――結婚が、決まったわ。  
 
おめでとうございます。  
 
――アレン、わたくしは…!  
 
フレイド公王はご立派な方です。あなたを、幸せにしてくださるはずです。  
 
――そんな言葉を、わたくしが望んでいると思って?  
 
どうかお幸せに、マレーネ姫。  
 
――アレン…  
 
あなたの幸せを、いつでも祈っております。  
 
――あなたは、それでいいのね?  
 
……はい。  
 
――アレン、愛していたわ。あなたは、わたくしの全てだった。  
 
…お幸せに。  
 
――あなたも。  
 
 
 
あなたは幸せになれた。  
その短い生涯の中、シド王子をフレイド公王のお子とし、託された。  
私の選択は間違っていなかった。  
あなたはフレイド公王と天の国でシド王子を見守っておられるはず。  
私は真実を胸に秘め、今日もあなたの幸せを祈りましょう。  
決して口にしてはならない、あの日の思いと共に。  
 
アストリア王国の騎士。辺境守備隊隊長。  
名誉な称号「天空の騎士」を与えられたアレン・シェザール。  
容貌は見目麗しく、腰に届くほどある金髪をたなびかせながら華麗に剣を扱い、  
敵を倒すその姿に、人々は賞賛と羨望の眼差しを向けた。  
その彼は今、国境付近に屋敷をかまえ、行方不明だった妹とふたり、静かに暮らしている。  
 
「お兄様、守備隊に戻らなくてよろしいのですか? 今、アストリアが必要としているのは、お兄様のような立派な騎士のはずです」  
 
亡き母の面影を、年々濃くしている。  
淡い髪、吸い込まれそうな瞳の色。肌の白さ。全てが、母エンシアにそっくりだ。  
朝食をふたりでとりながら、そんな妹セレナの言葉に、アレンは穏やかに微笑んで見せた。  
 
「私にとっては、アストリアの未来より、おまえが大事だ」  
「お兄様…」  
息を呑み、それから目を細め、セレナは少し苦しげに息をついた。  
「覚えているよ。幼いおまえの手を離したあの夕暮れの日を。  
 何度悔やんだかしれない。母上がどれだけ涙したか。  
 もう、あんな思いはしたくないんだ」  
「私は、戻ったわ。お兄様。だから、もう私のために、お兄様の時間を割いて欲しくない」  
「セレナ」  
アレンはゆっくりと首を振った。  
「全然足りない。おまえとの時間を取り戻すためには、3年なんかじゃ足りない。  
 私は、大切な女性を失いすぎた。これ以上失ったら、私は壊れてしまうだろう」  
心労で倒れた母も、幸せを祈って手放したあの人も。  
ああ、どうすればわかってもらえるだろう。  
愛する者を失うたびに心に亀裂が走る音を。  
心の穴は、修復がきかない。  
あと一度でも空いてしまったら、どうなるかなど、考えたくないのだ。  
「ミラーナ姫にも、皆にも話はしてある。私は納得のいくまで、おまえの傍を離れたりしない」  
「お兄様…」  
セレナは瞳を閉じた。  
ザイバッハの手のものに誘拐された後のことは、恐ろしくて思い出したくもない。  
その中で、たったひとつだけ、目頭を熱くさせるものがある。  
ふわふわの毛並みをした、優しい獣人。  
どれほど心の支えになってくれたか。  
髪を切られたことを悲しんでくれた。色々なことを教えてくれた。  
実験に連れて行かれる自分の小さな手を引いて、逃げようとしてくれた。  
…最期まで、自分を護ってくれた。  
 
そうだ。  
 
私こそ、もうこれ以上失うわけにはいかない。  
「彼」だったあの頃に散々味わったのであろう喪失感。  
言えなかった言葉の全てを、後悔しないよう、目の前の人に伝えたい。  
セレナは顔をあげ、アレンを見た。  
 
「愛しているわ、お兄様」  
「…私もだ、セレナ」  
 
互いを慈しみあいながら、ふたりはどこかで恐れている。  
目の前の人を失ったとき、一体どうなってしまうのか。  
愛してる。愛してる。愛してる。愛してる…  
言葉にすればするほど、不安が募っていくのは何故なのか。  
ふたり過ごせなかった時間の差は、どうあがいても埋められない。  
その不安を表に出したくなくて、今日もふたりは、静かに時を過ごしている。  
 
 
アストリアに長い夏が訪れようとしていた。  
地球で言えば、夜の10時ほどになっても暗くならない国には、大規模な空港と港があり、  
ガイア中の人々が、商人として、客人として訪れる。  
首都バラスには市が建ち並び、人間も獣人も行きかう、活気ある都である。  
アレンはセレナを伴って、バラスへと買出しに出かけていた。  
通りすがりの親子連れを見て、知らず顔をほころばせるセレナ。  
息抜きに連れ出してよかったと思いながら、アレンは道端で売られる品々をじっくりと眺めていた。  
 
「アレン隊長! 隊長じゃないですか!」  
 
人々がせわしなく流れる中、聞きなれた声がまっすぐに飛んできた。  
アレンが地面から目をあげれば、そこにはアレン率いるクレゼート隊の一員である男が、喜びに顔を紅潮させながら、  
人々の間を縫って駆けてくるところだった。  
「……ギメル! お前か!」  
「お久しぶりです、隊長! お変わりないようで!」  
ギメルと呼ばれた若き隊員は、はきはきとしゃべり、金の巻き毛を風に揺らせる。  
「隊の方はどうだ?」  
「はい、大きな暴動もなく、たまにいざこざがあるくらいで――」  
「ギ…メル?」  
その時、アレンの隣で行儀良くふたりの会話を聞いていたと思われたセレナは、蒼白になってつぶやいた。  
「セレナ、どうした? …セレナ!?」  
「妹君も、ますますお美しくなられましたね。…どうされましたか? お顔の色が――」  
ガタガタと身を震わせるセレナに気づいたふたりは、ぎょっとしてセレナの顔色を覗き込む。  
セレナは虚ろな目で何度かギメルの名を口にすると、ばっと顔をあげ、ギメルに飛びついた。  
「ぅわ…っ!?」  
「セレナ!!」  
目を潤ませた若く美しい女性に抱きつかれて、動揺しない男はいない。  
隊長の手前ということもあり、ギメルは顔を更に真っ赤にさせ、胸の中のセレナをどうするべきかと混乱する。  
アレンが血相を変えてセレナの肩をつかんで引き剥がそうとする。  
その周りを、人々が好奇の目で見ながら通り過ぎていった。  
「ギメル、ギメル…! ああ、生きていたのね。ガァティはどこ? ダレットは…!」  
ギメルの首に両腕を絡ませ、セレナは涙ながらに早口にまくしたてた。  
「セレナ様っ! どうかお気を確かに!」  
「セレナ、やめるんだ、セレナ!!」  
「ギメル…!」  
きつくギメルを抱きしめるセレナの肩をいくら引こうが、離れなかった。  
アレンは奥歯を噛み締めて、セレナの腰に腕を回し、強引に引き剥がす。  
泣きながらギメルを求めるセレナの腕を、アレンは片腕でまとめてつかんだ。  
「た、隊長…」  
「すまないが、ふたりにしてほしい。…それと」  
「はいっ、誰にも話しません!」  
ギメルはまだ頬を染めたまま、敬礼した。  
アレンはそれに目礼を返し、セレナを強引に連れて行く。  
人の多いバラスでは、いくらギメルが誰にも言わずとも、いずれ人々の間に知れ渡るだろう。  
泣き叫ぶセレナを腕の中に抱きかかえ、アレンは妹を苦々しく見下ろした。  
 
屋敷の前に戻る頃には、セレナも大分落ち着きを取り戻していた。  
時折しゃくりあげながら、アレンを見上げている。  
アレンは無言でセレナを下ろすと、扉を開け、セレナを中に入れた。  
「…ごめんなさい、お兄様」  
「セレナ…」  
アレンは吐息と共に、妹を抱きしめる。  
ふたり以外誰もいない屋敷の中、セレナがわずかに身じろぎする衣擦れの音が、やけに大きく耳に届いた。  
「ギメルという名を聞いたとき、頭の中に、映像が流れたの。  
 顔も、髪も、よく似ていた…  
 みんな、いなくなってしまったのに。でも、どうしようもなくて…」  
くぐもった声で、セレナはまた涙ぐむ。胸に熱く、妹の涙がしみこんだ。  
「辛い思いをさせて、すまなかった」  
「違うのっ!」  
顔をあげたセレナの表情に、アレンはぎくりと硬直する。  
母エンシアが好んで付けていた香水のにおいが、鼻腔をくすぐった。  
透明な、ガラス玉のようにきらめく瞳。涙で濡れて、一片の穢れもない。  
透き通る白い肌。小刻みに震えるつるりと光る唇。  
「辛いのは、お兄様だわ。私のせいで、お兄様はいつも、そんな顔をされるのよ」  
「…私…が?」  
「…そうよ。私を見ては、いつも辛そうに瞳を伏せる。  
 私はお兄様に、そんな顔をさせたくて、一緒にいるんじゃない。  
 お兄様には自由になってほしいのに…私の存在が、お兄様を縛り付けて、お兄様は」  
「違う」  
アレンは、セレナの後頭部を押さえつけて、言葉を封じる。  
「違うんだ、セレナ…  
 私は、おまえといられて、この上なく幸せだ。  
 だが、幸福はいつも、私の手の中から抜け出してしまう…」  
 
――愛していたわ。あなたは、わたくしの全てだった。  
 
……もです、マレーネ姫。でもどうか、私にも同じ答えを求めないでください。  
言ったら私は、あなたを不幸にするでしょう。  
あなたを連れて、遠い地の果てまでどこまでも行くでしょう。  
天空の騎士の称号など、あなたの前ではガラクタ同然。  
この思いを言葉にすれば、あなたは喜んで私の胸に飛び込んでくる。  
それでも私は、言うことができないのです。  
あなたを大切に思うから。  
あなたに幸せになってほしいから。  
だからどうか、そんな顔をなさらないで。  
愛しい人よ、私の前から去りなさい。  
もう二度と、振り返ってはなりません。  
 
唇に熱いものが触れていた。  
「っ!?」  
驚いたのは、ふたり同時だった。  
上を仰いで唐突に押し付けられた兄の口付けに驚く妹。  
こちらを見上げる女の唇に、吸い寄せられるように自覚なく口付けていた兄。  
ふたり目を見開いて、数秒の後、慌てて離れた。  
「セ、セレナ、その…っ、すまないっ」  
呆然と見上げるセレナの顔が見られずに、アレンは自室へと駆け込む。  
遠くでばたんと扉が閉まる音がして、セレナはおずおずと触れた唇に指を当てた。  
 
「お兄様…」  
夏のアストリアを、これほど疎ましく思ったことはない。  
夕暮れにでもなればいいものを、窓の外はいつまでも明るい。  
自室にこもるアレンの耳に、遠慮がちなノックが響く。  
「セレナ…悪いが、今はひとりにしておくれ。私は」  
「…だめよ、お兄様」  
がちゃりと扉が開き、コツコツと足音が近づいてくる。  
アレンは長椅子に深く腰掛け、両手で顔を覆っていた。  
「来るんじゃない…! どうかしていたんだ。許して欲しい…」  
長い髪が覆う手の中に入り込み、まるで乙女が罪深き自分を恥じて泣いているように見える。  
 
神よ。私は罪を犯しました。  
愛してはならない者を愛し、幸せを願うと誓ったのに、未だに心が荒れるのです。  
自分には誰も救えない。護れない。愛してはいけない。  
わかりきっていることなのに、愚かな私はそれでも愛してしまうのです。  
神よいっそのこと。  
私に心など与えてくださらなければよかったのに。  
海龍神ジェチアよ。我が願いを聞き届けよ。  
一切の心を、私からなくしてしまえ。  
 
「お兄様…」  
誰も知らない、天空の騎士のこの姿。  
いかな敵に出会おうとも、決してその身を屈することなく、  
いつか騎士の名の元美しく散るのであろう体躯が、なんと矮小に震えることだろう。  
罪の深さにおののき打ちのめされるこの小さな男の姿を見ることができるのは、同じ血を分けた妹だけなのだ。  
「あの日…」  
兄の前にひざまずき、兄の腕にほっそりとした指をかける妹のぬくもりを感じながら、アレンは静かに囁いた。  
「私の前からいなくなったおまえ。十にも満たなかったおまえが、こんなに美しくなって私の前に現れた…」  
「お兄様はいつだって、私を優しく包んでくれた。次に見たお兄様は、誰もが惹かれる天空の騎士になっていた…」  
頑なにまぶたを覆っていた指をどかし、瞳を開ければ、優しく笑む女神がいる。  
アレンは震える手を、妹の、セレナの手の上に重ねた。  
「どうしてなんだろう…」  
その手をゆっくりと持ち上げ、甲に唇を乗せた。  
「愛している。セレナ、私はおまえを愛している」  
涙を浮かべ、優しく微笑む目の前のひと。  
アレンは自ら手を伸ばした。  
一度口にすれば、二度と元には戻れない。  
「誰か教えて欲しい。どうすればおまえを、ひとりの女性ではなく、妹として見られるようになるのか」  
「…見なくていいわ、お兄様」  
頬に伸ばされた手の感触を、セレナはゆっくりと確かめる。  
「ここには誰もいない。わたしたちだけなのだもの」  
 
――君は私を、赦してくれるだろうか。  
 
それは誰に向けて放った言葉だったか。  
幻の月の少女がこの場にいたら、全力で止めてくれただろうか。運命を導く少女なら。  
…いいや。  
これが運命だったのだ。  
セレナの唇を舌で潤す。  
兄の仮面を脱ぎ捨てた男の顔で、愛する女を味わいつくす。  
 
窓の外は未だに明るい。  
カーテンを閉めた部屋の中、床に散乱する衣服の傍らのベッドで、アレンはセレナを背後から抱きしめていた。  
「…セレナ…」  
耳たぶを甘噛みし、耳の付け根から首筋まで一気に舌を滑り落とす。  
「は…ぁ、ああ…っ」  
切なげに震えるセレナが、小さく鳴いた。  
「怖がることはない…おまえには、いつだって私がいるのだから…」  
囁いて、腰のくびれを両手でなで上げると、ゆっくりと乳房に手をかける。  
「あ…、あ、お兄様…っ」  
びくんとして、セレナが背後の男を見る。  
「セレナ…名前で呼びなさい」  
下から持ち上げるように柔らかな肉をつかみ、強弱をつけながら、アレンは低く囁く。  
「え…あ、アレン…?」  
「いい子だ…」  
戸惑うように呼ばれた自分の名を噛み締めて、アレンはセレナに唐突に口付ける。  
「ん……っ、んっ、あっ」  
「もう一度…」  
ついばむようにセレナの唇を吸いながら、アレンは静かに言う。  
セレナはキスの余韻に浸るまま、アレンの名を繰り返す。  
「アレン…、ん、あ、アレ…、アレン…っ、あぁっ!」  
きゅっと乳房の頂を指でつまんでひねりあげる。セレナは目を丸くして息を呑んだ。  
「セレナ……、ああ…、おまえを…愛してる…」  
甘く痺れるセレナの唇を堪能しながら、アレンは熱に浮かされたように愛を紡ぐ。  
ギメルの胸に飛び込んでいったセレナを見たときに感じた思いを、おまえは知らない。  
兄としてではなく、男としておまえの肩をつかんだ。  
おまえの幸せを願うなら、あのひとにしたように、いつかは身を引くべきなのに。  
考えたくもない。おまえが誰かの元へ嫁ぐなど!  
「いた…い、痛いわ、アレン…!」  
「っ!」  
激情のまま、手の中の肉を握りつぶそうとしていた。セレナの声に我に返る。  
「すまない…」  
「どう、したの…?」  
甘い吐息をつきながら、セレナの瞳が濡れていた。  
「おまえは、誰にも渡さない」  
「…え…?」  
唐突に宣言されたその言葉の意味もわからぬセレナをうつぶせに寝かせる。  
「神が赦さなくても構わない。セレナ、ずっと一緒にいよう」  
「…ええ、アレン…」  
シーツに半分顔を埋めたまま、セレナが小さく答えた。  
アレンは安心したように微笑むと、セレナの背骨に指を這わせ、穏やかなカーブを描く肉の割れ目に滑り込ませる。  
 
「ひ…あっ、いやっ、なにを!?」  
身を起こそうとするセレナの背中をやんわりと片手で押さえ、割れ目に忍ばせた指をじわじわと進めていく。  
「ん…くっ、い……や…!」  
「私に感じてくれるんだね、セレナ」  
「あ…!」  
ぬるりとしたものを指先に確認すると、アレンは幼子を誉めるように穏やかに言う。  
羞恥に真っ赤に染まるセレナは、その言葉に完全にシーツの中に顔を隠してしまう。  
それを見てふっと笑うと、アレンはセレナの腰を浮かせ、両手で左右の肉をこじ開ける。  
「んんん…!」  
くぐもったセレナの声に、アレンの熱情が高ぶっていく。  
真っ赤に充血したセレナの秘所が、愛液を滴らせながら、アレンが来るのを待ちわびていた。  
淡い色の茂みをかきわけ、アレンは悩ましげに息をつき、そこに接吻した。  
「あぁ、ん…!」  
セレナの嬌声と共に、アレンの唇に雫が落ちる。  
それをすすりあげて、アレンはしつこく唇をつけながら、そそり立つ自身を数度しごいた。  
充分な強度になった所で、溢れる蜜壷の中、舌と指を交互に挿しいれる。  
がくがくと痙攣するように震えるセレナを安心させるように、太ももを撫でさする。  
「…愛してるよ、セレナ。共に堕ちよう、どこまでも…」  
入り口に自身をあてがう。  
「うぅ…っ!」  
セレナが低く呻いた。アレンは構わず進めようとする。  
「う……っ!」  
セレナの声が変わる。手の中の肉の柔らかさがなくなってゆく。  
「…セレナ!?」  
「セレナぁ!?」  
ばっと振り向く、頬に刀傷のあるその顔。  
「おまえは…っ!」  
「くくく…っ、久しぶりだね、アレン・シェザール…! とんだ兄上様だ…!」  
「あああああああああああああああああっ!?」  
アレンの絶叫が、室内に響いた。  
 
「兄上…、見損なったよ…く、ふ、はぁはははははははっ! 実の妹に何をしようとしてたんだい…?」  
おのれ…!!  
すっかり萎えてしまったものはそのままに、アレンはなんとも情けない格好で、ベッドの上でふんぞり返る、裸の男をにらみつけた。  
ディランドゥ・アルバタウ。  
ザイバッハの人体実験の名の下「神かくし」にあったと思われたセレナは、性別と性格を変えられ、軍人となっていた。  
セレナとして生きた記憶もなく、ただただ殺戮を好み、高笑いと共に何度も剣を打ち合った相手。  
よもや実の妹の成れの果てだとも気づかず、憎み続けてきた男だ。  
ドルンカークも死に、ディランドゥの呪いも解けたはずだったのに!  
「僕の部下が死んだんだ…そう、ダレット…シェスタ…ガァティ…ギメル……そう、ギメル…とても…よく似ていた…ああ…馬鹿なやつだよギメル…  
生きているなら、最初に僕の所に報告に来るのが道理だろうに……ジャジュカ…ねえ兄上…ジャジュカはどこだい…?」  
「ディランドゥ…! 皆死んだんだ! わかっているだろう!」  
「…死んだ…? し…ん、し……死んだぁああっ!? あぁっ!?」  
美しい顔を原型もとどめぬほど歪ませたままで、ディランドゥはアレンにつかみかかる。その両手首をつかみながら、アレンは眉根を寄せた。  
「どういうことだ…! 何故、おまえが…!」  
「ふ…ふふ、酷いな兄上…ふふふ…何も知らないくせに…」  
ディランドゥはがっくりと首を垂れ、次第にくつくつと肩を揺らし始める。  
「あなたの知らない所で、セレナがどんな目に遭っていたか…」  
「…!」  
「絶望と恐怖からかけ離れた人格と性別を与えられ、セレナが生きたはずの時を、僕が過ごした…」  
「…ディランドゥ…」  
荒れた室内で、裸の男がふたりで向き合っている異様な状況。  
だがアレンは、セレナとは全く違う身体をはっきりと目の当たりにし、次第に理性を取り戻していた。  
「僕を…僕の存在を、否定しないでくれよ、兄上…」  
「…おまえ…」  
「セレナは僕の分身…僕はセレナの分身…僕はね兄上…僕なりにセレナを、護りたいんだ…」  
「……」  
「あなたにもわかるだろう…! 大切な者を失った悲しみと苦しみがっ! セレナに十字架を背負わせて、  
これからふたりでどこまでも堕ちるだなんて…、く、僕が許すと思うのかい!?」  
顔をあげ、恨めしげに見上げるディランドゥ…弟の顔を見下ろして、アレンは唇を震わせながら、ディランドゥから手を放す。  
「僕たちはひとつの身体にふたつの心を持った人間だ…あなたは、そんな僕らの兄だ…」  
「…ああ」  
「身体のつながりなんかで、安易に時間を埋めようだなんて、しないでほしいね…」  
そこまで僕の兄上は愚かなんだと、思いたくないからさ…  
ディランドゥはそうつぶやくと、ふぅっと後ろへ倒れこむ。ベッドがきしりと彼を受け止めた。  
「ディランドゥ!」  
慌てて駆け寄る。初めて目にする男の寝顔は、あまりにも無垢で、天使のゆりかごに揺られる赤子のようであった。  
「…私は…なんということをしようとしていたんだ…」  
沸き起こる理性の洪水が、アレンを苛む。  
永遠の眠りにつくと思われた……弟が、力を振り絞って、止めに来てくれた。  
「手のかかる弟を、持ったものだな…」  
刀傷の残る頬に、包み込むように手を置いた。  
 
おまえを忘れていて、すまない。  
たったふたりだけだと思っていた屋敷の中が、突然にぎやかになったようだよ。  
 
 
翌朝、セレナはゆっくりと目覚めた。  
「…いつの間に、眠っていたのかしら」  
記憶を探ろうと目を閉じると、暗闇の中、知らない少年が立っている。  
 
「やあ、姉上」  
「…誰?」  
「手のかかる兄上が、眠っていた僕を起こしたのさ」  
「え…?」  
「姉上の嫌な記憶は、全て僕がもらってあげるよ」  
「あなたは…」  
「姉上、だから時々、あなたの身体を借りるからね」  
「どういうこと…?」  
「これからよろしく。……ふふっ」  
目を開けたとき、セレナは今のやり取りすら忘れていた。  
 
身支度を終え、階下に向かうと、アレンが待っていた。  
「お兄様!」  
「…おはよう」  
「どうなさったの、お兄様…?」  
アレンの顔色が悪い気がして、セレナは慌てる。  
「いいや…ゆうべ、眠れなくてね」  
「まあ…私、昨日のことを、よく思い出せなくて」  
「…それでいい。おまえは、何も心配しなくていい」  
「お兄様…?」  
「それよりもセレナ、今日は出かけようか」  
打って変わって明るい笑顔になったアレンは、手にしたバスケットを持ち上げた。  
「どこへ行くの?」  
「墓参りもかねて、少し歩こう」  
戸惑う妹の手を引いて、アレンは外へ通じる扉に手をかける。  
「でも、急にどうして?」  
「旅に出たくなったんだ。…でも、それはおまえがもう少し落ち着いたらでいい。だから今日は、墓参りに行こう。  
報告したいことができてしまったからね」  
「え…?」  
訳が分からないと困惑する妹の手を引いて、アレンはひたすら前を向く。  
 
いつか全てを捨て去って、何も持たないまま、三人で旅をしよう。  
目当ても何もないままで、いつか私たちという名の旗を、このガイアの地に掲げよう。  
セレナは必ず守り抜く。  
しかし私自身がおまえの脅威となったとき、必ずや止めてくれるだろう。  
私の新しい弟が、きっと。  
 
「愛しているよ、セレナ」  
セレナは兄の言葉に、顔をほころばせた。  
「私もよ、お兄様!」  
兄の言葉にこめられた真意に気づくことなく、無邪気に答える妹の顔を、アレンは優しく見つめていた。  
 
 
 
 
終わり  
 

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