話は、ディランドゥが伏せていた頃に遡る。  
 竜撃隊のひとり、ダレットからディランドゥに与えられるはずだった薬を入手したミラーナは、  
その成分を調べて蒼白になっていた。  
「なんなの、これは……」  
 スポイトで垂らした透明な液が、さっとどす黒いものに変わってゆく。  
「姫、これは……?」  
 傍でそれを恐る恐る見守っていたダレットは、小刻みに震えるミラーナを慎重に伺った。  
「なんてこと……、ダレット、もう一回聞くわ。彼はこれを、いつも与えられていたのね?」  
「え、ええ。魔術師たちに言われて……」  
「これは、麻薬よ」  
「っ!?」  
 疲れた顔でミラーナは真っ黒になった液体を見つめた。  
「……これは、そういうものに反応するようになっているの。不法に取引された薬を調べるために、兵が使うこともあるわ。  
もっと詳しく調べなくてはわからないけれど、感情が昂ぶるような……あまりよくないものが含まれているのは確かよ」  
「そ、そんな……!」  
「こんなものを投与され続けたら、人格が崩壊してしまうわ……!」  
 ミラーナは片手で顔を覆った。  
「あんの魔術師共……! ディランドゥ様によくも!!」  
 駆け出そうとするダレットを、ミラーナは慌てて引き止めた。  
「待って! ……わたくしから、フォルケン様に話してみますわ。このことはどうか内密に」  
「姫……!」  
 ダレットは一瞬両の手を掴まれて引っ張られる子供のような顔になったが、眉根を寄せてミラーナに向き直る。  
「……あなたがディランドゥ様のお傍にいて下さることは、奇跡としかいいようがありません」  
「き、奇跡って、そんな」  
 突然言われた言葉にミラーナが拍子抜けする。  
「ディランドゥ様は、孤独でした」  
 ダレットは悲しそうに微笑む。  
「誰もあの方の御心に近づける者はいなかった。でも、あなたなら」  
「誤解してるわ。彼は――」  
「あの方をお救い下さい。身も心も、全て」  
 跪かれ、懇願される。  
 その光景は、姫という身分の自分からすれば、ありふれたものと言ってよかった。  
 従者はいつでも跪き、礼を尽くした。  
 しかしこれは、そのどれもと同じではなかった。  
 ミラーナの手を両手で握り締め、その甲に額をつけているダレット。  
 他者のためを思う儀式。  
「ダレット……!」  
 これほど、心打つものに出会ったことはなかった。  
「必ず、彼を救うと約束するわ」  
 自然と言葉が口をついて出た。  
 涙を滲ませて顔を上げたダレットは、安堵の笑みを浮かべる。  
「我が君」  
「わたくしを信じてくれる?」  
「無論です」  
 ダレットは立ち上がった。  
「自分に何かできることがあれば、何なりとおっしゃってください」  
「ありがとう」  
 ミラーナは微笑んだ。  
 
 数日後、詳細なデータを記した書類と共に、ミラーナはフォルケンのいる操縦室へと足を運んだ。  
 進路の調整を指示していたフォルケンは、ミラーナの様子を見て目を細める。  
「ディランドゥについていなくてよいのですか、姫君」  
「お話したいことがあります、彼のことで」  
「……わかりました」  
 大体のことは察しているのか、フォルケンは意外にもすんなりと申し出を受け入れた。  
 無人となった小部屋へ移動すると、ミラーナは胸元に抱いていた資料をフォルケンに突きつける。  
「何故彼に、あんな薬を投与する必要があるのですか」  
「あんな、とは?」  
「あなたはご存知のはずですわ」  
 ミラーナは医学書を広げた。  
「神経に介入する麻薬の一種が、ザイバッハ独自の調合によって更に恐ろしい成分を含んだものとなっています。  
この医学書にも載っていないものが入っている。こんなものを彼に投与し続ければ、いずれ彼がどうなるか、  
あなたにわからないはずがないでしょう!?」  
 フォルケンは答えなかった。  
「今までのあなた方の発言をよくよく思い返してみれば、実験体だのなんだのと、随分と穏やかではなかったわ。  
どういうことですの? ザイバッハは一体、彼をどうするつもりなのですか!?」  
「それをあなたにお答えする義務はないと思いますが」  
「わたくしは彼の婚約者です!!」  
 ミラーナはきっぱりと言った。  
「アレン・シェザールを殺した男の?」  
「卑怯な言い方はお止めになって」  
 ミラーナは拳を握り締めた。  
「言ってください。何故なんです?」  
「……本来の彼は、虫も殺せないような純朴な心を持った人間でした」  
 フォルケンは流れるように話し始めた。  
「だからそれを変える必要があった。姫君、あなたには理解できないと思います。彼は男性ですらなかったのです」  
「……」  
 ミラーナは、それを信用するだけの経験をしていた。  
 虚ろな目でミラーナの身体をまさぐったディランドゥの言動は、男性にはありえないものばかりだった。  
 しかしそれをこの場で口に出すことはためらわれたので、ミラーナは黙っていた。  
「我々は、少女の運命を根底から覆す実験をしていました。……他の子供にも」  
「他にも!?」  
 ミラーナははっとしてフォルケンに詰め寄った。  
「性別という定められたものすら変える実験です」  
「そんな実験をして何になるというの!!」  
「そこまでは私にはわかりかねます。全てはドルンカーク様のためですから」  
「……子供たちは、納得して実験に臨んだの? 違うのでしょう? どこから連れて来たの」  
「……」  
 フォルケンは沈黙した。  
 悲痛な思いでフォルケンを見上げていたミラーナの脳裏に、アレンとひとりの少女の姿が浮かび上がる。  
「………セレ、ナ?」  
「!!」  
 フォルケンが珍しく目を見開き、うろたえた。  
「何故、その名を?」  
「ああ……!」  
 ミラーナは泣き崩れた。  
 
 夢の中のアレンとセレナは、ようやく再会した喜びに満ちていた。  
 
 ――私はようやく、満たされた。  
 
「アレン……!」  
「アレン?」  
 怪訝そうに眉をひそめるフォルケンは、突然泣き出したミラーナを前に戸惑っているようだった。  
 涙で濡れた頬をあげ、ミラーナは告げた。  
「セレナは、アレンの妹なのです!」  
「!」  
 その時の衝撃は、計り知れなかった。  
 責め立てていたミラーナが困惑するほど、フォルケンは打ちのめされた。  
 義手を口元にあて、フォルケンは苦痛の表情でそこに立ち尽くしていた。  
 兄弟の片割れを失った気持ち。  
 あいつなら大丈夫だろうと心の片隅で思いながらもえぐられた胸の痛み。  
 祖国ファーネリアを滅ぼし、鉄仮面を貫き通した表情の下で、フォルケンは弟の安否を祈っていた。  
 結果弟は無事だった。そのことがどれほどこの心を癒してくれたか。  
「バァンは、あなたの弟だと言ってましたわね」  
 ミラーナは首を振った。  
「わからないわ。共に生まれ育った兄弟を不幸にしてまで創り上げたいガイア界の未来ってなんなの!?」  
 
 あなたにはわからない。  
 麦畑でたった二粒の麦を救う為に、畑を無駄にできるとお思いか?  
 我ながら馬鹿げた例え話をしようとして、フォルケンは顔を歪めた。  
 その二粒の麦を虫が食もうが腐ろうが、麦畑のためになるなら、くれてやりましょう。  
 そんな愚かなことを、この姫君を前にして言えるのか?  
 彼らは麦ではないのに。  
 そこまで思うと、フォルケンはふっと笑った。ミラーナが眉根をひそめるのすら、愉快な気分になる。  
 
 ――全く、とんだ計算違いもいいところですよ、姫君。  
 
「……正直なところを申し上げますと」  
 フォルケンは静かに言った。  
「彼のことは、全て魔術師に一任してあるのです。ですから、私の権限は及ばないかと」  
「ならば、わたくしはフレイドへは降りません」  
 ミラーナはきっぱりと言った。  
「なんと」  
「わたくしがいなければ、フレイドと友好的な交渉はできないかと思いますわ」  
「そうきましたか」  
 フォルケンは苦笑した。  
 元々、ミラーナの介入は計画の内には入っていなかった。  
 だが彼女が来てくれるならと、計画を変更したのだった。  
 ミラーナがいないのなら、当初の計画通りに進むまで。  
 だがフォルケンは、敢えてミラーナに負けてやった。  
 
 ――私にもまだ、心はあったのだ。  
 
 ディランドゥの唯一の肉親であった兄を、知らなかったとはいえ奪ったのはザイバッハだった。  
 子供を誘拐し、実験体にしていたのはフォルケンも知っていた。  
 その償いをしたいと思った。  
 ミラーナがいなければ、天地がひっくり返っても思わなかっただろう。  
 
 ――あなたは私に、人の心を思い出させた。だからこそ私は後悔する。この痛みは生涯続くのだろう。  
 
 言うことを聞いてくれないなら、地下牢で過ごすと告げた姫君の背が遠ざかっていくのを、フォルケンは複雑な思いで見守  
 
った。  
 
「ザイバッハなら、パワースポットの力、うまく扱えると申したな」  
 物思いに耽っていたフォルケンは、フレイド公王の凛とした言葉に我に返った。  
 大事な交渉の最中にらしくないと小さく微笑むと、公王はそれを肯定と受け取ったようだった。  
「よかろう」  
「それは、真ですか」  
 交渉には何日もかかると踏んでいたフォルケンは、意外な言葉に慎重になる。  
「偽りの言葉を口にするのはフレイドの恥である」  
 公王ははっきりと言った。  
「ああ、くれてやるとも。アトランティスの呪われし力、欲しければくれてやる。我らが長きに渡り守り続けてきた秘宝。  
 ……時代は変わっていくものだ。時代がそれを欲しているなら、使うがいい」  
「フレイドの寛大な御心に感謝を」  
 フォルケンは深く頭を下げたが、公王は険しい顔つきになった。  
「強大な力を使った時、その者は人の心を失うやもしれぬ。あれは人智を超えた、貴様らには及ばぬ神の領域だ。  
 果たして人の心を保っていられるか」  
「お言葉ですが」  
 フォルケンは顔をあげ、にやりと笑った。  
「我らが皇帝ドルンカーク様は、すでに人を超えております」  
「驕りもいいところだな」  
 公王は動じなかった。  
「人は人として生まれ出でた瞬間から、人以外のものにはなれないのだ。心を失わぬ限りな」  
「その心を失うかもしれないと危惧される力をお譲りくださるのは何ゆえですか」  
「知れたこと」  
 フォルケンの問いに、公王はあっさりと答えた。  
「我には心があるからだ。息子のため、そして妻の妹のため」  
「……姫君の?」  
「左様」  
 公王は、わずかに父親の顔つきとなった。  
「不思議なものだ。ほんの少し前まで、死を恐れることは恥であると思い、そう国民に説いてきたつもりだった。  
 国のために死ぬことが誉れであると信じて疑わなかった。  
 だが、私はまだ死ぬわけにはいかぬ」  
 公王は、病床で最期に残した妻の言葉を思い出していた。  
 
 ――もっと一緒にいたかった……  
   わたくしは、公王様を愛してしまったから……  
 
「妹が、この場を設けてくれた」  
 公王は目を閉じた。  
「私は王である前に、父親であることを選んだ。  
 愛する者を置いて、旅立つには早すぎる。  
 私は愛する者の幸せを、傍にいて守りたいと思ったのだ。  
 息子と、かつての私の妻のように、望まぬ結婚を強いられている妹のな」  
「……」  
「息子はまだ幼い。まだ私がついていてやらねばならぬ。  
 そして妹は、……そう、私の妻のように、愛する男を置き去りにし、国のために結婚した男を愛し始めている」  
 フォルケンは目を見開いた。  
「その妹の幸せを見守りたいと思う。その妹が夫に選んだ男はザイバッハに与している。協力しないわけにはいかぬ。  
 ……私を愚かだと思うだろう。  
 だがあの姫なら」  
「ええ、姫君ならば」  
 ふたりは静かに微笑んだ。  
 
 翌日、ガデスたちと、顔の腫れ上がったドライデンがフレイドを後にした。  
 ミラーナとディランドゥは現れず、ひとみは心配したが、ドライデンは不貞腐れた顔で放っておけと吐き捨てた。  
「ドライデンさん、どうしたんですかその顔」  
「……なんでもねえよ」  
「殴られた跡じゃないか。何があった?」  
 バァンも無遠慮にドライデンの顔を眺めている。  
「だからなんでもねえって言ってんだろ! くそ、俺としたことが焦りのあまり大失態だぜ! 無駄な金払わされるし散々だ!」  
「は?」  
「おい、王様もな、女に迫るときは焦っちゃ駄目だ。慎重に、かなり慎重に事を進めないとならんぞ」  
「……何の話だ?」  
 耳打ちしてくるドライデンに、バァンは眉をひそめた。  
「女は男の言葉しか信用しねえんだ。好きなら好きってさっさと言わねえと、どこぞの馬の骨にかっさらわれちまうからな!」  
「だから何の……」  
「何話してるんですか?」  
 ひとみが近づいてくる。ドライデンはささっとバァンから離れた。  
「わけがわからん」  
 バァンは首を傾げている。  
「若旦那! そろそろ出発します〜!」  
 ドライデンの従者が、商船から叫んだ。  
「あいよ。んじゃ、王様たちもお元気でっと」  
 ドライデンは傷が痛むのか、しかめっ面で背を向けた。  
「またどこかで!」  
 ひとみが声をかける。  
「はいはい。……ああ、俺のお姫様に会ったら伝えておいてくれ。迷惑かけたって。  
それと、誓いを立てるなら本人の前で言えって、盗人にもついでに言っておいてくれ!」  
「は、ええ!? ちょ、盗人って誰のことですか!」  
 その背に向かってひとみは叫んだが、ドライデンは背を向けたままひらひらと手を振って、二度と振り向くことはなかった。  
「王様たち、またお会いしましょう!」  
 もう一方では、ガデスたちがシェラザードに乗り込み、ひとみたちに手を振っていた。  
「またいつか〜!」  
 メルルがぴょんぴょん跳ねながら手を振る横で、ひとみとバァンも大きく手を振った。  
「……さっき、ドライデンさんと何話してたの?」  
 二隻の船が小さくなって行くのを見送りながら、ひとみがバァンにさりげなく訊ねた。  
 バァンはふむと思案してから、  
「女に迫るときは焦るなとか、す――」  
「えぇ?」  
 バァンは、ひとみを見た。  
 呆れ顔のひとみを見ると、その先がどうしても言えない。  
「す?」  
「す……」  
 
 ――好きなら好きと――  
 
「何よ、すって」  
「〜〜〜なんでもない!」  
 バァンはうつむくと、踵を返してずかずかと歩き去った。  
「バァン様ぁ〜!」  
「ちょっと、バァン!?」  
 メルルとひとみは、慌ててその後を追った。  
 
 ミラーナとディランドゥが部屋を出てきたのは、その翌日のことだった。  
 まだ少しよろけるミラーナの腰を抱きながら、ディランドゥはかつてない程穏やかな顔をしていた。  
「大丈夫かい?」  
 優しく訊ねてくるその顔つきを見たら、竜撃隊は間違いなく卒倒するだろう。  
 しかしミラーナは騙されなかった。  
「し、白々しく聞くのはやめてくださらない!? わ、わたくし、あなたに殺されるかと思ったわ!」  
「へぇ? どうして?」  
 ディランドゥのにやにやは止まらない。  
「あ、ああ、あんな何回もわたくしに―――って、言えないわ!!」  
 顔を真っ赤にして、ミラーナは横を向く。  
 ディランドゥは腰を抱き寄せると、耳元で囁いた。  
「本当にいやらしい奥さんだねお前は。腰が砕けるかと思ったよ。まあ、おねだりするお前の顔を見るのは嫌じゃなかったけどね……」  
「な、なな……!」  
「搾り取られるかと思った。殺されそうだったのは僕の方さ。まだ欲しい、まだ欲しいって……」  
「いやあああああ!」  
 ミラーナは耳を押さえた。  
「そんなに僕が好きなんだね。いいよ、これからはいつでも――」  
「ちょ……っと! あっ」  
 ドレスの上から知り尽くしたミラーナの身体をまさぐっていると、その背後でガタガタと音がした。  
「誰だ!?」  
 素早く振り返り、背中にミラーナを庇ったディランドゥは、廊下で倒れている竜撃隊の一同を見て目を丸くした。  
「お、おまえたち!?」  
「ディランドゥ様」  
 よろよろと立ち上がったシェスタが、鼻血を出しているダレットを蹴り飛ばしながら冷や汗を流している。  
 ミラーナは今すぐどこかへ逃げ出したい衝動に駆られながらも、恥ずかしさのあまりディランドゥの背後から動けない。  
「も、申し訳ございません! あ、あの、あのフォルケン様が、その――」  
 しどろもどろになっているシェスタを半目で睨んだディランドゥは、嫌がるミラーナを引きずりながら、ダメージを受けている  
竜撃隊へと近づいてきた。  
「フレイドとの交渉は成立したとの――」  
「ごくろう」  
 血の気の失せているシェスタに一言告げると、ディランドゥは何の前触れもなくシェスタを殴り飛ばした。  
 悲鳴をあげるミラーナを無視し、起き上がりかけている隊員を無慈悲に踏みつけながら、ディランドゥは歩く。  
「きゃっ! ごめんなさい! ちょっと、ディランドゥ! なんてことするの!」  
 一緒になって踏んでしまい、謝りながらも進むミラーナは、前を行くディランドゥの耳が真っ赤になっているのを見つけた。  
「あいつらめ……今度お仕置きしてやる……」  
 ブツブツつぶやくディランドゥがおかしくて、ミラーナは笑ってしまった。  
 
 ヴィワンの入り口まで行くと、そこにはフォルケンと、ミラーナの見たことがない獣人が待っていた。  
 ディランドゥはその獣人を見てはっとしている。  
 訝るミラーナから手を離し、ディランドゥはすたすたとふたりに近づいて行った。  
「フォルケン。誰だいこの男は」  
「ジャジュカでございます。ディランドゥ様」  
 フォルケンが紹介する前に、獣人は一礼した。  
「……どこかで会ったかい」  
「いいえ」  
 ジャジュカはきっぱりと言った。  
 ディランドゥは眉根を寄せる。  
「彼は、君とは面識がないかもしれないが」  
 フォルケンが口を開く。  
「フォルケン様」  
 ジャジュカはそれを強く遮った。  
 それだけで、ディランドゥにはわかってしまう。  
「……どうやら、僕の忌まわしい過去を忘れさせてくれないヤツが、また現れたようだね」  
「!!」  
 ジャジュカは、ディランドゥの顔から陰鬱さが消えているのを見てかっとなったようだった。  
 背負っている重みから解放されたその晴れやかな顔。  
 許せなかった。  
 元々その身体は――!!  
「もう、よいのです」  
 ジャジュカは、聖人君子のような声で、ディランドゥに語りかけた。  
 ディランドゥを始めとした皆が、その異様な声色に疑問符を浮かべる。  
「よいのです。私がおります。もうお戻りなさい。セレナ様」  
 ジャジュカはディランドゥの肩をつかんだ。  
 
「もういいのです! どうか、あの心優しきセレナにお戻り下さい! セレナ様!!」  
 
 腹部に激痛が走り、ジャジュカはくず折れた。  
 小刻みに震えるディランドゥの拳が、ジャジュカの腹から引き抜かれる。  
「ディランドゥ!」  
 ミラーナが慌てて駆け寄るが、ディランドゥの怒りは治まらなかった。  
「あの女はそんな大層なものじゃなかった!」  
「う……っ、セレナ、様…っ!」  
「その名で僕を呼ぶな!!」  
 ディランドゥは吐き捨てると、傍らのミラーナを強く抱きしめる。  
「!?」  
「答えてご覧」  
 ディランドゥはがちがちと震えていた。  
「僕が誰だか! ミラーナ!」  
「ディランドゥよ!」  
 ミラーナは必死で叫んだ。  
「誰がなんと言おうと、あなたはディランドゥだわ! セレナじゃない!」  
「いいや、その身体はセレナ様のものだった!」  
 ジャジュカが苦痛をこらえて叫び返した。  
「おまえが乗っ取ったんだ――! セレナ様を私に返せ!」  
「セレナはアレンと行ったわ!」  
 ミラーナは泣いた。  
「だからもう、彼の中にセレナはいないのよ!」  
「……嘘だ」  
 ジャジュカがふらりと立ち上がった。  
「セレナ様は、私のご主人様は、いなくなったり、しない」  
 ジャジュカは焦点の合わない目で、ミラーナにしがみつくディランドゥを見つめた。  
「セレナ様は、どこだ……?」  
「もう、どこにもいないわ」  
「嘘だ……」  
 ジャジュカはふらふらと、ヴィワンの中へ入っていった。  
 彼が後に、ザイバッハ皇帝ドルンカークを暗殺するまでに至るのは、また別の話である。  
 
「大丈夫か、ディランドゥ」  
 一連のやり取りを、痛ましい思いで見つめていたフォルケンは、そっと声をかけた。  
「……ああ」  
 ディランドゥは若干青ざめているものの、ゆっくりと振り返る。  
 ミラーナの手を握り締め、薄く微笑んだ。  
「とうとう僕にも弱点ができたよ。僕は花嫁さんに、頭のあがらない一生を送りそうだ」  
「結構なことだ」  
 フォルケンも苦笑した。傍らのミラーナは真っ赤だった。  
「竜撃隊の姿が見えないが……彼らは君に伝言を託したのだろうか」  
「ああ。フレイドとの交渉がうまくいったんだろ? 聞いてるよ。やつらの顔は、しばらく見たくないね」  
「ほう?」  
 拗ねた顔つきになったディランドゥは、もうジャジュカのことは頭から追い出したようだった。その強さを与えたのは、  
間違いなく傍らの可憐な花だろう。  
 フォルケンは目を細める。後悔の念は心に巣食ったままだが、いずれ消え去るだろう。公王が姫君の幸せを案じるように、  
恐らく知らぬ間に、自分もこの獰猛な獣が穏やかになっていく様を見ることが楽しみになりつつあるのだ。  
「そんな話はいいよ。それで? これからどうするつもりなんだい。竜のこともあるしね」  
「そのことだが」  
 フォルケンはふたりを促しながら、ヴィワンの中へと入って行く。  
 ミラーナを連れて行くことに、最早何の疑問も抱いていない。  
 ミラーナはそれに気づき、小さな幸せを噛み締めた。  
 
 フレイドへの滞在は長くなりそうだった。  
 同盟を結ぶ証として寺院で儀式を行った後、パワースポットを調べ、その活用に至るまでの経緯を考えると、  
一ヶ月は下らないとの結論が出たのだ。  
 バァンたちは竜撃隊が監視することとなったが、バァンが思ったよりおとなしく従っているために、予想されていた小競り合いは起きていない。  
 実はそのままザイバッハへ行き、ドルンカークに戦いを挑もうとしていることにフォルケンは気づいていたが、運命改変装置の力を利用すればと淡い思いを抱いている。  
 そのフォルケンが、やがてひとみやミラーナによって徐々に心変わりして行くことは、本人たちもまだ知らないことである。  
 軍人であるディランドゥは、その間、フレイドの周囲を探索し、フォルケンの護衛なども勤めたが、一週間程度でそれにも飽き、  
ミラーナと過ごす時間の方が長くなっていた。  
「何をしてる?」  
 一晩中愛し合った後、朝日が差し込む頃目覚めたディランドゥは、鏡台の前にいるミラーナを見つけて声をかけた。  
「……お姉様の、日記を見つけたの」  
 堅い表情で、ミラーナは答えた。  
「日記?」  
 欠伸をしながらベッドから降り、すっかり片付けられ、壊れたオルゴールも修復された鏡台の前まで近寄ると、ミラーナの泣きはらした顔が見えた。  
「何故泣くんだい」  
「わからないわ」  
 力なく首を振るミラーナから日記を取り上げる。ミラーナは悲しそうな顔になった。  
「……あなたは、もしかしたら読まないほうがいいかもしれない」  
「ふぅん?」  
 ディランドゥは寝癖の残った頭を傾げて見せると、適当に日記をめくった。  
 そこには、公王の妻である女が過去に愛した男とのことが詳細に書かれていた。  
 
 ――何故私は姫で、彼は騎士なのだろう? わたくしは彼のことを、こんなに愛しているのに!  
 
 ――公王様は、とても優しくしてくれた。その度にわたくしは、罪の意識に苛まれる。  
   ……何故もっと早く、この方と出会えなかったのだろう。  
 
 ――間違いない。あの夜に出来た子だ……!  
   どうすればいいのだろう? わたくしは、公王様を愛し始めている!  
 
 ――公王様は、全てお許しになってくださったのだ。  
   ああ、わたくしは彼に愛されている。そのことが何よりも嬉しいはずなのに、わたくしはこの罪の深さゆえ、  
   長くは生きられないのだ。  
   この身の脆さが恨めしい。もっと早くに出会いたかった。もっとお傍にいたかった!  
 
 ミラーナは、注意深くディランドゥの様子を窺っていた。  
 しばらくして日記を閉じたディランドゥは、つまらなそうな顔で日記をミラーナに返した。  
「僕がどんな反応をするか、知りたかったかい?」  
「え?」  
 あっけないほど、ディランドゥは素のままだった。  
「おまえの姉上は、おまえじゃない」  
 ディランドゥは伸びをした。  
「僕は今がこうしてここに在るなら、それでいいよ」  
「ディランドゥ……」  
 その言葉だけで片付けられるほど、その日記は簡単なものではないはずだった。  
 何故なんとも思わないのかと、ミラーナは心配になった。  
 セレナとは違う。それだけの理由だからだろうか?  
「おまえは、姉上が公王の前に愛した男について心配しているようだけど」  
 ディランドゥは肩を揺らした。  
「僕としては、似たような立場であるおまえの方が心配だよ。  
 でもふたりとも、結局こっちを選んだんだ。何も心配することないじゃないか。だろう?」  
「え、ええ……」  
 曖昧にうなずくミラーナを見て、ディランドゥはところで、と前置きした。  
「その日記、全て読んだのかい?」  
「え? いいえ。辛くてとても、最後まで読めなかったわ」  
「なんだ。なら読めばいい」  
 ディランドゥは笑い出しそうな顔になった。  
「読みながら、これでも聴いておいで」  
 そう言って、オルゴールの前に並ぶ人形たちの頭をつついた。  
「……?」  
 ベッドの向こうへ消えて行くディランドゥを見つめてから、曲の心地よい音色と共に、ミラーナは顔をしかめながら日記帳を開く。  
 この日記は、オルゴールの仕掛け扉から現れたものだった。  
 何気なくある人形の頭を強く押したら、並ぶ人形たちがくるりと回転し、その後ろからこの日記帳が出てきたのである。  
 読まなければよかったと後悔したが、さほど心が痛まない自分にミラーナは驚いた。  
 それほど、ディランドゥを愛しているということなのだろう。  
 ……そういえば。  
 
 ――わたくしは、まだ一度も彼から言葉を贈られたことがない。  
 
 
 本当は一度だけ、夢の中で囁かれたことはあった。  
 でもあれはきっと、現実のことではない。  
 彼の性格からして、そんなことを口に乗せるのは不可能だと半ば諦めていた。  
 
 
 ――でも、一度だけでも、言って欲しい……  
 
 
 日記を読み進める。  
 そこには、公王を深く愛し始めた姉の切ない思いが綴られていた。  
 最後のページへ差し掛かると、そこにはこんなことが記されていた。  
 
 
 
 
 ――このオルゴールの音色に乗って、わたくしの思いが公王様に届きますように。  
 
「……え……?」  
 顔をあげると、ディランドゥの笑顔と目が合った。  
「てっきり、それを読んだから僕に日記を渡したのかと思って、意地悪しちゃったじゃないか」  
「……ディランドゥ……」  
 ディランドゥはミラーナの手を取った。  
「僕の気持ちを言わせたいなら、この音色を聴けばいい」  
 ミラーナの瞳が潤み始めた。  
「でも僕の口から言わせたいなら、今この場だけ、言ってもいいよ。これを受け取ってくれたら」  
 手の平に、小箱を乗せる。  
「これは……?」  
「鉱山で採れたものを、職人に渡して作らせたんだ」  
 箱を開ければ、そこには指輪があった。  
 心臓がどくんと跳ねる。  
「正直僕は、金と呼べるものとは無縁でさ」  
 ディランドゥが肩をすくめる姿がぼやけていく。  
「だからまあ、こういうことしかできないんだけど」  
「……ああ……っ」  
 ぽつんと、指輪の上に雫が落ちた。  
「ほら、泣いてちゃわからないよ」  
 ディランドゥは照れたように言って、ミラーナの返事も聞かずにその指輪を左手の薬指に押し込んだ。  
「嬉しいなら、嬉しいって言うんだ」  
 ミラーナはディランドゥの首に両腕を回した。  
「ミラーナ――」  
「愛してるわ」  
 涙でくぐもった声で、ミラーナは囁いた。  
「わかってるよ、花嫁さん」  
 ディランドゥは、優しくミラーナを抱きしめる。  
「ねえ、歌って」  
「は?」  
 ミラーナは、くすくすと笑った。  
「あなたの歌声が聴きたいわ」  
「……笑うなよ」  
「笑うかも」  
 ディランドゥは、頭をこつんとミラーナの頭にぶつけてから、息を吸い込んだ。  
 オルゴールの音色が、ちょうどそのフレーズに差し掛かるのを待ってから、口を開く。  
 マレーネの日記に記された、その言葉を――  
 
 
 
 
 
 ――君を 君を 愛してる 心で 見つめている  
 
                      君を 君を 信じてる 寒い夜も――  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
終わり  
 

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