「悪ふざけが過ぎるな、ディランドゥ」  
 アストリア王国から浮遊要塞ヴィワンへ帰還したフォルケンは、見るも無残に溶け落ちた、アルセイデスの残骸と、  
ディランドゥに向けて渋い顔で言い放った。  
「バァンを殺す気か。あれには利用価値があるというのに」  
「ふん。はっきり言ったらどうだい。弟に手を出すなと」  
 ディランドゥはにやりと笑った。  
「……私は確かにここから動くなと命じた。だがアルセイデスからクリーマの爪で攻撃をしろとは命じていない」  
「今度から気をつけるんだね。僕に命令したかったら、大雑把はダメだよ。一から百は命じてくれないと。  
最も、肝心な時に忘れちゃうかもしれないけどさ」  
 悪びれもなく言ってのけたディランドゥに、フォルケンはため息をついた。  
「その結果がこれか。貴重なガイメレフを一体台無しにした」  
「量産型があるじゃないか。次の戦にはそれで出る。文句は言わないさ」  
「……それほどまでに、バァンが憎いか」  
「はっ!」  
 苦々しく言ったフォルケンに対し、ディランドゥは頬の傷をよく見えるようにしてつきだすと、その上から指をえぐるように  
 
して吠えた。  
「僕のこの美しい顔に! この……美しい顔に傷をつけたんだぞ!」  
「美しいだと」  
 フォルケンは皮肉に笑う。もしこの時、弟を狙われたことによるいらだちがなければ、今後の運命は変わっていたかもしれな  
 
いと、彼はずっと悔やむことになる。  
「アストリア王国の姫の美しさに比べれば、おまえの顔など大したことはない。戦で彩られた死化粧風情だ。  
本当の美しさとは、姫君たちのような陽の光を浴びてきらめく女神のようなものを言うのだ」  
 
 ――私の母上のような。  
 
 美の化身のようだった母親の姿を思い出す。父が周囲の反対を押し切ってまで手に入れたかった呪われたアトランティスの  
民、竜神人の女。  
 息子の自分が見ても、彼女は美しかった。あのどこか悲しげな瞳をした女性。目の前の血に濡れた猛獣のそれとは、  
重ねる気にもなれない。  
 
「美しいだと……?」  
 刹那、物思いにふけっていたフォルケンは、ディランドゥの怒りに満ちた声に我に返る。  
 わなわなと震える目の前の青年は、美というより鬼の化身と言ったほうがふさわしかった。  
「是非、会ってみたいものだねえ」  
「これ以上、私の手を煩わせるのはやめるのだ」  
 フォルケンは眉根を寄せた。  
 運命改変装置によって性別まで変えられた哀れな人間と思って今まで接してきたが、そろそろ限界が近かった。  
 一度ならず、二度までも故意に弟の命を狙うこの男を放置しておくのは、あまりにも危険に思える。  
「これからはおとなしくしておくよ。だから今度アストン王に謁見するときは、僕も連れていくんだね」  
「勝手なことを言うな、ディランドゥ」  
「あんたのやり方じゃ、時間がかかってしょうがないんだよ」  
「……君に政治がわかるのか?」  
 フォルケンが目を細めると、ディランドゥは笑い飛ばした。  
「ははっ。面白いことを言うんだね、軍師殿。あんたは舐められてるんだよ。白い竜の居場所も吐かせられない。  
国の保身しか考えられない王様は、どうやったらあんたを出しぬけるか今も考えてる最中だろうさ」  
「そこを敢えて乗ってやり、事を進めれば穏便にすむ」  
「弱みも握らずにかい? まあ、見ておいで」  
 ディランドゥは馴れ馴れしくフォルケンの肩を叩くと、歩き去った。  
「何を考えている」  
「僕の考えもわからなくなってしまったのかい、軍師殿?」  
 ディランドゥは振り返らずにひらひらと手を振った。  
「昔も、今も、これからも」  
 足音が遠ざかる。  
 
 
「――殺すことだけさ」  
 
 
「先日、面白いものを手に入れましてね」  
 アストリア王国城内の謁見の間で、青ざめるメイデンと、それを責めるような眼で睨みつけながら仏頂面になっているアストン王の前で、  
フォルケンはにこりと言った。後ろには、ぞっとするほど美しい青年が、不気味な笑みを浮かべて控えている。  
「そちらの客人が、ヤモリ人にさらわれそうになっていたのを、私の部下が追い払いました」  
 フォルケンの後ろから、愉快そうな声が聞こえた。  
「大事な同盟国のためだからねえ。夜に何かあっちゃいけないと、徘徊させてもらっていたんだ」  
「な、なんとも頼もしい……」  
 額に浮き出る汗を拭うこともできず、アストン王はしどろもどろになりながら、時折ちらりと傍らのメイデンを見る。  
「きゃ、客人とは……?」  
 メイデンが愛想笑いを投げかけながら、フォルケンを探るように見た。  
「おや。変わった服を着た異国の娘がおりましたでしょう」  
 フォルケンが含み笑いをすると、メイデンは愚かにも首をひねってみせた。  
「果て、そのような娘がいたかどうか」  
「白を切るつもりかい? なんでもこの間滅んだファーネリアの王様が連れてきた娘だそうじゃないか。面白いのはこれからでね。  
誘拐犯のヤモリ人を締めあげたら、依頼人は誰だと言ったと思う?」  
「ディランドゥ」  
 フォルケンが穏やかに止める。  
「仮にも国王の御前だ。口を慎みなさい」  
「誘拐犯を友達に持つような国王に? はは、ごめんだね。かよわい乙女を無理やり攫って、どこへ売り飛ばすつもりだったんだろうねえ」  
 フォルケンはこの時、ディランドゥが怒りを抑えているのを見てとった。  
 ……記憶は消したつもりでも、彼には自分も同じような目に遭ったことの記憶が、おぼろげながら残っているのかもしれない。  
「フォルケン殿。言いがかりはやめていただきたいものだ。我々は同盟を結んだ言わば友人。このようなことで争いたくはない」  
 メイデンをにらみつけて黙らせた後、アストン王は、なんとか場を収めようとした。  
「無論、私も争い事は好きではありません」  
 フォルケンは鷹揚にうなずいた。後ろでディランドゥがくっと笑う。  
「昨晩、白き竜が出現したのを彼が見ています。即刻、こちらに引き渡して頂きたい」  
「なんと。竜が出たと」  
 弱弱しい声で、アストン王はようやく額の汗をぬぐった。  
「どうやって我が国へ入ってきたのかは知らぬが、竜がいるならすぐさまあなた方に捕獲願いたい」  
「……食えない男だ、あなたは」  
 フォルケンが目を閉じる。そこに割って入る声があった。  
「それともうひとつ」  
「! ディランドゥ……」  
 フォルケンの制止の声も無視して、ディランドゥがアストン王の前に立った。  
「噂の姫君と、異国の娘を交換したいね」  
 
「な!」  
 これには一同が目を丸くした。  
「何を――」  
「い、いい加減にせぬか!」  
 さすがのアストン王も、愛娘のこととなると黙っていなかった。  
「どこの娘ともわからぬ者と、わしの娘を交換だと!? 応じると思うか!」  
「誰でもいいんだ。あんたの娘は何人だっけ?」  
「こ、この――! フォルケン殿! 部下の教育が少々行き届いていないようですな!」  
「申し訳ない。ディランドゥ――」  
「幻の月の娘だそうじゃないか」  
 ディランドゥは笑みを崩さない。蒼白になって立ち尽くすメイデンを下からねめつける。  
「高値がつくと踏んだんだろう? 商人さん。言い値で渡してやってもいい」  
「わ、私は、そんな、娘は――」  
「私の娘にはそれぞれ許婚がいる!」  
 商人としてしか物事を考えられないメイデンの言葉には頼るまいと、アストン王は切り札をつきつけた。  
「へえ?」  
 ディランドゥは、面白そうにアストン王を見た。  
「そこのメイデンの息子と、もうずっと前からだ! だから娘は誰にもやれんぞ!」  
「こんな男の息子だって? 冗談だろう?」  
 ディランドゥは豪快に笑った。  
「国王様。僕はこの男よりよっぽど金を持ってる男だよ。僕にしておきなって」  
「な、何」  
 そこで初めて、国王の心がぐらついた。  
「アストン王! なりませぬぞ!」  
 メイデンが慌てて叫ぶ。  
「あんたにとっても悪い話じゃない……どうせ内心ザイバッハのこと疎んじてるんだろう? うさんくさいって、思ってるんだろう? 何か、確かなつながりを持ちたいと思っていたんじゃないのかい? こういったやりとりではなく、さ」  
 赤銅色の瞳が、糸のように細められた。  
「同盟を結んだ証として、お互いの血を分けておくのも、悪い話じゃないと思うよ。この先我が国はどんどん勢力を増していく……あんたの国に何かあったとき、まっ先に力になりたいんだよ」  
 口の減らない男だ。  
 黙ってやりとりを聞いていたフォルケンは、呆れるばかりであった。  
 おまえは金どころか、身のあかしを立てるだけで日々精一杯だというのに。  
 よくぞここまで嘘を並べたてられるものだ。  
 これが美への執着なのだろうか。  
 利口なんだか、愚かなんだか。  
「あ、アストン王!!」  
「え、ええい、黙らぬか! そなたが馬鹿なことをしでかさなければ良かったのだ!」  
 アストン王はうるさげにメイデンを振り切ると、ごほんと咳払いをした。  
「メイデンの息子と婚約していたのは、私の二番目の娘、ミラーナ。ミラーナ・アストンだ。  
 む、娘を……、生涯幸せにできるというのなら……」  
「王!!」  
 アストン王は、苦渋の決断を下した。  
 
 
「ミラーナを、君に……任せよう」  
 
 
 メイデンの悲鳴は、誰の耳にも届かなかった。  
 フォルケンはこっそりと息をつき、アストン王はすでに後悔の色をにじませている。  
 ディランドゥだけが恭しく一礼し、いささか棒読みとも取れる言葉を述べた。  
 
「生涯この身に代えましても、姫を愛し、守ることを誓いましょう。……ふふ、これでいいのかい?」  
 
 ちらっと顔をあげ、それから仁王立ちで笑い出した。  
「喜ぶがいいよ、国王様! あんたはこれから僕の父だ! 僕は息子だよ? いい親子関係を築いていきたいものだねえ!  
 あはははははははっ!」  
「交渉成立ですな」  
 フォルケンは踵を返した。  
「ま……!」  
「竜は頂きます。後ほど保護した娘をよこしますので、姫君をお連れ下さい。それでは」  
「待て……!」  
 浅黒く、恰幅のいいアストン王が、蒼白になり、この数分間でげっそりとやつれたように見えた。  
 太く短い、豪奢な指輪をはめた指が、背を向けて去るふたりの略奪者に向けて広げられる。  
 
「どうなっても知りませぬぞ……」  
 
 ぼそりと漏らしたメイデンに、  
「貴様がああっ!!」  
 謁見の間に、鈍い音が響き渡った。  
 
「どういうことですの。お父様!」  
 ミラーナは、突然部屋に入ってきて、うつむき加減に言い放った父親の言葉に耳を疑った。  
「どうしてもという話が持ち上がってな……」  
 アストン王は、しどろもどろになっている。  
 護衛もつけず、青ざめ打ちひしがれた様子の父を見て、ミラーナは眉をひそめた。  
 せっかくこれからお気に入りの服を着て、念入りにメイクをして、アレンを乗馬に誘おうかと思っていたのに。  
 テーブルの上に広げられた幾枚もの洋服たちが、今はかすんでみるのはなぜだろう。  
「……お父様は、わたくしをなんだと思ってるんです!? 勝手に許婚を決めておきながら、今度は別の殿方とだなんて!」  
 ミラーナの言い分は最もだった。  
 こんな支離滅裂な話に、誰がはいそうですかとうなずけるだろう。  
「おまえには申し訳ないと思っている」  
「でしたら撤回してください! わたくしにはもう好きな方が……!」  
「そちらが、我が姫君ですか」  
「!」  
 背が高いほうではない父親の体が、また小さく見えたのは気のせいだろうか。  
 王の後ろからひょっこり顔を見せた美貌の青年に、ミラーナは一瞬呆けた後、眉根を寄せた。  
「どなた? ここはわたくしのプライベートな部屋よ」  
「今義父上が紹介してくださったでしょう?」  
「ちち――!?」  
「ディランドゥ殿!」  
 混乱するミラーナを前に、アストン王は脂汗を滲ませながら、ディランドゥに詰め寄った。  
「何故ここへ!?」  
「保護していた娘を返したついでに、僕の妻になる女の顔を、一刻も早く見たくてね。いけなかったかい?」  
「な……!」  
 王が絶句している間に、ミラーナは果敢にもディランドゥの前に割って入った。  
 ディランドゥの目が細められ、無遠慮にミラーナの顔を眺め始める。  
「どういうことなのか、説明してくださらない? わたくしは、便利な道具扱いされるのは嫌よ!」  
「ふぅん」  
 詰め寄るミラーナの言葉は、ディランドゥの耳には届いていないようだった。  
 明るい巻き毛かかった金の髪が、陽の光を受けてきらきらと輝いている。白くて張りのある肌は怒りで紅潮し、  
 アメジスト色の大きな瞳は爛々とディランドゥを見上げている。薄く紅が塗られたぽってりとした唇。  
 ふんわりと漂う香水の匂いは、背伸びしている大人の女性を思わせた。  
 値踏みするかのような不躾な視線にミラーナがわずかにたじろぐ。  
「な、なんですの?」  
「なるほどね。女神も思わず嫉妬するほどの美しさだ」  
「え――?」  
「ディ、ディランドゥ殿!」  
 困惑顔のミラーナをかばうようにアストン王が立ちはだかった。  
「娘にはこれから伝えますので、どうか、今日のところは」  
「もったいぶるんだねぇ」  
 ディランドゥはくつくつと喉の奥で笑いをかみ殺し、踵を返した。  
 アストン王は肩をなでおろし、娘を振り返る。  
「み、ミラーナや。話は後で――」  
 一陣の風が空気を切り裂いた。  
「きゃ……っ!」  
 王には何が起こったのかわからなかった。  
 
 ダンという音がしたと同時に、ミラーナが壁に押し付けられ、その肩を強く掴んでいる男の背があった。  
 脳が状況を理解するのに数秒の時間を要す。アストン王は我を忘れてディランドゥに詰め寄った!  
「貴様……っ!」  
「動くな」  
 いつの間に抜いたのか、王の鼻先には白刃に光るものが突きつけられていた。  
 ディランドゥは王を見ようともせず、剣を王に向けたまま、声も出ない程ショックを受けているミラーナに顔を近づけた。  
「リスクを冒してようやく手に入れてみれば、なんだいこのお姫様は。城の中で大切に大切に育てられてきた、傷ひとつない宝石のようじゃないか……」  
 ミラーナの肩に食い込ませていた手を外し、白い顎をぐいとつかむ。  
「痛……っ!」  
「これが本当の美だって? 笑わせる。――おまえなんか大嫌いだ……!」  
 蛇が威嚇するように、ディランドゥは吠えた。  
「――さっきから――!」  
 ミラーナは渾身の力でディランドゥを突き飛ばした。片手で剣を構えていたせいか、はたまた多少の油断があったのか。  
 意外なほどあっさりディランドゥは後ろに下がった。  
 ミラーナは肩で息をしながら、ディランドゥをにらみつける。  
「無礼者! おまえが何者かは知りませんが、これ以上わたくしに触れることは、許さなくてよ!!」  
「おやおや。この僕に命令かい? 調教のしがいがありそうだね」  
 ディランドゥは顔を歪めて笑うと、アストン王から剣を引き、鞘におさめた。かちんと音が鳴った瞬間、王はディランドゥの頬を打った。  
「娘を傷つけるような真似は、絶対に許さん!」  
「挨拶をしただけじゃないか」  
 ディランドゥは不気味なほどの笑顔で打たれた頬を触る。  
「もう一度、フォルケン殿と話す必要がありそうだな」  
「まあ、好きにすればいいさ」  
 憤慨するアストン王に監視されながらミラーナの部屋を出るディランドゥは、立ちつくし、威嚇するように睨みつけてくるミラーナを見て鼻で笑った。  
 
「あんたは僕のものになる。血ぬられた花嫁衣裳は、すぐに用意させるよ」  
 
 嵐が去った後、ミラーナは恐ろしさと屈辱のあまり、小刻みに震えながら立ち尽くしていた。  
 あの男は、名前すら名乗らなかった。  
 父が呼んでいた、ディランドゥというのがそうなのだろう。  
「だ、誰が、あんな男なんかと……!」  
 掴まれた肩と顎には、まだ感触が残っていた。至近距離で見つめられた、あの男の瞳の色が怖かった。  
「アレン……!」  
 自分を抱きしめ、うずくまる。  
 この名を呼べば、勇気が湧く。  
 自分を恐怖から救い出してくれる。  
 そんな希望さえ抱きながら、ミラーナは恋しい男の名を呼び続けた。  
「そうよ……」  
 やがて、涙をにじませた目をあげる。  
「わたくしは、城の中でおとなしくあんな男との結婚を待つような姫じゃない!」  
 立ち上がると、軽くめまいがした。  
 先ほどまで、あんなに浮かれていた気持ちも、服を散乱させてわくわくしていた気持ちもどこかへ吹き飛んだ。  
 代わりに、己に誓いを立てる。  
「わたくしは、アレンについていく!」  
 そうつぶやくと、クローゼットの奥から、青いかばんをひっぱりだした。  
 それをつかみ、潔く部屋を出て行く。  
「誰か、アレンはどこにいるかご存じ!?」  
 廊下に、凛とした声が響き渡った。  
 
「そん、な……」  
 ミラーナは愕然となった。  
 アレンが投獄された上、そこから逃げ出したという知らせを聞いたのである。  
 しかも、バァンとひとみたちまで!  
「わ、わしは知らんぞ! やつらが勝手に逃げたのだ!」  
 アストン王は弁解がましくわめいた。  
「それは、父上がアレンを牢へ入れたからでしょう!? 何故です!?」  
 ミラーナは悲鳴のような声で父を責めた。  
「ザイバッハの者がこちらに来ているのだ! 小競り合いを起こした者にいられては困る! やつは竜を隠していたのだぞ!」  
「そんなこと……!」  
 ミラーナは聞いていられないと、王の間から飛び出した。  
「ミラーナ!」  
 城から出、アレンたちが逃げ去ったという港まで走る。  
「アレン……!」  
 潮風が、ミラーナの金の髪を揺らした。  
「何故、わたくしも連れて行って下さらなかったの……!」  
 呻き、両手で顔を覆った。  
「天空の騎士とは言ったものだね。籠から空へ逃げた。ひきょう者さ」  
 突然、背後で声がした。涙に濡れた顔で振り返れば、そこには当然と言ったように、ディランドゥが立っている。  
「……何をしているの」  
 慌てて涙を拭き取りながらそう言うと、ディランドゥは肩をすくめた。  
「竜を捕らえようと思ってね。娘を引き渡した後おまえに会いに行っている最中にこれさ。初めてだよ。自分の愚かさに笑ったのは」  
「……わたくしのせいだと言いたいの?」  
「そう言いたいところだけど、軍師殿のせいさ。僕より美しいものがあるなんて言うもんだから、柄にもないことをしちゃったよ」  
 ミラーナには彼が何を言っているのかわからなかった。  
「……あなたたちは、何を考えているの? どうして、あなたがわたくしを?」  
「さっきも言ったろう。美しいものがいるというから、手に入れに来たのさ」  
「……?」  
 訳がわからず眉をひそめる。  
 ディランドゥは鼻で笑った。  
「僕より美しいものがあるなんて、認めたくないからね。手に入れたら、存分に傷をつけて、獣の餌にでもするつもりだった」  
「な――!?」  
「まあ、今はしないよ。時期ではないからね……」  
「あなたは……!」  
 ミラーナは拳を握り締めた。  
「人の命をなんだと思っているんです!」  
「綺麗な箱庭でお育ちになった宝石は、言うことも綺麗だね」  
「馬鹿にしないで!」  
「気に障ったのなら謝ろうか? お姫様」  
 ディランドゥの見下した笑みはミラーナの癇に障った。  
「今すぐ、お父様に許婚を解消するようお言いなさい! 馬鹿げてるわ……!」  
「僕に命令するんじゃないよ」  
 ディランドゥの笑みがすっと消えた。  
 まだ太陽は高く昇っているというのに、ミラーナはぞくりと背筋に悪寒が走るのを感じる。  
 人は――、人は周囲に幾人か、いる。大丈夫だ。そう簡単に、この男は自分に手出しはできない。何かあっても、すぐに駆けつけてくれるはず!  
 身構えるミラーナに、ディランドゥはずかずかと近づいてきた。  
 
「女はすぐそうやって調子に乗る。髪を長くして着飾り、素直な顔をしておきながら、言いつけを守らないんだ……」  
 言いながら、一瞬風になびくミラーナの髪に触れ、何かを思い出すかのように指でいじると、忌々しげに顔を見てくる。  
「さ、触らないで!」  
 ミラーナは一歩後ろへ退いた。  
「女はみぃんな、いけない子……」  
 ディランドゥは暗い瞳でぶつぶつとつぶやいている。  
 ミラーナは、不可解な生き物でも見るような顔つきになった。  
 恐怖より、好奇心が勝り、まじまじと見上げてしまう。  
 ……青白い肌に、虚ろな目。  
 情緒不安定な性格。  
 まるで医学の書物で読んだ、中毒者のようではないか。  
「ディランドゥ様!」  
 ふたりの背後で声がした。  
「あぁ?」  
 不機嫌そうに振り返るディランドゥの前でぴしりと立ち止まったダレットは、  
「竜の行き先がわかりました!」  
 とかしこまって告げた。  
「そうかい」  
「どこ!?」  
 覇気が戻ったディランドゥと同時に、ミラーナも身を乗り出していた。  
 ダレットは怪訝そうな顔をし、ディランドゥは舌打ちをする。  
「おまえには関係がないことだ」  
「アレンはどこなの!?」  
「アレン……?」  
 ダレットに詰め寄るミラーナを見ながら、ディランドゥの眉がぴくりと動いた。  
「ディランドゥ様、この女は……」  
「僕の妻だよ」  
「ちょ……っ!」  
 絶句するミラーナを無視して、ディランドゥはダレットを一瞥した。  
「竜たちはどこへ向かった?」  
「はっ。どうやら一同は、フレイドへ向かっているものと――」  
「それはまずいね……」  
 ディランドゥは親指を噛んだ。フレイドには、パワースポットがある。  
 ドルンカーク様の目的のためには、絶対に攻め落とさなくてはならない国だ。  
「これからヴィワンで出る。軍師殿は」  
「すでに用意はできております」  
「わかった」  
「わ……」  
 ミラーナはごくりと息をのんだ。  
 
 この男についていくことで、何か取り返しのつかないことになるかもしれない。  
 
 そんな予感が、ちくりと胸を刺す。  
 けれど今ここで前に出なければ、もっと自分は後悔する!  
 その思いが、ミラーナに力を与えた。  
 
「わたくしも、乗せていってください」  
 
「……何故」  
 ディランドゥは、冷めた目でミラーナを見下ろした。  
 もしこの時彼についていくと言わなければ、許婚の話もなかったことにできたかもしれなかった。  
 それに気付いたのはずっと後になってからのことだが、今のミラーナは、一刻も早くアレンの元へ行きたいという衝動に駆られていた。  
「会いたい人がいるから」  
「天空の騎士殿のことかい?」  
「……ええ」  
 きっぱりと、ミラーナは言った。アメジスト色の瞳がきらきらと輝き、ディランドゥの瞳の中に流れ込んでくる。  
 その毅然とした立ち姿は美しかった。  
 息をするのも忘れた自分が腹立たしかった。  
 この手でぐちゃぐちゃにしてしまえば、どれだけ気が晴れるだろう。  
 醜い傷跡が残ったこの顔の前で、よくもそんな美しい顔を向けられる!  
 理不尽な怒りにディランドゥは震えた。  
   
「いいだろう、花嫁さん」  
「ディランドゥ様!?」  
 ディランドゥは、ダレットからすれば気味の悪い笑顔をミラーナへ向けた。  
 まだディランドゥのことをよく知らないミラーナは、その笑顔に愚かにも安堵する。  
「ありがとうございます。――あの」  
「?」  
 目で促すと、ミラーナは、視線を泳がせ、おずおずと口を開いた。  
「……ディランドゥ、で、よかったのかしら。あなたのお名前……」  
 眉を吊り上げたディランドゥに、何故か傍らのダレットが緊張した。  
 間違いなく、殴られる。  
 いっそ自分が前に出てしまって折檻を受けたほうがましだと思えた。  
 それほど、ミラーナという女性は美しかった。  
「――ああ、そうだよ、ミラーナ」  
 踵に力を入れ、いつでも飛びだせるようにしていたダレットは、小鳥が口ずさむような弾んだ声に、拍子ぬけしてぎくりと体をこわばらせた。  
 恐る恐る見上げると、ディランドゥは楽しそうな顔で、ミラーナへ手を伸ばしている。  
「僕の名前を覚えておいで。……まあ生涯忘れることはないだろうけどね」  
「……?」  
 首を傾げながらその手をつかむミラーナは、瞬間思いがけないほど強く握り返され、小さく悲鳴をあげた。  
「僕の手をつかんだね」  
「え?」  
 ディランドゥは歩き出した。引っ張られるようにしてミラーナは進み、ダレットがそれに続く。  
 前を向きながら、ディランドゥは愉快そうに笑った。  
「おまえが決めたことだ。後悔しても、遅いからね」  
「なんですの? それより、手――」  
 ミラーナは抗議したが、当然ディランドゥに無視された。  
「せいぜい僕に飽きられないようにするんだね。でないとすぐに、捨てちゃうよ」  
 そう言いながら、ディランドゥの興味はもう、別のことに移っていた。  
「竜は生かしておく。ただ他のものは、壊しちゃってもしょうがないよね……」  
   
 そのつぶやきの意味をミラーナが知るのは、そう遠くない未来だった。  
 

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