ベッドに縛り付けられてから幾日もの時が過ぎて行った。  
 ディランドゥは苦虫を噛み潰したような顔で、天井をにらみつけている。  
 刺された腹部の傷のうずきは治まらない。時折様子を見に来る竜撃隊の連中がうっとうしく、  
彼らが来るたびにディランドゥは攻撃的な言葉で相手を退けた。  
 しかし、恐縮する彼らの後ろから、ミラーナが眉を吊り上げてひょっこり顔を覗かせると、バツが悪そうな顔になって、  
ぷいと横を向いてしまう。  
 かしこまって出ていく部下の足音が遠ざかるのを確認してから顔を戻すと、両手に包帯を抱えたミラーナが残っていた。  
 ……気に入らない。  
「何故あんな風に追い返すの? あなたが意識を失っている間、彼らは酷く狼狽してたわ。あなたにも見せたかったくらいよ」  
 こつこつと規則正しい靴音をさせて歩いてくる。  
 それに合わせて鼓動が早くなるのはどんな冗談だ。  
「僕はやつらの上官だよ。その僕が負傷して、動揺するなと言うほうが酷だ。……最も、僕はそんな教育をしたつもりは  
ないんだけどね」  
「素直にありがとうと言うだけで、ずいぶん違うのに」  
 お姉さんぶるようなその口調に、ディランドゥはムッとした。  
「うるさいよ。僕の隊のことにまで口を出すんじゃない。お節介だよミラーナ」  
「わたくしはお節介が好きなんです」  
 ミラーナはディランドゥが寝ているベッドの足もとにひざまずくと、レバーをまわした。するとディランドゥのベッドの上半分がゆっくりと持ち上がる。  
「僕に無断で何をする気だい、お節介さん」  
「また勝手に動かれて、傷口が開いたら困るからこうしているのよ」  
「僕の傷口を拳でえぐったのはどこかのお姫様だと思ったんだけどね」  
 ディランドゥは忌々しげに言った。  
「まあ。女性がほんの少し触れた程度で大げさな。あなた、大分無理をなさったのね。気をつけないといけないわ」  
 ミラーナは涼しい顔で眼を丸くして見せた。ディランドゥはふんと横を向いて舌打ちする。  
 ミラーナは肩をすくめ、ディランドゥの襟元に手を伸ばした。ぎょっとしてその手をつかむ。  
「! 何をする」  
「静かにして」  
 ミラーナはもう片方の手で、ディランドゥの手をそっと押さえた。  
 
 触れられるのは大嫌いだった。  
 許可もなく、誰かの手が自分に触れることは同時に嫌なことが起こる前触れでもあったから。  
 知らずに体が小刻みに震え、歯の根元がかちかちと鳴った。  
「やめろ……僕に触るな!」  
「何もしないわ」  
「してるじゃないか! やめろ!!」  
「ディランドゥ!!」  
 両手を振り回して暴れようとしたディランドゥの両肩を、ミラーナは痛いほど掴んだ。  
 ディランドゥははっと我に返り、荒い息をつく。  
 ミラーナはその様子を痛ましそうに見た。  
「包帯を換えるのよ。それから、あなたは汗をかきすぎなの。着替えもしなくてはならないわ。いつまでもこのままじゃ、  
治りも遅くなるし、あなたも嫌でしょう?」  
「自分でできる……だから僕に触るな……!」  
 怯えた顔で、ディランドゥはミラーナを見つめた。赤銅色の瞳の中に映るミラーナの顔は、今にも泣き出しそうになっている。  
「……困った方」  
 ミラーナは吐息をつくと、ディランドゥからゆっくりと離れた。  
 それから、傍らに置いてあった簡易な椅子に座ると、まだ震えるディランドゥをじっくりと観察するように見守る。  
 ディランドゥはその視線に気づき、ばっと顔を背ける。  
「……僕を哀れだと笑いたいんだろ」  
「そんなことしないわ」  
「じゃあ何が狙いだ!」  
「……わたくしが何か狙っているとしたら」  
 ミラーナは息をつく。  
「あなたの傷が、早くよくなりますようにってところよ」  
「嘘つきめ! おまえが僕の傷を治したいなんて思うわけないじゃないか!」  
「……もうっ! 一体何度この問答をしなくてはならないの?」  
 ミラーナは立ち上がった。  
「あなたはわたくしが手術をしたのよ。どうして治ってほしくもない人に、そんなことをすると思うの。  
 あなたも言ったでしょう? わたくしは、望んでここへ来たのよ。だから、ここから降ろして欲しくて手術をしたんじゃないわ。  
あなたに、早く良くなってほしいのよ」  
「……嘘だね」  
「ディランドゥ!」  
 ミラーナは抗議したが、ディランドゥはそれきり黙ってしまった。  
 そろそろ包帯を取り換えなくてはならないのは本当のことだ。  
 いつでも清潔な布を巻いておかなければ、化膿するかもしれない。  
 ミラーナはごくりと息を飲んだ。  
 こうなったら、力づくだ。  
 
 細い指が肩にかかったかと思うと、ぐっと強く掴まれた。  
 かっとしてミラーナに向き直ると、ミラーナは青ざめた顔でディランドゥを見ている。  
「触るなと――!」  
 声を荒げたが、ミラーナは聞かなかった。  
 ディランドゥの上着を素早くたくしあげ、布の塊をディランドゥの顔に押し付ける。視界と呼吸を遮られてディランドゥは叫んだ。  
「やめろ! この馬鹿女!!」  
 瞬間、激痛が走る。  
「う……っ!」  
 息がつまり、体が硬直する。ミラーナはそのすきに上着を取り払い、汚れた包帯を手早く解いた。  
 ぬかるんだ衣服が顔からどいた瞬間、さっと新鮮な空気がかすめていく。ディランドゥは涙目になりながら、  
憎たらしい女が許可もなく自分の肌に指を這わせているのをにらみつけた。  
「血がにじんでるわ。わたくしのいない処で、どうして動くの?」  
 ミラーナは、そんなディランドゥに気付かず、傷口を見て呆れたように顔をしかめていた。  
 包帯のほかに持ってきた消毒液をガーゼにしみこませ、ちらりとディランドゥを見やる。  
「……なんだよ」  
「しみますわよ」  
「いちいち僕を見るな」  
 そう言ってから、ぎゅっと目をつぶる。  
 ミラーナがくすりと笑う気配が伝わってきて、ディランドゥはぎりりと奥歯をかみしめた。  
 ひやりとした感触が伝わったかと思うと、途端に焼き鏝を当てられたような痛みが全身を駆け巡った。  
「馬鹿! しみるじゃないか!!」  
「ですから、そう言いました」  
「悪趣味だねミラーナ。一番痛い薬を使ってるんだろう」  
「そんな薬はありません」  
 ミラーナはテープでガーゼを押さえると、立ち上がって洗面台のほうへ歩いて行く。  
 ディランドゥはその隙に、ガーゼを取って捨ててやろうかと考えたが、ミラーナがまた同じことをするのかと思うと、何故かそんな気も失せてしまった。  
 息をついていると、ミラーナが湯を張ったタライを持って戻ってきた。  
「今度は僕にどんな拷問をしてくれるんだい、お医者様」  
 皮肉を言うと、ミラーナはタライを脇に置き、こほんと咳払いした。  
「清潔にしないと、傷の治りもよくないの。包帯を巻く前に、体を拭きます」  
「おまえが? 僕の?」  
「……別にこれくらいは、あなたがしても構わなくてよ。あなたは動きたがっているようだし」  
 ミラーナは先ほどまでの勇ましさはどこへやらで、もじもじと顔を横へ向けている。  
 ディランドゥは、主導権を握るのはここしかないと、口角を吊り上げた。  
「是非やってもらいたいね。痛くしないんだろう?」  
「……そんなことしないわ。いいの?」  
「もちろん」  
 王のように寛大に微笑んでやると、ミラーナは疑惑の目を向けながら、湯にタオルを浸した。  
 それから両手で絞り、いったん広げてから四つ折りにする。  
 さてと向き直ると、上半身裸で、色白のディランドゥがにやにやしながらミラーナを見つめていた。  
「……あんまり見ないでくださらない? やりづらいわ」  
 ミラーナは頬を紅潮させる。二人の間に、よくない空気が流れているのは明らかだった。  
「どうして? 僕の体だ。おまえが適当にしているのがすぐわかるように、見ていなくちゃいけないだろう?」  
「……っ」  
 ミラーナは、息を止めてから、なるべくディランドゥの顔を見ないようにして、手を動かした。  
 
 あの時は暗がりだった。  
 だけど、覚えている。この女の体と匂いを。  
 鼻先を、ミラーナの金の髪がかすめるたびに、いい香りが鼻腔をくすぐった。  
 胸の先端を生暖かい布が通り過ぎるだけで、ぞくりとする。それをしているのがこの女なら尚更だった。  
 腹の傷には触れないよう、細心の注意を払っているのがわかる。だけどその緊張はそれだけじゃないだろう?  
 ディランドゥは、ミラーナがタオルを洗い直すたびに大きく息をつくのに気付いた。  
 ぐっと唇をかみしめてからこちらに向き直り、かがむたび、彼女から息がしない。  
「そんなに固くなるなよ」  
 からかうように言ってやると、ミラーナはぎょっとしてまともにディランドゥの顔を見た。  
 下唇をかみしめていたせいか、うっすらと腫れぼったくなっている。息を止めていたのがよほど苦しかったのか、アメジスト色の瞳はうっすらと潤んでいた。  
 ディランドゥは本能のままに、顔を近づけた。  
「……馬鹿だね。そんな顔を僕に向けるんじゃないよ」  
 自分でも驚くくらい、それは優しい声だった。  
 穏やかな心のまま、唇を重ねる。  
 かすめるようなキスに、ミラーナはぐっとこらえるような顔になった。瞬間、瞳を覆っていた涙の膜が滴となる。  
 その水晶をなめとり、ディランドゥはミラーナを引き寄せた。  
「僕を誘惑したって、何も出ないよ」  
「誘惑だなんて……!」  
「だって、僕のここを見てごらんよ」  
 ディランドゥが笑いながら言って、ミラーナをひきはがす。ミラーナは素直に振り返り、膨れ上がった欲望を見てぱっと顔を戻した。  
「いけない子だね。僕が動けないのを知っていて、おまえは平気でこういうことしちゃうんだから」  
「あ、あの……」  
「おまえが鎮めてごらんよ」  
「えぇっ?」  
 ミラーナは真っ赤になってうろたえた。  
 その姿を見て、何故今自分は動けないのだろうとディランドゥは悔やむ。  
「早くしないと、ベッドを汚しちゃうかもしれないよ」  
「でもっ」  
「奇麗にしたいんだろう? 僕の下半身を無視するなんて、酷いじゃないか」  
 ミラーナはかぶりを振ったが、ディランドゥは許さなかった。  
「このまま出て行ったら、ベッドをおまえが見たこともないようなもので汚してやる。おまえ以外にシーツは取り返させないからね」  
 ミラーナは泣き出しそうな顔でディランドゥをにらみあげている。  
「僕だって嫌だけどね。おまえはもっと嫌だろうさ。結構きついんだ。……臭いが」  
「い、嫌っ!」  
 ミラーナは立ち上がろうとした。  
「どこへも行かせないよ、お姫様」  
 ディランドゥはミラーナを背後から抱き締めた。  
「放してっ!」  
「放してほしいなら、僕の言うことを聞くんだね」  
「あ、あなた、治りたくないの?」  
「おまえがおとなしく言うことを聞けば、すぐに治るさ」  
 ずきずきとひきつるような痛みを無視しながら、ディランドゥは服の上からミラーナの胸に触れた。  
「あっ」  
 ミラーナがびくりとする。  
「おまえは僕のものなんだ、ミラーナ」  
 耳元で囁き、固く拳を作るミラーナの手を持ち上げる。甲には先日つけたディランドゥの歯形がまだ残っていた。  
「その方がいいんだよ」  
 言ってから、ふくらみに触れていた手にぎゅっと力を込める。  
 ミラーナが悲鳴をあげてもがけばもがくほど、ディランドゥはミラーナを離さない。  
 パニックを起こしたミラーナは、知らずに叫んでいた。  
 
 
「――嫌あっ! アレン!!」  
 
 
 その刹那、間違いなく、全ての時が止まった。  
 この切り取られた空間の中で、動くものは何もなかった。  
 ミラーナは震えながら、この不気味な静寂の意味を涙ながらに考える。  
 何故?  
 ……違う。  
 
 
 違う……!  
 
 
「呼んだって無駄だよ」  
 
 ざわざわと胸の奥が騒いでいる。  
 何も聞きたくなんかない。そのために、今、時を止めたのだから。  
 
 
 
「おまえの騎士はどこにもいない」  
 
 
 なのに何故聞こえるのだろう。この声だけが。  
 
 何も聞きたくなんかないのに。  
 
 
 
「おまえは誤ったんだ」  
 
 
 
 
 ――忘れないで。  
 
 
「僕を助けるべきじゃなかったんだよ」  
 
 
 ――忘れないで……  
   
 
 
「おまえの愛しい天空の騎士は」  
 
 
 
 ――あなたの行いは……  
 
 
 
「おまえを残して逝ったんだ」  
 
 
 
 ――それを、忘れないで……  
 
 
 
「いやああああああああああああああああああっ!!!!!!」  
 
 
 半狂乱になってわめきだしたミラーナを、ディランドゥは傷の痛みも忘れて抱きしめていた。  
 だから馬鹿だというんだと、悪態もつけた。  
 しかし何を言っても、今の彼女には何も伝わらないだろう。  
 もう少し後になってから言おうと思っていた。  
 体を結び、悦びの声をあげてひれ伏した馬鹿な女の心をずたずたにする切り札と、取っておいたのだ。  
 あの時、天空の騎士と対峙したふたりの間に割って入ってきたのはミゲルだった。  
 あの男は、性別が不安定な頃に女になった自分を弄んだ軽蔑すべき部下だった。  
 何を血迷ったかクリーマの爪を乱射し、その内の一本が、それぞれふたりを貫くなど、どんな笑い話か。  
 しかし爪は、ディランドゥの脇腹を刺し、騎士の乗るガイメレフの方は面を貫通していた。  
 どう見ても即死だった。  
 薄れゆく意識の中で、誰かが出て行った気がしたが、もうどうでもよかった。  
 あの男が死ねば、間違いなく泣く女がいるなと、ぼんやりと思っただけだった。  
 
 どれほどそうしていたかはわからない。  
 ミラーナは、ディランドゥの腕の中でおとなしくなった。  
「……僕を憎むんならそうすればいい」  
 ディランドゥは、諦めにも似た胸中でつぶやいた。  
「だけど僕は、おまえごときに殺されてなんかやらないからね」  
 言ってから、ずきんと胸が痛んだが、それは傷のせいということにしておく。  
 ミラーナはわずかに身じろぎし、しゃくりあげた。  
「……憎むなんて、アレンは望まないわ」  
「そうかい」  
 急にミラーナが憎たらしく思えた。ディランドゥは突き放すように吐き捨てると、拘束していた腕を解く。  
 ミラーナはベッドから立ち上がり、ディランドゥに背を向けて、静かに騎士の死を悼んだ。  
「アレンは最期に、わたくしに会いに来てくれた。……それだけでいい。アレンは幸せそうだったの」  
「おまえの妄想だろ」  
 身も蓋もないディランドゥの言い方に、ミラーナは苦笑した。  
「そうかもしれない。でも、あの笑顔を見られたから、わたくしは大丈夫だわ」  
 振り返って弱弱しく微笑んだミラーナを見て、ディランドゥは舌打ちした。  
 それは、思い通りに混乱しないミラーナを腹立たしく思ったせいだろうか。  
「僕の前で嘘は言うんじゃないよ」  
「……」  
 心に切り込んでくるような一言だった。  
 ぐっとしまいこんでいた感情が、露になりそうになる。  
 ディランドゥは、この時ミラーナが見た中で一番美しい顔立ちになった。  
 まっすぐに見つめてくるディランドゥの赤銅色の瞳は、この時だけ血の色をしていなかったように思う。  
 ディランドゥは、両腕を広げた。  
 
 
「おいで」  
 
 
 目が丸くなる。  
 腕を広げたまま傷ついた姫君が飛び込んでくるのを、ただディランドゥは待っていた。  
 強制ではなく、自分の意志で。  
 そうすることで、もう本当に逃げられなくなる。  
 これは最後の忠告であり、チャンスだった。  
 ミラーナはしばらくの間、ディランドゥを見つめていた。  
 時折しゃくりあげ、咳をする。  
 それでもディランドゥは、その姿勢を崩さなかった。  
 
   
 ミラーナは、何故この人を憎めないのだろうと思いながら、ディランドゥの腕の中で泣いた。  
 仇だと言ってしまっていい人なのに。  
 知りすぎたせいだ。  
 それしかない気がした。  
 何も知らない間柄でいれば、憎むこともできた。今この瞬間だって、弱っているこの男の命を取ろうと思えばできるだろう。  
 でも、できない。  
 できなかった。  
 自分の選択を正しいと認めてくれたアレンの言葉。  
 それが後押しとなって、ミラーナは飛び込んでしまった。逃げられない檻の中に。  
 もう後悔はしないと誓いながら。  
 
 

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