……どのくらいの時間が過ぎたんだろうか。
ゆったりと流れる空気の中。
僅かに響くエアコンディショナーの音を聞きながら、
俺はゆっくりと体を起こした。
「よっ、と」
腕を振る反動をつけて起こした体は、予想していたよりもずっと軽い。
ひょっとしたら…救護室に入る前よりも軽いんじゃあないだろうか?
体力的には…その、確かに疲弊している筈なのに、
こんなに体が軽く感じるのは…
「やっぱり…色んな意味で満足しているからなんだろうな、うむ」
「――――は?」
俺の呟きを耳にしたつぐみが、少し怪訝そうな声を上げる。
乱れた衣服を直し、髪を整えていたのだろう。
俺の視線に気付いたつぐみは、恥かしそうに、慌てて胸元のボタンを填めた。
今更隠す必要なんて無いだろうに、
はだけた肌を隠そうとするその仕草が何とも可愛らしい。
「な、なに?武」
「―――ん?いや、見とれてた」
「えっ…や、やだ、もう…」
また耳まで真っ赤になって、小声で『本当にバカなんだから』と
呟くつぐみに、笑みを浮かべながらすっと右の手を差し出す。
「そろそろ到着みたいだな。立てるか、つぐみ?」
「ええ、平気よ――――ふふふ」
その手を取りながら、つぐみが立ちあがる。
そして…小さく笑い声を洩らした。
何だか妙に嬉しそうな様子のつぐみに、俺は少しだけ首を傾げる。
そんな俺につぐみの方も気付いたのだろう。
小首を傾げて俺を見上げながら、小さな笑みを見せた。
「良いから、余り気にしないで。少し…懐かしかっただけだから」
「懐かしい?」
「ええ。…ふふ、良いのよ。だから、気にしないで」
そう言われても、やはり気になるモノは気になるのが人情ってヤツだ。
暫く頭を悩ませていた俺は、
ふっとある事に思い至ってもう一度つぐみに目をやった。
当の彼女は、繋いだままの手を見つめては、また嬉しそうな表情を浮かべている。
(ひょっとして…最初の頃のことを思い出してるんだろうか)
初めてつぐみと手を繋いだ時には…
俺は、一方的につぐみに助けられているだけだった。
溢れた海水の奔流に呑まれそうになって、その上足を滑らせそうになって。
だけど、今は違う。
今はこうして…つぐみと同じ位置でその手を繋いで歩いて行く事が出来る。
こうやってつぐみと、お互いに
手を握り合えることが嬉しくて、俺も少しだけ笑みを浮かべた。
「―――行くか」
「うん」
手を取り合ったまま、甲板の方へと歩いて行く。
僅かに風に乗って運ばれる潮の匂い。
次第に明るみを増していく視界一杯に、
通路から覗く海と空の青が映し出されると、
俺は其処に佇む見覚えのある後ろ姿に気付いた。
白衣の裾を風になびかせながら優が出口の周辺には立っている。
俺と同じ様に優の存在に気付いたつぐみが、
慌てて繋いでいた手を振り解こうとするのが分かった。
だが、俺は苦笑しながら握っていた掌に、逆に力をこめてやる。
「ちょ、ちょっと武!…恥かしいじゃない」
「ん?何じゃい。別に恥かしがる事なんて無いだろうが」
―――まぁ、手を繋いでいると言う点に関しては。
一方のつぐみは、「だって…」と、
少し困った様子でもじもじと体を小さくしている。
あちらの方も俺達に気付いたのだろう。
つぐみの様子に小さな笑みを浮かべながら、優はからかう様に口を開いた。
「ふふ、良いじゃない。
どうせあっちに行けばまた、皆して倉成を取り合う事になるんだから。
今の内に、思う存分一人占めして置きなさいな」
「なっ……ゆ、優っ!」
「うむ。俺の方には異存は無いぞ?」
「…も、もう、武のバカっ。」
「あははははは。本当に可愛いやっちゃなぁ、お前」
「―――…知らないわよ、バカ」
そんな風に恥かしがるつぐみの姿が何とも可愛らしくて、
俺は想わず声を上げて笑ってしまっていた。
優の方も、少し苦笑をしながらつぐみの様子を伺っている。
だが…やがて、少し怪訝そうな表情を浮かべながら、此方へと近付いてきた。
「あら……」
「な、なぁに?優?」
目の前までやって来て、しげしげと観察する優に、
つぐみが少し上擦った声をあげる。
ついさっきまで、俺に抱かれていた事を
気付かれないか心配しているのだろう。
意味ありげに俺とつぐみを見比べる優の様子に、
俺も自然と心臓の音が高鳴るのが分かった。
背筋を冷たい汗が伝い落ちていく。
だが、そんな俺達の心情を知ってか知らずか。
優はまたすぐに、一人で納得した様な表情を浮かべた。
「まぁ良いわ。そろそろ着岸みたいだし、あっちに行きましょうか。
沙羅とホクトも首を長くして待ってるわよ」
「ま、待ってるのか…うーむ」
救護室に向うまでの間の「お父さん攻撃」を思い出して、
少しだけ複雑な気分になる。
まぁ、今更子供かどうかと言う問題云々は良しとしても…
そう年齢の変わらない男子高校生に抱き付かれるのは、
正直余り気持ちの良いもんじゃない。
(まぁ――仕方ない、か)
苦い笑いを浮かべながら俺が一歩を踏み出すと、
その拍子に隣のつぐみが少しよろけた。
バランスを崩したのか、少し前のめりになった体を慌てて抱き止める。
「おい、本当に大丈夫なんか?」
「あ…ご、ごめんね武。大丈夫よ」
そう言って体を起こすものの、今も少しふらついている様だ。
…やっぱり、無理をさせ過ぎてしまったんだろうか。
俺だけじゃなく当然つぐみも17年振りの行為だった訳で…。
にも関わらず、結局時間ギリギリまで、
かなりその……夢中になってしまった訳で。
(流石にちょっと…やり過ぎちまったか)
そんな事を考えながらつぐみの体を支えていると、
背後からまた意味あり気な優の声が聞こえた。
「ふぅうぅ〜〜〜ん」
「っ、な、なんじゃい、その意味ありげな視線は」
「別に、深い意味は無いわよ…ふふふふ」
「だったら良いんだが…」
妙に含みのある表情で、優は此方を眺めている。
その視線から目を反らしながら、俺はまたつぐみの様子を伺った。
まぁ、正直優の表情に耐えかねた感があるのは否定するまい。
「どうせ、お前はそのままじゃ外に出られないだろ?
どうする…此処で待ってるか。それとも、アレを取って来てやろうか」
「あ、うん。―――そうね」
確か、別の船室の中
―――まぁ、救護室に向う前につぐみが暴れた部屋のことなのだが。
其処に脱ぎ捨てたままのみゅみゅーんの着グルミがおいてある筈だ。
その事を思い出した俺は、みゅみゅーんを理由に
この場を離れ様としたのだが…それはどうやら、つぐみも同じだったらしい。
「いいわ、自分で取って来るから。
武は先に沙羅やホクトの所にいってやって頂戴」
「いや、だけどさ…お前、本当に大丈夫なんか?」
ふらつくつぐみの様子に、純粋に彼女を案じる言葉が先に立つ。
少し歩き難そうにしながら、移動しようとするつぐみを、
俺は慌てて抱き支えた。
そんな俺達の様子に、
背後の優からはふぅっと大きな溜息を吐き出す音が聞える。
同時にそちらを振り返った俺とつぐみに、
優はもう一度…何とも人の悪い表情で微笑んで見せた。
「全く…だから言ったでしょう?
『仲が良いのは良いけれど程々にしておきなさいよ』って」
「な―――――」
「ふふふ。じゃあね、先に行ってるから。
せめて沙羅とホクトにはばれない様に努力しなさいな」
……そう言って優は白衣の裾を翻して甲板の方に向っていく。
…………。
…………………つまり、その…ひょっとして、
最初から全部…お見通しだったと云う訳なんだろうか。
俺とつぐみは何も言えないまま、
呆けた様に遠ざかる彼女の背中を見つめている事しか出来ない。
そして――何もいえないまま立ち尽くす俺達に、
やがて、本土到着を告げる霧笛の音が聞こえてきたのだった。
【叶えられた想い〜2034年〜完】