ミラーナは白衣とマスクを受け取った。
着る前に、鏡に映った自分を見てあまりの格好に唖然としたが、動転している暇はないと襟を正す。
ボサボサの髪をひとくくりにし、麻の服の上から白衣をまとい、マスクをした。
――まさか、医者でもないわたくしが、メスを握ることになるなんて……
責任の重大さに、ミラーナは一瞬震えた。
しかし時間はない。
自分以外に、彼の命を救える者はいないのだと、ミラーナは再度己にいい聞かせた。
「姫。こちら、準備はできております」
シェスタが緊張した面持ちで、ミラーナを出迎えた。
「ありがとう。……まあ、さすがだわ。これほどの設備が」
部屋に入って、ミラーナは感嘆した。
ありとあらゆる最新式の機械が所狭しと並んでおり、ディランドゥはそれに囲まれるようにして眠っていた。
麻酔は最初に打っておいたので、今は苦悶の表情はない。子供のような、安らかな顔で瞼を閉じるディランドゥを見て、
ミラーナは必ず助けなくてはならないと、強く誓った。
「できる限りのことはします。皆さん、よろしくお願いします」
「はっ!」
シェスタ、ガァティ含む数人の竜撃隊が、揃って踵をつけた。
「では念のために、暴れださないよう、いつでも体を押さえつけられるように数人か、彼の傍に――」
長い時間が過ぎて行った。
戦で死体は見慣れているといっても、こういうときとはまた事情が違うのだろう。
竜撃隊のひとりが途中で具合を悪くして退室した。
人間の体を切り開き、中に刃物を入れるという行為を見慣れている人間はどれほどいるだろうか。
人を殺すために剣を突き立てるのではなく、人を生かすために刃物を入れる。
……何か思うところがあったのかもしれないと、ミラーナは口元を押さえながら立ち去る隊員の背をちらりと見送った。
――ディランドゥは、わたくしがこうして命を救おうとしていることを、どう思うのかしら。
ミラーナは手を動かしながら思った。
屈辱だと顔をゆがめるかもしれない。お節介だと罵られるかも。
それでも、砂粒程度でいいから、何かを感じてほしかった。
恩義ではなく、別の何かだ。
例えばそう、命の重さというものについてでも。
――莫迦ね、あなたは。
ミラーナの目元が緩んだ。
どんなに想っていても、望んでいても、叶わないことがあることくらい、知っているじゃないの。
今は、自分ができることをしなければ。
なるべく感情を押し殺し、ミラーナは書物と傷口を交互に見つめながら、慎重に事を進めていった。
「……できた……」
手術用の糸で傷口を縫って行き、最後にぱちんと切り終えると、ミラーナは血にまみれた両手をぶらりと下ろした。
「姫……」
シェスタがおずおずと口を開く。
ミラーナは弱弱しく微笑んだ。
「無事、終わりました……大きなミスはないはずです。彼の眼が覚めるのを待ちましょう」
「ありがとうございます!!」
ダレットが飛びつかんばかりの勢いでミラーナの手を握り締めた。
「あっ、血が……」
「ああっ」
ゴム手袋にこびりついたディランドゥの血液で、ダレットの手が滑る。
「この馬鹿めっ」
シェスタが嬉し涙をにじませながら、ダレットにタオルをよこした。
「姫がいなければどうなっていたことか」
「このご恩は忘れません!」
ふたりが泣いてミラーナの前で頭を下げる。
ミラーナはゴム手袋を外して滅菌用の袋に入れて口を閉じ、ゴミ箱へ捨てると、ふたりに向きなおった。
「まだ油断はできません。ディランドゥがおとなしく寝ていてくれれば、傷の治りもよくなると思うのですが……」
「う……」
ふたりは眠るディランドゥを見て固まった。
「彼の傷がいえるまで、わたくしでよければそばにいます。なるべく安静にさせるようにしましょう」
ふたりの様子を見て、ミラーナはなぜか進んで申し出てしまう。しまったと思った時は、竜撃隊の面々がぱっと明るくなっていた。
「それは心強い!」
「早速皆にも知らせてきます!」
「あの……!」
慌てて伸ばした手が空を切った。
瞬間、今までの疲労と緊張の糸がぷつりと切れ、ミラーナはそのまま意識を失った。
気づけば、草原に立っていた。
夕暮れ時、草も木も何もかもが橙色に染まっていた。遠くには家すら見えない。
侍女はどこかと、ミラーナは周囲を見渡した。
こんな広原に独りでいるなど危険すぎる。お忍びで街に出ることはあるが、それは近くに城があるのがわかっているからだ。
こんな場所でたったひとりでいるなど、ありえない。
そもそもここはどこなのだろう?
ミラーナは一歩を踏み出した。
途端、強い風が襲ってきた。
「きゃ……!?」
髪がほつれ、服がはためく。
ミラーナは腕を交差させて顔の前で構え、風が収まるのを待った。
「おねえちゃん」
ようやく風が落ち着いたころ、子供の声がした。
腕をおろし、声のするほうを向くと、すぐそばに金色の巻き毛をした女の子が立っている。
ミラーナは首をかしげた。
「驚いた。あなた、どこから来たの?」
「遠くて、近いところ」
謎かけのような答えに、ミラーナは困惑した。
「遠くて、近い? ……あなた、自分の家はわかる?」
よくはわからないが、この辺の子供なら、人のいるところへ案内してくれるかもしれない。
そんな希望も込めての問いかけだった。
しかし子供はにっこりと笑うばかりで、ミラーナをますます困惑させるだけだった。
「――セレナ!」
その時だ。
ミラーナの耳に、懐かしくてたまらない声が届いたのは。
「……アレン……!」
長い金の髪をまとわりつかせた青年が、こちらに向かってかけてくる。
青い瞳。吸い込まれそうなほど美しい顔立ち。アストリア随一の、剣の使い手!
ミラーナは感極まって、走ってくるアレンに飛びつこうとした。
だがアレンは巧みにミラーナをかわし、代わりに少女を抱き上げる。
「あ、アレン?」
すがるように手を伸ばしたミラーナに、アレンは少女を抱き上げたまま、軽く一礼した。
「随分と長く、あなたとお会いしていなかったような気がいたします。ミラーナ姫」
「あの……」
「私はようやく、満たされた」
アレンは少女と顔を見合わせ、幸せそうに微笑んでいる。
ミラーナは嫌な予感を覚えた。
「アレン……その子は?」
「私の妹です」
「妹……? そんな小さな? 確かあなたのご両親は……」
「ミラーナ姫」
戸惑うミラーナに、アレンは目を細めた。
「私を想ってくださるあなたのお心に添えないことを、お許しください」
ちくんと、胸が痛んだ。
「……何故、そんなことを?」
声が震える。
「これから先も、わたくしがあなたの心に入り込む余地はないということなの?」
「お別れしなくてはなりません」
その問いには答えず、アレンは言った。
「どうか姫はお健やかに……これからもその純粋なお心のままにお過ごしください。
あなたの行いは、間違ってはおりません。そのことを忘れないで……」
「別れ!? どういうこと!? アレン!」
混乱するミラーナがアレンに近づこうとすると、アレンは笑って首を振り、一歩下がった。
「皆にすまないとお伝えください。それから……」
「アレン!」
「フレイドの王子に……」
「っ!」
頬に流れる涙の熱で眼が覚めた。
心臓がうるさく内側から暴れているのがわかる。
ミラーナは荒い息をしながら、ぼんやりと天井を見上げた。
「夢……」
つぶやいて、安堵の息が漏れる。
そう。
自分は先ほどまでディランドゥの手術をしていたのだ。草原にいるはずがない。
しかし何故あんな夢を見たのだろう。
「!」
ミラーナは起き上った。
「ディランドゥは!?」
ふっと見れば、ここはディランドゥの部屋ではなく、違う部屋なのが見てとれた。
手術はしてくれなかったが、病室は用意してくれたということなのだろうか。
その割には窓もなく、閉鎖的な印象がぬぐえないが、ベッドを用意してくれただけありがたいことなのだろう。
ミラーナは陰湿な部屋から出て、扉へ向かおうとした。
「冷たいお医者さんだね。病人を放ってどこへ行こうっていうんだい」
「!」
振り向けば、少し離れた場所で、ディランドゥが寝ているのが見えた。
「ディランドゥ!」
まさか同じ部屋にいたとは思っていなかったミラーナは、慌ててそちらへ駆け寄る。
点滴につながれたディランドゥは、若干青ざめてはいるものの、皮肉な笑みはそのままに、息を弾ませるミラーナを見上げていた。
「良かった。眼が覚めたのですね。……傷のほうは……」
「僕の体を勝手に切り刻んでくれたそうじゃないか」
ミラーナの言葉を無視し、ディランドゥはイライラした口調で言った。
「そんな、切り刻むだなんて……っ、あなたは傷口を縫合しなくては危険な状態で……っ」
「僕にまた醜い傷が残るなんてね……それも医者ですらない異国の女なんかに!」
ミラーナはショックを受けた。
感謝されるとは微塵も思っていなかったが、まさかここまで言われるなんて!
「か、勝手に手術をしたことは、謝ります」
ミラーナは怒りをこらえてかしこまった。
「でも、あなたを助けるためでした。……助けたかったんです、ディランドゥ」
「何が狙いだ」
「!!」
ディランドゥはぷいと横を向いた。
あまりな言われようにミラーナが絶句していると、
「おまえが何の見返りもなく僕を助けるなんておかしいじゃないか。ここへ来たいと言ったのはおまえだよ。
今更帰してくれなんて泣きついたって遅いからね」
「ディランドゥ」
ミラーナは、おずおずとディランドゥの頬に触れた。
目にかかる前髪をそっと払う。
「…………」
抵抗しないディランドゥを見て、ミラーナは理解した。
――なんて、不器用な人なの。
嬉しさや喜びを素直に表現できないのだ。
だからこうやって、攻撃的な言葉で相手から引き出そうとする。望む言葉を。
横を向かれて露になった頬の傷をそっと撫でた。
「醜くなんてないわ、あなたは」
「当たり前のことを言うんじゃないよ」
ディランドゥはその手を取ると、甲に口づけた。
「僕は借りを返す主義だ」
「え……、あっ!」
口づけられた甲に激痛が走った。
咄嗟に引っ込めようとすると、その手をぐいと引っ張り、倒れこむミラーナを、ディランドゥは抱きしめた。
「何を……!」
「血が足りないんだよ」
ディランドゥはそう言うと、噛みついたミラーナの手の甲から滲む血に唇をつけた。
「輸血はそうするものではなくてよ!」
何度血を吸えば気が済むのかと、ミラーナはディランドゥの顔をひきはがしにかかった。
「へえ。じゃあ教えてよ、お姫様」
「んっ!」
意地悪く微笑んだディランドゥの顔が眼前に迫ったかと思うと、ミラーナは深く口づけられた。
これが手術を受けた人間のすることなのかと思うくらいの力強さで、ベッドに押さえつけられる。
「夫の命を助けるなんて、妻の鑑だね、ミラーナ」
「お放しなさ……い、ちょっ、嫌っ!」
耳をなめられ、そのまま舌が首筋を這う。
今度はそこに噛みつかれるのかと、ミラーナは包帯で巻かれたディランドゥの傷口に手を当て、軽く力を込めた。
「ぐ……っ」
途端、ディランドゥの身体がこわばり、動かなくなる。
ミラーナはこれ幸いとベッドから抜けだした。
肩で息をしていると、
「やってくれるね……!」
ディランドゥの苦痛に満ちた声がする。ディランドゥはゆっくりとベッドに体を預ける形で倒れこんでいた。
ミラーナはほっとして笑った。
「けが人はおとなしくしていなさい」
「元気になったら覚悟しておくんだね」
悔し紛れのディランドゥの声に、ミラーナは果敢にも腰に手を当てて言ってやる。
「わたくしをどうこうしたいのなら、わたくしの言うことに逆らってはだめよ。いつまでたっても動けませんからね」
「ふん」
ディランドゥは布団を頭から被って横を向いてしまった。
しばらくそれを見守り、人を呼びに行こうと扉へ向かうミラーナの背に、ぽつんと声が当たった。
「おまえは馬鹿だよ。……ほんとに」
その言葉に幾重もの意味が隠されていることを、ミラーナは後で思い知ることになる。