−Prizon−  
 
ロッド・レーンは薄暗い個室で、机の上に頭から突っ伏していた。  
古い木造、ニスで加工していないものなので、頬に小さな木の破片がいくらか刺さった。  
顔を上げるのも一苦労、早朝パトカーで市警に移送され、それからずっとこの具合だ。  
「どこに隠した?」  
ジャックマンがロッドの髪をひっつかんで持ち上げた。ロッドは腹の中のローストチキンを吐き出しそうになった。  
「待ってくれ。うん、思い出しそうだ……」  
パイプ椅子が軋んだ。取調べ室は日めくりカレンダー一つ掛っていない情報を根こそぎ奪い取られた空間だった。  
ブルー・シャツを着た彼らが持ってくるもの、調書、ペン、テープレコーダー、証拠品、時には隠し球、以外は何もない。  
彼らはそこで情報と言うに値すべきものを大豆から豆乳を精製するようにみっちり搾り取って、また持ち場へ帰って行く。  
ジャックマンが離した手を尻にやって付着した汗を拭った。  
「どこだ」  
ロッドは椅子にもたれかかり、ゆっくり息を整えたあと、にっと笑った。来るべき衝撃に備え、腹に力を込めて言った。  
「てめえのワイフのアス・ホール(ケツの穴)」  
右フックがわき腹に命中した。これが裁きの打擲(ちょうちゃく)だと言わんばかりに。  
腹筋を固めていたので少しはマシになったろうが、やはりロッドは大きく咳き込んでいる。  
いやはや、加減ってものを知らねえな、セノバイトにでもなっちまうか、奴ら痛みを快楽に変える、  
そうすりゃこんな糞ったれた尋問だって、もっとやってと哀願するだろうさ。  
しかしありがてえ、まだ眠るわけにはいかない、痛みが手助けしてくれる――そんなことを考えながら、生暖かい唾液を机の上に垂らした。  
トンプソンは眉一つ動かさず、それを見ていた。  
砲丸のような拳が下腹へ向かって三発打ち下ろされ、部下が息を切らせたところで、ようやく静止の言葉をかけた。  
「その辺にしておけ」  
本当は肝臓を破裂させるまで続けろと言いたかったが立場上そういうわけにもいかない。  
トンプソンは部下を呼び寄せ、いったん取り調べ室を出た。予想に反して相手は粘る。  
彼はいつにもまして疲れていた。取調べにおいて、未成年、しかも重罪の初犯――軽犯罪は除いて、ほどやりやすいものはない。  
少々脅かしてやれば、奴らはすぐに怯えた表情で後悔する。仲間がいれば十年来の親友であろうが親の敵のように罵って汚い唾を飛ばす。  
こちらのやり口も知らないので、検察に口を利いてやるだのと甘い言葉を囁けば、吾身可愛さに洗いざらい喋る。  
世情を知らぬ子供が無知の意地を張り通すなどとんでもない。あんなものは大人も子供も関係なく、ただ喋った後のことがあるだけだ。  
刑罰の軽重もあるが、もっと大切なことは、つまり、自分達はまだ挽回できる――輝かしきとは行かずとも、  
出所後に人並みの将来は築けるかもしれない、やりなおせるかもしれない、と勘違いしていやがるのだ。臆面もなく。  
もちろん諦めているものもいるが――どちらにせよ、クズが自らの欺瞞に気づくことは一生ないだろう。  
運悪く仮釈放で出てこようものなら、すぐに戻って来てまた同じことの繰り返しだ。刑務所は自主性を奪う。  
クズが一生クズなままなのは累積する再犯の罪状を見ればすぐに分かる。  
このケースではどう考えたって、単独犯、動機からして単純、痴情のもつれ以外に何がある?  
被害者は十七歳にして異性交遊を重ねたあばずれだ。  
何が起こったかと言えば、計画などまったくない、杜撰で無秩序的な殺戮劇に他ならない。  
アメとムチを使い分けるベテランの刑事にとっては、たやすい取調べとなるはずだった。  
 
「しぶといですね」  
トンプソンは一瞬、誤認逮捕かもしれないと考え、すぐに自嘲して首を振った。  
状況証拠が揃い過ぎている。あとは凶器さえ見つかればおしまいだ。  
それだって、奴の右腕に刻まれた斬痕(糞ったれが、チャールズ・マンソン気取りか)を見れば、刃物を持っていたのは明白だ。  
きちがいだと話は別だが――まったく、なぜきちがいを殺しちゃいけないんだ?  
多重人格だの何だのと、人権だの何だのと、自分の家族が恐怖に晒されたことがないものの戯言だ。  
安全地帯の遠吠え、手を汚さずに訳知り顔で糞食らえだ――あの痕を見た時はそう思ったが、どうにも奴は落ち着いている。  
錯乱した様子は感じられない。分裂病にかかった精神薄弱者であれば脅しに乗ってすぐに吐くケースが多いし、  
そうでなければ精神科医の出番となるわけだ。  
もちろん脅かすのにしたってやり過ぎると弁護士がうるさいので方法は慎重に選ばないといけない。  
よって初日に腹を殴れ、ケツを蹴飛ばせだ。拘留期間はまだたっぷり残されている。  
問題はないが――トンプソンは親指と人差し指で右の耳たぶを挟んで、親指を上からなぜるように何度も動かした。  
それは停滞を意味する。捜査が進展を見せない時についやってしまう癖だった。  
仕事をこなす上で盛りの年代に入った刑事が囚われていたのは、その積み重ねた経験から来る奇妙なずれであった。  
ちょっくらショッピングモールに出かけて安物の組み立て椅子を買ってくる。  
説明書を前にしてああでもないこうでもないとやり終えれば目の前には当然既に完成された椅子があり、  
スタインブレイナーよろしく座ってふんぞり返ったって特に問題はない、  
しかし、手の中に使い忘れた螺子が余っている、いったい何処にそれがぴったりはまるのか、いつか崩れてしまわないだろうか。  
その不安が何処から来るのかトンプソンは考え、眦に皺を寄せる。  
長年凶悪犯罪の捜査に触れると、容疑者をカテゴライズしてしまう。いや、カテゴライズするために餌を撒くと言った方が正しい。  
犯行現場や聞き込み調査で得た情報が語ってくれる。こうやれ、ああやれ、そうやって追い詰めろ、と。取調べにおいても基本は同じだ。  
目の動き、頬の緩み、どの言葉に反応するか――怒りを感じるのか。黙り込むタイプか、焼夷弾のように嘘をばらまくタイプか。  
ロッド・レーンにはそれがなかった。何も見当たらなかった。遠い昔に警察学校で受けた取調べの仮想訓練を思い出す。  
ようするにお遊びだ。トンプソンはもう一度、今度はいくぶん強く、耳たぶを擦った。  
俺が抱いている不安――奴はやっていないことを前提にして臨んでいやがる。  
もう一つあるぞ、これはただの勘だが――何かを待っている。期待している。絶望的な状況下にありながら。  
ロッドが信じて待っているもの、それが自分の娘だとは流石にトンプソンでも思いつかなかった。  
自らおとりに使っておきながら彼にとって娘とは自分を含めた(もっともそこに彼自身が気づいているかは定かではないが)  
掃き溜めの外で暮らすべき人間であった。ロッドが逮捕された時点で永遠につながりは切断されたものと認識していた。  
 
「このまま続けても埒があかんな」  
「そう思います。長期戦で行きますか」  
「奴は、犯行後の行動については吐いたな。セルフィッシュ・リバーの……農地……小麦畑……」  
ジャックマンがポケットから簡易地図を取り出して、トンプソンの前で広げた。  
「そう……ここ、被害者、奴の自宅から、近くもないし、そう離れてもいない。ありえる範囲内だ。  
 一番近いところだと黒人夫婦が住んでる。教会の近くだったか、川べり」  
「信じるんですか?あとは何を聞いても、やってないの一点張りですよ。たまに口を開けば汚ねえ糞を……失礼しました」  
ジャックマンがそういうのも無理はない、とトンプソンは思った。犯行後の行動を吐かせるのが最も難しい。  
裁判まで持ち越されることがほとんどだ。幾重にも敷き詰められた嘘を暴いて、その先にあるものは下らない現実だ。  
それを奴はさらりと喋った。その時は観念したかに見えた。なのに、凶器の隠し場所についてはのらりくらりと交わしやがる。  
考えられるのは時間稼ぎだ。犯行後に凶器を隠したのであるから(被害者宅、現場からは証言で出たナイフは何も発見できなかった)  
その場所が知られたくなければ、足取りについても、もちろん真実を言うはずはない。  
こちらが探し終えたあとで、今度は浮浪者に混じって糞垂れてましたとでも言うつもりか。ならば調べても意味はないが……。  
「ダメで元々だ。何かあるかもしれない。デューイに周辺の聞き込みをするように伝えてくれ。  
 場合によっちゃドブさらいをしにゃならん。何かあれば、私も後から行く」  
「分かりました」  
「いったん休憩だ。奴をハコに放りこんでおけ」  
「はい、警部捕、ランチは?」  
「まだだ」  
「ご一緒しますよ。殴ってると、思ったより腹が空くんですよ」  
「ああ……」  
デューイが無線で連絡を受け、マイク夫妻の扉をノックして形式上の聞き込み調査を終え  
パトカーの窓からセルフィッシュ・リバーをなんとなしに眺めている時、ナンシーは公衆便所で痕を確かめていた。  
むりやりねじ込まれたためか、膣道のみならず、膣口付近の肉にも擦り傷がついていた。  
鞄に入れておいた生理用のナプキンを敷いて、滴り落ちる血液は受け止めることができたが、  
誰も強姦された心までは受け止めることができない。公衆便所の壁が四方から倒れてくるような気がした。どこにも行きたくなかった。  
犯された記憶と一緒に自分の存在を消してしまいたかった。いっそ殺して欲しかったと思った。  
そして本の中で――どんなタイトルか忘れてしまったけれど――レイプ描写があったものを思い出した。  
キャンピングカーに乗った女性二人が、テネシー州の叢林(そうりん)を前にして駐車中、暴漢に襲われ、二人ともレイプされた。  
一人は茫然自失として立ち上がることすらできなかった。もう一人はさっさと服を着てこう言った。「命があっただけマシよ」  
ナンシーは心の中で呟いた。そんな風に割り切れない。あれは嘘だ。  
 
洋式便座にどれくらい座っていただろうか、時々入ってくる足音で冷や汗が流れた。外の世界が恐ろしかった。  
しかし、いつまでもここにいるわけにはいかないと思い、公園の噴水でぐしゃぐしゃになった顔を洗った。  
水面に映された自分の顔を見て、まずは後悔と怒りが湧いてきた。どうして、うつらうつらとしてしまったのだろう。  
こうなることは或程度分かっていたのに、あとほんの少しでも心を強く持って、眠りさえしなければ防げたのに――。  
眠りさえ、しなければ――そして、許せない、鉤爪の女、ティナを殺して、弄んで、その上――しかしその感情もすぐに消えてしまった。  
迫って来たのは圧倒的な狭窄だった。心を絞って引きちぎられ、暗闇へ閉じ込められた。  
視界が狭まっていった。大気が濃縮されているように感じた。存在する全てが自分を押し込めてくる。  
消えろと脅迫してくる。その通り、自分の身体が砂でできたように感じる。崩れていく。  
なのに、心臓だけが破裂しそうになっている。ふと、目の前を体格のいい男が通りかかった。  
周りに人気はなく、男はグリーンの長シャツに赤いレザーパンツを履いて、立派な犬を連れていた。  
その瞬間、ナンシーは心臓が本当に爆発するのではないかと思った。男の服が透けてその下に禍々しいペニスが見えたような気がした。  
この男は犯そうと思えば今すぐにでも自分を犯すことができるのだ、と恐怖した。何処に行っても自分の安全な場所はないと信じた。  
時計を見るともう午後の六時を過ぎていた。居残り補修を受ける生徒達が帰宅する時間だ。こんな姿を見られたくなかった。  
早く穢れた身体を洗い流したい、それだけ考えて家に帰った。  
ナプキンを敷いたものの、腿まで広がって乾いた血が歩くたびにざらざら擦れて、犯されたのだ、お前は傷物だと叫んでいる。  
このままだと狂ってしまう。いや、狂ってこの事実を忘れられた方が――玄関をくぐる時、見たくはなかったが、  
グレンの家の二階の窓に目が行った。カーテンがほとんど閉まっていて、隙間から明かりの消えた部屋が見えた。  
グレンがいなくて、ナンシーはほっとしている自分に気づいた。一瞬、自分はグレンともう終わってしまうのだろうか?と考えた。  
ただいまも言わずに家に入ると、マージがキッチンの収納棚の奥へラムのボトルを閉まって、リビングからよたよた歩きでやってきた。  
既にハイスクールから連絡を受けていて、帰りが遅いので心配のあまり酒を飲んで、ちょうど酔いが覚め始めたところだった。  
連絡を受けて二時間経ち、いつものようにラムのボトルの蓋をひねった時、どうして自分の家ばかりこんな風なのだろう、とマージは思った。  
グラスに引かれた線が上昇するにしたがってその想いは一層強くなった。結婚した時は何の悩みもなかった。  
それどころか今よりもずっと明るい未来が広がっている気がした。夫は正義感に溢れ、仕事熱心で有能だった。  
いや、それは今も変わってはいない。父親としても素晴らしい人になるだろうと思っていた。  
やはりあの事件――悪夢が全てを変えてしまった。そしてまた同じことが起ころうとしている。今度は娘を変えようとしている。  
水で割って氷をぶち込み、ぐいと一口やってみたが、ラムはいつものように忘れさせてはくれなかった。  
もう一度唇に近づけて、最後まで飲み干した。空になったグラスを眺めたあとで、娘だけは、自分達のようにならないで欲しい、と思った。  
そう思うことはここ三年の間でかなりあった。マージは溜息をついてまたグラスにラムを注いだ。  
マージにとってそれは遊園地のチケットのようなものだった。暗澹たる現実からたやすくネバーランドへ連れて行ってくれる。  
もちろんチケットを手に入れるためにはそれなりの対価を要求される。金は大した問題ではない。  
意識がはっきりすると、飲む以前よりも最悪な気分になっているのがそれだ。  
倍化した惨めさがまたそれを口にさせ、マージは優秀なリピーターとなる。  
三杯目を注いだ。もはや割らなかったし氷も入れなかった。それを一気に飲み干して、こう思った。  
もう自分と夫はつぎはぎだ――つぎはぎ、つぎはぎ――頭がかき混ぜられたようになる。  
やっと来てくれたこの感触。待ちわびた混濁。何もいらなくなる。夫も娘も帰って来るなと思う。しかし、帰って来る。  
だからほどほどでやめておかないといけない。ほどほどで。また繕えるように。全てを切り裂いてはいけない。  
 
「なあに、してたの」  
ナンシーは無視して、バスルームへ向かった。  
「こらあ、返事、しなさい。もっと早く……」  
マージの身体を急に吐き気が襲ってきた。堪えてゲップが出た。  
「どこほっつき歩いてたの」  
ナンシーは背を向けたまま、ぼそぼそと喋った。マージには何を言っているのか分からなかった。  
難聴の老婆に問いかけるようにした。「ほら、どうしたってのよ!」  
「アレが……急に始まっちゃったの。持ってなくて……だから、シャワー、浴びたい……」  
マージは納得して、それから先は何も言わなかった。  
そして一時間後に頭の裏に遅効性の毒を塗られたような痛みを抱えたまま後悔して薄っすら涙を流した。  
ナンシーはいつもより温度を高く設定して、頭からシャワーを浴びた。熱くて痛いくらいだった。  
でもその痛みが股の傷を、犯された記憶を忘れさせてくれる気がした。  
彼女の身体は零歳児の肌のように赤らみ始めた。熟れた桃のようになった。  
熱で真っ赤になった肌を見て、母の赤ら顔が浮かんできた。母と同じだと思って温度を下げた。  
ナンシーは自分の胸を平手でぺしんと打った。こんな胸なんていらなかった、と思いながら。  
「なんで!」バスルームのタイルを平手で何度も打って、ナンシーは泣いた。自分が消えてなくなりそうだ。  
身体が萎んで行くような感覚。また世界がどんどん狭くなっていく。冷たい檻の中に閉じ込められている。  
誰も助け出してくれない。助けて!叫びたい。鉤爪の女はこう言った。  
100%だの、相手のことだけを考えていたいだの――確かにグレンにとって100%の女になれると信じかけていた。  
それがあの夜から少しずつ、ずれていった。最後には全てを否定された。一生消えない痕が残った。  
幻聴か、ナンシーに何者かが呼びかける。お前は0%だ。ゴミクズだ。破瓜をレイプで迎えた汚れた女だ。  
グレンは失望するぞ。なあに元々信じられる話じゃない、夢で犯されましたなんて、浮気したと思われるのがオチさ。  
だから消えろ。消えてなくなれ。ぬいぐるみになれ。動かなくなれ。死んでしまえ!  
性器に挿入された時の感覚がよみがえってきた。一番奥を捻りまわされた痛み、じくじく、じくじく。  
ナンシーはまた嘔吐した。今度は胃液しか出なかった。出し終わった後、狂気にかられたように、  
痕を少しでも消そうとアソコをタオルでごしごし擦った。痛かったが、手は緩めなかった。  
タオルを絞ると、血と石鹸の混じった赤白い液体が逃げ出すように排水口へ流れた。  
血を見ることによって、ナンシーは、確実に迫っている死の足音を学校にいた時もより切実に感じた。  
恐怖で自分の肩を抱いて、震えた。ロッドも殺されるだろう、とナンシーは思った。  
そしてグレンは――グレンは鉤爪の女を知っているのだろうか?  
その疑問に答えなどなかった。どうか、グレンは鉤爪の女の標的でありませんようにと願った。  
シャワーを浴びたあと、パジャマに着替えて、ナンシーはずっと自分の部屋に閉じこもった。  
マージに食欲がないと伝えて、降りてくることも拒否した。  
悪夢を思い出し、ゴミ箱をひっくり返して漁ったが、捨てた日記のページはどうしても見つからなかった。  
犯された日でも冷酷に時は刻まれいつものように夜がやってきた。部屋は死体置き場のようにしんとしていた。  
本を手に取った。アンナ・カレリーナ。バカ、こんなもの嘘っぱちだ、そう思ってベッドの上から床へ投げつけた。  
枕を抱いて、顔を擦りつけ、これからさらに嬲られ最後には切り刻まれる自分を想像した。  
ティナの死体がまた浮かんだ。いずれ、自分もああなるのだ。内臓を撒き散らせて死ぬのだ。  
そして鉤爪の女の道具に使われる。仮に天国があったとしてもそこに行けない。  
永遠に囚われたまま夢をさまよう?――いやだ、いやだ、いやだ――片っ端から本を開いて、床へ投げ捨てた。  
それまでナンシーを愉しませてくれた本は、どれもこれも色褪せて見えた。  
今のナンシーにとって、まだずきずき痛む性器がただ一つの真実だった。  
 
深夜零時、部屋の窓ががたがた揺れた。ナンシーはちらと見たが、風がしたのだろうと思い、すぐにうつぶせになって、耳を塞いだ。  
そうすると、揺れがノックに変わった。もう一度見る。まさか、これも夢の中ではないかと怯えながら。  
やめて、と心の中で叫んでいる。しかしノックは止まらない。五分間ほど放っておいたが、まだ止まらない。  
止んだかと思うと、また始まる。もうどうにでもなれ、ナンシーはベッドから起きて、そろりと窓へ近寄った。  
グレンの部屋が見えた。縦長の窓が開いて、カーテンが風になびいていた。  
相変わらず、明かりは消えている。もう寝てしまったのだろう、と思った。眠れるグレンが羨ましかった。そして、腹が立った。  
自分がこんなに苦しんでいるのに――めちゃくちゃにされたのに――ぐうぐう寝てるなんて!  
拳を握り締めて、なんて自分勝手な浅ましい考えだろうとすぐに自戒した。  
端に手をかけて、横に首を振ってみるが誰もいない。下に目をやる。  
ラガーシャツとジーンズを着たグレンが中腰でうずくまっていた。  
あっと声が出る。驚いて後ずさる。怖かった。グレンはへりに手をかけて、笑顔で、ナンシーに呼びかけた。  
大げさな口の動きが「こんばんは」と示していた。  
ナンシーは何もいえなかった。何を言えばいいのか分からなかった。  
以前は望んでいたこと。今は、ただ恐ろしい。口を開けば「近づかないで」と言ってしまいそうだ。  
グレンは窓の鍵を指差した。ナンシーは鍵を外して窓を上に引っ張り上げたあと、また離れた。  
「入って、いいかな……というか……足がしびれて、落っこちそうだ」  
二階建てのナンシー宅の屋根は、傾斜がそれほど急ではないが、落ち着いてくつろげるほどのスペースはない。  
グレンは家の右側の倉庫――ナンシーが小学生の頃買ってもらった補助輪つきの自転車やら、  
お絵かきに使ったクレヨン、画用紙、読まなくなった本などが置かれている――から欄干に手をかけて、  
懸垂の要領で一気に屋根に上り、両足を並べて少し余るくらいの広さの道をそろりそろりとここまでやってきた。  
昔、同じようにしてグレンが自分の部屋を訪ねて来たのをナンシーは知っていた。  
グレンの母の息子に対する異常な執着のせいで、そうでもしないと会えないこともままあったのだ。  
初めてグレンが窓からやってきた時、二人は十四歳だった。  
そしてお互いの気持ちを知ることになった。知った後で初めてのキスを交わした。  
ナンシーにその時の記憶がよみがえった。第一声は三年前と同じだった。  
「なに……してるの」  
 
グレンは身を乗り出して、窓から上半身を出している。両手でしっかり身体を固定して、まずは一休みだ。  
こういうやり方はあまり好きではないが、そうでもしないと、ナンシーには会えない。  
家では登校以外三日間の外出禁止を申し渡されていた。学校へ行くのだって一苦労だった。  
警察に呼び出されたグレンの母、ダリア・ランツはまるで自分の息子が殺人をおかしたような剣幕でがなりたて、  
若い頃は美しかったであろう顔をくしゃくしゃにした。  
落ち着くようにと肩を抱いた夫の手を跳ね除けて、グレンの頭を平手で二度ぶってから、抱きしめた。  
ああ、グレン、あなた、そんなところでなにしてたの?あんな子達と付き合うのはやめなさいって、ママ、前にも言ったでしょう!  
こういうことは一度や二度ではない。道で転んで膝をすりむいただけでも、ダリアは骨折したように大騒ぎする。  
フットボールがしたいんだ、とグレンが告げた時の顔と言ったら、マスクなしのハロウインパーティーと言ったところだ。  
落ち着かせるためにいくつかの手はある。口で語ろうとしてはいけない。表情で語るのが最も有効な方法だ。  
言葉を発するのはこれという時でなければいけない。  
グレンは長い経験で何パターンかの脱出法を見出していて、逃れるのは手馴れたものだったが、今回は自らも混乱していた。  
事実を受け入れるのに時間がかかる。だから、母の恩着せがましいお叱りを黙って聞いている他なかった。  
口を開けば、溜まりたまった鬱憤が吐き出されるかもしれない。どうしてティナが死ななければならないのか。  
なぜロッドが――自分が通報したのだ。容疑者と見られるのは当然だが――ティナを殺さなければならないのか。  
少し前まで気が狂うほど抱き合っていたであろう二人に何が起こったのか。  
今、警察に保護されて、待機部屋で、父と母が当惑している。ロッドはいなくなった。なるほどこれは現実だ。  
しかし、現実と真実は似て非なるものだ。イコールではない。そこにはちょいとしたズレがある。  
父は諦めて溜息をついている。まあ、仕方がないな、と思う。父は疲れている。  
口では「私達が騒いでも始まらんではないか」と母に言うけれど、それは現実であって真実ではない。  
真実はこうだ――「事件に直接関与していないことが分かったので、早く切り上げて帰りたい」  
そのズレにいち早く気づいた人間が勝利する、とグレンは学んだ。そしてそれを勉学やスポーツに活かした。  
ズレを知ることは全てにおいて能率の向上につながる。しなければならないことが見えてくる。  
天才でもない限り、能率の差異が成果を決定づける。さて、真実は何処にある?  
分かるはずもなかった。グレンは諦めて、母が安定するまで、自分の身体を貸してあげようと思った。  
 
ああ、神様――なんてことでしょう!ダリアは相変わらず喋り倒している。長いブラウンの髪がグレンの首に巻きつきかかっている。  
血の臭い!血の臭いがする!早く帰ってあったかいシャワーを浴びましょう、ああ痛かったでしょう、  
ぶってごめんなさいね、ママあなたが悪いだなんてこれっぽっちも思ってないのよ、分かるでしょう、  
いいのよ、あなたは何も心配しなくていいのよ、忘れていいのよ、忘れなさい、今日あったことはみんな忘れてしま――  
しかし、忘れてはならないことが一つある。それは息をすることだった。  
ダリアがひきつけを起こしたところで、ジョーイと名乗った刑事が呼びかけた。  
「奥さん、どうか、落ち着いてください。これから調書を取らないといけないのでして。お子さんを少しばかりお借りします」  
ダリアは大きく息を吸って叫んだ。今度はもっと長いこと喋ってやるぞと思いながら。  
調書!調書ですって!ああ――この子は本当にいい子なんです、こんなことに巻き込まれる子ではないんです、  
学校ではずっとクラスで一番だったのよ、ねえ、本当ですの、フットボールでも表彰されたのよ、  
いずれ卒業生総代になって――そこでグレンが母の頬をすっと撫でた。精一杯の笑顔を作った。  
いつものような自然に出る笑顔ではなく、目はこうしろ、口はこうしろ、命令によって顔の筋肉が総動員された笑顔だった。  
しかしそれでもグレンの笑顔は一級品だった。ダリアはその顔を待っていた。完璧な息子が自分のためだけに作った最高の贈り物。  
やはり彼女は惚れ惚れした。彼女のみならず世の女性のほとんどが――白人、黒人、黄色人、  
全世界何人であろうと頬を緩めて抱きつきたくなってしまうに違いなかった。差別を許さぬ笑顔だった。  
ダリアはいてもたってもいられなくなる。街中に息子の素晴らしさを説きたい気持ちでいっぱいになる。  
それが息子の足を引っ張ることに気づいていても、我慢できなくなる。  
「ママ、心配かけてごめん。でも、僕なら大丈夫さ。協力できることがあれば、しなきゃならない。  
 そうすることが正しいことだと思うから。だから、落ち着いて」  
グレンの締まった唇がダリアの頬に触れた。「ね?」ダリアは目を閉じて、胸を押さえた。  
自分がどれだけ感動しているかを確かめて、グレンをきつく抱きしめて、頬に何度もキスをした。  
ややもすると、ダリアのそう言った阿鼻叫喚の数々はこの行為を望んだがために行われているのかもしれなかった。  
完璧な息子による完璧な愛撫を。また完璧な息子に母の立場を超えて愛撫することを。  
 
さて、家に帰ってからは、ゆっくりシャワーを浴びる暇などもらえずに、電話工作のことで再びダリアのヒステリーに晒されたわけだが、  
そこからはグレンもいくぶん落ち着いて来たので、いつものようにやり込めて、たっぷり湯の入ったユニットバスに身をひたすことができた。  
朝になり――やはり一睡もできなかったのだが――朝食を取ったあと、部屋に篭った。  
ダリアは悪徳看守のごとき形相で、今日は一歩も外から出てはいけません、と扉の前に立ちはだかった。  
グレンは自分の部屋でニュースをまじまじと見つめた。彼は論理的思考を得意としていたので、その怖さも知っていた。  
つまりできるだけ仮説を打ち立て、信頼性と妥当性を頭の中で繰り返し検証することも忘れなかった。  
そして自らが作り出した仮説のどれもがロッドが犯人であることを示していた。  
グレンは珍しくいらいらして、無理やり真犯人がいる仮説を探した。犯人が存在しない事故の可能性も探った。  
それらは非現実的な妄想と呼べるものにしか過ぎなかった。彼はついに最終的な結論を下した。  
ロッドは何らかの理由――おそらくドラッグを用いたか、もしくは他の理由で、ティナをナイフで刺し殺した。  
工作のために、鍵をかけて、あたかも他に誰かいるような素振りで叫んだ。最後に隙を見て逃げだした。Q.E.D  
その時、グレンの頬を一筋の涙がつたった。なあ、どうしてこんなことになったんだ?どうして――。  
グレンは初めてあの三人が自分にとっていかに大きなものであったか気づかされた。  
彼らの前では自然体でいることができた。妬みややっかみ、憧れや尊望、それらの眼を意識することはほとんどなかった。  
現実、真実、その間のずれ?どうでもよかった。頭を空っぽにして話し合うことができた。正直につき合うことができた。  
それが失われてしまった。永遠に。  
CDラックから「Devid Bowie」の「Ziggy Stardust」を取り出してヘッドホンを被ってベッドで仰向けになった。  
「Five Years」「Soul Love」「Moonage Daydream」「Starman」「It Ain't Easy」  
そして「Lady Stardust」が流れる頃には、涙が乾いていた。グレンは火星から降りてきた蜘蛛を思い浮かべた。  
時々――何かの拍子に、彼は周りの人間がそう見えることがある。おかしいぞ、こいつら、と思う。  
いやおかしいのは自分かもしれないと考え直して、小さな箱の中に閉じ込められているような気持ちになる。  
Oddeyeの詐欺師Ziggyが言うように彼ら――それら、はブギーしている。下らないことで一生懸命になっている。  
人生を磨耗させている。それは常に母から始まる。なぜ母は自分のことであんなにも一生懸命になれるのだろう?  
それが母性なのだろうか?いや――大まかな答えは出ているのだが、その答えに疑問を投げかけたくなる。  
「Devid Bowie」は「Lady Stardust」の流暢で感傷的なメロディに乗せて  
And he was all right.My friends are all together、と歌っていた。  
グレンは笑った。はは、いったい何がall rightだよ。何がall togetherだ。  
そうして、曲が終わると、いつものように彼はいきり立つ母親を説き伏せて学校へ向かった。  
ナンシーが悪夢から覚めて、教室を飛び出すちょうど一時間前のことであった。彼はもう前向きに切り替えていた。  
今しなければいけないこと――それはナンシーを守ること。ナンシーと話合うこと。ナンシーまで失わないこと。  
 
「なにって、会いたくなったんだ、おっ」  
グレンは足を滑らせて、窓のへりに顎をぶつけた。落ちる!と思ったナンシーがとっさに駆け寄って、  
腕に触れて、男だ、と思った瞬間に、また手を離してベッドまで逃げた。  
「どうしたの?」  
グレンが笑った。ナンシーは一瞬気が緩んだが、すぐにその安らぎが痛みにとって変わった。  
そんな眼で見ないで、と言いそうになった。自分は汚れているのだから。  
「おじゃまします」  
グレンがようやく部屋に入った。一度ぐるりと見渡して息を飲んだ。空き巣が入ったようにいたるところに本が散乱していた。  
これは予想していたよりもひどいことになっているな、と彼は思った。  
もちろん彼の予想とはティナとロッドの事件によってもたらされた精神的外傷だった。  
さて、失敗は許されない――あの夜のようなことは二度とあってはならない。  
「それ以上……こないで」  
「何もしないよ。誓って」  
その通りだった。何も夜這いに来たわけじゃない。話し合うために来たのだ。しかし、こないで、とは?  
「いいからじっとしてて」  
状況が圧倒的不利にあることをグレンは認識した。開いた窓に腰掛けて、はっきり言った。  
「分かった。それ以上行かない」  
「……通り挟んで家が向かいだと便利なものね」  
ナンシーは本当はそんな風に言いたくなかった。でも発せられるのは憎まれ口だ。  
彼女にとって、グレンは今、もっとも会いたい人であり、同時にもっとも会いたくない人でもあった。  
その矛盾を解消するのに彼女自身どんな手立ても見つけられなかった。  
「今、親父さん、いるの?お母さんは大丈夫?」  
「分かんないわよ、そんなこと」  
ふう、とグレンは溜息をついて、ベッドに向かおうとした。「こないでって言ったでしょ!」  
グレンは歩みを止めた。「聴こえるぜ、下に」言ったあとで、何だか本当に強姦魔みたいなこと言ってるな、と思った。  
しかし、尋常じゃない。どうしてそこまで怯える必要がある?考えられるのはただ一つ、二段ベッドからぶら下がった醜態だ。  
「前のこと……悪かったと思ってる」  
ナンシーは眼を哀しげに逸らした。違う、私は犯されたのだと言いたかった。  
あなたの100%じゃなくなってしまった、触れられるのが怖い、  
あなたの笑顔が怖い、あなたのペニスが怖い、今だって、震えているのだと。  
 
「違うの」  
「何が?」  
「とにかく、違うの。それで言ってるんじゃないの」  
「説明してくれないと分からな」  
「うるさい!」  
ナンシーはベッドの上でうずくまって、顔を下に向け隠した。何も聞きたくなかった。  
グレンが歩みを進め、ベッドに座った。気づいたナンシーが後ずさりして、ベッドから落っこちそうになった。  
「そこ、どいてよ。大声出すわよ」  
もう出してる、と思いながらグレンは素直に立ち上がり、ぐるりと回って、ナンシーの学習机に腰掛けた。  
「本は?片づけるの手伝うけど」  
「帰って」  
さあ、ここで引いてはいけない、とグレンは思った。ここで帰って何になる?  
次に会う時は事態がもっと悪くなっているに違いない。教訓だ。目を閉じるな。背けるな。向き合って一つ一つ片づけていけ。  
今、部屋に散らばっている本を一冊一冊本棚へ収めるように。  
「聞いたよ。午後から学校に行ったんだ。探したんだけど、クラスの奴らに訊いたら……早退したって。  
 アービン先生にも聞きにいった。凄く、動揺してた。あのミス」  
フランケンが、と言おうとして、止めた。  
「アービン先生が、おろおろしちゃって、逆に色々聞かれたよ。何か知ってることないかって。  
 まあ、だから来たわけじゃない。それはどうでもいい。でも、うなされたんだって?」  
ナンシーはわざとグレンに背を向けて、何処か遠くの方を見るような眼をして、言った。  
「あなたの家はどうもなかったの?」  
さあ、一つ目の扉が開いたぞ、とグレンは思った。少なくとも今すぐ出て行って欲しくはないらしい。  
「どうもこうも。大変だね。ママは一日中騒いでる。午後から学校に行くのだって一苦労さ。午前中はさぼってテレビ見てたよ。  
 でも、面白いものなんて何もないね。通信販売だの、美味しい手料理の作り方だの、我慢できなくなって、学校へ行ったよ。  
 終わってから練習にも出た。コーチは相変わらずだね。海軍の教官だってもっとマシだと思うよ。  
 おら走れ走れ走れ走れ走れ走れっ――!そうそう、マークがまた尻ひっぱたかれて……」  
「そんな、気の使い方、しなくていい……」  
「ごめん」  
ナンシーは自分が迷惑をかけているのだな、と思った。生真面目な彼女には耐えられないことだった。  
お互いに少し黙った。グレンはまたやってしまったな、と思った。どうもナンシーの前では上手くできない。  
ナンシーは考え始めた。初めの波を乗り越えたおかげで、少しは恐怖心も薄らいで、頭が働くようになっていた。  
そして色々と考えたあげくに――自分はどうせ死ぬのだから、グレンを巻き込むつもりはないが、  
真実を伝えておくべきではないか?と思った。もちろん夢だ何だの言うつもりはない。  
ただ、グレンの中で、ロッドがティナを殺したことになっているのは、いたたまれなかった。  
「ねえ、ティナをああしたのは」  
グレンが右手を前にしてさえぎった。  
「やったのは」  
間延びした声だった。  
「ロッドだ。その話はやめにしよう」  
 
また沈黙が降りてきた。ナンシーはそのことについては諦めることにした。  
やはり知れば――グレンのことだから、信じられないだろうし、また理由を聞いてくるに違いない、と思った。  
部屋は相変わらずしんとしていた。死体が二つに増えただけで、目覚まし時計の針だけが律儀に歩みを進めていた。  
ナンシーは耳を塞いで、誰も彼もいなくなってしまえ、と念じた。  
いったんそう思うと、脳がふわふわと浮かんでいくような感覚に襲われた。  
眼を閉じて、瞼の裏側で、ナンシーは海を見ていた。透き通るような海、三角座りの姿勢で、身体がゆっくり沈みこんでいく。  
そして溶けていく。やがて青黒い海底に辿りついた時は、脳液がじっとり染み出ている。何も考えられなくなる。  
深海魚になる。光が届くこともない。しかしそれを望んでいる。もう終わりだ、と思った。  
「もう、会わない方がいいかもしれない……」  
ナンシーの呟きが沈黙を破った。グレンは眼を見開いた。なんだって?  
「……どうして?」  
「だって、私は――」  
レイプされた。夢の中で、前からずっとされていた。それに眼を背けて取り返しのつかない傷を負った。  
「我侭で、鬱陶しくて、今だってあなたを拒絶するどうしようもない女だから。あなたにふさわしくないから」  
「…………」  
「自分が嫌で嫌でしょうがないから。誰にも会いたくないから。薄暗い牢獄にいたいから。そうあるべき女だから」  
そこまで聞いて、グレンは自分の中から湧き上がるものを感じた。抑え切れなかった。  
上手くやれとか下手だとか、どうでもよくなってきた。  
「……やめてくれよ」  
押しつぶされそうな声だった。ナンシーははっとしてグレンを見た。苦悩に満ちた表情だった。  
「僕は、そんな風に思ったこと、一度だってない。だから、そんな心配するのは間違ってる。  
 我侭とか、鬱陶しいとか――全然逆だよ。僕は」  
僕は?グレンは少し混乱していた。僕はいったい……何者だろうか?  
「僕は、君がいるから頑張れるんだ。これまで頑張ってこれた。辛いことがあった時、しんどいなって思った時、  
 君の顔を思い浮かべて、君にふさわしい男になろうって思って、だったらくよくよしてちゃいけないって、  
 こんなことでへこたれてちゃいけないと思って、元気がわいてくる。  
 僕は――嫌味に聞こえるかもしれないけれど、今まで自分でも上手くやってきたとは思う。  
 でも、足りないものがまだまだある。それを君は、確かに、持ってる。  
 一生かけても僕が絶対に手に入れられないだろうなと思う何か。絶対に失いたくない何か。  
 上手く言えないけれど、君といると、僕はどこまでも――世界の果てだって行けそうな気がする。  
 時々100kmだって走れそうな気持ちになる。走って、叫びたくなる。でも何て言えばいいのか分からない。  
 好きだとか愛してるとか月並みな表現しかできない。言葉が見つからない。でも愛してる。必要としてる」  
「……うそ」  
 
ナンシーは泣いていた。意識せずとも両の眼から涙がこぼれた。  
そして、やはり頼れる人はグレンしかいないのだと思った。  
この震えを止めてくれる相手は。恐怖から救ってくれる相手は。だけどまだ信じられない。  
「うそ!うそよ!そんなの絶対うそよ!」  
「嘘じゃないよ!僕は君がずっと好きだった。僕がここに越してきてからずっと。  
 初めて会った時、まだ七つだったと思うけれど、その時からずっと。  
 でも言い出せなくて、十四になるまで――本当に長いな、七年って――」  
「知ってるわよ、そんなの!十四の時に聞いたもの」  
「そうだね」  
風がふっと窓から入り込んできた。転がる本のページをぱらぱらめくった。ナンシーの中で、何かがよみがえりつつあった。  
薄っすらと光が当たり始めた。ナンシーは手を握って開いた。自分がそこにいることを確かめるために。  
海底から浮上するために。自分を取り囲む牢を破るために。  
「私が何て言ったか覚えてる?」  
「覚えてる。『私はあなたを嫌いにならないけど、あなたが私を嫌いになるのが怖い』」  
「私は嘘つきね」  
「僕のこと、嫌いなのか?」  
ナンシーは顔を上げた。水面から顔を出して、真っ直ぐグレンを見た。  
「……いいえ」  
「じゃあ、嘘じゃない。それに僕は言った。一生君を嫌いになんてならない。何があっても。どうなっても」  
そう、嘘じゃない。今でも私はグレンが好きだ、とナンシーは思った。  
その瞬間、世界が広がった。空気が変わる。息ができる。周りが見える。  
グレンにこの震えを止めてもらいたくなる――。  
「ねえ、グレン、お願いがあるの」  
「なに?」  
「そっと……抱いてて、私が眠る間。私の横にいて。でも、何もしないで」  
「何もしないよ。誓う」  
「この前、私もしたかったのよ。したくてたまらなかったの。でも、そうするわけにはいかなかったのよ。  
 本当よ、嘘だと思わないでね。あの時、あなたのことだけ、考えていたかったから、できなかったの。  
 それで、あなたはしたいって思ってたのに、私はどうして――」  
ティナみたいに、と言いそうになって、止めた。  
死者の名はその者が死んでから短ければ短いほどできるだけ葬り去られるべきものだ。  
「終わったことだよ。僕も間違えた。だから気にするのはやめよう」  
「……こっち、来て。狭いかもしれないけど」  
「十分さ。前もそう言った。でも」  
「でも、なに?」  
「学校で、怖い夢……見たの?」  
ナンシーは首を振った。「何も聞かないで、お願い」  
「分かった」  
 
二人は電気を消して、部屋と窓の鍵を閉めて、ベッドにもぐりこんだ。毛布は被らなかった。体温だけを求めた。  
お互い向き合う形で、ナンシーは自分の胸に手をやって、胎児のような格好でグレンの胸に頭をつけた。  
グレンはそんな彼女を包み込むようにして抱いた。柔らかかった。  
首から背に置いた手が圧縮した雲の上に置かれているようだった。ナンシーは相変わらず良い匂いがした。  
次第にグレンのペニスが勃起し始めた。水に溶かした若布のように本来の大きさを取り戻していく。  
バカ、こんな時に、とグレンは思った。おいおい、ここまで来て、また同じことの繰り返しなのか――。  
ナンシーはもちろんそれに気づいていた。太股に触れる感触。やはり身体が震えた。  
とっさにフレディの顔が頭に浮かんだ。より縮こまって、まずはその顔を追い出そうとした。  
それから、グレンの顔をいっぱい思い浮かべた。男の匂いを嗅いだ。  
あいつとグレンは違う、と何度も心の中で繰り返した。  
「ごめん、なんとか、落ち着かせる」  
その言葉を聞いて、ナンシーは確信した。やはり自分達が正しいのだと。  
鉤爪の女の狙いは自分の精神を少しずつ追い詰めていくことにあるのだと。  
ならば、あいつの思い通りになってはいけない。克服しなくてはいけない。  
「ねえ、そういうのって、我慢しようとして、できるものなの?」  
「難しいけど、やってみる」  
「そういうことじゃないの。意志とは無関係に、そうなっちゃうの?」  
「ああ」  
グレンはどうして、そんなことを聞くのかな、と思った。  
そして、女の身体に触れながら欲情を沈めるという最も難しい行為にチャレンジした。  
まずは呼吸を整えて、鼓動をゆっくり、どきどきする気持ち、そう、落ち着いて、冷静に。  
「苦しくないの?」  
ナンシーは率直に聞いた。ジーンズにペニスの跡が浮き上がっている。墨をつけて拓を取れそうなくらいに。  
「苦しいよ。でもしょうがない」  
「ちょっと、待ってて」  
ナンシーはベッドから降りて、机の脇においてあるティッシュ・ペーパーの箱を持ってきた。  
四五枚抜き取って左手に添えると、またグレンと向かい合った。  
「あなたが苦しんでるのは嫌なの、だから」  
ナンシーはグレンのジーンズのジッパーを降ろした。  
ピンク色のペニスはもう、トランクスの上まではみ出すくらい勃起していた。  
それを見て、空元気に近い感じで言い聞かせた。  
何よ、あいつのものなんて、グレンのに比べたら大したことないじゃないの。  
 
「自分で、ボタン外してくれる?」  
「いいの?」  
「早くしないと気が変わっちゃう」  
グレンは急いでボタンを外してトランクスを膝まで下ろした。  
巨大なペニスが勢いよく飛び出して、ぶらんぶらんと上下した。  
「変なこと聞いていい?」  
「いいよ」  
「初めて見た時も思ったんだけど……これって大きい方なのかしら?」  
「だと思う。クラブの連中はお前の半分くらいしかないって言う奴もいる。実際、そんなもんだった」  
「じゃあ、余計苦しくなっちゃうね」  
そう言って、ナンシーは右手を伸ばした。やはりまだ怖かった。手が小刻みに震えた。  
一度眼を閉じて深呼吸して、心の中で唱えた。  
触れること――それで、乗り越えられる、グレンをまた信じられる、あいつに抵抗できる。  
まずは人差し指でそっと触れた。「上手くできないかもしれないけど」  
右手で包み込むように握る。  
「やってみる、前みたいに」  
ゆっくりグラインドを始めた。その時、グレンの顔を見た。何処で感じるのか調べるために。  
時々、カリの部分を人差し指と親指でこね回すようにすると、眼を閉じて息が荒くなるのが分かった。  
尿道の部分をたまに人差し指の腹で撫でると、むむ、と我慢したゆえの声が漏れた。  
前はそんな余裕はなかった。自分のことだけ考えていた――指を動かしながら、ナンシーは思った。  
今、グレンのペニスに触るという行為はグレンのためだけじゃない、自分のためでもある。  
そうすることによって、震えが止まるかもしれない、なんだかそんな確信めいたものがあった。  
そしてグレンの気持ちが知りたかった。今触れているペニス以外に、もっとたくさんのことを。  
「自分ですることもあるのよね」  
グレンは少し躊躇して、荒げた息で答えた。  
「あるよ」  
「それって毎日?」  
「毎日しないよ。三日にいっぺんくらい」  
自分と同じだ、とナンシーは少し安心した。  
 
「自分でする時って、何考えてるの?」  
ペニスを握られた童貞の男に、どう言おうか、と考える余裕は残されてない。  
頭の中はナンシーで埋め尽くされていた。細い女の指がもたらす爆発的な妄想でいっぱいだった。  
「きみ……のこと」  
「本当に?」  
「ほん……と」  
「あなたの頭の中で、私はどうなってるの?」  
「裸に……なってる」  
「綺麗?」  
「うん……」  
「裸の私も好き?」  
「好き……」  
もし私が処女じゃなくても?犯された女だって知っても?それだけは言えなかった。  
それはグレンをのっぴきならない災難に巻き込むことを意味している。  
しかし、きっと、受け入れてくれるに違いない、とナンシーは信じた。  
「そのまま、ずっと想像してて」  
やがてグレンは射精した。四回ペニスが脈動した。  
ナンシーは左手でティッシュを構えていたが、一発目は上手く受け止めることができなかった。  
勢いが強すぎて、飛んでいった精液はサン・テグ・ジュペリの星の王子様が毒蛇に噛まれるページへ降りかかった。  
二発目は上手く亀頭にティッシュをかぶせることができた。出せるだけ出させてあげよう、とナンシーは思った。  
だから、出している間も手を放さずに、ずっとペニスをしごいていた。  
全てが終わると、ペニスは放電しつくした電気ウナギのようにぐったりしていた。  
「すっきりした?」  
「ああ、でも約束」  
「破ってないわよ。私が勝手にしたんだから」  
「そういう考え方もあるね」  
「そうよ」  
ナンシーは笑った。それはグレンが今までに見たことのない女の顔だった。艶っぽかった。  
ナンシーはグレンの腕に抱かれて、まどろみながら思った。やはり、戦わなくてはいけない。  
このまま死ぬのを待っていても何にもならない。勝算などまったくない。  
しかし、あがいてやる。できるだけやってやる。  
ティナは死してなお、あの悪魔に囚われている。助けたい。  
そのためには、ロッドに会いにいかなくてはならない。ロッドの無実を晴らしてやる。  
今は戦いの前の休息だ。ゆっくり休むことが必要だ。大丈夫、グレンが傍にいてくれる。  
グレンの温もりが自分を守ってくれる。眠ったって、あいつは出てこない。  
 
ナンシーが女になった夜はそうやって更けていった。  
幸い、マージはまだ昼の酒が残っていて、早々に寝てしまっていた。父は帰ってこなかったし、夢は見なかった。  
 
(to be continued→)  
 

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