……ゆったりとした時間が流れていく。今まで気がつかなかった。  
この研究室の天井はこんなに高かっただろうか?  
この研究室から覗く景色はこんなに美しかっただろうか?  
 
そんな事にさえ気付かずに、月日を重ねてきた自分が、  
何だか少し可笑しくて、私は微かな笑みを洩らした。  
 
「―――優?」  
「ん?ああ…何でもないわ。  
 少し…ふふふ、幸せだなぁ、って思ってたの。それだけよ」  
「そっか…」  
 
 私の笑みに気付いたのだろう。同じ様に沈黙したまま、  
私の身体を抱きしめてくれていた桑古木が、少し怪訝そうな声を上げる。  
 
 桑古木の腕に抱かれて…其処から伝わる温もりに満たされて。  
今まで感じたことの無い心地良さと満足感の中に私は漂っていた。  
    
(そうね…やっと…全てが終わったんだわ)  
 
 2017年から始まった私達の計画も。2017年に始まった私の恋も…。  
やっと全てが終わったんだと、そう思う。  
 
 その間に無くした物も失った物も数え切れない。  
ユウとの母娘関係だって…やっと、一歩を踏み出したばかりだ。  
 
(でも……その間に、手に入れたものも沢山あったでしょう、優?)  
 
 そっと、自分で自分に囁きかける。  
自分の傍で…ずっと一緒にいてくれた人。ずっと、私を支えてくれた人。  
 
 彼の事を、こんなに素直に大切だと思える自分がいる。  
その事に、私は本当に満足していた。  
 
 ――私は頑張ったと思う。  
17年もの間…全てを掛けて、第三視点の研究を続けて来た。  
 
 その原因の一つは…やっぱり、倉成を好きだったからなんだと思う。  
倉成を好きだから…もう一度逢いたいから、だから、頑張って来れたんだと思う。  
 
(でも…それは、倉成に私を愛して欲しいからじゃない…)  
 
 つぐみから倉成を奪いたいと言う訳でも無い。  
沙羅やホクトを苦しめたいと云う訳でも無い。  
……何よりも、私のこの想いが、どんなに倉成自身を困らせるのかも分かっている。  
 
 きっと倉成は苦しむだろう。彼は優しい人だから。  
そして、苦しむのは…私に応え様とする為じゃない。  
私を受け入れられないから。つぐみの笑顔を曇らせたくないと願うから。  
 
 だから、受け入れられない私を傷つけたくないと  
…そんな想いに、きっと、彼は苦しむのだ。  
 
(そしてそれは、私だって同じ)   
 
 ようやく笑顔を見せてくれる様になったつぐみ。  
ようやく心を開いてくれたつぐみ。彼女の信頼を裏切りたくは無かった。  
 
 倉成の言葉を借りるのならば…彼女は、私の大切な仲間なんだから。  
 
(信頼………?)  
 
 其処まで思い至って…私はようやく気付いた。  
そう、私はひょっとしたら…倉成の信頼を裏切りたくなかったのかもしれない。  
仲間として私を認めてくれる、倉成の信頼に応えたかったのかもしれない……。  
 
『頼りにしてるぞ、田中選手』  
 
 あの時に告げられた倉成の言葉に応えたかった。倉成に、自分を認めて欲しかった。  
彼の事が好きだから…一人の人間としての彼に、心から憧れて惹かれていたから。  
そんな倉成に、自分を認めて欲しかったのかもしれない。  
 
「優……」  
 
 そんな事を考えていた私の耳に、躊躇いがちに口を開いた桑古木の声が聞こえてきた。  
 
「ゴメン…優」  
「何を謝るのよ…何も謝る必要なんか無いじゃない」  
「だって僕…優が武を好きだって云う事、誰よりも知っている筈なのに。  
これじゃあまるで、優の弱みにつけこんだみたいだ」  
「―――ばっかねぇ」  
 
 おずおずと、本当に申し訳なさそうに伝えてくる桑古木に、  
私は思わず呆れた様な表情を浮かべて彼を見つめてしまった。  
まるで、悪戯を咎められた子供の様に、桑古木は此方を伺っている。  
 
 ずっと倉成になる為に頑張ってきた桑古木…。  
偽物の倉成からようやく本当に自分に戻ろうとしている桑古木。  
 
 彼の基本はやっぱり、あの繊細で気の弱い少年のままなのだ。  
弱くて頼りなくて…でも何時だって、  
相手の気持ちを考えてくれる…そんな少年のままなのだ。  
 
「全く…しっかりしてよね、少年」  
「優…?」  
 
 今も困惑した表情を浮べたままの桑古木。  
私は彼に、びしっと右手の人差し指を突き付けると、  
自分自身にも言い聞かせる様に、一言一言を口にした。  
 
「いーい?私が頑張って来たのは、あの考え無しで、  
 私や空の気持ちにも気付かないくらいに鈍感で、  
 つぐみの為に命まで捨てちゃう様な底無しの馬鹿で……  
 でも、やっぱり大切な仲間を救いたいと思ったからよ。  
 あの時のままの倉成の笑顔を見てみたかった。  
 その笑顔を、つぐみ達のところに戻して上げたかったからなのよ」  
「でも、優は…それで、良いの?」  
「良いに決まってるじゃない」  
 
 くすくすと微笑ながら、私は大きく頷いた。  
それは作り物でも無理をしているのでもない…本当に、自然に浮かんだ笑顔だった。  
 
「これからは、ライブリヒがしてきた不祥事の事後処理が山積みになんだから。  
 今までと同じくらい…  
 ひょっとしたら、それ以上に忙しくなるかもしれないんだからね。  
 本当に…しっかりして頂戴、相棒」  
「相棒……か」  
「そ。17年間一緒に頑張ってきたパートナーでしょ、私達。…これからもね」  
 
 そして、私の言葉に、桑古木もまた少しだけ恥かしそうな笑顔を浮かべてくれた。  
それはもう「倉成武の偽物」なんかじゃない。確かな桑古木涼権の笑顔だった。  
 
「それに…当面に大きな問題が立ちはだかってるしね」  
「え?」  
 
 そんな桑古木に、私は少しだけからかう様な色を含んだ視線を投げかける。  
桑古木は、少し怪訝そうに首を捻って私の次の言葉を待っている。  
 
「ユウに認めてもらわなくっちゃね。  
 ふっふっふ、あの娘にパパって呼ばれるのは大変よ、涼権」  
「………ゲッ」  
「ゲッとは何よ、ゲッとは」  
 
 失礼しちゃうわね、もう。  
瞬間、可笑しいくらいに表情を引きつらせた桑古木に、  
私も意識して拗ねた表情を浮かべて見せた。  
 
 けれど、すぐにその表情も苦笑混じりの物に変わってしまう。  
しどろもどろの桑古木…涼権と、  
パニックになっているユウの姿が思い浮かんだからだ。  
 
 私にとっての2017年はようやく終わろうとしている。  
あの時に抱えた想いも…あの時に背中に委ねられた使命も。  
ようやく終わりを告げようとしている。  
 
 これからも問題が山積みなのは分かっていた。私達にも…彼等にも。  
けれど、お互いに傍らには…それを共に乗り越えていける相手がいる。  
倉成にはつぐみが。私には涼権が。  
 
(今までの17年間、ずっとそうだった様に…)  
 
 私はそっと隣にある涼権の手を握った。  
一瞬だけ驚いた表情を浮かべた後に、  
おずおずと握り返してくれる掌の温もりが嬉しかった。  
 
「ねえ。そう言えば…まだ言ってなかったわよね」  
「えっ…何かな」  
「私、貴方の事が好きよ、涼権」  
「あ……ぼ、僕だって――んむっ」  
 
 その先の答は分かり切っていた。  
だから私は…その答が紡がれる前に彼の唇を塞いでしまう。  
 
 其処から伝わって来る温もり。  
それがそのまま、彼の気持を伝えてくれる事を知っていたから。  
 
 ……今、一つの物語が終わりを告げ、新しいこれからが始まろうとしている。  
 
【もう一つの結末・完】  
 
 

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