「お久しぶりです、ミラーナ叔母様。父は領地を回っているため、私が代わりに参りました」  
 誰かを思い出させる柔らかな金の髪と、青い双眸をくりくりさせた小さな王子が、控える一同の前で微笑んでいる。  
 あれからすぐにフレイドの兵たちが彼らを出迎え、不機嫌になっているディランドゥと、特に変わった様子もないフォルケンを伴って  
フレイドへ入国した一同は、そのまま王の間へと通された。  
 ミラーナの後ろに、仏頂面のディランドゥと、静かに膝を折るフォルケンがかしこまっている。  
「まあ、シド。こんなに大きくなられて! 前にお会いした時は、まだほんの小さな子供でしたものね」  
 内心の動揺をひた隠しにしたまま、ミラーナは目を細めて見せた。  
「まだまだ父上には及びませんが、精進していくつもりでおります。フレイドは、あなた方を歓迎いたします。失礼ながら、  
ミラーナ叔母様のお顔を見るまで、私は疑心暗鬼でしたが、思いすごしのようですね」  
 シドは無邪気に微笑んで見せた。  
 ミラーナは小さく苦笑する。  
 これがフレイド公王であれば、恐らくこうはならなかっただろう。表と裏を使い分け、探りを入れる綿密な会話を楽しむに  
違いない。 ザイバッハの悪名を知らぬ者はいないのだから。  
 ミラーナがいなければ、こんなにやすやすとフレイドへ入ることは叶わなかっただろう。  
 だがシドを責めるつもりはない。こればかりはいくら頑張っても、経験が物を言うのだから。  
「シド王子はお人がよろしすぎますなあ」  
 突然隣の男がからからと笑い出した。  
「! ドライデン!」  
 ミラーナが驚いて男をたしなめる。  
 しかしドライデンと呼ばれた男はにたにたとシドを見据えた。  
「いいことを教えて差し上げましょう! 戦いは、剣と剣を交えてするのだけを言うのではありません。  
 今! この場ですら、もう始まっているのです。例えばこの場でもし私が」  
 ドライデンは骨ばった指をピストルの形にしてシドに向けた。  
「何を!」  
「無礼であろう!」  
 たちまち周囲の者が腰を上げる。  
「ドライデン!」  
 ミラーナが真っ青になるが、ドライデンは人差し指をシドにぴたりと当て、にやりと笑った。  
「――あなたを撃てば、それで終わりです。  
 油断は禁物。  
 商人の俺にこういった真似は性に合わないんで、口先三寸で相手をやりこめますがね。  
 シド王子は、もっと人を疑った方がよろしいと俺は思いますよ」  
「ご忠告、感謝いたします、ドライデン殿」  
 シドは沸き立つ周囲を黙らせると、にっこりとドライデンを見つめた。  
 
「私は若輩者ゆえ、そういったお言葉は大変ありがたく思います。  
 己の証は己で立てる。これはフレイドの掟でもありますが、ドライデン殿は疑わしいと思った相手に、どういった策を講じる  
 
のか興味がありますね」  
「これはこれは」  
 ドライデンはぺしんと自分の額を叩いた。  
「商人であるこの俺に、その方法をお尋ねになりますか!」  
「ええ、是非。もう私たちは友です。友情に見返りは求めない。これは私の持論です」  
「はははっ」  
 ドライデンは豪快に笑った。  
「また教えておかなくちゃいけないですかな。人と人とのつながりに金が要り用になることもある。  
それをこれからご覧にいれますよ」  
「シド王子、無礼をお許しください」  
 ミラーナがたまらず間に割って入り、深々と頭を下げた。  
「ミラーナ叔母様。よいのです。僕はまだまだ知らないことばかりです。……人の言うことを素直に真に受けることは、時に愚  
 
かなことなのだということも知りました」  
「えっ?」  
 ミラーナが顔を上げる。シドは悲しげに微笑んだ。  
「数日前に、ファーネリアの王と共に、アレンの亡骸がこちらに」  
「!」  
 ミラーナを含めた誰もが息を飲んだ。  
 封じ込めていた感情が、堰を切ってあふれ出しそうになるのをミラーナはかろうじてこらえる。背後に控えるディランドゥ  
 
の突き刺さるような視線を背中に感じた。  
「……私の母は、アレンの話をよくしていました」  
 シドがぽつりとこぼした。  
「美しく、勇気があり、誰にも負けない天空の騎士。それがアレン・シェザールだと。  
 ですが僕の元に来たアレンは、顔もわからないほど損傷を受けていて、僕は姿すら見られませんでした」  
「シド……」  
「彼らの話によれば、アレンと戦ったのは、ザイバッハの方々だとか。……フレイドの王子として、私はその真偽を確かめたい  
 
のです。というのも、彼らが連れてきた捕虜が、ザイバッハはこの国を守るためにここへ来たと証言しているのです。どちらを  
 
信用すればいいのか、私にはわかりません。捕虜の言葉は、プラクトゥより引き出した真実のものだと皆は言います。けれど僕  
 
は」  
 シドは目を伏せた。  
「……わかっているのです。母上がしてくれた話は、幼い私を喜ばせるためのおとぎ話だったのだと。でも僕は、……私は、本  
 
当のことを見つけなくてはならないのです。  
 己の証は己で立てる。  
 どうか私に、真実をお教えいただきたい。  
 アレンの部下たちは、ザイバッハがフレイドを攻め落とすつもりだと言います。  
 ……それは事実ですか」  
「だとしたらどうするんだい」  
「!」  
 ミラーナの後ろで、ディランドゥが挑戦的に言った。  
 
 周囲がざわめく中、フォルケンは苦い顔をし、どうすればこの場を鎮めることができるかを瞬時に計算し始めた。  
「……あなたは」  
 シドが静かに問う。  
「ザイバッハの軍人だよ。知ってるかい? 軍人ってのは、戦いを仕事とする者のことを言うんだ」  
「ディランドゥ!」  
「本当のことだろ? 戦って何が悪い。敵が目前にいるのにただ間抜けに切られるのを待ってろっていうのかい」  
 ミラーナが白くなって振り返るが、ディランドゥは皮肉な笑みを崩さない。  
 不穏な空気の中、フォルケンがすっと目を開けた。  
「数々の非礼をお詫びいたします。王子」  
 深々と頭を下げてから、静かにシドを見つめる。  
「確かに、アレン・シェザール一行といざこざがあったことは認めましょう。しかし捕虜の言葉は事実です」  
「その捕虜ってのは僕の部下だよ。勇敢にも単独で危険を知らせに来てくれたんだろうね。今どこにいるんだい? 会わせておくれよ」  
 ふたりの言葉にミラーナは冷や汗を浮かべる。  
 明らかに嘘をついている。  
 それを糾弾できるのはこの場では自分ひとりだというのに、体が動かない。  
 下手なことを言えばどうなるかは言わずもがなだ。  
 苦い顔をするミラーナに気づき、ディランドゥは鼻で笑った。  
 
 ――言いたいなら言えばいい。僕は別に、どちらでもかまわないさ。  
 
 赤銅色の瞳がぎらりと光った。  
 今できることは、戦争を起こさせないこと。それに尽きる。  
 それにザイバッハの者と共に来てしまったのだ。今更何を言えばいいのだろう。  
 ミラーナは青ざめた顔をシドに向けた。  
「それが……」  
 シドは言葉を濁した。  
「捕虜は、脱走しました」  
「なんだって?」  
 恰幅のいい、浅黒い肌の男が重々しく口を開いた。  
「その理由がわからず、我々も困惑しております。本来ならあなた方はこのような席にくるべきではなかった。  
 ミラーナ様ならともかく、後の者はプラクトゥによる尋問を受けてからと進言していたのですが」  
「ボリス」  
 シドがそれをたしなめる。  
「客人に向かってそのような口は慎みなさい」  
「は――」  
「僕の部下が逃げただって? それは聞き捨てならないね」  
 頭を下げるボリスと同時に、ディランドゥが顔をゆがめた。  
「あなた方がフレイドに危害を及ぼさないというのなら」  
 シドは厳しい顔つきになった。幼いながらも、その姿は次期国王となるべくしてなる者の凛とした威厳を感じさせる。  
 ミラーナはその姿を見ていて胸が痛んだ。  
 ……何故だろう。  
「その証を、私に」  
「いいだろう」  
 ディランドゥが獰猛な顔つきになるのと対照的に、フォルケンが穏やかに言った。  
「フレイドの掟に従うことに異存はありません。その前にいくつか質問をさせていただきたいのですが」  
「なんでしょうか」  
「ファーネリアの王を含んだ他の者たちは今どうしています」  
「……バァン・ファーネル殿ですか」  
 シドは浮かない顔だ。  
「その者は今、白きガイメレフの中に閉じ込められている状態です。中を開けようにもびくともせず、下手に触れることすらできませぬ」  
 ボリスが目を閉じたまま首を振った。  
「バァンが!? なんてこと」  
 ミラーナが口を押さえる。ディランドゥは今にも立ち上がらんばかりの勢いだったが、フォルケンはその肩をつかんでとどまらせ、苦渋の顔つきになった。  
「ほう! そいつは興味深いね」  
 ドライデンだけが膝を叩いて喜んでいた。  
「後で一緒に見に行こうぜ。その証とやらは、あんた方ふたりででなんとかしてくれ」  
「なんてことを! 人の命がかかっているのですよ!」  
 物見遊山なドライデンの態度にミラーナが声を荒げる。ドライデンは片目をつぶってみせた。  
「なんでもその白いガイメレフは伝説の乗り物なんだろう? 俺ならなんとかできるかもしれないぜ」  
 
「えぇ!?」  
「それは、真ですか」  
 シドも目を丸くした。  
「さっきも言ったろう? 人と人とは、金でなんとかできる場合もある。話は終わりかい? 俺は早くそのガイメレフを拝みたいねえ!」  
「勝手なこと言うんじゃないよ。おまえ、何者だ?」  
 ディランドゥの不躾な視線を受けても、ドライデンはひるまなかった。  
「おっと、俺を知らない奴がこのガイアにもいたとは驚きだねえ! 俺はドライデン。ドライデン・ファッサだ。  
 商船団率いる若きイケメンっていや、ちょいと名の知れたモンなんだけどなあ! ま野郎には関係ねえか。はははっ」  
「こいつも尋問してもらったらどうだい。怪しいことこの上ないじゃないか」  
「無論そのつもりだ。申し訳ないが、客人たちには証を立てていただく前に、プラクトゥによる尋問を受けてもらう」  
 ボリスがうなずいた。  
「申し訳ありません。本来このようなことはしたくないのです」  
 シドが肩を落としている。ミラーナは首を振った。  
「当然のことですわ。本当に、ご立派になられました」  
 言い終えてから、ミラーナはちらりとディランドゥを見た。  
 話には聞いたことがあるが、フレイドには心を読む魔術師がいるという。  
 その者にかかれば、彼らの嘘は容易にばれてしまうのではないか?  
 その時彼らはどうするのか。  
 自分はどうしたらよいのか。  
 先が見えない展開に、ミラーナは鉛を飲み込んだ気持ちになった。  
 
 
 地下の一室に通された一同は、そこで待っていた長身の男を見た。  
 香が焚かれた間にひとり坐禅を組んでいる男は、彼らを見てかっと目を見開く。  
「まずはドライデン殿からお願いいたす」  
「はいはい。ほう、こりゃ催眠の一種かな? わくわくするねえ!」  
「遊びではございませぬぞ!」  
「はははは」  
 ボリスに一喝されてもへらへらしているドライデンは、掛け声とともにプラクトゥの前に胡坐をかいた。  
「他の方は退出願いたい。尋問はひとりずつ行いますゆえ」  
「ちぇ。つまんないの」  
 ディランドゥは下らないものを見るようにプラクトゥを一瞥すると、すたすたと部屋を出て行った。  
 フォルケンもその後に続いたが、その際一度だけプラクトゥを見つめる。  
 プラクトゥは一瞬だけ眼の光を強めたが、薄暗い部屋の中、それは誰にも気づかれなかった。  
「あんたには残っていてもらいたいね」  
 フォルケンの後を追おうとしたミラーナに、ドライデンが声をかけた。  
「え……」  
 ミラーナが困惑して振り返る。  
「俺って男を知ってもらいたい」  
「ドライデン殿!」  
「よい、ボリス」  
 シドはミラーナの手を取った。  
「これを機に、叔母様にもプラクトゥの力を見ていただきましょう」  
「シド……」  
 ミラーナはシドを見下ろしてから、ドライデンを見た。  
「俺は誰に自分の心を見られたってなにもやましいことなんかないぜ。それを証明してやるのさ、他でもない、あんたにな」  
「おしゃべりはそこまでだ」  
 プラクトゥが口を開いた。  
 両手で複雑な紋を編み、それをドライデンにかざす。  
 ドライデンはくたりと頭を垂れた後、ぼんやりと顔をあげた。  
「偽りなき心で以て、我が問いに答えよ。名前は」  
「……ドライデン・ファッサ」  
 自信に満ち溢れていたドライデンの声が、抑揚のないものに変わっている。  
「これは……?」  
 ミラーナが小声で尋ねると、ボリスが答えた。  
「プラクトゥの術にかかったのです。彼はプラクトゥの言葉に逆らうことなく、本心を述べるようになっています」  
「ここへ来たのは何故か」  
 プラクトゥの尋問は続く。  
「許婚の後を追ってきた……」  
「!?」  
 
 その答えに、ミラーナはぎょっとした。シドもボリスもミラーナを見る。  
「許婚?」  
「アストリアのミラーナ・アストン王女。親同士の決めた許婚だと気にもしていなかったが……  
 ザイバッハのボンボンがそれを無効にした挙句、婚約までしたと親父に聞いて……」  
「ドライデン……!」  
 ミラーナの頬が真っ赤になった。ふたりの視線を受けておろおろする。  
「いてもたってもいられなかった……」  
「ならばおまえは、バァン・ファーネルの手先ではないのだな?」  
「違う……  
 俺はミラーナに会いにきた……  
 信じられないほど綺麗になったミラーナ……  
 取り返しに来た……」  
「ほう!」  
 ボリスが感嘆の声をあげ、ミラーナを見て慌てて咳払いしてごまかした。  
「彼は許婚だったのですか」  
「え、ええ」  
 シドの純粋な瞳に耐え切れず、ミラーナは目を泳がせる。  
「今は、どなたとご婚約を?」  
「あ、あの……」  
「バァン・ファーネルの乗る白いガイメレフには興味がある……」  
 ドライデンの話はまだ続く。  
 シドとボリスの関心がそちらに向かうのをいいことに、ミラーナはほっと胸をなでおろした。  
「おそらくイスパーノ製だろう……  
 どこかにイスパーノ族を呼ぶためのスイッチがあると思う……  
 白いガイメレフ……エスカフローネ……  
 俺はそれを……早く……みたい……」  
「!! ボリス!」  
 シドがボリスを素早く仰ぎ見た。  
「承知! プラクトゥ! もうよい。術を解くのだ! 彼を急ぎ白きガイメレフの前へ連れて行かねば!」  
「あいわかった」  
 プラクトゥはうなずくと、再度両手で複雑な紋を編み、ドライデンの眼前にかざした。  
 ドライデンはびくりとすると、それからぱっと顔をあげ、きょろきょろと辺りを見回した。  
「んあ? もう終わりか? ……どしたい」  
「〜〜〜〜〜!!! 知りません!!」  
 ミラーナがぷいと横を向く。  
 ボリスはずかずかとドライデンに近寄ると、ぐいと腕を掴んで立たせた。  
「おお、おいおい!? なんなんだよ一体!?」  
「そなた、白いガイメレフのことを知っているな!?」  
「えー……と、あれ。俺色々まずいことしゃべっちまったか?」  
「この者を連れて行け!」  
「ええっ!? 俺連行されんの!? なんで!?」  
 兵たちがぞろぞろとやってきて、ドライデンを両側から拘束した。ドライデンはあわてふためいている。  
「ファーネリア王があの中へ入ってからもう幾日も経っております……早急になんとかせねばなりません……!」  
 ボリスはそれを見送った後、待っていたディランドゥとフォルケンの元へ行った。  
「では次の方から――」  
「僕が行くよ。待たされるのは好きじゃないんだ」  
 一歩進み出たフォルケンを制し、ディランドゥが進み出た。  
 プラクトゥの待つ間へ入ると、ふんと鼻で笑ってから、どかりと腰を下ろす。  
「ディランドゥ……」  
「さっきの男についてはいろいろ聞かせてもらうからね」  
 心配そうに見守るミラーナに、ディランドゥは場違いなことを言ってミラーナの目を丸くさせると、小馬鹿にしたようにプラクトゥに向きなおる。  
「始めよ」  
 ボリスの声を合図に、プラクトゥは再度両手を掲げた。  
 
「!?」  
 驚いたのはプラクトゥの方だった。  
 いつの間にか、見知らぬ草原にひとりで立っている。  
「ここは……?」  
「僕の心の中なんだろ?」  
「!?」  
 すぐ背後で声がして、プラクトゥは振り返った。  
「これは!?」  
「僕にだけ術が効かないって思ってるのかい? いいや、ちゃんとかかってるさ。現に僕らはこんな場所にいるんだからね」  
 膝まで届く草野原に佇むディランドゥは肩をすくめ、指を向けてきた。  
「ここではおまえも、元の姿ってわけだ。だろう? まやかし人」  
「!!」  
 男は自らの姿を見下ろして絶句した。  
「なんて臭いだ。まるで死人だね……いや、あながち間違いでもないのかな。ほんと、悪趣味だよフォルケンは」  
「何故私のことを!?」  
 まやかし人は化け物でも見るような目でディランドゥを見た。  
「フォルケンからまやかし人のことはずいぶん前から聞いていたからね……それに、ミゲルが脱走したっていうから、もしかしてと思ったのさ」  
 ディランドゥは首を傾げた。  
「随分前にミゲルに言ってあったんだよ。まやかし人の元へ行けとね。おかしな話じゃないか。脱走する理由なんかミゲルにはないんだよ。  
 僕の命令には絶対に従う。……特にミゲルにはそうしてもらわないといけない理由もあるしね……」  
「そ……」  
 まやかし人は言いよどんだ。  
 代わりにディランドゥが口を開く。  
「ミゲルを殺したね」  
「お待ちください! 彼は本当に脱走しようとしたのです! 彼は捕虜になった言い訳を探し、あなたに許してもらうための手柄をと――」  
「僕の部下に酷いことするじゃないか」  
「自分を見失っていました! 私の言葉など聞く耳も持たなかった! 危険な思考を――!」  
「おまえの言葉?」  
 ディランドゥは笑った。  
「僕はまやかし人が嫌いさ」  
 ディランドゥの拳がまやかし人の顎をとらえた。  
 草の中に顔を埋めて倒れ伏したまやかし人は、言い知れぬ恐怖を感じる。  
 ざくざくと草を踏みしめて近づいてくるディランドゥに向けて手をかざすと、辺りは急に真っ暗になった。  
「し、知っているぞ……!」  
「…………」  
 まやかし人は、暗闇の中でビジョンを映し出した。  
 そこにはセレナがミゲルに犯されている映像が空いっぱいに広がっている。  
「おまえが運命を改変された実験体だということも! ここ、この男のおもちゃにされていたことも――!」  
 
 
 ディランドゥは何の感情もないまなざしで、映像を見つめている。  
 後ろから突かれて悦びの声をあげるいやらしい女。  
 その女の腰をつかみ、一心不乱に動く男。  
 女は涎を垂らしながら絶叫し、もっとと叫んでいる。  
 
「醜い姿だ」  
 ディランドゥはつぶやいた。  
「これがおまえだろうが!!」  
 
 ――もっと。もっとよ。ねえ、今のもういっかいちょうだい。欲しいの。  
 
 甘ったるい女の声。  
「淫乱なメスめ! 貴様のような者がフォルケン様の部下など汚らわしいわ!」  
「だから?」  
「あぁっ!?」  
 ディランドゥの静かな声に、まやかし人は唾を飛ばした。  
「おまえも正体を現したらどうだ!」  
「これが僕だ。もうあの女はどこにもいない」  
 
「何を言う!」  
「僕は運命に勝ったのさ。そして負けるのはおまえだよ」  
「この――!」  
「僕に過去はない」  
 つかみかかってくるまやかし人を蹴り飛ばしながら、ディランドゥは晴れやかな顔になった。  
「あの女が全て持って行った。僕に過去を見せて動揺させようというんなら失敗だったね。  
 僕には育ててくれた親も何もいない。記憶もない。覚えているのは魔術師共の陰険な顔が僕を見下ろしていることだけ。  
 なかなか可哀想なもんだろ? だからこれから面白い思い出をたくさん作るつもりなんだ……」  
 立ち上がろうとしたまやかし人の顔をわしづかみ、ディランドゥはくつくつと喉を鳴らした。  
「そのためには、おまえが邪魔なんだよ」  
「ここは私の術が作り上げた世界だぞ……!」  
 もがきながらまやかし人はわめいた。  
「ここは僕の世界だ。さっきも言ったろ? 馬鹿なやつだね」  
 ディランドゥの笑みが深くなった。  
「が、あ、ああああああっ!」  
「どの世界でも強いものが勝つ。おまえごときの絶望が、僕が受けた屈辱にかなうと思うな!」  
 
「……どうしたのかしら。さっきから、ふたりとも動かない……」  
 ミラーナは、固まったままのふたりを見て不安になった。  
「ボリス。これは……?」  
 シドも困惑している。  
「わかりません……このようなことは、私も初めて見ますゆえ……」  
 ボリスも厳しい目でふたりを見つめている。  
 すると、プラクトゥがことりと倒れた。  
「!? プラクトゥ殿!?」  
 ボリスが慌てて駆け出した。ミラーナもシドもそれに続く。  
 
「そのプラクトゥとやらは、偽物だよ」  
 
「! ディランドゥ!」  
 固まっていたディランドゥが目を開けた。  
 ミラーナはひざまずき、ディランドゥの頬に手を伸ばす。  
「大丈夫なの!? 何をされたの!?」  
「うっとうしいよ、ミラーナ」  
 それを払いながら、ディランドゥは立ち上がった。  
 むっとするミラーナだが、ディランドゥが青ざめているのを見て気を取り直す。  
「これはどういうことですか!」  
「だから、そいつは偽物。アレンか誰かが雇ったまやかし人かもね。ミゲルの証言を取り消すつもりで、本物のプラクトゥを殺し、  
なりすまして再度尋問にかけようとしたんだろう。ミゲルはそれを知って殺されたんだ」  
「そんな、アレンが!?」  
 ショックを受けたシドを見て、ディランドゥはぷいと顔をそむけた。  
「ま、全然違う人かもしれないけど。とにかく本物はどっかで死体になってるだろうから、探してみればいいよ」  
 
 その後、国はずれの森の中で、変わり果てたプラクトゥの姿が発見された。  
 シドは青ざめながらもディランドゥの言葉を信用することにした。  
 だがミラーナは、アレンの汚名を晴らしたかった。せめてシドにだけでも。  
 皆がドライデンの様子を見に向かう途中、ミラーナはシドをそっと引き止め、ふたりでゆっくりと歩いた。  
 ディランドゥがそれを気にしながら歩いているのには気づいていたが、ミラーナは言わずにはいられなかった。  
 
「シド。……信じてもらえないかもしれないけれど、わたくし、アレンと会ったの。アレンが……亡くなった日に」  
「え?」  
 今にも泣き出しそうなシドは、潤んだ青い瞳をミラーナに向ける。  
「何故かはわからないの。でも、アレンは幸せそうだった。……それでね」  
 ミラーナは立ち止まって、シドと目線を合わせた。  
「アレンはあなたに伝えてほしいと、わたくしに伝言を頼んだの。  
 
 『人を心から信じることは、時に戦より勇気がいることかもしれません。  
 あなたにこの意味がわかりますか』  
 
 って……」  
「アレンが、僕に……?」  
 シドが目を丸くする。ミラーナはうなずいた。  
「ええ。何故シドに伝えてほしいと言ったのかはわからないの。でも、夢の中で会ったアレンは確かにそう言ってた。  
 ……シド。わたくしのことを信じて下さる?」  
「叔母様……?」  
 ミラーナは声を詰まらせた。  
「あなたが思い描いていたアレンは、わたくしの知るアレンと全く同じだわ。  
 強くて、美しくて、ガイア一の剣の使い手だった」  
 シドを見ていると、胸がつぶれそうになる。一体この気持はなんだろう? ミラーナはこらえきれずに泣いた。  
「あなたのお母様は、嘘なんかついてない。  
 シド。人を疑うことも時に必要だけど、信じることはもっと必要なことなの。  
 でもね、それをわかっていても、逆のことをしなくてはならないのが大人なの。  
 大切なのは、その見極め方よ。  
 わたくしはこれ以上、大事な人を失いたくない。  
 だから嘘をつく。  
 シド。わかってもらえる?」  
 ミラーナの涙を見て、シドの青い瞳が徐々に見開かれて行った。  
「わたくしを、信じられる?」  
 叔母の言葉に隠された意味。  
 シドはしばらく黙ってミラーナを見つめる。あふれ出しそうな涙はもう渇いていた。  
 
 ――人を心から信じることは……  
 
 
「――信じます」  
「シド!」  
 きっぱりと言ったシドに、ミラーナの頬に新たな涙が流れた。  
「ザイバッハが何を望んでいるかはわかりません。けれど僕はこの国を守らなくちゃならない。僕は王になってはいけない人間なのかもしれないけれど」  
 シドは母の形見の指輪を見た。  
「叔母様を信じます。どうか、あなたのお心のままに」  
「……感謝いたします。シド王子!」  
 ミラーナは膝をつき、頭を垂れた。  
 
 
「ふん」  
 ふたりの様子を遠巻きに眺めていたディランドゥは、舌打ちして踵を返した。  
「いつまでも死んだ男の亡霊にとりつかれて、ざまあないね」  
 
 
 ――そうやっておまえは、いつまでたっても僕を見てくれないんだ。  
 
 
 我知らず浮かんできた言葉に、ディランドゥはぎくりとした。  
「ちっ、まやかし人の呪いか? 忌々しい!」  
 吐き捨てて、歩みを速めた。  
 
 

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