照明を見つけたのはしばらくしてからだった。  
 ミラーナは痛む体を引きずりながら、わずかに灯る明かりを見て安堵する。  
 ベッドサイドに備え付けられていた小さなランプが照らし出す現実は、ミラーナに涙を与えた。  
 乱れたベッドの上に散乱している自分の衣服。  
 膝を抱えると、ディランドゥの匂いを思い切り吸い込んでしまい、咳が出た。  
 じっとりと粘つく汗が全身を覆う。  
 ……国を出てから、どれくらい時間が経ったのだろう。  
 ミラーナは指で涙を拭いながら、冷静に考えることのできる自分に感謝した。大丈夫。どこも壊れてはいない。  
 じくりと痛みが走り、のろのろと顔をあげる。両手首にはディランドゥに拘束された痕が残っていた。  
 ぞっとして身震いすると、今度は胸の傷跡が目に入る。  
 楕円形の、まるで縫い目のような歯型の跡。血が固まって黒ずんでいる。  
 そっとそこに触れると、固まった血液がこそりと肌を伝って落ちて行った。  
「……っ」  
 悔しくてまた涙がにじんだ。  
 唇をかみしめると、ディランドゥの味が口内に広がって、ミラーナはまた咳をした。  
 どうして、許してしまったのだろう。  
 自問するのはそのことばかりだ。  
 訳の分らぬまま今まで会ったこともない、しかもザイバッハの男と許婚にさせられ、無理やり奪われそうになった。  
 アレンの名を叫んでやればよかった。好きなのは、肌を許したいと思えるのは彼ひとりだけなのだと。  
 ……何故それが、できなかったのだろう。  
 今まで、アレン以外の男に目もくれたこともなかった。  
 国など関係ない。愛しているのは彼だけだった。  
 あの乱暴な手がアレンであればどれだけ嬉しかっただろう。  
 しかしアレンはいつだって、自分のアプローチを避けてきた。  
 追いかけるばかりで、一度も振り向いてもらえたことはない。   
 ……アレンは、自分を通していつも誰かを見ていたような気がする。  
「わたくし……」  
 ああ。  
 ミラーナはぶるりと震えた。  
 ディランドゥの仕打ちにではない。自分の醜さに気付いたのだ。  
 
 ――わたくしは今まで、求められたことなんてなかった。  
   一時の高ぶりであっても、あの時の彼は、わたくしだけを求めていた。  
   ……それが単純に嬉しかったのだわ。わたくしはそれに応えたいと思った。なんて愚かな女。  
 
 アレンはいつも孤高の存在で、その心に入り込むのは容易なことではなかった。  
 それでもいいと思っていたのに。  
 ディランドゥは簡単に自分に弱さを見せた。何かに脅え、震えていた。  
 それを包んでやりたいと思った。  
 きっとそれは、同情の類だった。  
 自分を置いてフレイドへ行ってしまったアレンへのあてつけだったのかもしれない。……いや。  
「違う……」  
 ミラーナはつぶやいて、また涙をこぼした。  
 アレンにあてつけなんかしたって意味がない。  
 彼はわたくしを見てくれたことなんてないもの……  
 
 ミラーナはベッドからゆっくりと下りた。  
 周囲を見渡すと、いくつか扉があるのがわかる。  
 そっと足を伸ばし、扉を開けていくと、最後に浴室を見つけた。  
 傍らには衣服が放ってある。瞬間眉をひそめるが、裸同然の自分を見下ろし、落ちているそれを拾い、目の前で広げてみた。  
 幸い女が着ても違和感のない形をしている。ミラーナは息をつくと、それを丁寧に折りたたみ、  
 そばにあった棚の上に置くと、静かに中へ入って行った。  
 中は小さな個室で、漬かるための湯船も見当たらない、かなり質素なものだった。  
 ひとつしかない栓をひねると、壁に立てかけられたシャワーから適度なお湯が放出された。  
 ミラーナは顔を洗い、落ちていた石鹸を拾って泡立たせる。  
 いつもは広々とした浴場で侍女に体を洗ってもらっていたが、今は当然ながらひとりだ。  
 泡を腕に乗せて滑らせる。侍女の力加減に注文をつけていた頃が遠い昔のようだった。  
 泡を胸元へ持ってきたとき、傷口にしみてミラーナは一瞬体をこわばらせた。  
「……信じられない。わたくしの体に傷を……!」  
 今更ながらに、怒りがこみあげてきた。  
 熱いお湯に当たっているうちに、凍結されていた感情が溶け出していくようだ。  
 彼に触れられた箇所を念入りに洗ってゆく。  
 両手でくびれた腰から太ももへ手を伸ばしたとき、ディランドゥの手の動きを思い出して、ミラーナはかっと熱くなった。  
 
 ――彼は、わたくしも知らない場所へ手を……  
 
 ごくりと喉が鳴る。  
 何か酷く罪深いことをしている気になり、ミラーナはちらりと周囲を窺った。  
 そっと、自らの茂みに触れてみた。  
 中指だけを進ませると、驚くほど柔らかい肉に触れた。  
 確か、彼は……  
「ん……っ」  
 足に力が入った。  
 ふたつの花弁を人差し指と薬指で押さえ、中指を奥へと入れてみる。  
 違和感が走り、慌てて手を止めた。  
「はぁ……っ」  
 緊張のあまり息を止めていた。何かが違う。彼の指はもっと太かった。この感覚はなんだろう。  
 そうだ。確か彼は、何かを探り当てていた。それに触れられた途端、体が勝手に跳ねた……  
 浴室に座り込んだ。  
 誰かに見られたら大騒ぎになるどころか、乱心したと思われるだろう。  
 それでもミラーナは、自らの好奇心を止めることができないでいた。  
 
 大胆にも両足を折り曲げ、秘所がよく見えるようにすると、慎重に茂みをかきわけて、花弁を指で押し広げる。  
「や……っ」  
 あまりにもグロテスクなその内部を見てしまい、ミラーナは小さく悲鳴をあげた。  
 医学書で読んだ記憶はあるが、実際に目にするとこんなにも違うものなのか。  
 まじまじと息を殺して見つめていると、花弁の奥から奇妙な悪寒が這い上がってきた。  
「あっ」  
 花弁が閉じたと思った瞬間、どろりとした熱が出ていくのがわかる。  
 お湯とは違う粘液が指を濡らし、ミラーナは知らずに胸の突起に触れていた。  
「あぁ……なんなの、これは……っ」  
 指で弄り回すとすぐに固まる蕾。歯形のついた肉をつかむと、鈍い痛みが背中をかける。  
「あん……っ」  
 はしたない声が浴室に響いた。その声にすら反応する。  
 くちゅくちゅと指を出し入れさせていると、親指がある一点に触れた。  
「ああぁっ!」  
 嬌声が響く。ミラーナは遂に探し求めていたものを見つけた。  
「あぁ、許して……」  
 ミラーナは首を振りながらも行為に没頭した。  
 傷口から出血するのも構わずに、強く胸をもみしだく。甘いしびれが全身に広がる。抜き差しする指の速度が速くなっていく。  
「あっ、あっ、あっ、あっ、……いい……っ」  
 息が荒く、全身を叩くシャワーの感覚が気持ちいい。  
 ミラーナは何を思ったか、立て掛けられているシャワーを手に取ると、そこを秘所へとあてがった。  
「あああああああああっ! ああっ、ああっ!」  
 鋭く突いてくるお湯の硬さが、充分に弄られた花弁の奥へと容赦なく入っていく。  
 ミラーナは喜びに震えながら、更に強く押しつけた。  
 空いている手で花弁をまさぐり、一番感じる新芽をつまむ。  
「んあああっ!」  
 電流が走る。そう、これだ。これが欲しかった!  
 ミラーナは夢中になりすぎてバランスを崩す。その時、新芽をつまんでいた指に力が入ってしまい、  
一層強い刺激が全身を駆け巡った。  
「あ――――っ!!」  
 目の前が真っ白になった。  
 ミラーナはびくんと大きく震えると、シャワーを放り出し、横向きに倒れた。  
 
 顔に当たるお湯でほどなくして我に返る。  
 とろんとしていたミラーナの瞳に、徐々に光が戻って行った。  
「いや……っ、わ、わたくし……っ」  
 慌ててシャワーの栓をひねった。  
 途端に静まり返る浴室。ぽたぽたと髪から流れる滴。酷く荒い自分の息遣い。  
 ミラーナは両手で顔を覆った。  
 
「嫌よ、こんなのわたくしじゃないわ……!」  
 
 変わってしまった。  
 変わってしまった!  
 ミラーナは羞恥に震えて泣きじゃくった。  
 
 落ち込みながら浴室を出、タオルを探して手に取った。  
 体を拭き、先ほどの服を手に取る。髪の毛を別のタオルで包んで頭からすっぽりとかぶった。  
 わずかに大きかったが、全く着られないほどではない。  
 麻の質素な服だった。  
 髪をタオルで叩きながら、これからのことを考える。  
 どうすればいいだろう。  
 彼は――、ディランドゥは、今どこへ?  
 ミラーナははっとした。  
「アレン!」  
 自分のことなんかにかまけて、今の状況を忘れていたなんて!  
 格好のことは気にせず、ミラーナは部屋から飛び出した。  
 来たときは静まり返っていた廊下が妙に騒がしい。  
 
「ディランドゥ様!」  
「誰か、医者を! 魔術師を!」  
 
 怒声と罵声。  
 ただならぬ事態にミラーナは声のするほうへ走った。  
 幾人もの人とぶつかり、そのたびにぎょっとされながらもそんなことに構っていられない。  
 嫌な予感が胸中を渦巻く。胸につけられた傷がどくどくと脈打っていた。  
「何の騒ぎです!?」  
 人だかりのほうへ行くと、背の高いフォルケンが、その中で自分を見つけるのがわかった。  
 一瞬目を見開くが、駆け付けたミラーナに冷静に告げる。  
 
「フレイドへ行く竜たちを捕獲しようとしたのですが……」  
「えぇ!?」  
 
 フレイド。  
 三年前に亡くなった、マレーネお姉さまが嫁いだ国。  
 そうだ、確かにそんなことを言っていた……  
 自分の愚かさを呪いながら、ミラーナは次に告げられた言葉に絶句した。  
「ディランドゥが、負傷しました」  
「なんですって!? ……どいて、おどきなさいっ」  
 無理やり人垣をかきわけ、ミラーナは担架に乗せられているディランドゥを見た。  
「なんてこと……!」  
 苦悶の表情を浮かべるディランドゥの腹部から、血がどくどくと滲んでいた。  
「クリーマの爪を弾いた竜の剣のせいで、爪の一本がディランドゥ様を!」  
 悔しげにつぶやくダレット。  
「ミゲルの野郎のせいだ! 迂闊にしゃしゃり出てきやがったから!」  
 別の隊員が苦々しく吐き捨てる。  
「敵の捕虜にまでなるとは、なんたる面汚し!」  
「そんなことを言ってる場合じゃないでしょう!? これは今すぐ縫合が必要な傷だわ。お医者様はいないの!?」  
 ミラーナが一喝する。隊員たちはしんとなった。  
「……残念ながら、ヴィワンには魔術師はいても、医者はおりません」  
 フォルケンの声が突き刺さってきた。  
 
「な、なんですって!? ここは要塞ではないの!? 商船ではないんでしょう!?」  
 ミラーナがあっけに取られ、隊員たちも口々に不満の声をあげる。  
「そうです! ここには魔術師だって、医者だって何人も――!」  
「正確には、彼の治療をする医者はいない、と申し上げるべきか」  
 フォルケンは苦い表情で言った。  
「そんなバカな話があってたまるものですか!」  
 ミラーナは憤慨してフォルケンに向き直った。  
「医者は、人を治すのがお仕事でしょう!? 何故彼の治療はできないの!?   
 彼はここに必要な人ではないの!?」  
「無論、必要です」  
 フォルケンは淡々としている。  
「しかし、彼らはディランドゥの心や、肉体の変化にしか興味がない。  
 このような傷を治してまで生かす価値があると思うかどうかまでは……」  
「ディランドゥ様は竜撃隊隊長であらせられます! 指揮官がいなくては――!」  
 ダレットが叫ぶ。  
「アデルフォス将軍がおられる。今後はあの方の配下に置かれることになるだろう」  
「そんなことができるわけが――!」  
 フォルケンと竜撃隊の問答の中、ミラーナは苦しげに息を吐くディランドゥを見下ろした。  
 青白い顔がさらに蒼白になっている。額に浮き出た汗が止まらない。  
 歯を食いしばり、時折うめき声をあげている。  
 ミラーナはひざまずき、汗に濡れた前髪を払った。  
 
「――あんたならできるでしょう、お姫さん」  
 
 その時、間延びした声がした。  
 一同がざっと振り返る。ミラーナは目を丸くした。  
「もぐらさん!?」  
「き、貴様、どこから入った!」  
 シェスタが血相を変えて、小柄な男に詰め寄った。  
「最初からいましたよう。あんた方、お姫さんに見とれるばっかりで、  
 あたしのことなんざ気にもかけてくれないんですからねえ、ぐへへへへ」  
 もぐら男は笑って頭を掻いた。  
「そ、そんなバカな……!」  
「ありえん……!」  
「まあまあそんな話は置いておきましょう。お姫さんは、そのザイバッハの軍人さんを、  
 お助けになりたいと思ってらっしゃるんでしょう?」  
「わ、わたくしは……」  
 もぐら男がひょこひょこ近づいてきた。ミラーナは困惑し、苦しむディランドゥを交互に見る。  
「確か姫君は、医学にご興味がおありだとか」  
 フォルケンが言うと、ミラーナはますます眉根を寄せた。  
「それは……で、でも、わたくし、書物を読んだきりなんです。勉強をしたくても、お父様がお許しになってくれなかったから」  
「でも、少なくともここの連中よりは、あんたのほうがお詳しいじゃありませんかぁ」  
「でも……」  
「姫!!」  
 ミラーナの前に、竜撃隊一同がずらりと整列した。  
「どうかディランドゥ様をお救いください!」  
「そ、そんな」  
「あなたしか、頼れる方はおりません。どうか!」  
 
「……しかし、いいのかな。姫君はディランドゥと無理やり許婚にさせられた身。  
 ここで彼を見殺しにしたほうが、姫君にとってもいいのでは」  
「フォルケン殿!!」  
 冷やかな一言に、竜撃隊が一斉に睨みつけた。それから、不安そうにミラーナを見つめる。  
 ミラーナはたじろぎ、もう一度ディランドゥを見た。  
「わたくしは、民の力になりたくて、医学を学びたいと思ってきました。それがたとえどんな方でも……」  
 瞼を閉じる。  
 浮かぶのは、恐ろしい顔をしたディランドゥばかりだ。  
 でも。  
 
 
 額に触れた、彼の優しい唇を覚えてる。  
 
 
 
 
「――もぐらさん、わたくしの青いかばんはある?」  
「はいはい。ここにありますよぉ」  
 もぐら男はにかりと笑い、後ろ手に持っていたミラーナの青い鞄を前に出した。  
 ミラーナはうなずくと、立ち上がる。  
 
「やります」  
 
「姫!!」  
 竜撃隊の顔が明るくなる。  
 それを見たミラーナは、ディランドゥのもうひとつの顔を見た気がした。  
 ……大丈夫。後悔は、しない。  
「手術のできる場所を作ってください。何か役に立ちそうなものがあれば、全て持ってきてください。お湯とタオルもたくさん  
 
用意して、それから、どなたか手伝いを頼みます」  
「わかりました!!」  
 竜撃隊がばらけて行く。  
 フォルケンは意外そうな顔をしていた。  
「まさか姫君が彼を助けようとなさるとは」  
「あなた方がしてくれないからですわ」  
 ミラーナは怒りに満ちた顔でフォルケンを見上げた。  
「誰であっても見捨てたりしない。それが人というものです。何故そんなこともわからないの!?」  
「……そうですね」  
 フォルケンは、義手の腕を見つめた。  
 
「何故、忘れていたのでしょう」  
   
   
 もういいと、ミラーナは踵を返した。  
 もぐら男と竜撃隊のひとりが手招きをしているのを見つけ、そこへ向かって足早に去る。  
 フォルケンはその姿を見送りながら、ぼそりとつぶやいた。  
 
 
 
 
「あなたのその優しさと勇敢さは、彼を救うかもしれません。しかしあなたは必ず後悔する。  
 ……これも運命の導きなのか……」  
 

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