「昔々あるところに…」  
枕が飛んで来た。  
「それはさっきから何度も聞いた」  
催眠術で自分が記憶を失っていた間のことを知りたいとのお尋ねだからお答えしているのに、乱暴な話だ。  
「それでは…。アリスは川辺でお姉さんの横に座って…」  
スリッパが飛んで来た。  
若い未亡人が夜中に、夫でもない男の部屋のベッドの上で、酔っ払って寝そべっているだけで、考えられないシチュエーションなのに。その上、スリッパを投げるとは。  
「奥様、もうご自分の部屋でお寝み下さいよ」  
「ねぇ、一緒に寝ようよ」  
また何やら言い出した。  
「ねーよーうー」  
右手でシーツを叩く。ここに寝ろ、ということか。  
「襲わないからさー」  
早く帰ってくれ。  
「私は襲うかもしれませんよ」  
大袈裟にネクタイなど緩めてみた。  
「グラハムはそんなこと、しないもーん」  
随分、信頼されたものだ。執事は男ではないと思っているのか、義理の息子は大人ではないと思っているのかしらないが。  
「そうとは限りませんよ」  
ネクタイを外して椅子の背にかけた。本当はすぐにネクタイハンガーにかけて皺を伸ばしたいのだが。  
 
ベッドの傍に立って、わざと上から見下ろしてみる。奥様は白い歯を見せてニッコリ笑った。  
これまで奥様には驚愕したり失望したり脱力したりさせられているが、今日は初めて、殺意を抱かされた。  
「俺だって男だから何するか判んないぜと言ったら、物凄い爽やかな笑顔を返されたので、ついカッとなって殺してしまいました」。どんな裁判官でも無罪判決を出す筈だ。  
「美しい未亡人の寝姿を何度も見てるくせに、何もしなかったじゃない」  
「何かしていいのだったら、もっと早く言って下さらないと」  
シャツのボタンを外して、裾をズボンから出してみた。まだ帰らないか。  
「あら、ベッドから落っこちる時はいつもリグビー・アンド・ペラーの勝負下着だったのに気付いてなかったの?」  
ロイヤル・ワラント(王室御用達)の下着。本当だろうか。くそっ、何のつもりでこんなことを言うんだ。  
本当に襲い掛かるぞ。そして特注のスイス刺繍を拝見してやる。  
ベルトをわざとガチャガチャ言わせながら外して、大袈裟にサイドボードの上に置いてみた。  
ああ、ケーブルテレビで奥様が観ている、アメリカのソープオペラ(昼ドラ)のようだ。  
ベッドに腰掛けてみる。  
「気付いていれば、もっと早くこうしていたのに」  
「あなたの出た執事養成学校は、そんなことも教えてないのね」  
とうとう、奥様の顔の横に手を着いて、覆い被さってみた。  
奥様が吃驚して帰ってくれればいいと思う気持ちが半分、奥様がこのまま自分のものになってくれればいいと思う気持ちが半分。  
 
「何するのよグラハム」  
奥様は顔を背けた。拒否なのか羞恥なのか判らないが、こういう顔は初めて見た。  
奥様の顔なら色んな表情を見たが、これは多分、「グレース」の顔。  
「時は深夜、所は夜具の上。やることは一つでしょう」  
ぐっと顔を近づける。  
「オーケー、お金はあるんでしょうね」  
売春婦の真似とは随分余裕がある。お金なら奥様と同じだけ貰いましたよ。  
いや、奥様の財産は減ったかもしれないが、私の財産は確実に増えている。  
「僕の財産を全部くれてやってもいい」  
「マジで?」  
そんな風に正面から見つめないでほしい。正面から覆い被さったのは自分だが。  
左手を頭の下に差し入れた。小さく息を吸うのが聞こえた。  
「こんなの嫌」  
奥様は酒の上の冗談のつもりだったかもしれないが、あんな顔を見せられたからにはもう止められない。  
 
「財産目当てで結婚する女だけど、こんなのは嫌っ!」  
奥様の手が私の首に伸びてきたと思ったら、首を絞められた。組み敷かれた状態から十字絞めとはまた器用な。  
私のシャツの襟を掴んでいる両手を捻って外し、奥様の両手を封じる形になった。  
十字絞めなんてどこで習ったのか想像するのも恐ろしいが、日頃の鍛錬を伴わないケンカ殺法では、私の敵ではありませんよ。  
奥様の両手をこのままシーツに押し付けてアレを続行すべきかと一瞬迷ったが、奥様の身体を起こし、ベッドに座らせた。  
しかしこの状態で一体、何を言えばいいのか。  
赤い顔をして私を睨みつけている奥様の手を離したら、確実に飛び掛られる。暴力的な意味で。  
「私が相手ではお嫌ですか」  
「私のこと好きでもないくせに、一緒に寝ようとするなんてサイテー」  
誘ったのは奥様じゃないですかと言いたいが、流石にそれは言ってはいけないだろう。  
「“誘ったのは奥様じゃないですか”とでも言いたそうね。何よそれっ!」  
どうしてこういう時ばかり、察しがいいのだろう。  
「別にやりたくないけど、据え膳食わぬは男の恥だから、お情けでやってやるっての?」  
人の気も知らないで、大した被害妄想だ。  
「私がそんないい加減な男に見えますか?全財産だって差し出すと言ったのに」  
「そこは、“私の大切な人だから、いい加減な気持ちでは寝られません”っていうところの筈でしょっ!  
全財産なんて、その後ゆっくりくれればいいじゃない!」  
そんな無茶な。  
 
我ながら馬鹿だと思うが、奥様の無茶苦茶な論理が、赤い顔が、掴まれた手を振り解こうとイヤイヤする仕草が、とんでもなく可愛いと思えてきた。  
「じゃあ、奥様と同じベッドで寝るには、どうしたらいいんでしょうか」  
「片膝ついて花束を差し出して、“世界で一番、君を愛している”って言えばいいじゃない!」  
流石にそんな小っ恥ずかしい真似は出来ない。でも、まあ、今日の私は馬鹿になってるから。  
ベッドを降りて、シャツのボタンを留める。ベルトを締める。ネクタイを締める。上着を羽織る。髪に櫛を入れる。靴の埃を払う。ポケットチーフを整える。完璧だ。  
私の部屋には花がないので、廊下に出る。ガレの花瓶からバラを引き抜く。  
綺麗な包装紙はないが、大判のクラフト紙でいいだろう。リボン代わりに荷造り用の麻紐を結ぶ。  
白と茶色の二本取りで少しはオシャレに見えるだろう。  
振り返って見ると、奥様はベッドの上で固まっていた。もう私が掴んでいる訳ではないので、手は下ろしていいんですよ。  
そして、ベッドの傍に膝をついて、花束を差し出して。  
「世界で一番、君を愛してるよマダム」  
 
奥様はベッドの上で固まったまま。ここまでやらせておいて、まだ不満がお有りでしょうか。  
花束を奥様の右手に抱えさせると、左手を取った。手の甲に唇を近づけてそっと触れた。  
…つもりだったが、手は引っ込められ、代わりに蹴りが飛んできた。  
眼鏡が吹っ飛ぶ前にガード出来てよかった。  
「バカーッ!何でそんなことするのよ!恥ずかしいじゃないの!」  
「私だって恥ずかしいですよ」  
「あと、その辺の物で可愛い花束作っちゃうのが気に入らないわよ!冒険野郎マクガイバー?」  
「花束そのものは気に入っていただけたんですね」  
暴れる奥様を袈裟固めで押さえ込む。柔道技を邸内で実際に使っている執事なんて、そうはいないんだろうな。  
「奥様、私は何もしないから、大人しくして下さい」  
「何もって、何をする気だったのよー!」  
 
どれだけ暴れたのか判らないが、奥様はやっと大人しくなった。  
私の腕の中で私に背を向けて寝ているので、私が後から抱き締めている状態だ。  
「グラハムは女あしらいが上手ね。慣れてるの?」  
「人並以下の経験しかありませんよ」  
そもそも、スリッパを投げたり絞め技かけたりしてくるような女性のあしらい方なんて、どこで経験するというのだ。  
「じゃあ、湖で女の子と何があったの?」  
インチキ霊媒が私の過去を透視すると言ってあることないこと口走ったのを、未だに真に受けているらしい。  
いや、ないことばかりでもないのだが。  
「妬いてるんですか」  
奥様の上半身が跳ね起きそうになるのを、無理矢理抱きとめる。  
「ああいう手合いは、誰でも少しは心当たりのありそうなことを言って、  
言われた人がズバリ当たったように勘違いするのを利用するんですよ」  
「うん」  
奥様はこっちに向き直って、私の胸に顔を寄せた。少し強く抱いて頭を撫でていると、寝息が聞こえ始めた。  
お寝みなさい、奥様。私ももう寝よう。その前に。  
 
奥様の目が突然開いた。起こさないようにしたつもりだったんだが。  
「どうして私のズボンの中にあなたの手があるのよ」  
「リグビー・アンド・ペラー特注の刺繍を見る機会がなかなかありませんので、この機会に拝見しようと。  
スイスの刺繍職人の刺繍が見たいだけで、奥様の下着が見たい訳ではないのでご安心を」  
「一つも安心じゃないわよー!」  
目覚まし時計に手を伸ばす奥様。目くるめく熱い一夜は終わりそうにない。  
奥様の下着が濡れていたのは、気付かなかったことにしよう。  
時計が枕に叩きつけられ、羽毛が飛び散った。  
「グラハムのバカーッ!」  
 

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