「ほれ、つぐみ」  
「うん…有難う武」  
 
 背後から二人の声が聞こえた。よろける女を支える様に手を伸ばす男。  
彼女の事情を知らない人間が見たら、恐らくは滑稽にしか見えないだろうその光景。けれど…当の二人は、そんな事を気にする様子もない。  
 
(まぁ―――仕方ないわね)  
 
 二人が本土へと帰還するまでの間に、何をしていたのかと言う事。  
何故彼が必要以上に彼女の様子を気遣っているのか  
――その理由に気付いているのは、きっと私だけの筈だ。  
 
 私は、少しだけ苦笑を浮かべながら皆の元へと近付いていく。  
耳に届くのは幸せそうな皆の声。  
 
「少年!…じゃなくてもう大人か、色々サンキューな」  
「優…有難う」  
 
 ゆっくりと優しく頬を撫でる海風を感じながら、私は不思議な満足感に包まれていた。  
去っていく彼等の背中を見送りながら…私は、確かに満足感に包まれていた。  
 
(…満足している―――田中優美清春香奈?)  
 
 自分自身に問い掛けてみる。すると自然に紡ぎ出された答は「Yes」だった。  
私は満足している…している、その筈なのに。  
 
「なのに…どうして…」  
「―――優?」  
 
 思わず唇から漏れてしまった言葉。  
隣で佇んでいた「彼」が、そんな私に気付いて此方を覗き込んで来た。  
瞳に案じる様な光を浮かべて見つめる彼に、  
私は心配を掛けまいとして、無理矢理笑顔を作る。  
 
「大丈夫よ。何でも無いわ…心配しないで、桑古木」  
「――――ああ…分かった」  
 
 言葉の内に「これ以上聞くな」と云う色を込めて口にすると、  
桑古木は一瞬だけ不満げな表情を浮かべたけれど…すぐに小さく頷いてくれた。  
ひょっとしたら何かを察したのかもしれない。  
そんな彼の気遣いが、今の私には嬉しかった。  
 
(―――そう、私は満足している。しているのに…どうして…こんな事…)  
 
 全身を包む満足感とは別に、チクチクと胸を刺すこの確かな痛みが一体何なのか。  
その答を…私は、きっと知っている。  
 
。  
 
 Lemuを舞台にした私達の脱出劇はようやく幕を閉じた。  
倉成武と八神ココ。  
大切な私達の仲間を、再び助け出して…そうして、全員であの悪夢を終わらせると言う事。  
17年もの年月を費やしたと言うのに、終わってみれば何てあっけない事なんだろう。  
 
 ようやく、「田中ゆきえ」としてのもう一人の自分を終わらせて。  
「田中優美清春香奈」としての人生を取り戻して。  
そんな実感を噛み締めながら…私はゆったりとした時間の流れに身を委ねていた。  
 
「長閑よねぇ…」  
 
 倉成風に言うのなら、まさにそんな感じなのかもしれない。  
鼻腔を擽る芳醇な珈琲の芳香を堪能しながら、もう一度口を開く。  
 
「平和よねぇ…」  
「何処が平和なんだよ、何処がっ!」  
「―――五月蝿いわよ、桑古木。無駄口叩かないでキリキリ働く」  
 
 ゆったりとした時間を破って声を張り上げた桑古木に  
チラリと視線をやって、深い闇の色の珈琲を口内へと含む。  
すると、一層濃厚な香が私を満足させてくれた。  
 
「――…分かったよ。これで運んでおく物は全部なのか?  
 他に処分して置く書類なんかは?」  
「無いわ、そうね…それで最後。ふふ、お疲れ様。お陰でスッキリしたわ」  
 
 随分とモノの少なくなった研究室を眺めながら、  
私はもう一つのカップを桑古木の方へと差し出した。  
少しだけ嬉しそうな笑顔を浮かべて彼がそれを受け取る。  
こうした表情は…17年前の、あの素直な少年とそんなに変わっていない。  
 
(とは云え、倉成になろうと努力したお陰で…  
 随分と図太い性格になっちゃったみたいだけど)  
 
 まじまじと桑古木の顔を眺めながら、少しだけそんな事を考える。  
私にじっと見詰められてバツが悪いのか、それとも照れくさいのか。  
桑古木は少し視線を反らせて、窓の外の方へと顔を向けた。  
 
 室内に漂う珈琲の香と僅かな静寂。  
こうしていると…全てが終わったなんて、まるで嘘みたいだ。  
 
「17年間…よく、こうして一緒に珈琲を飲んだわね」  
「―――ああ…。武とココを救う為に…  
 ああじゃないこうじゃないって、色々計画を練りながらな」  
「ふふふ、そうね。こうしてるとまるで嘘みたいだわ。  
 BWなんて存在が実在した事も、二人を無事に助け出す為の  
 17年間もかけた計画が成功したなんて事も…全部、夢だったんじゃないかって思うもの」  
「夢じゃないさ。夢じゃない証に…武もココも戻って来た。   
 つぐみ達だって幸せになれたじゃないか。全部全部、優が頑張ったからだよ」  
「―――――桑古木もね。お疲れ様…本当に、頑張ったわよね、私達」  
 
 満足げに頷く桑古木の様子に、私の表情にも自然と笑みが浮かんだ。  
けれど、逆に当の桑古木は、少しだけ恥かしそうにして顔を俯かせてしまう。  
そんな様子に、私は思わず笑い声を洩らしてしまった。  
 
「こら、ダメだぞ少年。倉成ならそんな初々しい態度なんて取らないって。  
 もっとこう図太く『おう、俺が頑張ったからだな』くらい云わないと」  
「うわ、もう武の真似は勘弁してくれって。  
 これ以上武の真似して、つぐみに睨まれるのはゴメンだよ」  
「ふふふふふふ…随分問い詰められたみたいだものね」  
「ああ――まぁ、仕方ない事だけどな」  
 
 そう云いながら苦笑を浮かべる桑古木の表情。  
けれど、すぐに…其処に躊躇う様な色が浮かんだ。  
口にするべきなのか…しない方が良いのか。そんな逡巡が此方にも伝わって来る。  
 
 そして…僅かな沈黙の後に、彼は躊躇いながら口を開いた。  
 
「本当に…俺が、武だったら良かったのかもしれないな」  
「―――桑古木…?」  
「俺が武だったら…優に、そんな悲しい表情させやしない。  
 なぁ、優。本当にこれで良かったのか?  
 確かに武は戻って来たけど…優は、本当にこれで良かったのかよ」  
 
 桑古木の口から搾り出す様にして漏れた言葉に…一瞬、私の思考は凍り付いてしまった。  
 
―――良かったの…これで?  
―――満足なの…本当に?  
 
 脳裏を過ったそんな想い。  
一瞬だけ浮かんだ言葉を、頭を振って追い払うと、私は意識して唇に笑みを浮かべた。  
   
「良かったのよ…これで」  
 
 喉を絞めつける様な傷みを感じながら、何とか言葉を紡ぐ。  
そう…きっと、本当にこれで良かったんだと思う。  
記憶の片隅に今も残って、決して消え去る事は無いだろう2017年の思い出。  
 
 あの深海の閉鎖されたテーマパークの中でいきなり始まって  
…言葉にされる事も無いままに終わりを告げた、私の初めての恋。  
あの17年の事故の時に、私は何時だって倉成を見ていた。  
 
 そう…きっと自信を持って云えると思う。  
あの閉ざされた空間の中で、誰よりも近くで彼等を見ていたのは、きっと私だ。  
一番近くで、一番敏感に――ひょっとしたら、本人達よりもずっとはっきりと。  
 
(どんどん惹かれあって行く倉成とつぐみを見ていたのは…私なんだ)  
 
 ピピのメモリーやLemuに残された記録を見るまでもない。  
私自身の記憶に一番強く焼き付いている。  
 
 倉成がつぐみを放っておけなくて、どれだけつぐみを気に掛けていたのかも。  
つぐみが他人を拒みながらも…本当は倉成の手を必要としていた事も。  
 
 そして…その二人がどんどん惹かれ合って行って、お互いを必要として行った事。  
けれど、そうして倉成がつぐみの心を開いたお陰で、私達がTBの宿した死の恐怖から  
逃れられた事も、私が今こうして生き長らえていれれるのだと言う事も。  
全ての事を現実として…一番分かっているのは私なんだと思う。   
 
(そうね…だから、私が一番良く分かってるわ。  
 倉成とつぐみがどれだけ強くお互いを必要としているのか。  
 だって、他の誰でも無い私が、一番近くで二人を見て来たんだもの)  
 
「だから…本当にこれで良いの」  
「でも……っ!」  
 
 微かに苦い笑みを浮かべながら私は頷いた。  
けれど、そんな私の答に桑古木は一層声を荒げる。  
一瞬だけ後悔した様な表情を浮かべて…  
けれど、一度流れ出してしまった言葉は止まらないのだろう。  
きゅっと唇を噛み締めて、一言一言を噛み締める様に続ける。  
 
「―――でもっ…でも、優は頑張ってたじゃないか。  
 たった一人で、誰にも本当の事を言えないままで…。  
 たった一人で、重荷を全部背負って、それでも頑張ってたじゃないか。  
 それは、ココと武の命を救う為だろう?」  
「桑古木…」  
「武を…自分の好きな男を救う為に、優は頑張って来たんじゃないか。  
 なのに、本当の気持ちも伝えないままで身を引くなんて…そんなの、  
 そんなの俺は我慢出来ない」  
「―――ねぇ、桑古木」  
 
 血を吐く様に吐き出された桑古木の台詞。  
そんな彼に、私はゆっくりと慎重に、頭の中で言葉を選びながら口を開いた。  
 
「貴方が頑張って来たのは何の為?  
 ココに好きになって欲しいから…愛して欲しいからなの?」  
「―――な…」  
「違うでしょう?貴方が頑張って来たのは、そうね…そんな事の為じゃない。  
 ただ、ココの笑顔が見たいから…その為でしょう?」  
 
 一瞬、言葉を失った桑古木を制する様にして、一言一言を口にしていく。  
そう、この事も私には分かっていた。  
 
(桑古木が皆を騙してまで倉成になろうと決意した理由。  
 私の計画に、無条件で協力してくれた一番の理由)  
 
 それはきっと…私と同じ。Lemuで出会った大切な人。  
ココを救って、もう一度あの真っ直ぐな笑顔を見たかったのだろう。  
 
 あの密閉された空間で自分を支えてくれた笑顔…。  
その時と同じココの笑顔を、ただもう一度見たかった。  
それだけの為に…桑古木は頑張って来た筈だった。  
 
「私も同じよ。倉成に愛して欲しくて頑張ってきた訳じゃないわ。  
 だから…これで良いのよ」  
 
 別れ際の幸福そうな笑顔を思い出す。幸せそうな倉成一家を思い出す。  
…尤も、つぐみはミュミューンを着ていたけど。  
まぁ、それでも幸せなのだと言うことは伝わって来た。  
 
「でも……それじゃあ優の幸せは何処にあるのさ。  
 一番頑張ってきた優が、全然報われて無いじゃないか!」  
「桑古木……?」  
「この17年間、優がどれだけ辛い想いをして、どれだけ頑張ってきたのかなんて  
 ………僕が一番よく知ってるよ」  
「…桑古木」  
 
 拗ねた少年の様な桑古木の様子。胸に痛みが走るのが分かる。  
けれど私は敢えてその痛みを押し隠して…慎重に選びながら言葉を紡いだ。  
 
「私だけが辛かった訳じゃないわ。  
 私達は全てを知って、その約束を果たす為に頑張ってきた。  
 でも、私達は…倉成とココを救う方法がある事を知っていた。  
 希望があるって信じられたわ。でも…」  
 
 其処で、一旦口をつぐむ。ライブリヒから伝わって来る2017年以降の彼女。  
そして…彼女達の動向。つぐみが今どうしているのか…その子供がどうしているのか。  
それを伝えられる度に、胸が痛まなかった訳じゃない。  
 
「つぐみは…倉成が生きている事を知らされないままに、17年間を過ごして来たわ。  
 ホクトや沙羅と引き離されても…一人ぼっちで頑張って生きて来たのよ。  
 私達だけが辛かった訳じゃない。何も知らされないままに…  
 それでも必死に倉成を信じて生きてきたつぐみだって、辛かった筈なんだから  
 …それが分からない訳じゃないでしょう?」  
「でも…でも、それじゃあ優があんまり…」  
「じゃあ、一体どうすれば良いのよ!」  
 
 尚も続け様とした桑古木の言葉。  
その言葉をさえぎる為に開いた口から、  
自分でも信じられないくらいの…まるで悲鳴の様な強い台詞が吐き出された。  
 
 自分の口から溢れてしまったその言葉に…。思ってもみなかった強い叫びに…。  
私はのろのろと視線を桑古木に移した。  
まるで「信じられない」とでも言った様子の桑古木の表情。  
きっと私の顔にも、同じ様な表情が浮かんでいるに違いない。  
 
 唇から吐き出された思わぬ強い言葉に、私は戸惑い…そして、気付いてしまった。  
自分でも分かってしまった。  
 
 つぐみだって辛かったんだから。  
倉成はもうつぐみのモノなんだから。  
 
(…そう考える事で、私は自分自身を納得させようとしていたんだ…)  
 
 気付いた途端に、瞳に堪え切れない熱い雫が込み上げてくるのが分かった。  
自分でも止められない。溢れ出た涙が次々に頬を伝って落ちる。  
 
「――っ…う、ぅぅ…っ、うぅ…」  
 
 噛み殺し切れずに漏れる嗚咽の声…。  
泣き顔を見られたくなくて俯くと、そんな私を、桑古木は優しく抱き締めてきてくれた。  
触れ合った部分から伝わる温もり。私を包みこんでくれる彼の腕は、溜まらなく温かい…。  
 
「ごめん…優」  
「っ…うう…ぐす…っ、うぅ…」  
「僕はただ…優に幸せになって欲しかっただけなんだ。  
 優が頑張ってきたその分だけ、優に幸せになって欲しかっただけなんだ」  
「…っ…ぅ、うぅ――あぁ、あぁぁぁぁあ…ッ」  
 
 優しい優しい桑古木の言葉。  
その言葉に促される様にして、私は彼の胸に顔を埋めたまま、  
子供みたいに声を上げて泣き出してしまっていた。  
 
 

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