「メリークリスマス」  
 
知らず抱き締めていた小さな肩を、ゆっくりと引き離す。  
触れた頬の冷たさが私の理性を呼び戻すまで、十数秒は経っていただろうか。  
なるべく平静を装って顔を見ると、奥様は屈託なく微笑んで、  
握り締めていたシャンパンの壜を掲げて見せた。  
「さあさ、はやく飲みましょ。せっかく雪の中こんな重たいのぶら下げてきたんだから。だいたいこんな火の気のないとこで何してんのよ。まーた熱出して寝込んじゃうわよ。」  
「物置の片付けです。前から気になっていたんですけど、普段はなかなか時間が取れないですからね。いい機会だと思って。」  
「イヴに大掃除するのが“いい機会”なら、あたしはバレンタインに確定申告するわよ。」  
いつもの軽口、いつもと変わらないその様子に私は安心し、壜を受け取って歩き出す。  
よかった。さっきの抱擁は、単なるクリスマスの挨拶だと受け取ってくれたようだ。  
 
旦那様が亡くなって三年半。  
水と油のように正反対の私達も、主人と執事として、そしてまた残された家族として、どうにかうまくやっていけるようになってきた。  
いや、正直に言ってしまえば、どうにかというかかなりというか相当というか、  
まあ使用人達にある種の誤解を受けるほどにまで、親密になったわけである。  
自分の“好意”の本当の名前を、わかっていないといえば嘘になる。  
けれど、家族縁の薄い私達に、お互いはたった一人の「家族」で。  
納屋で寄り添う仔馬のように、触れ合う温もりにまどろむような今の暮らし。  
ようやく辿りついたこの場所を、私はまだ失いたくなかった。  
 
「それじゃ暖炉に火を入れてきますから、奥様はグラスとコルク抜きを取ってきてください。」  
居間へと続くドアに手をかけた私を奥様が引き止める。  
「えー、リビングに行くの? あたしの部屋に行きましょうよ。」  
なんだって!?  
「何を言ってるんですか、駄目ですよ、そんな」  
「だってー、二人っきゃいないのにあんなだだっ広い部屋暖めるの、不経済じゃない。カリスマ主婦は、そういうとこから節約して1年で100万ためるのよ。」  
まあ、そんな事だとは思ったが。  
「うちはまだ、そんなに困っていませんよ。」  
「そうやって油断してると、気付いた時には持ち山が一つ減り、二つ減り、ついには相続税も払えなくなって代替わりのたびに屋敷を半分にぶった切って売っぱらわなきゃいけなくなるのよ。自分の部屋が4分の1カットにされたら寒くてかなわないじゃない。」  
「奥様があやしげな金儲けに手を出さなければ、そんなことにはなりません。」  
「まあまあいいじゃない、自分の部屋なら酔っ払ってもそのまま寝ちゃえるしね。」  
「寝ちゃ……」  
私は絶句した。“家族のように”といったって、信頼されるにも程がある。  
「あら、顔が赤いみたいよ。やっぱり風邪引いたんだわ。早く暖かいところに行かないと。」  
人の気も知らず、奥様は額に手などあててくる。その手の冷たさに先ほどの感触がまざまざと甦って、私は一層赤面した。  
「とにかく駄目です!奥様といえど一応は妙齢のご婦人の部屋に、こんな時間に入るわけには行きません。」  
「今更なに言ってんのよ、普段から夜中に勝手に入ってきてあたしの寝相直したりしてるんでしょ。」  
「そんな昔の話を。」  
「だいたい、今日は屋敷中どこにいたって、二人っきりじゃないの。どうせおんなじよ。」  
そう言われた瞬間、張り詰めたような雪の夜の静寂が辺りを包んだ気がした。  
ポーチの置時計の音が、やけに響く。  
「あー、もうわかったわよ。じゃあ、グラハムの部屋ね。それで文句ないでしょ。じゃあ先行って待ってるからグラスとおつまみ持ってきてねー。」  
そういうと奥様は、さっさと階段を昇って行ってしまった。  
その勇ましい後姿に、ついついため息が出る。  
ま、早いとこ酔っ払わせてお引き取り願おう。  
 
飲み始めてから一時間。  
すっかりご機嫌になった奥様は、私のアルバムを手当たり次第に引っ張り出してそのまま撒き散らすわ、よろけて掴んだカーテンを破くわ、そのついでに筆立てをひっくり返すわ、絶好調である。  
ほんとに早く帰ってくれ。  
「なんだか眠くなってきちゃったー。五分、五分だけ寝かせて。」  
「人のベッドで寝ないで下さい! ご自分の部屋に帰ってくださいよ。」  
「いいじゃないのよケチ。わー、ずいぶん年代物のベッドねえ。いつから使ってんの、これ。あなたもうジョンストン家の主人なんだから、もっと豪華なやつ買いなさいよ。ヒョウ柄の総金箔張りとか。」  
「嫌ですよ、眼がチカチカして寝れやしない。」  
「ほら御覧なさいよ、もうこの辺なんてミシミシいって──」  
バキン  
「ぎゃっ」  
ドスン、  
「あいたたた」  
「おくさまっ!!」  
ゆすっていた天板の一枚が外れてしまい、その反動で奥様は、板を掴んだまま床に転げ落ちてしまった。私は慌てて駆け寄り、彼女を抱き起こしてベッドに座らせる。  
「大丈夫ですか」  
「あたた、へーき、ちょっと腰打ったけど。それよりごめんなさい、ベッド壊しちゃった。でもこれはやっぱ買い換えろっていう神様の、……ん? ここに何か──」  
剥き出しになったベッドと底板の隙間から奥様がつまみ出したのは、「グラハムへ」と書かれた白い封筒だった。  
「この字、じいさまだわ。すごい、時を越えて死後に見つかったメッセージよ!」  
「確かに旦那様の字ですね。でもどうしてこんな所に。」  
「いいから読んでみなさいよ。隠し財産のありかが書いてあるのかも。」  
そんなことはまずあるまいとは思ったが、促されるまま、私は取り出した便箋に目を走らせた。  
 
「やっほー、グラハム。元気か?  
この手紙をお前が読む頃は、私はこの世にいないだろう。だが私も元気だぞ。天国で絶好調だ。  
ところで、お前のベッドに隠したこの手紙をお前が読んでいるということは、そこにグレースがいるだろう。お前が普通に寝起きしただけでは見つからないように隠すつもりだからな。この手紙を発見できるのは、グレースか暴れ牛ぐらいのもんだ。  
お前のベッドに、お前とグレース。  
いや、何も言うな。私にはこうなることはちゃんとお見通しだった。  
そこで、可愛い息子に、パパから最後のプレゼントだ。  
なになに、気にするな。息子にこういう事を教えるのは、父親の役目と相場が決まっておる。  
それじゃ、しっかりやれよ。グッドラック!  
パパより」  
 
読みながら、あまりのことに手が震えだすのを私は抑えることができなかった。  
すると、この封筒の底のほうに入っている小さな四角い物体はつまり……。  
「ちょっとグラハム、あなた読みながら赤くなったり青くなったりどうしたのよ。そんなすごいことが書いてあったの? 早く見せて。」  
「駄目ですっ! ちょっと、あっ。」  
抵抗むなしく、手紙は奥様に奪われてしまった。  
旦那様、そこまで状況を読んでいるなら、なぜここで奥様が手紙を読んでしまうことまで予測してくれなかったんですか。当然想定してしかるべき事態じゃないですか!  
黙りこくって手紙を読む彼女は、顔を真っ赤にして、あまつさえ手をわなわなと震わせている。  
そりゃあ、無理もないだろう。いくら奥様とはいえ、うら若き女性にはとても笑って済ませられる内容ではないはずだ。そう、笑って……、ん、笑って?  
「ぷ、くく、く、あはははははー!!」  
気がつくと顔を真っ赤にした奥様が、ベッドに突っ伏して大笑いしていた。どうやらさっきのは笑いを堪えていたらしい。  
「グ、グラハムがあたしを、あたしと、あはははは、ああ苦しい。」  
大きく肩で息をついて、むっくりと彼女が起き上がる。  
「じいさまってば、天国に行ってからまで笑わせてくれるわー。イースター島のモアイが八頭身になったって、そんなことありえないじゃない。」  
ねえ? と屈託のない笑顔で手紙をひらひらさせる奥様のその手を、私は無意識のうちに?んでいた。  
「さあ、どうでしょうか。」  
私の言葉に、奥様はぎょっとしたように身を引き、手を振り払おうとする。  
「そ、そうでしょ、だって。あなたがそんな……」  
「──試してみましょうか?」  
 
あまりにも頭から否定されたことにムッとしたのかもしれないし、あるいはただ、少々酔いが過ぎていたのかもしれない。  
とにかく、最初はちょっとからかうだけのつもりだったのだ。いつものように。  
さあここで、にっこり笑って「冗談です」とでも言えばいい。  
けれど、?んだ腕を引き寄せもう片方の手で頬に触れたとたん、顔を朱に染めギュッと目を瞑ったグレースの表情を  
可愛い  
不覚にもそう思ってしまった瞬間から、  
何かの螺子が外れていくのを、私は感じていた。  
 
藻掻く彼女を胸元に掻き抱き、そのまま横抱きにベッドへ倒れこむ。  
「ぎゃあっ!」  
色気には程遠いその悲鳴が可愛いだなんて、私はどうかしているだろうか。  
「なんて声出すんですか。」  
囁いた唇でそのまま、髪に、首筋に、軽く触れていく。その度に、腕の中で彼女が身体を固くした。  
「ちょ、まっ、グラハムやめて」  
身を捩る彼女を押さえつけ、  
「駄目です。」  
なおも続けようとする私の耳元で、  
「や、め、て、って言ってるでしょー!!」  
キャラウェイ火山の噴火のような怒号が響き渡った。  
 
女性とは思えない怪力で暴れるグレースを必死に押さえ付け、息を荒げて私たちは見つめ合った。鳩尾に膝蹴りをくらっても手を離さなかった自分を褒めてやりたい。  
「なんのつもりよ!」  
「何、と言われましても……」  
真っ赤な顔で睨む彼女に、私は苦笑した。  
「言わせたいですか?」  
「あ、あたしが聞きたいのは、どうしてかってことよ。」  
「どうしてって、そりゃあ。」  
愛しているから、とでも言えばいいのだろうか。  
しかしそれは、膝蹴り決められた後で言うのに適切な科白ではないような気がする。  
くどいようだが、膝蹴りだぞ、鳩尾に。  
複雑な胸の内を隠して、私はとりあえず微笑んで見せた。  
「──旦那様のせっかくのお心遣いを無駄にしては。」  
「ば、ばっかじゃないの。どうせ天国からは文句を言って来れやしないんだから、そんなのうっちゃっておきなさいよ。」  
赤い顔をふいと背けたグレースを、私は再び抱き締めた。  
駄目だよ、グレース。  
私はもう、家族でなくてもいいと思ってしまった。  
「お嫌ですか。」  
嫌がられてはいないという確信があったからこそ、暴れる彼女を押さえつけてでも私は先に進もうとしたのだ。  
けれど、  
「嫌に決まってるでしょ!」  
彼女はそう叫んで、私を渾身の力で突き飛ばした。  
 
一気に酔いが醒めていく。全ては私の思い過ごしだったのだろうか。  
グレースは身を起こししばらく俯いて黙り込んでいたが、やがて顔を上げると、私の隣へ乱暴に腰を下ろした。彼女のほうから近づいてきたことで、胸を塞いでいたものがすっと消えていく。まだほんのりと染まったその頬に滲むものが、私の錯覚ではないなら……  
「物事には手順ってものがあるでしょ! あなたのいた執事養成学校じゃ、女主人の口説き方は教わらなかったわけ?」  
つっけんどんなグレースの口調は、これはそう、照れ隠しのときだ。  
「教わるわけないでしょう、そんなもの。」  
「あら、うちの高校では教わったわよ。学生手帳の“健全な男女交際の手引き”にちゃんと書いてあったんだから。」  
自分のペースを取り戻してきたのか、グレースの表情にいつもの快活さが戻ってくる。  
「まずステップ1が、愛の告白でしょ。ステップ2が一緒に下校。それから映画、一緒に食事。」  
無理に怒った口調で話し続けるグレースを見守るうちに、先程蹴られたあたりから、くすぐったい様な笑いが込み上げてきた。これは自惚れなのだろうか。彼女の気持ちも彼女の望む言葉も、全て理解した、とそう感じてしまうのは。  
「以上のステップ3と4を数回繰り返してから、ステップ5で自宅に招待。ステップ6でやっとキスなのよ!! それをいきなり……」  
──誰が作った規則か知らないが、ステップ5は順番的にまずいのではないか。少なくとも男性の発想ではないな。家に上げるのは、その後のステップを一気にこなせってのと同義だろうに──  
それはともかく、彼女は随分と古色蒼然とした高校にいたらしい。女子校ということしか聞いていないが、けっこうな名門校だったのかもしれない。  
さぞかし、浮いていただろうな。  
おっとりしたお嬢さんたちの中で一際目立つ少女グレースを想像して、私は思わず吹出してしまった。  
「な、何笑ってんのよ。そもそもなんでそんなに余裕なのよ。あたしばっかり、ドキドキしちゃって馬鹿みたい……」  
はっと口を押さえたグレースの目を、私はにこやかに覗き込んだ。  
「そうなんですか。」  
「ちがうわ、嘘よっ!」  
「顔真っ赤ですよ。」  
慌てて頬に手をあてた彼女を、私はゆっくりと抱き締めた。  
そうだね、君の言うとおりだ。  
長く傍にいた私達だからこそ、ちゃんとここから始めなければ。  
 
「大好きだよ、グレース。」  
 
胸元から聞こえるクスクス笑いに、私は彼女を覗き込んだ。  
「何を笑ってるんですか。」  
「律儀に最初っからやってくれなくても、ステップ1は飛ばしていいのよ。もう済んでるんだから。」  
済んでる? その言葉に私は首を傾げた。  
「それはどういう……」  
「どうもこうも、だって今の台詞聞いたの二回目よ。」  
 
大好きだよ、グレース。  
 
それは、あの時の──  
 
「覚えてたんですか!!」  
「当然でしょ。あれが催眠術を解くキーワードだったんだから。」  
してやったり、という顔で、グレースはにっこりと微笑んだ。  
「まあ、直後は混乱してたからよくわからなかったけど、おいおいね。思い出したのよ。」  
得意げに笑う彼女に、私は思わず苦笑した。  
まったく、君にはかなわない。  
お手上げをして見せた私の首に、彼女の細い腕が勢いよく巻きつく。  
「ステップ5までは、特別に免除してあげるわっ!!」  
──乱暴に押し当てられた唇は、少しだけシャンパンの味がした。  
 
 
目覚ましのベルより早く、ドサリとなにか鈍い音で私は眼を覚ました。  
薄く開けた眼に、早朝の光がやけにまぶしい。  
ああそうか、昨日は雪だったから。するとさっきのは……屋根を滑る雪の音だ。  
私はベッドの上に身を起こし、傍らに眠るグレースを見下ろした。  
大口を開け、あまつさえ涎をたらしながら眠るその顔は、お世辞にも色っぽいとは言い難い。ベッドから落ちかかっている片足を戻してやっても、いっこうに起きやしないし。  
肩が冷えないよう布団をかけ直して、私はゆっくり彼女の髪をなでた。  
ああ、困ったな。  
数時間後には、ちゃんと“執事”の顔に戻れるだろうか。  
 
 
 

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