年があけて一週間。  
年末年始のお祭り騒ぎの雰囲気もいつしか薄れ、またいつもの日常が戻ってきた。  
この冬は例年より雪が多く、夜も更けて静寂の中さらに雪は降り続く。  
あまりの静けさに時間が止まってしまったかのような気持ちにすらさせられる。  
私は一通り仕事を済ませると早々に自室に戻り、ソファに腰掛けた。  
こんな夜はひとり読書でもするに限る。  
 
 
コンコン。  
ノックの音がすると同時にドアが開く。  
「グラハム、入るわよー」  
満面の笑みを浮かべた奥様が部屋に入ってきた。  
時計はすでに九時をまわっている。  
夜遅く私の部屋を訪ねてくるなんてめずらしい。一体何の用だろう。  
ひとまず読みかけの本をテーブルに置き、奥様にソファをすすめると  
何故か向い側ではなく私の隣に腰をおろした。  
「どうしたんです、こんな時間に」  
「へへー。明日のことでちょっとね」  
明日?何か予定でもあったかな。  
考えを巡らせているうちに、彼女は手に持っていた冊子を広げ嬉々として話し始めた。  
 
「ほら明日あなたの誕生日でしょう。  
どうしようか考えてたんだけど、たまにはあなたも仕事やあたしから離れて  
ひとりでのんびり過ごすのもいいんじゃないかと思ってね  
今年のプレゼントは二泊三日の湯けむり温泉旅行に決めたわ!  
いい機会だしゆっくり温泉にでもつかれば日頃の疲れもとれて癒されるってもんよ。  
温泉のほかにもプールにエステにいろいろあるみたいだし  
のんびりできてお肌もつるつるなんて最高でしょ。  
出発は朝の十時だから、それを伝えに来たのよ」  
 
……はあ。  
どうしてそう君はいつもいきなりなんだ。  
心の中で小さな溜息をつく。  
思い立ったら即行動、がモットーの人ではあるがそれにしても随分と急な話だ。  
温泉にエステと言われても…女性じゃないんだから興味ないし。  
 
 
「そんなに温泉ばかり入ったらつるつるどころかふやけますよ。  
せっかくのプレゼントですが、丁重に辞退させていただきます。仕事もありますから」  
「だめよ。だってもうチケットもホテルの予約も全部済ませちゃったもん。  
今更キャンセルなんかしたらいくらとられると思ってんの!?  
あなたには必ず行ってもらうわ。  
じじいじゃないんだから三日間温泉入ってもふやけやしないわよ、へーきへーき」  
相変わらずこういった時の手回しの良さには感心する。  
もっと別のことに使えばいいのにと思ったりもするけど。  
 
「奥様はその間どうするんですか?」  
「あたしは留守番よ、ずっと屋敷にいるわ。  
あなたが変な心配するといけないと思ってお客様も呼ばないから安心して。  
それに仕事が数日分溜まったところであなたならどうってことないでしょ。  
気兼ねしないで、ゆっくり羽を伸ばしてくればいいじゃないの」  
そう言ってにこやかに笑う奥様。  
 
 
ああ、まるでわかってない。  
トラブルメーカーな君をひとりこの屋敷に残したまま  
温泉に行くくらいなら、旅行自体を取り止めた方がどんなにいいか。  
しかし言い出したら聞かない彼女のことだ。キャンセルなんてまず無理だろう。  
ますます深い溜息をつきたくなったその時、頭の中で何かがひらめいた。  
 
「わかりました。せっかく奥様が私のために準備してくれたんですから  
ありがたく行かせていただきますよ」  
 
えっ!?  
さっきまでどうやって断ろうか思案していたであろう彼が  
やけにあっさりとこう言ったものだからあたしは拍子抜けしてしまった。  
あまりに物分かりが良すぎてちょっと気持ち悪い。  
絶対もっとモメると思ってたのに。  
「ただひとつお願いがあるんですが」  
「銀食器ならまっかせといて!ふふん、たかが三日でしょ?  
今度は完璧に磨いてみせるわ。あたしを誰だと思ってるのよ」  
以前グラハムが風邪で寝込んでしまい、あたしが執事を代行した際  
彼がそりゃもう命の次に大切にしているといってもいいかもしれない銀食器を  
うっかり酸化させてしまったことがあって。  
よほど懲りたのか、あれ以来彼はますます念入りに銀食器を磨くようになった。  
まだ若いのにじじくさい趣味してるったらありゃしない。  
…ま、そんな頑固じじいみたいなとこも嫌いじゃないんだけど。  
 
「銀食器じゃありませんから」  
くっくと笑いながら彼が答える。  
「じゃあ何よ?お土産の相談だったら食べ物でいいわ。  
木彫りの熊なんか買ってこようものなら速攻で売り飛ばすわよ」  
「そんなもの買ってきません。第一、売れやしませんよ。  
お願いというのはですね……明日からの旅行、奥様も一緒に来てほしいんです」  
「へ?なんでよ?」  
 
あたしに自分の目の届く傍にいてほしい、という彼の心理は理解できる。  
去年の誘拐騒動のときも彼にどれほど心配をかけてしまったことか。  
でも今回はあたしが外に出るわけじゃないし誰かを呼ぶ予定もない。  
言ってみればグラハムの留守中、ただ家でじっと彼の帰りを待つだけだってのに  
どうしてあたしも一緒に行かなきゃならないのよ。  
自分ひとり温泉旅行を楽しむことに遠慮でもしてるってことなのかしら。  
 
「あなたにのんびりしてもらおうと思って企画したのに一緒に行ったら意味ないじゃない。  
なにもあたしに気を遣う必要ないわよ、日頃の感謝の気持ちなんだから」  
「別に気を遣って言ってるわけじゃない。  
ひとりじゃ寂しいでしょう。グレース、君と行きたいんだ」  
 
彼があたしのことを奥様以外で呼ぶときは必ずそこに何らかの意図がある。  
仕事とプライベートは分けて考えたい人だから  
今の発言は執事としてではなく、それ以外としての発言に違いない。  
わからないのは…何故それが今なのかってこと。  
これは、もしかして。  
 
「あなた飲んでるでしょ」  
「まさか。酔って口説かれるよりいいでしょう」  
 
しれっとした顔でグラハムが言う。  
…相変わらず本気か冗談かわからないこと言うんだから。  
この間から振り回されっぱなしだわ、まったくどうかしてる。  
少し冷静にならなくちゃ。  
 
「…グラハム、あなたそれ本気で言ってるの?屋敷の皆にはどう説明するつもり?  
あなたの誕生日にふたりで旅行だなんてそんなの言い訳できないわよ」  
「平気ですよ、口実なんていくらでも作れます。家族なんですから」  
「………」  
 
なんだかもう何も言う気になれない。  
どうしてもあたしを連れて行きたいみたいだけど、その理由もはっきりとしないし  
そんなに信用されてないのかと思うとそれはそれで気分が悪いし。  
一体どういうつもりよ。  
ムカムカしてたら突然彼があたしの腕をぐいっと掴んで引き寄せた。  
今度は何!?もの言う間もなく抱きしめられて、彼が耳元で囁いた言葉は。  
 
「誕生日プレゼントなんでしょう。……何が欲しいか、まだわからない?」  
 
グレースの顔がみるみるうちに朱に染まる。  
「…わ、わかった!わかったから!んっ…ちょっと、離してっ  
こんなとこ誰かに見られたらどうするのよ!」  
顔どころか耳まで赤くなった彼女が慌てて身体を引き離そうとする。  
時折見せるこういった反応がかわいくて、たまらなく愛しい。  
あの夜、彼女の心も身体もすべて自分のものにしたはずだった。  
だがあれ以来肌を重ねたことも触れたこともなく  
時が経つにつれ徐々に実感が薄れていき  
あの手触りもぬくもりもまるで夢でも見ていたかのようだ。  
もう一度彼女に触れその存在を確かめたい。  
わざわざお膳立てしてくれたことだし、これを利用しない手はないだろう。  
 
「奥様の分のチケットは明日の朝手配しておきます、今日はもう遅いですから。  
ホテルは一部屋で構いませんか?」  
「…任せるわ」  
 
いささか憮然とした表情で彼女がつぶやいた。  
目を合わさないように横を向き火照った顔に両手をあて熱をさまそうとしている。  
思いがけない話の展開に少々驚いているようだったが、さすが奥様。  
立ち直りは早かった。  
「よし、明日の準備するからもう帰る!  
プールがあるなら水着も用意したいしヘタすると今晩眠れないじゃない。  
せっかくの旅行が寝不足で楽しめないなんてことになったら  
キャンセル料どころの騒ぎじゃないわっ、行くからにはしっかり元を取らなきゃ!  
あなたも早く休んだ方がいいわよ。じゃ、おやすみ!!」  
勢いよく立ちあがると、バタバタと部屋を出て行ってしまった。  
 
「お休みなさい、奥様」  
部屋を出ていく彼女を横目で見送りながらソファにもたれかかる。  
天井を見上げて一息つく。  
なんとかベストな方向に話を持っていくことができてほっとした。  
とかくトラブルメーカーというのは、本人が望む望まないに関わらず  
トラブルを起こしたり巻き込まれたりするものだ。  
そんな素質たっぷりな彼女をこの屋敷にひとり置いていくなんてもってのほかだが  
せっかくの好意を無にすると機嫌を損ねる。それもまた面倒な話だ。  
となれば連れていくしかない。  
どうせトラブルに巻き込まれるのなら一緒にいるときの方がまだマシだ。  
それに、彼女とふたりきりでの旅行も実際いい機会なのは間違いない。  
いくら同じ屋敷で暮らしているといってもここでは常に誰かの目がある。  
案の定、クリスマス当日もコック長に耳打ちされてしまった。  
適当にはぐらかしておいたがそのうち真剣に対策を考えなければならないだろう。  
急に決まった今回の旅行のような件もあることだし。  
 
 
さて、明日から留守にするとなるとある程度仕事を片付けておかなければ。  
彼女は早く寝ろと言ったがそうもいかない。  
私は立ち上がるとデスクに向かって歩きだした──  
 
 
「あー気持ちよかった!やっぱり風呂は命の洗濯って本当なのねー。  
結局あなたと一緒に来ちゃったけど来てよかったわ」  
 
バスルームから出てきたグレースはパタパタと掌で顔を煽ぎながらソファーに腰を下ろした。  
軽くバスローブを羽織っただけの湯上りの彼女にグラスを手渡すと、嬉しそうに受け取る。  
着いた早々スパだのヨガだのマッサージだの堪能した奥様はご機嫌である。  
今朝方、ホテルに連絡してダブルにチェンジした部屋は広々として  
白を基調とした落ち着いたデザインで彼女はとても気に入った様子だった。  
同じ部屋は嫌がるかと思ったがそんなことはおかまいなしと  
いった感じで、いたって普通にこの旅を楽しんでいるようだ。  
まあ過去に野宿経験もあるくらいの私達だからそういったことは気にならないのだろう。  
夕食を済まし、ホテルのバーで軽く飲んで部屋に戻ってきた。  
そして彼女が今まさに風呂から出てきたばかりという状況だ。  
 
「冷たい水でいいでしょう」  
「えーお酒にしてよー。そこワインか何かあったわよね?さっき見たわ」  
夕食でワインを飲んで、バーでカクテルを飲んで、そしてまだ飲むつもりらしい。  
このペースで飲めば間違いなく酔い潰れる。  
「まだ飲むんですか?そろそろやめたほうがいいですよ」  
「だって気持ちいいのよー。温泉入って心身ともにリフレッシュできたし  
食事もおいしかったし、ここはあなたとふたりっきり…だしね」  
ほろ酔いの彼女は手をひらひらさせながら機嫌よくこんなことを言っている。  
やれやれ、この分だと今夜は酔っ払いの介抱で終わりそうだ。  
 
「気持ちがいいのは結構ですが、ほどほどにしてくださいよ。  
ここで奥様の介抱するのは私だけなんですから」  
「んもう、こんなとこまで来て奥様はやめてよ。ね、ピーター?  
あなたも早くお風呂入ってきたら?気持ちいいわよー」  
まったく人の気も知らないでのんきなものだ。  
彼女にワインとミネラルウォーターを手渡してさっさと風呂に入ることにした。  
 
風呂から上がったらソファにいるはずのグレースの姿が見えない。  
これはもう潰れてしまったかなと思い、寝室に続くドアを開けると  
枕元のかすかな明かりの中、やはり彼女はすでにベッドに  
倒れ込むような形のままうつぶせで横になっていた。  
ゆったりとしたキングサイズのベッドだからまさかここで落ちたりしないだろうが  
せめてきちんと寝かせようと彼女に近づくと  
「…遅かったじゃない。もう待ちくたびれたわ」  
もそもそと彼女が身動きする。なんだ、まだ寝てなかったのか。  
 
「起きてたんですか。そのまま寝ると風邪ひきますよ。  
湯冷めするといけませんからちゃんとベッドに入って」  
「だーめ。今日は何の日だと思ってんの、早く来て。  
湯冷めするって言うならあなたがあっためてくれればいいでしょ」  
私に向って腕を伸ばし、むっくり起き上がる彼女と目が合う。  
酔っているせいか目が据わっている。  
 
「相当飲んだでしょう。気分が悪くなる前に早く休んでください」  
「しつこいわねー、何度も言わせないでったら。今日はあなたの誕生日じゃないの。  
お望みどおりプレゼントらしいことしてあげるわよ」  
 
いきなり彼女がふらふらと体重をかけてのしかかってきた。  
反動でふたりベッドにもつれるように倒れ込む。  
グレースに押し倒された格好だ。  
「ちょっと、奥様」  
「あなたは何もしなくていいわ…あたしにまかせて」  
囁くように言った彼女の細い指先が私の顔に触れ眼鏡を外す。  
予想外の出来事にさすがに驚きを隠せない。  
一体何を企んでいるんだと考えていたらおもむろに彼女が唇を寄せてきた。  
かなり酒くさい。  
 
普段の彼女は酔うと陽気になって騒ぐタイプで  
べろべろになるまで飲んだ後、さんざん騒いで暴れまわって朝になってから  
「あれー昨日あたし何かした?なーんか身体のあちこちが痛いのよねー」  
なんてのたまうことも数え上げればきりがないほど経験している。  
ただ、やかましくはあっても人に絡んだりはしないから  
まさかベッドの上でこんな風に絡まれるとは想像もしていなかった。  
今夜も酔っ払って騒ぐだけ騒いだらすぐ寝てしまうだろうと思っていたのに。  
──こんなことになるならワインなんか渡すんじゃなかった…  
激しい後悔の念に襲われても後の祭り。  
何のつもりか知らないが、どうせ最後までできるわけじゃない。  
途中で寝てしまうのがオチだろう。いや、すでに寝ぼけているのかもしれない。  
とりあえずやりたいだけやらせてみることにした。  
 
観念した私の唇に柔らかい感触が降りてくる。  
久しぶりの彼女とのキス。  
嬉しいはずなのにこの状況のせいで素直に喜べないのが辛いところだ。  
お互いの唇をついばむような軽いキスを何度か繰り返した後  
小さな舌がためらいがちにそっと忍び込んできた。吸い込んで絡ませて  
そのまま彼女の口腔内に侵入すると少し驚いて身を引いたのがわかる。  
逃がすまいと投げ出していたままの両腕で彼女を抱き締めた。  
うなじに手を這わせつつ、太腿から腰にかけて撫であげれば  
重ねた唇の隙間から彼女が文句を言ってくる。  
「んっ…あなたは何もしなくていい…っ」  
「君に触れたいんだ」  
「もう…」  
顔を見ると、頬を赤らめて幾分困ったような表情を浮かべている。  
そんな表情を見せられるとつい本気になってしまいそうだ。  
私に跨る彼女の身体の質感や温かさが直に伝わることもあり  
はだけたバスローブから垣間見える白い肌に触れずにはいられない。  
「あっ、やあっ…だめよ、あたしが…!」  
素肌に触れられる刺激に堪えきれず吐息をもらす  
わずかに震えているようなその様子にさらに熱を煽られる。  
ここは屋敷ではないし、すでにグレースとはそういう関係になってしまった。  
酔っているとはいえ今も彼女から進んで肌を重ねようとしている。  
愛する女性が腕の中にいるのに何もしないというのもおかしな話で  
こうなったらいっそ抱いてしまいたい。  
だが、酔ってこんな乱れ方をする彼女のことだ。  
朝になれば何も覚えてないに違いない。  
それではあまりに虚しい。  
──誰かのぬくもりが欲しいだけなら敢えて君を選ばない  
そんなこと彼女が一番よくわかっているはずなのに。  
 
そこまで考えると馬鹿馬鹿しくなってきて彼女に手を出すのはやめることにした。  
なに、どうせすぐ眠くなるはずだ。  
もはや諦めにも近い境地でいるとグレースが首筋に顔をうずめてきた。  
熱い唇で耳朶の後ろから鎖骨にかけて慣れない様子でちろちろと舐めていく。  
少しくすぐったい。  
おとなしく彼女の頭を撫でていたら急に動きが止まった。  
真剣な顔をして何やらぶつぶつと呟いている。  
「…明日も温泉入るならやめとくべきかしら。でもなー」  
跡をつけるかつけないかの話のようだ。  
そういえば前もこんなことやってたな。  
「どうしてそんなに跡をつけたいんですか」  
「だって…あたしのもの、って感じがするじゃない」  
やや拗ねたように言う彼女が愛おしい。  
「もう君のものですよ、これからずっと」  
言ってしまってからこれではまるでプロポーズのようだと気付いたが  
彼女はそんな気持ちを知ってか知らずか、あっさり納得して微笑んだ。  
「ならいいわ」  
満足気に首に手をまわし抱きついてくる。  
 
そろそろ眠くなるんじゃないかと待っていたのに眠くなるどころか  
グレースの勢いは止まらずにその手がするすると私の下半身にまで伸びてきた。  
…さすがにこれ以上は無理だ。  
いくら抱くつもりはないといっても自制がきかなくなるのも時間の問題だろう。  
最後までしないのに煽られるだけ煽られるなんて一体何の罰ゲームだ。  
 
「もう気が済んだでしょう。続きは明日にして一緒に寝ましょう」  
すぐにやめさせるつもりで慌てて起き上がろうとするも彼女に力いっぱい押し戻された。  
「いやよ。あたしがするんだからジャマしないで」  
やけにきっぱりと言う彼女の決意は固いらしく  
あろうことか彼女の手にはすでに私自身が握られてしまっていた。  
ぎこちない手つきで扱くというよりはおそるおそる触れるといった感じだ。  
他の誰でもない彼女に触られているという事実を意識するだけで反応してしまいそうになる。  
すでにふたりとも素肌に纏うバスローブははだけていて  
ベッドに横たわる私に馬乗りになっているのは酔って潤んだ瞳でこちらを見つめるグレース。  
 
「勘弁してくれ…」  
心の中で呟いたつもりがつい口に出てしまった。  
 
 
しまった、と思った直後。  
「…わかったわ。そんなにあたしとするのがいやなら仕方ないわね」  
彼女がうつむいて発した言葉に眩暈がしそうだ。  
誰のせいでこうなってるのかわかって言っているのだろうか。  
 
「どうせ君のことだから朝になったら全部覚えてないんだろう。  
忘れられるぐらいなら最初からしたくない」  
 
「はああ!?何よそれ!あなた、あたしにケンカ売ってんの!?  
忘れるようなどうでもいい相手ならわざわざ一緒に来たりしないわよ!!」  
 
何を言い出すんだとばかりにいきなり怒鳴りつけられた。  
あまりの剣幕に冷静さを取り戻す。  
彼女に嫌みを言っても仕方のないことなのに何を自分もムキになっていたのだろう。  
「だったらどうしてこんなになるまで飲んだんです。  
もとはと言えば君が飲みすぎたからでしょう」  
「…部屋に戻ってからは飲んでない」  
不満そうにぼそりと呟く。  
「そのわりにずいぶんと乱れていたような気がしますが」  
「だって飲まなきゃやってられないわよ!シラフでできるわけないでしょこんなこと!  
あたしだって恥ずかしいんだからっ」  
そう言った彼女の顔はもう真っ赤になっていて  
呆然と見つめる私に気がつくと慌てて目をそらした。  
 
……どうやら私の誕生日だから積極的に奉仕をしようとしたというのは本音だったらしい。  
唐突に見えたその行動には理由があった。  
酔っ払いの戯れだとばかり思っていたが、真意がわかると  
彼女のいじらしさが伝わってきてその気持ちが素直に嬉しい。  
そこまで酔っているわけでないことも判明したし、意味のない我慢をする必要もない。  
そうと決まれば。  
 
「グレース」  
静かな声で名前を呼ばれてどきりとする。  
ゆっくりと上半身を起こしてあたしを抱きよせる彼。  
「ごめん、悪かった」  
「…いいのよ。あたしもちゃんと説明すればよかったわ。  
まさかあなたがあんな風に誤解してるとは思わなくて」  
「君が驚かすようなことするからですよ」  
くしゃりと髪の毛を撫でてきた。  
彼もわかってくれたみたいでほっとする。  
さっきはカッとなって一瞬頭に血が上ってしまったけど  
冷静になれば彼が言うこともわからないわけじゃない。  
きっと酔っ払いに絡まれてるとでも思ったんだろう。  
最初っから言っとけば変な勘違いさせることもなかったんだわ。  
失敗したなー。まあ、次から気をつければいいか。  
 
「誕生日おめでと。これでまたひとつじじいに近づいたわね」  
「ありがとう。でもまだ二十代なんですけど」  
笑いながら力強く抱きしめてくる。  
彼のぬくもりがうれしくて気持ちいい。  
こんなにあたたかい気持ちになれるのって幸せね。  
「…本当は全部あたしがしてあげるつもりだったのよ」  
「いいよ、その気持ちだけで十分だ」  
でも、せっかく誕生日なのに。  
言いかけたあたしの唇に人差し指をあてて  
「本当だよグレース。それに」  
 
「君が火をつけたんだ。…もう遠慮はしない」  
 
まっすぐにあたしの目を見て、そう告げた彼の表情が変わった。  
今までの優しい笑顔から男の顔へ。  
普段の彼からは決して窺い知ることができない表情。あたしにしか見せない顔。  
ああ、あたしこの顔が好き。この瞬間彼はあたしのものだと確信できるから。  
近づいてくる気配を感じてあたしはそっと瞳を閉じた。  
 
ねえ、ピーター?  
あたしばかり飲んでるみたいに言うけどあなただって同じくらい飲んだじゃない。  
アルコールにはめっぽう強いあなただから酔っ払ってる姿なんて見たことない。  
どんなに飲んでも表情も変えずに平気な顔してる。  
悔しくて何度挑戦しても、いつもあたしが先にダウンしてしまう。  
真面目で固くて有能。なのにギャンブル強くて酒にも強い、なんて反則もいいところよ。  
…おまけに女性の扱いも上手だし。  
あなたベッドの上であんなに優しいとは思わなかったわ。  
 
 
あなたが好きよ。  
誰よりもあたしをわかってくれる人。  
じいさまが亡くなってあたしは正式にこの屋敷の主人となった。  
慣れない毎日、不安に押し潰されそうになるあたしにとって  
あなたの存在がどれほど大きな支えになったか、あなた知らないでしょう。  
つらい時や泣きたい時はもちろん、いつも傍にいて一番欲しい言葉をくれる。  
どんなに人の心が変わってしまってもあなただけは変わらない。  
ずっと信じていてくれる。あたしを受け止めてくれる。  
あたしが結果的に無茶なことばかりしてしまうのもあなたがいるからよ。  
あなたがいるから安心できるの。  
何があっても揺るぎない信念であたしを導いてくれるから。  
そう、だから。あなたを信じてる。  
あなたにならすべてをあずけられるわ。  
 
「んっ…」  
性急に相手を求めあうように触れた瞬間から蕩けるような熱いキス。  
舌が絡み合い、まるで吐息が溶けあっていくかのよう。  
唇を舐められ甘く噛まれると焦らされているようでなんだかもどかしい。  
ねえ、火がついたのはなにもあなただけじゃないのよ。  
もっとあなたを感じたい。あなたにも感じてほしい。  
熱くなっていく身体とともに心まで昂ぶっていく。  
 
彼の手がはだけた胸元からするりと入ってきた。  
背中にまわり撫で上げる手と太腿をさする手。  
直に素肌に触れる、その感触に肌が粟立つ。  
「ひゃっ……んっ、あっ」  
触れられるだけでこんなにぞくぞくするのにこれ以上なんてどうなるの。  
彼のまだ乾ききっていない髪の毛からシャンプーのいい香りが漂う。  
普段の彼の様子と今が結びつかなくて頭がくらくらする。  
こうなることを望んでいたのに実際の状況にまだ戸惑ってる。  
うれしいのに、怖い。  
やっぱりあたし酔ってるのかもしれない。  
 
唇が離れると耳朶に触れてきた。  
軽く噛まれた瞬間、まるで電流が走ったようで思わず顎が上がる。  
彼はそんなあたしを見逃さなくて執拗に耳、耳朶からうなじを攻めてくる。  
「やっ、はっ…ん、あぁ…」  
くすぐったいような、背筋を駆け上がる快感に声が抑えられない。  
太腿をさすっていた彼の手がじわじわと身体の中心に移動してきた。  
下着も何もつけていないそこは自分でももうわかるほど濡れている。  
彼の指が触れた、と思った瞬間そっと指が入ってきた。  
「はぅっ……っ」  
十分に濡れているそこはまったく抵抗もなく受け入れる。  
小刻みに揺らしながら、ゆっくりと確かめるように動き出す。  
「グレース…」  
名前を呼ばれても返事なんてできるわけない。  
「あっ、はっ……んんっ、あ」  
身体の力が、抜けていく。  
彼の指が生みだす熱い痺れが全身を支配していく。  
その感覚以外何も感じなくなってしまったみたいで  
差し込んだ指の数が増える頃にはもう自分で身体を支えられなくなっていた。  
背中にまわされた彼の腕だけがあたしを支えている。  
 
手の中にある彼のものが徐々に形を変えていく。  
彼も感じてくれているのがわかってうれしい。  
「ピーター…っ」  
「わかってる」  
あなたも同じ思いなんでしょう。  
だけど彼はあたしから身を引いて離れようとした。  
「…すぐ戻るよ」  
いやよ、ちょっと、あたしを置いてどこ行くのよ。  
わけがわからない。  
彼のバスローブの端を掴むと、彼は静かに自分の手を重ねてきた。  
言い聞かせるようにあたしの目を見て囁く。  
「君を守るためだから」  
 
 
 
…やっとわかった。そういうこと。  
でもそれなら  
「…もってきたわ。……そこ」  
ベッドのそばに目線を寄せると彼もわかったようだった。  
幼い子供にするように頭を撫でて額にキスしてくれる。  
手をのばして掴み取り袋を破る。  
見慣れない彼の仕草を見て、彼も男なんだと変な風に感心してしまった。  
こんなことしといて今頃思うのもどうかしてると思うけど。  
「……手伝う?」  
「いい。それよりこの体勢は君が辛いだろう」  
そんなに気遣ってくれなくてもいいのに。  
優しいところはいつもの彼らしくて思わず笑みがこぼれそうになる。  
あたしの身体を横たえようとする彼を押しとどめて抱きついた。  
「大丈夫、できるわよ。…たぶん」  
何か言ってくるかと思ったけど彼は何も言わずにキスしてきた。  
あたしに任せてくれるのかな。  
できると思うけどいざとなるとちょっと腰が引ける。  
痛いかしら…でも、まあなんとかなるわよ。  
少し間をおいて呼吸を整えた。  
向かい合う彼が見守っててくれる。  
身体をずらして彼のものにあてがうように、体重をかけて腰を下ろそうとした。  
 
したんだけど…だめだー、うまくできない。  
緊張してるせいかなかなか思うように入っていかない。  
考え込む様子を見かねた彼があたしの背中に腕をまわしてきた。  
「グレース…力、抜いて」  
耳朶を甘噛みしながら囁いたと思ったら、そっと唇を重ねてきた。  
強く抱きしめられて深くなっていく甘いキス。  
ゆるゆると自分の身体の力が抜けていくのがわかる。  
彼に全身をゆだねるようにするとしっかりと支えてくれた。  
あたしの身体を抱え込むようにして押し当てた彼自身をゆっくりと進めてくる。  
 
「あっ」  
彼が入ってくる。  
指とはまるで違う圧迫感。やけるように熱い。  
そのじりじりとした痛みに思わず腰を浮かせたくなってしまったけど…なんとか堪える。  
彼のものをすべて飲み込んでしまう頃には彼に震えながらしがみついていた。  
「う…くぅっ……っ…」  
息ができない。  
絶え間なく溢れてくる痛みがあたし達がつながってることを認識させる。  
「無理はしなくていい、グレース」  
彼の声が耳のすぐそばで聞こえる。  
前に彼が言ったことを思い出す。  
おそらくこの続きは同じことを言われるに違いない。  
「…っ……噛まない…わよ…っ」  
自分ではしっかり言ったつもりだったのに  
実際発せられた声はとても頼りなく聞こえてそれがちょっと情けない。  
「…そうか。君に辛いだけの思いをさせたいわけじゃない。  
慣れるまで…暫く我慢してくれ」  
彼はあたしの返事にちょっと驚いたみたいだったけど小さく笑ってこう言った。  
短く荒い息をはきながらどうにかこの状態に慣れようとする間  
動かずにじっと待っててくれた。  
背中にある腕から彼のぬくもりが伝わってきて安心する。  
まだ痛みは感じるけどようやく落ち着いてきた…かしら。  
 
「…っ……もう…平気、よ…」  
それが合図だったかのようにゆっくりと彼が動き出す。  
最初は小さく慣らすように。  
「ん、んっ」  
鈍い痛みが身体を襲う。  
はっきり言ってまだ快感なんて感じない。  
彼の手があたしの胸に触れ、掌で包み込む。  
「ああっ」  
ゆるやかに揉みしだき尖ってる先端を舐めあげられて、つい声が出た。  
仰け反った首に彼が吸いついてくる。  
「グレース」  
熱い吐息とともに名前を呼ばれるとぞくぞくする。  
あなたの声が好き。もっと呼んでほしい。  
彼の動きが少しずつ大きくなってきた、その時。  
 
 
「あ…」  
あ、きた…。  
痛みが次第に快感にすり替わっていく、この感じ。  
初めての夜もそうだった。  
揺られるたびに反応が変化していく。  
さっきまでの痛みがうそみたいに、彼が動くたび快感が押し寄せてくる。  
あ、ああっ、やだ、気持ちいい…なに、これ…っ。  
どうすればいいの。  
ただただ彼にしがみつく。  
自分の声が甘く彼にねだるような響きになっていくのがわかる。  
抑えたくても抑えられない。  
彼に抱かれてこんな声をあげてる自分が恥ずかしい。  
ねえ、あなたわかってる?  
今のあたし見せられるのあなただけよ。  
あなただけなんだから。  
「はっ、あ、ああっ…ピーター…好き…っ」  
それを聞いた彼の動きが激しさを増す。  
「ああっ!…あっ、あっ、やだっ」  
この前のように意識が飛びそう。  
まるで自分が自分でなくなる、みたい。  
 
 
いきなり彼があたしの身体を抱いたままベッドに倒れ込んだ。  
重なり合う部分がぐっと深くなり、さらに追い込まれる。  
「あんっ…ああっ、あ、あ、いやぁ……!」  
全身が熱い。涙がでてきた。身体が震えているような気もする。  
ああ、もうだめ、どうしていいかわからない。  
怖い。乱されるのが怖い。  
心だけじゃない身体までとらわれていく。  
どこまであなたに溺れていくのよ。  
もう戻れない引き返すなんてできない身も心もあなただけ。  
 
「グレース…」  
彼に呼ばれて薄眼を開けた。  
あなたも少し苦しそうな顔してる。  
「大丈夫だから」  
掠れた声でそう言って手を握ってくれた。強く強く握りしめる。  
そうね、あなたがそう言ってくれるなら。  
大丈夫よね、きっと。  
好きな人と愛し合うってこんなに気持ちいいことなの。  
心も身体も満たされていく。  
あなたが好き。  
あ、ああ、もう、こみあげてくる快感に堪えられない。  
溶けていきそう。  
頭が真っ白になってく。  
「ピーターっもう、だ、め…っ」  
 
 
そこで意識がとぎれた。  
 
 
──たとえ書類上だけでも親子で恋愛なんて許されるわけがない  
 
あたしグラハムが好き。彼を愛してる。  
たぶん…彼も気が付いてる。  
もちろんそんなこと口に出したりしたことない。  
でも、わかる。だって彼どんどんあたしに優しくなってくるのよ。  
どこがどうってはっきり言葉にできる変化じゃなくても  
ふとした態度やあたしに対する視線がとても優しい。  
以前のような水と油の関係から、確実にふたりの距離は縮まり関係は変わってきている。  
その変化をもたらしたものが何なのか、わかっているけど決して触れない。  
触れてはいけない。それがあたし達のルール。  
彼ならあたしの本当の気持ちを受け入れてくれるかもしれない。  
だけどそれは──ゆるされない願い。  
どれだけ愛していても絶対に結ばれることはない。  
想いを告げることすらもかなわない。  
だってあたし達は家族だから。血のつながらないたったひとりの家族。  
あたしも彼もこの家を大切に思ってる、じいさまから託されたこの家を。  
だからこの気持ちは誰にも見せない。気付かせない。  
蓋をして、閉じ込めて、深い心の奥に隠して生きていく。誰にも見つけられないように。  
女性として愛してくれなくても家族としてなら彼も愛してくれている。  
だったらそれでいい。  
あたし達は家族として愛し合うのよ、これからもずっと。  
 
ずっと、そうするつもりだったのに。  
 
 
あの夜からふたりの関係は変わってしまった。  
お互い後悔するかもしれないと思ったけど、彼はそんな気さらさらなさそうで  
すべてを受け入れて前に進む道を選んでくれた。  
うれしかった。  
あたしを愛してくれたこと、覚悟を決めてくれたこと。  
ギャンブルに強い彼だもの彼となら負ける気がしないわ。  
人生を賭けてのギャンブルなんてあたし達にぴったりじゃない。  
周囲の人々は彼があたしに振り回されてると思ってるみたいだけど、それは違う。  
振り回されてるのはあたしの方よ。でもそんな彼に翻弄されて惑わされるのも悪くない。  
だってそうでしょ、彼ほどいい男いないもの。  
さすがじいさまとあたしが選んだだけあるわよね。  
 
彼の顔がすぐ目の前にある。  
目を閉じて…もう眠ってるのかしら。  
どうやらあたしまた気を失ってたらしく、しかもそのまま眠ってしまっていたらしい。  
気がついたらほとんど脱げてたバスローブを着て横になってた。  
彼が着せてくれたんでしょうね、ほんとマメなんだから。  
少しずつアルコールも抜けて眠気もどこかへ行ってしまった。  
 
薄暗い部屋の中、彼の顔をじっと眺める。  
そういえばこんなに近くで彼の寝顔見るの初めてかも。  
イブの夜も結局あたしの方が先に寝ちゃって寝顔なんて見てない。  
あんまり見る機会ないし、この際だからじっくり見とこう。  
柔らかそうなブロンドの髪。すっきりと通った鼻筋。  
肌もきれいね。つるつるなのは温泉のおかげかしら。  
へえ、しっかり効能あるじゃない。あ!これって金儲けにならないかな!  
じいさまの遺してくれた土地、金は無理だったけど温泉なら!?  
保養もできるし、ビジネスにもなるしでやってみる価値あるわ。  
よおし屋敷に戻ったら早速調べてみなくちゃ。  
 
ふーん、こうやって見ると整った顔してるわ、彼。  
あたしには言わないしプライベートは謎が多い人だから  
わかんないんだけどモテると思うのよね。  
眼鏡やめてコンタクトレンズにすればいいのに。もったいないなあ。  
まあ眼鏡も似合ってるからいいか。その方が執事っぽいし。  
 
あ、でも一度だけコンタクトにしたことあったわ。  
ホテルの社長の息子の身代わりになった時。  
嫌々ながら引き受けたマネージャーなのに、彼ったら持前の有能さで  
バリバリ仕事こなして結構楽しそうにやってた。  
社長があんまり褒めるし、もともと才能ある人だから  
もしかして執事を続けることで彼の将来を狭めてるんじゃないか  
もっと他にその高い能力を生かせる仕事の方が彼自身のためなんじゃないかと思って  
確認する意味で、社長の提案を受けなくていいのか問い詰めてみたんだけど  
ああいう反応されるなんて思わなかったから驚いた。  
…彼、あたしをからかって遊んでるようなところあるからなー。  
思えばフレディがうちに来た時もそうだった。  
彼が最後にあんなこと言うもんだから  
どきどきしちゃって意識するようになっちゃったのよ。  
後になって考えてみたら、彼女のことで少ししんみりしたあたしの気分を  
変えようとしての発言だってわかるんだけど、その時はわからないじゃない、ねえ。  
 
そして、極めつけはやっぱり…あれ。  
ジムおじさんの事件。  
あの時まさかあのタイミングであんなこと言われるなんて  
思ってもいなかったからつい本音が出てしまった。  
だって、だって…ずるいじゃない。  
あの状況であのセリフ言われたらあたし動けないわよ。  
それくらい彼はあたしのこと完全に理解していた。  
だからこそ暴走してるあたしを止めるためにはああ言うしかないとわかってて言ったんだわ。  
あたしの気持ちも、それを聞いたあたしがどう思うかもすべて承知の上で。  
…そんなの、言葉も出ない。  
あたし達の間では切っちゃいけないカードだったのにそれ使うなんて  
切り札出されちゃったら何もできないに決まってるじゃない。  
そうよ、彼に勝てるわけない。  
 
 
ああ、思い出せば思い出すほどあたし彼に振り回されてばかり。  
頭の中がグルグルしてる。  
これじゃまるで走馬灯じゃない。  
…ん?  
ってちょっと待って!あたしまだ死にたくないわよ!?  
そりゃこの前ちょっと石が降ってこないかと思ったけど…  
石。そうだ、やっぱり石なんて降らなくてよかった。  
あたしまだまだやりたいことあるし、彼と一緒にいたい。  
万馬券だって当てたことないんだから一度くらい当ててみたいじゃない。  
夢はクラシック三冠制覇よ!  
…ってまあそれは置いといて。  
 
 
 
──もう決めたわ。逃げないし迷わない。  
石なんて…降らなくていい。  
 
向かい合うように彼女と横になり、目を閉じてこのまま寝てしまおうかと思っていたら。  
やはりもう眠っていると思われたグレースが小さくつぶやいた。  
「そう、石なんて降らなくていいのよ」  
……いし?何のことだ、一体。  
 
「何ですか…?」  
「…あら、起きてたの?てっきり寝てるもんだと思ってた」  
彼女は意外そうにこちらを見上げると、少しばつが悪そうに続けて口を開いた。  
 
「…昔、学生の頃に読んだ小説よ。  
ハッピーエンドで終わるお伽話に対して  
なんで最後に石が降ってこないんだって思う主人公の話」  
意味がわからない。その話がどうしたっていうんだ。  
 
「今でもよく覚えてるわ。  
ティーンエージャー向けの小説の一場面だったんだけど、その主人公  
幸せな結末で終わる物語がその後も続くことにどうしても納得いかないらしくて。  
王子と姫が結ばれて末永く幸せに暮しましたってやつね。  
末永く幸せに、なんてそんなの無責任だ  
幸せになったのならその物語に続きなんていらないだろう  
だったらそこで空から石でも降ってくればそれが本当のハッピーエンドじゃないのか、って。  
それって無茶苦茶でしょ。  
まあ、主人公が恋人にふられた直後だったからそう考えちゃったみたいなんだけど  
あたし当時それ読んで、バカなこと言ってるなーって思ったのよ」  
学生時代を思い出したのかどこか遠い目をして懐かしそうに話す。  
 
 
……なんとなくわかってきた。  
彼女はその物語を自分に置き換えて考えたのだろう。  
幸せな結末を迎えた物語、その続きは。  
 
「それで今は?」  
「正直に言うわ。あの夜、一瞬、ほんの一瞬だけ…石が降ってくればいいと思った。  
今が幸せならこのまま終わっちゃうのもいいんじゃない、って。  
……あたしもバカだわ。一瞬でもそんなこと考えるなんてね。ただ逃げてただけよ。  
石なんか降ってきちゃったらもうあなたに会えないのに」  
じっと私を見つめるグレースの瞳がうっすらと滲んでいる。  
 
「結局その主人公、悩んでもがいて最後には自分の進む道を見つけたわ。  
彼女の中でしっかり石の話もけりをつけて。  
前向きで好きだったのよねー、その小説。  
生きてく以上、後ろばっかり見ててもしょうがないし前見て歩かないと躓いちゃう。  
人生を楽しめるかどうかは自分にかかってるんだもの  
どうせ生きるなら楽しく生きたほうがいいに決まってる。  
たった一度の人生なんだから悔やむような生き方はしたくない。  
あなたとこうなったこと後悔するなんて絶対いやよ。  
ずっと、ずっと一緒に生きていきたい。  
大体あたし達はお伽話の中で生きてるわけじゃないのよ、  
ハッピーエンドを迎えてもまだまだ生き続けなきゃならないってのに  
石に邪魔されてゲームオーバーなんてまっぴらだわ。  
そう考えて気がついたの、石を望む気持ちなんてやっぱり間違ってるって」  
 
微笑みながらそう言う彼女は吹っ切れたような顔をしていた。  
彼女なりに私と関係をもったことに対して気持ちの整理が必要だったのかもしれない。  
倫理的な問題もあるし、最後の一線を越えることにためらいや抵抗があったはずだ。  
いくらタフで前向きな彼女でもいろいろと考えることもあったのだろう。  
人知れぬ彼女の苦悩を感じて、そっと髪を撫でる。  
 
「…君が選んで、君自身が決めたことだ。  
たとえ正しくなくても間違っていたとしても  
自分で受け止めて前に進む強さがあるならそれでいいじゃないですか。  
僕も君を選んだんですよ。絶対に後悔なんてさせない。  
何があっても君を守る。家族としても、一人の男としても」  
「信じてるわ。…あなたはかわらない」  
 
 
彼女が胸に顔をうずめてきた。  
ゆるく抱きしめる。  
「…僕の人生には君が必要だ。勝手にいなくなられたら困ります。  
ただでさえ君はいなくなると捜すの大変なんだからもう離れないでください」  
「……」  
腕の中の彼女が小さく震えはじめた。  
泣いているのかと思ったら…どうやら違うようだ。  
押し殺した笑い声が聞こえる。  
「あっはは、あなたあたしを捜すときいつも大変な目にあってるものねえ」  
「笑い事じゃないですよ」  
「ごめん、ごめん。……でも、ありがと。そう言ってくれて」  
伏せた顔が少し赤いように見えるのは気のせいだろうか。  
言葉で、君が抱える不安を取り除くことができるならいくらでも言ってやるのに。  
ゆっくりと背中を撫でるとぬくもりが伝わってきて心地よい。  
やはり君を連れてきてよかった。  
こうして向き合ってお互いの気持ちを確かめあうと更に君を愛しく思う。  
去年とは比べ物にならないくらい、いい誕生日だった。  
このまま彼女が暴れて落ちたりさえしなければよく眠れそうだ。  
 
「こうしててあげますから、もう寝ましょう」  
「もう寝ちゃうの?」  
 
突然グレースが顔をあげて私を見上げてきた。  
もう、と言ってもすでに時刻は深夜二時近いのだが。  
しばらく考えてから、内緒話でもするように耳元に口を寄せそっと囁いた。  
「……したい?」  
「い…いやっ、ちがうわ!そういうつもりで言ったんじゃないわよ!?」  
彼女がぎょっとしたように慌てて自分から離れようとする。  
その焦りまくる様子がかわいくて、ついからかいたくなってしまうから困る。  
背中を撫でていた手を腰まで落とし彼女の身体を引き寄せた。  
「君が望むなら朝までだって付き合いますけど」  
「あ、朝まで…ってそんなの無理よ!できるわけないって!」  
悲鳴のような声をあげ、さらに慌てふためく。  
「やってみないとわかりませんよ。試してみる?」  
身を起してもがく彼女の身体を押さえ込み、首筋に唇を落とす。  
「んん、ちょっと…っ」  
身悶える彼女が一瞬だけ顔をしかめたのを見て思い出したことがあった。  
動きを止めて問いかける。  
「身体の調子はどうです?」  
「…痛くはないけどちょっとだけね、ヒリヒリする」  
──やはりそうか  
「ならもう寝よう」  
「…いいの?」  
「君に無理はさせたくない。明日もありますから」  
「でも」  
「グレース……本当に朝までしようか?」  
彼女はもう何も言わなかった。  
額に軽くキスしてから向かい合うようにベッドに横になる。  
「?」  
「おやすみのキスです。明日は飲みすぎないように」  
「…うん」  
「おやすみ」  
そう告げて私は静かに目を閉じた。  
 
キスをして目を閉じた彼はすぐに眠りに落ちていった。  
規則正しい寝息が聞こえる。  
 
何よもう、あなたが眠かったんじゃない。  
おかしいなとは思ったんだけど。  
 
──清く正しいだけじゃつまらない  
 
昔あなたが言ったセリフまだ覚えてる。  
なんて大胆なこと言う人だろうと思ったけど  
今のあたし達見るとまったくもってその通りかもね。  
たとえ正しくなくてもあたしには彼がついてる。  
あなたがいてくれるなら怖いものなんて何もない。  
そうよ、家族から始まった関係ってのもあたし達らしいわよ。  
ゆっくりじっくり時間をかけて新たな関係を築いていけばいいじゃない。  
人生おもしろおかしく生きる!ってのがあたしのポリシーだもの、  
あなたと共に、思う存分人生を楽しむわ。  
だからずっと一緒にいましょう。  
明日も明後日もこれから先ずっと。  
お互いじじばばになるまでね。  
 
すやすやと気持ちよさそうな寝顔のあなたを見てたら  
なんだかあたしも眠くなってきちゃったわ。  
おやすみ、ピーター。また明日ね。  
 
 
起こさないように彼の手をそっと握って、あたしもゆっくり目を閉じた。  
 

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