったりするぼく。それでまたからかわれるもの悔しいので、誤魔化すように手許にあったコー  
 
ヒーカップを口に運んだ。  
 砂糖もミルクも入っていないブラック。安物のインスタントコーヒーだけれど、苦さに慣れるには充分である。別に無理をする必要  
 
はないのかもしれないけど、いつまでも優に「お子様ねー」と言われ続けるのも癪だった。好きな子の前では見栄を張りたくなるのが  
 
男心というものである。  
 ……でもやっぱり苦いなぁ。  
 微かに小波立つコーヒーの水面を眺めていると、何とはなしに優の顔を思い浮かべる。彼女と同じものを味わいたい、というのも、  
 
ブラックに慣れようとしている理由の一つであった。……動機が不純だから、なかなか慣れることが出来ないのかもしれない。  
 
「…………はぁ」  
 
 そんなことをぼんやりと考えていると、前に座った沙羅が深々とため息をついた。  
 彼女は何やらうんざりとした面持ちでこめかみを押さえている。そしておもむろにシャーペンの先を引っ込めると、教科書類を片付  
 
け始めた。  
「え……、あれ、沙羅?」  
 てきぱきと筆記用具をしまう手許と、妹の顔を交互に見比べる。沙羅はヤレヤレとでも言いたげに首を左右に振り、  
「拙者、もうおなかいっぱいでござるぅ〜。  
 ちっともはかどらないし、お兄ちゃんはなっきゅ先輩にでも勉強見てもらってよ」  
 と、一方的にお開きを宣言した。  
「でも、優は今週は試験で……」  
「終わってからでも提出期限には間に合うはずでしょ。私にはもう無理だよ〜」  
 いったい何が無理なのか、沙羅は肩をすくめて立ち上がった。おばかさんと恋のビョーキに付ける薬はないでござる、などとよくわ  
 
からないことを言いつつ、さっさと自分のノートを持って部屋を出て行ってしまう。  
 ……何がなんだか、さっぱりわからない。  
 女の子って難しいなぁ、ということを再確認しつつ、一人残されたぼくはコーヒーを一口啜った。  
 
/  
 
 それから数日経った土曜日。  
 前日の電話で今日が試験の最終日であることを確認したぼくは、さっそく優に会いに行くことにした。  
 
「あ、ホクトー。やっほー」  
 
 道の向こうから姿を現した優が、待ち合わせ場所で待っていたぼくに手を振ってくる。軽く手を振り返し  
 
て、ぼくはおよそ一週間ぶりになる彼女の姿を眺めた。  
 肩口の部分を黒い飾り紐で編み上げにしたTシャツに、短めのジーンズスカート。夏らしい、快活なイメ  
 
ージの服装と合わさって優の笑顔も眩しい……と思いきや、優にしては少し元気がないように感じられた。  
「優? どうかしたの?」  
「へ?」  
「いや、何か疲れてるみたいだったから」  
 ぼくの指摘に、あ〜、と優はため息混じりの苦笑いを浮かべ、  
「いや〜、ほら、試験だったわけだし。ちょっと寝不足でねー……」  
 夜更かしはお肌の大敵だって言うのに……なんてぼやきながら、優は小さくあくびを噛み殺す。こう見え  
 
て学習を嫌うタイプじゃないから、一夜漬けなんてらしくないけど……負けず嫌いだからなぁ、優。  
 
 ……でも、そうか……そんなに疲れてるのに、ぼくに付き合わせたら悪いよな、やっぱり。  
 
「んで、ホクトはどうしたの急に。私に何か用?」  
「あ……、いや、やっぱりいいよ。優、疲れてるんだろ?」  
 慌ててぱたぱたと手を振る。しかし彼女はむー、とむくれて、  
「何よ、呼び出すだけ呼び出しておいてその言い草はないでしょーが。かえって気になるじゃない」  
 白状せい、と、顔を近付けて詰め寄る優。……なんと言うか、その、この距離はいろいろ思い出してしま  
 
うので勘弁してもらいたい。  
「た、たいしたことじゃないよ……少し勉強を教えてもらえたら、って思っただけで」  
 思わず目を逸らしながら答えるぼくに、優はふむふむ、と納得したように頷いた。そしてにっこり、得意  
 
満面の笑みを浮かべ、  
「そっかそっかぁ。そーいうことなら、お姉さんが手取り足取り教えてあげようっ」  
 と、言うが早いかぼくの手を取り、ぐいぐいと引っ張っていこうとする。  
「ちょ、ゆ、優……!」  
「ん? なに?」  
「なに?じゃなくて……ぼくの方は自分だけでも何とかなるし、無理に付き合わなくても」  
 いいのに、と言いかけたところで、何やら半目で睨まれた。  
「……キミはどーしてそういうことを言うかなぁ〜」  
「そ、そういうことってどういうことだよ」  
「それこそ自分で考えなさーい!  
 いーから、私が付き合ってあげるって言ってるんじゃないっ。どこに不満があるって言うのよ?」  
 腰に手を当て、唇を尖らせる優。そりゃあ不満があるわけじゃないけど、気遣ってあげたのに怒られるの  
 
はなんとなく納得がいかない気がする。  
「で、でもさ……」  
 頬を膨らませる優の顔を見つつ、反論の言葉を濁す。我ながらもう、何に渋っているのかよくわからなく  
 
なってきた。  
「……む〜。何よ、ホクトはそんなに私と一緒にいるのが嫌なの?」  
「そ、そんなわけないだろっ!」  
「えへへ。なら、それでいいじゃない。私もホクトと一緒にいたいし」  
 ね?と、少しだけ頬を赤らめて微笑いかけてくる優。  
 ……うぅ。そんな顔でそんな殺し文句を言われては、もうぼくに反対なんて出来るはずがない。  
 
「……うん……、わかった。それじゃあお願いしようかな、優」  
「まっかせなさい♪」  
 嬉しそうな笑顔を浮かべる優の手を握り返す。不機嫌そうな表情だって嫌いじゃないけど、やっぱり彼女  
 
は笑顔でいるのが一番だ。  
 ……それにその、まぁ……優にあんなふうに言ってもらえるんなら、たまにはごねてみるのだって悪くな  
 
いかもしれない。いや、決して困らせたいわけじゃないんだけど。  
 夏の暑さに汗ばんだてのひらの感触さえ心地よくて、ぼくたちはずっと手を結んだまま、並んで優の家へ  
 
と向かったのだった。  
 
/  
 
────が。  
 
 家の前まで着いたところで、優はさらりと大問題を口にした。  
 
「あ、ちょっと待ってて、玄関開けるから。今うち誰もいないのよねー」  
 
 はい?  
 と、呆然とするぼくを置いて、優はポケットから鍵を取り出し鍵穴へと差し込む。かちん、と錠の外れる  
 
音がして、優はぼくに向かい戸を開いた。  
「さ、あがってホクト」  
「え、いや、ちょっと待って。優、さっきなんて言ったっけ」  
 処理が追い付かず玄関先で固まっているぼくに、優は訝しげに眉を顰めつつも先ほどの言葉をリピートす  
 
る。  
「ちょっと待ってて、玄関開けるから……」  
「そ、その後!」  
「今うち誰もいないのよね?」  
「それだよっ! い……家に誰もいないって、それ、本当なの?」  
「? そんな嘘ついてどうするのよ?」  
 疑問符を浮かべ、首を傾げる優。……って、なんでそんな平然としてるんだこの娘は……!  
 だ、だって誰もいないなんて、家の中に二人きりなんて危ないじゃないかっ! いや、決して危ないこと  
 
をしようなんて思ってるわけじゃなくてこれはあくまでも優に勉強を見てもらうだけであってやましいこと  
 
なんて全然……でも、けど、うぅ、もしかしたら万が一ってこともないとは言い切れないんじゃ……ああ、  
 
何考えてるんだろう、ぼく。  
「……はは〜ん。さては少年、何か間違いでも起こっちゃったらどうしよう〜!……とか、考えてる?」  
 にんまり、とひとの悪そうな笑みを口許に浮かべる優。優の笑顔は好きだけど、こういうのはちょっと遠  
 
慮したい。  
「う……あ、ありえないとは言えないだろっ。ぼくだって、」  
「あっははははははははははは!」  
 爆笑された。  
 一切の躊躇なく、いっそ清々しいほど思いっきり笑い飛ばされた。  
「な……ゆ、優!」  
「ひははははははは……あー、くるし……も〜、笑わせないでよ〜少年……そんなの絶対ないに決まってる  
 
じゃない」  
 お腹を押さえて、瞳の端に涙さえ浮かべぱたぱたと手を振る優。時々彼女はこんなふうに、ぼくのことを  
 
『少年』と呼ぶことがある。主にからかう時などに。  
 
「……なんで言い切れるのさ?」  
「ん? それは、だって……君がそんなこと、するはずないでしょ?」  
 ……どういう意味だよ。  
 当然のように言う優の口調は、それこそ当たり前のことを口にするだけの何気ないものだ。そこまで断言  
できる理由を窺うことは出来そうにない。  
 ……力だけだったら、ぼくの方が強いんだけどなぁ……  
「───というわけで〜、さ、あがってあがって」  
「ん……」  
 何が「というわけで」なのかわからないけど、まぁ、ここまで来てしまったら仕方ない。きっとぼくが意  
識しすぎているだけで、そんなに大したことではないはずだ。優の家に来るだけだったら今までだってあっ  
たんだし……彼女が気にしていないなら、ぼくも気にすべきではない。  
「それじゃ、お邪魔します」  
 そう自分に言い聞かせて、ぼくは玄関をくぐった。  
 
/  
 
 それから、およそ二時間後。  
 二階にある優の部屋に通されて、これといった問題もなく時間は過ぎて行った。  
 課題の進行度は凡そ全体の三分の二を越えたくらいだろうか。優はわりとひとに教えるのが上手だと思う  
。……案外、学校の先生とか向いてるんじゃないかな。面倒見もいいし。  
「……ぁ、ふ……」  
 冷房の効いた室内に、優の小さなあくびが溶けていく。  
 広げたルーズリーフに視線を落としながらも、半分も中身が頭に入っていなさそうな表情。30分ほど前か  
らだろうか、彼女はずっとこの調子だ。眠そうに目を瞬かせながらもがんばって意識を繋ぎ止めようとして  
いる様はちょっと面白かったりするのだけど、さすがにそろそろピンチっぽい。  
「優……そろそろ休憩にしようか」  
「……ぁ、えっ?」  
 ぼぅっとしていた優が、きょとん、とぼくの方を見る。それに、思わず苦笑を浮かべて、  
「だから、ちょっと休憩しないかって言ったんだけど」  
「……む。ホクト、ひょっとして私に気を遣ってる? 私は別に大丈夫なんだから」  
「そうは見えないけど……でもほら、あんまり根を詰めても効率が落ちるし。適度に休憩を挟んだほうがい  
いんじゃないかな」  
 ぼくの言葉に、む〜、と覇気のない声を返す優。ちょっと詭弁っぽい感じもするけど、まぁ嘘をついたわ  
けではないし。なんとなく釈然としない表情をしつつも、彼女は軽く息を吐いて姿勢を崩した。  
「ん〜……それじゃ、少し休憩しよっかぁ。  
 ホクト、悪いんだけどコーヒー淹れてきてくれない? 私じゃ途中でこぼしちゃいそうで……」  
 あはは、と苦笑いを浮かべる優。……やっぱりそうとう眠かったらしい。  
「わかったよ。ブラックでいいよね?」  
「ん。濃〜いのでお願い……」  
 眠そうな声を聞きつつ立ち上がる。優の家には何度か来ているし、キッチンにお邪魔したこともあった。  
 
コーヒーを淹れるくらいならぼくにでも出来るだろう。  
 ……ちなみに田中家のコーヒーは我が家のような特売のインスタントではなく、専門店で豆から挽いた本  
格派である。  
「お菓子は戸棚にあるから、適当に選んで〜」  
「りょーかい。ちょっと待ってて」  
 応えて優の部屋を出て、階下のキッチンへ向かう。  
 
/  
 
「優、お待たせ……って、あれ?」  
 
 コーヒーを淹れて戻ってくると、しかし、優からの返事がない。さっきまで彼女の座っていた場所には、  
今はテーブルに突っ伏して、すやすやと眠る優の姿があった。  
「優……? 優、寝ちゃったの?」  
 急いだつもりだったけど、やっぱり寝ちゃったのだろうか。  
 テーブルの隅にコーヒーカップを二つ置き、優の顔を覗き込む。閉じた瞼を縁取る睫毛が、頬に影を落と  
していた。微かに聞こえる細い寝息。少しだけどきりとする。  
 優には笑っている顔が一番よく似合うし、笑っている顔が一番好きだけれど。こんなふうに無防備に眠っ  
てるところも可愛いなぁ……なんて、浮かんだ思考を慌てて振り払う。  
「起きてよ優、コーヒー淹れてきたよー」  
 肩を揺さぶると、うぅー、と優が声を漏らした。むにゃむにゃと口の中で呟きつつ、彼女の瞼がゆっくり  
と開かれる。寝起きの表情は普段の溌剌としたものからは考えられないほどあどけなくて、どうにも危うい  
感じだ。  
「ん〜……ほくとー……?」  
「……ほら、ちゃんと起きて優。寝るならせめてベッドで───」  
 言いかけた言葉が、そこで途切れる。  
 一瞬であたまがまっしろになった。うとうとしていた優の肩に手をかけていたぼくに────彼女はその  
まま、凭れかかるようにして身体を預けてきたのだ。  
 
「ッ、ゆ、優……!?」  
 
 跳ね上がる心臓を押さえつけて、優の様子を窺う。  
 けれどそんなぼくの動揺なんて知ったことかと言わんばかりに、ぼくの耳に届いたのは、  
 
…………すー、という、気持ち良さそうな寝息だった。  
 
「……………………え?」  
 よくよく見れば、腕の中の優は間違いなく眠っている。ようするにぼくに抱きついてきたとかじゃなくて、  
単に倒れ込んだ方向にぼくがいただけのことだった。  
 ……まぁ、そりゃ。  
 考えてみれば、当然なんだけど。  
「……なんだよ、もう……」  
 安堵と落胆の混じったため息を深々と吐き出し────ちっとも安心できるような状況じゃないと気付い  
たのは、さらに数瞬後のことだった。  
 
「────────」  
 
 ……カチ、コチという秒針の音が、やけにはっきりと聞こえる。  
 ああいうアナログ式の時計を優が使っているのは意外と言えば意外だ。そんな思考を、どこか他人事のよ  
うに行っている自分に気が付く。  
 一旦は収まったはずの動悸が再びばくばくと鳴り始めた。意識すまいとすればするほど、胸に圧し掛かる  
優の重みや温もり、柔らかな感触を意識してしまう。女の子の身体は、男とは違う何かでできているに違い  
ない。  
「───優……」  
 起こせばいい。今度こそちゃんと起きてもらえば、それで済む話だ。  
 だけど試験なんかで疲れが溜まっていたのだろうし、ゆっくり休ませてあげたい、という気持ちが半分。  
 
どうにも離れがたく感じてしまっているぼく自身の気持ちがもう半分で、結局ぼくは縫い止められたように  
動けなくなってしまっていた。  
 淡く色づく濡れた唇。薄手のTシャツを押し上げる、ゆるやかに上下する膨らみ。……出会った頃と変わ  
らない、ほのかに甘い春の陽の匂い。  
 
 そのすべてが意識を奪う。────たまらなく抱きしめたい。  
 
「って、何考えてるんだぼくは……!」  
 
 ぶんぶんと首を横に振って、ヨコシマな考えを振り払う。  
 寝ている女の子に悪戯なんて絶対ダメだ。なのにそう思う反面、ぼくたちはもう恋人同士なわけだし、そ  
んなにダメなことでもないんじゃないか……なんて余計なことを考えてしまったりもする。  
 だいいち優も優なのだ。家に男と二人っきりなんていう状況なのに、ちょっと危機感ってものが足りない  
んじゃないだろうか。ぼくを信用してくれているのか、異性として意識されてないのか……いや、きっと両  
方なんだろうけど。  
「…………ぅ、ん……ほくとぉ……」  
 ……そんな、甘えるような声で呼ばないでほしい。  
 ただの寝言で、深い意味なんて絶対にないのは分かってるのに、煽られてるんじゃないかと思ってしまう  
自分が虚しかった。心地良さそうに眠り続ける優がいっそ恨めしい。  
 
 ぼくばっかりこんなふうにどきどきさせられるのは不公平じゃないだろうか?  
 なんだか無性に悔しくなって、ちょっとした仕返しのつもりで軽く頬をつつく。ふにふに。くすぐったそ  
うに顔を背けるのが楽しくて、ついブレーキが甘くなってしまった。  
 マシュマロのような頬に、軽く口づける。気付いた時には、白いシャツの上から撫でるように背中に手を  
回していた。  
 
「──────っ……!!」  
 
 寸でのところで理性を繋ぎ止められたのは、もう、本当にラッキーだったとしか言いようがない。  
 ……まずい。今のは、冗談抜きでギリギリだった。  
 優は相変わらず目を覚ましそうにもない。とにかく深呼吸して、心臓を落ち着けて────名残惜しさを  
振り払い、彼女の身体をそっと離す。  
 起こさないように注意しながら、クッションを枕にして、カーペットの上にゆっくりと横たえた。ベッドまで運ぶ度  
胸はさすがにない。そんなことをしたら───いや、しなくても、このまま同じ部屋にいて何もしないで済む自  
信はまったく持てなかった。  
 
────好きな子に触れたいと思うことは、決して間違った感情ではないとは思うけど。  
 でもやっぱりそういうのは、両者の合意があってはじめて成立するものだ。でなければそれはただの暴力、  
尊厳の蹂躙に他ならない。ぼくや沙羅の虐げられた過去を思えば、そんなことを優に強いるのは出来るは  
ずもなかった。  
 
 音を立てないように立ち上がり、すっかり冷めてしまったコーヒーのカップを二つ持って部屋を出る。階段  
を降り、再びキッチンまで戻って、ようやくぼくは深々と息を吐いた。  
 ……まぁ、とにかく。何か間違いを起こさずに済んで、よかった。  
 そう言えばノートやらPDAやらは、優の部屋に置いたままだとふと気付く。さすがに勝手に帰るわけにもい  
かず、キッチンテーブルの椅子に腰掛けた。優が目を覚ますのはいつごろだろうか。なんで起こしてくれな  
いのよ、とか言うんだろうけど。  
「……まったく、ひとの気も知らないでさ……」  
 疲れた声で一人ごちり、生温くなったコーヒーを手に取る。自分用のものではなく、優のために淹れた方を。  
 彼女の好みと眠気覚ましの二つの意味で、とびきり濃くして淹れたものだ。黒々とした液体を一息で飲み  
込む。  
 
 口の中に広がる冷めた苦みは、身体に残る優の感触(ねつ)を少しだけ忘れさせてくれた。  
 

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