−Squeeze−  
 
ナンシーはロッドの安否も忘れて走った。  
商店街を駆け抜けて、立ち止まり、とぼとぼ歩いて、そこで初めてロッドの言葉を思い出した。「ナンシー、力を貸してほしい」  
ナンシーは前も見ずに歩きながら、ロッドの告白について思推を重ねた。  
ロッドは本気で、ティナを殺したのは鉤爪の女だと思っている。本気でなければ危険を冒してわざわざ自分に会いに来るだろうか?  
ロッドが殺人犯ならば、自分に会いに来るメリットなどないし、人質に取ろうなんて気はまったく感じられなかった。  
それに理屈ではない。ロッドと向かい合った時、どっぷり悪に浸かった狂気とは違った、善の側にいるものの強い力が感じ取れた。  
だから気圧されたのだ。以前、喧嘩で捕まった時のロッドとは別人だった。  
あの時の方が口調は激しかったけれど、面食らったりなんかしなかった。ただ、そんなことでムキになるロッドが可哀想に思えて、  
そう思う自分がロッドを上から見下ろしているのではないかと恥ずかしい気持ちになって、苛立って黙り込むしかなかった。  
ティナを泣かせたので、張り飛ばしてしまったのだけど、それはとっさにやってしまったことだ。  
さっきロッドのことを怖く感じたのは、向けられたのが覚悟を決めた者の眼だったからだ。  
やはり鉤爪の女がティナを殺したのだ、ナンシーは、今はそう信じることにした。  
狂人と罵られても構わない。深くつながりあった仲間の言葉を信じたかった。  
しかし、力を貸してほしいと言われたって、何ができるだろうか。  
相手が暴漢の類であれば対策の講じようもあるが、夢に現れる不可思議な力を持った怪物にどう対処すればよいのだろう。  
まして、ロッドは捕まってしまった。これから警察署でみっちり取り調べを受けて、留置所に放り込まれた後で、  
圧倒的不利な裁判を闘って、二十年三十年単位の懲役刑、悪くすれば終身刑や極刑に処されるのではないか。  
なるほど眠れば鉤爪の女に遭えるだろうが、警察署に拘束されたままでは準備も何もしようがない。  
それ以前に、何を準備すればいいのかも分からない。  
ただ一つできることは、そう――できるだけ眠らないことだ。重度の不眠症患者になればいい。  
一部の脳内物質を異常に分泌させて、夜も夕も昼もなく屍肉を貪るゾンビのように、何ヶ月に渡って起き続けるしか道はない。  
或日突然、ふらりと夢に入り込んできた鉤爪の女は逆もしかりで夢に出てこなくなるかもしれない。  
そこまで考えて、ナンシーは大きく息を吐いた。下らない考えだ。まったく馬鹿馬鹿しかった。  
できもしないことをただつらつらと並び立てただけで、何の解決にもなっていない。  
 
プレイ・サーヴィルに着いた時、校舎にかけられた時計は八時五十五分を指していた。  
一時間目の授業が始まるまであと五分というところだ。  
遅刻を恐れた数人の生徒がナンシーの後ろから走って来て脇目も振らずに通り過ぎた。  
あとの何人かはナンシー同様別段遅れても構わないという風に歩いていた。  
正門をくぐり、校舎の中に入って、一階の教室へ向かった。まだ始業のチャイムは鳴らされていなかった。  
教室に入った時、どうやらティナの死は周知となっていたらしく、クラスメイトがちらちら流し目でナンシーを見てきた。  
そして、対象者には決して聞かれてはならない会話を始めた。  
ナンシーが眼を向けると、視線の先にいる者は次々に眼を逸らした。なんだか自分が悪いことをしているような気分になった。  
 
一時間目はラテン語だった。終業のチャイムがなり、三階へ移動して二時間目、また一階に戻ってきて三時間目が終わったあと、  
売店で一人、サンドイッチを買って、中央広場を通り過ぎ、裏手へ回って、誰もいないのを確かめてから、校舎の壁にもたれて座った。  
やはり家でじっとしていた方がよかったかもしれない、とナンシーは思った。  
教室へ移動する度に皆の視線が気になって仕方ない。授業を抜け出して自習室や図書室に篭ろうかと思ったが、  
そうするのは自分に降りかかった不当な出来事に対して敗北を認めたような気がして嫌だった。  
ナンシーは、プレイ・サーヴィルにおいて、黄色い歓声を浴びるグレンや、男の子達の視線を集めるティナや、  
ユーモアセンス溢れる不良ロッドとは、異なるカテゴリイに属している。  
教室でもグラウンドでも学校の外でも目立たない、かと言って影が薄すぎるというほどでもない。  
平たく言えば一般的なイメージを持たれている。  
何もハイスクールに入学してからの話ではなく、物心ついてからずっとだ。  
だから、ごく稀にナンシーが激昂すると、周囲はぎょっとするはめになる。  
ナンシーは自分のことを地味な女だと思っていたし、その分析は服装に関して正しかった。  
春から夏はポロシャツにジーンズ、秋から冬は胸が目立たないようにセーターを好み、時にはスタジャンを着たりした。  
ハイヒールやキャミソールなど手にしたことは一度だってなかった。  
十月も半ばにさしかかろうかという今日は、シャツの上に薄いピンクのセーターを羽織って、  
下はベージュのチノパンを太めの黒いベルトでしっかり締めて、スポーツ少年が好んで選ぶような大きなスニーカーを履いていた。  
色を除いて男に着せても特に違和感がない取り合わせだ。  
こんな風だったから、ナンシーは大勢の他者に視線に慣れていなかった。  
にもかかわらず、朝、家を出てからずっと誰かに視られていた。  
父を含む張り込み中の警察官、ロッド、そしてクラスメイトや教員達。  
したがって彼らから解放されるや否や、強烈な睡魔が彼女を襲った。  
昨日から一睡もしていないのだから当然なのだが、やはり眠るわけにはいかなかった。  
自分に、いや自分達に漠然とした生命の危機が迫っているのが、はっきりと感じられたからだ。  
今は眠らないことだけを考えよう、そう言い聞かせて、無理やりサンドイッチを腹に詰め込もうとしたが叶わず、  
もう一度売店へ戻ってブラック・コーヒーを一缶買った。  
蓋を開けて黒い液体を一気に胃に流し込んで、午後の国語の授業に出た。  
 
国語の授業では一番後ろの席だったので、それまでよりはクラスメイトの視線を気にせずに済んだ。  
ただ、ぽっかり空いた一つの席はどうやっても目に入った。ティナが座っていなければならない場所だった。  
昨日の夜のように胸が苦しくなった。  
チャイムが鳴り、アービン先生がいつものように上品にドアを開けて教室に入ってきた。  
教卓に『現代国語の総覧』を広げ、以前進んだところまでのページを指定した。  
アービン先生は不測の事態においてこそ平静を努めるべきだと考えていたので、  
困惑や憐憫に満ちた眼でナンシーを見なかったし、席に座っている以上は特別扱いするつもりもなかった。  
ナンシーにとってそれはいつもの授業風景と何一つ変わりがなかった。ティナがいない以外は。  
 
アービン・ドネルは新任の頃からプレイ・サーヴィルにもう三十年も居座っている未婚の女性教員で、  
今席についている子供達の父や母にも虚構の世界を愛する素晴らしさを説いたベテランだった。  
髪を後ろに束ねていて、何本かの白髪がメッシュを入れたように目立って見える。  
昔はどうだったかナンシーは知らないが、今のアービン先生は見事な中年太りで縁なしの細長い眼鏡をかけている。  
墓石を削ってできたような縦長の輪郭、粘土で作ったような鼻が中心に添えられて、  
おまけにおでこが不必要に広かったので、生徒達は彼女を陰でフランケンと呼んでいた。  
無骨な容姿にも関わらず振る舞いは英国貴族のように上品なので、そのミスマッチが時に生徒達の話題の種となった。  
学習の平和を守るために注意する時、彼女は表情を変えずに顔をぐっと寄せて象のような眼をして、  
一言二言発するだけなのだが、あの顔で迫られてしまうと、誰でも気後れしてしまう。  
そういうわけで、国語の授業が行われている時には、例え就職クラスの教室であっても常に静寂が保たれていた。  
アービン先生は指定したページを眺めて、前回の授業で何処まで進んだかを、  
先頭の最も教卓から近い席に座っているジョシュに尋ねた。  
確認するや頷いて、農夫のような厚みのある手を二回ぱんぱんと叩いた。  
授業の内容は、ここ一週間取り掛かっているシェイクスピアの作家としての態度に対する考察だった。  
源流を探ると言い換えてもよかった。  
アービン先生は縦四列横八列に並んだ机と机の間をねり歩きながら、諭すような口調で説明を始めた。  
「眼に見えるものが、常に真実とは限りません。シェイクスピアによれば――人間を動かすもの。  
 それは人間そのものの中にある邪悪なもの。シェイクスピアはそれを『悪の種』と呼んでいます。  
 ハムレットもこれに動かされて、母親の偽りの言葉の奥にあるものを探り出し、掘り起こします。  
 ちょうど墓掘り人が、地面の下を掘り起こそうとするように。ジュリアス・シーザーにおいても同じことが言えます」  
そこまで言うと、アービン先生は教室の真ん中まで歩いて、立ち止まった。  
「それではジョシュ、続きを読んで」  
ジョシュが下を向いたまま席を立って、教卓の前まで歩いて「現代国語の総覧」を広げた。  
「あー……ローマの輝かしい最盛期。偉大なシーザーが斃(たお)れる少し前。  
 多くの墓は荒れ……起き上がった屍は街のあちこちで大声で喚き散らし……」  
ナンシーは眠くてたまらなかった。小説を読むのは好きだが、国語の授業は退屈でしかたない。  
周囲が常に静かであることや、アービン先生の女性にしては恐ろしいほど低い声にも原因があった。  
ナンシーは右手で口を覆って、一つ大きく欠伸をした。  
コーヒーがもたらしたカフェインの刺激も、徹夜明けで疲れ果てた身体のシンプルな欲求の前ではささやかな抵抗に過ぎなかった。  
「……炎の尾を引く星や、血のように赤い露など、不吉な前兆が表れ……海神(ネプチューン)の帝國が立ち現れた」  
瞼がゆっくりと降りていく。  
「神よ。私は小さな殻の中にいて、なお無限の空間の王となれる。それは」  
ジョシュの声はナンシーへ途切れ途切れに届いていた。殻の中?王?いったい殻と王に何のつながりがあるの?  
「私の見た」  
頬を支える手がずりずりとこめかみまで上がっていく。  
「『悪夢』だったのかもしれない……」  
――悪夢?  
 
ナンシーは、はっと目を開いた。そうだ、決して眠ってはいけないのだ。自分の置かれた状況を再認識する。  
頬杖を崩して右に顔を倒したままの姿勢で、意識的に大きく瞬きしていると、  
どういうわけかジョシュの声が止まっていて、隣の席のカークが関わり合いになりたくないぞ、という風に眉をひそめている。  
正面を見上げると、アービン先生の面長な顔がすぐ近くに迫っていた。  
ナンシーはあっと声が出そうになるのを堪えて、頭を下げた。  
「お目覚め?」  
「すいません……」  
教室のところどころでくすりと笑いが起こって、国語の授業では珍しいひそひそ話が始まった。  
それはすぐに「静かに」と場を諌めたアービン先生のみならず、失意のナンシーを苛立たせるのに十分な行為だった。  
ナンシーには、ティナの死を前にして何故笑うなんてことができるのか理解できなかった。  
言いたいことをはっきり言わない性分にも腹が立った。  
想像力が足りない愚者や密談を続ける卑怯者を今すぐ殴りつけてやりたかった。  
アービン先生が向き直り、教卓へ歩き始めた。  
「ジョシュ、ありがとう。それでは、次は……ミランダ、読んで」  
ジョシュが自分の席に戻ったあと、その後ろにいるミランダが、  
ロボットのように腰から下だけを動かして立ち、九十度の旋回を繰り返して教卓の前へ移動した。  
ミランダはまるで社会主義国家の役人が声明文を読み上げるように、  
両手を真っ直ぐ伸ばして、裏返るくらい教科書を押し広げた。なぜか、表情がなかった。  
「自然と手が伸びてしまう。私は、こんなに……ディー、エイ、エム。先生、この部分がよく分かりません」  
しまう、まで聞いたところで、ナンシーは声を挙げそうになった。  
ちょっと貸してごらんなさい、とばかりにアービン先生が教科書を引っ張り上げ、ミランダがそれに合わせて人形のように傾いた。  
「これはdampです。湿っている。どんより。暗いイメージ。水蒸気のように湯気が立っている状態を想像してください。  
 本来dampは意気消沈するという意味でも使われます。  
 humidでも、wetでも、moistでもなく、著者はなぜ、dampを選んだのでしょう。分かる人」  
damp、damp、damp。頭の中で同じ単語が幾度も繰り返される。  
ナンシーは首を左右に振って周囲に眼をやった。異様な光景だった。  
存在するものは普段の授業と変わりはないのだが、座っているクラスメイト達が皆同じ姿勢で、  
それもやけにかしこまった座高を測る時のような姿勢で、真正面を見据えている。  
それはまるで戦没者の共同墓地のように思えた。4×8−2の狂気であった。  
30人が一斉に手を挙げた。ハイル・ヒットラー!  
「では……、ランディ」  
ちょうどナンシーの斜め前に座っているランディがミランダと同じように機械的に立ち上がった。  
「はい。本文には『特に不満はない』とありますが、著者は実際のところ、満足しているとは言い難い状況にあると思います。  
 後述にオナニーしながら『独りでイクのは嫌』とありますし、冒頭に『少なくとも私は』と記したのは、  
 グレンはどう思っているか分からない、深読みすれば、グレンは今の関係に満足していないだろうから、  
 いずれ先へ進むことになるだろう、そうなって欲しい、と考えていた。  
 はっきり言って、著者の勝手な思い込みではないでしょうか。僕はこんな自意識過剰で妄想の激しい……  
 オナニーしながら『私のクリが悦んでる』なんて書く淫乱女とやりたくありません。  
 それはいいとして、著者は二つの矛盾した概念を抱えています。  
 すなわち、グレンに抱かれたいという気持ちと、ペニスを受け入れたくないという気持ちです。  
 矛盾を抱えて悩み、よどんだイメージを表現するために、dampを使ったのだと思います」  
 
「冗長ですが、童貞の割りにいい答えです。座って」  
「童貞は余計です」  
ランディが座った。あは、あは、あは。ランディとティナとナンシーを除いた29人が同じリズムで途切れ途切れに笑った。  
「静かに。重要なポイントですよ。ランディの意見に一つ付け加えるならば……  
 著者が処女、という点にも言及しなければならないでしょう。  
 dampは本来、否定的な意味で使われる言葉ですから、その点からも著者のセックスに対する抵抗が読み取れます。  
 後で説明します。今は、皆さん、アソコから湯気が出ているように、濡れそぼっている状態をイメージしてください。  
 本文では、途中までしか書かれていないので、分かりにくいですね。  
 先を進めましょう、ミランダ、ディー、エイ、エム、で結構ですよ」  
「ええと、ディー、エイ、エム。発情……してるのに、グレンは何をしているのかしら?と考える。」  
ナンシーの頬はもう真っ赤だった。未だに何が起こっているのか理解できないが、  
圧倒的な羞恥だけが認識とは無関係に身体を襲っていた。  
顔は自分が丸めてくしゃくしゃにした日記の一ページのようになっている。  
机の上に開かれた教科書に目を向ける。真っ白な背景が一面どぎついピンク色に変わっている。  
指で端を持ち上げると、耐水加工を施したつるつるの表紙は安物のペーパーブックのようなざらざらの厚手の紙に変わっている。  
一度勢いよく閉じる。紫色の表紙、上に特徴的な太文字で、現代中高生の乱れる性の実態――中央に写真が掲載されている。  
ティナがロッドに後ろから両手を掴まれて、背後からぴったり腰を尻に押しつけられている。  
ティナは背中をそらせて小ぶりな、しかし幾何学的な形の良い胸を突き出し、  
ピンク色の乳首を勃起させて、大口を開けて涎を垂らしている。眼を逸らす。教科書を風がするようにばらばらめくる。  
さっきまで開かれていた――折り目がついているページで止まる。  
おそるおそる目をやる。ピンクの紙にタイピングされた黒文字がやけに際立って見える。  
最も目につく部分、左上、花柄のレース調に装飾された可愛らしい太文字のタイトル――  
『十七歳女子高生ナンシー・トンプソンのあからかな告白』そんな、バカな!  
「ちなみに、そう、ちなみに……今もそうだ。」  
上から目を滑らせるように読んでみると、確かに自分があの時書いた恥ずかしい文章が一語違わず記載されている。  
どうして?もう一ページめくると、文末から余ったスペースに挿絵が添えられている。  
それはアメリカン・コミック調のなるたけ写実的にディフォルメされた絵柄で――  
見覚えのある学習机に座っている少女は眉が毛虫みたいに太く、  
控えめにパーマをあてたはずの髪が爆発したように逆立っている。  
前のめりになって、巨大な乳房が机に押しつけられて左の乳輪から先がはみ出している。  
べろを出して、顔を歪ませて――ナンシーは認めたくなかったが、認めざるをえなかった。  
眼球が戯画の一部一部を知覚して脳に情報を伝達し、脳神経が送られてきた情報を一瞬にしてそれぞれの棚に振り分けた。  
これは、私だ――絵のナンシーは必死に秘所に手を伸ばして、  
ショーツの間から化学反応を起こしたようにもやもやの湯気を立てている。  
背もたれの隙間から女尻の肉がはみ出し、隠されたアナルに向かって大きな矢印が伸びていて、  
根元に書かれた言葉は――カマトト!  
その文字からそう遠くない場所に、今度はサウス・パークのようなタッチで描かれた三頭身の裸のグレン。  
一心不乱に自慰に耽るナンシーを、人差し指をくわえて眺めている。  
野太いペニスを頭の上まで勃起させて、砲身がナンシーの尻に向かっている。  
つぶらな瞳から円錐形の涙を一定の間隔で流して、吹き出しに……やらずぶったくり!  
 
「だから、私はこの日記を書きながら、自分のピー、ユー、エス、エス……」  
「プッシー!」  
教室のどこからか声が起こった。ナンシーを除く全員が笑った。あは、あは、あは。  
「よくできました。pussyは子猫やネコヤナギなどの花、  
 またcatを省略して可愛らしい女の子という用法もありますが、ここでは女性器と考えるのが最適でしょう。  
 下品に発音するのがコツですよ。唾を飛ばすくらいでちょうどいいのです」  
何人かが小声で発音した。わざとらしく唾を飛ばした。  
「それでは、みなさん、やってみましょう。プッシー!」  
プッシー!  
「プッシー!」  
プッシー!  
「ナンシー、どうしたの。声が出てないわよ」  
アービン先生が歩いてきて、また象のような眼をしてナンシーに顔を近づけた。  
「あっ……え……」  
「それではみなさんもう一度、今度は一緒に繰り返してください。プッシー!プッシー!プッシィッ―――!」  
プッシー!プッシー!プッシー!男も女も一緒になって、皆が笑って大合唱だ。  
アービン先生まで細長い眼鏡の奥でにたにた笑って――ナンシーは初めてアービン先生の笑顔を見た。  
それは笑顔と形容するにはふさわしくない邪悪な精神の発露であった。  
直座していたクラスメイト達が一斉に振り返った。全員が無表情だった。  
彼らは光を失った眼で最後尾に座るナンシーを見つめた。60の眼球の牢がナンシーを閉じ込めた。  
口だけが動いている。プッシー!プッシー!プッシィッ―――!  
ナンシーは金切り声を挙げた。目を瞑って、耳を押さえて、机に顔を擦りつけた。  
これは夢だ。悪い夢だ。  
夢?  
急に辺りが静まり返った。ナンシーは目を開けられない。  
静寂を取り戻した教室に、何が起こっているのか知りたくもない。  
何処か離れた別の世界に逃げ出したい、それだけを考えて、あらゆる情報を遮断しようと躍起になっている。  
手の平と耳のかすかな隙間から音が伝わる。初めはそれが何だか理解できなかったが、しばらくして笑い声だと認識できた。  
ハスキーで、下品で、とてつもなく厭らしい含み笑い――ナンシーは顔を上げた。  
教室には誰一人いなかった。ジョシュもミランダもランディもアービン先生も霧のように掻き消えていた。  
一度ぐるりと見渡すが、やはり誰もいない。しかし、奇怪な笑い声だけは相変わらず響いている。  
ナンシーは声がする先を探した。正面――黒板には何も書かれていない。  
目を凝らすと、四角いチョーク入れの下、水平に置かれた教卓の後ろから、  
茶色の平べったい物体が、湖に浮かんだカヌーのようにひょっこり飛び出していた。  
ナンシーが、あっ、と声を挙げると同時に、騙し絵のようにするすると火傷女が姿を現した。  
火傷女はアービン先生がしているような細長い眼鏡を――もっとも縁なしではなく、赤縁の派手な眼鏡をかけている。  
いつもの赤と緑のセーターに黒のホットパンツといういでたちではなく、臙脂色のスーツを身にまとっていた。  
下は何も着けていないのか、両のラペルの間から真っ白い肌が見えている。なんて、サディスティック!  
 
火傷女は帽子を脱いで教卓の上に置き、おかっぱの髪を揺らせて、含み笑いを止めた。  
「さ、フレッド・クルーガー先生のとっときの授業が始まるよ」  
フレッド・クルーガー?  
ナンシーは火傷女の名前を知った。  
そんなことをしている場合ではないのに、脳が勝手に記憶を探り出し、該当者を探した。見つからない。  
すぐに我に返って、席を立ち机を掻き分け後ろのドアに向かって一直線に走った。  
刷りガラスの窓の縁に手をかけて、渾身の力をもって引っ張る。  
扉はびくともしない。鍵はかかっていない。ただ圧倒的な力で外側から閉められている。  
なんで、どうして、おかしい、そんな言葉を口走りながら、ナンシーは拳を作って扉を叩く。  
フレディは教卓に横手をついて、外の景色を眺めながら、奇妙なメロディの口笛を吹いている。  
それに合わせて、どこからか複数の少女達の歌声が聴こえた。  
 
……One Two Freddy's coming for you……  
1、2、フレディが来るぞ。  
……Three Four better lock your door……  
3、4、ドアに鍵かけろ。  
……Five Six grab your crucifix……  
5、6、十字架にすがれ。  
……Seven Eight gonna stay up late……  
7、8、遅くまで寝るな。  
……Nine Ten never sleep again.  
9、10、眠っちゃだめよ。  
 
歌が終わった時、ナンシーはもう扉を叩いていなかった。諦めて、扉にもたれかかるようにして崩れ落ちた。  
フレディが眼鏡を爪で持ち上げて、得意のにやにや笑いを浮かべて寄ってくる。  
ナンシーは振り返って傍に転がっていた椅子を投げつけた。顔面に見事に命中したが、敵はびくともしなかった。  
固く巨大な壁にぶつかったかのように椅子だけが跳ね返った。  
フレディが両手を大きく広げると、机や椅子が風に押されたように吹き飛んだ。  
教科書やシャープペンシルや消しゴムがぱらぱら舞った。フレディが四本爪で手招きした。  
空いたスペースを通って、ナンシーの身体がずりずりと悪魔の足元へ引きずられていく。  
ナンシーは首を振って、やめて、お願い、助けて、とお決まりの言葉を叫ぶ他なかった。  
「授業内容を変更して……四時間目は……保健!ヒャハッ!」  
ナンシーの両腕両脚がぴんと伸ばされた。床に押さえつけられる格好になった。  
「ナンシー、学習には段階ってもんがあるのさ」  
ナンシーは目を瞑ったまま、何も言わない。ただ、早く夢が覚めることだけを祈っている。  
「前は何処まで進んだか覚えてるかい?」  
フレディの爪がナンシーの耳元に突き立てられ、髪を切り裂き、床に刺さった。  
いやあっ、届くことのない叫び声がガラガラの教室に響く。  
「何処まで進んだかって訊いてるんだよ?」  
ナンシーは口を閉ざした。がたがた震えながら、息を吐くのが精一杯だった。  
 
「ゆび、ゆびい」  
第三者の声だった。ナンシーが顔を傾けると、黒いローブを羽織ったティナが、背を向けて立っていた。  
背を向けて?顔だけはナンシーを見下ろしている。隙間から絞った雑巾のように捻れた首が見えた。  
右の眼窩から潰れた眼球がずり落ちている。ローブを浮き上がらせる尻のラインが一層不自然で面妖だった。  
ティナは一語を発するたびに、切り裂かれた喉から空気が漏れるような音を出し、千切れた唇から血液をだらだら落とした。  
「ゆびいいい」  
フレディが拍手する。「正解」ナンシーの顔は真っ青になっていた。  
「ティナ、今、どんな気分だい?」  
「どでも、ぎもぢい」  
ティナの口から赤黒いぬるぬるした塊がごぼっと落ちた。  
「どでもじあわぜ」  
頬まで垂れ下がったブルー・アイが眼筋を引き連れて床に落ち、フレディがそれを踏み潰した。  
ティナが捻れた首を傾けて、空洞化した眼窩を晒して、困ったように微笑んだ。  
ナンシーはそこにかつて羨望を抱いた可愛らしい仕草の名残を感じた。  
ナンシーの眼が怒りで満ちた。親友を殺され、また利用されたことに対する純粋な怒りだった。  
「なんじいも、ごっちにぎで。ごわがらないで」  
ナンシーはティナに大声で呼びかけた。死者であることも忘れて、ティナに自分を取り戻してと、何度も呼びかけた。  
「えいえんのがいらぐを、あじわえるのよおおおお!」  
最後の言葉は絶叫に近かった。  
言い終わると、ティナは積み木を崩すように、ローブの隙間から内臓と血液を飛び散らせながら、バラバラになった。  
積み上げられた破片の頂上に頭が乗っかって、口がぱくぱく動いていたが、声は出ていなかった。  
ナンシーはショックで気を失いそうになった。あ、あ、と声を出すのが精一杯だった。  
フレディが笑って、スーツを脱ぎ始めた。  
「さて、ナンシー、今日は……」  
今日は?ナンシーがその先に想いを巡らす頃には、  
フレディは既に上着を脱いでいて、申し訳なさそうに膨らんだ乳房を剥き出しにしていた。  
フレディは小さな肩をすくめて、スカートの真ん中に爪を差し込み、一直線に下へ滑らせた。  
「おまんこに入れてみましょう!」  
ナンシーの顔が引きつった。フレディの股の中心、黒いパンツからピンク色でゴム状のペニスの形をしたモノが伸びている。  
それは15cmほどでグレンのものよりも小さかったが、もちろんナンシーの指よりも太く、破瓜を成し遂げるには十分な代物だった。  
ナンシーは手足をばたつかせようとしたが、これまた身体が動かなかった。眼に絶望の色を宿すことしかできなかった。  
ベルトが独りでに外れ、チノパンのボタンがはじけ飛び、すぐさま残るはショーツだけとなった。  
ナンシーは失禁しかかっていた。あと少しでも恐怖を与えられると、漏らしてしまいそうだった。  
真っ白なショーツに手がかかった。フレディは爪で切らずに、恋人がするように優しくショーツを下ろした。  
くるぶしまで下ろしたところで、空に爪をなぎ払う。ナンシーの足が持ちあがり、膝が腹についた。  
 
成長したヴァギナが露になった。  
陰毛は濃く、大陰唇の周りまで茂り、縮れた毛のいくらかがまとまってほつれ、浮浪者の髭のようだ。  
クリトリスはほとんど皮に隠されている。  
控えめな小陰唇に囲まれた、赤みがかった秘肉が産まれたばかりの赤ん坊を思わせた。  
全体的にのっぺりとした印象を与えるヴァギナだった。  
「ナンシー、これは罰さ」  
とフレディは言った。何の罰なのかナンシーに考える余裕はなかった。  
「お前は女であることを隠そうとしている。いや、否定していると言ってもいいね。ダサい格好してやがる」  
フレディの言葉がナンシーの耳をすり抜けて消えていった。  
それの何が悪いの?と言い返す余力も、もちろん残されていなかった。  
「いいかい?男にとって、女とはおまんこでしかない。お前は男の性処理もできない役立たずさ。  
 素直にちんぽこ突っ込まれて肉便器になりゃいいものを、愚かなくらい頭でっかちで、  
 100%だの、相手のことだけを考えていたいだの、どこの紙くずから拝借した浅知恵か知らないが、  
 自分だけが正しいと心の底で思ってる。糞女、ああ可哀想。あのマザコンおぼっちゃんもそう思ってる。  
 なんたって、見たかい?あの時の顔!ベッドからぶら下がって、ありゃ性欲に脳を焼かれたオスの顔さ」  
「グレンは……そんな……」  
フレディはグレンの声色を使って、叫んだ。  
「なんで入れさせてくれなかったんだよおおおおお!お高くとまりやがってええええ!」  
ナンシーは違う、と心の中で繰り返した。グレンはそんな風に、自分を道具のようには見ていない。  
絶対に、絶対に、絶対に。見透かしたように、フレディが口を開く。  
「違うもんかい。現にお前は拒否したのに、おぼっちゃんはまだ諦めてなかったじゃないか。  
 お前の気持ちなんかお構いなし。おまんこ!おまんこ!おまんこ!おまんこがあればいいってこと。  
 だから、少しでも使えるまんこにしてやるために、お前みたいな勘違い糞アマをワタシがオンナにしてやるのさ」  
まあ、とフレディはつけ加えた。  
「お前に選択権はない」  
 
フレディはナンシーの秘肉に顔を近づけて、鼻を動かして、わざとらしく匂いを嗅いだ。  
ヴァギナが涼しかった。  
「くせえ。正真正銘、処女のまんこだ。ちゃんと洗ってんのかい?」  
「いや……」  
フレディは止める気などさらさらなかった。  
もっとも、ナンシーのヴァギナはそれほど強烈な悪臭を放っているわけではなかった。  
性病持ちのそれとは異なり、アンモニアと僅かに洗い残した恥垢が混ざり合ったメスの臭い――  
好きモノならば、より興奮するであろう淫靡な香りであった。しかし、女性器がどれほどの臭いを発するものか、  
自分がどれほどの位置にいるのか、ナンシーは分かりかねていた。  
自慰のあとで、指に付着した愛液の匂いを嗅いだことはたびたびあったが、鼻が曲がるほどの匂いではなかった。  
しかし、一般的に見れば、やはり臭いのかもしれない、そう思うこともないではなかった。  
「何食ったらこんな臭いになるんだい?家畜小屋の方がもっとマシな臭いがするよ」  
「やめて……」  
「そんなことも分からないで、あのおぼっちゃんに寝るだの寝ないだのやってたのかい?  
 まったく、何様のつもりなんだろうね?自分が抱かれる価値のある女だと思ってやがる。  
 こんな恥垢だらけの糞まんこ晒しやがって」  
ナンシーの頬を涙がつたった。心の中ではグレンのことを考えていた。  
グレンが自分のあそこを撫でた時も、同じように、臭いって思っていたのだろうか?  
指で二度と触りたくないって、思っていたのだろうか?  
あんなに優しくさすってくれたのは、ただペニスを挿入するための、便宜的な行為でしかなかったのだろうか?  
「しゃぶりな」  
張形が目の前に迫っていた。ナンシーは口を閉じていやいやをした。拳銃の前に立ちはだかった時より遥かに恐ろしかった。  
「じゃあ、そのままブチ込んでやるけど、いいんだね?」  
ナンシーはわんわん泣いた。誰も止められそうになかった。  
フレディは無言でナンシーの大きな尻を持ち上げ、膣口に張形の先をあてがった。ヴァギナは砂漠のように乾いていた。  
 
「やめてぇ……お願い……」  
哀願を聞いたフレディは一瞬、切なげに表情を変えた。女が失われた過去を振り返る眼だった。  
ナンシーは、今まで自分を襲っていた悪魔の意外な一面を見た気がして、はっとした。  
泣きやみ、硬直させた身体を緩める他なかった。  
悪魔の姦計だった。  
意表をついたフレディは、一転禍々しいオーラを発散させ、張形を沈ませた。  
ブチ、と嫌な音が響くのをナンシー自身が聴いた。ぎぃああああ!ナンシーの喉が、勝手に声を絞り出した。  
贋物のペニスが乾いた肉の抵抗をあざ笑うように突き進み、奥まで届いて、フレディがさらに腰を突き上げた。  
ナンシーは再び叫んだ。聖水を全身に浴びた吸血鬼のような、とても少女とは思えない顔をして。  
股の中心から発せられた激しい痛みが腰の芯まで染み渡り、身体がバラバラになってしまいそうだった。  
フレディは血液を潤滑油にして三度突いた。まるで原始人が追い詰めた猪に槍で止めを刺すようなやり方だった。  
最後に腰をねじり回して、ぐりぐりと子宮口を責めた。フレディは眼を裏返し、唇から歓喜の涎を垂らした。  
ナンシーはさらに顔を歪ませて、人間が出せるであろう最大限の悲鳴を放った。  
 
「ナンシー!ナンシー!しっかりなさい!」  
ナンシーは頬に張り手を入れられ、ショックであっと呻いた。目の前にはアービン先生の巨大な顔があった。  
アービン先生は間違いなくうろたえていた。青ざめた顔で、今しがたナンシーを殴った手の平を震わせていた。  
クラスメイト達が気の毒そうな眼でナンシーを見ていた。ナンシーは自分の大事な部分を隠すように、とっさに身体を押さえた。  
手がピンク色のセーターと、ベージュのチノパンに触れている。服は脱がされていなかった。  
「大丈夫なの?」  
何も答えないどころか、自分の方を見さえしないナンシーに、アービン先生は強く殴りすぎたかしら、と不安になった。  
「今日はもう、帰った方がいいわ。早退届を出して……」  
ナンシーが大粒の涙を落としているのに、アービン先生は気づいた。しかしそれが何のために流された涙かは分からなかった。  
ナンシーはナンシーで自分が泣いていることにすら気づいていなかった。  
パニック障害、PTSD、トラウマ――アービン先生の頭に雑誌でちらと見ただけの単語が次々浮かび上がって消えた。  
アービン先生はたくましい手でナンシーの肩をむんずと掴んで、大きく揺さぶった。  
かいあって、ナンシーは泣き止んだが、まだ放心状態で、目が宙を彷徨っている。  
クラスメイトの誰かが「ヒステリーだ」ぽつんと呟いて、それがナンシーを現実の世界へ立ち戻らせた。  
グレンに似た声だった。  
「か……かえります……」  
ナンシーは手提げ鞄の中へ机の上のものを全て掻き込むと、失礼しますの一言もなしに教室を出た。  
廊下を走って、途中、女生徒とぶつかって、相手は倒れて鼻血を出したが、気にせずまた走った。  
外まで出て、歩道を駆けて、息があがって路肩に座り込んだ時、股の中心から、破瓜の証明が流れているのに気づいた。  
認識と同時に刺すような痛みが容赦なく襲ってきた。ナンシーは血液をチノパンに滲ませながら激しく嘔吐した。  
下に向かってゆっくりと流れる黒味がかった反吐が陽光を受け輝いてオンナとなった少女を祝った。  
全てを出し尽くしたあとで、ナンシーはまた号泣した。  
 
(to be continued→)  
 
 

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